ロミオとジュリエット 4話

 第四話


 町は夕焼けに包まれていた。
 家路を急ぐ人たちが、あちこちで声を交し合い、足を速める。学校帰りの中学生が笑い声を上げながら、大通りを走っていく。商店街では、店の人たちが声を張り上げている。
 どこかでかくれんぼをしている子供たちの声が聞こえている。
 電線にとまった烏が鳴いている。横断歩道の信号が点滅し、時おり吹く風に街路樹の葉が揺れる。高架を電車が通り過ぎ、それに驚いた散歩中の犬が大声で吠え始める。
 いつからこんな風だっただろう。
 もうずっと、何年も前からこんな景色を見ていた気がする。
 何年も前から、……
 そして、これからも、ずっと……。


   ※


 五年二組の教室では、演劇祭本番前の最後の練習が終わり、みんな教室に集まっていた。夕焼けに赤く染まる教室の中、机を後ろに寄せ、真ん中にいる先生を囲むようにして、円を描いて床に座っている。
「……もう本番は明日なんだから、ここまで来たら楽しんでやろうね。自分たちが楽しむのが第一だから」
 と、先生は言った。
「先生、その台詞、なんか青春ドラマみたい」男子の一人が茶化し、数人がくすくす笑った。
「だってそうじゃない。自分たちが楽しくなかったら、誰も楽しんでくれないわよ」
「……自分たちが楽しむのって、……むずかしいね」
 詩織ちゃんがつぶやき、横で委員長と絵里も思わず頷いた。すると先生は、
「大丈夫、皆がんばってきたんだから。練習通りにやればいいのよ」
 そう言うとにっこり笑って、自分のお腹をさすった。
「ほら、……この子も応援してるってさ」
「わかるの?」
「うん。喋れなくても……、なんとなくわかるんだよね」
 と、先生は言った。
 クラスみんなで円陣を組み、
「本番、がんばるぞ!」
 大きな声で気合を入れた後、解散になった。
 みんながいなくなった後、絵里は自分も帰ろうと教室を出ようとして、ふと立ち止まった。机一つ分のスペースが空いている。
 ……ここには、小野さんの机があった。
 小野さんがここへ座って毎日授業を受けていた。いつまでも上履きを買わずにずっとスリッパのまま、授業なんかぜんぜん真面目に聞いていないのに、そのくせ成績はいつもよくて……。今でもはっきりと、授業中、退屈そうにしているその横顔を思い出すことができる。
 あの屋上で話した日……小野さんがいなくなってから、もう一週間が経っていた。
 詩織ちゃんは小野さんのことを覚えていなかった。
 まるで最初から知らなかったみたいに……。どんなに説明しても、平塚くんの家に泊まった話をしても、首を傾げるだけで、しまいには、
「……絵里ちゃん、大丈夫? 夢でも見てたんじゃないの?」
 と、こちらの正気を疑われる始末だった。
 委員長や平塚くん、石浜くん、他のクラスの人に聞いても同じだった。まるで最初からそんな人なんていなかったみたいに、誰も小野さんのことを知らなかった。先生の出席簿をこっそり確認してみたが、当然そこにも小野さんの名前はなかった。
 絵里は、ひどく怖くなった。
 最初は小野さんのことをみんなに思い出してもらおうと必死になっていたけれど、そのうちに話すのをやめてしまった。
 あまりにもみんなの態度が自然なので、……もしかしたら、こっちがおかしいんじゃないかと思い始めていた。
 ……あの子は、本当にいたんだろうか?
 そんな考えも、時々頭をよぎるようになった。小野さんが確かにいたことを、確かめる方法は何もなかった。
 不意に教室の戸が開き、詩織ちゃんと委員長が顔を出した。
「絵里ちゃん、何してんの? 早く帰ろうよ」
「あ、うん……」
 絵里は言われて、二人といっしょに教室を出た。
 その晩絵里が晩ご飯を食べ終え、居間でテレビを見ていると、
「……あ、忘れてたわ」
 と、台所からお母さんの声が聞こえた。絵里は飲んでいた麦茶を飲み干すと、空のコップを持ったまま台所へ行く。
「どうしたの、お母さん?」
「もうすぐお父さん帰ってくるんだけど、ビール買ってきておくの忘れちゃって……、今、お父さんの分のカツ揚げてるから、……」
「じゃああたし買ってくるよ」
 そう言って、絵里は流しでグラスを洗うと、食器棚に戻す。
「ほんと? ……じゃあ、お願いしていい?」と、お母さんは言って、お財布から千円札を出した。「なんか、ひとつくらいお菓子買ってもいいわよ」
「やった」
「気をつけてね。下のコンビニでいいから……、あんまり遅くならないようにね」
「了解」
 絵里は団地の下にあるコンビニでビールを二本と、そのお釣りでポテトチップスも買った。
 そのまま戻ろうと思ったが、気が変わり、団地の裏へ回ってみる。絵里の家族が住んでいる九丁目団地の裏手には川が流れていて、駐輪場を通り抜けると、すぐに芝生の土手になっている。絵里は、金網に取り付けられた手作りの木の引き戸を開け、土手へと出た。川沿いはサイクリングロードになっていて、ぽつぽつと街灯の明りが灯っている。
 上流の方へ視線をやると、川の上を通っている電車の高架が見える。音を立てて電車が通り過ぎ、川面を漂っていた水鳥がばたばたと飛び去った。
 絵里は、暗い川沿いの細い道をゆっくりと歩きながら、あの時のことを思い出していた。
 小野さんと、初めて会った日のこと。
 あたしが平塚くんに偶然会って、神社で泣いてしまい、小野さんがここまで送ってきてくれた。
 何も言わずに、手をつないで土手の道を二人で歩いた。
「……どこ行っちゃったの?」
 と、絵里はつぶやいた。
 ロミオはティバルトを殺し、ヴェローナの町を追放されるが、牧師の計らいによってまた戻ってくる。
 小野さんは、また、戻ってくるの?
 小野さんがいなくなって……、劇のロミオ役は、平塚くんがやることになっていた。まるで最初からそう決まっていたみたいに。
 もともと自分は、最初からそれをのぞんでいたはずだった。
 平塚くんがロミオ、自分がジュリエットを演じるということ……、
 でも、こんなの、……
 絵里は芝生の上にしゃがみ、空にかかる月を見上げた。
「こんなの、……意味ないよ」
 いくら平塚くんがロミオだったとしても、小野さんがいなかったら、そんなの意味ないよ……。


   ※


 浴衣を着た絵里は、手を引かれ暗い夜道を走っていた。
 サンダルがぱたぱたと音を立てる。前を走る浴衣姿の女の子は、こちらを振り向きもせず、さっきから絵里の手を取って走り続けている。絵里は、それについていくので一生懸命で、周りの景色を見る余裕もない。
「どうしてそんなに急ぐの?」
 と、絵里は聞いた。全力で走っているのに、自分の息がこれっぽっちもあがっていない。なぜかそれを不思議だとは思わなかった。
「だって、舞踏会もう始まっちゃってるんだよ」
 と、女の子は振り向かずに答えた。
 絵里は、その声に聞き覚えがあった。
 しばらく聞いていない、懐かしい声……。
 そのまま、いったいどれくらい走っただろう。真っ暗な中に二人の足音だけがひびいている。
 やがて、絵里の耳にお囃子が聞こえてきた。陽気な笛の音が、だんだんと大きくなってくる。ドン、ドン……、とお腹にひびくような太鼓の音も聞こえ始めた。
 すると、視界の先に、神社が見えてきた。暗闇の中に、境内に吊るされた提灯の明りが、葉むら越しにちらちら揺れている。よく知っている場所、……小野さんとあの日、寄り道した場所……。
 二人は鳥居をくぐり、境内に入ったところでようやく足を止めた。やっぱり、全然息が切れていない。
「行こっ」
「うん」
 二人は手をつないだまま、石畳を歩き出す。絵里は、ようやく自分も浴衣を着ていることに気がついた。女の子の、浴衣の柄の蝶が、まるで薄闇の中を舞っているように見えた。
 絵馬の吊られている社務所の前を曲ると、カラフルな夜店の屋台が二人を出迎えた。
 広場を囲むように、ぐるりと屋台が並んでいる。ソースせんべいや、かき氷、りんご飴に型抜き……なぜか、お店の人は一人もおらず、すべて無人だった。広場の真ん中には櫓が組まれていて、その上で男の人が太鼓を叩いている。スピーカーからは、聞き覚えのある盆踊りの曲が流れ、その周りで二人と同じように浴衣姿の子供たちが音楽に合わせて踊っていた。
 みんな、お面をかぶっていて顔はわからない。
「ほら、絵里ちゃんも」
「あ、うん……」
 絵里が女の子に手渡されたのは、狐をかたどったお面だった。夜店でよく売られているような、プラスチックのものだ。いつの間にか女の子もお面をかぶっていた。日曜日の朝やっている、女の子向けの魔女っ子アニメのお面。
「でも、どうしてお面をかぶるの?」
「だって、仮面舞踏会だからね。そういう決まりなんだよ。それに、意外と楽しいよ」
 魔女のお面ごしに、女の子はそう言って、よくわからない決めポーズをしてみせる。
 これ、仮面じゃなくてお面だし……、それに、舞踏会じゃなくてこれじゃあ盆踊りじゃないのかなあ。
 そう思いつつも、ゴムを耳にかけ、いちおう狐面をかぶる。
「似合ってるよ」
「べつにうれしくない……」
 盆踊りをしている子たちの中には、よく見ると、知っている子もちらほらいるような気がする。でも、お面のせいで顔がわからないので確かとは言えない。
 境内と提灯の明り……、
 まるで夢みたいな光景だと絵里は思った。

『夢というものは、たわいもない頭脳の子供で、
 ただもう全くむなしい空想から生まれてくるものだ。
 中身は茫々漠々、まるで空気同様、
 そしてあの風よりも、そうだ、凍りついた北国の地面を今口説いたかと思うと、
 相手の冷たい仕打ちにむっとしてたちまちそこを離れ、
 雨露にしとど濡れた南の国を口説きにゆく
 あの風よりももっと浮気なやつなのだ。』

 踊りの輪に入らずに絵里がぼんやりと眺めていると、いつの間にか女の子の姿が見えなくなっていた。
 あの子、どこ行ったんだろう……。
 あの子は、あたしがずっと探していた子のような気がする。
 探しに行こうと絵里はその場をはなれ、本殿の裏の方へ回る。すると、誰かの話し声が聞こえてきた。
「……、ぶりだね」
「そうかなあ」
 絵里は思わず植え込みの影に隠れた。そっと覗いてみると、浴衣姿の男の子と女の子が、手水場のところで話している。
「そうだよ。正人くんとこうやってお祭に来るのなんて、……何年ぶりだろ」
「まあ、いつもケンジとかと一緒だしなあ」
 二人は戦隊ヒーローもののお面をつけていた。そのせいで、少しだけ声がくぐもって聞こえる。
「……あたしは、ずっと前からこうしたかったんだけど」
「え?」
「……」
「……」
「……ねえ、ほらあたしの舌、青くなってるでしょ」
「……よく見えないよ、暗いし」
「さっきかき氷食べたから……」と、女の子は言った。「きっと、正人くんのもそうなってるよ」
「亜佐美さあ、……なんか、変じゃない?」
「別に、変じゃないよ」
「なんか、無理してるっていうか……」
 絵里は、息を殺して二人のやりとりを聞いていた。盆踊りの音楽が聞こえていた。
「無理なんて……、無理なんかしてないよ」
「そう?」
「……なんで、いつもそういうこと言うの?」
「なんだよ、そういうことって」
「……」
「……、もうそろそろ、帰ろうか」
「……嫌だ」
「なんで」
 女の子の履いているサンダルが、砂を踏んでじゃり、と音を立てた。
「だって、……あたし、平塚くんのこと好きなんだもん……」
「……」
 女の子は男の子のことをまっすぐ見つめていた。絵里には、戦隊ヒーローの赤い人と青い人が見詰め合っているように見えた。
「……ごめん」
 女の子はしばらく黙っていたが、
「……どうして?」
「そんなこと、今まで考えたこともなかったから、急に言われても……」
「……」
「……」
「……他に好きな人いるの?」
「いないよ」
「嘘」
「……」
「……あたしじゃだめなんだ」
「……」
「……もういい」
 女の子はふいと顔を背けると、鳥居の方へ走って行ってしまった。男の子は去っていくその後ろ姿を見ていたが、
「なんなんだよ、もう……」と、苛苛したようにつぶやくと、踊りの輪の方へ戻っていった。
 しばらくして、絵里は立ち上がった。
 あれ、……平塚くんと、委員長?
 絵里は今年の夏休み、ほとんど一人で過ごしていたので、神社の夏祭りにも行かなかった。
 今のは、本当にあったことなのだろうか。
「どうだろうねえ」
 不意に後ろから声がして、絵里は驚いて振り返った。そこには、白いドレスを着た、絵里より少し年上に見える、女の子がしゃがみこんでいた。
「お尻砂ついちゃった」
 女の子は立ち上がり、絵里は思わずその子のお面を凝視してしまう。
「ひょっとこ……」
 もうちょっと、他になかったのだろうか。こうして向かい合っていると、思わず噴出しそうになってしまう。
 女の子はちらと鳥居の方に顔を向けてから、
「『人の生涯は動き回る影に過ぎぬ。
 あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、
 舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、
 そしてとどのつまりは消えてなくなる。
 白痴のおしゃべり同然、
 がやがやわやわや、すさまじいばかり、
 何の取りとめもありはせぬ。』」
 と、言った。
「……?」
 絵里が首を傾げると、
「あたしの生みの親が書いた台詞だよ」
「……」
 絵里は、女の子の着ているドレスをもう一度見た。あたしが劇で着るものと同じ。
 もしかして、この人は……。
「夢も現実も、舞台の上では混じり合う……。
 あなた、この前ヴェローナの森にやってきたでしょう。
 この町の歴史と、花の都ヴェローナの歴史、
 その二つの間に何も接点はないけど……。
 誰かが誰かのことを思うとき、その二つは混じりあうんだよ。まるで現在と過去みたいに、
 夢と現実みたいに……」
 女の子は、ひょっとこの顔で言う。その言葉に、絵里はこの間の地震のことを思い出した。
 あの時もあたしは、ジュリエットの乳母の語る地震の話と、平塚くんと一緒にいた時に起きた地震を重ね合わせた。
 まるで、物語の中の出来事が、現実に起きたみたいだった。
「あなたは、……あなたは誰なの?」
 絵里が訊くと、
「絵里ちゃんも、よく知ってるはずだよ」
 女の子はそう言いながら、ひょっとこのお面を外そうとして――

   
    ※   


 ピピピピピピピピ……
 目覚ましの音に、絵里は目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
「……夢……?」
 つぶやいて、体を起こす。
 なんだか、夢を見ていた気がするけれど、あまり覚えていない。
 鳴り続けている目覚ましを止め、絵里は窓の外を見た。絵に描いたような秋晴れ。
 今日は、演劇祭本番だった。
「……絵里ー、今日遅刻したら大変でしょう、そろそろ起きなさい」
 居間からお母さんの声が聞こえてくる。
「はーい……」
 絵里は立ち上がり、のろのろと着替え始めた。


 演劇祭のプログラムは、一年生から始まり、三年、五年の順に行われる。絵里たちの五年二組は、最後から二番目だ。
 絵里たちは、教室で本番用の衣装に着替えていた。
「……大丈夫? 変じゃない?」
 絵里が不安げに自分の服を見下ろす。白いドレスは、もう何度か着ているが、今だに慣れない。絵里の他、役を与えられた女子はもう着替え終わり、最後に台詞のチェックをしている。
「大丈夫だってば。似合ってるよ」と、詩織ちゃんは笑った。
「はー、……逃げたい……」
「平気平気」
 詩織ちゃんは絵里の肩をぽんぽんと叩いて、
「自信もってよ、ね?」
「……」
「あたしも緊張してるけど、頑張るからさ」と、委員長が近づいてきて言った。委員長はナレーターをすることになっている。原作をすべて演じるとすごい長さになってしまうので、ナレーションで一部をカットしているのだ。
「……うん」
 絵里は小さく頷いた。
「おーい、まだかよー」
 不意に、教室の外から石浜くんの声が聞こえてくる。「お前ら、着替えんの遅すぎ……」
「ちょっと、開けないでよ変態」
 と、詩織ちゃんが言った。
「まだ開けてないだろ……」
「開けなくても変態」
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ……」と、石浜くんが疲れた声で言った。
 女子全員が着替え終わったことを確認し、委員長が戸を開ける。衣装を着た石浜くんと平塚くん、その他数人の男子が入ってきた。
 平塚くんは、童話の中に出てくる王子様のような、ロミオの衣装を着ていた。細い剣を左の腰に吊り下げている。正直、小野さんの方が似合っていたと絵里は思う。平塚くんだと、いきなり町中で斬り合いをはじめるような、激しいイメージがない。ロミオにしては穏やかすぎる感じがする。
 それでも絵里は、これから二人で恋人同士の役を演じるのかと思うと、なんだかどきどきしてきた。
 じっと見ていると、平塚くんと眼が合い、思わず反らしてしまう。顔を赤くしている絵里を見て、
「頑張ろうね、笹原さん」
 と、平塚くんは言った。
「うん……」
 それでも硬い表情をしている絵里に、
「……笹原さんが台詞とちってもさ、僕がフォローするから」と、平塚くんは笑った。「だから僕が台詞とちったら、笹原さんもフォローしてよ」
「……ありがとう」
「あのね、あたし緊張しないおまじない知ってるよ」と、委員長が言った。「手の平に人っていう字を三回書いて飲み込むと、落ちつくらしいの」
「……人?」
 机の上に座り、足をぶらぶらさせていた詩織ちゃんが、それを聞いて首を傾げる。 
「なんで人を飲み込むと落ちつくの?」
「……わかんない。お婆ちゃんが教えてくれたんだけど……」委員長も由来はよくわかっていないみたいだった。
「人を飲み込むって、怪獣みたいだね」
 と、絵里は言った。
「それはいいことを聞いたなあ」
 ロミオの親友、マキューシオ役の石浜くんも、平塚くんと色違いの服を着ている。石浜くんはにやにやしながら詩織ちゃんに近づくと、急にその手首を掴んだ。
「え?」
 戸惑う詩織ちゃんに構わず、石浜くんは詩織ちゃんの手の平に、
「人、人、人……」
 と、三回指で書くと、その手を食べる真似をした。
「わ!」
 詩織ちゃんは思わず石浜くんの手を振り払い、
「……何してんのよ、変態!」
 教室中の人が振り返るくらいの大声を上げる。
「はっはっはっ、さっきの仕返し」石浜くんは偉そうに笑いながら、「おかげで落ちついただろ」
「そんなわけないでしょ! ……もう……」
 詩織ちゃんは顔を赤くして俯いてしまった。
「……ふふ、ふふふふふ、……」
「あははは、……」
 そんな二人を見て、委員長と絵里はおかしそうに笑った。
「ちょっと二人とも、笑い事じゃないよ。あたし、生きるか死ぬかの瀬戸際だったんだからね」
「死にはしないだろ……」
 と、石浜くんがつぶやいたが、詩織ちゃんに思い切り足を踏まれ、「……っ!」痛さでぴょんぴょんと教室の中を跳ね回る。それを見て、絵里はますますおかしくなり、笑いが止まらなくなってしまった。
 しばらくすると、先生が入ってきた。
「はいはい、ずいぶん楽しそうだったけど……、遅れちゃうから、そろそろ体育館に移動するわよ」
「はーい」
 みんなは声を揃え、ぞろぞろと教室を出た。
 なんか、ちょっと落ちついたかな……。詩織ちゃんには悪いけど、石浜くんに感謝しなくちゃ。
 なんか楽しいな、と絵里は思った。詩織ちゃんと話しながら廊下を歩く。こんなに楽しいの、久しぶりな気がする。
 ……でも、小野さんはいない。
 もしかしたら、本番には来るんじゃないかと、ちょっとだけ期待していたのだけれど。
 本当に、……どうしちゃったんだろう。
 ……これは夢なんだろうか、と絵里は思った。
 そうなのかもしれない。
 今こうしているのは夢の中の出来事で……、
 眼が覚めたらまた、小野さんがいて、前と変わらない日々がつづいていくんじゃないだろうか……。


『……五年一組の「かぐや姫」をご覧いただきまして、ありがとうございました。これから十分間の休憩を挟んだのち、五年二組の「ロミオとジュリエット」を上演いたします。
 重ねて申し上げます。体育館内は飲食喫煙が禁止となっておりますので、お手数ですが、所定の場所にてお願いいたします。……』
 六年生の、放送委員のアナウンスが体育館の中にひびいている。体育館の中にはパイプ椅子が整然と並べられ、ほとんどが保護者たちで埋まっていたが、休憩時間になるやいなや、ざわざわと劇の感想を話しだす。外へ出て行く人もちらほらいた。
 舞台の上には「第五十七回 第三大島小学校演劇祭」と書かれた垂れ幕が下がっている。
 グランドピアノの横に置かれたホワイトボードに、今日のプログラムが書かれている。誰か生徒の弟なのだろう、小さい男の子がそこへ落書きをしようとして、慌てた母親に連れて行かれた。空気の入れ替えのため、戸は開け放たれていて、そこからひっきりなしに人が出入りしている。先生たちは壁際に陣取り、楽しげに談笑している。
 校歌の刻まれたレリーフの下には舞台袖への入口があり、そこには「関係者以外立ち入り禁止」の紙が貼られていた。
 その向こう、積まれた段ボールや小道具、掃除用具入れなどのせいで、狭くなっている舞台袖の中で、五年二組の生徒数人が準備をしていた。初めに出てくるキャピュレット家の使用人役の男子二人は、落ちつかなげに、ボール紙でできた剣と盾をつけたまま、ぶつぶつと台詞の確認をしている。
 そこへ、裏口からひょっこり絵里と詩織ちゃんが顔を出した。
「やあやあ」
 詩織ちゃんが手を上げる。ドレスを着た絵里も「ごめんね、もうすぐ出番なのに……」と、言いながら入ってきた。
 舞台袖には役者全員が入りきらないので、裏庭の大銀杏の下に青いレジャーシートを敷いて、出番がまだ来ない人はそこで待機しているのだ。
「……なんだよ、本番前に」
 男子は、緊張しているのか不機嫌そうな顔をした。
「ちょっと、お客さんどれくらい入ってるかなあと思って、見てもいい?」
「別にいいよ」
 詩織ちゃんは戸を少しだけ開け、観客席の様子を見た。
「うわー、けっこう来てるね……」
 絵里もその横から覗き込む。もう本番間近なので、席もほとんど埋まっている。
 お母さんとお父さん、いるかな……。
 そう思い、絵里はきょろきょろと視線をさまよわせたが、まだ来ていないようだった。お父さん、ビデオ撮るってはりきってたのに、どうしたんだろう。ただ、前の運動会の時のように、ビデオを撮られて何度も何度も繰り返し、食事の時に一緒に見させられるのはうんざりだったので、絵里は少しほっとした。
「……あれ?」
 絵里は思わず声を上げてしまった。
 客席の端の方に、変な二人組がいる。
 ひょっとこのお面をかぶったドレス姿の女の子と、ピンク色の鉢巻をした蛸のお面をかぶった、背の高い男の人。
 あの子、どこかで見たような気がする……。
 自分の記憶をたどっていると、女の子が絵里の視線に気づいたのか、大きくぶんぶんと手を振ってくる。
「どしたの?」
 詩織ちゃんに訊かれ、絵里は振り返り、
「ほら、あそこに変な人たちいるよ……、なんでお面かぶってるんだろう……」
「え、どこどこ」
「あそこ……」
 絵里は指さそうとしたが、視線を外した隙に、いつの間にか二人の姿は消えていた。
「……」
「どこよう?」
「……ごめん、勘違いだったかも」
「えー、なんだ。変な人たち見たかったのに」
 ぶつぶつ言う詩織ちゃんの横で、絵里は、あの女の子をどこで見たのか、どうしても思い出せずにいた。
 その時、大きな音で開演のブザーが鳴った。二人は慌てて顔を引っ込め、舞台袖からいったん裏庭へと出た。
 ざわめきがやみ、体育館の中がしだいに暗くなる。観客たちは姿勢を正し、パイプ椅子ががたがたと動く音がした。
『ただいまより、五年二組の演目、「ロミオとジュリエット」を上演いたします。最後までごゆっくりご覧ください……』
 しばらくして、ゆっくりと幕が上がる。
 照明に照らされて、舞う埃が光っている。すでに舞台に上がっている、使用人役の男子二人が会話を始めた。
『なあ、グレゴリ、石炭かつぎなんて仕事は真平だな。』
『そうだとも、そんなことしたら、俺たちはコリアになっちまうからな。』
 ……
 舞台はヴェローナ、花の都の物語。
 お互いへの思いのために、
 自らの命を絶った、恋人たちの物語……。


 裏庭は、銀杏の匂いであふれかえっていた。掃除当番がさぼっているのか、地面には落ち葉がじゅうたんのように敷き詰められていたし、誰かが面白がって踏んだのだろう、割れたギンナンの実がそこら中に散らばっていた。
 絵里は、さくさくと音を立てる落ち葉を踏んで、焼却炉のそばを通り、渡り廊下の方へと歩いていた。本番中のため、校舎は人もまばらだ。
 ……うう、やっぱり本番前にトイレ行っておけばよかった……。
 絵里は思う。
 あの時は緊張していて全然気にならなかったけれど、いざ始まってみると、意外とリラックスして舞台に立つことができた。
 前半の自分の出番は、大きな失敗もなく演じることができた。小野さんのいつかの言葉を思い出しながら、できるだけ、観客席に語りかけるような調子で台詞を言った。
『燃えさかる足をもった馬たちよ、急いで駆けて、
 太陽神の寝所に行っておくれ。もし御者が、あのフェイソンのようであれば、
 お前たちに激しく鞭をあて西のほうへと駆けさせ、
 暗い夜をすぐにでもここに持ってこさせようものを!』
 お客さんたちの視線もあまり気にならなかった。
 舞台袖に戻ると、詩織ちゃんと委員長が褒めてくれた。一安心したところで、急に尿意が襲ってきたのだ。
 そういえば、朝も家でトイレ行くの忘れちゃってたな。本番のことで頭がいっぱいで、それどころじゃなかったから……。
 今、劇の中では、ジュリエットは薬を飲んで仮死状態になり、すでに納骨堂へ運ばれたところだ。ロミオが迎えに来る前に、トイレを済ませて戻らなくてはいけないので、あまり時間はなかった。
 ドレスを着たままでおしっこしたことないから、ちょっと不安だけど……。濡らさないようにしないとなあ。
 渡り廊下から、薄暗い校舎の中へ入る。少しだけ眼がチカチカした。
 いつもなら自分たちの教室がある、三階の女子トイレを使うのだけれど、急いでいるのでそうも言っていられない。低学年がいつも使っているトイレに入って用を足し、絵里はようやく少し落ちついた。
 体育館へと戻りながら、次の場面の段取りを頭の中で確認していると、誰かの話し声が聞こえてきた。昇降口には、緊急の連絡用に公衆電話が二台置いてあるので、そこで電話をしているのだろう。
 別に珍しいことでもない。絵里はそのまま通りすぎようとしたが、
「……そう、……じゃあ、やっぱり俺も行ったほうがいいか……」
 声に聞き覚えがある気がして、立ち止まる。
 下駄箱の向こうに見える、受話器を持った後ろ姿。白髪の混じり始めた髪の毛を気にして、いつも野球帽をかぶっている。
 お父さん。
 観客席にいないと思っていたけれど、こんなところにいたんだ。やっぱり来てはいたんだな。
「……わかった。そう、……間に合わないかもしれないけど……」
 その口調が、今まで聴いたことがないくらいに、真剣なものだったので、絵里はひどく不安になった。
 何か、よくないことが起きているような気がする。
 話が終わったらしく、お父さんが受話器を置いて振り向くと、絵里と眼が合った。
「……絵里、どうしてここに。舞台は?」
「お父さん、何かあったの?」
 と、絵里は訊いた。
「……」
 お父さんは黙っている。
 どうして、……どうして、何も言ってくれないの?
 絵里は、不意に思い当たった。
 ――いつどうなるかわからないから、覚悟はしておいてね。
 いつかのお母さんの言葉。
「……もしかして、お婆ちゃん……」
 お父さんは何も答えずに、絵里の頭を撫でた。それから、大きく溜息をついて、
「こんな時にごめんな。……さっき家を出る前に連絡が来て、お婆ちゃんもう危険な状態らしいんだ。急に容態が悪化したみたいで……」
 そこで一度言葉を切って、
「今、お母さんは一人で病院に行ってる。でも、……お母さんの家って、絵里も知ってると思うけど、あんまり仲が良くないだろ。だから、入院してからもそうだったけど、お母さんがいろんなこと一人でずっとやってて、……あんまり絵里には言いたくなかったみたいだけど」
「……」
 うすうすは気づいていた。絵里がお見舞いに行っても、誰かと会うことはなかったし、枕元に置かれたお見舞いの時に書くノートにも、絵里とお母さんの名前しか並んでいなかった。
「だから、お父さんも、ひとまず手伝いに行かなくちゃいけなくなっちゃったんだ。……せっかくの絵里の主役なのに、……最後まで見れないのは、ほんとに残念なんだけど……」
「あたしは?」
 絵里は言った。
「え?」
「……あたしも、お婆ちゃんに会いたい」
 お父さんは困った顔になり、
「でも、いっしょに来ちゃったら、劇はどうするんだ」
「……それは」
「な。だから、お父さんとお母さんに任せて大丈夫だから。……劇が無事終わったら、病院の場所わかるだろ? そしたら来てくれればいいよ。お婆ちゃんも、きっと喜ぶと思うから」
「……」
 お父さんは、無言で俯く絵里の頭をもう一度撫で、
「そのドレス似合ってるな。……あんなにちっちゃかった絵里が、もう五年生なんて嘘みたいだよ」
 と言った。
「……そんなの、今さらだよ」
「そうだな」
 お父さんは絵里に財布から出した千円札を握らせ、終わったらバスで病院まで来なさい、道はわかるだろ? と言った。
 絵里が頷くと、
「じゃあ、お父さんもう行くからな、……頑張ってな」早口で言いながら、靴を履き替えて校門を出て行った。
 その後ろ姿を見送ってから、絵里は踵を返して廊下を歩き出す。
 ……大人って、
 大人って、ほんとに時々自分勝手だよ……。
 絵里は口の中でつぶやき、手の中の千円札をぎゅっと握り締めた。


