半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆

以前に三宅香帆さんの本は何冊か読んだ。
京大出身の本の好きな人。
デビューから一貫して文学や本に関する著作が多く、本の世界の人だと思っていた。

今回の本もそういう感じかー、と思ったが、いい意味で予想を裏切られた。
本についての本であることは確かなんだけど、社会学だよ、こりゃ。

でだしは「社会人になったら余裕がなくて本が読めない」という話から始まる。
社会人になったときの余裕のなさ、そのありようの好例として映画『花束みたいな恋をした』をとりあげ、そこから明治以降の社会と読書の歴史を振り返る。

日本の長時間残業と、自己啓発書の歴史。
西国立志編』『快活なる精神』。
サラリーマン階級・労働者階級の差異、教養と修養の対比など、歴史的な記述がかなり詳しい。
「社会人の読書」の歴史をざっと振り返る、良質なまとめになっている。

社会人の成長・立身出世のテキストとして、自己啓発本がかなり昔から今に至るまで存在している。
しかし「自己啓発書」の特徴は「ノイズを除去する」姿勢にある、という指摘。

ノイズを除去する行為は労働と相性がいい。
つまりは社会人になりビジネス書とか自己啓発書を読み、かつて読んでいたような文学とかの本を読まなくなる現象は構造的なものではないかと結論づける。
この辺の書きぶりはかつての斉藤美奈子女史を彷彿とさせる、緻密で論理的にも明快な筆致で素晴らしかった。

そしてここからが彼女の面目躍如たるところ。
情報と読書のもっとも大きな差異は、知識のノイズ性なのだがノイズ性を排除して効率よく情報を求める今の勤労仕事のあり方は間違っているんじゃないか。最後で自らのフィールドにもどってくるあたりが素晴らしかった。

わたしも生来の読書好きである。
ので作者の考えていることが痛いほどよくわかる。
余暇時間だけなら本は読めるのである。
でも社会人になって、「一人前の社会人」たらしめるためにビジネス書とか、「ビジネス社会の歩き方」みたいな本を読まなきゃならんのである。
それを優先させるなら精神的に、かつての自分が読んだ本を読むのを後回しにせざるをえない。
僕もそうだったし。

けど、結局僕を救ったのは、書痴とでもいえる乱読傾向だった。
私の場合は自分の年代でもすでに時代遅れだった教養主義がまだしも力を持ち得ていた旧制高校的な文化土壌で育った人間なので、教養的な本の読み方がしみついている。
読書に慣れていたので、読むのも速く、まずまずの量の本を同時並行で読む習慣がついていたからにほかならない。
今に至るまで、好き勝手に膨大な数の本を読んで、今に至る。


社会人になっても読書を続けるコツも書かれていて、ああこの人は本当に本が好きだし、みんなが本を読むことが好きなんだなと好ましく思ったし、「半身で働く社会」、働いていても本が読める社会の提案は面白くもあると思った。

ただ、熾烈なグローバルビジネス競争のなかで、そのような余裕が果たして許されるか。
だがChat GPTなどのAIで事務作業が大幅に減ってゆく趨勢のなかで、幅広い読書でリベラルアーツを(ビジネス目的ではなくて)身につけた人間の方が、時代の要請に応えられるのではないか、とも思う。山口周さんとかも、リベラルアーツ大事、みたいなことを強調してましたよね。

結局、本が好きな人に響く本、という意味では今までの三宅女史の本と一緒やないかい、とは思うけれど、この本は、いわゆる新書としてすごいいい感じに書かれていて、新たな読者をすごい獲得しそうな気がする、いい本だと思った。

箕輪本二冊『かすり傷も痛かった』『怪獣人間の手懐け方』

以前Newspickとかでイキリ散らかしていた箕輪厚介氏
その後、セクハラやらなんやらで文春砲をくらい、仕事が無くなり…みたいな浮き沈みを経験して書かれた二冊。

以前絶頂期に書かれていたのが「死ぬこと以外かすり傷」
で、僕も6年前にこれ読んだ。
halfboileddoc.hatenablog.com

当世の寵児の人もいろんな経験をして、少し周りが見えてきて、懐が深くなってからのこの一冊。
これが、思った以上にしみじみしたのである。

箕輪氏のように時代の風に乗っていた人、勝っている側であり、負けている側に対する共感のない状態から、
時代の逆風をきっちり味わい、メディアスクラムでつぶされた経験を加えると、少し人に対して優しくなるもんだ。

