隠居の独り言 185

孫たちはマックがとても好きで家に集まると近くのマックに付きあう。4年前にマック製品の中に虫が一匹が混入して大騒ぎになり、別の報道では金具や何かの骨が出てきて幹部たちが会見で謝っていた。それは食品会社の怠慢でそのために、来店客が激減したのは仕方のないことだが言いたいのは、マックの経営方針というよりも、虫一匹でニュースになる日本人の傲慢さが、なんともやりきれない。虫一匹で文句言うならマックに行って食べなければいい。食の安全を気にするなら安価な外国製より多少高価でも日本の食品が安心できる。以前の中国製の餃子事件をすっかり忘れている消費者に再び警笛が鳴った気がする。マックが業績を減らそうが潰れようが、それは自業自得で食べ物を扱う会社の責任だ。それと日本は食料自給率が先進国で、最も低いのに破棄される食品の多さに呆れる。時々レストランに入るが、客の食べ残しの多い風景には眉をひそめるとともに日本人の美徳の「もったいない」が、どこへ消えてしまったのか。情けない気がしてならない。戦後の飢餓の時代を経験した自分は、バッタやイナゴは炒って食べるご馳走で、海辺の魚や貝は高級品だった。世界を歩いたわけでないがアラブやアフリカに住む人は文化の違いとはいえ、毎日毎食、同じものを食べるのが普通だそうで食べ物にハエやアリが混入しようが平気だ。宗教的な習慣は右手で食物を掴みそのまま食べている。宗教の理由の食物規制でイスラム教はハラルという掟で豚肉は食べない。牛、羊、鶏など食べる際には頚動脈を一挙に切って完全に血抜きしなければ口にしないという。この規制とともにユダヤ人はエビ、タコ、イカも食べない。そのせいか、短命が多いという。食料と寿命の関係では栄養の観念が無い戦前までの日本人は寿命が短かった。脚気天然痘、肺病が流行し、20代で夭折する若い人や40代で旅立つ父親などこの世は別離に満ち溢れていた。戦後における高度成長は経済ばかりでなく医療の進歩や社会制度自体が変革されたので、今では世界一の寿命を誇る国になったのは有難い。宗教上の規制もなく、四季の食物にも恵まれ、蛇口を開ければ美味しい水が出てくる。日本料理「和食」は、世界の無形文化財の名誉を頂戴し、我々は日々食している。日本人に生まれた幸せ、幸運を今一度噛み締めなくてはならないが、奢りも出てきている。孫たちはマックが大好きで爺も時々付き合い完食している。

隠居の独り言 184

待つという我慢は辛いもので、先日の某新聞の「平成川柳」に、「ふみ(文)を待つ「一日千秋」死語となり」現代のようにネットが無かった時代には用を伝えるのは手紙が主な伝達手段だった。ネット社会に生きる今は「待つ」という時の停滞を我慢できない。俳人斎藤茂吉が、若い頃に恋人に宛てたラブレターの返信に「お手紙、頂きました。実に一日千秋の思いですから三日間の忍耐は、三千秋ではありませんか・・(中略)ふさ子さんどうか、お願いだからハガキでもください」ハガキだと短文だから一刻も早く意思の疎通が伝わるだろうと、焦る恋の気持ちは切ないが「待つ」ということは忍耐と想像する心的能力は向上するだろう。現代のようにニュースが瞬時に伝わる時代は短時間で成果が求められ、一日どころか一時間も一分だって待てない社会だ。猫も杓子もスマホの時代になっている。一方では活字離れの時代と言われている。調査によれば高校生一日の読書時間が10分位とか、月に換算しても数時間だろう。メディアの発達でスマホ、テレビ、ゲーム、漫画、刺激的なものまでいっぱいある。本を手に取って、わざわざページを繰るという作業は必要ない。小説もスマホで読める。人間は元々面倒くさいのが嫌いだから、これは仕方ない時代なのだろう。でもメディアでの映像や音声は相手からの一方的に受け取るものであって自分の意思がない。読書はそうでない。読むは能動的に意味を取り出さねばならない。読書は考える力を養うことで、読むのが嫌いな人は考えることも嫌いになってしまう。だから現代人はまたスマホ、テレビに向かう悪循環に陥っている。皮肉に文明の発達のスピードの加速度に人間の脳が追いつかないのが現状だろう。と言っても人間だってバカじゃない。たとえ活字が嫌いでも体験から学んだものも多い。戦時中、我が家には珍しく蓄音機があった。それも英語禁止の戦時中でありながら亡き父が洋楽が好きで手に入れたものだが記憶の音楽は「小さな喫茶店」「青空」「ジェラシー」を聴いた。戦争が終わり蓄音機も電蓄になりSPがLPになり盤も割れない。しかし機械が良くなって反面に音楽が衰退した。美しいメロディや躍動感ある音楽はもう出てこない。スマホに夢中な世代に、むかし、こんな素晴らしい歌があったよと聞かせたい。

