ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

南相馬市小高区駅東側の変貌

 南相馬市小高区には、駅の西側に所属教会のチャペルがある為、時々行く。

 小高区の中心街は北側を東西に、そして角度を変えて南西に流れる小高川に囲まれた地にあり、こじんまりと纏まっている。歩くのが好きな僕は、この地域を踏破出来ると思う。

 東日本大震災では、区全体として一時避難し、2016年には解除になったので、ネットでも『ゼロからのまちおこし』といった言葉が躍っている。

 まだそんなに多くの住民が帰ったわけではないが、双葉郡などで見られた地域の分断という不幸な事態は見られず、繋がりを求めて拡大して行こうという意欲が見られる。

 

suumo.jp

 上記サイトを見ても、顔見知りか、だいたいどこにお住まいか分かるし、とにかく前向きの姿勢だ。

 では小高駅の東側はどうか。小高川が向きを北に変えて海に流れ込む一帯は低地で、東日本大震災以前は広大な田んぼの光景が広がっていたと思われる。しかし津波がこの低地帯を一掃してしまった。初めて6号大井交差点から東に折れて松崎の高台から村上海岸などを見下ろした時、荒れ地と化したこの地区を茫然と眺めていた事を思い出す。

 実は最近の新聞記事で知ったが、浸水した小高駅のすぐ東側にメガとまでは行かないが、突如かなりのソーラー発電設備が出来て、景観を損なうと、駅西の方々の顰蹙を買っている。でも田畑の管理が出来なくなった方々の事を思うと、やむを得ないのかなとも思う。広い空き地は以下に述べる産業団地の一部でもある。

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 国道6号から東側、260号と交わる所(写真では左右が6号、先に見えるのが小高駅に向かう為の陸橋)に、南相馬市が新たに大規模な産業団地を造成するという記事が昨年末にあった。「ロボット関連企業や研究施設などを誘致」するとネットの情報にあったので、早速行って見た。

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 四つ角のいわき寄りの畑地である。ロボット関連という言葉を見ると、すぐ経済産業省イノベーション・コースト構想を思い出す。幾つかの産業団地が構想の中に含まれている。しかしこの小高の産業団地は初耳だった。

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 田んぼをやっている方もおられるとは思うが、大半は休耕田か荒れ地である。奥の方まで相当距離がある。

 もしここに巨大な団地が出来たら、大震災の時津波に覆われたという事実は分からなくなってしまうだろう。教会の僕の先輩の姉妹はここで津波に吞み込まれて亡くなった。地元の人々が多数亡くなった。

 とにかくここまで浸水して来たのだ。そこに企業を誘致するといっても、かつて台風による豪雨で阿武隈川が氾濫し、大きな被害を受けた郡山工業団地のような、甚大な浸水被害は、ここでは起きないというのだろうか。強固な堤防を造成したので、もう津波による被害は生じないというのだろうか。

 国、福島県南相馬市とここの住民による将来像の「自由闊達な」議論など聞いた事がない。また執筆の時点でサイトにあったこの産業団地構想の幾つかは、既に消去されている。中止したのかどうか分からない。

 とにかくイノベーションコーストという国主体の事業では、福島県人の意見は問答無用という事で採択されないのか。市民は国によって蹂躙されているようにしか見えない。浜通りの視察で感じるのはいつもこの事だ。



請戸小が見つからない

 2021年12月15,16日、南相馬市の鹿島区や小高区を主体に視察の旅をして来た。

 いつもそうだが、国道6号をいわき市からずっと北上し、鹿島区まで行くと(その先の相馬市はなかなか難しい)福島県浜通りの変貌ぶりがわりによく分かる。特に帰還困難区域のある富岡町大熊町双葉町、そして6号から外れて西に入った浪江町(川俣町、二本松市など境を接する市町村まで、帰還困難区域は延々と続く)に踏み込むとそうなのだ。