わかーるよ。ここまでの急上昇・急降下こそないものの、自分にだってそういう浮き沈みはあるし、
いろんな人生経験を積むと、人に対して優しくなる。

この本は、そういうイキってた時の原稿に、注釈・修正を加えたという体裁の本。本業である編集者らしいやり方だ。
サイバーエージェントの藤田さんの言

「箕輪君、早く利確した方がいいよ。今めっちゃ上がっているから。今利確できたら勝ち逃げだよ」そして「まあ、みんなできないんだけど」と意味深に付け加えた。

がおそろしい。あの人、メディア的にそんなに表にでてこないけど、やっぱりすごい人だと思う。
医者としてはγGTP 400程度は大したことはないけど、生活習慣的に、問題飲酒の傾向はあるので、肝臓つぶすよりも依存で頭に影響を及ぼしやすいタイプ。現在お酒の量はコントロールできているようでよかったよかった。

で、箕輪氏が本人の得意なフィールドをあますところなく語った本『怪獣人間の手懐け方』もまたよい。
すごい人(すごい人は一般常識にとらわれない)に向き合い、対峙するやり方。懐に入り信頼される方法論。

 これも、すげえ人たちの周りにいた経験からいうと、よくわかる。
 気配りと大胆さ、そして正直さ。

 箕輪さん、いい人とかいい人ぶったりもしないけど、一つ言えるのは、正直な人だな、と思う。

『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』幡野広志

非常に読みやすい写真の入門書

一般的な写真の教科書とは違って、写真を撮るときの心構え、とでもいうべき本。
HowではなくWhy、なのかもしれない。

教則本ではなく、写真を撮る自分のありようについての本、といってもいいかもしれない。

・写真は考える仕事
・写真を撮ることは簡単だが、誰にでも向いているものではない
・好奇心が旺盛・行動力がある人
・うまい写真がいい写真であるわけじゃない
・いい作品は見た人に感情が伝わるもの
・うまさを目指さない方がいい
・技術論を結局還元すれば1:光を読む技術、2:適切な距離感、3:レンズの選択
・どう思って写真を撮ったか、伝わってしまう。自分が好きなのか、被写体が好きなのか
・家族の撮った写真にケチをつけるのは作った料理にケチをつけるのと一緒。デリカシー必要
・子どもの楽しさを写真で邪魔しない

技術論的なことをいえば、
・三分割構図とかあまり考えず、しっかり中心で撮る(トリミングすればいい)
・写真に大切なのは写真以外の知識と経験
・ミックス光はよくない。
・会話の距離と撮影の距離は違う
・写真のために社会は用意されているわけではない(撮ってやってるではなく撮らせてももらう)
・RAWで撮れ(RAWで撮った写真はパソコンで現像作業が必要だが)
・その場で写真の確認をしない
・うまい写真の打率は、どんなにヘタでも3%くらいはある。なら数をとればいい
・カメラを買うときには臭いと、バッテリーが膨らんでいないかチェック
・とりあえず標準の単焦点レンズから
・オートにできることは全部オートにして撮影に集中する
・データの保存:最良なのはRAID
・家族写真をとるときに「目線を下げた」写真にこだわることはない


なんですかね、ジャズに例えると、楽典などの理論書ではなくて、
Jazzlifeの記事とかの「ソニー・ロリンズに演奏について訊いてみた」みたいな感じ。
ナラティブで、とても読みやすいし、写真をやっている人にとってはヒントがたくさんあるんじゃないかと思う。

自分の段階によって何度も読み返したら印象がかわるような気がする。

僕は写真はやっていないから、伝わるところはちょっとなんだけど、RAWで撮ってLightroomで現像する環境を考えてみようかな。

『世界は経営でできている』岩尾俊兵

なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか?
張り紙が増えると事故も増える理由とは?
飲み残しを置き忘れる夫は経営が下手?