隠居の独り言 183

平成が間もなく終わりを迎える。平成の時代が始まって30年、30年の歳月は、長いようで短く、短いようで長い時流と感じる。平成元年の平均株価は38,000円を超えバブル経済が最後の仇花を咲かせたが戦後の高度成長の絶頂期に誰が20年後に100年に一度の不景気に襲われ、また復活を予想しただろうか。平成の時代は湾岸戦争、9,11テロ、イラク戦争、A・A民族紛争、中東の戦火、それにインド・パキスタン北朝鮮の核保有などは、益々世界はキナ臭くなる。これほどに世界は激変しているのに日本だけは蚊帳の外のように旧態依然でイザの時はアメリカが助けてくれると信じている能天気の日本人がなんと多いことよ!北方領土竹島尖閣、日中間線、北朝鮮拉致、どれひとつも国連やアメリカが日本の立場に立って助けてくれただろうか?日米安保条約があっても国連に世界3位の分担金を払っても何の保障も何の保護も無いのを自民から共産まで政治家達は承知の上なのだろうか?戦後間もなく占領軍GHQが実質的な属国化ともいえる憲法の制定で戦争放棄の義務までも押し付け、未だに金科玉条のように押し戴いている護憲派の心を問いたい。平成が30年経ても御触れのままは世界が大人として認めない。体験者として戦争は二度としてはいけないが戦争を避けるには丸腰では国が侵されるし、力を背景に外交をしないと何時でも日本は損ばかりさせられる。中国は猛烈に軍事大国に邁進し、北朝鮮はミサイルと核を日本に向けている。もし不意に国土を攻撃されたらどうするつもりなのか?今年は参議院選挙だが右から左までマニフェスト憲法を問う政党が一つも無いのが実に情けない。目の黒いうちに「日本の成人」を迎えたい。

隠居の独り言 182

最近とみに年齢を問わず、美人が少なくなったと感じている。美人といっても外見じゃない。項は自分の偏見で書いている。美人観には、人それぞれ判定基準の違うのは当たり前だが,更に自分が生きた昭和から平成に至る時代を経て女性観も結婚観も変わる。昭和の結婚は仲人が取り持つ縁が大半で恋愛はふしだらとされた。理想の新婦は、楚々として可憐で夫に尽くすひたむきな性格の女性が新婦の模範的とされた。でも戦後になってアメリカンナイズは一挙に恋愛観が変わり、束縛されていた女性が感情を顕に謳歌する時代になった。現代は男女均等雇用法が施行され人としての自己を持ちしっかりと見識があって仕事ができる女性が求められる。女性の地位が高くなったのは歓迎だが、それだからって女らしさの特有の優しさ、謙虚を忘れてはならないと思う。男にも男の強靭な精神と、力強さがないと男といえない。男女の馴れ初めは見た目で決まるのは昔から不変だが以後の付き合い方と人情味の有無で人生が大きく変わる。手弱女(たおやめ)という言葉がある。たおやかな女性、優しい女性の意味で、しとやかさ、しなやかさも含まれる。与謝野晶子の詩に「手弱女がましろに匂う手を上げて褒むべき春となりにけらしな」女の指の柔らかな動きを思わせる。「手弱女」に対する男の表現は益荒男(ますらお)の男で、荒々しくも、か弱い女を守る正義感と力強さを秘めている。「器量」という言葉があるが意味は二通りある。一般的に女の器量は顔立ちを指すが、男の器量は才能を指す。しかし男も女も器量人は、生きていくうえでの喜怒哀楽、幸運や不幸、様々な経験を受けいれ貯めて醗酵できる能力であり、年老いてなお美し、という生き方に備わる。時代が変わっても男も女も、かくありたいと願っている。

隠居の独り言 181

歳を重ねると物忘れがひどくなる。先ほど何したか忘れたり、人の名前が急に思い出せない。家族の話は阿吽の呼吸で至便さがあるが、人様との会話でトンチンカンは許されない。情けないがこれが老化なのか。でも最近気付いた事がある。それは記憶力を鍛えれば、歳を取っても衰えないということ。ボクはギター弾き語りを趣味にしているが楽器を弾きながら歌を歌う場合、歌詞を完全に覚えなければサマにならない。楽譜を見ながらの歌詞と譜面を同時に見るのは不可能で、どちらかを諳んじていないと弾き語りの練習にもならない。以前は老人ホーム慰問演奏していたけれど入居者の方が殆ど同世代なので昔の歌とりわけ童謡や軍歌が評判良く、例えば「天に代わりて不義を討つ・・」という歌詞で始まる「日本陸軍」は10番まであるが今も最後まで全部歌える。「ここはお国を何百里」の「戦友」も14番まで何とかいける。5年前までラテンバンドに所属し歌詞は全てスペイン語で詞の意味は分からなくても原語で歌い今でも歌えるのは記憶力向上に役立っていると感じている。歌を思い出し、改めて覚え、声を出して歌うことは脳を鍛える意味でも、また情緒面でも、呼吸器を使った健康法にも、すこぶる効用あるものと自分なりに信じている。最近は歳を重ね、しみじみと歌人の気持ちが読めてくる気がしてならない。それらを継続が最も大切で、一日僅かでも練習をする。徐々に上手になるのも嬉しい。老人も記憶力は衰えず、そして鍛えられることの発見は人生の宝と思う。

