これじゃまるで「新聞独裁政治」だ- 2012年04月07日のツイート

 橋下氏のツイートのまとめからです。

 これじゃまるで「新聞独裁政治」だ - 2012年04月07日のツイート

これじゃまるで、新聞独裁政治だよ。新聞社がどう考えているのか知りませんが、あなたたちは選挙の裏付けも何もない。論説委員はどれだけモノを知っているのか知りませんが、僕から言わせれば、全有権者の中の一人にしか過ぎない。うちの妻と同じ一票の持ち主。

民主党には目を覚まして欲しい。国民は賢明だ。もう新聞の大キャンペーンには惑わされない。今回の民主党の消費増税は、完全に民主主義のルール違反だ。増税するなら、きちんと手続きを踏むべきだ。選挙だ。僕は増税に反対ではない。しかし今の民主党案とは全く異なる考えを持つ。

 確かに、「新聞独裁」とはいえるかも。新聞社の裁量によって、世論がリードされている部分はあるから。ただし、ネガティブ・キャンペーンに限るけどね。つうか、新聞こそ、「自称中道」だらけ。

 ネット時代になって、新聞の論説は必要性がなくなってきたと思う。専門家の踏み込んだ意見の方がよっぽど価値があるし。新聞の個性は、取材の粘着具合で色を出せると思うけどな。

 とりあえず、「裁量権」を独占している組織は、「独裁」的な行動に走りやすいのかもしれない。と考えると、世の中は「独裁」だらけだね。

教育の競争を否定する人は、教育の質を否定する人

 反ハシズムの論客、内田樹氏のブログ記事です。学問の為の教育論と知識技術の為の教育論を分けずに、論じていらっしゃいます。「目的」が定まっていないから「効率」が出せないだけではないでしょうか。いつも思うんですが、生徒ではなく、教師の為の競争教育否定でしかないですよね。
 
 不便さと教育(内田樹の研究室)

教育と効率は本質的になじまない。というのは、効率というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、教育がそのアウトカムを計測するときの時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないからである。

学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。教育において「実験」は許されない。だから、教育機関の卓越性は科学的には考量不能なのである。

私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。

自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
学びというのはそのようなしかたでダイナミックに構造化されている。学びが力動的で、時間的な現象である限り、私たちが生きる一瞬ごとに、私たちがかつて受けた教育の意味は改訂され続けているのである。私たちがかつて受けた教育の意味が振り返るごとに改訂され、そのつど深みと厚みを増し、そのつどそれまで気づかれなかった相をあらわにするということ以上に教育的な事況というものがあるだろうか。
「効率」というのはもう変化することのない価値(人間的尺度からすれば「死物」としての価値)を抽象的に切り出された単位時間で除して得られるものである。そのようなものを数値的に考量したり、比較したりすることに学びにおいてどれほどの意味があるのか、もうこれ以上の言葉を継ぐ必要はないだろう。

 何を学んだかの学問は各々の勝手、知識技術を学ぶのは生徒共通の目的。知識技術を学ぶのに「効率」は確実に存在します。

 教育に競争原理と言い出したのは、評価から解放されたのを良いことに傲慢の局地にいる教師どもを管理するためでしょう。

 ハシズムに反対する人間って、ホント傲慢な人が多いんですよね。大衆による多数決原理や市場原理を排除しないでいただきたいものです。
 

相対評価に反対するのは、憲法9条が原因だと思っています

あまりにも愕然とする記事を見つけたので引用します。

信濃毎日新聞 斜面 02月27日(月)

小学校の担任はかっぷくのいい女の先生で、よくたばこを買いに行かされた。中学の先生は何かにつけて生徒をたたき、力で押さえつけた。隠れて酒を飲んだ生徒を居酒屋に連れ出し、飲み方を教えてくれた東京の高校教師もいた
   ◆
大阪府が提出した教育基本条例案に照らすと、いま挙げた先生たちは真っ先に首かなと思う。けれど、子どもなりに先生たちの長所と短所を見つけ、人間くささを感じていた。同窓会では、素行不良だった者も優等生だった者も愉快げに教師との思い出を語る
   ◆
大阪の条例は厳しい。校長の評価で「不適格」となった教員を指導し、改善がみられなければ免職にするとしている。さらに、3年続けて定員割れとなった高校は再編整備の対象とするなど競争原理を教育の場に持ち込んでいる
   ◆
文部科学省教育委員会を中心とする現在の教育制度に不満を抱く人は多い。いまのままでいいとは思わないが、教員を規則で縛ることで良くなるものではないだろう。格差の拡大、地域や家庭の教育力の低下といった幅広い問題に目を配らなければ、教育再生の道筋は見えてこない
   ◆
府知事の決める教育目標に従い、先生が評価を気にしながら生徒の尻をたたく。ピリピリした教育のしわ寄せを受けるのは子どもたちだ。先生たちが気持ちにゆとりを持って個性を発揮してくれるほうが、学びも豊かになるに違いない。


