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>>To Be Continued!!
明日のコンステレイション→http://d.hatena.ne.jp/mahir0/
風景を収集する人々
風景というのは存在した瞬間に既にオリジナルである。
それを切り取るというのが写真という行為で、だからこそ写真藝術なるものも成り立つ。
記録として割り切った写真でさえ、一つ一つが恐るべき個性を持ってしまう。
風景を収集するというのはそのオリジナリティと個性という二つの面から人の興味をかきたてるものだ。
まったく興味の対象外な事物でも、何故か引き寄せられてしまう。
そんなサイトをいくつか紹介。
http://home.f01.itscom.net/spiral/
言わずと知れた超有名廃墟サイト。書籍化もされたマニアック収集サイトの代表格だ。
とはいっても廃墟という素材はかなりの普遍性がある。
そこは昔人間が使っていたわけで、相当な物語性が与えられているからだ。
このサイトは写真の撮り方一つとって見ても非常にそれを意識している。
作り手の廃墟に対する愛情が伝わってくる。
これは団地をフューチャーしたサイト。
団地というものがもはやクラシックな意味を持つモノへと変化する00年代後半。
少子化と個人化の波から見える、明るく健全な(あくまでイメージだからね)日本はやけに懐かしい。
詩情を感じさせる写真を見ていると、たしかに団地が緩やかにブームなのも頷ける。
多くの人生を乗せてそびえ立つ団地たちへの愛あふれる記録。
http://homepage2.nifty.com/danti/
こちらも団地サイトとしては有名。
前出のものよりは記録に寄った作りになっている。
それぞれ個性があって、見比べてみると面白いかも。
実はかなりのファンが居ると言われているダム。
記録面でかなりの充実を見せるこのサイトもダムをいかに美しく見せるかが尽力されている。
コミュニティとしてのありかたも模索する「みんなで作る」ダムサイト。
これから発展していく楽しみがあるのもウェブであればこそのおもしろみ。
http://www6.airnet.ne.jp/manhole/そしてマンホール。
かなりの価値ある全国マンホール達の記録。
恐るべきバリエーションと追い求める情熱。
コンテンツの充実ぶりには目を見張るものがある。
マンホール単体の記録だけでなく、
風景の中のマンホールという視点がしっかりあるのが見所。
そして最後は階段。
何が素晴らしいかってこの静けさ。
作者が日常において携帯のカメラで撮り続ける階段たち。
晴れの日、雨の日、ビル、街角、あらゆる場面で切り取られた撮られた風景。
写真の向こうに作者の人生までもが垣間見える。
ある日をさかいに更新が止まってしまったけれども、再開を切望せずにはいられない。
とこのように羅列してみたわけだけれども、どれも面白い。
別にダムやマンホールが死ぬほど好きなわけじゃない。
けれども日常の風景を全く違う視点できりとる楽しさに惹かれてしまう。
何よりもそういう視点がある人々を知ることは、自分の視野を広げることにも繋がってくるだろう。
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年末の忙しさ。
もう今年も終わりか、と思うけれども来年はやっぱり楽しみ。
麻薬書簡と行くビートニクな旅
ヒッピーなんて言葉が流行りだすさらに前の時代、1950年代のアメリカ。
それこそ最強を目指して怒濤のごとく頂点を目指す大国。
早くもこの時代に反主流、反体制なカウンターカルチャー、「ビートニク」を作り出していた若者達がいた。
言わゆるビート族である。
ビート文化を牽引していたのは思想家でもミュージシャンでもなく、小説家や詩人たち、文章を操る人々だった。
ビートニク文学の代表的人物とされるウィリアム・バロウズとアレン・ギンズバーグ。
伝説の麻薬と呼ばれる「ヤーへ」を巡って南米を放浪する二人。
そこで書かれた書簡をまとめたのがビートニク文学の代表的作品「麻薬書簡」である。
- 作者: ウィリアムバロウズ,アレンギンズバーグ,William S. Burroughs,Allen Ginsberg,山形浩生
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/09/04
- メディア: 文庫
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「再現版」と名打たれた通り、未収録だった部分も最収録されている。
そんなにマニアックなところにこだわらずとも、まともに読めるようになったというだけで素晴らしい。
この当時の南米のドロドロとした感じが書簡という形式でダイレクトに伝わってくる。
それに加えてこの退廃を通り過ぎて新境地の開拓へと乗り出すような二人の姿勢もまたいい。
現地の少年を買って寝てみたり(この当時に両刀使いをカミングアウトするってのは結構すごいことらしい)
怪しい霊媒師のところに行ってゲロを吐きながらラリってみたり。
グチるような文体は妙に力強くさまよっている。
形式的には一応文章となってはいるが、詩的な要素も多く見られる。
どこまでが現実で、どこまでが幻覚なのか、その曖昧さがじつに楽しませてくれるのだ。
「ヤーへ」を巡る旅の終着。
結論をこじつけることもできるし、する必然性もない。
しかし、間違いなくこのあとの時代へ続いていくであろう力がある。
フラッシュバック推奨、良識ある日本国民にはぜひコイツでケータイ小説に対抗してほしい。
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「二ヶ月ぶりの更新でござる」の巻
即興化する動画表現とSVM−1000
「DJ」と聞いてフツーの人が思い浮かべるであろうもの。
それはラジオのパーソナリティ、もしくはレコードをこするヘッドフォンをつけた兄ちゃん。
(航空自衛隊のF-15DJとかは一般人は思いつきません)
前者も後者もとりあえずは浸透している言葉である。
それでは「VJ」はどうだろうか?