隠居の独り言 180

正月この一か月に神田明神湯島天神日枝神社乃木神社を詣でたが、日本人はやはり神道が似合っていると無信心は思う。宗教とは最初に生まれた場所の風土や、そこに住み慣れた人の生活基盤が色濃く反映されるもので中近東の厳しい乾燥地帯で生まれた一神教ユダヤ、キリスト、イスラムとそれぞれの派に分かれても、絶対的な創造主は単一であり、兄弟のはずなのに、何故いがみあうのか。キリスト教でもカソリックプロテスタントの長い紛争の歴史や、イスラム教でもシーア派スンニ派の争いも1000年以上も続いている。宗教を国教としている国は多くあって国旗を見ても十字の模様のデザイン柄はその国の心根を物語る。日本は温帯に位置し豊かな美しい自然と巡り来る四季があって人間も含めた生きとし生きるもの全てが生死を循環しながら命は永遠に続くものと信じられ、その中から生まれたものが神道だった。なかでも優れた森の木々や神秘的な滝や川、美しい山の姿などが信仰の対象とされ、人でも秀でた方、自然体そのものが神であり、御神体は自然が作り出す「霊」であるのが、神道の基本だと思う。そこへくると一神教は森林の中は悪魔の棲むところとされ、かつてキリスト教徒がヨーロッパ北部やアメリカ大陸に移り住んだ時代に、大陸の壮大な森林地帯は彼らによって切り倒されて牧草地となり羊や牛の餌場となった。西洋の童話や、ハリー・ポッターの世界も不気味なのは自然の森であり、日本の童話とは価値観が違うのは、宗教的な意味合いが根から同じでない。キリスト文明は世の中があくまで神が創造し祝福されたものでないと、例え地球が大自然を作り上げたものも「悪」になってしまう。日本は6世紀に大陸からの仏教を取り入れたが、仏教にも自然の中での輪廻の精神があり、生まれる喜びや、死んでいく別離の悲しみを「悟り」とする観念が受け入れられたのだろう。一神教多神教の良し悪しは別にしても、互いに相容れぬ頑なさは妥協がありえない。西洋と仲良くするのは、心の中に相違があるのを承知の寛容がないと上手くできない。

隠居の独り言 179

昨年暮れにイジメが原因と思われる中学2年生の自殺があった。学校の対応は今まで同様、校長と教育委員長の言い訳ばかりで「自殺に結びつける行動に気付かなかった」 「二度とこのようなことのないようにしたい」このシーンをテレビで何回見たことだろう。校長もパニックだが生徒を最も知っているはずの担任の姿がない。担任が姿を見せないのはなぜだろうか。自分の子供ならどうする。実は教師として答える言葉を知らないからで、これでは死をもって訴えた中学生が浮かばれない。すぐ校長と担任は教える責任で辞職するべきだが、そんな立派な先生を一度も見たことがない。いじめはいけないに決まっている。生徒達に善悪を教えるのは、どうすればいいのだろう。先生はとりあえず「いじめはいけない」「暴言は悪い」「暴力は悪い」と言葉で言うしかない。でも生徒が「何で悪いの」の問いに答えられなければ先生の資格が無い。おそらく答えられないだろう。先生の善悪と教えることの偽善を、生徒は看破しているからだ。そもそも大学を出てすぐに学校の先生になること自体間違っている。子供を教える立場の先生は、或る程度の社会の経験を経て、或いは慈善事業の体験を経て、教師国家資格を与えないと生徒に教えることは無理だと感じる。医師も国家試験をパスして2年間の研修を積まないと正式の医師になれない。教師という重要な職業も社会の研修期間を持つことが人を教える資格と思う。実際、教師が泥棒をしたり、買春したりするケースが絶えないのも社会勉強の不足と思う。戦前の男は二十歳で徴兵制度の軍隊生活2年を課せられた。平成のモラル感とは違うけれど、軍隊の厳しさも仲間同士の戦友の優しさも身を持って覚えたものだった。戦前の教師は、その年齢後になるのは言うまでもない。男ばかりでなく女性も、それなりの礼儀作法や躾を教えられきちんと身につけていた。善悪は社会そのもので自分がよければいいというものでない。言わば教師だって社会の中の一員であり、社会がなければ生きていけない当たり前を教えるのが先生の仕事だとおもう。喜びも苦しみも悲しみも体験し、社会の中の研鑽で、本物の善悪をきちんと知ってほしい。戦前を偲ぶわけではないが先生とは素直に尊敬でき恩師の名にふさわしい方だった。もし生徒イジメに気づけなかったら、教職を辞するくらいの責任と覇気がほしい。自殺した中学生が哀れでならない。