その143 青春と別れるための一冊。

 のブログも断続的ながら4年くらい続けてきて、自分としては読んだ本のことをもう一度理解するためのいい機会になったり、あとで人に話すときの記憶のよすがになっていたりして、意味のある活動だった。けれどもいっぽうで、ブログってなんとなく「男らしくない」行為だなあとも思っていた。ほんとうに伝えたいことがあるのなら、時間をとって論文や批評文にしてしかるべき人の審査を受けて社会に発表したり、あるいは実際に会った人に話したりすればいいわけで、インターネット上にふんわりと何か書くのは、甘ったるい自己愛の世界から逃れられない人のすることのような気がして厭だった。
 というわけで、個人的には以上のような理由で、このブログを書くのをやめて、できた時間を仕事やら勉強やらに使うことにした。一緒に書いてきた薮氏と歩氏の考えとはまた違うかもしれないけれど、私としては今回がたぶん最後の更新です。
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 本との出会いはいつも不思議なもので、情報として知ってから自分のもとに届くまで時間がかかることがある。「面白い本」というのは世の中に無数にあって、自分が生涯に出会う面白い本はその中のごくわずかだ。だから本を選ぶときは面白さと同じくらい、自分に関係があるかどうか、ということを無意識に判断していると思う。近くにいる人がすすめてくれたから、たまたま行った場所でしか買えないから、自分の辛い境遇にぴったり合う本だから、そうやって理由をつけていろいろ読んできた。「面白さ」の理由を自分なりに見つけようとしてこのブログを始めたのだが、書いているうち、分類できる面白さの要素とは別に、その人の人生にしかない本の意味が、本の面白さを決めているとわかってきた。

 本との出会いが不思議だ、というのは、ずっとその本のことを知っていて触れてこなかったのに、この本を読むなら今をおいて他にないというタイミングでその本を買ってしまうことがあるからだ。私にとってよしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』という漫画がまさにそれだった。宇野常寛氏の批評集『ゼロ年代の想像力』で絶賛されていていつか読もうと思っていたのだが、昨日出張で行った書店でなんとなく棚を眺めていたらこの本の背だけ光って見えてきた。ちょっと大げさに言えば光っていた。冷静に書けば一度目にしたあとどうしても買わなければいけないような気がした。表紙を出して陳列されていたわけでもなく、本の背表紙を読んで納得したわけでもない。

 そして帰りの新幹線でずっと泣きながら読んでいた。冷静に書けばずっと泣いていたわけではなく、ときにくすくす顔をニヤけさせながら、ときに口を結んで涙も流さず感動しながら読んでいた。この本を読んで本当によかったと思った。

 『フラワー・オブ・ライフ』は高校生活の一年間を描いた青春群像劇だ。友情があり、友愛があり、家族愛があり、教師と生徒の愛があり、教師と教師の不倫があり、姉萌えがあり、額出しメガネっ子萌えがあり、コミケ愛があり、仕事愛があり、侠気の賛美があり、倫理規定がある。細かく書くとそれぞれの面白さが半減するような気がするので書けないが、もうどうしようもなく好きな作品だ。ストーリーだけでなく、絵もすばらしい。アップのときだけ書き込みが細かくなる登場人物の表情。読み返したときに沁みてくる、風景をきりとったなにげない瞬間のひとコマ。

 この作品が自分にとって大切だったのは、もう30をすぎたいま、自分のなかにあった青春への恋慕の気持ちへさよならを言う手伝いをしてくれる作品だと思ったからだ。この本の3巻に載っているそれぞれの登場人物が自分の青春に別れを告げるシーンの連続は大人にこそ響くと思う。本当に自分の気持ちに嘘をつかずに生きるためには、自分の気持ちを一旦捨てる覚悟も必要だと知って、それぞれの人物が自分の人生に向き合うくだりは、30代の人にぜひ読んでほしい。(波)

その142 部屋に植物を置かない人にすすめる一冊。

 年の春に同じ町内で引っ越しをして、バオバブをひとつ買った。どことなくドラクエに出てくるマンドラゴラを思い出させるずんぐりむっくりした太い幹に似合わない小こい枝が幾つもついている。