こんな傲慢が許されていいんでしょうかね。自らの身分保障だけを考えた組合独裁

 評価経済といわれる時代に、相対評価を排除しようとするのは絶対主義の特権階級(独裁階級)の発想です。そもそも、障碍者などの弱い立場の人は、相対評価を補強することで生活支援ができるのであり、絶対評価では却って放置されてしまうものです。相対評価の否定は、評価排除という民主主義の否定であり、極悪非道としか思えません。

 親御や生徒だって、教師を競争させたいと思っているはず。役に立たない知識の「ごり押し」ではなく、意欲を持って学べる教育をしてほしいもの。塾に行かなくてもいいくらい面白い授業をしてほしいもの。競争するのは生徒ではなく教師のはずであり、市場社会の常識です。

 にもかかわらず、生徒の競争と教師の競争を同列に並べたうえで、「生徒のため」とか言い出すような見識の人に、社会の本質が語れるのでしょうか。そもそも、ダメな教師の存在がどれほど生徒にとって不幸なことなのか考えもしないところがすごいです。


 観念的に考えるとして、市場原理を持たない社会で、何ごとも選ばない人間が、「競争反対」というならば道理は分かる。しかし、市場社会の恩恵を満喫する生活の中で、自らが他人(商品)を選ぶことをしておきながら、自分を他人が選ぶことは許されないというのは全く卑怯なルールだ。

 「私人としての評価」と「公人(職業)としての評価」を分離するからこそ、人間は自由を感じれるものです。そして、「役割が定まってない自分」と「役割ありきの自分」を分けれるからこそ、役割に応じて他人の意見を聞くということができるわけです。評価対象である役割を担うことで、「好きでもない人間のため」という行動も可能になります。評価を無視してしまうと、自分の感覚を押し付けるだけです。そりゃ、さぞかし気持ちいいことでしょう。


 それと、「ゆとり」というのも全く可笑しな言葉です。競争で落ちこぼれた人間を救うのは、「ゆとり」ではなく「愛」ではないでしょうか。這い上がれないからこそ、意欲や能力の向上を助けるための「愛」が必要なはず。それが、競争自体をやめちまえば、落ちこぼれなんかを助ける必要がないと言わんばかり。自分の安全保障を確保するために、現実の戦争を想定排除することから始める9条信者と同じです。


「教師どもが、生徒のためと言いつつ、自らへの評価を許しません。全ては憲法9条が原因だと思っています。」

「全ては憲法9条が原因だと思っています」というネタ発生

 橋下徹大阪市長の「全ては憲法9条が原因だと思っています」が爆発的ブームに(ロケットニュース24)の記事で笑ってしまいました。

「世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。」

 という橋下市長のツイートを元ネタにして、不都合な真実のようなネタをふって、その因縁を「全ては憲法9条が原因だと思っています。」で締める大喜利になっています。憲法9条を芸人に置き換えると、憲法9条=オチにされるダメな奴であり、「俺かよ!」「何で俺やねん!」みたいなリアクションを想定した感じでしょうか。支離滅裂さを愉しむ構図ができており、ツイッターの盛り上がりイベントとしては最良のものになっています。

 記述内容が短いツイッターでは、記事が結論だけになってしまい、論証するプロセスが吹っ飛んでしまいがちです。そして、因子を前段と後段のどちらにおくかで解釈が変わってきます。

 前段が因子となる場合は、橋下市長のツイートの結論が陰謀論に満ちているという解釈になり、「結論の飛躍ぶり」が面白いという反応になり、2ちゃんねるでお決まりの「〇〇がー」というパターンで、橋下氏がネタになったことでしょう。