 その帰還困難区域内に特定復興再生拠点区域が出現し、僕はその一部にしか進入出来ないが、目に飛び込んで来るのは、線引きにより新たに光となったところと、依然として闇のままのところの鮮烈な対比である。

 12月に入るまでは除染廃棄物や復興に関わる機材などを満載したダンプカーは、あまり見かけず渋滞はなかったが、年の瀬となって、長引くコロナ禍の下で年が明けると値上げラッシュとなる為か、富岡の夜の森あたりから、双葉町中野地区くらいまで、道路の造成工事が延々と続き、すさまじい交通渋滞が生じていた。おまけに何を間違ったのか、大熊町では国道といってもスピードの出せない狭い道路で追突事故まで起き、僕はアクセル、ブレーキと頻繁に操作する事になり、にわかに足の痙攣が心配になったほどであった。

 今回僕が注目していたのは、何度か行った事のある浪江町請戸小学校の変容ぶりだった。

 既に報道されているが、ほぼ2カ月前の10月24日、この小学校は震災遺構として一般に公開された。浪江町のホームページには「2011年3月11日の東日本大震災脅威や教訓とともに地域の記憶や記録を後世に伝え、防災意識の向上を役立てるため、被災した町立請戸小学校を震災遺構として一般公開します」とある。

 しかしである。僕はこの10月24日という日付での公開はちょっと早過ぎたと思う。なぜなら周辺は現在大規模な工事がずっと続いており、双葉町中野地区から北側の浪江町両竹地区に至るまでの「復興祈念公園」完成を目指しているからだ。この公園は津波被害のあった低地に盛り土をして、少なくも津波来襲の高さまでにするだろうから、膨大な土を運んで来なければならない。一応令和7年の完成を目指しているそうだ。

 さらに請戸港のあるあたりと違い、この祈念公園のあたりから南の双葉町前田川河口付近までの堤防がまだ出来ていない。写真は双葉町海水浴場内にあったマリーンハウスふたばで、3階まで津波が来たが、良く倒壊せず残ったと思う。左の重機による工事に注目。

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 とにかく国道6号から知命寺交差点を曲がり、254号で請戸川を渡り、途中右折南下したあたりから、工事の為の2メートルはある柵が、あちこち存在し、請戸小学校を視野に入れる事が出来ないのだ。

 僕が間違ったのかもしれないが、ダンプカーが通る穴ぼこだらけの道を南下しても、どうしても見つからない。仕方ないのでその整理係の人に伺い、やっともう少し南下すれば看板があって分かるからと教えてもらった。ところがその看板が見つからない。やっと小さな左折すればという貧弱な看板が見つかった。あまりに貧弱。しかし理由は分かった。ここは復興祈念公園工事の端にあたるところで、小津路も整備されていないのに、看板どろではないという事だろう。

 だからそこを左折して進んだら、直ぐに立派な看板が見つかった。

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写真右の道路は完成している。しかし左側はといえば、まだ雑草が生い茂り、道も未完成だったと記憶している。

 こうしてやっと請戸小学校まで辿り着いた。

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 既に何台か見学の車があった。前の視察の時と違い、2階の各部屋に蛍光灯が点いているのが分かる。屋根にはソーラーパネルも設置されている。

 しかし震災遺構としては何だか物足りない。総事業費は約3億7500万円とあったが、もう少し何とかならないか。でも震災当時のままの保存を優先したので、これで良いのか。さらにこの小学校見学、抜け目なく入館料をとる。団体でない大人の見学者300円、高校生200円、小中学生100円とあった。

 そういえば、震災祈念公園に南で隣接し、既に完成稼働している中野地区東日本大震災原子力災害伝承館と双葉町産業交流センターは、ハコモノとしては立派だが、ここの伝承館でも大人600円、小中高生300円とる。

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金額の大小に関わらず、近年未曽有の大震災、もっと自由にただで見られたらというのは、貧しい僕のはかない願望なのか。

 僕はやっと見つかった請戸小に入らず、すごすごと引き下がったのであった。

 「【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい」(詩127:1)。


 