 鉢植えは買っても、切り花は買ったことがない。この差はなんだろうと思っていたら、先日読書をしているとき、花は虫に受粉させるために存在するのだと知った。だから切り花を飾るのは、ステキな振る舞いだとは思うけれども、なんとなく自然に反する行為に思えてしまう。
 そんな思念を生んだ本の名は、ローワン・ジェイコブセンというジャーナリストが書いたミツバチについてのレポート『ハチはなぜ大量死したのか』である。書名だけ見ても、それがどうしたのかと思った。ハチの生き死にと私の人生に関係などないような気がした。私がこの本を読んだきっかけは作家の貴志祐介氏が薦めていたからだ。氏は以前に14歳に向けたブックガイドでリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を強く推薦していて、それをきっかけに私も同書を読み、強い感銘を受けたというか、人間観を覆された。だから氏の推薦するノンフィクションだったら間違いないと思って読んだ。解説が福岡伸一氏というのも自分の好みに合っている。

ハチはなぜ大量死したのか (文春文庫)

ハチはなぜ大量死したのか (文春文庫)

 この本の原題は"Fruitless Fall"(『実りなき秋』)で、レイチェル・カーソンの"Silent Spring"(『沈黙の春』)をもじったタイトルになっている。この本はハチについての報告にとどまらず、カーソンの本と同様に私たちの食物生産に対する企業努力は間違っているのではないかという問題提起と、自然への理解、敬意を促す主張がある。
 ハチは受粉昆虫である。この基本的な事実を私は全然わかっていなかった。せいぜい花の蜜を吸ってそれをお尻にためこんで、集めたものをプーさんがなめつくす、というイメージしか持っていなかった。ハチが大量に死ぬと、ハチに受粉を媒介してもらっているアーモンドやリンゴやトマトやブルーベリーも繁殖できない。ハチが死んでも果実の収穫量を変えたくない場合は、誰かがその代わりをしなくてはならない。この本によると、大量の殺虫剤を撒いた中国の四川省では梨を収穫するために数千人の労働者が駆り出されているそうだ。
 2006年の秋から2007の春までに、北半球から4分の1のハチが消えた。巣に帰らず死んでしまったらしいのだ。この「事件」の犯人を探し求める形で記述は進む。容疑者は沢山いる。イスラエル急性麻痺病ウイルス、真菌によるノゼマ病、ミツバチヘギイタダニ、ネオニコチノイド系農薬、などなど。
 誰が犯人か、ということも大事だが、そもそも犯人を捜すうちにミツバチがかわいそうになってくる。ヤンキーだらけの学校でいじめっ子を捜しているような果てしなさというか、もはや問題は個々の不良ではないだろうという気がしてくる。

 数週間ごとに新しいところに連れていかれ、糖度の高いコーンシロップで気合いを入れられ、殺ダニ剤と抗生剤を投与され、寄生虫に襲われ、外来種の病原菌にさらされて、どんどんぼろぼろになっていった。私たちと同じように、ミツバチもストレス要因の一つや二つは振り払うことができる。ダニがいたり、食事がほとんどとれなかった日などがあっても、何とかしのいで正常な暮らしが営める。けれども、ストレス要因が累積し、それがずっと低く鳴りつづける太鼓のとどろきとなって毎日毎日襲ってくると、被害は、免疫系の抑制、生殖作用の抑止、寿命の短縮、正常なコロニーの発展の阻害という形をとって次々と現れだす。そして、崖っぷちまで追い詰められたミツバチは、最後のストレス要因い一押しされて転落死してしまうわけだ。

 この記述を読んで、私は他人事ではないなと思った。ミツバチというより人間の都市生活について書いてあるような気さえする。アスピリン抗生物質なしに風邪から立ち直ることの面倒くささとか、田舎暮らしの治安の悪さとか、ミツバチと自分の環境に似ているところがありすぎて怖い。工業生産ありきの時代とどう折り合いをつけるべきか、というのがこの本の大きなテーマだと思う。
 まあそんな壮大な話はさておき、読んでみて、ハチミツを買うときには産地にかなり注意しようと思った(特に中国産)。それからネオニコチノイド系農薬の引き起こすミツバチの神経障害と、パーキンソン病アルツハイマー病の症状が同じ種類のものだと書いてあったところが非常に恐ろしかった。