「絵里ちゃん、なんか顔青いけど大丈夫?」
「え、……そんなことないよ」
 詩織ちゃんに顔をのぞきこまれ、絵里はあわてて首を振った。舞台袖には、絵里と詩織ちゃん、委員長がいた。舞台では、ロミオ役の平塚くんが、薬屋から自殺するための毒薬を買おうとしているところだった。
「ちゃんとトイレ行ってきた?」
「大丈夫……」
「落ちつけば、平気だよ。さっきもちゃんとできてたんだから」
「うん、ありがと」
 絵里は言ったが、お婆ちゃんのことが気になって、落ちつくことなんてできそうになかった。
 掃除用具入れに寄りかかっていた委員長が近づいてきて、絵里の手をぎゅっと掴んだ。絵里が驚いて思わず委員長の顔を見ると、
「絵里ちゃん、……」ささやくような小さい声で、「絵里ちゃんは、あたしのこと嫌いかもしれないけど、……あたし、本当にうれしかったの。
 絵里ちゃんが、あたしの家にまで来てくれたこと。もしかしたら、あのままずっと、ちゃんと話せないまま、卒業しちゃうのかもしれないと思ってたから……。
 だから、ええと、上手く言えないけど……、」 
「……ありがとう」
 と、絵里は言って、委員長の手を握り返した。「嫌いじゃないよ、委員長のこと、嫌いじゃない……」
 あのことは忘れられないし、何も知らなかった頃に戻ることはできないかもしれないけど……。
 それでも、一緒にはいられる。
「二人でなに内緒話してるのよ」詩織ちゃんが言った。
「……ひみつ」
「えー、ずるいー」
 と、詩織ちゃんは頬をふくらませ、絵里と委員長は小さく笑った。
「……そろそろ準備しなくちゃ」と、絵里は言った。二人に向けてもう一度ありがとうと言ってから、リハーサル通り、観客席からは見えないように、舞台奥に垂らされた布の向こう側へスタンバイする。
 舞台で交わされる会話を布越しに聞きながら、絵里は自分の心臓の鼓動を感じていた。
 はあ……、
 大きく深呼吸をする。
 色々なことがありすぎて、頭がついていっていない気がする。
 ……お婆ちゃんは、大丈夫だろうか。
 でも、これからラストシーンだ。ちゃんと集中しなくちゃ。……お婆ちゃんのことは気になるけど、最後までやりきらないと。
 舞台ではもう、いつの間にかパリスとロミオのやりとりが行われている。
『そんな頼みがきかれるものか。
 貴様は重罪人なのだ、俺はあくまで逮捕する。』
『まだ私を怒らせようというのか? それじゃ、覚悟するがいい!』
 音楽が流れ、立ち回りが始まる。絵里は、平塚くんと、パリス役の男子が舞台で斬り合いをするところをイメージしていた。……やがて音楽が止まる。いよいよだ。
 平塚くんの姿が目の前にあらわれた。
「……大丈夫?」小声で聞かれ、絵里は頷く。絵里はその場に横になった。平塚くんが屈み込み、絵里を抱き上げようとする……。平塚くんは少しよろけたが、なんとか絵里の体を持ち上げた。
「……大丈夫?」
「平気、平気……」
 少しふらふらしながら、平塚くんは舞台に戻り、リハーサルでやったとおり、真ん中に絵里の体を横たえた。
『ああ、ジューリエット、
 なぜそんなにまだ綺麗なのか? もしかしたら、
 あの死神が人間でもないのに妙に色気づいたのではないか。
 あの痩せた恐ろしい姿の怪物めが、この暗い所で、
 お前を愛妾にしようとして囲っているのではないのか。
 それを思うと俺はぞっとする。だから、お前といっしょにここに留まり、
 この仄暗い夜の宮殿から二度と外へは出ないつもりだ。』
 平塚くんのその台詞を聞きながら、絵里は思い出した。あの日、平塚くんの家に泊まった日、いっしょに台詞の練習をした。
 まさか、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
 けれど実際にこうして恋人どうしの役をやってみると……、なんだかひどく冷静になる自分を感じていた。
 もちろん、嬉しくないわけじゃない。
 それでも、どうしても小野さんのことを考えてしまう。小野さんの凛々しい立ち振る舞いや、よく通る声のことを、思い出してしまう。
 薄目を開けて平塚くんの顔を見上げながら絵里は思った。
 ……あたしは、男の子を好きになるということに、どこか憧れがあったのかもしれない。だから、平塚くんのことを本当に好きだとは言えなかったのかもしれない。
 でも、ここからここまでが本当の気持ちで、ここからここまでが嘘の気持ちだなんて、誰に区別ができるのだろう。
 どこまでがお芝居で、どこまでがそうじゃないかなんて、誰にたしかなことが言えるのだろう。
 たぶん、それはいつだって混じりあう。
 まるで、夢と現実が混じりあうみたいに……。
 長台詞を言い終えると、平塚くんは毒をあおって絵里のそばに倒れた。修道士たちが角灯を持って、舞台袖から駆け寄ってくる。
「……、」
 その時、平塚くんが何かを小声でつぶやいたので、
「……え?」
 絵里は思わず聞き返した。
「……大丈夫? さっき、すごい緊張してたみたいだったから」
「……見てたの?」
 観客席には顔を背けているし、修道士役の男子が大声で台詞をしゃべっているので、二人が喋っているのは気づかれなかった。
「……気になってさ」
「……お婆ちゃんが、具合悪いんだって。だから、お父さんとお母さんが今病院行ってて……」
「……そっか」
「……心配してくれたの」
「……そりゃ、気になるよ。自分のこと、好きって言ってくれた女の子のことなんだから」
「……」
「あのね、好きって言ってくれて嬉しかったよ」と、平塚くんは言った。「僕は、本当に……笹原さんのことが嫌いとかじゃなくて、女の子のことを、そういう風に見たことがなかったから……」
 絵里は何も言わなかった。
 ロミオとジュリエット――、死んでいるはずの二人が、こうして会話をしているのは、なんだか変な感じだった。
「だからさ、中学、一緒だろ? 受験しないって言ってたし」
「うん」
「しばらく一緒にいれば、そう思えるようになるかもしれない…・・・」
 その平塚くんの言葉に、
「そんなのずるいよ」
 と、絵里は言った。
「……」
「そんなの、あたしにはもう関係ないもん」と、絵里は言った。「あたしは、平塚くんよりももっとカッコいい人を好きになって、……平塚くんが中学になって、あたしのことを好きになったって、もう、……」
 絵里は言いながら、急に悲しくなってきた。
 何が悲しいのかわからない。目じりからこぼれた涙が舞台の床に落ちた。
 拭うことはできなかった。
 今、あたしは、死んでいるはずなのだから。
「……そっか」と、平塚くんは言った。「ごめん、僕、笹原さんの気持ちとかぜんぜん考えてなくて……」
「ううん」
 絵里は笑った。
「……でも、ありがとう」


 盛大な拍手が鳴り響く中、絵里は一人、舞台袖から体育館を抜け出した。
 早くいかないと、間に合わないかもしれない。事情は先生や、詩織ちゃんたちには説明してあった。衣装のドレスを着たままだったけれど、着替えている時間も惜しかった。
 すれ違う保護者の人に怪訝な顔をされたが、そんなこと、構っていられなかった。
 ドレスの裾を踏まないように気をつけながら、小走りで校門へと向かう。
 ええと、ここから一番近いバス停ってどこだっけ……。
 そう考えていると、どこからか蹄の音が聞こえてきた。絵里は眼を丸くしてそちらに顔を向ける。
 車道をものすごい勢いで、栗毛の馬が走ってきた。
「……は?」
 自分の目を疑う。
 どうして、ここを馬が走ってるの? まったく意味がわからない。どうしていいのかわからずに絵里はぼんやりしてしまう。馬は大きくいなないて、校門の前で泊まった。馬の背には、お面をかぶった男の人と女の子が乗っていた。自転車みたいに二人乗りしている。男の人は、さっき平塚くんが着ていた王子様の衣装と同じものを着ていて、女の子は、絵里の白いドレスと同じものを着ている。
 女の子は男の人の腰の辺りを抱いたまま、
「やっほー」
 と、明るい声を上げた。
「……」
 絵里は無言でそれを見上げる。
 何この、怪しすぎる二人組……。
「怪しいものじゃないよ」と、ひょっとこのお面をかぶった女の子は言った。「絵里ちゃん急いでるんでしょ? バスよりこっちのが速いから、乗せてってあげようと思ってさ」
 ……この子、
 絵里は急に思い出した。
 そういえばこの子、夢で会った……。
「ほら、乗りなよ」女の子に手を差し出される。絵里はしばらく躊躇っていたが、おずおずとその手を取った。その途端、細腕からは想像できない力で、ひょいと馬上へ引っ張り上げられる。
「じゃあ、しっかりつかまっててね」
 女の子は言って、
「お願い」
「ハッ!」
 男の人はその合図とともに鞭をふるい、馬が猛烈な速さで走り出した。絵里は振り落とされそうになり、女の子の体をぎゅっと抱きしめる。馬は車道を走り続ける。
「……あたしが、どこ、行くか知ってるんですか?」
 絵里が訊くと、
「お婆ちゃんの入院してる病院でしょ?」女の子はなんでもないことのようにそう返す。
 どうして知っているのかわからなかったが、周りの景色を見るかぎり、道順は合っている。迷子になったりすることはなさそうだ、絵里は少しだけ安心した。
 なぜか車は一台も通っておらず、人通りもない。どうして? 普通の平日の昼間なのに……。それに、お面かぶったままで馬に乗ったりして、どこかにぶつかったりしないのだろうか。
 ていうか、その前に。
「……あなたたち、誰なの?」
 絵里は必死にしがみつきながら、なんとか声を出す。
「あたしは、ジュリエット」と、女の子は軽い調子で言った。長い髪が風にばさばさと揺れている。「この人はロミオ、あたしの夫ね。絵里ちゃんも、よく知ってると思うけど……」
「……本物?」
 絵里は思わずそうつぶやいたが、すぐに否定するように頭を振った。
 いや……、本物というか、そもそもロミオとジュリエットは実在の人物ではない。シェイクスピアの創作だ。
「……君は、この一ヶ月の間、僕たちのことをずっと考えていてくれていただろ?」たずなを握ったまま、男の人が不意に言った。「だからその間……僕たちはずっと、君のそばにいた。
 誰かを思うことは、その人のそばにいることと、すごく似てるんだ」
「夢の中でも会ったしね……。さっきも、舞台見させてもらったよ。絵里ちゃんのジュリエット、素敵だった」
 わたしにはあんまり似てないけどね、と女の子は笑った。
「誰かが、物語の中の人のことを考える時、……その分だけ、僕たちも、君たちのことを考えているんだよ。
 ……だからこれは、お礼なんだ。僕たちと一緒にいてくれた、そのお礼」
 風を切って走り続ける馬は電車の高架下を通り過ぎた。速度をゆるめずに坂を駆け上っていく。
「……」
「僕たちは、誰かが僕たちのことを覚えているあいだだけ、存在していられるから……」
 男の人は言って、絵里の方を振り返った。
「だから、……大人になっても、たまには僕たちのことを思い出してくれ」
 病院には、あっという間に到着した。駐車場に馬を入れると、ロミオは絵里を抱き上げて、ゆっくりと地面に下ろしてくれた。馬が速すぎて、乗り物酔いするかと思ったけれど、意外と平気だった。
 絵里は、馬の顔をじっと見る。……こんなに近くで見るの初めてだけど、なんか可愛いかも。絵里に見つめられ、ブルルルルル……、と馬は一声鳴いた。
「じゃあ、僕たちはこれで」と、ロミオは馬上から声をかけた。
「……あの」
「ん?」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
 ジュリエットは言って笑い、ロミオは軽く頭を下げた。絵里も深々と頭を下げると、病棟へと駆け出していく。建物に入る前に、ちらと後ろを振り返ったが、もうすでに二人の姿は馬ごと消えてなくなっていた。
 絵里はそのまま自動ドアを抜け、受付で事情を説明してからエレベーターへと急ぐ。なかなか来ないのにイライラして、横にある階段を早足で駆け上がった。……何人かの、点滴をつけた患者さんや看護士さんとすれ違い、やがてお婆ちゃんのいる病室の前までたどり着いた。
 間に合っただろうか。
 ……お婆ちゃん、……まだ、大丈夫かな。
 荒い息を整えてから、絵里はゆっくりと戸を開けた。

  
   ※


 ミーン、ミンミンミンミーン、ミンミン……
 蝉の声が聞こえている。
 絵里はいつの間にか、見覚えのある場所に立っていた。
 二階建ての一軒家に、小さい庭がついている。小さな門を開けて中に入ると、紫陽花の茂みが見える。小さい頃、お婆ちゃんと一緒に、葉について蝸牛を眺めたり、枇杷の実をとって食べたりしたことを思い出す。
 トタンの屋根は、雨が降るたびに音を立て、縁側に座って、二人でその音に耳を澄ませたりした。
 ここは、お婆ちゃんの家だ。
 絵里がもっと小さい頃……、幼稚園時代や、小学校に入ったばかりの頃は月に二三回は遊びに来ていたが、大きくなるにつれ、だんだん足が遠のくようになった。
庭から縁側へ直接上がり、そのまま畳敷きの居間へ入る。台所の方から、水音が聞こえ、絵里はそちらへ足を向けた。
 鼻歌を歌いながら、流しでグラスを洗っている女の子がいる。女の子は水を止めると、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いでから、
「久しぶりだね」
 そう言って小野さんは振り返った。
「……小野さん」
「絵里ちゃんも飲むでしょ、麦茶……」
 絵里は頷いて、冷たいグラスを受け取った。そのまま居間へ戻り、卓袱台を挟んで向かい合う。
 軒先に吊るされた風鈴が、時おりチリン……、と鳴った。
 絵里は、グラスの中の氷を見つめながら、俯いていた。
 聞きたいことは山ほどあった。
 でも、何から聞いたらいいのかわからない。 
 小野さんは麦茶を一口飲むと、
「……ここはね、絵里ちゃんも知ってると思うけど、…絵里ちゃんのお婆ちゃんの家。
 昔、よくここでお婆ちゃんに本を読んでもらってたよね。怖い話だと、絵里ちゃん一人でトイレ行けなくなるくせに、そういうのもすごく好きで、よくおばあちゃんにせがんでは、夜、トイレについてきてもらってた」
「……どうして、小野さんがそのこと知ってるの?」
「何から説明したらいいかなあ……」
 小野さんは天井を見上げた。
「絵里ちゃんのお婆ちゃんはね、……病気で入院してるあいだ、よく、自分の小さい頃の夢を見てたの。
 年を取ると、やけに小さい頃のことばかり思い出したりするでしょ? そのせいかもしれないね。
 ほとんど毎晩、そんな夢を見るうち、……絵里ちゃんと、絵里ちゃんの同級生になって、いっしょに遊んだりする夢が、その中に混ざりはじめた。たぶん、絵里ちゃんがよくお見舞いに来てくれてたのが、嬉しかったんだと思う」
「……」
 絵里は、黙って話を聞いていた。
「もちろん、本当にはそんなことはなかった。
 だって、お婆ちゃんが小学生だったのは、もう何十年も前で、絵里ちゃんとは年が違いすぎてるもんね。
 でも、夢の中でなら、いっしょに小学生になって、遊ぶことができた」
 小野さんは立ち上がり、縁側から庭を眺めた。
「それがあたし。
 お婆ちゃんの夢の中での姿、……それが、あたしなの。
 夢の中の存在が、次第にかたちをもって、……現実と夢のはざまで、生きられるようになった」
「小野さんは、お婆ちゃんの小さい頃……、小学生の時の姿なの?」
 絵里は訊いた。
「まるっきり同じってわけじゃないの。……でも、そう考えてあんまり問題はないと思う」
 小野さんが何者かということも気になってはいた。
 でも、それよりも……絵里にはもっと聞きたいことがあった。
「……どうして、」
「え?」
「小野さん、どうしていなくなったりしたの?」
「もう、そろそろ限界なの」
 小野さんは苦笑して、
「夢は、見る人がいなければ続いていかない、……お婆ちゃん、もうすぐ、この世からいなくなっちゃうから」
 絵里は、その言葉を聞いて、急に実感した。
 やっぱり、お婆ちゃん死んじゃうんだ……。
「もう少し時間はあったんだけど……、屋上で、絵里ちゃんの話を聞いた時、すごく後悔したの。
 あたしのせいで絵里ちゃんのことを傷つけてしまったのなら、……あたしは、最初から、絵里ちゃんのところへ来るべきじゃなかったんじゃないかって」
「……そんなことない」
 絵里は言った。
「でも……」
「そんなことないって言ってるじゃん」
 絵里の口調は強くなった。
「傷つけちゃうから、最初から一緒にいなければよかったなんて、……そんなの、間違ってるよ。
 一緒にいれば、傷つくことも、悲しいこともあるよ。
 でも、……それでも、一緒にいたいんだもん。
 あたし、この一ヶ月で色々なことがあって、……そういう風に思えるようになったの。
 そう思わせてくれたの、小野さんなんだよ」
「……」
「小野さん、この間、最後まで聞かなかったでしょ」
「……」
「小野さんのおかげで、あたし、頑張れたんだから……」
「ありがとう」
 小野さんは言った。「あたしも、……絵里ちゃんと、みんなといられて、すごい楽しかった」
 二人はしばらく黙っていた。グラスの中で、溶ける氷がカランと音を立てた。 
「……あたし、そろそろ行かなくちゃ」
 小野さんが不意に言った。
「もう?」
「うん。……絵里ちゃんも、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう」
「……」
「そんな顔しないで、ね?」
「あたし、忘れないからね」と、絵里は言った。「小野さんのこと、この一ヶ月のこと、絶対忘れない……」
「うん」
 小野さんは笑って、
「あたしも忘れない。……絵里ちゃんが大人になっても、夢の中でなら、またきっと会えるから」


   ※


 絵里は、気がつくと病室の前に立っていた。落ちついて、ゆっくりと戸を開ける。ベッドの周りにいた、お父さんとお母さんがこっちを見た。
「絵里……」と、お母さんが言った。
 絵里は答えずに、お婆ちゃんのベッドに近づく。お婆ちゃんは眼をつぶっていたが、絵里が皺だらけの手を取ると、ゆっくりと眼を開けた。
「……絵里ちゃん、よく来てくれたねえ」
「お婆ちゃん」
 絵里はその目の奥をじっと見た。
「お婆ちゃん、あたし……」
「何も言わなくていいんだよ」
 と、お婆ちゃんは言った。
「最後に、……楽しい思い出をありがとうね。あたしの人生、……本当に、生まれて初めて、ちゃんと生きた気がするよ」
「……」
「……ほんとに、お姫様みたいだねえ」お婆ちゃんは絵里のドレスを見ながら言った。「ありがとう、ほんとに、ありがとうね……」
 お婆ちゃんが亡くなったのは、その数時間後だった。
 

ロミオとジュリエット 3話

 第三話


 バスが最寄り駅の高架下を過ぎると、やがて、再開発で整備された芝生の公園が見えてくる。
 絵里はぼんやりと窓越しに外の景色を眺めていた。春には桜が満開になり、花見客でにぎわう公園も、今の季節はあまり人の姿もない。
 日曜日の午前中、バスの車内はかなり混雑していた。立っている人もかなりいる。自分が今までほとんどバスに乗ることがなかったので、普段からバスを使っている人がこんなにいることを知らなかった。
 区営団地の前にある停留所でかなりの人が降りていった。乗客が乗り込んだところで、バスはゆっくりと発車する。
「みんなここに住んでるのかな?」
 と、絵里は隣に座っているお母さんに聞いた。
「うーん、それはわからないけど……」と、お母さんは言って、「……そういえば絵里、今日の朝天気予報見た?」  
「ううん」
 首を振る絵里に、
「洗濯物干してきちゃったけど、なんかちょっと曇ってきたわね」
「お父さん、傘持ってきたのかなあ」
 お父さんは、今日は会社の人とゴルフをする約束があるらしく、絵里が起きたときにはもういなかった。
「ちょっとくらいなら平気じゃない? ゴルフって、雨降っても土砂降りとかじゃなければやるみたいだし」
「お父さん、元気だよね……」
 絵里は思わず溜息交じりにつぶやいた。いつも仕事で疲れて帰ってきているのに、休みの日は早朝から出かけるだなんて。
「ゴルフ好きなのね」お母さんは苦笑した。「まあ、それくらいしか楽しみがないみたいだし、いいんじゃないの」
 赤信号で止まっていたバスが、信号が変わると同時に走りだした。その拍子に足元に置いてある、着替えなどを入れた紙袋が倒れてしまったので、手をのばして膝の上へ置く。
「……それにしても、絵里、ちゃんと台詞覚えられてるの?」
「大丈夫だよ、練習してるもん」
 おととい、先生から渡された演劇祭のお知らせのプリントを持って帰ってくるまで、お母さんにジュリエット役をすることは話していなかったので、お母さんはすごく驚いていた。自分の娘が人前で演技をすることが信じられないらしい。
「まったく、あんたが主役なんてねえ……」
 ふう、と溜息をつく。
「だって、くじ引きだもん」と、絵里は言った。
 絵里は小野さんのアドバイスのおかげか、前よりも落ちついて台詞を言えるようになっていた。
「笹原さん、すごいよくなったよ。正直ちょっと心配してたんだけど……」と、クラスの子たちも口々に言っていた。まだ緊張はするけれど、放課後に練習を重ねるうち、だんだん人前に立つことにも慣れてきた気がする。
 本番は、いよいよあと一週間後に迫っていた。
「ちゃんと見に行くからね、お父さんもビデオ撮るって張り切ってたわよ」
「……」
 お父さんのはしゃいでいる様子が想像できる。あんまりテンション上がらなければいいけど……。絵里は小さく溜息をついた。
「ロミオ役の子って、女の子なんでしょう。昨日吉川さんちのお母さんと電話してて聞いたわよ」
 と、お母さんは言った。「誰なの? 仲いい子?」
「あ、この間、夏休み明けに転校してきた子で……」
 言いかけて、ふと視線を外にやる。バスが区役所の建物を右へ曲ると、目的地の、お婆ちゃんの入院している病院が見えてきた。
「……お婆ちゃん、来れないよね」
「演劇祭? ……そうね、今は調子いいみたいだけど、見に来るのはちょっと無理かしらね」
「うん……」
「写真いっぱい撮るから、そしたらまた見せてあげればいいじゃない」
 やがて、病院の前の停留所で二人は降りた。病院の敷地内には銀杏の木があり、葉がかすかに色づきはじめていた。日曜日は緊急外来のほかは閉まっているため、ロータリーにはタクシーも一、二台しかとまっていない。
 お母さんが受付でお見舞いの手続きをしている間、絵里はロビーに置かれた長椅子に腰かけていた。入院患者らしい点滴をつけたままのお爺さんが目の前を歩いていくのを目で追う。
 お婆ちゃん、このまま持ち直すんじゃないだろうか、と絵里は思った。
 お母さんの話によれば、入院した時よりもずっとよくなっているらしい。もう八十歳を過ぎているし、いつまでも元気でいられないのはわかっているつもりだけれど、今すぐにどうにかなるとはとても思えなかった。
 こうやってお見舞いに来るのも、もしかしたら最後になるのかもしれない。
 そう考えてみたところで、実感は湧かなかった。会えなくなるのは、もっとずっと先のことだと思っていた。
「絵里、行くわよ」
「あ、うん」
 お母さんに声をかけられ、絵里は立ち上がった。二人は廊下を曲り、エレベーターの方へ向かう。
 死んだら、と絵里は思った。……死んだら、どうなるのだろうか?
 みんなで家に泊まったあの日、平塚くんは、お父さんが事故で亡くなったのだと言っていた。
 寝る前、トランプがひと段落した後、みんなが歯磨きをしたり飲み物を階下に取りに行ったりして、たまたま二人きりになった。
 その時平塚くんは、なんの前触れもなくそのことを口にした。仕事の帰りに酔っ払い運転の車に轢かれ、お母さんと一緒に病院に駆けつけた時にはもう亡くなっていたのだと。
「ぼくはでも、小さかったからあんまり覚えてないんだ」
 と、平塚くんは淡々とした口調で話していた。
「でも、なんかやさしかった気がする。……たかいたかいとかよくしてくれてたんだって、お母さんが言ってた」
 その話は、ちょうど詩織ちゃんと小野さんが台所から麦茶を持って上がってきたので、そこで終わってしまった。
 ジュリエットは劇の中で、修道士にもらった薬を飲んで四十二時間のあいだ仮死状態になる。それを本当に死んだと勘違いして、ロミオはジュリエットの死を嘆き悲しみ、毒を飲んで自殺をしてしまったのだ。……
 絵里は、ジュリエットが、薬が本当の毒薬で、修道士が自分のことを殺そうとしているのではないか、と疑う場面を思い出した。

『もしこれがほんとの毒薬だったら? あの神父様が、こっそりと、
 私を殺そうとして調合した毒薬だったら?
 以前に私をロミオと結婚させたてまえ、
 こんどの結婚をとり行えば面目が潰れることになる、
 と、すれば、これは毒薬かも? でも、そんなことは考えられない、
 だって、神父様はだれしも認める聖いお方なのだから。
 では、もし納骨堂に入れられたあとで、
 ロミオが助けにきてくれる前に眼がさめたとしたら、
 私はいったいどうなる? こわいのはそのこと!
 あの地下の納骨堂の中で、……ぞっとするその入口からは新しい空気も入ってこない
 あの納骨堂の中で息がつまってしまい、
 ロミオの来るのも間に合わず、死んでしまうのではなかろうか?』

 病室でお婆ちゃんと話している間も、ずっとその場面が頭の中をぐるぐる回っていた。
「ほんとうに、よく来てくれたねえ。あんたたちだけだよ、いつも来てくれるのは……」
「でも、お母さん元気そうでよかった。……昨日の夜、地震あったけど大丈夫だった?」
 と、お母さんは着替えを入れた紙袋を渡しながら言った。
「そうなの、ぜんぜん気がつかなかったわ……」
「ねえ、絵里もお婆ちゃん元気そうに見えるわよね」
「うん、……」
「この前、絵里ちゃんに会う夢を見たんだよ。正夢になったわね」
 そう言って嬉しそうに笑っている、皺だらけのお婆ちゃんの顔を見ながら絵里は思った。
 平塚くんは、お父さんが亡くなった時、どんな気持ちだったんだろう。  
 そうして、あたしは、お婆ちゃんが亡くなる時、どんな気持ちになるんだろう……。 

