明日から夏休み(小学生は)

 もうこの前のブログを書いた時から一年以上が立つ訳で、その間に僕は修士論文を提出して引っ越しして就職していよいよ異動を待つばかりで、次は編集か地方か、まあ平穏な日本では激動といっても決して罵声を浴びることは無かろうとは思いますが、意外にもそれほど心も体もお肌も変化無く生き存えています。
 下手な料理をしたり、一日中引きこもったり高円寺を徘徊したり、相変わらずな毎日を送っています。むしろ大学院で何か見えないものに追われていた頃よりも、18-19歳の世田谷に「沈没」していた日々に近いかも。

 24歳も半ばを過ぎて、十二号館でサンドイッチを分け合った友人は先日ご結婚されて、それでも全く焦らないと言うか焦りようがない自分がなんとなく昔から想像していたようで小麦粉をそのまま食べている様な感覚で、連休最終日の今日も午後三時を過ぎようとしています。

 書くことで何か大きく変わるとは思えないけれど、全く変わらないとは言い切れない訳で、そういう小さな可能性に賭ける、これは言い過ぎだなあ、片足を乗っける、くらいの気持ちでパソコンに向かおうと思います。

この夏はどこまでいきましょう。

愛車の弥彦くん(今名前付けた)

stem

1.部屋で

 例えば彼に暗い過去があった、と言って嬉しい、なんて年がいつだったかもう思い出せなくて、そう、それはPENISILLINが流行った、高校生くらいだったかしら。あのころは告白されるのがかっこよかったし、浮気されるのもかっこよかったし、修羅場って今思えば修羅場のシュ、にも到達していないようなことで、それでまあ私も人並みに遊園地に行って手をつないでキスしていつの間にか大事な人が出来て大人になった。
  

 訂正。大事な人を作って大人になった。60年前のことだ。


 ぴゅろぉー、と笛吹ケトルが間抜けに泣きだす。すぐ止めてやらないと。松原の公団住宅(あ、今はUR、というのだ。)の壁は薄くて、隣の幸子(46歳×1)が今か今かと怒鳴りこんでくるタイミングを探っている。怒ることが目的化した幸子を見ると、悲しいようなでもそれでも幸せのような、昔の自分を見ているような、不思議な気持ちになる。97℃に覚ましたお湯を、ポットに注ぐ。擦れた字で、”カレルチャペック喫茶店”と書いてある。



 幸子は、もうどれくらいセックスしていないのかしら。



 おばあさんになったのに、いやらしいことを考えている自分を、ちょっとかわいらしく思う。別にそれで背徳感を感じるなんてことはないのだけれど、ちょっとかわっているな、とはずっと思っていた。そうだ、おばあちゃん、と呼ばれることに慣れたのはいつからだろうか。私はずっと連続しているつもりなのに、いつの間にか母が死んで、父が死んで、娘が死んだ。髪に白いものが混じり、なんて表現がうそみたいに・・・

 紅茶の色が94℃のお湯に移ってくる。マグカップに注ぐ。ブランデーを少し入れて、牛乳と砂糖も入れる。趣味が悪いね、と言われるけど、そして誰に習ったか忘れてしまったが、飲み方だけは習慣になってしまった。

 床に目を遣る。

 ふうっ、腰回りに少し肉がついて重くなった体を持ち上げて、スーパーのチラシを見る。チラシを見て買うものが変わるわけでもないけれど、とりあえず見てみるのだ。

 晩御飯の準備をしなければならない。そう、いつものように。


2.公園
 世田谷区が東京らしい、というのは田舎者のセリフだと思う。徒歩15分の団地からてくてくと歩いて行ってすれ違ったのはミケ猫だけ。


3.こども
 
 

いっていた気もする。思い出すと、背中のあたりが暑くなる。

>>me
あdさfdd







梅干はひっくり返してひっくり返しておいしくなる。

キャラ
おばあちゃん
アレハンドロ(ボリビア

スパゲッティなんて、良く言ったものだ。



新年明けましておめでとうございます

謹賀新年


東京で年を越すのは初めて。
元日には弟も帰ってしまって一人ぼっち。



もっぱらテレビを見ています。








…テレビって面白い。


晦日はTBSでK-1甲子園
HIROYAクンが優勝。
ちょっと判定が怪しかったかな?
僕には良くわかりませんが、極真をやっていた彼女の言うことだからきっとそうなんでしょう。
10代にタレントが欲しいTBS、ということでしょうか。
HIROYAクンのお家は(一般的な言い方で)キチンとした家、そんな気がします。
亀田家のようにはならないでしょう。



箱根は東洋大が往路制覇。1年生の柏原君が往路で頑張ったそうで。
駅伝は音声を消すとさらにうるっときます。

しかし箱根駅伝と言うのはよく出来ている。
見てる人が感情移入できるスポーツだと思う。

まず、チームスポーツと言うのがいい。オーバーペースになる。チームメイトが見えないから、なお焦る。結果、ガス欠する選手が出る。苦しい顔がアップ。

後、水を飲ませないのがいい。正確には15キロ地点まで水分補給が出来ない。それも、スポーツドリンクは認めない。結果、脱水症状になる。最後の5キロがよりドラマチックになる。