 しばらく蜂に注意を払ったおかげでわかったことがあるとすれば、それは、生産的な土地と非生産的な土地という白黒で物事を判断するような誤った考えは捨てるべきだということだ。非生産的な自然の土地などないのだから。あるのは、それが私たちに貢献しれくれているさまに気づかない人間の洞察力の欠如だ。私たち自信が何を必要としているかに気づかない人間の想像力の欠如だ。

 何かを食べて、あまり味がしないとか、食べたあとやたらと喉が渇くとか、どうも調子が悪いとか、そんなときに体の内側にあがってくる言葉にならない違和感の原因が、この本を読み進めるうちに少しずつ見えてくる。そのことが面白かった。(波)

その141 猛暑に心頭滅却したい人にすすめる本。

 が暑い場合、夏を殺してしまいたい人と、夏を涼しくする人と、夏が終わるまで待つ人がいると思う。私は根が姑息なのでこういう場合も真ん中の秀吉的態度で夏に立ち向かう。よく、エレベーターの中などで隣にいる人との会話に詰まるとさりげない調子でお暑うございます、などといえる人がいるが、私はあれが苦手である。いつまでたっても「暑いですね」が上達しない。それはおそらく私の潜在意識が夏を敵視しており、暑い夏にクールな発言をここで何とかふり出したいと願っているのに、ただ暑いといってしまってはただの現状追認ではないかと警告するからだと思う。
 私はまた根がグレーなので、気を抜くとすぐ意識がここではない、どこかへいってしまう。だから正月に正月らしいことをするとか、大型連休に海外旅行するとか、お盆に里帰りするとか、クリスマスにパーティバーレルを予約するとかいうことにいつも後ろめたさを感じる。しかしイベント死ね死ね団を結成して別の行動をするかというとそうではなく、皆に追従しながら後ろめたさを感じて悦にいっているというあたり実にグレーかつ卑小だ。
 簡潔に言うと、私は距離を楽しむのが好きだ。だから暑いときには冬を思って心のなかでひっそり巣ごもりし、冷える日にはなるべく陽気に笑って踊ったりしたい。夏にかき氷を食べることは普通なのだから、暑い日に涼しい音楽を聴いたり、凍てつくような物語を読んだりすることは精神の涼化に意味のあることだと思う。
 涼しい小説、としてすぐに思い浮かぶのはスチュアート・ダイベックの『シカゴ育ち』の冒頭に収録されている「ファーウェル」という短編。わずか四ページの短い話ながら、いちど読むと雪景色の情景が記憶からずっと消えない不思議な話だ。シカゴの北の街ファーウェルに住むロシア人の大学教授から自宅に招待された「僕」が教授の家に向かう途中に見た景色の描写がとてもすずしい。

 雪が歩道や縁石の輪郭を消し去っていた。桟橋も道路のつづきのように見えた。まるでファーウェルがそのまま湖までつき出ているみたいだった。僕は灯台の光の方に歩いていった。波としぶきに削られた氷が、甲羅のよう桟橋を覆っていた。安全用ケーブルも灯台の塔も、氷のさやに包まれていた。何もかもが凍りついた静けさのなか、浮氷の下で湖がきしむのが聞こえた。桟橋がぶるっと震えるのが感じられた。