仕事から家庭、恋愛、勉強、老後、科学、歴史まで、
人生がうまくいかないのには理由があった!
人生に不可欠であり、一見経営と無関係なことに経営を見出すことで、世界の見方がガラリと変わる!
東大初の経営学博士が明かす「一生モノの思考法」

Web記事を巡回すると、この本のステマ的なやつによくでくわす。
確かに、読めば普段の行動が少しアップデートできるような気にさせられる、ような気がする。
その意味ではなかなかの良書かも。

まあ、経営学(もう少し正確に言えばマネジメント学か)は、問題解決や問題発見の普遍的な手法なわけだから、それを日常に援用させることはたやすい。
我々の行動にはさまざまな非合理が横溢しているが、それをつまびらかにもできるし、その非合理さ変えられれば、アウトカムも変わる。
だがまあMBA修了者がプライベートでも皆幸せな生活を営めているわけでもないのだが。
(まあ、それは修めた学問の「応用力」かもしれないが)

しかし、実際、家電が動作不良のときもっとも有効な解決法は「コンセントがささっているのか確認しろ」と同じように、実生活での課題の多くは「目的の手段の取り違え」で4割くらい行けそうな気がする。

ただ、経営学は間違いなく役立つとはいえ、この本ではそこまで細かく経営学の掘り下げをしているわけではない。
本当は、経営学でよく使われる問題解決手法を適用し、図示し、そのスキームを用いる、問題解決プロセスを見せてくれると、とてもインタレスティングなものになったと思う。

この本ではスキームのチョイスとかプロセスをすっ飛ばし「経営学」に長けたおじさんがいろんなことについて自由に語るスタイルをとっている。
もちろん万人向けの面白さはそういう作りが相応しい。実際婉曲なシニカルさがクリスプになっていて文章も上手い。

ようするに経営学の本ではなく、経営者でもある岩尾さんの面白い読み物を読んでいる、という感じ。

こういう感じってジャズのアドリブでも言えることで、理論によって導き出される部分と、実際に作り上げられたアドリブの精緻さ滑らかさの差といいますかね、そういう感じ。

田辺剛 ラヴクラフト傑作集

最近Amazonでセールで一冊99円だったのでまとめて読んでみた。
高校生の時の自分のころ、TRPGブームだったりして、ブラスバンド部の部室にもそういうSF・ファンタジー系のサブカルの波はあり、そういうのに詳しい友人と一緒になって文物を読み漁ったりもしていた。
ウォーロック」とか、買ってたな。当時。
しかしクトゥルー神話については、あらましは知っていたけど、ラヴクラフトの著作はちょろっと読んだくらいで、がっつりハマることはなく、軽く踝を浸した程度に終わったのである。

なので、今回こういうラヴクラフトのコミカライズというのを読んでみると、なかなか面白かった。

コズミック・ホラー。
コズミック・ホラーってなんやねん、とは思うけど、これって、普通のホラーが、正常の世界が基調にあって、不可思議な特異点に迷い込んでしまう、という話だとすると、クトゥルー神話の場合は、その特異点こそが宇宙の基調である、みたいな、正常と異常の感覚が反転するところにあるんだろうかと思う。
つまりは、そういう図式であると、おそろしいものこそが現実であり、逃げ場がないわけだ。

ただ、20世紀初頭には未踏峰や人跡未踏のエリアというのもたくさんあったけれども、現代というのは、そういう「余白」というものがほとんどなくなってしまったわけで、やはり、当時味わったうすら寒さを現代の我々が味わうのはいささか無理があるのかもしれない。
とはいえ、このコミカライズはよくできていると思った。

読み味としては、ミヒャエルエンデ「自由の牢獄」にでてくる「遠い旅路の目的地」の感じの不思議さ。
あれ、なんなんだろうと思ったけれども、ラヴクラフト時代感覚に似ているのかもしれないと思った。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

最近Podcastとか聴いているのである。なんせ山とかを延々長時間歩いていると音楽ばっかりだと飽きるから。
そんなPodcastのはみ出し話で取り上げられていたので読んでみた。