 
 最寄り駅の近くまで帰ってきた頃には、もう昼の一時をまわっていた。人の行きかう駅前のロータリーでバスを降りると、お母さんは言った。
「時間大丈夫なの? 今日、詩織ちゃんたちと一緒に遊ぶんでしょう」
「うん。まだ平気」
 絵里は、病院の食堂でカレーライスを食べ、満腹になったお腹をさすりながら答えた。
「お母さん買い物してから帰るから、……あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「はーい」
 お母さんと別れ、絵里はそのまま大通りの方へ足を向ける。詩織ちゃんたちとの待ち合わせ場所は、駅のすぐ近くにあるショッピングモールだった。数年前に出来たばかりで、休みの日はいつも家族連れで賑わっている。
 約束の時間には少し早かったが、詩織ちゃんと小野さんはすでに来ていた。
「あ、絵里ちゃんだ、おーい」
 入口前の、噴水のある広場の前まで来ると、声をかけられる。ベンチから立ち上がって手を振っているる詩織ちゃんを見つけ、絵里は立ち止まって手を振り返した。
 そのまましばらく手を振り合っていたが、
「何やってるの、早くこっちきなよー」
 と、詩織ちゃんの隣に座っている小野さんが叫んだ。
 手を振るのに夢中で自分が立ち止まっていたのを忘れていた絵里は、照れ笑いをしながら二人のそばへと小走りで近づく。
「二人とも早いね」と、絵里は言った。「……詩織ちゃんはともかく、小野さんが遅刻しないなんて、めずらしい」
「失礼な」小野さんは不満そうに頬を膨らませた。
「ねえねえ、絵里ちゃんちょっと見てて」
 と、詩織ちゃんは言った。
「?」
「ショートコント、待ち合わせ」
 そう言って詩織ちゃんが合図すると、小野さんが少し離れた場所に立ち、小走りであらためてこちらへ近寄ってきて、
「ごめん、ちょっと遅れちゃった……。待った?」
「ううん、今来たとこ」
 詩織ちゃんはそう答え、にっこり笑った。
「ついさっき着いて、コンビニでアイス買って食べて、まだ時間があったからそこのお店で服も見て、暑かったし区民プールで泳いできて、いったん家に戻ってご飯食べてお風呂入って着替えてから来たところ」
「何時間待ってるねん!」
 と、小野さんがツッコミを入れた。
「……」
 絵里は、どう反応したらいいのかわからずにぼんやりしてしまう。
「……あれ、ウケてない?」
 詩織ちゃんはひそひそと小野さんにささやく。
「……ぜったいウケると思ったんだけど……」
 と、小野さん。
「……待ってる間、ずっとそれ考えてたの?」
 二人とも仲いいなあ……。
「……何してるの?」
 声に振り返ると、岡さんが不審そうな顔でこちらを見ていた。
「あ、委員長やっほー」
「ごめん、ちょっと遅れたかも」と、岡さんは言った。「……ところで、今日ってどういう集まりなの?」
「小野さんがプリクラ撮ったことないっていうからさあ、せっかくだし一緒に撮ろうと思って」
「あたしも撮ったことないよ」
 と、絵里は言った。
「じゃあなおさら撮らなきゃだめじゃん」
「……あたしも一緒でいいの?」
 岡さんが訊くと、
「委員長と一緒がいいんだよ」と、小野さんが言った。「ほらほら、行こっ」
 小野さんは、戸惑いぎみの岡さんの手を引いて建物の中に入っていく。絵里と詩織ちゃんの二人もその後につづいた。
 休日のショッピングモールはそれなりに混み合っていた。この辺りには他に遊ぶところもないため、地元の学生は、休みになるとここに来ることが多い。二階建てなのだが、施設のほとんどの部分に屋根がなく空が開けているので、晴れた日には、公園代わりにお弁当を持って広場で食べている家族連れなども、ちらほら見受けられた。
 通路脇には手作りのアクセサリーや、古着を売っているワゴンが並んでいて、いちいちその一つ一つを冷やかしながら歩いていく。その間にも、何度も館内放送で迷子のお知らせを流していた。
 ドーナツ屋の角を曲ると、円形の広場へ出た。奥にあるステージでは、たまに売れない芸人やアイドルのライブをやっているのだけれど、今は誰もいない。客席ではおじさんがスポーツ新聞を顔にかけたまま昼寝をしている。そのまま広場を横切ると小さなゲームコーナーがあり、エアホッケーメダルゲームに混じってプリクラの筐体が一つだけ置かれていた。
 四人はカーテンの中に入った。
「フレームどうする?」
「……これでいいんじゃない? これ一番かわいいよ」
「え、落書きとか出来るんだ……」
「そうそう、これずいぶん古いタイプのやつっぽいけどね」
「今さらだけど、小野さんすごい髪ぼさぼさだけど、いいの……」
「あたし髪とかしたことないもん」
「男子か」
「髪のばしたこととかないの?」
「だってめんどくさいんだもん。髪洗うの楽でいいよ」
「じゃあ撮るよー」
「……」
「……くふっ」
「あはははははは」
「小野さん、急に変な顔しないでよ、もう、笑っちゃったじゃん……」
「ごめんごめん、つい……」
「じゃあ、もっかい行くよー」
「……」
「……ふふっ」
「あはははははは」
「もう、詩織ちゃんも!」
「ごめんごめん、つい……」
 ……
 カーテンの中からはしじゅう、楽しそうな笑い声が聞こえていた。メダルゲームをやっていた小さい男の子が、不思議そうにそちらを振り返った。


「はー、おかしかった……」
「こんなに笑ったの久しぶりかも。……これとか、小野さんすごい顔してるよね」
 絵里と岡さんは広場のベンチにさっき撮ったプリクラを広げていた。小野さんと詩織ちゃんは、お腹が空いたらしくさっき屋台で見かけたたこ焼きを買いに行っている。
 ステージのそばでは、どこかのお店が新規オープンしたらしくパンダの着ぐるみが宣伝用の風船を配っていて、小さい子どもたちが集まっていた。着ぐるみのそばにいる、ピエロのような格好をした男の人が、アコーディオンで楽しげな曲を演奏している。
 やがて二人の方へも近づいてきた。絵里は差し出された風船を断ったが、委員長は赤い風船を受け取った。
 それを見て絵里は、
「……なんか、意外」
「え?」
「委員長、そういうのもらわなさそうだから」
「え、そう……? 小さい頃からもらってたから、なんか癖で」
 そう言うと、照れて顔を背ける。なんだか、委員長の新しい面を見たようで、嬉しくなった。
「あたしもやっぱもらえばよかったかな」と、絵里は言った。「……それにしても、今まで委員長と遊んだことなかったよね、たぶん……」
「そうかも。学校でしか会わないよね」
「こないだ、銭湯で会った時、びっくりしたもん」
 一息つき、空を見上げる。
 いつの間にか晴れわたり、雲ひとつない青が広がっていた。やっぱり、天気予報外れたなあ……。
「でも、よかった」
「え?」
 絵里のつぶやきに、委員長は不思議そうな声を上げた。絵里は、委員長の顔を下から覗き込むようにして、
「岡さん、最近なんか元気なかったでしょ? あ、あたしの気のせいだったらごめんね……。なんか、そう見えたから」
「……そう、かな」
「それでね、今日みんなで遊ぼうってことになったの。だから、委員長が元気出たんならよかった」
「……」
 その時、アコーディオンで弾いている曲の調子が不意に変わり、男の人が歌いだした。思わず絵里はそちらに顔を向けた。

『鋭い悲しみが胸を挫き、
 沈痛な憂愁が胸をしめつけるとき、
 音楽はその銀の調べをもって、――』

 この歌、どこかで聴いたことがあるような……。絵里はそう思いながら、ぼんやりとそちらを眺めていると、
「……うっ、」
 突然岡さんが、俯いて手で顔を覆った。その拍子に持っていた赤い風船が手からはなれ、あっという間に青い空へと吸い込まれていった。
「……岡さん?」
「う、ううう……」
 岡さんは突然泣き出してしまった。
「え、大丈夫……?」と、絵里は心配そうな声をあげた。「ええと、お腹痛いとかじゃないよね……」
 岡さんは何も答えない。絵里はどうすればいいのかわからなかった。とりあえず隣に座り、背中をさすってあげる。
 しばらくそうしていると、ようやく落ちついたのか、岡さんはゆっくりと顔を上げた。赤い目元をしきりに拭い、鼻をすすり上げている。
「……落ちついた?」
「……」
「……あたし、なんか悪いこと言ったかな」
 岡さんは無言で首を横に振った。
「じゃあ、……どうしたの? 何か悲しいことでもあったの?」
「……」
「もし何か悩みとかあるんだったら、言ったほうがいいよ。あたしでよかったら相談乗るし」
 と、絵里は言った。
「あんまりアドバイスとかできないかもしれないけど……人に話すだけでも楽になるかも」
「……、違うの」
「え?」
「違うの、そうじゃないの……」岡さんはまた顔を伏せてしまった。
 しばらく無言の時間が続いた。
「……あたし、そんなことしてもらう資格ないの」
 そこで、岡さんは躊躇うように言葉を切る。
「……」
「……あのね、笹原さんに謝らなくちゃいけないことがあるの」
「え、あたし?」
 絵里は驚いて自分の顔を指さした。
「……笹原さん、正人くんのこと、好きなんだよね?」
 急にそう言われ、絵里は何も言葉が出なかった。
 動悸が速くなるのを感じる。どうして委員長がそのこと知ってるんだろう。ていうか、謝りたいって何を……、あたしが平塚くんのことを好きなのに関係あるのかなあ……? 
 一瞬のあいだに、色々な思いが頭の中をぐるぐる回る。混乱する絵里をよそに、岡さんはかすれ声でつづけた。
「あたし、見ちゃったの。夏休みの前、笹原さんが、正人くんの机に手紙を入れるところ……」
 そこまで言うと、また岡さんの目元に涙がたまってきた。頬を涙が垂れ落ち、しゃくりあげはじめる。
「ずっと好きだった……」
「……」
「あたし、正人くんのことずっと好きで、……でも、もうふられてるの。告白したけど、友達以上には見られないって……。
 悪いとは思ったけど、笹原さんの手紙、開けて中身見たんだ。それで、怖くなった。もし、笹原さんと正人くんが上手くいっちゃったらどうしようって……。だから机から手紙を抜いて、焼却炉に捨てたの」
 絵里は、目の前の事態に頭が追いついていなかった。
 誰かが泣くのを見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする……、そんな関係のないことをぼんやり考えていた。
「ごめんね、ごめんなさい……」
 岡さんの声は、嗚咽のせいでよく聞こえなかった。 
「何度も何度も、言おうと思った。ずっと思ってた……」
 と、岡さんは言った。
「でも怖くて、言えなくて……。笹原さん、きっとあたしのこと嫌いになる。当然だよね、それだけのことしたんだもん。自分の勝手な気持ちのせいで、笹原さんのこと傷つけて……
 でも、嫌われたくなかったの。
 そんなことしておいて、それでもあたし、嫌われたくなかったんだ。
 だから……、ずっと怖くて、言えなかった」
「……」
「あたし、自分がこんなに嫌な人間だなんて、知らなかった……」
「……」
「ごめんね、ごめん、……ごめん……」
 ごめんね、
 ごめんなさい……。


「……だから昼間、二人とも先帰っちゃったんだ」
 電話口の向こうで、詩織ちゃんがそう言った。
「小野さんといっしょにたこ焼き買って戻ったらさあ、二人ともいないから、心配したんだよ」
 絵里は、自分の部屋の扇風機の前に座り込み、風に当たっていたが、布団に寝転がった。
 耳元に受話器を当てながら、  
「うん、……」
「でもやっぱり、絵里ちゃんは平塚くんのこと好きだったんだね」
「……ごめんね、ずっと黙ってて」
 絵里はそう言って、
「……ていうか、やっぱりって……」
「絵里ちゃんわかりやすいもん。だから、何となくそうなんじゃないかなーって思ってた」
「そうなんだ……」
 あたし、そんなに態度に出てたのかなあ。絵里は寝返りをうち、天井を見上げた。
「……絵里ちゃん、大丈夫?」
 不意に、詩織ちゃんが言った。
「え?」
「だって、手紙……」と、詩織ちゃんは言った。「好きだって、……平塚くんのこと好きだって、伝わってなかったんでしょ」
「……うん」
 そう、勇気を出して書いた手紙がそもそも読まれていなかったというのは、確かにショックだった。
「……でもね、……なんか、意外と平気みたい」
「そうなの?」
「平気、なのかな……。ええと、平気っていうか……、委員長の気持ち、わかる気がするから」
と、絵里は言った。
「……もし逆の立場だったら、あたしも同じことしたかもしれない。わかんないもん」
「……小野さんは知ってるの?」
「ううん。小野さんて、転校してきたのつい最近でしょ? だから連絡網に電話番号まだのってなくて、電話できないんだよね……」
「心配してたよ。二人のこと」
「……あたし、直接言うよ」と、絵里は言った。「たぶん、その方がいい気がする」
「そっか……」
「……あれ?」
 絵里は不意に、不思議そうな声を上げた。
「どしたの?」
「いや、……」
 起き上がり、窓に近づく。暗い窓の向こうからは、さっきまで外を走る車の音しか聞こえていなかったけれど、いつの間にか、小さな雨音が聞こえ出していた。窓にも細かい雨粒がいくつもつきはじめている。
 雨だ……。
 昼間、あんなに晴れてたのになあ。
 あの風船はどこまで飛んで行ってしまったんだろう、と絵里は思った。委員長が空に飛ばしてしまった、あの風船は……。
 絵里はしばらくのあいだ暗い空を見上げていた。


  ※


 パタパタパタパタ……。
 廊下を歩くスリッパの音が聞こえていた。放課後の校舎には、もうほとんど人の姿もない。最終下校の時刻はもう過ぎていた。
 絵里はランドセルを背負ったまま、五年二組の教室の戸を開け、中に入った。窓ごしに見える空はもうすでに赤く染まっている。
 窓際にある自分の机の中を確認し、
「あ、よかった、あった……」
 ほっとして、溜息をつく。明日提出の算数のプリントを忘れてしまい、引き返してきたのだ。
 無意識に、小野さんがよくやっているように、スリッパの爪先をこつこつと床に当てる。
 昨日の雨のせいで、家のベランダに干していたままだった上履きが、まだ乾いていなかったので、絵里は仕方なく職員室でスリッパを借り、今日一日過ごしていた。それを見た小野さんは、「おそろいだね」と、嬉しそうに笑っていた。小野さんは、いまだに上履きを買うことなく、スリッパのままでいつも校内を歩き回っていた。
 小野さんには、まだあのことを言っていなかった。
 だって、どうやって切り出したらいいんだろう。
 委員長があたしの手紙を平塚くんの机から抜いて、焼却炉に捨てたなんていうこと……。
 それを知ったら、小野さんは怒るだろうか。
 あの、掃除の時間の時みたいに、あたしのために怒ってくれるだろうか。
 でも、そのせいで委員長と小野さんの仲が悪くなったりしたら、どうしよう……。
 なんだか、色々なことを考えてしまって、言い出すタイミングを逃してしまった。やっぱり、小野さんには黙っていた方がいいのだろうか……。
 いくら考えてみても、よくわからなかった。
「……もう、帰ろ」
 机の間を通り抜け、廊下に出ようとして――絵里は、黒板の前でふと立ち止まった。
 ――あたしたち、フライデーされちゃうかもね。
 不意に、詩織ちゃんの言葉を思い出す。絵里は、半分折れている白いチョークを手に取った。 
 平塚くんは、あたしが平塚くんのことを好きなのを知ってて、あんなふうな態度でいたわけじゃなかった。
 そもそも、あたしの気持ちを知らなかったんだ。
 カッ、カッカッ……。 
 チョークの音が、誰もいない教室の中にひびく。 
 ――教室の黒板に相合傘描かれちゃうかもよ。
 あたし、別にふられたわけじゃなかった。
 もし、もう一度告白したら……、と絵里は思った。もし、もう一度告白したら……。
 絵里は自分の描いた相合傘をじっと見ていた。
 このまま残しておいたら、明日の朝すごい騒ぎになっているだろうな。そう思い、黒板消しを手にしたが、なんだかすぐに消してしまうのが躊躇われた。
 もし、もう一度告白したら……。
 その時、廊下を歩く足音が聞こえてきた。え、誰か来る……? 五年二組は校舎三階、西階段のそばにあり、その先には特別教室しかない。
 足音はなおも近づいてくる。
 絵里は教室の中を見回し、咄嗟にカーテンにくるまって隠れた。隠れてから、すぐに後悔する。隠れる必要なんてなかった、クラスの誰かなら、すぐに相合傘を消して、何食わぬ顔でごまかせばよかったのに……。そう考えるが、今さら出ていくこともできなかった。
 やがて教室の戸が開き、平塚くんが入ってきた。
 平塚くんはきょろきょろと何かを探すような仕草をしていたが、おもむろに床にかがみこむと、何かを拾い上げた。
 それは将棋の駒だった。銀が一枚なくなってしまい、教室に落ちていないだろうかと探しに来たのだ。平塚くんは、安心したのかふうと息をつき、駒をポケットに入れた。そこで何気なく振り返り、黒板に目をやる。

 笹原絵里
 平塚正人

 平塚くんはその相合傘をしばらくのあいだじっと眺めていた。そして、何かの気配を感じて窓の方に顔を向け――、カーテンの下からスリッパを履いた足が見えているのに気がついた。
「……小野さん?」
 ……平塚くん……。
 絵里は、声の主が誰なのかすぐにわかった。
 同時に、どうして小野さんと間違えられたのだろうと思ったが、自分の足元を見て思い当たる。
 そっか、あたし、今スリッパ履いてるから……。
 どうすればいいのかわからず、声を出さずにそのままじっとしていた。ていうか、絶対相合傘見られたよね、ああもう、死にたい……。
 平塚くんはもう一度黒板の方を見てから、
「……これ描いたの、小野さん?」
 と、言った。
「……」
 絵里は何も答えない。
 平塚くんは気まずそうに頭をかいて、
「……こないだ泊まりに来た日、小野さん言ってたよね。笹原さんが、ぼくのこと好きだって……」
 ……え?
 絵里は自分の耳をうたがった。思わずカーテンを掴む手に力がこもる。
 今、……今、なんて言ったの?
「夜中、ぼくが喉かわいて起きちゃって、下に麦茶飲みに行ったら、小野さんがいてさ。その時話したよね。
 ……覚えてる?
 笹原さんがぼくのこと好きだから、好きになってあげてほしい、とってもいい子だからって……。
 急にそう言われて、すごいびっくりした……」
「……」
「あれからずっと、言おうと思ってたんだ」
 そう言って、平塚くんは言葉を切った。平塚くんの顔は、夕陽に照らされて赤くなっていた。
 絵里の呼吸は止まりそうだった。
 無言の時間が、まるで永遠につづくようにも思えた。
 その時、どこかで何かの落ちるような大きな音がしたかと思うと――、突然足元が大きく揺れた。
 ……え、何これ、地震……?
 落ちついて考える余裕はなかった。窓際に置いてあった水槽の水が揺れてこぼれ、箒の入っているロッカーの上に置いてあったバケツが床に落ちて大きな音を立てた。
 大きな揺れに立っていられず、絵里は大きくよろけ――、カーテンの外に出て、へたりこんでしまった。
 同じようにしゃがみこんでいた平塚くんと目が合う。
 お互いに顔を見合わせ、何も言葉が出てこなかった。
「……とにかく、危ないから机の下に入ろう」
 ようやく、平塚くんがそう言った。
「……うん」
 二人は並んだ机の下にそれぞれ潜り込んだ。机の脚をおさえて動かないようにする。
 こんなに大きな地震、生まれてはじめて……。すごく怖かったけれど、反面、妙に頭の中は冴えていた。
 絵里は不意に思い出した。乳母の語る、ジュリエットが小さかった頃のこと……。

『……地震の年から数えて今年は十一年目でございましょう、
 ちょうどあのとき、――忘れようたって忘れられませんですよ――
 一年三百六十五日、その中でも、ちょうどあの日に乳離れをなさいましたんですよ。
 あのとき、あたしは乳首ににがよもぎの汁を塗ってましてね、
 そして鳩小屋の壁の所で日向ぼっこをしておりましたんですよ。
 旦那様と奥様はちょうどマンテュアにいらしてご不在中のことで――
 いいえ、ね、あたしの頭はまだぼけてはいませんですよ――』

 しばらくそうしていると、ようやく揺れがおさまってきた。掲示板のそばの花瓶は落ちて割れ、黒板の下にはチョークが散乱し、水槽のそばの床はびしょびしょに濡れていた。学級文庫の棚にさしてあった本も、何冊か落ちて頁が開いてしまっ ていた。 
「……おさまった?」
「……かなあ」
 絵里が横を向くと、予想より近くに平塚くんの顔があった。
「……どこから聞いてた?」
 と、平塚くんが言った。
「……ぜんぶ」
 と、絵里は答えた。
「そうだよね……」
 平塚くんは目を伏せたまま、
「……笹原さん、ほんとに僕のこと好きなの?」
 絵里はその言葉に、しばらく迷っていたが、ためらいがちに頷いた。
 ――実はぼくも、ずっと前から笹原さんのこと、好きだったんだ。
 そして平塚くんが、そんな台詞を言う場面を想像した。
 なんだか、上手くいきそうな気がした。
 ううん、……上手くいかないはずなんてない、と思った。
 だって、漫画とか小説とか……、お話の中では、いつだってそういう風になっていたから。
 絵里は平塚くんの次の言葉を待った。
 しばらくの間、無言が続いていたが、やがて平塚くんが口を開いた。
「……、ごめん」
「……」
「別に笹原さんのことが嫌いだとか、そういうんじゃないよ。……でも、女子のこと好きになるとか、……友達じゃなくて好きになるとか、よくわかんないんだ。笹原さんのこと、今までそんなふうに思ったことなかったから……」
 ……大丈夫、
 ……大丈夫だよ。
 だって、元々ふられてるはずだったんだから。
 平気だって、それでも一緒にいられるだけで嬉しいって、そういう風に思えるようになったんだから。 
 だから、泣いちゃだめだ。
 泣いたり、泣いたりしちゃ……。
「……」
「……笹原さん」
 絵里は、勝手にあふれ出る涙を止めることができなかった。
 乱暴に目元を拭い、平塚くんに背を向けると、机にぶつかりながらよろよろと教室の外へ出る。
「……あ、う、うあ、あああ……」
 嗚咽を漏らしながら、人気のない暗い廊下を歩いた。
 ――どうして?
 ――……どうして、あたしじゃだめなんだろう?
 一目惚れじゃない。
 あたしの気持ちは、ロミオとジュリエットみたいに一目惚れなんかじゃない。一目惚れの恋が実るのに、どうしてあたしはだめなんだろう。
 ずっと、
 ずっと、好きだったのに……。

 
 教室に残された平塚くんは、ぼんやりと窓の外の夕陽を見ていた。すると、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきて、突然戸が開けられた。
「あ、……」
 平塚くんがそちらを向くと、息を切らせた警備員さんが立っていた。いつもは宿直室にいるので、ほとんど顔を合わせたことはない。
「君、大丈夫だったかい、今の地震……」
「あ、はい……」
「今、生徒が残ってなかったかどうか見て回ってるんだ。……また大きいのが来るかもしれないし、いちおう一緒に来たほうがいい。ほら、行こう」
 平塚くんは頷くと、そのまま廊下へ出ようとして……、 ふと、黒板の前で立ち止まる。
 少し迷っていたが、黒板消しを手に取り、絵里の描いた相合傘を消した。


   ※



 こんにちは。
 あ、なんか、こんにちはっていうのも変か……。
 ふだんはそんなこと言わないもんね。
 突然こんな手紙を書いたりしてごめんなさい。
 どうしても、直接言えないことがあったので、こうやって手紙を書きました。 

 平塚くん、おぼえてますか?
 三年生のとき、プール行ったこと。他の子たちもみんなで……。あたしが怪我しちゃった時、一緒についてきてくれたよね。
 それから、同じクラスになれて嬉しかった。 
 あのときのこと、一度も話したことないけど……。あたしは、ずっと忘れていませんでした。
 いつからかはわからないけど……、いつの間にか、平塚くんのことが好きになっていました。
 毎日顔を見るだけでどきどきして、うれしくて、……平塚くんも、あたしと同じように思っていてくれたらどんなにいいだろうって、そう思います。

 平塚くんは受験しないって、石浜くんに聞きました。
 あたしも受験はしないので、同じ第三中だね。
 中学になっても、同じクラスになれたらいいな。

 手紙だと、なんだか変な感じ……。どうしても敬語になっちゃうね。
 迷惑じゃなければ、返事もらえたらうれしいです。

                                           笹原絵里』


   ※

 
 たとえ誰かが失恋しても、そんなことはお構いなしに、時間はどんどん過ぎていく。
 演劇祭まであと四日、各クラスの練習も最後の追い込みに入っていた。生徒たちはみんな浮き足だっていて、授業中にも台本を覚えなおしたり、休み時間や放課後だけではなく、給食の時間や教室移動のあいだにも、お互いに台詞の確認をしたりしていた。 
 授業中に台本を読みながら、ぶつぶつ台詞を呟いていた男子の一人が先生に見つかり、
「ほら、熱心なのはいいけど、ちゃんとけじめつけなさい」
 と、教科書を丸めて頭をはたかれ、周りから笑い声が上がった。
 放課後、五年二組の教室では衣装合わせが行われていた。
「わ、絵里ちゃん似合うじゃん」
 と、ジュリエットの衣装を着た絵里を見て詩織ちゃんが言った。
「……そう、かな?」
 絵里は、白いドレスのようなワンピースの裾を手で払ったり、落ちつかない様子を見せている。
「うんうん。かわいいよ。いい感じ」と、女子の一人が言った。「大きさもちょうどいいくらいだね」
 小道具や書割はクラスのみんなで手作りしていたが、衣装だけはそうもいかなかったので、先生の知り合いで貸衣装屋をやっているという人から、雰囲気に合うものを借りてきてもらうことになっており、それを初めて試着してみたところだった。
 絵里が前髪を気にしていると、詩織ちゃんが手鏡を貸してくれた。自分の顔を覗き込む。 
 ……昨日の夜、泣きすぎたから、目腫れてるかと思ったけど、そうでもないな。よかった。
 鏡の角度を少し変えると、肩越しに、石浜くんと台本を見ながら喋っている平塚くんの姿が映った。絵里が見ているのには気づいていないようだ。
 あれから、平塚くんとはまともに話をしていない。というより、平塚くんが話しかけてきても、絵里はずっとそれを無視していた。
 だって、何話したらいいのかわかんないんだもん……。
 ふう、と内心で溜息をつく。
 平塚くんに会いたくないので、本当は学校を休みたかったけれど、いちおう劇の主役に選ばれている身だ。練習に出ないわけにはいかなかった。
 もう一人の主役の小野さんは、ロミオの衣装を着て、小道具の剣を鞘から抜き、町での小競り合いの場面での、立ち回りを確認していた。少し離れたところでは、女子数人がそれを見てきゃあきゃあ言っている。背は高くないけれど、小野さんはこういう動きをさせると、相変わらずすごくさまになっていた。
 小野さんは一息つくと、絵里の方に近づいてきて、
「絵里ちゃん、かわいいよー」
 と言って、にっこり笑った。
「ありがとう。小野さんもかっこいいよ」
 小野さんはあはは、と笑って、
「もう、本番まであと四日なんだね……。なんだか、この一ヶ月、すごい早かった気がするよ」
「小野さん、転校してきたばっかりなのに、色々あったもんね」
「うん」
 小野さんは頷いて、
「……舞台、成功するといいよね」
「うん……」
 けれど、絵里は気にかかっていることがあった。平塚くんのこと以外にも、もうひとつ。
 無意識に教室の中を見回していた絵里に、
「……委員長?」
 と、小野さんは心の中を読んだみたいに言った。
「ここんとこ、ずっと休んでるよね」
 岡さんは、もう五日学校に来ていなかった。先生に聞いたところ、風邪をこじらせてしまって熱が下がらないらしい、ということだったが、絵里は、この間のことが原因で学校に来たくないんじゃないだろうかと疑っていた。
「本番、ちゃんと来れるのかな」
「……わかんない」
 二人が話していると、先生が入ってきて、「はいはい、じゃあ練習始めるわよー」と、手をパンパンと叩きながら言った。 
 最終下校の放送が流れる少し前には、練習が終わった。絵里はトイレを済ませてから、小野さんの待っている昇降口へと急いでいた。職員室前の廊下を通る時、不意に戸が開いて中村先生が出てきた。
「あ、笹原さん……帰るとこ?」
「はい」
 絵里は立ち止まって、
「先生は?」
「あたしも帰りたいけどねえ……」と、先生は苦笑した。「このあいだ地震あったでしょう。うちの子たちはみんな無事だったけど……、本が落ちてきて怪我した子とかも、他の学区域ではいたみたいなの。
 だからその対策っていうか、避難ルートの確認とか、非常食のこととかね、話し合わなくちゃいけないのよ」
「そうなんですか……」
「さっき、衣装似合ってたわよ」
 と言って、先生は笑った。
「……ありがとうございます」
 絵里はぺこりと頭を下げた。
「借りてきた甲斐あったわ。どうせなら、他のクラスに負けない舞台にしたいもんね」
「衣装貸してくれたの、先生の知り合いなんですよね?」
「そう。いろんな仕事してるやつでねー、昔は輸入雑貨のお店やってたのよ」
「そうなんですか」
「確か、その前は豆腐屋だったし」
 ぜんぜん系統違うでしょ、と先生は笑いながら言った。
「あたし、お豆腐好きです」
 と、絵里は言った。
「ありがと。……って、あたしがお礼言うことでもないけどさ」
「あはは」
 絵里は先生のお腹を見て、また大きくなっているように思った。
「今、何ヶ月ですか」
「五ヶ月くらいかなー」と、先生は言って、自分のお腹をさすった。「笹原さん、触ってみる?」
「え、大丈夫ですか」
 先生は笑いながら、
「平気よ、ほら……」
 先生に促され、絵里はおそるおそる先生のお腹に手を触れた。
「……」
「どう、感想は」
「……よくわかんないです」
「そりゃそうよねえ」
「男の子か、女の子か、もうわかってるんですか」絵里は訊いた。
「ううん。まだ聞いてない……」
 先生なんだか嬉しそう、と絵里は思った。赤ちゃんのことを考えるだけで、楽しいみたいだ。
「どっちがいいですか?」
「どっちでも嬉しいよ」と、先生は言った。「でも、……どっちかといえば女の子の方がいいかなあ。だって、あたし女の子だったことはあったけど、男の子だったことはないからさ。男の子の気持ちとか、あんまりわかんないもん」
「……」
 絵里は何も言わなかった。
「でもあの人は、男の子の方がいいって思ってるかもね」
「……あたしも、」
「え?」
「あたしも、もし子供を産むことになったら、女の子の方がいいです」
「……」  
 怪訝そうな表情の先生に構わず、絵里はつづけた。 
「……だってあたしも男の子の気持ち、よくわかんないから」
 

