丑刻ヲ過ギテ

hellbeyond2015-10-27

 ずっと形にできないでいる熱。
 僕という人間を、幼稚園年長以来30数年間支えてきたVHSという存在。
 いや、「VHSで観る映画」といったほうがいいか。自分が一番苦しい時期を何度も救ってくれたという点では、親にも増してそれらに恩を受けていると言っていいかもしれない。
 なんにせよ、まだその恩に報いることはできていない。

 
 ビデオ屋が街から姿を消し始めた時、その景色が繋げる末路を僕は知っていたはずなのに。僕がしたことと言えば、焦りに任せて全国を回り、集めたビデオを金に変えたことぐらいだ。
 勿論その金は僕が作る映画の一部に姿を変えたが、僕が受けた恩はそんなことで返しきれるものではない。


 今、僕の手元にある企画の幾つかに、その恩返しになり得るものは存在しているだろうか?
 その作品をつくりあげること。僕が納得する形で。そしてそれを世界に認めさせること。
 『丑刻ニ参ル』が完成して、自分の進むべき道が少しだけ見えてきた。それは想像以上に険しく、傷つきながらでないと進めない道だけれど。
 さあ、ここからは、もっともっと強かに進まなければいけない。




      

DARK NIGHT of the SCARECROW

hellbeyond2013-01-11

お世話になった某監督が試写で観て感心していた『ラスト・エクソシズム』を観る。
現状世界のホラー界で、バイオレンス映画でハンドガンを傾けて構える位やってはいけないと見なされているPOVによるオカルト。
只、撮影者の意識があくまで「霊魂不在」で統一されているため、こちらとしても、彼らの常識が揺らぐ面白みを期待して観ることができる。そういう点で、POVという現実らしさを売りにするこの作品の作りと相性が良い設定と言える。
これで頭の良い作り手なのかと期待したのがまずかった。
何度かの小さなどんでんを踏まえ、南部アメリカの淀んだ空気に相応しい人間嫌悪ホラー的ラストを期待させた展開から一転、巻末10分で呆気なく具体的悪魔と安いCGがポロポロと展開。あまつさえ、登場人物が中盤で示唆された通りの末路を迎えて終わりとは…。
そして私はエンドロールを観て深く頷いた。制作にイーライ・ロスの名前を見つけたのだ。
彼の参加作品(出演も含め)はほぼその全てがラスト、落ちてないのである。本来のホラーとは、いかに中盤までがかったるかろうと、最後で映画的テンション、倫理破壊度を上げ、それが上がり切ったところでちゃんと見栄を切って終わらなければ駄目なのだ。
ブレアウィッチが好きなのか何だか知らないが、主観カメラが走り回った末にブツっときれて終わりなんてのは、ホラーの終わりとしては最低である。
この辺からも、この監督の実はジャンル好きなふりをしてるだけの不真面目さがわかろうというものである。ちなみにこの病はロバート・ロドリゲスあたりが第一保菌者で、他の感染者にはアレクサンドル・アジャがいる。

No Fear Evil

 ジェームス・ウォンの『インシディアス』を観る。
 『狼の死刑宣告』の端正な映画力を見てかなり見直した同氏の作品であるが、矢張りこの監督に無指向性の映画愛はない事を確認するだけに終わった。もう、この監督のホラー作品は観ない事に決めた。
 一人として深く描写されない登場人物、何ら新しい手触りのない恐怖イメージ。自分とパラノーマル〜の監督による作品だったら、こんな要素を入れておけばいいだろう・・・的な割り切り。勿論サム・ライミにも期待される物を抜け目なく織り込むしたたかさはあったけれども、ウォンとライミの違いは、それを「お楽しみ」として観客に提示する商売っ気(何なら、自己顕示欲と言ってもいい)があるかどうかだ。
 冗漫でぎくしゃくしたストーリー展開も気になる。途中から心霊物に持っていくなら、前半の中途半端なサイコサスペンス風演出は何だったのだろう?どうせやるなら、最初から最後まで観客と作り手の共犯関係を楽しませてくれ。クライマックスの霊界描写もラストの悪魔のデザインも、最悪に想像力欠如。あの「暗闇」が、そこに何も新しい描写を創造できない作り手の「才能の闇」に見えた。

 続いて観賞中の『ラスト・エクソシズム』は、そもそもの着想の面白さ、確かな語り口で半分までは十分面白い。本格的描写が始まるはずのここからが見物と言える。
 最早、冷徹なまでにジャンルを解剖し、研究し尽くした作り手が冷えた感情で作った物の中にしか、面白い作品は存在しないのだろうか?