 

或る東電福島第一原発下請け作業員の癌死

 年の瀬も迫った12月21日、元東電福島第一原発下請け作業員だったNSさんが、前立腺癌の全身骨転移で亡くなりました。

 NSさんと知り合ったのは、僕が前立腺肥大手術の為常盤病院に入院した時、同じ部屋にいたからです。僕のベッドの反対側に寝ていて、担当の医師がたえず様子を伺いに来るので、状況がすぐ分かってしまいました。

 僕が病室に入った日の数日前だと思いますが、一回目の抗がん剤が投与されました。その為の副作用として髪の毛がどんどん抜けてゆく。これまで本などでその知識はありましたが、現場で見聞きしたのは初めての事です。
 その頃はまだ杖や歩行器を使ってトイレまで行く事が出来、骨転移による痛みを明確に伝える力がありました。

 僕は間もなく退院する事になり、コロナの事もあってほとんど会話も控えていたのですが、少なくも正確な名前と住所だけでも訊いておこうと思いました。

 驚いた事にメモに記されたNSさんの住所は、僕が現在住んでいるところの住所のうち、いわき市泉町滝尻まで共通、次の字(あざ)からだけが違っていました。

 それでNSさんも退院する日が近づき、僕は徒歩でNSさんのお家を探しました。15分位だったか直ぐ見つかりました。僕は何かお手伝い出来ないかと思ったのです。僕の家は教会付属の建物で、その中に食堂もあります。素敵なランチを作っており、まずはそれをお届けして、親しい友人関係を築きたいと考えた次第です。

 しかしNSさんはその頃から腰の激痛を訴え始めました。第二、第三腰椎の間に癌細胞が浸潤し、歩行器を使っても立ち上がれない状態になってゆきました。何回か訪れた時も、激痛がある為長い会話は出来なくなりました。いろいろ伺っておきたかった事がありましたが、今となっては不明のままです。

 NSさんは福島第一原発から最も近い地名の所で生まれ、正社員ではなく、下請けとして東電に長らく勤めていたようです。そこで結婚し、長男、長女をもうけ、彼自身は隣の富岡町の寮か何かに入居し、第一原発まで通っていました。定年で年金が出るようになる年にあと1年というところで、何らかの理由にて勤めを辞め、こちらのいわきに引っ越して来ました。長女もすぐ近くで結婚生活しており、長男はまだ独身ですが父親と同居し、懸命に働いていました。長女は週2回、父親の面倒を看る為通っていました。

 NSさんの最期が近づいた頃は、この長女との短い対話で、わずかな情報を得ただけです。僕はクリスマス集会の為のチラシ配布で忙しくなり、イブ集会が終わった次の日、急いで訪問したのですが、残念ながら葬儀社の花輪と通夜・告別式が簡単に記されたものが掲げられていただけでした。既に4日前死去していました。

 全く立ち上がれなくなる少し前、ごく短い対話で僕が質問したのは、あと何年位希望を持っていますかという事でした。最近の癌は発見が遅れた場合でも、その治療はだいぶ効果を表し、5年生存は当たり前、10年の生存も可能な時代となっています。

 NSさんも10年先を見込んでいました。僕は骨転移の状況からそれは無理だと思っていたのですが、あえて死の備えについて触れる事はありませんでした。激しい痛みの中で、それを問われるのは極めて辛い事だと想像したからです。しかし僕もいつか比較的自由な会話が出来る日は来るかもしれないとも考えていました。

 しかしNSさんはあっけなく逝ってしまいました。

 大震災の時、第一原発1号機の4階で作業していました。放射能より地震の方が怖かった、と彼は回想していました。

 たかだか40年位の原発での仕事でしたが、癌で亡くなりました。あれから11年も経過すると、もう原発での仕事とがんとの因果関係などといった議論は、ほとんどされなくなりました。僕は関係はあったと「信じて」います。