 岡さんは、パジャマ姿で自分の部屋のベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。
 部屋の中には、壁際に置かれたピアノと本棚、それ以外にはほとんど物が置かれていない。
 ベッドのサイドボードには、よく手に取るお気に入りの本が数冊並んでいる。その中から一冊の手帳を取り出して開く。そこには、この間ショッピングモールで絵里たちと撮ったプリクラが貼られていた。
 岡さんはしばらくそれを見ていた。
 自分の写真を見るのは苦手だった。笑うのが苦手だったから……。
 ……あたし、こんな風に笑うんだな。
 自分の笑顔を見るなんて、ひどく久しぶりな気がする。
 やがて、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。たぶんお母さんだろう。岡さんはそう思い、布団をかぶりなおした。まだ具合が悪いふりをしなければいけない。
 壁に画鋲で留められたカレンダーに目をやる。
 一、二、三……もう、学校に行かなくなってから五日が経っていた。
 でも、いつまでこんなこと続けるんだろう。仮病を使って学校を休みつづけるのもそろそろ限界だと思う。
 ……お母さんも、何も言わないだけで、うすうす気づいているんじゃないだろうか。 
 それに、……もうすぐ演劇祭だ。
 みんな、がんばって練習してるだろうな。委員長のくせに、クラスに迷惑をかけていることを考えると、ますます行きづらくなってしまう。
 ……だから嫌だったのに、と思う。
 本当は委員長なんて柄じゃない。率先して何かをやるようなタイプじゃないのに、成績が良いというだけで推薦されてしまい、断ることができなかった。
 足音がドアの前で止まり、コンコン、と遠慮がちにドアをノックされる。
「亜佐美……、 起きてる?」
 お母さんの声。
「……」
 返事をするかしばらく迷ったが、
「……起きてる」
「あのね、お友達がお見舞いに来てるわよ」
「え?」
 驚いて、思わず起き上がる。
 お友達って、誰のことだろう……。
「岡さん、具合悪いなら大丈夫です、あたしは……」
「でも、せっかく来てくれたんだから。……亜佐美、開けるわよ」
 返事をする前にドアが開けられた。そこにいたのは、見覚えのある顔だった。……今、プリクラの写真で見たばかりの顔。
「……笹原さん」
「あ、お邪魔してます……」
 絵里はそう言って、軽く頭を下げた。


「冷蔵庫に柿あったから、切ってくるわね」と、岡さんのお母さんは言った。「ええと、笹原さん? 柿嫌いじゃない?」
「はい、好きです」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 そう言い残して岡さんのお母さんは階下へ戻ってしまう。絵里は所在なさげにカーペットの上に座った。
「ランドセル、その辺に置いていいよ」
「ああ、うん……」 
 言われて、あわてて背負ったままだったランドセルを下ろす。
 二人のあいだにほとんど会話はなかった。そのくせお互いのことを気にしていて、ちらちらと目をやるが、いざ目が合うと、どちらからともなく視線をそらしてしまう。
 やっぱり来なければよかったかな、と絵里は思った。
 でも、心配だったし……。それに、あたしに原因があるのはわかりきったことだったから。
 絵里は、一度帰るふりをして小野さんと別れ、それから家に戻らずにそのまま岡さんの家へやってきた。小野さんにお見舞いに行くことを伝えれば、あたしも一緒に行く、と言うに決まっている。委員長以外の他の人のお見舞いなら、別にそれでもよかったのだけれど、……今回ばかりは、一人で来たかったのだ。
「……起きてて大丈夫なの?」
 と、絵里は言った。
「うん。今は熱ないし……」
「そっか、よかった」絵里は笑って、「岡さんのお母さんって、きれいだね」
「……別に……」
「あ」
 絵里は何かに気づいたような声を上げ、
「岡さんと、お母さんって、ひびきが似てるね」
「……?」
「ほら、岡さん、お母さん」
 似てるでしょ? という絵里の言葉に、
「……そうだね」
 岡さんはどうでもよさそうに言った。
 それきり二人は無言になった。カチ、カチ、カチ、と時計の針の音だけが大きく聞こえている。
 うう、気まずい……。
 絵里は、もう本題に入ることにした。心の中で深呼吸をひとつする。
「……岡さん、学校、いつ頃来れそう?」
「……」
「みんな心配してるよ」
「……してないよ」
 岡さんは俯いたまま言った。
「そんなことないよ」 
「……もう行かない」
「え?」
 絵里が思わず聞き返すと、
「……学校、もう行かない……」
 と、岡さんは言った。
「だって、いつまでもこのままでいるわけにはいかないでしょ」
「……とにかく、行かない」
 岡さんはそう言うと、頭から毛布をかぶってしまった。ごろんと寝返りをうち、絵里に背を向ける。
 ……何それ。
 絵里はなんだか腹が立ってきた。
「……小さい子じゃないんだから、そんなことできないよ」
「……」
「……」
 絵里は毛布にくるまる岡さんを見ながら思った。こうやって、誰か自分以外の人がわがままを言っているところ、あんまり見たことがないから、どうしていいのかわからなくなってしまう。
 自分のわがままは、自分のせいだから、とても楽だ。でも、こういうのは……、自分のせいにして終わらせることはできない。
 だってあたし悪くないもん。
 あたしだって、……たくさん、たくさん傷ついてるのに。
「それぐらいがんばってよ」
 と、絵里は言った。
「……あたしだって、学校、休んだりしないでがんばってるんだよ」
 返事はない。絵里はかまわずにつづけた。
「……あたしも、平塚くんにふられちゃったのに、……それでもがんばって、学校行ってるのに……」
「……」
「ずるいよ、そんなの……」
 最後の方は消え入りそうな声になった。
「……ふられたって、本当?」
 毛布の中から声が聞こえた。
「……嘘ついてどうするのよ……」
「……あたしのせい? ……あたしが、笹原さんの手紙、捨てたりしたから……」
「違うよ」
 と、絵里は言った。「岡さんは関係ない……。そのこととは関係ないよ。ただ、あたしがふられたってだけ」
「でも……」
「そんなに気にするなら、最初からしないでよ」
「だって、……だって、好きだったんだもん」
 岡さんは毛布の中で泣きじゃくりはじめた。
「あたしだってそうだよ……」絵里も、色々なことを思いだしてしまい、また悲しくなってきた。
 二人は声を上げて泣いた。
 やがて岡さんのお母さんが柿を持って上がってきて、泣いている二人を見て驚いていた。
 心配そうな表情のお母さんを部屋から追い出した岡さんは、手の甲で涙を拭きながら、
「……せっかくだし、食べようよ、ほら」
 と、絵里に柿をすすめた。
「……いただきます」と、絵里は手を合わせてから爪楊枝を取り、一口大に切られた柿を食べる。「……この柿、おいしいね。甘い」
 潤んだ眼は、まだ赤いままだった。
「これうちの庭でとれたやつだよ」
「えー……、すごい。いいなあ」
 ずっと団地に住んでいるので、岡さんの家のように、庭つきの一軒家には憧れがあった。
 しばらく二人は無言で柿を口へ運んでいたが、
「……ごめんね」
 と、岡さんがぽつりとつぶやいた。
「ほんとに、……あたし、……」
「……もういいよ」そう言って、絵里は溜息をついた。「……だって、あたしも平塚くんのこと好きだから、……委員長の気持ち、わからないわけじゃないし」
「……」
「……諦めなくちゃ、いけないのかなあ……」
 絵里のつぶやきに、
「……うん」
「時間が解決してくれるってよく言うけどさ……、そんなこと言われてもって感じ。いつまでかかるんだろう……」
 もし、新しく好きな人ができなかったら……。ずっと平塚くんのことを諦められなかったらどうしよう。
 このまま小学校を卒業して……、中学、高校、大学……。
 それでもずっと好きだったら?
 そんなことないよ、と絵里は首を振った。だって、それまで何年あるんだろう。ずっとこの気持ちが続くはずなんてない。
 でも……。
 それでもずっと好きだったら?
 死ぬまで……、と絵里は思った。
 もし、死ぬまで、ずっと、好きだったら?
「他の人のことを好きになろうにも、うちのクラスカッコいい男子いないよね」と、岡さんは言った。「まあ、平塚くんも顔がかっこいいわけじゃないけどさ」
 絵里はそれを聞いて少し笑ってしまった。
「委員長、そんな風に思ってたんだ……」
 なんだか、意外だった。
「……だから、委員長って呼ぶのやめてくれない?」
「それぐらいいいじゃん。委員長委員長委員長」
「……連呼しないでよ……」
 二人はどちらからともなく吹き出してしまい、笑った。
 泣いていた二人が心配で、外で聞き耳を立てていた岡さんのお母さんも、その笑い声を聞き、やがて安心して階段を降りていった。
 絵里は、帰る時に沢山の柿をお土産にもらってしまった。嬉しいけれど、ビニール袋にいっぱい入っているので、すごく重い。
 でも、委員長と話せてよかったと思う。なんだか、あたしも元気が出てきた。
 街灯の照らす夜道を歩きながら、委員長、明日学校来るかなあ……、と絵里は思った。
 来てくれたらいいけど……。やっぱり、あたしのせいで誰かが休んだりするの、気になるもん。
 明日になったら委員長と、前みたいに普通に話せるかどうかわからない。
 でも、……今日こうやって話ができたことは無駄じゃないと思う。
 それに、もうすぐ演劇祭の本番だ。せっかくだからクラスのみんなで成功させたい。
「……よしっ、がんばろ」
 絵里は小さい声で呟くと、柿の重さによろけながら家路をいそいだ。


  ※


 体育館でのリハーサルは、クラスごとに時間が決められている。五年二組の割り当ては、本番二日前の五時間目だった。
 体育館の窓は暗幕で覆われていた。すでに舞台の両脇にはひな壇が置かれ、合唱の子たちがスタンバイしている。その中には岡さんの姿も見えた。ちらちらとしきりに舞台の方を気にしている。
「ほら、中川さんもうちょっと右……。そうそう。ちゃんと背筋のばしたほうがかっこよく見えるわよ」
 先生が体育館の真ん中に立ち、全体を見ながら細かい指示を送っていた。体育館の床には、本番にパイプ椅子を置くために、カラーテープで印がつけられていたが、当然ながら、まだリハーサルなのでお客さんは誰もいない。
 出演者たちは、すでに衣装に着替え、舞台袖で自分の出番を待っていた。これから練習するのは、『ロミオとジュリエット』の、一番盛り上がるクライマックスのシーンだった。
 ロミオがジュリエットの死の知らせを聞き墓場へ急ぎ、そこに居合わせた、ジュリエットの婚約者パリスと決闘になる。
 パリスを殺した後、ジュリエットの死を確認したロミオは絶望のあまりその場で毒を飲んで自殺してしまう。しかし、ジュリエットは、牧師からもらった薬で四十二時間仮死状態になっていただけだった。眠りから目覚めたジュリエットは、目の前で死んでいるロミオを見て、ロミオの短剣を手に取り、愛する人の後を追うように、自らの命を絶つのだった……。
「はい、じゃあそろそろ行きましょうか」
 指示を終えた先生が言った。
 パンパン、と手を叩くと、照明係が体育館の明りを暗くした。同時に、舞台の照明がつけられる。
「第五幕、第三場……、ようい、ハイ!」
 その声と共に、パリス役の男子と、その小姓役の女子が舞台袖からゆっくりとした足取りで出てきた。小姓は、ボール紙でつくった花束と、大きな松明を手にしている。
 舞台には、本番では墓のハリボテが用意される手はずになっていたが、今は練習なので何も置かれていない。
『おい、その炬火をくれ、そして、お前はずっと向こうに離れていてくれ。
 いや、やはり炬火は消してくれ、だれにも見られたくないからな。
 あそこの櫟の下で横になって、このうつろな土地の面に、
 お前の耳をしっかりとくっつけておいてくれ。
 この墓地は、さんざん墓穴を掘ったため、地盤がゆるみ、脆くなっており、
 だれかがその上を歩いてくれば、すぐにお前の耳に響くはずだ。
 だれかこっちにやってくる足音が聞こえたなら、
 その合図にさっそく口笛を吹いてくれ。
 さ、その花をよこせ。言われたとおりにしてくれ。おい、行くのだ。』
 男子の声が響く。
 緊張しているのか、少し震えているようにも聞こえる。
『こんな墓地で一人になるなんて、怖くてたまらないや。
 だが仕方がない、逃げ出さずに頑張ってみよう。』
 小姓役の女子はそうつぶやくと、舞台の隅にしゃがみこみ、足音を聞くため床に耳を押し付けるようにした。
 台詞をつっかえたりすることもなく、今のところ劇はスムーズに進行していく。先生が緊張した面持ちでその様子を眺めていた。
 絵里は、舞台奥の壁際に垂らされた布の向こう側でスタンバイし、自分の出番を待っていた。
 布には納骨堂の絵が描いてあり、入口の部分に切って穴を開け、向こう側へ通り抜けることができるようになっている。ロミオ役の小野さんが、ジュリエットを探してそこから布の向こう側へ入ると、客席からは納骨堂の中へ入ったように見えるというわけだ。
 絵里は、布に隠れて観客に見えない位置に立ち、入ってきた小野さんにお姫様だっこをされて舞台に登場することになっている。ジュリエットはもうすでに薬を飲んで仮死状態になっているので、自分で歩くことはできないから。
 教室でその練習をした時に、
「あたしけっこう重いよ……」と、絵里は小野さんに言ったのだが、小野さんは細腕で楽々と絵里のことをお姫様だっこしてみせた。そのへんの男子よりも力があるんじゃないだろうか。
 舞台では、ロミオが登場し、パリスと言い争いをはじめたらしい。
『おい、貴様のその穢らわしい振舞をやめるがいい、モンタギュー!
 死んだ者にまでまだ復讐の手をのべようとするのか?
 貴様は追放の身だ、俺が逮捕する。
 おとなしくついてくるがいい、命はないものと覚悟するがいい。』
 小野さんはそれに答えて、
『死ぬ覚悟はできている。だからこそここへ私はきたのだ。
 まだ君は若いようだが、自暴自棄になった男に手出しはせぬものだ。
 頼むから私をこのままにして逃げてもらいたい、この死者たちのことを考え、
 死ぬことの恐ろしさを知ってもらいたい。さ、お願いだ、
 私を怒らせるのは止してくれ、でないと、
 さらに罪を犯す羽目に私が陥らねばならぬのだ。さ、立ち去ってくれ!
 私は君を自分以上に愛している、嘘ではない、
 自分自身を亡きものにする覚悟で私はここにきている。
 ぐずぐずしないで、早く行ってくれ。そして、他日、人にも話すがよい。
 ある狂人に逃げろと言われて命拾いしたが、奇特な狂人もあったものだ、と。』
 朗々とした声がひびいている。堂々と台詞を言うその姿まで目に浮かぶようだった。
『そんな頼みがきかれるものか。
 貴様は重罪人なのだ、俺はあくまで逮捕する。』
『まだ私を怒らせようというのか? それじゃ、覚悟するがいい!』
 そこで突然、体育館のスピーカーから音楽が流れてきた。ロミオとパリスの決闘シーンにふさわしい、勇敢でかっこいい曲だ。
 絵里は何に使われている曲なのか知らないのだけれど、音響担当の男子が選んできたらしい。
『大変だ! 斬り合いだ! 夜警を呼びに行かなくっちゃ!』小姓の声と、走って舞台袖の方へ足音が消えていく。
 剣を振り回し、動き回る気配と、二人分の荒い息がつたわってくる。
 しばらくのあいだ激しい足音が聞こえていたが、急にそれが止んだ。そして、音楽も唐突に止まる。……ロミオが、パリスを刺し殺したのだ。
 そろそろ、あたしの出番だ……。
 絵里は落ちつこうと、大きく深呼吸をする。
 すると間もなく、布に描かれた納骨堂の入口を通り抜けた小野さんが、急に目の前にあらわれた。
 台本通りだとわかっていても、驚いて声を出しそうになる。
 小野さんは、軽くウインクをすると、自分の人差し指を口元に当てて、シーッ、というジェスチャーをした。絵里はそれを見て少し落ちつきを取り戻し、その場に仰向けに寝転がる。小野さんはしゃがみこみ、両手で軽々と絵里の体を持ち上げた。
 小野さんは絵里をお姫様抱っこしたまま、舞台へ戻った。煌々と光る照明の下、舞台の真ん中に絵里の体を横たえて、
『ああ、ジューリエット、
 なぜそんなにまだ綺麗なのか? もしかしたら、
 あの死神が人間でもないのに妙に色気づいたのではないか。
 あの痩せた恐ろしい姿の怪物めが、この暗い所で、
 お前を愛妾にしようとして囲っているのではないのか。
 それを思うと俺はぞっとする。だから、お前といっしょにここに留まり、
 この仄暗い夜の宮殿から二度と外へは出ないつもりだ。』
 絵里は、舞台に横たえられたまま、薄目を開けて小野さんの顔を見た。動き回ったせいか、照明のせいなのか、暑いらしく小野さんの汗が絵里の頬にぽつぽつと落ちる。
 でも、そんなことも気にならないくらい、台詞を述べ立てる小野さんはすてきだった。
 いつもみたいにふざけてないで、こうやって真剣な顔してたらかっこいいのにな……、と絵里は思った。
『ああ、俺の眼よ、最後の一瞥を投ずるがよい。俺の腕よ、最後の抱擁を楽しむがよい。
 俺の唇よ、呼吸の通路たる唇よ、すべてを独占しようとする死との
 永遠の契約のしるしとして、悪びれることなく接吻するがよい。
 さあ、来い、無常な導き手よ、さあ、来い、おぞましい案内人よ、
 さあ、来い、死に物狂いの水先案内人よ、一切を打ち砕く岩礁に、
 荒海に疲れ果てたこの船を、この肉体をいっきょにたたきつけ難破させるがよい!
 この杯を、わが恋人のために、……乾杯!』
 その言葉とともに、小野さんは、懐に隠していた毒薬を一気にあおった。
『おお、あの薬種屋の言ったとおりだ!
 薬がもう利いてきた。――死ぬ前に、最後の接吻を!』
 小野さんは苦しそうに膝をつき、絵里の頬に唇を押し当てる。舞台袖で見ていた数人の女子が黄色い声を上げるのが聞こえた。
 そして小野さんは、絵里のすぐそばに、重なり合うようにして倒れた。
 しばらく舞台は静けさに包まれていた。絵里は、すぐそばにいる小野さんの、体温と呼吸を感じていた。
 絵里は目を閉じたまま考えていた。
 ……小野さん、キスするの、練習の時にフリだけでいいって言ってたのにホントにした……。
 まあ、唇じゃないからいいけどさあ……それに、女の子同士だし、ノーカンかな。
 やがて舞台袖から修道士役の男子を連れて、さっきの小姓が戻ってきた。
『おお、この血は! この墓所の入口に
 点々と滴っているこの血はどうしたのだ?
 この平安の場所に不気味な色を放ち、
 血糊にまみれて横たわる主なき二本の剣、……これはどうしたのだ?』
 そして、ロミオとパリス、ジュリエットの三人が倒れているのを見つけ、騒ぎ立てはじめた。
『おお、ロミオ! その蒼白い顔は! ――いや、ほかにもだれかいる、パリス殿まで?
 しかも、血に染まって?――ああ、何という時の悪戯だ。
 こういう痛ましい事件を一時にしでかすとは!――』
 その台詞を聞き、絵里はゆっくりと起き上がろうとした。ここで、四十二時間が過ぎ、薬の効き目が切れたジュリエットが、起き上がり、ロミオが死んでいるのを見つけ、自分もその後を追うように自殺することになる。
 絵里はふと思った。
 お芝居じゃなくて、もし本当に今死んでしまったら、どうなるだろう。
 ――もし、死ぬまで、ずっと、好きだったら? 
 ……死んだら、
 死んだら、平塚くんのことも、忘れられるだろうか?
 ……平塚くんを好きだったこと、苦しい気持ちも辛いことも全部、……忘れられるのだろうか? 
『……ジュリエット?』
 いつまでも起き上がらない絵里を不審に思ったのか、修道士役の男子が怪訝そうな声を上げた。
 絵里は動かなかった。
 本当にこのまま、……
 このまま死んでしまったら……。
「……絵里ちゃん?」
 すぐ隣で倒れている小野さんが、耳元でささやいた。
 それでも絵里は動かない。
 ぎゅっと眼をつぶり、照明に照らされ、舞台の上にずっと倒れたままでいる。


「いやー、迫真の演技だったねー」
 屋上に出ると、小野さんは金網のそばに立ち、振り返ってそう言った。絵里は何も答えずに、空を見上げた。もうすでに陽は落ち、辺りは暗くなり始めている。小さな星がひとつ、ふたつちかちかと瞬いている。
 絵里はゆっくりと歩き、小野さんの隣に並んだ。 
「名女優じゃん」
 と、小野さんは笑った。
「……そんなことないけど」
「もう明後日本番だもんね」
 と、小野さんは言って、大きく伸びをした。絵里はその横顔を見ながら、舞台に立っている時とはほんとに別人みたい、と思った。
「早いねー、……あっという間だった気がする」
「こないだもそんなこと言ってたよね」
 絵里は金網に手をかけ、 
「ああー、……本番緊張するよー」
 言いながら、ガシャガシャと金網を揺らした。
「絵里ちゃんなら大丈夫だよ」
「……根拠ないじゃん、それ」
「平気平気」
 小野さんは言った。「初めて会った時、覚えてる?」
「うん」
「神社で言ったあたしの予言、当たったでしょ?」
「……」
「忘れちゃった?」
「ううん」
 忘れるわけない。
 ――きっと絵里ちゃんジュリエット役できるから。あたしが保証するよ。
 確かにその通り、小野さんの予言通りにあたしはジュリエット役をやることになった。でも……。
「だから、あたしが大丈夫って言うんだから、大丈夫」
「……ありがとう」
 と、絵里は言った。それから、急に思い出したように、
「ていうか、小野さんさっきほんとにキスしたでしょ」
「あー」
 小野さんはごまかすように頭をかいて、あはは、と笑った。
「いや、あーじゃなくて……」
「別にいいじゃん。ほっぺだし」
「まあいいけど……わたし、いちおうファーストキスだったのに……唇じゃないけどさ」
 そこまで言って、思う。
 もし平塚くんがロミオ役だったら、……いや、さすがにキスはしないだろうけど、あんなシーンがあったってことだもんね。あまり深く考えてなかったけれど、……そんなの、それこそどきどきして死んでしまうかもしれない。
「絵里ちゃん、なんか顔赤いよ」
「え、……そんなこと」
 ないけど、という声は小さくてよく聞き取れなかった。
 二人はしばらく黙ったまま、金網ごしに校庭を見ていた。風が出てきた。少し肌寒いように感じる。
 絵里には、ずっと心に引っかかっていたことがあった。
「……あのさ、小野さん?」
「うん?」
「……」
 口に出すのを躊躇い、眼を伏せる。
「どしたの。なんか、言いづらいこと?」
「小野さんさあ、……あたしが平塚くんのこと好きだって、平塚くん本人に言ったでしょ」
「……え、だって……」
 小野さんはめずらしくうろたえていた。
「あの、平塚くんちに泊まった日。……誰にも言わないって約束したのに」
「……だって、平塚くんは知ってるでしょ? 絵里ちゃんから手紙もらったんだからさ」
 小野さんは言い訳をするような口調で、
「だから、……絵里ちゃんの気持ち知ってて、どうして何も返事してあげないのって、絵里ちゃんがかわいそうじゃんって、……」
 あ、そうか……。
 小野さんは、委員長があたしの手紙を机から抜いてしまったことを知らないんだ。
 だから、手紙が届いてないことも知らないんだった。
「そっか、ごめん。言ってなかったよね……」
「……?」
「あの手紙、届いてなかったんだ」
 と、絵里は言った。
「あたしが平塚くんの机と間違えて、委員長の机に入れちゃってさ……。緊張してたのかな。それ、こないだ委員長が教えてくれたの。あたしの机に入ってたよって。ずっと言おうと思ってたけど、……なんて切り出していいのかわからなかったんだって」
 絵里は、委員長のことを言わなかった。
 だって、小野さんと委員長がそのせいで気まずくなったりしてほしくないから……。
「だから、平塚くんはあの手紙読んでなかったの」
「……」
「あ、でも別に小野さんのこと責めてるわけじゃないよ」
 絵里はあわてて手を振って、
「もう、あたし自分の口で告白したんだ。……でも、やっぱりだめだった。友達としか見れないって、ふられちゃった……。だから、手紙が届いてても届いてなくても、同じようなものだったし」
 へへへ、と絵里は照れくさそうに笑った。小野さんはその顔を黙って見つめていたが、
「……あたしのせい?」
 と、小さくつぶやいた。
「え?」
「あたしのせいで、……二人が上手く行かなかったの?」
「あ、ううん、だから違うってば。……そんなことないよ」
 絵里はそう言いながら、次の言葉を探した。目の前の小野さんが、顔をゆがめ、泣きそうな表情をしている。
 こんな顔をしてる小野さん、今まで見たことない。
 だから見ていられずに、絵里は視線を反らし、暗い空を見上げた。
「……小野さん、神社で言ってたよね。
 正直な気持ちをちゃんと言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうよ、……って。
 あたし、この一ヶ月くらい、その言葉に支えられてた気がする。
 上手くいっても、いかなくても、ちゃんと自分の気持ちを言葉にするのって大事なんだなあって思ったよ」
 と、絵里は言った。
「だから、小野さんのせいなんかじゃない。むしろ感謝したいくらいだよ。
 ……小野さんのおかげで、あたし、頑張れたんだから……」
 ね? と、絵里は隣にいる小野さんに笑顔を向けたが、
「……あれ?」
 自分の眼を疑う。そこには誰の姿もなかった。
 え、ちょっと待って……、今小野さんいたじゃん。急にどこ行っちゃったの?
 反射的に絵里は金網越しに校庭を見下ろした。けれど、すぐに思いなおす。ここから落ちるわけないよ。だって、金網張られてるんだから……。絵里はそこで初めて、きょろきょろと辺りを見回した。
 屋上には、絵里のほかには誰もいない。さっきまで隣で話していた小野さんの姿は影も形もなくなっていた。
「……」
 ……どうしたんだろう。拗ねて、先に帰っちゃったんだろうか。それならそうと一言くらい言ってくれればいいのに……。
 絵里はもう一度周りを見渡してから、
「……あたしも、もう帰ろうかな」
 と、言った。
 ちぇっ。一人でしゃべってて、なんだかバカみたいだ。
 絵里は校舎の中に入ると、非常階段を降りて教室へ戻り、置きっぱなしにしていたランドセルを背負うと、昇降口へ向かった。
 誰もいない校舎の中は薄暗く、時おり非常灯の明りが目に入る。自分の足音がやけに大きく聞こえる。
 こんな時間なのに誰かまだ残っているのか、どこかの教室から笑い声が聞こえてきた。
 絵里は歩きながら、なんだか頭がすっと冴えわたるのを感じていた。いつもなら遅い時間の学校は少し怖いのだけれど、今日はそんな風には思わなかった。
 なんだっけ、この感じ……、と、絵里は思った。たしかに、どこかで覚えがある。この感覚、前にもこんなことがあった気がする。
 階段の踊り場で立ち止まり、足を止めて考える。
 そう、……
 ……なんだか、ひどく長い夢から覚めた時のような……。
 昇降口まで来ると、そこには詩織ちゃんが待っていた。
「あ、やっと来た……。待ちくたびれたよ」
 と言って、笑顔を見せる。
「詩織ちゃん、待っててくれたの?」絵里は驚きの声をあげた。「……ごめんね、知らなくて……」
「ううん。あたしが勝手に待ってただけだから。……たまにはいっしょに帰ろうと思ってさ」
「そっか」
「こんな時間まで学校にいるの、ちょっとどきどきするよね」
「あ、そういえば……」
 絵里は思い出したように、
「あのさ、詩織ちゃん、小野さん見なかった? さっきまで一緒にいたんだけど、一人で帰っちゃったみたいで……」
 その言葉に、詩織ちゃんは不思議そうな顔になる。
「……?」
「どうかした?」
 絵里が訊くと、
「……それ、誰?」
「え?」
 ……詩織ちゃん、何言ってるの?
 絵里にはその言葉が理解できなかった。
 戸惑う絵里を尻目に、詩織ちゃんは首をかしげて、
「小野さんって、絵里ちゃんの知り合い? ……誰だっけ?」
 と、言った。
 どこからか、五時を告げる鐘が聞こえてきた。

