こんなときにも教育者(パート3)

こんなときにも教育者:シリーズNo.12 ソーシャル・サポート
 被災すると,とてもありがたいのが,世界中から多くの支援をいただいていることですよね。心身ともに助かります。社会的なネットワークのなかで行われている支援をソーシャル・サポートといいます。このソーシャル・サポートは,研究者によって定義も内容の分類も異なるようなので,以下の説明も間違っているかもしれません。
 さて,ソーシャル・サポートです。いま,福島市内も,多くのトラックや自衛隊の車両が,水や食料,毛布などの生活救援物資を運搬していますよね。このような物資や情報などのサポートを道具的なサポートといいます。何かの目標を達成するための道具や手段として機能するということになります。
 たとえば,生きていくための道具として食べ物が機能しますよね。ぼくの授業の単位を取るときには,友だちのノートが大切な道具となる。このように道具的なサポートが有効に働くかどうかは,相手の状況,つまり何を必要としているかにかかっているのです。断水しているときには,水は貴重なサポートにありますが,水道が復旧した後では,水をサポートしてくれても,邪魔になるだけです。単位が取り終わってしまったら,ぼくの授業のノートはゴミと同然ですよね。
 だから,道具的なサポートを提供したいと思うときには,相手の状況をきちんと理解したり確認したりすることが大切になります。今,何を必要としているか,被災者たちの情報にきちんと耳を傾けてください。
 これにたいして,声援したり,はげましたり,行為や愛情を示したりといった支援の側面を「情緒的サポート」といいます。「pray for Japan」も情緒的サポートになります。
 もちろん生死がかかっているような緊急性の高い状況においては,道具的なサポートが大切です。こんなときに「たいへんだねぇ」と心配されても,かえって迷惑ですよね。だから,緊急性が高いときには道具的なサポートを優先して欲しいと思います。
 ただ,少しずつライフラインは復旧してきたので,クラスのみんなのなかには,少し落ち着いてきた人もいるかもしれません。そのようなときには,「誰かに励ましてもらったり,気に掛けてもらったり,暖かい言葉をいただいたりする」とことは,とても嬉しいし,ありがたいですよね。元気をいただける気になります。
 つまり「道具的なサポート」は時と場合によって必要性が異なる状況依存的なサポートになりますが,「情緒的なサポートは」(緊急時は別として)比較的,状況に依存していないサポートになり,人間にとって,どちらも大切な働きをしていることになります。
 クラスのみんなは,今は,ソーシャル・サポートを受け取っている立場の人が多いと思います。「自分は何もすることができない」と苛立っている学生もいるかもしれません。ただ,被災地に乗り込んで物資を配給することだけがソーシャル・サポートではないのです。それらは,プロフェッショナルに任せるべきです。暖かい言葉かけをすることも,相手によってはとても大切なサポートになります。ぜひ,無茶をしないで,自分のできる範囲で,きめ細やかなサポートをしていってください。

こんなときにも教育者:シリーズNo.13 共感性
 他者の感情を理解しようとし,共有しようとすることを共感といいます。英語では(  )といいます。にこにこしている人を見たら,「この人は嬉しいのだろう」と思い,「自分も嬉しく」なることが共感ですが,他者の感情を共有するかどうか(この場合,「自分も嬉しくなるかどうか」)は相手との関係や状況によって変わるので(サッカーの試合などで,ライバル・チームが勝った姿を見て,彼らが喜んでいることは理解できても,彼らと一緒に喜べませんよね),少なくとも「他者の感情を理解しようとすること」を共感性と言うことが多いようです。ただし,「理解しようとする」だけではだめで,それが「正確である」ことも重要なようです。「泣き笑い」している姿を見て,「嬉しいのか,悲しいのか正確に見極める」ことが共感性の高さになります。
 この共感性は,発達的に獲得していくようです。ホフマンという心理学者は,子どもたちは,最初は自分の感情を他者に投影する段階があり,自分が嬉しいと他の人たちも嬉しいと思っているようであるが,徐々に,自分と相手の感情は異なることを理解するようになり,発達にともない,たとえ自分と異なっていていたとしても,相手の感情を理解できるようになることを示しています。
 さて,震災です。クラスのみなさんは,今回,被災してみて,大阪・兵庫を中心とした関西圏の人たちの支援がとても早く,また,的確であることに驚いた人たちも多かったと思います。そうです。共感の成立には,共通した(類似した)過去経験が大きな影響を与えていると考えられるのです。関西圏の人たちは,不幸にも阪神・淡路大震災を経験されてしまいました。この経験を持っているので,今回の私たちの被災について,その苦労や苦痛を共感的に理解してくださることが可能になっているのだろうと思います。
 ただ,たとえ類似した経験がなくても,想像力を働かせれば,今回の被災者たちの苦労や苦痛は理解できるはずです。自分がいじめられた経験がなくても,想像力さえ働かせれば,いじめられた子どもがどんなに苦しいか共感できるはずです。いつも威張って偉そうなことを言っていた某都知事の被災者への想像力の欠如や共感性の低さはあきれるほどですが,反面教師かもしれません。クラスのみんなは,想像力を働かせて共感性を育んでいってくださいね。