 後段が因子となる場合は、結論づけられた憲法9条が悪玉論扱いであるという解釈になり、「結論の大胆さ」が面白いという反応になり、「〇〇涙目ー」というパターンになるかと思います。今回のツイッター民の盛り上がり反応を見ると、「憲法9条、涙目ー」の方になるかなと個人的には思います。もちろん、反応にはいろんな解釈が発生するので、一概には言えませんが。

 んで、改めて結論だけを語るツイッターの面白さを再確認したわけです。テレビ向けの「ワンフレーズ・ポリティクス(ワンセンテンス・ポリティクス)」などがよく言われますが、ツイッターでの表現もキャッチーなパワーを持っているんではないか、と。

 炎上マーケティングではないですが、対立を煽って盛り上がるにはツイッターは最適なメディアだと思います。報道関係者による「発言の切り取り」よりも、ネットによる「挑発的な発言」の方がはるかに公平ですし、煽った対立によって、無関心中立を寄せ集めるというのはネットしかできないコミュニケーションです。

 調子を合わせた掛け声だけの「口だけ絆」よりも、騒ぎ立てる独り声だらけの「口だけ鎖」の方が健全なのかもしれません。。。

 

「グレート・リセット」は、「根本病」なのか

 橋下改革(ハシズム)のことを「グレート・リセット(大いなる再起動)」と呼ぶらしい。まるで、「政権交代なくして成長なし」という掛け声だけで支持を集めた民主党を思わせるような「ワンフレーズ・ポリティクス(ワンセンテンス・ポリティクス)」です。しかしながら、既得権や旧体制を破壊する意気込みは同じでも、市民に過去や常識を捨てるように迫っている点で、少し違うのかもしれません。

 「グレートリセット」と似たようなキャッチフレーズを語った例としては、小泉改革コイズム)で使われた「痛みを伴う改革」「改革なくして成長なし」などがあります。小泉改革は、橋下改革と同じネオリベラリズムの立場から行財政改革を成功させたと私は評価しているのですが、国民が直接的恩恵を実感することがなかったために、未だにネオリベラリズム反対派の標的にされています。小泉改革が失敗だったのであれば、また元に戻せばいいのですが、そういう議論はあまり見かけません。唯一の人材派遣問題の議論でも、本質は正社員との格差に有るのですが、ネオリベラリズム反対派はそこには触れません。結局、「官から民へ」という民営化政策だけでは、国民の直接的恩恵が実感できなかった点が、「痛みしか生まなかった改革」という反対派による印象操作のタ−ゲットにされたのでしょう。

 こうした点を意識してなのか、橋下改革では「選択と集中」の意向が色濃く反映されているような気がします。現役世代の無党派層が直接的恩恵を受けるような政策や、特区構想などで他県よりもヒト・モノ・カネなどを呼び込みやすい有意な政策などは、反対派の攻撃を押さえ込む一定の支持確保につなげることができるかもしれません。


 いずれにせよ、財源減少の中で低下せざるえない行政サービスの劣化には、強い不満が沸き起こるでしょう。「自分が損を被るのは嫌な人」による利己主義(エゴイズム)の対立が避けられないのですが、受益と負担のバランス調整は市場原理でなければ不可能です。相対評価による市場原理を無視することは、市場独占という絶対主義であり、市場評価を排除する連帯独裁(組合独裁など)につながるものです。

 全てが平等という軸での弱者意識は、とてつもない欲望を生み出し、際限のないバラまきを生み出してしまいます。利己主義(エゴイズム)の争いを治めるには、理性的にシステム化された市場原理で説得する以外にはありません。連帯意識の下に、利他主義アルトライズム)が内向きになっている市場原理反対派(労働組合)は、企業家(資本家)からの富の略奪しか頭にないでしょうけどね。

 などと言いつつも、 橋下改革はまだ始まっていない状態なのでこういう議論をしても仕方ありません。そこで、「グレート・リセット」という言葉が、「根本病」として揶揄されていることについて考えます。何だか「反ハシズム(反独裁)」と似たような気がするんですが。。。


 「根本病」とは石橋湛山が名づけたもので、右翼と左翼の暴走が根本問題への執着にあったとするところに由来しています。

「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。
 これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」
(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)。
▽参考URL
田中秀臣「二・二六事件と“改革病”」