ロミオとジュリエット 2話

 第二話


「『……もう一度ものを言ってください、私の天使!
 私の頭の上で夜を照らしているあなたはまさしく天使、――
 あなたの姿は、ゆっくりと流れる雲にのり、
 大空の面を翔けてゆくのを仰ごうと
 後じさりする人間どもの白眼がちな眼に映る、
 あの翼をもった天の御使の姿と全く同じだ。』」
 小野さんの、朗々とした声が教室の中にひびいている。
「……、あ、ええと……」絵里が口ごもっていると、そばで見ていた女子がじれったそうに声をかけた。
「ほら、笹原さん、台詞台詞」
「あ、……『おお、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの……』……」
「……はあ」
 と、女子は大げさに溜息をつく。「声、小さくて聞こえないよ」
「ごめんなさい……」
 絵里は台本を胸に抱きしめたまま、申し訳なさそうにつぶやいた。
 放課後、五年二組の教室ではここのところ、毎日『ロミオとジュリエット』の劇の練習が行われていた。絵里と小野さんが黒板の前に並んで立ち、台詞の読み合わせをしていて、周りには女子が二三人その様子を眺めている。机と椅子は後ろに寄せられ、他に残っている子たちは舞台の書割や小道具をつくっている。絵の具のパレットや水入れがいくつも置かれ、カッターで段ボールを切る音がたえずしていた。
 それでも、残っている生徒は半分くらいだろうか。他に用事のある子や塾のある子はもうすでに帰ってしまっていた。
「小野さんは完璧なんだけどなあ」
 体育すわりをして二人の読み合わせを見ていた女子の一人が言った。
「……」 
「とりあえず今日はもう終わりにしよっか。……笹原さん、もっと元気よく台詞言わなくちゃだめだよ。恥ずかしがってる場合じゃないんだから、本番はもっとお客さんいるだろうし」
「うん……」
「せっかく選ばれたんだから、ちゃんとやりたいでしょ?」
 あたしだって、好きで選ばれたわけじゃないのに……。絵里はそう言いたかったが、黙っていた。
 練習を終えた絵里と小野さんは、図書室で二人を待っていた詩織ちゃんと合流した。いつものように、三人で帰り道を歩く。
「もう九月半ばなのに、まだ全然暑いね」
 詩織ちゃんは腕で額の汗を拭いながらそう言った。あちこちから蝉の鳴き声が聞こえている。まだ風鈴を軒先にぶらさげている家がいくつもあった。
「……」
「なんか、絵里ちゃん元気ない?」
「……、もう練習やだよ……」と、絵里は言った。「いいなあ、詩織ちゃんは合唱だから、台詞とかないし……」
「絵里ちゃん、国語の時間の朗読は上手いのにね」
「……本読みと、演技するのは違うよ」
「ねえねえ」
 さっきからずっと黙っていた小野さんが口を開いた。
「どうしたの?」
「詩織ちゃんちってスポーツ用品店なんでしょ? あたし、まだ上履き買ってないからさあ、買いに行ってもいいかな」
「もちろん、大歓迎だよ」
 と、詩織ちゃんは言った。「最近お客さん少ないからねえ、毎年用具注文してくれてた、地域の野球チームも去年人が少なくてなくなっちゃったし……」
「大変なんだね」
 ていうか、小野さんまだ上履き買ってなかったのか。
「商店街はどこも厳しいんだよねー」
「じゃあさ」
 小野さんが振り返り、「いったん帰ってランドセル置いたら、商店街の入口に集合ね」
「りょーかい」
「じゃああたし、店で待ってるね」
 酒屋の角まで来ると、方向の違う小野さんとはここでいつも別れることになる。いつも見かける酒屋の女の子が、店の前の道路にチョークで落書きをしていた。
「じゃあまた後で」
「ばいばーい」
 小野さんは大きく手を振ってから、駆け出して行く。
「ねえ、小野さんてどこに住んでるの?」と、詩織ちゃんが言った。
「え、知らない」
「あ、そうなの? 絵里ちゃん仲いいから知ってるんだと思ってた」
 そういえば、どこに住んでるかなんて気にしたことなかったな……。絵里は、遠ざかっていく小野さんの後ろ姿を見つめた。


 一時間後、絵里は商店街の入口で小野さんを待っていた。
「……遅い……」
 絵里が着いてからもう三十分くらいは経っただろうか、小野さんはいっこうにやってくる様子がなかった。あまりに遅いので近くを探していると、本屋の店先で雑誌を立ち読みしている後ろ姿を見つけた。
「何やってるのよ、……ほら、詩織ちゃん待ってるから、早く行くよ」
「今いいとこなのに……」
 ぐずる小野さんの手を無理やり引っ張って歩き出す。商店街は夕飯の買い物客でごった返していた。惣菜屋の前には列ができ、魚屋のお兄さんが絶えず通りに声をかけ、みんな肩がぶつかるくらいの近さで歩いていた。街灯に設置されたスピーカーからは、昔のヒット曲がオルゴールで流れている。
「うわー、すごい人……」
 小野さんが感心したようにつぶやいた。
「あたしここの商店街初めて来たけど、にぎやかだねえ」
「いつもこんなもんだよ」
 と、絵里は答えた。さっき聞いた詩織ちゃんの話が思い出される。じゅうぶん繁盛してるように見えるけど、きっと、外から見えないところで苦労があるのだろう。自営業も大変なんだなあ。
 道の真ん中で話していた二人は、自転車を押している人にベルを鳴らされ、あわてて脇によけた。この間までブティックだったはずの場所は、いつの間にかコインパーキングになっていて、車止めに座り込んだ男の子たちが携帯ゲームで遊んでいる。詩織ちゃんの家、「ヨシカワスポーツ」は絵里たちが入ってきたのとは反対側、荒川の方へ抜けていく入口のすぐそばにある。二人は人ごみをすり抜け、やがて店の前までたどり着いた。
「……あれ?」
 絵里は不審そうな声を出した。店の入口にはシャッターが下りていて、どう見ても営業している様子はない。
「詩織ちゃん、まだ帰ってないのかなあ?」
「でも、もうずいぶん経ってるけど……」
 二人があれこれ言い合っていると、
「ごめんねー」
 聞き覚えのある声が上から降ってきた。店の二階より上はアパートになっていて、その一室のベランダから、柵にもたれかかるようにして、詩織ちゃんがこっちを見下ろしている。
「ちょっと事情があって……、悪いけど裏から回ってきてくれる?」
 詩織ちゃんのその言葉に従い、二人は店の裏側へ回る。鉢植えが置かれたクーラーの室外機の横に、直接アパートへ上がるための外階段があった。こっちこっち、と廊下で待っていた詩織ちゃんに手招きされる。
 詩織ちゃんの家に来るのは久しぶりだった。一、二年生の時は同じクラスだったのでよく遊んでいたが、三年のクラス替えで別のクラスになり、それ以来お互いの家を行き来することはほとんどなくなってしまった。
 部屋の冷房をつけた後、詩織ちゃんは飲み物を取りに台所へ行った。絵里はきょろきょろと部屋の中を見回した。
 壁には、絵里の知らないアイドル歌手のポスターが貼ってあった。詩織ちゃん、こういうの好きだったんだ、知らなかったな。絵里はなんだか落ちつかず、床に放りだされていたクッションを引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。小野さんは、真剣な表情で、本棚に並んだ少女漫画を吟味している。
「お待たせ」麦茶のグラスと、おやつのカステラがのったお盆を手に詩織ちゃんが戻ってくると、
「ねえねえ、これ読んでもいい?」
 小野さんは待ちきれない、といった様子でそう言った。
「適当に読んでていいよ」と、詩織ちゃんは言った。それから絵里にはい、とグラスを手渡す。絵里はお礼を言って受け取り、さっきから気になっていたことを訊いてみた。
「あの、お店、どうかしたの?」
「ああ、大したことじゃないんだけどね」と、詩織ちゃんは不満そうに眉根を寄せた。「今日お父さんとお母さんが町内会なんだけど、お兄ちゃんが店番頼まれてたのにほっぽってどっか行っちゃったみたいでさあ……。まったくもう、いつもこうなんだから」
 少しはあたしの身にもなってよね……、とぶつぶつつぶやいている。絵里は少し笑った。
「だから、ちょっと今日は上履き出してあげられないかも、ごめんね」
 詩織ちゃんの言葉に小野さんはうんうんと頷いていたが、漫画から顔も上げない。ちゃんと話を聞いているのかもあやしかった。
「……そういえばさ」
 ふと思いつき、絵里は切り出した。
「どうしたの?」 
「最近、委員長なんか変じゃない?」
 詩織ちゃんはベッドの縁に腰かけ、麦茶を一口飲んでから、
「そう? ……気づかなかったけど……」
 絵里がこの間のトイレでの一件を話すと、うーん、と首をひねっていたが、
「そっか。……どうしたんだろねえ、そういえば最近、なんか元気ないような気もする」
「……わかんない。でも、気になるっていうか……ちょっと心配」絵里がグラスを床に置くと、カランと氷の音がした。
「うーん」 
 詩織ちゃんは腕組みして悩んでいたが、急に何かを思いついたような表情で悪戯っぽく笑い、
「でも、絵里ちゃんは自分の心配した方がいいんじゃない?」
 と、言った。
「……?」
「ほら、ジュリエット」
「もう、それ思い出させないでよ……」
 がっくりと肩を落とす。これからは、ほとんど毎日放課後には劇の練習がある。絵里は、夏休み前とは別の意味で学校に行くのが憂鬱だった。
 絵里は、真剣な表情で漫画の頁をめくっている小野さんの横顔を見た。小野さんは、約束通り平塚くんとのことを秘密にしてくれているようだった。
 ――でも、笹原さんすごく似合ってるよ。
 思い出してしまい、絵里は勢いよくぶんぶんと首を振った。もう、平塚くんどうしてあんなこと言うんだろう……。
「……どうかした? 顔真っ赤だよ」
「……」
「元気だしなよ」詩織ちゃんはフォークでカステラを小さく切り、絵里の口元に差し出した。「あーん」
 絵里が思わず口を開けると、詩織ちゃんはカステラをその中へ入れた。
 もぐもぐもぐ……。
「……おいひい」
「ここのおいしいんだよ。もらいものだけどね、めったにうちじゃ買わないから」
 詩織ちゃんは笑って、
「……でも真面目な話、小野さんにコツ教わってみたら? 小野さん台詞もちゃんと覚えてるし、すごいカッコいいじゃん」
「うーん……」
 絵里は小野さんの隣に座り、漫画の頁をのぞきこんだ。
 ちょうど主人公の女の子が、好きな同級生の男の子に告白する場面だった。見開きだけなのに、思わず引き込まれてしまう。続きが気になり、絵里が頁をめくろうと手をのばすと、小野さんがその前に頁を閉じてしまった。
「よし」
 小野さんは絵里の顔をじっと見る。
「……な、何?」
「ショック療法だな」
 そう宣言するようにつぶやくと、ニヤリと笑った。
 なんか嫌な予感がする……。絵里はその笑顔を見て、不吉なものを感じた。
 結局、六時過ぎになっても詩織ちゃんのお兄ちゃんは帰ってこなかったので、二人はそのまま帰路についた。
 外は風もなく、ひどく蒸し暑かった。二つ三つ先の通りから、豆腐売りのラッパの音が聞こえていた。


  ※


 ミーンミンミン、ミーン……。
 荒れるにまかせた庭の、葉むらのあちこちから蝉の声が聞こえている。絵里はさっきから、インターホンの前で立ち尽くしていた。指をのばし、ボタンを押そうとするのだが、しばらくためらってから、引っ込めてしまう。それをもう何度も繰り返していた。
 はあ、……すごい緊張する。
 ばれないようにこっそり後をつけ、家の前まで来たことはあったが、実際に家に上がることになるなんて、思ってもみなかった。
「……やっぱり帰ろう」
 急に具合が悪くなったことにして、みんなには後で謝ろう。そう決めて、絵里が踵を返しかけた時、
「わっ」
 驚いて思わず声が出てしまう。いつの間にか足元には犬がいて、ハッハッハッ……、と暑そうに舌を出したまま、絵里のことを見上げていた。なんだか恥ずかしくなる。いつから見られていたんだろうか。
 あ、この子……、夏休みに平塚くんと会った時、いっしょにいた子だ。たしか、シバとかいったっけ。絵里はその場にしゃがみこみ、シバと目を合わせるように、その顔を覗きこんだ。 
 やっぱりかわいい、撫でても怒らないかな……。絵里がおそるおそるシバの背中に手を回そうとした時、
「あれ、笹原さん?」
 突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、スーパーの袋を提げた平塚くんが門を開けて庭へ入ってくるところだった。絵里はあわてて立ち上がる。
「あ、ええと」
「めんつゆなかったから、買いに行ってたんだ」と、平塚くんは言った。「……ケンジたちがいるはずだけど、チャイム聞こえなかったのかな」
「……」
「シバ、おいで」
 シバに声をかけ、平塚くんはそのまま庭の奥へと歩き出した。絵里もその後から母屋の横へ回り込む。ぼうぼうと伸びた下生えのあいだに、割れた鉢植えや皿、土まみれの洗濯バサミなどが転がっている。草の匂いが鼻をつく。平塚くんはそのまま、縁側から母屋へ上がった。
「ごめんね、ここから上がって」
「あ、うん。……お邪魔します……」絵里はサンダルを脱ぎ、きちんと揃える。シバは縁側の下にもぐりこみ、ごろりと腹ばいになった。
「なんかそこが涼しいみたい」と、平塚くんは言った。
「……、かわいい」
「そういえば、夏休みにも散歩してる時に会ったよね」
 磨りガラスの引き戸を開けると、廊下を挟んで目の前に障子戸がある。絵里は平塚くんについて畳敷きの居間へ入った。
 左手にある仏壇の前では、詩織ちゃんと石浜くんが、足つきの将棋盤を挟んで座っていた。 
「あ、……詩織ちゃん。もう来てたんだね」
「絵里ちゃんやっほー」
 と、詩織ちゃんは片手を上げた。石浜くんは相変わらず怖い顔をして、ぶつぶつ何事かをつぶやいている。
「詩織ちゃん、将棋指せるの?」
「うん。お兄ちゃんのゲームでやったことあるから」
「……ゲーム脳
 と、石浜くんがつぶやくが、
「そのゲーム脳に負けてるのは誰よ」
「……」
 石浜くんは何も言い返せなかったらしく、また腕組みをして唸り始めた。
「……小野さんは?」
「まだ来てない」
 絵里の問いに、詩織ちゃんは首を振る。
「ええ、あの子が言いだしっぺなのに……。しょうがないなあ、もう」
「笹原さん、もう昼ごはん食べた?」平塚くんが訊いた。
「ううん、まだ」
「じゃあ、素麺食べようよ。茹でるからちょっと待ってて」
「あ、あたしも手伝うよ」
「悪いからいいよ、一人でも大丈夫だし」
「でも……」
 絵里がためらっていると、
「ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」と、平塚くんは笑った。とはいえ、絵里のやったことといえば、グラスに人数分の麦茶を注ぐことと、お膳を台拭きで拭くことくらいだった。平塚くんは素麺を茹でると、普段から料理をしているのだろうか、薬味のネギを手際よくみじん切りにした。絵里は氷をグラスにいれながら、感心した様子でその手元を眺めた。
 詩織ちゃんと石浜くんの対局が終わる頃には、昼食の支度が整った。手を合わせていただきます、と声を揃えてから食べ始める。和室の障子戸に庭木の影が映っていた。
「薄かったらつゆ足してね」
 と、平塚くんは言った。
「うん、……大丈夫」
「ねえ、絵里ちゃん聞いてよ」詩織ちゃんは素麺をすすってから、手にした箸で石浜くんの顔を指し、「この人、すごい弱い」
「行儀悪いから、箸こっちに向けるな」
 石浜くんは嫌そうな顔のまま麦茶を飲んだ。
「石浜じゃあ相手にならないから、平塚くん後で指そうよ」
「いいよ」
「正人、こいつをこてんぱんに負かしてやってくれ」
「了解」と、平塚くんは言った。「さっきちょっと見たけど、まあ、たぶん勝てると思う」
「お、言ったな」と、詩織ちゃんは不敵に笑った。「まあ、誰かさんほど簡単に勝たせてもらえなさそうだけどね」
「……」
 絵里は将棋を知らないので、話の輪に入ることができずに、黙々と素麺をすすっていた。
「笹原さんもやってみる?」
 平塚くんは、急に絵里に話を振った。
「え、あたし?」戸惑いつつも答える。「でも、……むずかしそう」
「大丈夫だよ、ケンジだってできるんだから」
「そうそう」
「……お前ら、俺のことなんだと思ってるんだよ」
 みんなで食器を片付けた後、詩織ちゃんと石浜くんはまた将棋を指し始めてしまった。
 絵里と平塚くんは、それをしばらく観戦していたが、それに飽きると並んで縁側に座り、庭を眺めた。シバは起き上がり、庭のあちこちを歩き回っている。
「いちおう、劇の練習しに来たはずなのになあ……」
「やっぱり転校生、ちょっと遅いね」と、平塚くんは言った。「場所わかんないのかもしれない。迎えに行ったほうがよかったかも」
「……でもあの子、そういうところあるんだよね、ルーズっていうかさ」
 体育座りの膝の間に顔をうずめ、絵里は溜息をつく。シバが近寄ってきて、前足を縁側にかけた。
「この子、上がりたがってるのかな」
「ほんとに、笹原さん気に入られてるみたい。はじめ、ケンジとか吠えられて大変だったんだから」
 そう言うと平塚くんは立ち上がり、
「足拭いてやらなくちゃ。ちょっと雑巾とってくるね」
「うん」
 平塚くんの姿が廊下の角を曲って見えなくなると、絵里はおそるおそるシバの背中を撫でた。シバは気持ちよさそうにされるがままになっている。絵里はしばらくそうしていたが、
「……あたし、なんでこんなところにいるんだろうな」
 と、不意につぶやいた。
 それに答えるように、シバが小さく唸り声を上げた。


 そもそも、劇の練習をしようと言い出したのは小野さんだった。昼休み、絵里と小野さんは校庭の鉄棒に腰かけて話をしていた。グラウンドでは、五六年の男子が混ざってサッカーをしていて、騒がしい声があたりに響いている。
「絵里ちゃん、特訓した方がいいよ」
「……特訓?」
 この子、また変なこと言い出した……。絵里は怪訝な顔で小野さんの方をうかがう。
 小野さんは鉄棒に足をかけたままぐるりと回り、逆さになった。
「頭に血のぼらない?」
「平気平気……、特訓は特訓だよ。人前に出ても緊張しないようにさ。本番なんて、先生たちとかお客さんにも見られるんでしょ? このままじゃあとても無理だよ」
「……」
 そう言われると、返す言葉もない。
「……特訓ていっても、何するの?」
 絵里は訊ねたが、小野さんは何も答えず、じっと前を見つめている。その視線の先には、ボールを追ってグラウンドを駆け回る平塚くんの姿があった。絵里もしばらくその様子をじっと眺めていた。
 平塚くんが近くまで来た時、二人に気づいたらしく小さく腰の辺りで手を振った。
「平塚、ボール行ったぞ!」男子の声が飛ぶ。
「え?」
 平塚くんはとっさに飛んできたボールをトラップしようとしたが、間に合わず思い切り顔に当たってしまった。絵里は驚いて固まってしまう。
「おい、大丈夫か?」
 痛そうにうずくまる平塚くんの周りに、近くにいた石浜くんや他の二三人が駆け寄ってきた。平塚くんは顔を抑えている。石浜くんが落ちた眼鏡を拾い、手渡した。
 大したことはなかったようで、すぐにまた試合が再開された。自分のポジションに戻っていく平塚くんを見ながら、
「……平塚くんて、けっこう鈍くさいよね」と、小野さんは言った。「神社でも、あたしのサンダル当たってたし」
「あれは小野さんが飛ばしすぎたのが悪いんじゃん」絵里は反論する。「それに、平塚くんは鈍くさくなんかないもん」
「……」
 小野さんに疑わしげな視線を向けられ、
「……まあ、ちょっとぐらいは、そういうとこあるかもしれないけど……」と、絵里は不本意そうにつづけた。
 陽射しで熱せられた鉄棒は、ずっと座っていると、だんだんお尻が熱くなってくる。小野さんはくるりと一回転した後、鉄棒から飛び降りた。うーん、と大きく背伸びをしてから、絵里の方へ振り向いて、
「絵里ちゃんさあ、平塚くんのどこが好きなの?」
「ちょっと、声大きいよ」
「誰も聞いてないから大丈夫だよ」
 その言葉どおり、校庭では沢山の生徒たちが遊んでいるが、誰も二人には気をとめていなかった。
「……」
 それでもそんなこと、一言で言えるはずもない。
「まあそれはいいんだけど……、だから、平塚くんといっしょに劇の練習すればいいじゃない」
「え、……どうしてそうなるの?」
「好きな人に見られてたら緊張するでしょ? それに比べたら、他の人の前で演技するのなんて楽なもんだよ」
「やだ、絶対無理」
 そう言ってから、絵里も鉄棒から飛び降りた。「……それに、平塚くんに迷惑だよ」
「一緒にいられるし、人前であがらないように、慣れる練習にもなるし、一石二鳥じゃない」
「とにかく、無理だからそんなの……」
「ええ、なんでよう。せっかく絵里ちゃんのためにちゃんと考えたのに」
 唇を突き出し、ぶーぶー、とブーイングをする小野さん。
 二人はしばらく言い合いをしていたが、やがて絵里は無理やり話を切り上げて校舎へ入っていく。小野さんも不満そうに、その後につづいた。
 その晩、お風呂に『ロミオとジュリエット』の文庫本を持ち込んで、絵里が一人で台詞の練習をしていると、リビングの電話が鳴った。すぐにお母さんが子機を持って脱衣所へ入ってきて、
「絵里、吉川さんから電話よ」
「あ、うん。後でかけ直すって言ってくれる?」
「はいはい……」
 絵里は浴槽の蓋に文庫本を置くと、肩までお湯につかった。……詩織ちゃん、何の用だろ? 電話なんていつもしてこないのになあ。
 お風呂から上がり、バスタオルを髪に巻いたまま、子機を部屋に持ち込む。長電話しないようにね、とお母さんに釘を刺された。
「はい、もしもし吉川です」
 電話をすると、詩織ちゃんはすぐに出た。
「笹原です。……詩織ちゃん? ごめんね、さっきは出れなくて」
「ううん、お風呂入ってたの?」と、詩織ちゃんは言った。「絵里ちゃんのお母さんとすごい久しぶりに話しちゃったよ」
「ああ、……」
「あのさ、土曜日のことなんだけど、絵里ちゃん行くんだよね?」
「……?」
 絵里は、なんのことだかわからずに首をかしげた。
「あれ? 今日小野さんに、土曜日に平塚くんの家で劇の練習するから、詩織ちゃんも来ないって誘われたんだけどさ。あたし平塚くんとそんなに仲良くないし、どうしようかと思ってたんだけど……。絵里ちゃんが行くならあたしも行こうかなって……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」と、絵里は詩織ちゃんの言葉をさえぎって、「あたしそんなの今初めて聞いた」
「え、そうなの?」
「……」
 あの子、どうしてそういう勝手なことするのかなあ……。
「そっかあ、絵里ちゃん行かないからあたしもやめとこうかな……」
 詩織ちゃんは迷っているようだった。
「……どうしよう」
 正直、昼間は小野さんにああ言ったけれど、平塚くんの家に行ってみたいという気持ちはあった。
「だいたい、平塚くんちは平気なのかな」
「一軒家らしいし、おっきな声出してもある程度は平気なんじゃない?」と、詩織ちゃんは言った。「お母さんも仕事で昼間はいないみたいだよ。……ねえ、絵里ちゃん、もし嫌じゃなかったら、一緒に行ってみない?」
「……ううん」
「なんか楽しそうじゃん。うちのクラスさあ、男子と女子あんまり仲良くないから、ほとんど遊ばないし……。男子の家に遊びに行くなんて、今まで一回もなかったもんね」
「……」
 絵里は受話器を持ったまま、しばらく考えていた。