 翻訳者の柴田元幸氏は「自分が訳した作家のなかでダイベックが小説家としては最高だと思ってるんです」と語っている。その理由は「ダイベックの登場人物たちはみんな、脇役であっても主人公と同等の存在意義を持っている」ところにあるという。「どの人の人生もその人にとって一分の一なんだってことがよく伝わってくる。そういうものを本物の小説だと定義するなら、やっぱりダイベックがいちばん本物の小説家だろうって僕は思うんです」。(『翻訳文学ブックカフェ』インタビューより)
 また須賀敦子氏は『シカゴ育ち』を評した文章で「読みすすむうちに、読者はシカゴも東京もわからなくなり、本のなかの都会にしっかり根をおろしてしまう。ダイベックの街は、世界中すべての都会育ちの人の、ほんとうの故郷だ」と書いている。
 私も、夏になるとこの小説の冒頭の「ファーウェル」を読みたくなり、冬になると最後に収録されている「ペット・ミルク」を読みたくなる。そして読み返すたびに訪れたことのない新しい街の風景に出会い、なんだかほっとする。
 最後に、涼しさを感じる音楽もひとつ記しておきたい。ipodに入れる夏用のプレイリストを作ろうと思って買ったベニー・シングスベスト・アルバム。この人の音楽は一音一音がどうしてこんなに綺麗なんだろうと聴いていると思う。なかでもオリジナルアルバムには収録されていないクリスマスソングがとてもよかった。この2週間、聴かない日はないくらい繰り返し聴いている。通勤中の地下鉄で座ってイヤフォンで聴いていたら涙が止まらなくなったので汗のふりをしてあわててタオルハンカチで拭いた。(波)
ベスト・オブ・ベニー・シングス

ベスト・オブ・ベニー・シングス

その140 自分の時間をあざやかにする本。

 の営業をしていると、自分が担当している店が閉店するというのは悲しい。とりわけ私にとってつらいのは、同じ棚をもう見ることはないのだ、と思うときである。その棚には、店の人のおすすめと、人気であるからという理由でおいてある本が示すお客さんの好みと、店にまわってくる営業担当の気まぐれな商売根性の痕跡などの有象無象が入り交じってうごめいている。だから厳密には一日として「同じ棚」というのは存在しないのだが、本の商売をしている人になら、その棚には入れ替わる商品の裏側に潜む棚のイデアのようなものが確かにある、と信じてもらえると思う。
 もうすぐ店が閉店します、と聞いたときに私がよくとる行動の一つは、そこで本を買うことだ。思い出作りの勝手な行動といえばそれまでだが、もうそこで本を買えないとわかったとたん、いつもは見過ごしていた良書とめぐり合ったりするから悲しい。
 同じ紙、同じインク、同じ包装紙にくるまった物質に意味が現れる。私は本を読みながら、その本が自分の時間のある瞬間に焼き付けられるのを感じる。私は本のことを大切だと思う。私は、本を通じて、私のなかの時間が意味づけられるのを知る。だから、私は店で良書を買ったのではなくて、ほんとうは本によって私の時間が良いものになった、というべきなのだろう。

 先日、出張先でいつも寄っていた書店がしばらく休業すると聞いて、一冊のエッセイを買った。向田邦子の随筆を、小池真理子が集めたものだ。そこには、おいしいごはんの話が書いてあった。向田邦子さんがいちばんおいしかったごはんは、空襲に遭って、焼け死ぬ人々を見た翌日に家族みんなでヤケになって炊き上げた白米の味だったという。その次においしかったごはんは、自分が小児結核にかかったことを家族が知って、もうすぐ死ぬかもしれないからと無理をして食べさせてくれた鰻丼。「甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死ににかかわりあった」ごはんが、ずっと記憶に残っているのだと書いてあった。
 味がする、というのはどういうことか、本を読んで面白いというのはどういうことか。それは栄養や情報が体に行きわたるということとは別に、自分の生きている時間というものを痛切に感じることだと、読んでいて思った。(波)