20キロと言う距離もいい。世界の陸上界の根幹距離はトラック競技かマラソン。卒業して実業団に入っても、活躍できない。箱根が際立つ。



人気が出るのも当然ですね。









メゾン・ド・ヒミコ The Original Soundtrack of “La Maison de Himiko”

メゾン・ド・ヒミコ The Original Soundtrack of “La Maison de Himiko”

今テレビでやっていて、これは良さそうなのでチャンネルを変えた。
明日は蔦谷に行こう。

大学の経営

http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/1edfd1dd5f66441638de38ea6fc81e31/
駒沢大に始まって、


http://www.asahi.com/national/update/1206/NGY200812060005.html
南山大(地元では一大ブランド私大なんです)


http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20081121-OYT8T00435.htm
立正大(生徒が合格した大学だ)





そしてついに天下のHarvardまで。
http://www.afpbb.com/article/economy/2545881/3581563

やっぱり規模が違う。損失がすごいですね。


と言うわけで、大学生活っていうのがとても金融べったりだったことが良くわかるわけですが。


ただこれって担当者を責めることにあんま意味が無いって気がします。だってリスクなんてそこらじゅうにあるでしょう。普通預金にしておいても、それこそ円が暴落したら元も子もないし。
で、18歳人口は減り続けて、2015年ごろに又がくっと下がる。

どうしよう、と。


そんなところにBNPとかドイツ証券の(口のうまい)モテリーマンがやってきて、アルマーニなんか着ちゃって、「大学経営ピンチですねーうちの商品リスクなんて無くてガッポガッポですよー(このばーかこんなんにだまされんのか)」
ってやってきたら、まあ買ってしまうんではないですかね。


うん。


それよりも大学のプロセスを問題にすべきでしょう。結構深そうです。

例えば駒沢大学外資系金融機関がいくつ入っていたのか、メディアによって報道が異なってます。これは多分大学が明らかにしていないということだと思いますが、大体これを公式発表できない、っていう状況がそもそも異常です。学生に対して(と言うよりも授業料を払っている親に対して?)説明する必要があると思います。ホームページもA4一枚だし。説明しないでも問題が無いと踏んだならそれは人を馬鹿にしているし、それで納得するほうも問題です。








しかしこいつは(http://utf.u-tokyo.ac.jp/vision/index.html)大丈夫なんでしょうか。

いいいexhibition10

情報学環とコンテンツ創造科学と情報理工と。
テクノロジーをデザインすると何が生まれるのか、ということ。らしい。

学生はすごくがんばっていると思います。僕はアートを云々言えるような人間ではないから突っ込んだことはいえないが、クリエイティブ、なんじゃないだろうか。少なくとも見ていて飽きなかった。

来年からはコンテンツ創造科学プログラムは終わってしまい(文部科学省の期限付き予算にはかなり問題があると思う。正直駒場公共哲学プログラム、(訂正)COEにお金をつけるくらいならこっちにお金を出したほうが絶対いい。お金のかかる学問と、そうでないものがあるはず。)
、旗振り役の原島先生も3月に退官されて、これからどうやって運営していくのかはすごい難しそう。
僕は工学部か、技術系の企業からお金を取ってきて、もう少し産業とリンクしていく(=アートから手を引く)ほうが面白いと思うのだがどうだろう。

強みはやっぱり強みとして生かすべきだ、と思うのです。




かっこつけないほうがいい。

Learning bar

東大のlearning bar、その後、学環の飲み会。

一年前には考えられない日常だ。別に今のほうがいい、なんて思わないけど、見かけだけでも社交的になったのは事実。

Learningbarは予想通り学生は自分ひとり、というか20代もほとんどいなくて、30〜40代の若手管理職中心。刺激にはなりました。


ただ、ワークショップへの懐疑。消えない。結局気づかされるのは受け手という事実は揺るがないこと。「はーい、やっぱりこんなことがわかったねー」っていうのは研究成果の披露にはなっても、決して協同(共同?)的な学びじゃあない。少なくとも先生−生徒の関係は崩れてない。見えにくくなってる分、もっと厄介かもしれない。

先生の「ワークショップはやるほうが楽しいんです」っていうのはそんなことを裏付けてる。

と批判的になってしまったのだけど、ワークショップ自体は有用性があると思います。座学とかOJTでは身につけさせづらいもの(なんとも歯切れの悪い言い方だ)を身につけさせるにすごく効果的で、これからますます広まっていくのは間違いないと思います。僕が言いたいのは決してワークショップは革命的なものじゃなくて、今までの教育or研修に新しいツール(黒板消し、くらいの)だってことです。



後、慣れとか受けてきた教育システムの影響もあるのかもしれませんが、ワークショップの「受け手」としての能力は知り合いの大学生のほうがあったかな。

参加して損はないです。と言うかすごい楽しいので行ったほうがいいと思います。


と無理やり締め…今目の前に座っている大学院生がニコニコ組曲聞きながら勉強してるwww音漏れwww