恐らく知名度はまだまだ低いだろう。
ということでwikiで見てみると
DJが複数枚のレコードを組み合わせて音楽を作るように、クラブやディスコ、コンサート会場で音楽に合わせ、ビデオ映像等を流す者。
ライブで映像を組み合わせたり、リアルタイムで製作したり、あらかじめ作っておいた映像を流したり、その手法は様々。
最近はDVD、DVJ、PC等を用いたスタイルが一般的になりVJをビジュアルジョッキー(visual jockey)と解釈することもある。
とある。
このように「VJ」はつまるところ裏方であり、それも限られた場所での表現者であった。
「あった」のである。
2000年ごろから、VJに二つの意味で変化が訪れる。
一つは機材という面での変化。
コンピューターの高速化、大容量化、そして小型化により、より空間的でアーティスティックな表現が可能になる。
それと同時にパイオニアのDVDの映像をスクラッチすることができるDVJ-X1、
より感覚的に映像効果を行えるKORGのKAOSS PAD entrancerやRolandのCG-8などハード系も充実してくる。
もう一つはカリスマ的アーティストの登場。
いまだにVJ界のトップランナーであると同時に様々なメディアで表現活動を行う宇川直宏がその代表である。
他にもデバイスガールズやmotor driveなどそれぞれが上記のような機材を使って
個性的なVJプレイを行うようになったのだ。
この変化を経てVJはクラブやライブに無くてはならない存在となった。
その行為自体が表現であり、世界的にもアーティストとしての認識が高まっていった。
そしてまた、新たな変化が起ころうとしている。
今回パイオニアが発表した新しいミキサー、SVM-1000である。
http://pioneer.jp/cdj/products/sound_vision_mixer/svm1000.html
元来音楽担当のDJと映像担当のVJは別々の仕事を行ってきた。
お互いの連携によって音と映像の空間が成り立っていたわけだ。
しかしこのSVM-1000はその二つを統合してミキシングできる。
つまり、音と映像が同時に制御できるのだ。
これは単純に言ってしまえばDJとVJの統合ということにも繋がってくる。
果たしてその両刀使いなプレイをDJやVJに要求できるのかと言われると難しいところではある。
DJは音楽の選曲と繋ぎが生命だし、VJもそれを見ながら場の空気を読み映像を作り出す。
仮にできたとしてもそれがオーディエンスの高揚に繋がらなければ無意味なのだ。
それでもなお、この機材が意義深いのはその独創性である。
この機材を実際にクラブで、ライブで、劇場で、自宅で使う様々な人々。
現場で感覚を磨いた彼らはきっと新たなVJスタイルを編み出して行くだろう。
かつての機材がそうだったように、そこからフィードバックした新たな表現への要求が新しい機材を産む。
もしかすると我々の思いもよらぬ所でVJが活躍し始めるかもしれないのだ。
動画における編集という行為をそのままメインにしているから様々な解釈が可能だ。
「自動筆記」ならぬ「自動動画編集」なんて表現が登場するかも・・・。
ギターを始めるように、ドラムを始めるように、DJを始めるようにVJを始める時代が来るかもしれない。
まだ新しいからこそ、自由度が高い。
VJアーティストのこれからはきっと面白いはずだ。
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喉の調子が変でごわす。
アーアー。