その139 かっこ悪くなりたいと思ったときに読む本。

 のところ痛切に思うのは、自分のマイナス要素の正しい表現方法は自分で学ぶしかないということだ。勉強ができる、勝負に勝てる、お金がもうかる、求愛される、世界中で必要とされる、そんな方法を教えてあげましょうとささやきかける人たちはいつの世にも沢山いると思うのだが、自分のどうしようもなくイヤな部分を表現しても人に迷惑をかけない方法を親身になって教えてくれる人を見つけるのは難しい。
 でも、大人になって本当に必要なのはそういう才能ではないだろうかと思う。適度に人にバカにされながら、笑われながら生きる毎日のほうが、ほれぼれされながら生きる人生よりも健全だと思う。自分の正の評価のためにする努力と、じつは同じくらい負の評価のためにも努力が必要なのに、それに気づくのに私は時間がかかった。それでこうして、誰にともなく反省文を書き付けているというこじらせぶりだ。
 お笑い芸人というのは「負の評価」を笑いに転じて芸としている人だから、学ぶところはある。けれども自分と欠点がぴったり同じ人というのはいないから、そのあたり勝利のルールが決まっている正の評価とは違う。自分の欠点の表現で明確な勝ち負けを判定されることはない。だから自分なりに自分の欠点に納得しつつ、周囲の人にそこそこ笑ってもらうという微妙な勝利を続けるしかないのだが、この大変さをもっと早く誰かに教えてもらいたかった。

 「かっこ悪い自分」を出してもなおいい感じの人、といって私の頭にすぐ浮かぶのは大泉洋だ。先日「探偵はBARにいる2」を観に行って、やっぱりいいなあと思った。それで売り切れしまくっていたエッセイを重版が入った日に即買いして学んでみる事にした。大泉洋はたぶん大泉洋に憧れることはないので、この選択をした時点ですでに大泉洋になるためのメソッドとして間違っているのはわかっているのだが、それでもやはり大泉洋に触れたくてしかたがなかった。 読んでみて、参考になったかはさておき、気になったのは口調の使い分けがうまいなあということだ。基本的には男らしく断定口調なのだが、ときどき語りかけるようなくだけた言い方や、ですます調も混じっていて、なんだか人柄を想像させるいい文章。自分が痔であることを書いても下品な感じがしないというのはこの人ならではだと思う。そしてTEAM NACSの絆の強さにあらためてほれぼれした。尻で割り箸を割るという行為に真剣になれる大人たちってカッコいいと思った。

 さて。本当に自分の欠点の表現をどうにかしたいと思っている人におすすめしたい本がある(本題)。それはAV監督の二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』。話題のこの本、買うのがちょっと恥ずかしく、顔馴染みの書店さんに「資料っす」とか言い訳しながら切りもしない領収書を発行してもらって買ったのだが、それだけの価値はある本だった。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 これはモテるための本を通り越して、コミュニケーションの倫理について語ったまっとうな本です、とか私にはいえません。いくつになってもモテたいと思っているカスな男に猛省を促す良書だと思います。解説で上野千鶴子さんも書いていますが、この本は次のような至言を正しく理解するためだけにでも読む価値があると思います。

 人は【心のふるさと】を持っていることで、恐れずに「相手と同じ土俵に乗りやすく」なれます。
 心のふるさとを「ちゃんと持ってる」人、自分「何を好きなのか」「なにをしたいのか」わかっている人は、それを相手に押しつけなくても、自然と伝わります。

 「自分には好きなことがあって、自分はそのことに誇りをもってるんだから、自分は大丈夫」という自信を、自分のなかにしまっといて、他人には(狙った女にすら)軽々しく自慢したりしないのが、かしこい人間の「誇り」なのです。
 もしもあなたが首尾よく「かっこよくなりすますこと」に成功しても、「一見かっこよくても自分を持ってない男」のキモチワルさは、わりとすぐバレます。
「自分を持つ」というのが具体的になんのことだか、よくわからないから、とりあえずマニュアル本にある「かっこよさ」を追求してたんでしょう?
「【心のふるさと】を持ってる=自分の居場所を持っている」ということは「俺についてこい」とか、人と意見が合わない時に自分を譲らないことではありません。「エゴが強い」「我が強い」というのとは逆のことだと思ってください。
「自分の居場所」があると、自分と相手の関係性において、本当にいい状態がわかってくる、だから相手に優しくできるのです。
 簡単でしょ? とは言いません。(中略)
 好きなことを、自分で見つけてください。

 【あなたの居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れているところじゃなくて【あなたが、一人っきりでいても淋しくない場所】っていうことです。