 実はNSさんの奥様も、いわきに共に来てから、癌で苦しみ抜いて亡くなりました。僕の住まいの隣のクリニックのお世話になっていたようです。

 まだ若く、人生百年と言われるようになった時代、あと40年は生きられる筈でした。何たる悲劇でしょうか。NSさんは住所が富岡町になっていました。その遺骨は生まれ故郷に近いお墓に葬られる事になったみたいです。

 聖書の伝道者の書には「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」とあります。

 「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」(伝道3:2)。

 人の死の時は神様が定めておられます。人はいくら努力しても、それに抗う事は出来ません。だからメメント・モリ=死を覚えよ、なのです。

75年と7カ月過ぎて

 ご無沙汰しております。前回の記事から半年経過してしまいました。再び丁寧語のスタイルで書きます。

 75歳を過ぎてから何だかおかしくなりました。図書館で本を借りても、最後まで読み通す気力が無くなりました。何か書きたいという気持ちはあるのに、文章を構成する力が無くなりました。

 白内障の手術をしてパソコンの画面が良く見えるようになったものの、ある日突然見えにくくなりました。眼科医に訊くと、角膜に原因不明の炎症が生じていると言われ、目薬を処方してもらいました。それでやっと快方に向かっていますが、何となく手術直後のようなシャープな像を結べません。一番小さなポイントですと、いちいちレンズで見ないと見えません。それで新聞を読む事も、読書する事も、書く事も億劫になって来ます。自然にストレスが溜まって来ます。

 さらに現在の主要な身体の症状は小脳萎縮による酩酊様歩行ですが、それだけならパソコンに向かう事は出来ます。しかし突如その症状が出始めた2~3年前、並行していわゆる気象病も出現しました。オホーツク海の低気圧、湾岸沿いの低気圧、そして台風が近づくと、気圧の変化で額がこわばり、首の後ろが強烈に痛くなります。

 最近僕に関しては、この気象病というのはあまり当て嵌まらなくなりました。気圧の変化にかかわらず、割合常時額がこわばります。首も痛みます。温湿布は或る程度効果がありますが、今のところ効く薬は皆無で、それは小脳萎縮についても同様です。MRIの像を見ると、全く変化がありません。それで医者は譬えて言えば、大人の小人症のようなもので、正常且つ生活に支障なしと診断します。

 しかし僕の小脳萎縮は複雑な要素の絡んだ難病ではないかと考えています。一つのしるしとしてパーキンソン病のような歩行が挙げられます。他にも構音障害(た行の音が旨く発音出来ず、長く話しているとだんだん不明瞭になり、挙句の果てに意識が消えそうになります)、字がうまく書けない事(ハガキなどだんだん字が小さくなり、均衡を失って収まるべき範囲に収まりません)など幾つか列挙出来ます。「小脳萎縮症」としての一連の症状は僕の場合にもだいたい当て嵌まり、解明されていなくてもそれが気象病の時の首の激痛と関連あるのではないかと想像しています。

 その為に気圧の谷が近づいた時、通過中の時、通過後も、またその後に高気圧が接近して来た時も、首は痛み続け、額は硬直し、机で読書どころか、パソコンにも向かえません。ただベッドで仰向けになって休んでいるしかありません。不思議な事に、この仰向けの安静は、首の激痛を完全に抑えています。でもその時強烈な睡魔が襲って来て、短時間の睡眠では必ずレム睡眠となり、悪夢ばかり見ています。

 75歳という人生の節目、毎日新聞田原総一朗氏の『堂々と老いる』という本の書評がありました。田原氏もやはり75歳を過ぎたあたりから、僕が今経験している事を既に経験しておられたようです。それに近い年齢の皆様も同様でしょうか。

 というわけでブログの頓挫の経緯を記し、まだ(神様に生かされて)生きている証をお伝えしました。今後どうなるか分かりませんが、引き続き原発事故後の福島に関する記事を、時系列を問わず記してゆくつもりです。ブログ仲間の皆様どうぞ宜しく。

 