Warning Sign

hellbeyond2012-12-29

 『バイオ・インフェルノ』を観る。
 中学生時分、地元藤沢駅の北口バスターミナルに存在した小ビデオレンタルチェーン、「プラザ21」で購入。この店は一階がアニメや邦画を含む一般作品、二階がアダルトという構造。ホラーブーム終焉後だったとは言え、この店ではまだまだホラー作品のVHSが大きな棚を占めていた。
 当時、私は行きつけのレンタル店「アタック」「アコム」のめぼしいホラー作品をほぼ制覇し、中学生であったことを鑑みても極端に狭かった自分の行動範囲外のビデオ屋に足を伸ばし始めていた。そのきっかけが何であったのかは今となっては判然とはしないが、中学生になったと同時にゲームから映画(正しくはビデオか)への興味の揺り戻し期が来ていたのは確かである。中学校への行き帰りのルート上に「アタック」があり、嫌が応でも店のポスターが目に入ったことがひとつ。また、思春期に突入し自分のアイデンティティを必要とした結果が、当時周囲で興味を示す者の居なかった「ホラー映画」であったのかもしれない。
 更には、幼少時より懐古趣味の一際強かった自分の性癖のせいでもある。
 ホラーは当時粛清の中にあり、一般常識的に「終わったもの」として立場を奪われていたから、自分としては過去の思い出(仮の安寧の中に居た小学校時代を強く追体験させるもの)に容易に浸ることができるツールだったのである。

 なんにせよ、本作のビデオを手に入れたのはそんな時期だった。
 当時一泊500円だった「プラザ21」がある時気まぐれにダンピングセールを行い、店の片隅に床に直置きする形で中古ビデオを販売した。『死霊のえじき』『グレイブヤード』などと一緒に、私は本作をレジに運んだのだった。内容がゾンビ物の変種だということは購入後だいぶ経ってから知ったし、お世辞にも面白そうであるとは言えない本作(しかもどの中古セールでも大体最下値をつけられる)を買った理由は、もしかしたら3本1000円という括りでの特売だったからかもしれない。
 購入後もだいぶ長いあいだ、本作は私の「未見作品」棚に放置されていた。
 一度思い立って(確か購入後1〜2年の間に)観かけたものの、若かりし自分は30分過ぎ辺りで断念。購入後20年近く経った今回最後まで鑑賞したが、部分的にテンションの高い恐怖描写は散見されるものの、『クレイジーズ』ほどエクストリームではないし、規模も小さい。隔離された建物の外で頑張るサム・ウォーターストーンの描写が閉塞感を散らしてしまっている。技術面では、特殊メイク自体はセンス技術共に上々なのだが、決定的なインパクトに欠けるといった印象。ま、これが作品全体の評価とも一致しているといっていいだろう。
 マシュー・ロビンスの脚本は間違いがないレベルなのだが、主人公たちの行動がまず有り、その過程で目的が観客に伝わるという微妙に説明不足な展開が続くため、緊張感がこちらに伝わりづらいのは難点といえるだろう。


 でも、作り手たちのやりすぎな自己主張が少なく、ウェルメイドなものを目指したアメリカ映画を「ビデオで見る」ことの幸せは改めて感じた。
 液晶の16:9画面をぶった切って展開する4:3のトリミング映像。
 こうやって、私はまだ懐古し続けている。その中から得るもので、次の作品を作りたい。

久々。そして最新監督作品。

hellbeyond2012-10-29

川崎ハロウィンと協賛し、『スリラー』のオマージュ作品を監督しました。
ショートバージョン先行公開中!!
http://www.youtube.com/watch?v=gbuYwzqOq4g
マイケル・ジャクソンもゾンビも特殊メイクも大好物。こんな企画、ほかの監督には渡せない!

この手袋に手を通したもう一人

全く、久々に世界の腐りっぷりを、身の回りに転がる無関心を、メディアを通してでなく生でぶつけられた。
自分が作る動機ということについて書いた翌日に、早速手痛い形で思い出させられたというわけだ。何で自分がああ言った作品を作り続けるのかを。
虐待を受ける少女と、それを観ないふりをする身近の人々。
それに接した自分と相方は、勿論なにもしなかったわけではない。と言って、いまこうして文章に起こして吐き出す必要がある程度には、自分ができることを必ずしも全てやらなかった自覚もあるのだ。ああ。
そして、かろうじて口には出さなかったが、この経験を作品に反映させる昇華のしかたが自分にはある...などと残酷の極みのような思考にも逃げかけたのだ。
寒空の下、昼食ももらえず、トイレにもいけないまま駐車場で北風に吹かれていた、母親が怖くて家に帰れない5才の女の子。

自分の行動力のなさと下らない世間体、作品の為に人非人になれない中途半端さを、呪わしく思う。

自分の憂慮が、相方の心配が、杞憂であるように。
せめてこのくるしみを、書き残しておく。