「とても」は本来、否定を伴う語法だったとは!

(第328号、通巻348号)
    
     「とても」という副詞を「全然」との関連で本ブログに取り上げたのは6年前のことだが、正直に言えば、とても、が本来は打ち消しを伴う一種の“予告副詞”だということをそれまでは深く認識していなかった。だから、『日本国語大辞典』第2版(小学館)に芥川龍之介が『澄江堂雑記』(1924年)で
  「『とても安い』とか『とても寒い』と云う『とても』の(が)東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。(一部略)従来の用法は『とてもかなはない』とか『とても纏(まと)まらない』とか云うように必ず否定を伴ってゐる。肯定に伴う新流行の『とても』は三河の国あたりの方言であらう」と書いているのを知って“とても”驚いた。

   今回は“予告副詞”の焦点をしぼるつもりだが、その前に、「とても」の辞書的な意味・用法を調べよう。

    『広辞苑』(岩波書店)や『大辞林』(小学館)などの国語辞典には、「とてもかくても」の略」と原形を示して、次のように語義が挙げられている。
  「(下に打ち消しや否定的表現を伴って)否定的な意味を強調する気持ちを表す。どのようにしても。なんとしても。どんなにしても」「そんなひどいことはとてもできない」「とてもだめだ」などと多用される、とある。

    他にも二つほど語義が述べられているが、私が注目したのは、「下に否定的な意味を強調する気持ちを表す」点だった。この用法が広まれば、文の最後まで読まないと、肯定、否定、推量など結論的なものの予測が付かず、聞き手をいらいらさせる。日本語の使いにくさの典型例だ。

    金田一春彦は名著『日本語教室』(ちくま学芸文庫)の中で、(いささか事例は古いが)駅のホームでのアナウンスの例を引いている。
  「新潟行き急行がまいります。この列車は、途中、大宮、熊谷、高崎、渋川、沼田……」。ホームで待つ人たちは「いったい、電車は沼田に止まるのか素通りするのか」と不安にかられる。今時は少し工夫をこらしてこんなひどい例はあるまい。これなど最初に
  「この列車の途中止まる駅をお知らせします。止まる駅は、大宮,熊谷、高崎、渋川、沼田……」と、耳で聞いてすぐ分かるようにしておけばよいのだ。要は「予告」の重要性である。

    昭和中期に出版され話題を呼んだ『新版 悪文』(岩淵悦太郎編著、日本評論社)はこんな記述を残している。
  「副詞にはきまったおさめもの(終わり方)がある。たとえば、『決して』とあれば、下には必ず打ち消しがなかければならない。『決して悪いことをするんだぞ』と言うことはない。一部の副詞(陳述の副詞と言われる)は、このように先に表れて、結論がどういう形なのかを予告する働きを持っている。すなわち、『決して』とあったら、なにか否定的なもの、禁止的なものがあとにくるな、ということが受け手に予告され、受け手もその心がまえをする。ところが、それが通則と違うと、受け手に心理的ショック、つまり、コミュニケーションの一種の障害を起こす」。

    同書は「だからこそ、陳述の副詞は法則(通則)通りにおさめなければならないわけだが、この法則も年とともに変わる」と説明した後、“変わる”の典型として挙げているのが「 とても」なのである。

    「とても、は、昔は、後ろには必ず否定が伴わなければならない陳述性を持っていた(たとえば「とてもでない」など)。しかし、いつごろか、この傾向が薄れて、今は必ずしも後ろが否定でなければならないということが、なくなってきた(たとえば、「とてもきれいだ」と言い得るようになった)」と指摘する。

    いつごろから変わってきたかは芥川のように断言できないが、下に伴う言葉が肯定になるのか否定になるのか、あるいは推量、驚嘆になるのか事前に推測できないようでは落ち付かない。とても、が“両刀遣い”だったとは「全然」予測していなかった。これでは予告副詞の役は果たせない。

「忘却」と「失念」

(第327号、通巻347号)

    「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」。1952年(昭和27年)から翌年にかけ放送されたNHKの連続ラジオドラマ「君の名は」の、有名な冒頭のナレーションである。明治時代、石川啄木に「さいはての駅に降り立ち……」と詠われた北海道・釧路の片田舎の小学生が「忘却」もせず覚えているのだから、毎週木曜夜の放送日には雑音混じりの“真空管ラジオ”にかじりついて聴いていたのだろう。しかし、このナレーション、叙情的な詩の響きはもつものの、よくよく字句をみれば、単なる同語反復にほかならない。原作者の菊田一夫の魔術にのせられたわけだ。

    「忘」の関連で思い出すのは「失念」という単語である。うっかり忘れることをちょっと気取って言う感じがある。「“失念”と言えば聞きよい“物忘れ”」と、川柳で冷やかされる通りだ。このブログを書いている私自身、居間で「失念は辞書ではどう説明しているのだろう」と気になり、各種辞書に当たるため自分の書斎に一歩足を踏み入れたとたん、何をするためにこの部屋に来たんだっけ、と考え込んだ。ほんの1、2秒前のことを忘れてしまい、思い出すまで一苦労した。今回に限らない。最近は毎日「失念」の連続である。「失念とは一時的な物忘れである。失念すまいとして物忘れじを誓う老いの悲しさよ」。