こんなときにも教育者:シリーズNo.14 返報性
 もうひとつ関西の人たちが,よくおっしゃっているのが「私たちが困っていたときは,助けてもらったから,お返しや」という言葉ですよね。また,諸外国の人たちも,「私たちが困っていたとき日本は助けてくれた。だから,今度は私たちが日本を助ける番だ」と伝えてくださっています。
 私たちには,助けてもらったら助けるとか,相手が自分のことを話すと自分も相手に自分のことを話すようになるという強い傾向があります。この傾向を返報性といいます。英語ではreciprocityです。
 なぜ,このような返報性が生じるのかというと,いろいろな説明があるのですが,そのひとつが,私たちには「返報性の規範」が成立しているというものです。受け取ったら与えなければならないという一種の社会的なルールや基準のようなものがあって,この規範が,さまざまな社会的行動に影響しているというものです。
 この返報性は,たとえば,サークルの先輩からおごってもらった分を,自分が先輩になったときに後輩におごるという行動としても現れる場合もあるようです。みなさんも,そんな経験していませんか?
 「相手が自分のことを話すと自分も相手に自分のことを話すようになる」というのは,自己開示の返報性といい有名ですが,もっと有名なのが「好意の返報性」という現象です。「好きになってもらった人を好きになる」とか「好きになるとその相手から好かれる」というのが好意の返報性になります。中学生のときとか,「好きになってもらった人を好きになる」といったことありませんでしたか?青春の甘酸っぱい想い出ですよね。
 ただ,ぼくの場合,残念なことに,「好きになるとその相手から好かれる」という経験はあまりありませんでした。下心があったのを見抜かれてしまっていたのかもしれませんね。
 関西の人たちや諸外国の人たちの援助行動の背景には,返報性が大きく影響しているのかもしれません。ただし,私たちが直接援助してこなかった人たちからの援助もたくさんいただいていますので,全部が返報性によるものではないと思いますよね。
 福島県の人たちに怒っている人が多いのは,「福島県は東京都のために原子力発電所を設置して電力を供給してきた(そのかわり,多大な補助金をいただいていましたが)。だから,今度は東京都が福島県を助ける番のはずなのに,なぜ東京都は何もしれくれないのだ」という規範にそぐわない感じを東京都の対応に受けているからかもしれません。
 いずれにしても,ふだんからの他の人たちを好きでいたこと,困っている人たちを助けたことが,めぐりめぐって,自分たちにも返ってくることを知ると感動しませんか。ふだんからの行動が大切なのですね。

こんなときにも教育者:シリーズNo.15 内集団と外集団
 先ほど,「私たち福島県民は,あなたがた東京都民に怒っている」といった例をあげました。これは単なる例ですので,その正誤を問題にしないでください。この例で説明したいのは,ここでは,「わたしが所属している集団」と「わたしが所属してない集団」とが相対化され認知されているとうことです。「わたしが所属している集団」のことを「内集団」といいます。英語では,(  )です。この内集団と比較されたときの「わたしが所属していない集団」のことを「外集団」といいます。英語では,(  )です。
 内集団や内集団の成員に対しては,人々は特別な行動を取ることが明らかになっています。たとえば,「われわれ感情」というのをいだきます。同一視と一体感の感情が生まれるのです。また,内集団の成員にたいして,成員の利益を増すような行動が生まれることがあります。内集団成員にたいする一種のえこひいきのような行動なので,「   」といいます。英語では,(   )です。
 このひいきは,すごく簡単に生ずることがわかっています。たとえば,たまたま同じ避難所に避難している人たちのなかにも生まれます。「私たちの避難所」と「それ以外の避難所」が相対化され,「私たちの避難所」の人たちへのひいきとなる場合があるのです。
 このひいきが内集団にたいしてだけ起こるのでしたら,あまり問題はないのですが,危険なのは,「   」の背景に外集団にたいする敵対性や排除性が生まれてしまう場合があることなのです。
 シェリフという人は,子どもたちのサマーキャンプを利用して,子どもたちをふたつのグループにわけました。すると,子どもたちはだんだんと自分と同じグループの成員には好意的な行動を示すようになってきたのですが,同時に,相手グループの成員に敵対な行動,ときには暴力的とも言えそうなくらいの行動を示すようになってしまったのです。
 では,このふたつのグループが仲良くなるにはどうしたらいいと思いますか?
 シェリフは,最初,ふたつのグループを一緒に過ごしてもらえば,仲良くなるのではないかと考え,いろいろな活動を一緒にさせるようにしてみました。すると,どうなったでしょう?
 その結果,ふたつのグループは,ますます敵対してしまったのです。一緒に鑑賞していた映画の上映を途中で止めざるを得なかったくらいだとのことです(たぶん,このあたり資料がないのでふたしか)。
 次にシェリフは,ふたつのグループが協力しないと目標が達成できないような事態を作りました。たとえば,給水車から給水するためには,ひとつのグループではだめで,ふたつのグループが協同することで始めて目標が達成できるような事態を設定したのです。これにより,ようやくふたつのグループのあいだに和解的で友好的な雰囲気が作られていったそうです。
 クラスのみなさんのなかにも,「自分たちは」と内集団を特定し,それに同一視している人もいらっしゃるかもしれません。内集団は自分を安定させたりするには,とても大切な役割を果たしています。しかし,内集団を特定するということは,同時に外集団を設定していることにもなりかねません。そして,内集団への好意的行動だけでなく,外集団への敵対的な行動さえ誘発されかねないのです。
 いまは,内集団だけを大切にしている場合ではありません。人類全体が内集団ともいえるような危機的な状態なのです。敵対的な行動は慎んで,大きな視点で自分の集団をみていってくださいね。