 シバの足の裏を拭いてやっている平塚くんを見ながら、絵里は、詩織ちゃんと電話で話したことを思い出していた。結局、流されるまま自分はこうして平塚くんの家へ来てしまっている。
 ……それなのに、どうして言いだしっぺの小野さんがまだ来ないのよ……。
「笹原さん、犬好き?」
 と、不意に平塚くんが訊いた。
「あ、うん。うちは団地だから飼えないけど……かわいくていいなあ、うらやましい……」
「けっこう大変だけどね」
 平塚くんは急に声をひそめて、
「こないだこいつ、ご飯の時間になってもなかなか来なくてさ。いつもはすぐ走ってくるのに、変だなあと思ったら、なんか庭の隅でごそごそやってるの。何してるんだろうと思って見てみたら……」
「うん」
「蝉食べてた」
「……え?」
「蝉食べてた」
 ミーン、ミンミンミンミーンミーン……。
「……想像すると、ちょっと気持ち悪いかも」
「うん、ちょっとグロかった」平塚くんは笑った。「調べてみたけど、別に害はないみたいだから、ほっといてる」
 シバは自分の話をされているのがわかっているやらいないやら、縁側に座ったまま、小首をかしげて二人の方を見ている。ただでさえ、地上に出てから一週間しか生きられないのに、蝉も大変だなあ。絵里は少し同情した。
 二人はしばらく取り留めの無いことを話していたが、いっこうに小野さんが来ないので、先に軽く読みあわせをしておこうということになり、平塚くんが部屋から本を持ってきた。
「平塚くんて何の役なんだっけ」
「ぼくは、ロミオの従者」と、平塚くんは言った。「ほとんど台詞ないから、よかったよ」
 第四幕で、ロミオがヴェローナを追放され、婚約者の貴族、パリスと無理やりに結婚させられそうになったジュリエットは、神父にすすめられ、四十二時間のあいだ仮死状態になる薬を飲む。
 死んだと思われたジュリエットが埋葬された後、ひそかにロミオを呼び戻し、目覚めたジュリエットとヴェローナを抜け出す手はずだったのだが、ロミオにその旨を伝える手紙を持たされた従者が、ペストのせいで途中で足止めされ、手紙は届けられないままになってしまう。ジュリエットが死んだと誤解したロミオは、自ら毒をあおって息絶えることになる……。
「でも、この人がちゃんと手紙を届けてたら、ロミオもジュリエットも死ななくてすんだかもしれないんだよね」
 絵里は本の頁をぱらぱらとめくりながらつぶやいた。
「そうだね……、まあ、ある意味重要な役かも」と、平塚くん。「ぼくの方は別にいいよ。……笹原さん、どこ練習する? ぼくが小野さんの代わりにロミオ役やるから」
「……じゃあ、ここかな」
 二人は縁側に腰掛け、台詞を読みはじめた。パチ、パチ……と、詩織ちゃんと石浜くんが将棋盤に打ち付ける駒音が聞こえていた。
「『おっしゃるとおりにいたしましょう!
 私をただ、恋しい人だと呼んでください。すぐにでも洗礼を受けて名前を変え、
 ロミオという名前とは別な人間になりましょう。』」
「……『あなたはだれなのです、こうやって夜の暗闇にまぎれ込み、
 私の内緒の独語を聞いたあなたは?』」
「『私がだれか、どういう名前で答えていいのか、
 私にもわからないのです。あなたは私の名前を仇だとおっしゃる、
 だとすれば、それは私にとっても憎い憎い名前。
 何かに書いてあれば、消してしまいたいほど憎い名前です。』」
「『あなたのお口から響いてくる言葉を
 私はまだそれほど耳にはしておりませんが、お声はちゃんと覚えております。
 あなたはロミオ、モンタギュー家のお方。』……」
 ……
 一息つくと、冷蔵庫から麦茶のおかわりを出してきてごくごくと飲んだ。汗ばんだ首筋に冷たいグラスを当てると、ひんやりと気持ちよかった。 
「ロミオって、もともと好きな人がいたのに、ジュリエットを見たら一目惚れしちゃったんだよね」
 麦茶を飲みながら絵里は言った。
「そうそう、それ、ちゃんと読んでみるまで知らなかった」
 平塚くんも同意する。ロミオは元々ロザラインという女の人のことが好きだったのだが、ロザラインに会うために忍び込んだキャピュレット家のパーティでジュリエットを見た途端、お互いに恋に落ちてしまったのだ。
「……なんか、よくわかんない」
 と、絵里はつぶやいた。
「え、何が?」
「一度好きになった人のことを、そう簡単に忘れられるものなのかな」
「……」
「あたしは、一目惚れとか信じられないよ」と、絵里は言った。「その人のこと、会ったばかりでまだ何にも知らないのに……」
「笹原さんは、好きな人いるの?」
 その平塚くんの言葉に、絵里の胸がどくんと鳴った。
「休み時間とかもさあ、女子ってそういう話ばっかりしてるもんね。なんか、相性占いとか……」
「……ないよ」
「え?」
「好きな人なんて、いないよ」
 絵里はそう言って立ち上がった。「……小野さん遅いね。あたし、迎えに行ってくる」
 平塚くんの返事も待たず、そのまま庭に下り、草を踏みしめて早足で歩いていく。
 絵里は俯いたまま歩き続けていた。とにかく、平塚くんのそばにいたくない一心で、機械的に足を動かす。
 どれくらい歩いただろう、ふと立ち止まり、目じりにたまった涙をぬぐった。
 ――笹原さんは、好きな人いるの?
 どうして、……どうして、そんなこと言うの?
 絵里はしばらくその場に立ちつくしていたが、不意に違和感をおぼえた。さっきまでうるさいくらいに聞こえていたはずの蝉の声が、ぴたりと止んでいることに気づく。
 ……あれ?
 不思議に思って顔を上げ、絵里は思わず自分の目をうたがった。
 自分の身長も何倍もあるような木々が、視界を埋め尽くしている。平塚くんの家の庭に、こんな場所あったっけ……? 
 絵里は辺りをきょろきょろと見回した。足元には草が生い茂り、葉の間から差し込む木漏れ日が、土の上に白いまだら模様をつくっている。
 灌木の重なり合う葉の向こうには、さっきまでいたはずの母屋は影もかたちもない。大きな音がして上を見上げると、枝から飛び立つ鳥の影が見えた。
「……森?」
 思わずつぶやく。平塚くんの家の庭は、もちろん、ぐるりを囲う石塀が見えないほどに広くはなかった。
 庭じゃないとしたら……じゃあ、ここはどこなんだろう? 
 さっきまでの悲しい気持ちは、いっぺんにどこかへ吹き飛んでしまった。心なしか、さっきよりも空気がひんやりしている気がする。
 あたし、夢でも見てるのかなあ……、まるで現実味がなく、絵里はぼんやりと宙を見つめた。
 すると、森のどこからか声が聞こえてきた。
『ところで、ロミオはどこにいます? 今日、見ませんでしたか?
 この騒動にあれが加わっていなかったのが、何よりの幸いでした。』
『実は、伯母上、あの神々しい太陽が
 黄金色に輝く東の窓からその顔をのぞかせる一時間ほど前のこと、
 私は心の痛みに堪えかねて、つい家から外へ出かけました。
 外を出歩いているうちに、市の西の外れにある、
 鬱蒼と茂る楓の森に辿りつきました。』
 絵里は、その声に聞き覚えがあった。すぐそばの苔むしているごつごつした木の幹に触れてみる。
 ……この葉っぱ、そういえば見覚えがある気がする。
 楓の森……。
 絵里は、ロミオとジュリエットの一場面を思い出した。ロザラインへの恋に苦しむロミオは、悩むあまりに、毎朝町外れの森をうろうろと歩き回っていて、そこを友達のベンヴォーリオに目撃されるのだ。
 絵里は頭を振ると、声のするほうへ恐る恐る進み始めた。
『ふと見ると、なんともうはやばやとロミオが歩き回っておりました。
 私が近づいて行きますと、先方もすぐにそれに気がつき、
 森の茂みの中へすうっと姿を消してしまいました。
 人生に倦み疲れたときには自分一人でも多すぎて、 
 できるだけ人に見られない孤独な場所を求めたくなるもの、』
 あたしもそうなのかもしれない、と絵里は思った。平塚くんと一緒にいたくなくて、一人きりになりたくて……。
 低いところに伸びる枝をくぐる時、服を引っ掛けて破いてしまった。お母さんに怒られるかもしれないと思うが、もう気にしていられない。
 絵里にはもう、声の主が誰かはうすうすわかっていた。
『私自身の気持ちがまさにそうでしたので、ロミオの気持もそうであろうと思い、
 私はただ自分の思いに導かれるままに、彼の思いを確かめるのもやめ、
 こちらから喜んで身を隠しましたが、ロミオもそれを喜んだ様子でした。』
 それを聞いて絵里は思う。
 でも、もし自分の話を聞いてくれる人がいるとしたら……、
 その誰かのそばにいたいと思うのも、自然なことなんじゃないだろうか?
 木の根に躓きそうになりながらも、しばらく歩いていくと、茂みをかきわけたところで、急に開けた場所へ出た。
 淡い紫色の花が一面に咲き乱れている。その真ん中で、歌うように台詞を口にしている女の子の姿があった。
 絵里が近づいて行くと、今まで述べ立てていた台詞を急にやめ、
「『恋をしているな?』」
 と、小野さんは絵里に向かって言った。
「それが、つれない……」
 絵里がそう続けると、
「『つれない恋ってわけか?』」
「……」
「『ああ、見た目にはいかにも楽しそうだが、
 いざその身になれば泣きの涙、ってのが恋というものかね。』」
「……小野さん、どうしてこんなところにいるのよ」
「えへへ」
 小野さんは、照れくさそうに笑った。
「それにしても、これ……」絵里は周りの景色を見渡してから、「この森……、小野さんがやったの?」
「ようこそ、ヴェローナの森へ」
 と、小野さんは言って一礼した。「あたしのせいとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」
「……何言ってるのか、よくわかんないよ」
「ごめんね」
 突然そう言って、小野さんは目を伏せた。
「え?」
 急に謝られても、どうしていいかわからない。
「……どうして謝るの?」
「うまくいくと思ったんだけど……、あたしが平塚くんの家に行こうなんて言ったせいで、嫌な思いさせちゃってさ」
 平塚くんとのさっきのやりとり、小野さんは聞いてたのかな。
「……別に、小野さんのせいじゃないよ。あんなこと言う、平塚くんが悪いんだもん」
 絵里は言って、「ああ、もう思い出したらむかむかしてきた……」
「……なんか、意外」
 小野さんは目をしぱしぱさせた。
「絵里ちゃんが怒ったところ、初めて見たかも」
「そりゃ怒る時には怒るよ。……でも、あんまりないし、貴重だから、よく見ておいたほうがいいよ」
 そう答えると、小野さんはきょとんとした顔をして、やがてくすくす笑いはじめた。
 二人は花畑の真ん中に寝転んで、空を眺めた。手で千切ったような形の雲が、ゆっくりと流れていく。
「……ロミオも、好きな人のことを考えながら、ここを歩き回ってたのかな」
「そうかもね」 
 小野さんは起き上がって、
「でも、人の気持ちなんて、よくわかんないよ。同じ時代に生きてる人のことだってわからないのに……、何百年も前に生きていた人のことなんて、お話の中の人のことなんて、なおさら」
「……」
 絵里の頭には、平塚くんの顔が浮かんでいた。
「絵里ちゃんは、国語の時間に朗読する時……、登場人物の、その人の気持ちになろうって考えたりする?」
「……ううん」
 しばらく考えてから、絵里は首を振った。 
「小さい頃お婆ちゃんの家に行くと、いつも本を買ってもらえた。買ってきた本を、お婆ちゃんが読んでくれたの。あたしはそれがすごく楽しみだった。でも今は、病気で入院してて……、いつどうなるかわからないんだって。正直言って、全然実感がないんだけどね。
 たぶん、その時のこと考えてた。
 お婆ちゃんみたいに読みたいって、もしお婆ちゃんだったら、どんな風に読むだろうって、そう思ってたのかもしれない」
「それでいいんじゃない?」
 小野さんは立ち上がると、肩をぐるぐる回し、
「あたし、なんか絵里ちゃんのお婆ちゃんと仲良くなれそうな気がするよ」
 と、言った。


 二人が母屋に戻った時には、もう陽が落ちかけていた。庭では、縁側のそばで三人が何やら話していた。絵里と小野さんが近づいて声をかけると、
「もう、どこ行ってたんだよっ、心配したんだから」と、詩織ちゃんは口をとがらせた。
「ごめんね、なかなか小野さんが見つからなくて……」絵里は言って、足元にすり寄ってきたシバの頭を軽く撫でた。
「転校生、今まで何やってたんだよ」
「ちょっと野暮用でね」
 石浜くんの言葉に、小野さんは肩をすくめた。「それに……、どんな話だって、主役は遅れて登場するものでしょ?」
「誰が主役だよ」
「目の前にいるじゃない」
 ほらほら、と小野さんは自分の顔を指でさしながらそう言ったが、
「ぜんぜん見当たらないけどなあ」
 石浜くんはわざとらしくきょろきょろしてみせる。小野さんは不満そうに頬をふくらませ、サンダル履きの石浜くんの足を思い切り踏んだ。
「……っ!」
 石浜くんはその痛さに足を抑え、涙目になり、ぴょんぴょんと片足で庭を跳び回る。
 小野さん、容赦ないなあ……。絵里と詩織ちゃんは、呆れ半分にそれを眺めていた。
「でも、冗談じゃなくてさ、もう少し見つからなかったらお母さんに言うところだったよ」と、平塚くんは言った。「……笹原さんがいなくなってから、もう三時間以上経ってるんだから」
 え、そんなに時間経ってたの? 小野さんと話していたのは、ほんの二三十分くらいだった気がするけれど……。
 時おり吹く、肌に感じる風も、いつの間にかひんやりとしている。絵里は小野さんの方を見たが、小野さんは何も言わず、口元に人差し指をあて、悪戯っぽく笑った。
「みんな、いつまで庭にいるの」
 いつの間にか帰ってきていたらしく、縁側から、平塚くんのお母さんが顔を出した。おっとりとした声音で、「……あら? 二人増えてるのねえ」
「あ、お邪魔してます」
 小野さんが笑顔を返し、
「……お邪魔してます」
 絵里も軽く頭を下げる。
「もしよかったら、みんなうちで夕飯食べていきなさいな」平塚くんのお母さんは笑って、「みんな、カレー、嫌いじゃない? ……この子ねえ、あんまり友達連れてきたりしないから、いつも二人だけだし……。こんなににぎやかなの、久しぶりなのよ」
「お母さん、余計なこと言わなくていいから……」と、平塚くんは慌てたように制した。
「なんだったら、みんな泊まってく? この家、部屋だけはいっぱいあるから」
「……だから、お母さんってば」
 恥ずかしいのか、平塚くんは縁側に上がり、なおも続けようとするお母さんを無理やり台所へと引っ張っていった。他の三人は顔を見合わせてから、笑いながら母屋へ上がった。 
 平塚くんの家のカレーは、家でつくるカレーに比べたら少し辛かったけれど、平塚くんのお母さんがすすめるので、絵里もおかわりをしてしまった。小野さんは二杯も三杯もたいらげていて、みんな目を丸くしていた。
 食べ終わった後、平塚くんは仏壇に竹篭から出してきた蜜柑を供えた。お線香の香りが、しばらく和室に漂っていた。
 それから絵里たち女子三人は、着替えを取りに一度家へ戻ることになった。この辺りは一軒家が多く、ぽつぽつと街灯の光が路地を照らしている。
「まさか、ホントに泊まることになるなんてねえ……。しかもみんなで銭湯行くとか。あたし、銭湯行くの初めてだよ」
 と、詩織ちゃんが言った。
 さっきの夕飯のあいだに、平塚くんのお母さんが、みんなが泊まることを独り決めしたらしく、二階の部屋に布団を敷いてしまい、断るに断れない状況になってしまった。
 人数が多いので順番にお風呂に入るのも時間がかかるため、学校の近くにある銭湯、「春の湯」に行こうということになったのだが、なぜか平塚くんはあまり行きたくなさそうにしていた。
「ねえ、さっき電話したとき、絵里ちゃんのお母さん何か言ってた?」
「ううん、別に……」
「男子の家に泊まるってこと言った?」
 ううん、と絵里は首を振り、
「ただ、同じクラスの友達の家に泊まるってだけ。迷惑かけないようにしなさいよって言われた」
「そっかあ……」
 詩織ちゃんは何かを考えているようだったが、
「あたしたち、フライデーされちゃうかもね」
 と、急に言ったので、絵里は思わず吹き出してしまった。
「絵里ちゃん、笑い事じゃないよ」
「だって、あたしたち芸能人でもなんでもないじゃん」
「わかんないよ」 
 辺りをうかがうように、きょろきょろと見回し、
「記者がそのへんにうろうろしてるかもしれない。そしたら、明後日の朝、教室の黒板に相合傘描かれちゃうかもよ」
「それは……、嫌かも」
 詩織ちゃんは腕組みをして、しばらく悩んでいたが、
「でも、なんか林間学校みたいだし、どきどきする……。一学期に、日光行ったじゃない」
「うん」
「バスの中で、先生がカラオケで演歌歌い始めちゃって大変だったよね……。あの時はさあ、絵里ちゃんと同じ班になれなかったもん」と、詩織ちゃんは言った。「一緒ならよかったのになあって、ずっと思ってたの」
「……うん。あたしも、詩織ちゃんと一緒だったらよかったのにって思ってた」絵里は言った。
 その時、少し前を歩いていた小野さんが振り返り、
「林間学校、日光だったんだ」
 と、ぽつりとつぶやいた。
「そうなの、小野さんも四月に転校してきてれば一緒に行けたのに」
「あたし、ずっと入院してたからさ。林間学校とか、今まで行ったことないんだよね」
「……」
 絵里は、転校当初に女子の間で流れていた噂を思い出した。
 出所はわからない、先生から誰かが聞き出したのだろうか、本当か嘘かもわからない話……。
「そういえば誰か、そんなこと言ってたね」
 と、詩織ちゃんが言った。
「うん。別に、隠してるわけでもなかったんだけど」
 三人は、黙ったまま歩いていた。細い道を、前から車が来たので歩道の方へよける。
 街灯の明りの下まで来ると、小野さんは立ち止まった。
「友達の家に泊まるとかも、一度もなくて……」
 珍しくはにかむような表情で、
「だからね、……あたし、こうやってみんなと一緒にいられるのがすごく楽しいんだ」
 絵里は家に帰ると、急いで荷物をナップサックに詰め込んだ。玄関で靴を履いていると、お母さんが小走りに近寄ってきて、
「ほら、銭湯行くんでしょう、お金あげるから」
「あ……、ありがとう」
 立ち上がり、五百円玉を受け取る。
「お釣りでジュースでも買っていいから」と、お母さんは言った。「もう暗いから、気をつけていくのよ。銭湯なんて久しぶりでしょ」
「うん」
 絵里は頷いて、「ねえ、お母さん」
「何?」
「最近、お婆ちゃんのお見舞い行った?」
「うん、先週の水曜日に行ったけど……、なんか、前よりも元気になってたわ」
「そうなんだ」
「そうそう、……このところ、夢を見るんだって。どんな内容かは覚えてないらしいんだけど、楽しい夢らしくてね。にこにこしながら話してたわ。最近暑さもだいぶ引いてきたからかな、わりと調子いいみたいだった」
 絵里は、その話を聞いて意外な気がした。
「……夢なんて見るんだね」
「え?」
 お母さんはきょとんとした顔になる。
「大人も、夢を見たりするんだね」
「……ああ、そっか」
 そう言って、お母さんは笑った。
「まだ絵里は知らないかもしれないけど……、大人も子供も、同じように夢を見るのよ」

 
 春の湯の番台には、意外なことに、よく知った顔が座っていた。
「あれ、委員長?」
 絵里が思わずつぶやくと、
「……どうしたの? みんなそろって」と、委員長は驚いたように目をぱちぱちさせた。それから平塚くんの方を見て、「正人くんも、久しぶりだね」
「……うん」
 平塚くんは渋々、という風に頷いた。
「え、なになに」透明のプールバッグを提げた詩織ちゃんは、二人の顔を交互に見やった。「委員長、平塚くんのこと、正人なんて呼んでたっけ」
「なんか、仲よさそう」
 そう言う小野さんは、シャンプーとボディーソープ、手拭いを入れた自前の黄色い桶を小脇に抱えている。待合室のテレビでは、音楽番組が流されている。湯上りらしいお爺さんが、長椅子に座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。
「あれ、お前ら知らないの?」 
 石浜くんはなぜか自慢げな口調だ。「岡と正人は幼馴染なんだよ。幼稚園からの知り合い」
「そうなんだ……」
 そんなこと、今初めて知った。平塚くん、だからあまり行きたくなさそうだったのかな。
「番台、いつもはお婆ちゃんが座ってるの、ボケ防止になるからって。でもこの間腰を悪くしちゃったから……」と、委員長は言った。「さっきまでお母さんがいたんだけど、ちょっと用事で出かけちゃったから、あたしが留守番してるんだ」
 絵里が平塚くんの家に泊まることになった経緯を説明すると、ふうん、と委員長は興味なさそうにつぶやいた。
「委員長もいっしょに入ろうよ」
 詩織ちゃんはそう言ったが、委員長は首を振った。
「せっかくだけど、あたしは無理。いつもお客さんそんなには来ないけど、一応ここにいなくちゃ」
 脱衣所の入口で男子二人と別れ、絵里たちは服を脱いだ。カラカラと引き戸開けて浴場へ入る。絵里たち三人の他にお客さんは誰もいなかった。
「うわー……、貸切みたい」
 と、詩織ちゃんははしゃいだ声を出した。天井は高く、上の方は仕切りがなく男湯とつながっている。壁の向こうから、何人かの大人の男の人の声が聞こえてきた。
絵里と詩織ちゃんがそのまま湯船に浸かろうとすると、
「だめだよ、先に体洗わないと」
 と、小野さんに注意される。
「え、そうなの?」
「他の人も入るんだから、エチケットだよ、エチケット。自分の家だったら別にいいけどさ」
「あたしたち、銭湯初心者だから……」
 三人は並んで、体と髪を洗った。髪の短い小野さんは、すぐに洗い流してしまい、先に湯船に入った。浸かる時に「ああ……」と声を漏らしていて、やっぱりおばさんくさいな、と思う。
 お湯が家のお風呂よりも熱くて、長いこと肩まで浸かっていられなかった。すぐに顔が火照ってくる。
 絵里が一度お湯から上がり、ぼんやりと浴槽の縁に腰かけていると、
「……そういえば、絵里ちゃんてさあ」すぐ隣に座っている詩織ちゃんが、耳元でささやいた。「好きな人いるの?」
「え、……」
「この前、一目惚れの話してたじゃない」
 ああ、そういえば……、そんなこと、すっかり忘れていた。
「だから、いるのかなって」詩織ちゃんは、暑いのか手で顔のあたりをぱたぱたと扇いでいる。
「……」
 絵里は、洗い場でストレッチをしている小野さんの方をちらと見てから、
「……うん、いるよ」
 と、答えた。
「え、だれだれ? クラスの男子? あたしの知ってる人?」
「いや、ちょっと無理……」
「なんでよー、いいじゃん。教えて教えて」
「……」
 絵里は黙っていた。
「じゃあ、勝負しようよ」
 詩織ちゃんは急に言った。
「勝負?」
「どっちが長い間湯船に浸かってられるか対決」
「……どっちが長い間湯船に浸かってられるか対決?」と、絵里は言った。「もしかして、……どっちが長い間湯船に浸かってられるかで対決するの?」
「すごい、よくわかったね」
 と、詩織ちゃんは言った。「じゃあ、負けたほうが罰として好きな人の名前を言うこと。わかった?」
「ええ、何それ……」
「ほら、勝てばいいんだから、勝てば」
「もう……」
 絵里はしぶしぶ頷いた。小野さんに審判をやってもらうことにして、二人はあらためて湯船に浸かった。
「あんまり無理しないようにね。……よーい、スタート」
 小野さんは、コン、と桶を浴槽の縁に当てて合図してから、大きな声で数を数えはじめた。
 いーち、にーい、さーん、しーい、……絵里は熱いお湯に肩まで浸かりながら、小野さんが数を数える声を聞いていた。
 じゅーいち、じゅーに、じゅーさん、じゅーし……
 じゅーご、じゅーろく、じゅーしち、じゅーはち……
 じゅーく、にじゅう、にじゅういち、にじゅうに、にじゅうさん、にじゅうし、にじゅうご、にじゅうろく……、
 絵里は口元までお湯につかり、ぶくぶくと泡を立てた。
 ……これに負けたら、本当に好きな人のことを言わなくちゃいけないんだろうか。……ちょっと、嫌だなあ。
 ていうか、詩織ちゃんも好きな人、いるのかな?
 ……だいたい、……あたし、……どうして平塚くんのこと好きになったんだっけ……。
 ごじゅーいち、ごじゅーに、ごじゅさん、ごじゅし、ごじゅご、ごじゅろく、ごじゅしち、ごじゅはち、ごじゅく、ろくじゅう、ろくじゅういち、ろくじゅうに、ろくじゅうさん、ろくじゅうし……
 絵里は、だんだん頭がぼうっとしてきた。小野さんの声が、さっきよりも遠くに聞こえている。
 ななじゅうなな、ななじゅうはち、ななじゅうく、はちじゅう、
 はちじゅういち、はちじゅうに、はちじゅうさん、
 はちじゅうし、はちじゅうご、はちじゅうろく、
 はちじゅうしち、はちじゅうはち、はちじゅうく、きゅうじゅう、きゅうじゅういち、きゅうじゅうに……


 気がついた時、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
「ん……」
 絵里が起き上がろうとすると、体にかけられていたバスタオルがはらりと落ちた。
「あ、起きた」
 小野さんの声が聞こえた。目を開けると、すぐ目の前には浴場へつづく磨りガラスの引き戸が見え、絵里は自分が脱衣所の椅子に寝かされていたことを知った。両隣には小野さんと詩織ちゃんんがいて、心配そうに絵里の顔をのぞきこんでいる。
 絵里はゆっくりと首を振り、
「……あたし、倒れちゃったの?」
 と、言った。
「そう。のぼせちゃったんだね、たぶん」と、小野さんが言った。「急に立たないほうがいいよ」
「ごめんね、あたしのせいで……」責任を感じているのか、詩織ちゃんはシュンとしている。
「ううん、……もう大丈夫だから」
 ふう……、と溜息をつき、絵里は立ち上がった。椅子に座りなおしてから、
「二人とも、迷惑かけてごめんね」
「そんなことないよ」小野さんは言ってから、「でも、服着たほうがいいかもね。風邪引いちゃうから……」
 そこでようやく、絵里は自分が裸のままだったことに気づいた。あわてて床に落ちていたバスタオルを体に巻きつける。うう、恥ずかしい……。
 絵里が服を着替えてドライヤーで髪を乾かしていると、詩織ちゃんは飲み物を買ってくると言って、脱衣所から出て行った。絵里がまだ熱い頬を手でおさえながらぼんやりしていると、横にいる小野さんが、脱衣所の備え付けの団扇でぱたぱたと扇いでくれる。
「ありがとう」
「扇風機、壊れてるみたいだし」
 言われて上を見上げると、壁に設置されている扇風機には、たしかに「故障中」と書かれた紙が貼られていた。
「……そういえば、男子二人は?」
「外で待ってるって」と、小野さんは言った。「平塚くん、心配してたよ」 
「……」
 脱衣所にまで、待合室で流れているテレビの音が聞こえている。しばらくのあいだ二人は無言だった。団扇で扇ぐ音だけが聞こえていた。
「……ふう」
「少し落ちついた?」
 脱衣所に女の人が入ってきた。こんばんは、と声をかけられて二人は挨拶を返す。女の人が浴場へ入り、引き戸を閉めてから、
「……平塚くんと初めて会った時ね」
 と、絵里は話し出した。
「……」
 小野さんは団扇を扇ぐ手を止め、絵里の方を見た。
「三年生の時、夏休みに何人か集まって区営プールに行ったの。誰かが誘ったのか知らないけど、他のクラスの子も何人かいて……、その中に平塚くんもいたんだよね。
 あたしその時サンダルはいてて、歩道の植え込みを飛び越えようとしたら、転んで爪剥がしちゃったんだ」
「うわ、痛そう……」
 小野さんは顔をしかめた。
「痛かったよ。でも、そのことより……あたしだけ家に帰らなくちゃいけなくなって、なんか仲間はずれにされたみたいで、その方が嫌だった。他の女の子たちも、口では心配そうだったけど、一緒に来てくれなかったし……。
 でも、平塚くんがついてきてくれたんだよね。危ないから一緒に行くよって。ほかの男子に冷やかされたりしたけど、そんなの全然気にしてないみたいだった、……。もうあんまり覚えてないけどさ。だからね、一緒のクラスになれて、すごく嬉しかった」
「……」
「なんか、今急に思い出した」
「……そっか」
 小野さんは立ち上がり、
「平塚くん、いい子だね」
「いい子って……、同い年でしょう」
 絵里が指摘すると、
「人は見かけにはよらないんだよ」
 と、笑った。
 やがて詩織ちゃんが飲み物を買って戻ってきた。それを飲んでから待合室へ戻る。受付には知らないお婆さんが座っていて、委員長の姿は見えなかった。もう帰ってしまったのだろうか。
 外へ出ると、隣のコインランドリーの前のガードレールに、男子二人が座っていた。
「……大丈夫?」
 濡れ髪の平塚くんに声をかけられ、
「うん。ごめんね、遅くなっちゃって」
 絵里が笑顔でそう返すと、なんだか、平塚くんは少し驚いたような顔をしていた。
 平塚くんの家に戻ってから、布団の上に寝転がり、みんなでトランプをして遊んでいると、すぐに時間が過ぎてしまう。笑い声が下にまでひびき、平塚くんのお母さんに、やんわりと注意されてしまった。
 十時過ぎには部屋の明りが消された。
 蒸し暑いこともあり、絵里はなんとなく眠れずに、暗い部屋の中ぼんやりと天井を見ていた。
「絵里ちゃん、……起きてる?」
 不意に、隣の小野さんが話しかけてきた。
「うん」
「眠くないの?」
「小野さんだって……」
「なんか、寝るのもったいなくてさ。絵里ちゃんだって、ずっと起きてたでしょ」
「あたし、人の家だとなかなか寝れなくて」
 もう寝ている詩織ちゃんを起こさないように、小声でささやくようにつづける。
「ね、そういえばさ。詩織ちゃんの好きな人って誰だったんだろうね」
「うーん、……」
 全然見当もつかない。今までそういう話、したことなかったからなあ。
「意外と石浜くんとか?」
「ええ、そしたらどうしよう……」
 なんだか自分が照れてしまい、頬に手を当てる。
「絵里ちゃん関係ないじゃん」
「関係あるよ。そっかー、石浜くんかあ……。でも、お似合いかも。顔はちょっと怖いけど」
 独り決めして顔を赤くしている絵里に、小野さんは呆れたような目を向けた。
 二人はしばらく小声で話していた。少し開いたままの窓から風が入ってきて、カーテンを揺らした。
「なんかあたし、ぜいたくだったのかも」
 と、絵里は言った。
「……?」
「自分が誰かを好きになって、その相手に好かれないことがずっと悲しかったけど、……でも、好きになってもらえなくても、一緒にいるだけで楽しかったんだ。好きになった頃は、ずっとそうだったのに……、
 いつの間にか、忘れてた、そのこと」
「……ふうん」
「……あ」
 絵里はふと思い出した。
「どうしたの?」
「なんか、劇の練習するために集まったはずなのに……、ほとんど練習してないなと思って」
「でも、楽しかったよ。あたし、すごい楽しかった」
 その言葉に絵里は頷いて、
「あたしも楽しかった」
「じゃあいいじゃん」
「……、じゃあ、まあいっか」
 小野さんは嬉しそうに笑って、
「『何という素晴らしい夜だ、何という嬉しい夜だ!
 今ちょうど夜なので、夢でも見ているのではないのか。
 余りに嬉しくてとても本当とも思えぬくらいだ。』」
「それ、……」
「ロミオが、ジュリエットに会った時の台詞」
「……」
「大げさだよね……」と、小野さんは言った。「でも、あたしも今、そういう気持ちかもしれない」
 ロミオとジュリエットが生きていた時代にも、今のあたしたちみたいに、……いつだって、こんなふうに夜はやってきた。
 何という素晴らしい夜だ……。
 絵里は、心の中で何度もその台詞を繰り返した。