    1カ月前、私の団地の集会室の一つで自治会主催の「認知症サポーター養成講座」が開かれた。講師も聴講者もみな団地住民。いわば自主講座である。認知症の兆候の一つは「記憶障害」という。ほかに時間や方向感覚が薄れる「見当識障害」や「理解・判断力の低下障害」なども見られるという話である。どれも、これも私に当てはまる。これでは、サポーターでなく、サポートを受ける側になってしまう。

    ラジオドラマ「君の名は」のヒロインは、国際派の大女優・岸恵子である。数日前、テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演したのを見た。80歳というが、傘寿とはとても思えない若さと気品のある美しさに驚いた。つい最近『わりなき恋』という小説を出版したばかりだ。「わりなき」の「わり」は「理」のこと。まだ読んでいないので断定はできないが、題名は、「理屈や分別を超えて、どうしようもない恋」を意味しているのだろう。認知症とは無縁の世界のようだ。

    前回のブログでお断りしたようにこれからは「(締め切りを設けず)ゆっくりとしたペースで、ポツリ、ポツリと行くつもりです」。こちらは、詩情もロマンのかけらもない「わりなき事情」からです。悪しからず。

肯定か否定か、文末の予測が「全然やりずらい」

(第326号、通巻346号)

    「毎週1回発行をノルマにするのはきつい」「この際、しばらく休んでは」などとの思いやりの言葉を真に受け受け、暫く休筆していましたが、2週間ぶりに再開します。始めからスピードを出さず、ゆっくりとしたペースで、ポツリ、ポツリと行くつもりです。時に、中途半端な終わり方になるかもしれませんが、ご容赦をお願いいたします。
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    「とても」と「全然」は非常によく似た副詞である。共に程度の激しさを表す。用法もほとんど同じだ。この二つの単語については、数年前の当ブログで2回取り上げたことがあるので、今回は過去のブログの中身を抄録して引用しながら、テーマを文章の文末が肯定で終わるか、それとも否定、打ち消しを伴う内容なのか予測する“ツール”としての機能面に焦点をしぼってみたい。

   「全然」は言うまでもなく、文の後ろに否定の語か打ち消しを伴う副詞――というのがごく一般的な大人の常識だった。「とても」もほぼ同じだが、歴史的には若干歩みが異なるようだ。全然は「全然読めない」「全然ダメだ」というような使い方をする。ところが、近頃は「全然旨い」「こっちの方が全然大きい」などと、「非常に」「とても」の意味で肯定的に使われることが多い。

    この傾向は若者から熟年層まで広がりつつあるが、言葉に敏感な、とくに文筆に携わる人たちは、違和感を覚え、間違った使い方だとして眉をひそめる。かくいう私もそうだった。現に多くの辞書も「会話などで、断然、非常に、の意に使うこともあるが、誤用」(『岩波国語辞典』第7版)というように「俗な語法」と断定している。

    否定を伴う“本来の”用法は、文章の最後まで読まないと結論がどっちに転ぶか分からない日本文の欠点の一つを補うすばらしい「ツール」である。長くて分かりにくい悪文の典型は裁判の判決文である。たとえば――東京高裁が扱った大麻事件の判決文の一部を見ると、「これを大麻たばこ7本に関する捜索押収……」で始まる一文は40字詰め、26行の間に1度の句点(。)もないうえ、「合理的な範囲を超えた違法なものであると断定しさることはできない」という具合だ。途中、いろいろな事由をあげているのでそれを裁判所は認定したかと思っていたら、「断定することはできない」と肩すかしだ。

    文の途中に“まったく”とか、“とうてい”、あるいは“決して”などの「予告副詞」を入れて文を短く切っていれば、読み手に肩すかしを与えずに済むことだ。「全然」もそんな副詞の典型的例だ。ところが、『大辞林』第3版(三省堂)によれば、明治、大正時代には「全然」は否定を伴わずに「すべて、すっかり」の意で肯定表現にも使われていたという。『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、肯定的な文例として夏目漱石の『それから』の「腹の中の屈託は全然飯と肉に集注(中)してゐるらしかった」という一節を載せている。要は、もともと、肯定表現にも否定表現にも使うことができたのである。それが、否定表現との結びつくことが多くなったのは大正末から昭和初めにかけて、とされる。

    「全然」の逆の例として「とても」も取り上げるつもりでいたが、紙幅が尽きた。このまま、延々と続ければ判決文のようになってしまうので、続きは次回にしよう。

暫時休筆します

(第324号、通巻344号)

    「捏造」の読み方を取り上げた前号は、軽い挿話として書いたものだが、筆者が予想もしなかったほど大きな反響が寄せられ、1週間のアクセス数も7400pv.を超えた。最近では珍しい大ヒットになったが、実はしかし、慣用読みが定着していく例はこれまでも当ブログで何度も書いてきたところだ。

    そこで今度は、個々の単語の読み方でなく、日本語の文法的、構文的な誤用が一般に広がっている例を取り上げようと考えたのだが、うまい切り口が見つからない。もともと、言語学を専門に学んだ経験があるわけもでなく、ただ辞書好きが昂じて書き連ねてきたブログなので、知見にも限りがある。もう少し時間をかけて“考察”してみたいので、今号は休筆ということでご容赦いただきたい。

「捏造」の本来の読み方が「でつぞう」とは! 