ハルマゲドン

「こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた」(黙示16:16)。

五輪に関する記事の中で、「ハルマゲドン」という言葉が出現したのを覚えておられる方は多いだろう。国際オリンピック委員会の一員であるディック・パウンドが使った。「前代未聞の『アルマゲドン』にでも襲われない限り、東京オリンピックは、計画通り進められるだろう」(ハテヘイ6直訳)。某紙の翻訳「実施できる」は、それを望んだ意訳だろう。

ディックはカナダ出身、ウイキで見る限り、キリスト教信徒ではないと思う。結婚して3人の子どもがいるが、再婚して2人の継子がいるとあった。それはイエス・キリストのみことばにそぐわない。

英語とフランス語を使う国民であり、聖書に触れる機会があったとしたら、綴りは「Armageddon」である。だから「アルマゲドン」と発音する。一方ギリシャ語は「ρμαγεδών 」、発音はハルマゲドンである。

日本人は既にこの言葉はなじみがあると思う。オウム真理教麻原彰晃が良く使った言葉だからだ。しかし麻原を知らない新しい世代では「ハルマゲドン」、何それ?となるだろう。聖書だって冒頭の1か所だけに出て来るのだから。ヘブル語でと書いてあっても、旧約聖書には出て来ない。ハル=山と、メギドというガリラヤ湖南西にある、戦いが良く行われた場所の地名の合成語だからだ。

故に聖書学者たちは、旧約聖書新約聖書の全体を調べ、これから起こる事のおおよその道筋を立てた。しかしそれも解釈はいろいろで、どれが正解かという事は断定出来ない。

でもそこが将来「また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た」(黙示19:19)とある、天下分け目の合戦の場となるのは間違いないだろう。

馬に乗る方とその軍勢は救い主イエス・キリストと聖徒らを指し、獣と地の王たちは悪魔とその支配下にある未信徒たちの事である。世界最終戦争がそこで行われ、義でない者たちは全て滅ぶ。

故にディック・パウンドの言葉を皮肉って表現すると、不敗の万軍の主、義であるイエス・キリストが介入して戦って下さるのでない限り、不義に満ちた東京オリンピックは、予定通り実施されるだろうという事だ。ディックはハルマゲドンの深い意味を知らないから、その言葉を持ち出す事により、意に反して東京五輪が正義の祭典ではない事を証した事になる。

獣と地の王たちとその軍勢たちの中に、バッハもコーツも、人の命を軽んじる日本の五輪支持の面々も皆含まれる。

動脈血酸素飽和度

「彼の口のことばは不法と欺き。思慮深くあろうともせず善を行おうともしない。彼は寝床で不法を謀り良くない道に堅く立ち悪を捨てようとしない」(詩36:3)。

昨年から今年にかけて、白内障手術(昨年7月)、原因不明の下血(今年2月)、前立腺肥大手術(今年5月)と、立て続けに入院手術する羽目になった。

前立腺肥大手術後は、1カ月ほど養生する事になっているので、まだそこに至っていないが、まず順調な経過ではあると思う。そもそも高カリウム血症で、値の高いカリウムは心臓を直撃しやすいから、とかかりつけ医に脅されて来たし、初めて行った泌尿器科では最初から膀胱の尿貯留率が高過ぎ、遅かれ早かれ尿漏れの原因になるから、と再三手術を勧められて来た。上記下血の時の検査では、腎臓の腎盂水腎症を発症させている事を初めて知った。それで尿の流れが滞り、カリウムの高い数値の原因になっているのかもしれないと思い、手術に踏み切った次第である。

しかし意見は分かれるかもしれないが、今思うに創造主が精巧に造られた人体にメスを入れる事は、まさに「侵襲」であり、いよいよ薬が駄目になってから決断すべきだった。失ったものは多く、後悔先に立たずである。しかしどの選択が正解なのかと問えば、答えは一つではないだろう。