ロミオとジュリエット 1話

  第一話
 

 絵里がバスから降りると、目の前には夕焼けが広がっていた。
 駅前にある駐輪場の時計は六時をまわっていた。絵里はそれを見て、自分が思ったよりも病院に長居してしまったことを知った。
 今日の晩ご飯、なんだったっけな。昨日カレーだったから、その残りかもしれない。
 そんなことを考えていると、お腹が小さく鳴った。
 早足で家までの道のりを歩き出す。信号が赤だったので立ち止まり、横断歩道の向こうに建つビルの、進学塾の大きな看板を何とはなしに見上げた。同じクラスの子も何人か通っているらしいが、絵里は中学受験をしないので関係がない。薄暗くなりはじめた空に光るネオンは、なんだか安っぽいような感じがした。
 駅前の本屋の店先を冷やかして、いつも買っている少女漫画雑誌の今月号が発売されていないことを確かめてから、絵里は図書館の方へ足を向けた。図書館裏の桜並木を通った方が、絵里の住んでいる団地へは近道になる。
 もう八月も二十日を過ぎていた。窓を開け放している家からは、テレビの音が外にまで聞こえてくる。
 蝉の声も、心なしか過ぎていく夏を惜しんでいるようにも聞こえる。
 絵里は、夏休みの間じゅう、こうしてお婆ちゃんのお見舞いへ行くほかは、図書館で本を読んだり、ひとりで川沿いを散歩したりしていた。
 もう、夏休みも終わっちゃうんだな……。絵里がそんなことを考えながら歩いていると、
「……あ、笹原さん?」急に声をかけられた。
「え?」
 前から小走りで近寄ってきたのは、同じクラスの平塚くんだった。家で飼っているのだろう、柴犬のリードを手にしている。犬と一緒に走ってきたが、犬が勢いあまって絵里を追い越してしまったので、平塚くんはリードに力を入れ、犬を立ち止まらせた。引きずるようにして戻ってくる。
「こいつ、元気ありあまってるんだよね……」
 空いている方の手で、ずれた眼鏡をなおし、人なつっこい笑みを浮かべる。
「……」
 絵里は、平塚くんの向けてくる笑顔を、まともに見れなかった。
 あんなことがあった後で何を話したらいいのかわからなかった。それに、平塚くんが普通に話しかけてくることにも戸惑っていた。
「笹原さん、今帰り?」
 平塚くんの言葉に、足元の犬が一声吠えた。
「お前にはきいてないよ」
「……その子、平塚くんちの犬なの」
「うん」
「なんていうの?」
「柴犬」
「いや、種類じゃなくて名前……」
「シバ」
 それを聞いて、絵里は思わず吹き出してしまった。
「それ、そのまますぎない?」
「なんかカッコいいじゃん」平塚くんはそう言って、「笹原さんもう宿題終わった? ぼくぜんぜんやってなくてさあ……」
「大丈夫なの、もうあとちょっとしかないけど」
「大丈夫じゃない」
 平塚くんはそう言うと、大げさに肩を落とした。「日記も最初の三日くらいしか書いてないし。もう天気とか覚えてないしさあ」
「図書館で前の新聞見たらわかると思うけど」
 絵里の言葉に平塚くんは、ああ、という表情になり、
「笹原さん、頭いいなあ」
「そんなの、誰でも思いつくよ……」
 ちらと見ると、シバは、黒い瞳で絵里の顔を見上げていた。
「でも、この子おとなしいね」
「ふだんこんなんじゃないけどなあ。笹原さんがいて緊張してるのかも」
「かわいい」
 撫でてみたい、と思ったけれど、やっぱりちょっと怖かったので絵里は何も言わなかった。
 そのうち、移動販売のパン屋の車が近くの公園の入口にとまり、スピーカーで案内を流し始めた。子供を遊ばせていた近所のお母さんたちが何人か集まってきた。
「あ、ぼくそろそろ帰らないと」と、平塚くんは言った。「シバ、行くぞ」
 そう言ってリードを引っ張るが、シバはなかなか動こうとせず、じっと絵里のほうを見ていた。
「こいつ、笹原さんのこと気に入ったのかもしれない」
「……」
「じゃあ、また学校で!」
 シバを無理やり引きずっていく平塚くんの後ろ姿を、絵里はしばらくの間ぼんやりと眺めていた。
 それから、ゆっくりと歩き出す。
 絵里は平塚くんのことが好きだった。自分でも古くさいとは思っていたが、どうしても面と向かって告白ができなかったから、昔の少女漫画みたいに、手紙を書いて下駄箱に入れた。
 でも、それから何も返事をもらっていない。
 まるで何事もなかったかのように接してくる平塚くんに、たぶんあたしはふられたんだろうな……、と絵里は思っていた。
 雑草の生い茂った角の空き地まで来ると立ち止まり、絵里はさっきのやりとりを思い返してみる。
 でも、こうして久しぶりに喋ってみると、意外と大丈夫なのかもしれない。
 あたし、ちゃんと普通に喋れてたよね……?
「大丈夫、大丈夫……」
 絵里は深呼吸をひとつすると、また歩き出した。不意に風が吹き、髪を手でおさえる。空き地に咲く立葵が揺れた。
 夏休みが終わる。


     ※


 絵里は、しわひとつなく整えられた保健室のベッドに腰かけると、窓越しに外の様子を眺めた。花壇に並んでいる枯れかけた向日葵の向こうには、校庭に整列している全校生徒の姿が見える。防災頭巾を手に持ち、しゃがんだまま校長先生の話を聞いている。みんなずいぶんと暑そうだった。
 空調が白いカーテンをかすかに揺らしている。絵里が起き上がったことに気づいた保健の先生が近寄ってきて声をかけた。
「具合、どう?」
「あ……、だいぶよくなりました」
「ちゃんと水分とってね」と、保健の先生は言って、手にしたマグカップのコーヒーをすすった。「それにしても、こんなに暑いのに外で朝礼なんて、そりゃ体調悪い子も出るの当たり前よね。……あたしも、あなたたちくらいの頃、朝礼なんてやめればいいのにと思ってたわ」
「……はあ」
 何と答えればいいのかわからず、適当に相槌をうつ。
防災の日が九月一日なの、どうしてなのか知ってる?」
「知らないです」
関東大震災があったから、それをきっかけに防災の意識を高めようっていうことなんだって」
 先生はどうでもよさそうに言うと、マグカップを事務机に置いた。
「そうなんですか」
「最近、地震多いもんね。……そうだ、先生に連絡してこなくちゃいけないわね。ごめん、ちょっと待ってて、ええと……」
 先生はそこで言葉を切ると、
「あれ、あなたのクラスと名前、なんだっけ? 最近記憶力悪くてねえ……、年かしら」
「……五年二組の、笹原絵里です」
「ありがとう。じゃ、しばらくゆっくりしてて」先生はそれだけ言い残すとそのまま廊下へ出ていった。スリッパの音が遠ざかっていく。
 絵里はしばらく外を眺めていた。
 朝、学校へ行く通学路の途中で具合が悪くなり、家に戻ってもお母さんは仕事でいないことがわかっていたので、なんとか学校までたどり着くと、教室へ寄らずにそのまま保健室へ来た。先生には軽い熱中症と診断され、そのまま朝礼には出ずに、ずっとここで休んでいた。
 だから、今日はまだ平塚くんに会っていない。ほっとした反面、どこか物足りないような気持ちもあった。
 先生はなかなか戻ってこない。
 手持ちぶさたになった絵里は、足元に置いた手提げ鞄から、図書館で借りた『ロミオとジュリエット』の文庫本を出した。ぱらぱらと頁をめくる。あらすじくらいは知っていたけれど、ちゃんと読み通したことはない。
 絵里たちの通う第二大島小学校では、毎年十月になると、演劇祭と展覧会が交互に開催される。去年は展覧会が行われ、生徒たちが授業で描いた絵や書道の作品、工作などが体育館に展示されていた。
 今年の演劇祭で、五年二組は『ロミオとジュリエット』の劇をすることになっていた。夏休み前に演目は決まっていたのだが、それ以上のことは何も決まっていない。夏休み中に練習しているクラスもあったと聞くし、そろそろ役柄くらいは決めなくてはまずいだろうと思う。
 平塚くんは、ロミオに選ばれてもおかしくはないと思う。もし、そうなったら、ジュリエットはあたしが……。
 絵里は首を振った。
 何考えてるんだろ、あたし、もうふられたも同然なのになあ……。
 内心でそう思いつつも、絵里はジュリエットがはじめて出てくる場面を開いてみた。ジュリエットの母親、キャピュレット夫人が、乳母にジュリエットはどこにいるのかと訊ね、それに答えてジュリエットが登場するところだ。
 外で鳴いている蝉の声が、窓越しに少しくぐもって聞こえている。絵里は、小さな声で台詞を読んだ。
「『え? 何なの? 呼んでいるのはだれなの?』」
 すると、絵里の声にかぶさるように、
「『お母様ですよ。』」
 自分以外の声が突然聞こえ、絵里はびくっと体を震わせた。
 え、空耳……かな? 
 でも、たしかに誰かの声が聞こえたような気がする……。
 静まりかえる保健室の中には、自分の息遣いと空調の音だけがひびいている。室内をきょろきょろと見回す。今まで意識していなかったけれど、隣のベッドに白いカーテンがひかれていることに気がついた。
 耳を澄ませていると、確かにその向こうから、くすくす、という小さな笑い声が聞こえてくる。
 先生は何も言っていなかったけれど、あたし以外にも誰かいるのかな……。
 確かめてみよう、と絵里は思った。今度は心もち声を大きくし、つづけて台詞を読み上げる。
「『あら、お母様。何かご用?』」
 すぐに、カーテンの向こうから声が聞こえてきた。
「『お話があります。ばあや、あんたはちょっと席をはずして。
 二人だけで内密に話をしたいから。――ばあや、やはりいてちょうだい、
 あんたにも内内の話を聞いてもらったほうがよさそうだから。
 知ってのとおり、娘ももう年頃になったのだけどね。』」
 やっぱり、絵里の台詞に合わせて受け答えをしている。
 絵里は胸をどきどきさせながら、しずかにベッドから立ち上がり、足音を立てないように隣のベッドに近づいた。
 声はなおも続ける。
「『……地震の年から数えて今年は十一年目でございましょう、
 ちょうどあのとき、――忘れようたって忘れられませんですよ――
 一年三百六十五日、その中でも、ちょうどあの日に乳離れをなさいましたんですよ。
 あのとき、あたしは乳首ににがよもぎの汁を塗ってましてね、
 そして鳩小屋の壁の所で日向ぼっこをしておりましたんですよ。
 旦那様と奥様はちょうどマンテュアにいらしてご不在中のことで――
 いいえ、ね、あたしの頭はまだぼけてはいませんですよ――』」
 絵里は目の前のカーテンを、いきおいよく開いた。
 背の低い、まるで男の子みたいに髪を短くしている女の子がベッドの上に腰かけ、足をぶらぶらさせていた。黄色い半袖のTシャツに短パンという格好で、服装も男の子みたいだ。声を聞いていなければ、もしかしたら間違えていたかもしれない。
 女の子は驚いた様子も見せず、ゆっくりと首を回して絵里の方を向き、
「……そう、あれからもう十一年以上も経ったんでございますよ」
「……」
 絵里はじっと女の子を見ていた。
 この子、本も何も持ってない。そしたら、さっきの台詞ぜんぶ暗記してるってこと……?
 女の子は不意ににっこり笑うと、
「どうしたの? ジュリエット」
「……」
「さっきあなた、ジュリエットの台詞言ってたでしょう」
 絵里はそれには答えずに、
「……何してるの、ここで」
「絵里ちゃんと同じ、具合悪くなったから休んでたんだよ」
「え」驚いて、思わず目をしぱしぱさせる。「どうして、あたしの名前知ってるの?」
「だって名札に書いてあるじゃない」
 絵里はあわてて、胸のところにつけた名札を手で隠したが、今さら隠したところでどうなるものでもないことに気づいた。でも、なんだか恥ずかしくてそのまま手を胸元にあてていた。
「長い台詞言ったら喉渇いちゃったよ。……よっと」 
 女の子は勢いをつけてベッドから飛び降りると、事務机に近づき、先生が残していったマグカップを手に取った。
「あ、それ……」
 絵里が止めようとしたが、女の子は一気に飲み干そうとして、大きく咳き込んだ。案の定、女の子はげほげほとむせ始めた。
「ちょっと、大丈夫?」
 咳き込んでいてしゃべれないみたいだ。涙目になっている女の子の背中を、絵里はゆっくりさすってあげた。
「……はあ、はあ……」女の子は息もたえだえという様子で、「……コーヒー、苦い……」
「コーヒーだもん」と、絵里は呆れたように言った。
 女の子はようやく落ちついたのか、ふうと大きく深呼吸をした。
「ごめんね、ありがとう」
「別にいいけど……」
 言いながら、改めて女の子を見る。絵里は、その顔にどこか見覚えがあるような気がした。
 ……あたし、この子とどこかで会ったことあったっけ?
「コーヒー、お砂糖いれないとやっぱり無理かも」
「ジュースの方がいいよ、ぜったい」と、絵里は言った。「ねえ、それより……、あなたの名前、なんていうの?」
「松子だよ、小野松子」
 松子だなんて、なんだかおばさんくさい名前……。
「小野さんは、このへんの子?」
 絵里の問いに小野さんはぶんぶんと首を振って、
「ううん、あたし最近引っ越してきたんだもん」
「そうなんだ」
 じゃあ、見覚えがあると思ったのは、やっぱり気のせいなのかな。
「そうだ」
 小野さんは急に、パンと手を打ち鳴らした。
「あたし引っ越してきたばっかりでこの辺のこと全然知らないんだ。まだ上履きも買ってないし……」
 言われて足元を見ると、小野さんは、たしかにサイズの合わない、茶色い来客用のスリッパを履いていた。
「絵里ちゃん、地元でしょう。この辺案内してよ」
「え、今から?」
 ちらと校庭を見ると、まだ校長先生の話は続いていた。
「そうそう、善は急げって言うでしょ」小野さんは立ち上がると、絵里の手を取った。
「でも、先生まだ戻ってこないし」
「大丈夫大丈夫、……」小野さんは言った。「絵里ちゃん、なんかノートとか持ってる?」
 言われて絵里は手提げから、今日提出する予定だった漢字練習帳を出した。一枚破ってもいい? と聞かれ、最後の方のまだ使っていない頁を破って渡すと、小野さんは、事務机の中から勝手にボールペンを出し、そこへさらさらと何かを書いた。
 しばらくして、先生が戻ってきた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって……。て、あれ?」
 先生は部屋の中をきょろきょろ見回したが、誰の姿もなかった。不審に思いつつ、マグカップを手に取って飲もうとすると、いつの間にか中身は空になっている。
「……ん?」
 ふと、そこにノートの切れ端が置かれているのに気づく。空調の風で飛ばないようにマグカップの下へ敷かれていたようだった。
 そこにはやけに綺麗な筆跡でこう書かれていた。
『具合が悪いので早退します。』
「……あの子、具合が悪いから、保健室来てたんじゃなかったのかしら」先生は、呆れたように溜息をついた。
 

 通学路に指定されている路地を一本奥へ入ると、月極駐車場の角に神社が見える。境内にたくさん木が植えてあるせいか、近くへ来ると、蝉の声がいちだんと大きくなった。
 絵里と小野さんは、境内へ入ると手水場の水をごくごく飲んだ。冷たくて止まらなくなり、何度も何度も水をすくっては口元へ運ぶ。
「ああ、生き返った……」
 人心地つくと、小野さんは本殿へとつづく石段の途中に座り込んだ。絵里もその隣へ腰かける。境内には、二人の他には誰もいない。
「やっぱりおばさんくさい……」
「え?」
 小野さんは耳に手を当てて大きな声で聞き返した。蝉の声がうるさくて、近くにいてもよく声が聞こえないのだ。
「なんでもない」
「ホントに?」小野さんは疑わしげに目を細めた。「なんか失礼なこと言われた気がするけど……」
 二人は、目の前にある石の鳥居ごしに、雲ひとつない青空を見上げた。これって、やっぱりサボりになるのかなあ、と絵里は思う。もうさすがに校長先生の話は終わったと思うけど……、もうそろそろ下校時刻になる頃だろうか。
 こんなところにいるの、誰かに見られたらどうしよう……、絵里の口から、思わず溜息が出てしまう。
「どうかした? 絵里ちゃん」
「や、……別に」
「そう」
 小野さんは短パンのお尻についた砂をぱんぱんとはたきながら立ち上がると、何も言わずにいきなり、絵里の後ろ頭を指でつん、と突いた。
「ひゃあ!」
 反応する声も裏返ってしまう。絵里は恥ずかしさで顔を赤くしたまま、「もう、いきなりつむじ触んないでよっ」
「えへへ」
「もう……、何なの……」
「この神社って、戦争が終わった後にできたんだよね」
 と、急に小野さんが言った。
「え?」
「ここ、空襲で焼けちゃったこの辺りの神社のいくつかが、戦争が終わった後に一つにまとめられて、出来たんだって」
「……ふうん」
 絵里は、ずっとこの辺りで暮らしているけれど、そんなこと初めて知った。さっき、引っ越してきたばかりだと言っていたはずなのに、どうしてそんなこと知ってるんだろう……。
「そういうの好きなの」
 小野さんは、絵里の心の中を読んだみたいにそう続けた。
「……」
「昔はどんな風だったんだろうとか、想像するのおもしろいんだ」と、小野さんは言った。「せっかくここに引っ越してきたんだし、……楽しいことは多いほうがいいもんね」
 二人は並んでブランコに乗り、どちらが立ちこぎを速くできるか競争した。絵里は靴のかかとを踏んでいたせいで、片方の靴が脱げて飛んでいってしまった。あわててケンケンで取りに行く絵里を見て、小野さんは笑っていた。
 一段落すると、ブランコに座ったままいろいろなことを話した。
「ねえ、どうしてさっき、台詞覚えてたの」と、絵里はさっきから疑問に思っていたことを訊いてみた。
「え?」
「ほら、保健室で……、あたしが劇の練習してた時さ、小野さん台詞ぜんぶ覚えてたじゃない」
「あたし記憶力いいんだ」
 と、小野さんは言った。記憶力いいのにも、程があると思うけどなあ……。
「絵里ちゃんこそなんで、ロミオとジュリエットなんて読んでたの?」
「うちのクラス、演劇祭でロミオとジュリエットやることになってるからさ」
 絵里は言いながら、そういえば小野さんは何組なんだろうと思った。いや、組どころかそもそも同じ五年生なのかもわからない。
 小野さんは、すぐそばにある絵里の顔をまじまじと見て、
「絵里ちゃん、ジュリエット役やりたいの?」
「……、別に、そういうわけじゃないけど」
「ダメだよ」
「え、何が」
「やりたい時は、やりたいってちゃんと言わないと。正直な気持ちをちゃんと言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうよ」
「……」
 絵里は何も言わなかった。
「でも大丈夫」
 小野さんは自分の胸をどんと叩いて、
「きっと絵里ちゃんジュリエット役できるから。あたしが保証するよ」
「……なにそれ、予言?」
 絵里がからかうような口調で訊くと、
「かもね。……わたしの予言、当たるって評判なんだよ」
 小野さんは立ち上がると、
「あーしたてんきになあーれ!」
 大きな声でそう叫び、片方の足を思い切り振り上げ、靴を飛ばした。
 白いスニーカーは大きく弧を描き、境内の銀杏の枝に当たって落ちてくる。絵里がそれを目で追っていると――、
「あ」
「痛った!」
 そのときちょうど鳥居をくぐって境内に入ってきた男の子に、落ちてきたスニーカーが命中してしまった。男の子は、頭を押さえてその場にうずくまっていた。何が起こったのか分らないらしく、上を見上げてきょろきょろしている。
「……どうする? 逃げる?」
 と、小野さんは言った。
「逃げちゃだめだよ、ちゃんと謝らないと……」と、絵里は言ってから、すぐに気がつく。足元に落ちている靴を拾い上げ、こちらに近づいてくる男の子のことを、絵里は知っていた。
 どうして、よりによって平塚くんが……。絵里は思わず顔を背けてしまい、小野さんは不思議そうな表情になる。
「……これ、君の靴?」
 と、平塚くんは言った。
「ごめんなさい、靴飛ばししてて……、怪我とかしなかった?」と、小野さんは軽く頭を下げた。
「投げるよ、ほいっ」
 小野さんは平塚くんが投げ返してきた靴をキャッチすると、履きなおして爪先で地面をトントン、と叩いた。
「ホントにごめんね」
 顔の前で拝むように手を合わせる小野さんに、
「あ、平気だよ。眼鏡も無事だし」と、平塚くんは笑った。そこでようやく、そっぽを向いたまま黙っている絵里に気づいたらしく、
「あれ、そこにいるの笹原さん?」
「……」
「なんか、具合悪いって先生が言ってたけど、大丈夫?」
「……」
 首筋に汗が流れたのは、暑さのせいだけではなかった。
「……ごめんなさい」
 と、絵里はぽつりとつぶやいた。
「なんで謝るの? 元気ならいいんだ。よかった、安心した」
 平塚くんはにっこりと微笑んだ。
「……」
「じゃあ、また明日ね」
 平塚くんは境内を横切ると、本殿の裏へと回った。誰かの悪戯で端の垣根が倒されていて、そこを通ると裏の駐車場へ出られるため、一部の生徒が近道として利用しているのだ。
 二人は境内に残された。
「……知り合い?」と、小野さんが訊いた。
「……同じクラスの男子」
 と、絵里は答えた。
「なんか、変な感じだったけど、大丈夫?」
 絵里はしばらくの間黙っていたが、
「……さっき、小野さん言ったよね、正直な気持ちを言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうって」
「うん」
「……そんなの、嘘だよ」
「……」
「あたし、平塚くんのことが好きなの。でも、ふられちゃった」
 絵里は俯いたまま、ゆっくりと言った。
「……正直な気持ちを言ったって、かなわなかったもん。どうやったって、かなうわけないもん。
 やっぱり平気じゃない。ぜんぜん平気じゃない。……もう、普通に友達だった頃の気持ち、思い出せないよ……」
 言葉の終わりの方は震えて上手く聞き取れなかった。目元を拭う指の間から落ちた涙が、境内の白い砂の上へ染みをつくった。


 その日の夜、絵里は部屋の布団に横になって本を読んでいた。いつも寝る前にはそうしているのだけれど、今日にかぎってどうも内容が頭に入ってこない。とうとう、本を閉じ、枕元に置いてしまった。
 ごろりと寝返りをうち、天井を見る。絵里は、昼間のことを思い出していた。
 ……あー、やっちゃったなあ……。
 あの後、小野さんは絵里が泣き止むまでずっと背中をさすっていてくれた。そのまま二人は別れ、近所を案内してあげる予定はお流れとなってしまった。
 小野さんの前でいきなり泣いたりして、変な子だと思われなかっただろうか……。
 お母さん以外の人の前で泣いたのは、すごく久しぶりだった。思い出すと恥ずかしさで顔が熱くなる。
 そのとき、不意に部屋の戸がコンコン、とノックされた。
「はあい」
 起き上がり、返事をすると、戸が開いてお母さんが顔を出した。
「調子どう? 大丈夫?」
「あ、もう全然平気」
「気をつけてね、ちゃんとお水のみなさいよ」
「うん」
「……それからね、お婆ちゃんの話なんだけど」
「え、……」
 絵里のお婆ちゃんは、一ヶ月くらい前から体調を崩して入院していた。この間平塚くんと会ったのも、お婆ちゃんのお見舞いの帰りだった。夏休み、一人でいることの多かった絵里は、ちょくちょくお婆ちゃんのお見舞いに行っていた。
「お婆ちゃん、どうかしたの?」
 絵里は、心配になり思わずそう訊いた。
「絵里には言ってなかったけど……」お母さんは表情をくもらせた。「お母さん、甲状腺癌なのよ。……もちろん、本人には言ってないんだけどね」
「……甲状腺?」
「ここ、喉のところ」
 お母さんは自分の喉下を手でさわった。
「……」
「検査したら他にも悪いところがいくつかあって……。もういい年だし、もしかしたら今年中はもたないかもしれないって、お医者さんは言ってたわ」
「……そう」
「だから、いつどうなるかわからないから、覚悟はしておいてね」
「うん」
「じゃあ、早めに寝なさいよ。お休み」
 お母さんが出て行ってしまうと、絵里は布団の上へ寝転がった。
「覚悟って言われても……、そんなの、何すればいいんだろう」
 ごろごろと寝返りをうちながら、
「……明日、学校行きたくないなあ……」
 と、つぶやいた。
 その後、布団に潜り込んでぱらぱらと本の頁をめくっているうちに、絵里は寝てしまった。
 暗い部屋の中、手元に置かれたライトの明りに、開きかけの頁が照らされていた。

『 同じような声望を享受していた二つの名門が、
 この劇の舞台、つまり美しいヴェローナにありました。
 昔からの両家の確執が今さらのように息を吹きかえし、
 平和な市民の血を流すひどい暴力沙汰と相成りました。
 事もあろうに、このいがみ合う両家から生まれ出たのが、
 互いに恋し合う二人の男女、誠に不運な星の下に生まれついたもの。
 この恋人たちの前途には見るも無残な破滅の道が横たわり、
 はては死が待ちうけ、その死と共にやっと親たちの争いも葬られる始末。
 死の影に怯えとおした二人の恋の一部始終、そしてまた、
 愛する子供たちの非業の最期がなければ、
 いつ止むとも知れなかった親たちの怨恨の一部始終、
 これから二時間にわたって演じます舞台の仕事でございます。
 どうかよろしくご清聴をわずらわせたく、
 作者の意足らざるところは、われら俳優懸命につとめ補う所存でございます。』