(第323号、通巻343号)

    「神の手」。日本の考古学の歴史を根底から塗り替えるような“旧石器”を次から次へと発掘してきた東北地方のアマチュア考古学者・F氏は、そう呼ばれていたが、実は「捏(でっ)ち上げの手」だった。今から13年前、毎日新聞はF氏の捏(でっ)ち上げの現場をビデオカメラに収め、「旧石器発掘ねつ造」とスクープした。日本史の教科書が、旧石器時代の項をそっくり訂正せざるをえないほどの衝撃的なニュースだった。

    この大スクープの裏側を描いたドキュメント『発掘捏造』(新潮文庫)がたまたま私の団地の共用図書館の書架にあった。すぐに借り出して一気に読了した。「捏造」の「ねつ」が紙面では、ひらがなになっているのは、常用漢字でないためで、新潮文庫では表紙に「はっくつねつぞう」とルビが振られていたが、「捏」とはそもそもどんな意味なのかと家人に尋ねられ返事に窮した。

    漢和辞典2、3冊にあたってみたところ、元々は「こねる、にぎる、おさえる、ひねる。みな土器の器形を作ること」の意だった(平凡社『字通』による)。しかも「捏」は漢音では「でつ」、「捏造」は厳密に言えば「でつぞう」と読む。「捏(でっ)ち上げ」という表現は、その本来の読み方からきたものだ。

    「ねつぞう」は、「でつぞう」の“慣用読み”であると、手元の国語辞典は、申し合わせたように同じような記述をしている。にもかかわらず、“本来の”「でつぞう」は、空見出しにも挙げていない辞書がほとんどだ。「こちらは、よく利用されているが裏道ですよ。本道はあちらです」と案内しておきながら、本道には標識すら立てていないないのである。まことに不親切きまわりない。辞書編集者たちの怠慢というべきだ。

    しかし、それにしても、慣用読みが本来の読み方を実質的には駆逐してしまったことになる。これほどであからさまではないが、慣用読みとか誤用とされた読み方が、実際の言語生活では多数派になってほとんど定着したケースも多い。

   堪能  ○たんのう   ★かんのう
   蛇足  ○だそく     ★じゃそく
   消耗  ○しょうもう   ★しょうこう
   追従  ○ついじゅう  ★ついしょう
   残滓  ○ざんさい    ★ざんし
   固執  ○こしつ     ★こしゅう
   攪拌  ○かくはん    ★こうはん

    いずれも、本来の、あるいは古くは、右側の★印が付いた方の読みが正しいとされていたが、今や左側の○印が優勢になっている。言葉はまさに時代と共に変わっていくものだということを実感する。

「員数」と「人数」

(第322号、通巻342号)

    入学式、新学期が近づくと、辞書類の広告が目立ってくる。国語辞典だと、最新の単語をいかに多く収録し、新用法や用例の充実ぶりをうたうのが普通だ。しかし、その陰で旧版まで収録されていた語がかなり削られている。漏れた語が必ずしも死語、廃語扱いというわけではないが、辞書のページ数が限られている以上、物理的にやむを得ない措置だ。

    先日、地域内の親しい仲間10人ほどで昨年急逝した友人を偲ぶ会食の場を持った。故人の思い出話にからんで、談たまたま日本語の流行り廃(すた)りに及ぶや、自分たちが子どものころから働き盛りの時代までは日常語だったのに、近ごろはとんと耳にしなくなった言葉がいくつもある、という話題になった。たとえば、(国鉄の)物資部、(列車の)チッキ、E電(国電or電車)、チョッキ(ベスト)、アベック(カップル)…。

    そんな言葉の中から今回は「員数」を取り上げたい。この語は決して死語ではない。工業界などでは現在でもごくふつうに使われているが、もはや一般的とは言えない。ほとんど同じ意味の「人数」が代替役を務めるようになってきたからだ。そこで「員数」を「人数」という語と比較してみよう。

    「員数」は、『広辞苑』第6版』(岩波書店)によれば、「人や物の、かず。特に、ある一定の数」をいう。これに対して「人数」の意は、「人の数。あたまかず」とある。人間の数という点は、両語に共通している。が、員数は人の数だけではなく、物の数も表わし、しかもある一定の枠内の数を示す。言い方を変えれば、人や物の、全体での必要数を指す。たとえば、団体旅行で引率者が人数分の入場券や弁当などの割り振り計算をする時は「員数合わせ」という。ここから、無理なつじつま合わせのことも員数合わせというようになったのだろう。

    一方で「員数」があまり使われなくなったのは、兵站(へいたん)などと軍隊のにおいがするからだろうか。同じ事を今は、ロジスティックと表現することが多いようだ。