それはとにかく、白内障の1日入院を除けば、2回とも一週間の入院だった。コロナ禍の渦中だから、ずいぶん気を使った。

そこで気が付いたのは、ベッドで血圧測定の際に、パルスオキシメーターという動脈血酸素飽和度測定機器も同時に使用され、手の指に挿入され測定された事である。それは瞬間的なものであり、常に95パーセント位の数値だった。

この機器は実は18年前母親が亡くなる少し前、僕が看護師に教わり使っていた。やはり90パーセントを上回っていたから、だいたい誰でも測定すればそんな値だろうと思っていた。

考えが変わったのは、医者でありながら、『白い巨塔』のようなリアルな文学作品を世に送り出している海堂尊氏の『コロナ黙示録』を読んでからだ。

猛威を振るうコロナに対する失策は、前政権から始まっていたが、その頃同時に進行していた不祥事がコロナ絡みで登場するし、仮名を使っているが誰とすぐ分かる人物が登場し、それなりに穿った見方だとは思った。

しかし終盤ではむしろその政権の余りのひどさの解明に固執して、出だしで見せた医者ならではのストーリーがやや尻切れ蜻蛉になったきらいがある。

何よりクルーズ船より下りた感染者と接触した観光バスの運転手が、大曾根という医者に感染させ、さらに彼の濃厚接触者である医者速水を自主隔離させてしまう、その連鎖の怖さが良く分かった。その時の会話が題名の酸素飽和度を巡ってであった。

激しくせき込む大曾根に、速水は胸部CTを看護師に指図し、酸素飽和度(O2サチュレーション)も測らせた。「速水先生、大曾根先生のサチュ、60%しかありません」「60だと?挿管準備しろ、すぐ行く」。

そして速水が挿管を終えて戻ると、そこに伊達医師がいた。伊達も速水に念の為酸素飽和度を測らせる。「サチュが70%だと?信じられん」そして速水のCT写真を見た伊達は「ひどい間質性肺炎だぞ、お前。ここまで進行しているのに苦しくないのか?」。

速水は二度もPCR検査を受けていたが、いずれも陰性だった。そこで二人は考える。「無症候でPCR陰性のサイレント感染者か。厄介だな」

対応策の為、知事に近い世良という人に電話しながら、速水はこう漏らす「医療従事者の俺だから危険を適切に認識できます。無症状でこれだけの肺炎を抱えても、無症状だから検査せず、隔離もされず普通に暮らし、強い感染力故にどんどん周りに感染していく。本当に恐ろしいです」。

こういう物語は海堂だから書ける。『コロナ黙示録』の白眉はここにあると思った。

そして現在僕らはこの死病を前に終息を祈って、自宅待機している他ない。ワクチンは特効薬になるのか?聖書の黙示録の解釈は迂闊に口には出来ないが、「私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は『死』で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた」(黙示6:8)というような裁きの時が近いのかもしれない。

ノアの洪水の前も「神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである」というひどい状況だったからだ。

 

アーミッシュの生活

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」(ローマ15:1-2)。

アーミッシュキリスト教の中ではバプテストに属する。かつてヨーロッパ大陸ではアナ・バプテストとも呼ばれ、聖書的に正しいバプテスマ(浸礼=水への浸し‥イエス・キリストの死、埋葬、甦りを象徴する儀式。イエスが模範を示された)を受けなかった他教派の人が教会に加わる時は、もう一度バプテスマを受けさせられたので、その名がある。だから頭に水を灌ぐ礼(灌水礼)、頭に水を付けるだけの礼(滴礼)を行っていたローマ・カトリックから迫害され、新大陸アメリカに渡り現在に至っている。3年前の統計で人口約32万に達した。

彼らは始祖ヤコブ・アマンの名を採ってアーミッシュと呼ばれるようになった。徹底した聖書に基づく生活を送っており、乗り物は馬車、各教区にある学校は8年制で高校・大学など無し、電気製品の制限、派手な服装の禁止など大きな特徴を持つ、農耕・牧畜を主体とする自給自足の共同体である。