昔話として「キツネやタヌキに化かされた」みたいな話がよくある。
あれ、明治・大正とかで、山村での民俗学の聞き取りみたいなのでも、そういう逸話がなんぼでもあったそうだ。
山村で生きている人間にとっては、因果律がはっきりしない不思議なことを、狐狸の類と関連づけるわけであったが、そういう風潮が失われたのは、はっきり1965年あたりを境にしているらしい。

自然と人間との関係性や、人間の自我のあり方が、日本では1965年以前と以後で根本的にかわってしまったんじゃないか、ということらしい。

1960年代に起こった変化:電話の普及、テレビの普及、週刊誌の増加
口伝えの噂から、活字がベースになったのが大きいのか、それとも科学立国みたいな高度経済成長期のメンタルのあり方なのか…という話だった。
また、1950年代には焼け畑農業が終わり、拡大造林によりスギやヒノキのような商用の山林になり、山の動物の食糧にとっては打撃であったらしい(ニホンオオカミ消滅の時期は焼畑消滅の時期と同じ)。ゆえにキツネの側の事情も大きくかわったのかもしれないということである。

1965年以前の日本人の思想世界は、おそらく天台本覚思想といわれるような「山川草木、悉皆成仏」だった。
そういう精神世界では、人々は個人の人格の仕切りが曖昧で、自然ともっとつながった状態であった。石も土も岩も、木も草も虫も動物たちも、この自然の中で「おのずから」のままに生きているということ、そのこと自体の中に穢れなき清浄なものを感じ取る。こういう精神世界なら、人はキツネに化かされうるかもしれない。人は個人として生きているわけではなく、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。結びあい、共有された生命世界の中にいる。そういう文脈の中では、不可思議なことは「キツネが化かす」という受け止められ方もするのかもしれない。

そんな話。
講談社現代新書なので、さらっと書かれてはいるものの、最近山に分け入ることが増えた自分にとっては、割とすんなり得心のいく内容だった。おもしろいよ。
昔の村人は、人生の最晩年は「山に帰る」っていって、家族から離れて山の中の庵で過ごす、みたいなことが結構あったらしくて、まあそれって最後は孤独死するわけだけど、それはまんざらじゃない死に方だったらしい。

確かに結び合った世界の中に還っていく、というのは悪くないような気がする。

世界金玉考

久しぶりの更新がこの本だとは…

岡田斗司夫チャンネルとかで紹介されていたので読んでみた。

まあ、いってみれば金玉というものにフォーカスをあてて、比較解剖学的、人類学的、歴史学的な考察を繰り広げた痛快な書、ということになる。

男子は小学生も中高生も若者もおじさんも、下ネタが大好きだ。
下ネタというと、基本的にはうんこしっこちんこまんこの話ではあるが、キンタマというのは、いわゆる快楽器官ではないので、陰茎に比べると下ネタでも特異な地位にあるようには思う。

なかなか面白いけど「考」と書いている割には後半は事例の紹介が多く、網羅的に載っけていて考察、まではいっていないものも多いんじゃないかとは思った。なので、後半若干ダレ気味である。まるで夏の暑い日のキンタマのように。

力作ではあるけども、名作であるかというと微妙だ。
それでも20代のころの僕なら、本棚のサブカルっぽさを醸し出すために、本棚の見えるところに意気揚々と陳列したかもしれない(今はKindleなのでそういうことを考えもしない)。

以下、備忘録:

  • キンタマの存在意義は精巣を冷やすため、と一般に言われているが、精巣が体内にある種も多い。
  • 有袋類キンタマは陰茎の「前」にある
  • キンタマ=冷却仮説・トレーニング仮説・全力疾走仮説
  • 生の玉(きのたま)が訛った説、キビシタマ(緊玉)=命に関わる玉がキンタマになった説
  • 諸外国でのキンタマスラング(解剖学的正式名称ではなく)は= Ball というのが多い
  • 加藤清正の家来に金玉姓あり
  • 去勢:中国の宦官・イタリアのカストラート、牧畜における去勢の方法など