 以上のような内容なのですが、この文脈はイデオロギー対立が生きていた時代の話であり、橋下改革にそのまま当てはまるとは限らないというのが私の感想です。「根本病」というネーミング自体はいいのですが、イデオロギーのことを指しているのであれば、橋下改革とは性質が違うのではないでしょうか。橋下氏は、右翼とか左翼とかに執着がなく、ただビジネス感覚を徹底させたネオリベラリストにすぎません。ぶち上げる構想はあくまでモデルの一つであって、己が築き上げた高尚な理想とはとても思えません。構想を常に検証し続ける姿勢は、現実的な合意だけを追求しているビジネスマネジャーというべき政治家です。

 これまでの論争でも、大阪都構想なんて、ただの枠組みなのでどう変わるか全くの未定のものと理解している市民が多いはずです。反ハシズムの論陣も、橋下氏の政治構想が、「曖昧すぎて中身が分からないから不安だ」という批判で占められていたはずです。それが、今度はガチガチの「根本病」呼ばわりというのは完全な矛盾です。毎度毎度、橋下改革を批判したい人には違和感を覚えてばかりです。「反逆病」とでも名づけたいくらいにw

理想ありきで考えると「連呼リアン」に陥る

 ネットの情報は結論を連呼するばかりの「連呼リアン」の巣窟だと思ってましたが、橋下市長が出演した『朝まで生テレビ!』を見て、マスコミにも多く見られることを実感しました。むしろ、自己完結的にパフォーマンスができるマスコミこそ、政策を妨害するだけの反体制「連呼リアン」を育ててきたのかもしれません。

 『朝まで生テレビ!』に出演した反ハシズムの論客は、「不安だ」「わからない」などを連呼して、橋下市長の政策を全否定していましたが、対案は全く提示していません。にもかかわらず、選挙結果という全体意志に対して、反対ありきの徹底介入を試みようとしています。マイノリティとしての立場であれば、少数の弱者保護などの要求に留めるべきなのですが、多数意志を「独裁」のレッテルで覆そうとする勢いで批判を展開する始末。

 敵を見立てて議論を煽るハシズムへの警鐘などと批判している人たちの方が、橋下徹市長を悪に見立てようと躍起になっており、政治をムードで動かそうとする逆転の構図もしっかり表れていました。反ハシズムの論客の思想宣伝は、イデオロギー的な既得権益を守ろうとするステルスマーケティングと見なすこともできるのですが、こういうサヨク思想家は「連呼リアン」と差別されるべき存在だと思います。

 「連呼リアン」は、体制に対して、とにかく反対を叫び続けるだけの人々です。そこには、思い込みによるカルト的な夢想が宿っています。「理想を持つのが大切だ」という立場から出発するので、こういうキチガイになってしまうんでしょう。橋下徹氏が「学者さん」と揶揄する人たちは、自分の理想に合わないから批判しているだけにすぎません。

 マスコミに見られる批判は、「道義的責任」や「道理的判断」などの道徳観に訴えるものが多いような気がします。原理原則や道徳などの観念論ありきで批判したがるので、現実認識の印象操作がいつも見られます。

 一方、ネットに見られる批判は、露骨な利害対立です。ある批判に対して、別の反論が必ず存在します。そして、不都合な批判に対して、レッテル貼りの「連呼リアン」が登場しているわけです。しかし、レッテル貼りを連呼することで印象操作の効果はほとんどないように思います。

 誰もが反論を投げかけられるネットの世界では、自己完結なパフォーマンスが不可能です。ゆえに、ネット上の「連呼リアン」はウザイだけの存在として蔑視されているのですが、リアルな市民運動にも似たようなものがあるというわけです。

 私がウザイと思う市民運動は、極端な結論で交渉しようとする団体です。実務的な中身が空っぽでも気にしませんし、他の人の意志(結論)は全く無視しています。自らの理想で社会を支配することしか考えないキチガイを封じ込めるのがネットの世界なのかもしれません。

 ネットの世界では、意見の相違が当然の状況から始まり、共感できるアイデアほど大きくつながっていきます。共有するのは、理想ではなく行動であり、「できることからはじめよう」の世界です。「理想を立てるのではなく、まず現実の問題を解決しよう」というソーシャルな発想が、「連呼リアン」を駆逐することを願いたいものです。  