特異に見えるかもしれないが、聖書個所を開くと納得するし、もし僕がアメリカに渡ったとすればこの派に所属したいと思う。アーミッシュは戦争を支持せず兵役を拒否しているからだ。かつて僕はアメリカ南部のバプテスト教会宣教師から浸礼を受けたが、実際渡米してみると、牧師も信徒も米国の正義を信じる狂信的な好戦家たちばかりだった。狂信的と言えば、彼らは1611年英国で翻訳された欽定訳だけが聖書であって、他の聖書を使う者はクリスチャンではないと断定している。すると日本ではクリスチャンはゼロになってしまうだろう。

今度出た堤純子著『アーミッシュの老いと終焉』は、このアーミッシュの日常生活を詳しく描写している良い本だと思う。近代文明の便利さの中にどっぷり浸っている私たちに反省を迫るものだ。

例えばなぜ学校は日本でいう小・中学だけで終了するのか?答えは聖書、例えばコリント人への手紙8:1にある。「‥しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」。

その通りではないか。高校・大学と進むうちに得られた知識は人を必ず高慢にする。私自身証するが、聖書だけあれば高度な知識は不要である。それよりも神を愛し、人を愛し、神と人とに仕える生活がどれほど祝されたものか、ささやかながら実感するのだ。

けれどもこの共同体には「ラムシュプリンゲ」という制度がある。学校を終えた若者たちに与えられるモラトリウム期間の事で、その間彼らはアーミッシュの一切の戒めを解かれ、教区外の世俗の世界で、欲望のままに振舞う。酒・たばこ・麻薬・車・派手な服装・ダンス等々、ルカ15:11以降にある放蕩息子のように快楽を体験する。そうした中で、若者たちはアーミッシュの浸礼を考える。この欲望のままの生活に浸りたければそれを受けず、外部世界に留まる。しかし彼らはそうならない。ふと我に返り元の共同体に戻って来る。あの幼い時から経験している「土の匂い、草や家畜の匂い」、これまで大切にして来た大事な空気が外部には決定的に欠けている、そう気づくのだ。自分の意志(*実は神のみこころ)で戻ったのだから、信仰が生き、確固たる意志が芽生えるという。

こうして浸礼を受けた彼らは、多産を奨励されているこの共同体の中で結婚し、その人口を確実に増やしてゆく。将来のアメリカの人口の半分をアーミッシュが占めるようになると予測している人々もいる。

結婚した後も、彼らは家族・親戚同士結びつきを強め、冠婚葬祭、納屋作り、農繁期の手伝い、礼拝後の交わり等々、ありとあらゆる手伝いをし、仕え、さらに絆を深めて行く。高齢者の介護も同じだ。そして死も。7割が在宅で皆に囲まれながら召されて行く。

その濃密な関係は煩わしいか?そうではない。彼らは他者との関係の中の個々人ではない。「神という絶対的な存在を通して他者と関わっている。このことが彼らの強い絆を生み、安心感をもたらす」とあった。

神への服従と隣人に対する徹底的な愛、これが言うは易く行うは難しであり、キリスト教でも分裂して多くの教派を生み出して来た。

アーミッシュはおよそ30所帯で一つの教区を形成するが、困り事があれば、その教区を越えて救いの手を差し伸べる。外部世界との接触は全く無いわけではないが、紛争は全て聖書に基づいて処理される。イエスご自身が言われた「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)を模範に、幸いと言われた「柔和」を追求する。πραεῖς(プライース)というギリシャ語は、日本人が想像する「柔和」とは違う。怒るに遅く、憤りを嫌い、挑発もせず、直ぐに仲直りをし、被害を受けても憤慨せず、悪に悪で報いず、かえって悪に善を返す人をイメージして欲しい。

日本人で言えば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のような人に似ている。

アーミッシュはそうした利他的な行動をとるから、強く太いネットワークが形作られる。その模範に対して僕はまだ極めて貧しい。だから「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。自力では不可能、信徒の内に住まわれる聖霊の力による他ない。