 なんだか唐突な語りになってしまったけれど、対人関係、というか対自分関係に悩んでいる人にとって、この本はほんとに名著だと思います。ぜひリアル書店で恥をしのんで買ってみることをおすすめします。(波)

その138 馬鹿フェチに捧ぐ一冊。

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

 の本を翻訳している行方昭夫(なめかたあきお)さんの名前を読むと、私はつい、この人はなめ専だろうかという思念が一回頭をよぎる。なめ専とは、読んで時の如く「なめ専科」ということである。中学生の頃、釣具屋に仕掛けを買いにいくと「クロ専科」「キス専科」など釣る魚によって針や糸のサイズが違うものが売られていたが、大人の世界にも「ブス専」「フケ専」「デブ専」など狙うターゲットによって人を分類する言葉がある。その点「なめ専」はターゲットではなく釣り方による分類なので釣り具の喩えでいうならば「ブッ込み専科」「フカシ専科」「ジェット専科」などと同じ仲間に入るだろうか。なんだか実在する釣り具なのにこうして改めて字にすると卑猥な感じだ。

 なぜ、行方さんの名前から「なめ」を連想してしまうかというと、会社の先輩が酔った勢いで隣にいた同性の耳をなめてしまい、それからのその人は一部の筋から通称なめちゃんと言われていたという話を先日居酒屋で耳にしたからである。フルネームにひとつもかすりもしないニックネームなのでまさかと思って尋ねてみたら、やはりその先輩はなめちゃった男だった。

 サマセット・モームの翻訳者として行方さんの名前はよく知っていた。だからこの人の訳文なら間違いないだろうと思って読んだ。この「イギリス・コラム傑作集」には20世紀前半に、エッセイストとして名を馳せた4人のイギリス人の文章が収録されているのだが、『くまのプーさん』の原作者ミルンが書いたエッセイが、説教臭さがなくてすばらしいと思った。エッセイにもかかわらずほとんど作者の妄想が書いてあり、しかも最後まで飽きさせない技術と勢いがある。気に入ったところを抜粋すると、こんな感じ。

 今日人々が日記をつけない理由は、誰にも事件らしいものが一つも起きないからではなかろうか。もし次のように書ければ、日記をつける価値が生まれるであろう。

 月曜日「今日も胸躍る日だった。通勤途中でフーリガンを二人射殺し、警察に名刺を渡すことになった。役所に着くと、建物が延焼中で驚いたが、英国スイス間の秘密協定の案文を運び出す余裕はあった。これが万一世間に知れたら、戦争が勃発する可能性高し。昼食に出ると、ストランド街で逃げ出した象を目撃。その時は気にもとめなかったが、夜になって妻に話したところ、妻は日記に記す価値ありと言う」

 この本の解説によると、イギリスのエッセイストといえば、第一人者はチャールズ・ラムという人なのだそうだ。彼の代表作『エリア随筆』には以下のような記述がある。

 真面目に読者よ、私は一つの真実を君に告白する事にする。私は馬鹿が好きだ——私が生まれつき馬鹿の近親であったかのように。(「萬愚節」戸川秋骨・訳)

 私も同感だ。モンティ・パイソンがイギリスから生まれたのは、この辺りの感覚と関係があるのではないかと思う。(波)

 

その137 もうエッセイしか読みたくないあなたへ。

 の祖父はせっかちで、車を運転していきつけの中華料理屋「一品香」に行く際には必ず車中でその日の全メニュー進行を考えさせられた。店に着くまでに注文する料理を決めておかねば気がすまないらしいのだ。その遺伝子を四分の一程度引き継いでいる私もそこそこせっかちで、長編小説なんて本当はドストエフスキーくらいの歴史的評価がないと読みたくない。市町村名なら「津」がいちばん好きだ。だからこんなどうでもいいことを書いているとしだいにテンションが下がってくるので、本題に入る。