言論人に向けられるアンチは「呪い」扱い

内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか(『現代ビジネス』)

 内田樹氏がお決まりの呪詛批判をまとめて本になさったようです。ネット嫌いの方に支持されるんでしょうかね。辺境に潜むネット批判の記事と同じように、ネット批判は精神的に病んでいるというご主張です。

 内田樹氏自身が展開する批判は健全な精神の下にあり、内田氏が好まない多数派による批判は抑鬱的な精神状態にあるというのが、内田樹氏のネット議論に対する認識のようです。この偏見とも呼べる分別が基盤となっているのですが、香山リカ氏も似たようなことを言っているようです。

 人を精神的に病んでいるというレッテルによって批判するのは、思想信条への冒涜のような気がするんですが、反ハシズム側の人間には、精神論を軸にした批判がお好きなようです。

呪いは強烈な破壊力を持っています。だから、呪いを発した人間は強い全能感を覚えます。呪いに人々が惹きつけられるのは、破壊することの方が、創造することよりもはるかに簡単だからです。

破壊する立場にある限り、どれほど社会的に非力な人間であっても、劇的な効果を経験できます。自分の手で人々が大切にしてきたもの、敬意を抱いたり、愛着を持っていたものを叩き壊すことができる。それは強烈な快楽をもたらします。

破壊する側にいさえすれば、どんな上位の相手とでも五分に渡り合えます。いや、五分以上の優位に立てる。自分よりはるかに年長で、社会的地位もある人間を傷つけることができる。この全能感に、若者たちはたやすく嗜癖(特定の行動や物質に過度に依存すること)してしまいます。

一度、呪いの言葉を吐きかけて、それによって他人が生命力を失い、あるいは営々として築かれてきた制度が瓦解するのを見たら、人間はもうその全能感から逃れられなくなる。その快楽なしではいられなくなってしまうのです。麻薬のようなものです。

 既存体制の破壊を期待する若者の言動は“麻薬のようなもの”らしいです。 “宗教はアヘン”であるとでも信じていらっしゃるのでしょうか。上から目線で若者の味方を装って、不満を持つことが悪いことのように誘導するいつものパターンです。

 コスモセントリズムの記事で触れましたが、破壊によって得する人と損する人の欲望は等しく醜いものですし、既存のコスモス(秩序)が破壊されれば、混迷のカオスが来るというのは短絡的な脅迫です。“破壊することの方が、創造することよりもはるかに簡単”と仰っていますが、これは自然発生的に生まれたものに限って当てはまる法則であって、コスモスを築く政治制度の場合は、創造と破壊が同義的であることがほとんどでしょう。

 人知れず“崩壊”するものには目をくれず、「スクラップ&ビルド」だけを“破壊”と呼ぶ議論も、“記号化(呪い)”レベルにすぎません。具体例を挙げて説得するわけでもなく、徳ある精神論でアンチを封じ込めようとする態度の方がカッコ悪いと思うんですがね。

攻撃性が野放しになった理由の一つは、自尊感情が満たされることを、人々があまりに求めすぎているからです。多くの人は、自己評価と外部評価の間に歴然とした落差があります。自己評価は高くても、周りは誰もそれを承認してくれない。この評価の落差が人々を不安にしています。

かつては家庭でも学校でも、子どもには「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」という教育がなされました。他者との関わりの中で自分に何ができるか、何が期待されているかを基盤にして、自己評価を組み立てるようにと教えたのです。

 自己評価と外部評価の落差についても触れてらっしゃいますが、これは教育職員の評価についても適用して欲しいものですね(笑)。反ハシズム側の人間には、「自らの道徳を教条的に語るのが教育である」と考えている人が多くいらっしゃいます。「何が期待されているかを基盤にして自己評価を組み立てる」ように指導していただきたいものです。まさか、教師はあらゆる評価を免除される万能な聖職者だというお考えをお持ちなはずはないでしょうからw

 私の書いたような記事が、「異常なまでに攻撃的な人」として“記号化”されるんでしょうが片付けられるんでしょうが、言論人がこれを言うのは自己否定にならないんでしょうか。

 批判する人は、必ず批判される。そして、批判されるから存在意義がある。

 自分が好まない批判を、「記号化の過剰(呪い)」とか呼ぶほうがどうかしてるぜぇ〜w