 面白いかどうかは最後までよく分からない与太話=小説を読む気がおきない時に私はよくエッセイを買う。そんな日が一年の半分くらいあるので必然的にエッセイばかり買っている。ただエッセイはなめられがちなジャンルで、有名な小説家やタレントがたいして面白くない雑文を書いてそれが発売されているという様な例も世の中にはたくさんある。だから素敵なエッセイを見つけるのはけっこう難しいというか、ヒット率を高くするためにはそれなりの狡さをもって選ばないといけない。そんななか、最近出会って心の芯にハードヒットした本が、物理学者の中谷宇吉郎が書いた随筆を生物学者福岡伸一が集成した『科学以前の心』である。

 中谷宇吉郎のことは知らなかった。1900年生まれ、1962年没。雪の結晶の研究で名をあげ、世界初の人工雪製作に成功。プロフィールにある「低温科学に大きな業績を残す」というフレーズがぐっときた。低温科学という言葉の響きの草食な感じに憧れる。
 でもこの人の随筆を読もうという気になったのは、やっぱり選者が福岡伸一だったからだ。新書『生物と無生物のあいだ』の随所に見られる福岡氏の言葉萌え感覚、ああこの人カタカナの並びにシビれながら書いたんだろうなという感じが私はとても好きで、それはたとえば「アンサング・ヒーロー」や「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」みたいな章題の付け方に顕れている。また福岡氏はかつて「文学界」の対談で、須賀敦子さんを文章の師として挙げていた。私も須賀敦子の日本語信者のひとりなので、これは間違いなかろうと思って買ったのである。
 果たして、その予感は当たりに当たり私はこの本を喜悦にうち震えながら読んだ。ページの上でめくるめく垂直の大騒ぎが起きた。ちょっと大げさに書いたが素晴らしいと思ったのは本当で、毎朝、起きて朝食を作る前か、通勤電車で座れたときに、二本ずつ読むのが楽しかった。文章に隙がなく、それでいて明るいユーモア感覚があるので読んでいてとても気持ちがよかった。冒頭の一節が象徴的だったので引用する。

 この頃新聞を見ていて気の付いたことは、スキーと雪の記事がこの数年来急に増してきたことである。主なものはスキー地の広告のようであるが、その他に純粋に雪と冬の山とを讃えるような記事もかなりたくさんあるように思われる。何でも東京は山の雑誌が十種ばかりも出されていてとにかくそのどれもが刊行を継続されているし、雪の朝は郊外電車がスキー車を出すという噂さえきくほどである。誰かがいわれたように氷雪を思慕するというような心情が吾々のどこかに秘められていて、その一つの現われと見られる現象であるかも知れない。もっとも日本人が脂肪質をたくさん喰べ、毛織物を一般に用いるようになったためかとも考えられる。

 『科学以前の心』というタイトルから、科学以前の心を私たちは取り戻しましょうみたいな内容かと想像した人は残念ながら違う。ナカヤさんは科学的な心の持ち主である。本のタイトルになった随筆「科学以前の心」には、この世には科学以前の心を持った人たちが多数暮らしているので、まずはそのことを自覚しましょうというナカヤさんの主張がある。

 非科学的というのは、論理が間違っているか、知識が足りないことに起因する場合が多い。どんなに間違っていても、とにかく論理のある場合には、その是正は可能であり、知識は零から出発しても、いつかは一定の量に達せしめることができる。しかし科学以前の考え方は全く質の異なったものである。それは抜くべからざる因習に根ざしているか、それ自身に罪はないがしかし泥のような質の無智か、または自分にも意識していない一種の瞋恚(しんに)に似た感情が、その裏付けをしている場合が多い。

 この文章が書かれた1941年と2013年現在を比べてみると、科学の考え方が世の中に及ぼす影響はずっと大きくなったかも知れないけれど、科学的な考え方をする人が世の中に増えたわけではなかろうと思う。では、科学的な考え方とは何か。上に引用した文章にあるように、論理的であろうとすること、正しい知識を得ようと努力することなのだろうか。それだけではないとナカヤさんは書いていて、その部分に私は大変感激した。

 本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむずかしい。

 この世の中がどうやったら面白く不思議に見えるだろうか、という問いに誠実に向き合った科学者の文章を読むことは、例えていえば冷たい水で洗ったばかりの眼鏡をかけるような感覚で、とても気持ちがすっきりします。(波)