   
    ※


 夜中に降り出した雨は、朝になってもまだやまなかった。通学路の路地や歩道橋には色とりどりの傘の花が咲き、はしゃぎ回る低学年の男子たちの長靴が、あちこちにある水溜りを踏んで行った。
 いつもより少し遅く学校に着いた絵里は、薄暗い昇降口のすのこの上で、濡れた靴を履き替えていた。
 うわ、靴下まで濡れちゃってる……。やっぱり長靴履いてきたほうがよかっただろうか。
「おはよっ」
 不意に声がかけられ、絵里は振り返ったが、答える間もなく声の主は廊下を小走りに駆けていき、すぐに見えなくなってしまった。
 詩織ちゃんかな? でも、いつもはもっと早く来てるはずだけど、……遅刻したんだろうか。やけに急いでいたみたいだけど、何かあったのかなあ。
 そんなことを考えながら、絵里も廊下を歩く。西階段を三階まで上がり、教室の戸を開けた。
「あ、絵里ちゃんおはよう」すると、もうすでに来ていた詩織ちゃんが声をかけてきた。
 吉川詩織ちゃんは近所の商店街のスポーツ用品店の子で、何度か家にも遊びに行ったことがある。この辺りに住んでいる人は、だいたい体操着や上履きを、詩織ちゃんの家である、ヨシカワスポーツで注文することになっている。
「おはよ」
 絵里が自分の席につくと、
「絵里ちゃん、具合平気なの」前の席の詩織ちゃんは、椅子ごと後ろを向いて訊ねてきた。絵里はランドセルを下ろしてから、
「うん。ありがと、もう大丈夫……」
「もう、心配したよー、先生が保健室行ったって言ってたからさ」詩織ちゃんはいたずらっぽく笑って、「……でね、病み上がりで悪いんだけど、さっそくひとつ頼みがあるんだけどさ」
「……もしかして、宿題?」
「さすが絵里ちゃん、話が早い」
「だーめ」
 絵里は教科書とノートを仕舞い、ロッカーにランドセルを置いて、席へ戻った。
「いつも言ってるでしょう。宿題は自分でやんなくちゃだめだよ」
 絵里は筆箱を開け、授業にそなえて鉛筆の芯が折れていないかどうかを確かめた。
「ええ、あと算数ドリルだけなんだよー」詩織ちゃんはお願い、と両手を拝むようにあわせた。
「……」
 詩織ちゃんはいつもこの調子で、最後には絵里が根負けして見せてあげるのが常だった。それに、……頼りにされているのは、正直うれしいとも思う。
「だめだよ、笹原さん」
 声に振り返ると、いつの間にか、学級委員の岡さんがすぐ横に立っていた。
「げ、委員長」
 詩織ちゃんは大げさに驚いてみせた。
「みんなちゃんと自分でやってるんだから」
「おはよう、岡さん」
 と、絵里は言った。 
「おはよう。……笹原さん、甘やかしちゃだめだよ。吉川さんはちゃんと自分でやればできるんだから」
「……もう、わかったよう」
 詩織ちゃんは溜息をついて、「明日までにがんばって出しますって、後で先生に言ってくる」
「わたしもついてってあげるから」
「ありがとー、絵里ちゃん」かたじけない、と詩織ちゃんは頭を下げた。「もう、なんで宿題なんかやらなくちゃいけないんだろ……。社会に出たって役に立たないのに」
「詩織ちゃん、社会のこと知ってるの?」
 絵里がそう訊くと、
「もちろん知ってるよ、ていうか、社会のことなら何でも聞いてよ」詩織ちゃんは、どん、と自分の胸を叩いた。「……何をかくそう、社会はね」
「うんうん」
「……社会は……」
「うん」
「社会は、厳しいらしいよ」
「……それ、情報少なすぎない?」
 と、岡さんが冷静に指摘した。
「あはは……」
 苦笑する絵里の顔を、なぜか岡さんは、しばらくの間じっと見ていた。それに気づいた絵里が、
「……? どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
 岡さんは言葉をにごし、あいまいに視線をそらした。
 やがて、始業のチャイムが鳴る。チャイムとほぼ同時に数人の男子が教室へ駆け込んできた。その中には平塚くんもいたが、すぐに先生が入ってきたので、自分の席へついてしまう。絵里は平塚くんがロッカーへランドセルをしまうのを、無意識に目で追っていた。
 その後からすぐに先生も入ってきた。中村先生は、もうすぐ子供が生まれるらしく、お腹のふくらみが大分目立ってきていた。
 出席簿を教卓の上へ置くと、
「はい、静かにしなさいね」
 それから、ぐるりと教室の中を見回した。「久しぶりに先生に会えてうれしいのはわかるけど、ほらほら、もう騒がないの。……ほら清水くん、ちゃんと自分の席戻りなさい」
「先生、昨日も会ったじゃん」
 男子の一人がそう言うと、
「覚えててくれてうれしいわ」
 と、中村先生は笑った。「はい、今日は宿題出してもらう前に、みんなにいいニュースがあります。……実は、二学期からこのクラスで一緒に勉強する子が、一人増えることになりました」
 その言葉に、静まり返った教室がふたたびざわついた。
 まさか、もしかして……。
 絵里はその言葉を聞いた瞬間、ある予感があった。
 はい静かに、と先生が軽くパンパンと手を叩き、戸の方に顔を向けた。
「入ってきていいよ」
 その言葉を合図に戸が開いて、一人の女の子が入ってきた。教卓の前まで来ると、じっと視線を向けている生徒たちに向かって、にっこりと笑顔を見せた。
「じゃあ、自己紹介してもらおうかな」
 その先生の言葉に、女の子は言った。
「はじめまして、小野松子といいます」
 よろしくお願いします、と頭を下げる。それから絵里の方に向かって小さく手を振ってみせた。
 ……なんか、こうなるような気はしてたんだよね……。
 内心でつぶやくと、絵里は疲れたように溜息をついた。
 その日の授業中、先生に見つからないよう、女子の間に何通もの手紙が回された。小さく畳まれた便せんが次々に、その手から手へ渡った。その内容は、一番前の席で、もうずっと前からそこにいたような顔をして授業を受けている、小野さんについてのものだった。
『なんか先生が言ってたんだけど、転校生、体弱いらしいよ。ずっと入院してたから、前に通ってた学校も行けてなくて……、治ってからも居づらくなってこの学校に来たとか』
『名前、おばさんくさいよね』
『ていうか、なんでスリッパ履いてるんだろ?』
『ジャニーズで誰が好きって訊いてみたんだけど、ぜんぜん知らないみたいだったよ。テレビほとんど見ないとか、変わってるよね』
『さっきの休み時間、笹原さんと話してたけど、知り合いなのかな』
『けっこう可愛いよね。あたし、ちょっと友達になりたいかも……』 
 小野さんは、スリッパを履いた足を気にするように、時々教室の床にこつこつと爪先を当てていた。
 放課後には、雨の勢いが朝よりも激しくなっていた。絵里が西階段を降りていると、
「こんなところにいた」
 踊り場に、ランドセルを背負った小野さんが立っていた。
「……」
 絵里は何も言わずに、そのまま通りすぎようとする。
「どうして無視するのよ」
 小野さんの言葉に、絵里は振り返った。
「……あたしが平塚くんのこと好きなの、絶対に誰にも言わないでよ」
「だから、休み時間にも言ったじゃない……、そんなの言わないってば」
 絵里は大きく溜息をつくと、
「……、小野さん体弱いって、本当なの?」
「誰がそんなこと言ってたの」 
「知らないけど、女子の間で噂になってる」
 小野さんはしばらく黙っていたが、
「雨」
「え?」
「雨の音がする。すごい降ってるね。……絵里ちゃん、あたし傘忘れちゃったんだ。だから入れてってよ」
 二人は昇降口で靴を履き替えた。
 絵里の傘は小さくてお互いの肩が濡れ、二人はぶつくさ文句を言いながら歩いた。
「あたしの天気予報、当たったでしょ」
「……?」
「ほら、神社で」
「ああ、……」
 言われてようやく気づく。
「あれ、平塚くんに当たったんだし、無効だよ。……それに、予報できるなら、どうして傘さしてこないの」
「だって、絵里ちゃんと一緒に帰りたかったんだもん」
 大通りへ出ると、横断歩道の信号が赤だったので二人は立ち止まった。
「……小野さん、あのこと誰にも言わないでね」
 と、絵里は言った。
「もう、絵里ちゃんしつこいなあ」と、小野さんは苦笑した。「大丈夫だって。誰にだって、人に知られたくないことの一つや二つ、あるもんね」
「……」
 ――転校生、体弱いらしいよ。
 小野さんも同じなのだろうか。
 ……あたしと同じように小野さんにも、誰かに知られたくない秘密があるのだろうか。


 『ロミオとジュリエット』は、イタリアのヴェローナという町での物語だ。
 ヴェローナでは、モンタギュー家とキャピュレット家が昔からいがみ合いを続けていたが、モンタギュー家の一人息子であるロミオは、友人のマキューシオたちと忍びこんだキャピュレット家のパーティで、キャピュレット家の娘、ジュリエットに出会った。二人はお互いに一目ぼれしてしまう。
 両親に知られないよう、二人はひそかに修道士ロレンスの元で結婚の誓いを果たすが、その後ロミオは町での争いに巻き込まれ、キャピュレット夫人の甥であるティボルトに、マキューシオを殺されたことに逆上し、反対にティボルトを殺してしまう。その結果、大公にヴェローナ追放を言い渡されてしまうのだった……。
 ある日の昼休み、絵里は自分の席で『ロミオとジュリエット』をぱらぱらとめくっていた。その隣の席では、小野さんが突っ伏して寝息を立てている。
「ん、ん……」 
 小野さん、机によだれ垂れてる……。 
 前の机に座って自分の爪をいじっていた詩織ちゃんが、突然顔を上げ、
「男ってさあ、ほんとバカだよね」
 と、言った。よっと、と掛け声をかけてから机から降り、窓越しに校庭を見下ろす。
 絵里もそれにつられて外を見た。校庭では、五六年生の男子が混ざってサッカーをしていて、知った顔もちらほらと見えた。みんな、大きい声を上げて走り回っている。
「……、バカ?」
 絵里のつぶやきに、
「だってそうじゃない?」と、詩織ちゃんは言った。「町中で、いきなり殺し合い始めたりしてさあ、ジュリエットとか、他の人の気持ちなんて何も考えてないみたいなんだもん」
「ああ、ロミオとジュリエットの話……」
 ようやく合点がいく。
「いつの時代も、男子ってよくわかんないよね」
 男子がバカだというのは、絵里も同感だった。同い年の男子は、くだらない話でいつも盛り上がっていて、子供っぽいなあとも思う。
「……あの、詩織ちゃんさあ」
 と、絵里は切り出した。
「何?」
「……一目惚れって信じる?」
「……」
 詩織ちゃんが何か答えようと口を開きかけた時、
「信じる!」
 突っ伏していた小野さんが急に片手を挙げて元気よく叫んだので、絵里と詩織ちゃんは驚いて思わず身を引く。
 小野さんはまたすぐに顔を伏せ、すうすうと寝息を立て始めた。
「……寝言?」
 と、絵里は呆れたようにつぶやいた。
「なんか小野さんて、変わってるよね」
 詩織ちゃんの言葉に、絵里はうんうんと頷く。
 小野さんが転校してきてから、もう一週間が経っていた。絵里と詩織ちゃん、それから委員長の三人の他はほとんど小野さんに話しかけることはなかった。男子も女子も小野さんのことを遠巻きにしていたが、小野さんの方は、そんなことはいっこうに気にしていないようだった。小野さんは授業中にも関わらず寝ていることが多く、指されることもしばしばあった。けれど、その度に寝ぼけ眼で問題には正解するので、先生もあつかいに困っているのが見てとれた。
 だからもちろん、優等生とは言えないけれど、実は頭がいいのかもしれない。家に帰ってからは、きちんと勉強したりしているのだろうか。
 ……とてもそんなふうには、見えないけどなあ。
 絵里はそんなことを考えながら、しばらくの間、よだれを垂らしながら眠る、小野さんの幸せそうな寝顔を見ていた。
掃除の時間になり、絵里と詩織ちゃんは、机と椅子を後ろに下げた教室で、窓際に置かれたバケツの上で雑巾をしぼっていた。黒板の上に設置されたスピーカーからはクラシック音楽が流れている。
 カン、カンカン、カン、……。
 さっきからひっきりなしにしているのは、教卓のそばで数人の男子がチャンバラをして遊んでいる、その箒が打ち鳴らされる音だ。
「ちょっと、真面目にやりなさいよ」いつものように、女子数人が声をそろえ、不機嫌そうに男子たちに抗議する。男子のほとんどは掃除を真面目にやったためしがなく、毎日にように女子たちが注意することになる。
「ちょっと、真面目にやりなさいよ」
 男子の一人が女子の声真似をして笑う。
「真似しないで」
「真面目にやってるっつーの、なあ」
「そうそう」
「どこが真面目なのよ」
「真面目に練習してるんだよ、劇の練習」と、男子は言った。「町の中で、ロミオがティボルトと、剣で戦う場面あるだろ。……知ってるか? いい役者はいつだって練習を欠かさないんだ」
「まだ役も決まってないじゃない、屁理屈いわないでよ」
 しばらく言い争いをしていたが、女子の一人が怒って手に持っていた雑巾を男子たちに向かって投げた。すると、男子の一人がそれを箒の柄で打ち返し、その雑巾が絵里の方へ飛んできた。
「え?」
 絵里は気づいたが、もう遅かった。濡れた雑巾が正面から顔に当たり、床に落ちた。
「絵里ちゃん、大丈夫?」詩織ちゃんが心配そうな声で言う。
「あ、うん……、あんまり痛くなかったし……」
 その言葉を言い終わらないうちに、さっきから、窓を開けて黒板消しをはたいていた小野さんが、いきなり黒板消しを放り投げると、大股で男子たちの方へ近づいていった。
「な、なんだよ、転校生」男子の一人が、小野さんの迫力に押されてそうつぶやいた。
 小野さんは黙って、他の男子から箒を引ったくると、さっき雑巾を打ち返した男子に向かって振り下ろした。男子は、あわててそれを柄で受け止める。男子の、何すんだよ危ないだろ、という声を無視して小野さんは箒を振り回し、ついには転んだ男子の上に馬乗りになった。
 丸腰になった男子の、その怯えた顔の上に箒の柄を振り下ろそうとして……、その寸前でぴたりと止める。
「『おい、ティバルト、さっき貴様は俺を「悪党」と言ったな、』」
 と、小野さんは言った。
「……言ってない……」
 横にいた男子が小さい声でつぶやくが、誰も聞いてはいなかった。
「『今こそその言葉を、そっくりそのまま貴様に返してやる。
 マーキューシオの魂が俺たちの頭上ほんの少しのところをまださ迷っていて、
 貴様の魂を道連れにしようと待っているのだ。
 貴様か俺か、それとも俺たち二人があいつといっしょに行ってやらねばならぬのだ。』……」
 静まり返った教室の中に、小野さんの声がひびいていた。
 やがて騒ぎをききつけた先生がやってきて、押し倒された男子と小野さんを職員室に連れて行った。残されたみんなは、興奮気味に、口々に小野さんの話をしていた。
「小野さん、かっこよかったねえ」と、詩織ちゃんは言った。「小笠原も、あれくらいやられていい気味だよ」
「うん……」
 絵里は曖昧に頷き、それから立ち上がった。
「どこ行くの?」
「……顔、洗ってくる」
 そうつぶやいて教室から出て行く。早足で廊下を歩いていたが、ふと立ち止まった。
 今のって……、小野さん、わたしのために怒ってくれたのかな。
 ……誰かが自分のために怒ってくれたことなんて、今までにあっただろうか?
 もちろん、あったのかもしれない。
 胸に手を当ててみると、心臓がまだどきどきしていた。不意に五時間目の予鈴が鳴ったので、絵里はあわてて水飲み場へと急いだ。


      ※

 
「王手飛車取り」と、平塚くんは言った。「もうあきらめた方がいいんじゃない? ケンジ」
「……むむむ……」
 石浜くんと平塚くんは、放課後の教室で、机に置いたマグネット将棋盤を挟んで向かい合っていた。石浜くんは、眉根を寄せて腕組みをし、真剣に考え込んでいる。盤面を見るかぎり、すでに大局は決しているようだった。すでに教室の時計は四時を回っていて、もう少しで最終下校時刻になる。
 その時不意に教室の戸が開いたので、二人はびくんと身をすくませた。
「……え、何やってるの?」
 入ってきたのは絵里だったので、二人は同時に安堵の溜息をつく。
「なんだ、笹原さんか……」と、平塚くんは笑顔になった。「先生かと思ってびっくりした」
「笹原、驚かすなよ」
 と、石浜くんが言った。
「石浜くん、いつもながら顔が怖いよ」
 絵里は指摘する。
「うるさい」 
 背の順で一番後ろの石浜くんは、顔が大人っぽいこともあり、眉間に皺を寄せているとひどく迫力があった。
 絵里は、神社の一件以来、平塚くんとはほとんどまともに喋っていなかった。大丈夫、大丈夫……、と心の中で念じながら二人に近づく。
「二人とも、……何、やってるの?」
「将棋。僕たちの間で流行ってるんだ」と、平塚くんは言った。「家の納戸で埃かぶってた足つきの将棋盤こないだ見つけてさ、ためしにやってみたら結構面白いんだよ」
 石浜くんは相変わらず険しい表情で盤面をにらんでいる。絵里ものぞきこんでみるが、将棋のルールをまるで知らないので、どっちが勝っているのかもよくわからない。
 同じ階にある音楽室で、誰かがピアノを弾いているらしく、ここまで音が聞こえてくる。
「無理無理……」
 平塚くんは言いながら、何気なく黒板に視線をやった。「それにしても……、笹原さん、ジュリエット役なんてすごいよね」
「……すごくないよ、だって、くじ引きだし」
 と、絵里は俯いて答えた。
 黒板には、今日の学級会で決められた『ロミオとジュリエット』の配役がチョークで書かれたままになっていた。日直が消し忘れたのだろう。
 絵里は、ロミオとジュリエット役のところに並んだ名前を見た。

 ロミオ……小野松子
 ジュリエット……笹原絵里

 今日の学級会で演劇祭の役決めが行われた。「みんな公平に……」という先生の提案により、くじ引きで決めることになったのだが、その結果、女子の小野さんがロミオ役をやることになってしまった。先生が男女の役を分けておくのを忘れていたらしい。
「でも小野さん、台詞完璧だったし……、かっこよかったからぴったりだよ。別に男子じゃなくてもいいんじゃない? ていうか、男子よりも小野さんの方が似合ってるよ」
 この間の、掃除の時間に起こった一部始終を見ていた女子の数人がそう言って賛成したため、そのままの役でいくことになった。男子からも反対の声は出なかった。男子たちは、ロミオ役だなんて恥ずかしくてできればやりたくなかったのだ。
「小野さん、ちょっと男の子っぽいし、宝塚みたいだね」
 と、詩織ちゃんが笑いながら言っていた。
 絵里は、小野さんがロミオをやることが不満なわけじゃなかった。想像してみたら、詩織ちゃんの言うように男の子っぽい小野さんは、たぶん似合うだろうと思う。
「……気が重いよ……」
 絵里は小野さんの予言どおり、見事ジュリエット役を引き当ててしまった。
 平塚くんがロミオ役になるかもしれないだなんて、ちょっとでも考えていた自分がバカみたいだ。こうなってみると、自分が人前で演技をすることについての不安しかない。
「でも、笹原さんすごく似合ってるよ」
 と、平塚くんは言った。
「え……」
 絵里はその言葉に動揺を隠せなかった。似合ってるって、どういう意味だろう……。
「あ、そういえば、……」絵里は露骨に話題を変えた。「ふ、二人とも、小野さん見なかった? 一緒に帰ろうと思って探してたんだけど……」
「いや、見てないけど」
 と、平塚くんは言った。「ケンジも見てないよね」
 石浜くんは将棋盤をにらんだまま無言で首を振った。
「そっか、……じゃああたしもう行くね」
 踵を返した時、足が机に当たってしまい、平塚くんが盤のそばに固めておいていた歩が何枚か床に落ちてしまった。
「あ、ごめん……」
「いいよいいよ」
 絵里は咄嗟にしゃがんでそれを拾い上げる。机の下に潜り込んだことに気づかず、そのまま立ち上がろうとして、
 ゴン!
 思い切りおでこをぶつけてしまった。その衝撃で盤面の駒もバラバラと床に落ちてしまう。
「……痛ったあ……」絵里は頭を抱えてうずくまる。うう、目の前で火花が飛んだ気がする……。
「ああーっ!」石浜くんは立ち上がり、大声を上げた。「何すんだよ、今逆転の手が見えそうだったのに」
「ご、ごめんなさい……」
 涙目で謝る絵里に、
「笹原さん、ぶつけたとこ大丈夫?」
 平塚くんが机の下を心配そうな顔で覗きこんだ。その顔の近さに、絵里は思わずどきどきしたが、何とか平静を保ったまま、机の下から抜け出す。それから、三人で手分けして床に散らばった駒を集めた。ひとつでも残っていたら、将棋をしていたことが先生にばれてしまうかもしれない。
「じゃあ、今の勝負は僕の勝ちってことで」
 駒を拾い終えると、平塚くんが言った。マグネットの将棋盤を折りたたみ、ランドセルの中に仕舞う。
「納得いかない……」
 石浜くんは不満そうに口を尖らせている。「だいたい、正人んちにだけ将棋盤があるのがずるいんだよ。俺も買ってもらおう」
「でも、僕のはじいちゃんのお古だから」
「あれカッコいいじゃん。俺もああいうのがいいよ」
「……あの」
 絵里が小さな声でつぶやくと、
「どうしたの、笹原さん」
「……あたし、そろそろ帰るね」
「そっか、気をつけてね」と、平塚くん。「痛かったら、ちゃんと冷やしたほうがいいよ、おでこ」
「……今度は邪魔すんなよな」
 と、石浜くんはまだ不機嫌そうな顔で言った。
 絵里は教室を出た。昇降口へ行く前に一階の女子トイレに寄ることにする。鏡の前で、さっきぶつけたところを確認してみた。
 あ、やっぱりちょっと痣になってるなあ……。もうあんまり痛くはないけど、ちょっとかっこ悪いかも。前髪でうまく隠れないだろうかと、絵里が試行錯誤していると、個室から水を流す音が聞こえ、女の子が出てきた。隣の洗面台に並ぶ。
「あ、委員長?」
 絵里は思わず声に出した。岡さんは振り向いて、
「……笹原さん」少しびっくりしたような声でそう言ってから、「その、委員長っていうのやめてくれない?」
「あはは、詩織ちゃんのがうつっちゃったみたい……」
「……」
 岡さんは何も言わずに肩をすくめると、蛇口をひねり手を洗った。
 絵里はなんとなくその横顔を見ていた。岡さんはハンカチで手を拭きながら、何か考えこんでいるような表情をしていたが、
「……笹原さん」
「え、あ……、はい」
 声をかけられた絵里は思わず敬語になった。
「あのね、あたし……」
「?」
「……ごめん、やっぱり何でもない」と、岡さんは言った。「また明日ね」
 そのまま逃げるようにトイレを出て行った。その場に残された絵里は、首をかしげた。
 委員長、なんか変だったな。そういえば、この間も何か言いたそうにしてたっけ……?
 どうしたのかな、何か悩みがあるとかじゃなければいいけど……。
「……それにしても、小野さんどこ行っちゃったんだろう……」


   ※


 第二小の屋上からは、西の空に沈みかけた夕陽が見えた。近くの銭湯、「春の湯」の煙突の黒いシルエットがそびえている。金網のそばに立つ小野さんの影が長く伸びていた。どこから集まってきたのか、鳩の群れがその足元をうろうろしている。
 小野さんはちらと空を見上げると、少し笑った。
 キーンコーン、カーンコーン、……。
 チャイムが鳴り終わると、小野さんは話しはじめた。屋上には他に誰もいないはずなのに、まるで誰かに語りかけているような口調だった。
「……昔、イタリアのヴェローナには仲たがいしている二つの家、キャピュレット家とモンタギュー家がありました。ロミオとジュリエットは、この両家にひきさかれた恋人たちの物語です。
 ……でも、ここはイタリアではありません。
 暮らしている時代も違います。仲の悪い両家も、ひらめく剣のつばぜり合いも、
森の中の婚礼も、二人の仲を分かつ毒薬さえもありません。
 それでも人は誰かを好きになり、小さな胸を痛めます。
 ……その思いに、違いはあるのでしょうか?
 人を好きになるその気持ちに、果たして違いはあるのでしょうか?
 そんな恋愛沙汰の一部始終、
 これから一ヶ月にわたって演じます、舞台の仕事でございます。
 どうかよろしくご清聴をわずらわせたく、
 作者の意足らざるところは、
 我ら俳優懸命につとめ補う所存でございます」
 小野さんは言い終えると、にっこりと笑った。
 その足元からバタバタ……、と鳩がいっせいに飛び立った。その音はまるで、打ち鳴らされる拍手のように聞こえた。

 
『愛と笑いの夜』


 洗面所の引き戸を閉め、ちらと横を見ると、鏡には見慣れた自分の姿が映っていた。
 二つに結わいた長い黒髪に、平均よりも低い身長。特別に美人だなんてうぬぼれはないつもりだけれど、どちらかといえば可愛い部類に入るんじゃないだろうか、という自覚はあった。
 梓は鏡の中の自分としばらく見つめあっていたが、顔を近づけると、特に意味もなく、イーッ、と歯をむき出しにしてみる。
(……何やってるんだろ、あたし)
 すぐに我に返り、小さく溜息をついた。
 こまめに磨いているのだろう、鏡には曇りひとつない。憂、こういうとこ、ホントに几帳面。
 唯先輩は大学へ通うようになってから、学校の寮で寝起きしているため、家にはほとんど帰ってこない。ご両親が仕事で、いつも帰りが遅いということもあり、梓は三年生になってから、部活の帰りにそのまま憂の家に寄ることが多くなっていた。
「今日、お父さんもお母さんも旅行でいないから……」
 だからうちに泊まりに来ない? と憂に訊かれたとき、正直すこし気が重かったが、断って二人の仲が気まずくなるのが怖くて、曖昧に頷いた。それに、べつに二人きりになるのが嫌というわけではない。
 はじめてここのお風呂を借りたときのことを思い出す。去年の春頃、たしか唯先輩たちが修学旅行に行っていたときで、純も一緒に三人で泊まったんだよな……。
 梓が服を脱いでいると、コンコン、と引き戸がノックされた。
「憂?」
「……梓ちゃん、開けてもいい?」
 遠慮がちな声。
「いや、……恥ずかしいからやだよ」
「一緒に入らない?」
「……」
 梓はしばらく考えてから、
「入らない」
「ええー」
 引き戸越しでも、憂が不満そうな顔をしているのがわかる。
「だって最近太ったし、恥ずかしいもん」
「そんなの……、梓ちゃん、ぜんぜん太ってないよ」
「……とにかく、いいよ今日は」
 梓はそう言うと、そのまま風呂場に入り、シャワーで軽く体を流してから、お湯がなみなみと張られた浴槽に体をしずめた。その気持ちよさに、ああ、と声が漏れそうになるのをこらえる。うちのお風呂より少し熱めだけれど、何度も入るうちに心構えができるようになった。本当は、もう少しぬるいほうが好きなのだけれど、そんなの図々しいし、わざわざ言うほどのことでもない。
 肩までつかり、しばらくそのまま待っていたが、憂は諦めたのか入ってこなかった。
(……なんだ、ホントに来ないのか)
 なんだか、少し拍子抜けしたような感じもする。
 梓はお風呂から上がる前に、タイルの上に毛が落ちていないかどうか、念入りにシャワーで流した。洗面所にあるドライヤーを借りて髪を乾かしてから、家から持ってきたパジャマに着替え、暗い廊下に出る。
(それにしても、……どうやって切り出そうかな)
 まだ少し濡れている足の裏が、ぺたぺたと音を立てた。三月も半ばとはいえ、夜になるとまだ冷える。
(でも、純、意外と驚いてなかった気がするなあ。こっちはけっこう勇気いったんだけどな。まさか、バレてたとか? ……そんなはずないよね。教室でも部室でも、今までどおりにしてたつもりだし、……)
 憂は、ベッドに腰掛けて携帯をいじっていた。
「いいお湯でした」
 梓が声をかけると顔を上げ、
「あ、じゃああたしも入ってくるね」
 特に残念そうなそぶりも見せず、着替えを手に部屋を出ていった。梓はふう、と溜息をつき、入れ替わりにベッドに腰掛ける。そのまま寝転がり、天井を見上げた。
(憂、怒るかなあ。……あたしたちのこと、勝手に純に相談したりして……)
 でも、他に相談できる人なんか思いつかなかった。ていうか、あたし純と憂くらいしか友達って言えるような人いないし……。それも、憂と付き合いはじめてからは、純一人だけになってしまった。
(憂とのことを、憂本人に相談するわけにもいかないし……、憂がもう一人いてくれたらいいのになあ)
 付き合いはじめる前、ただ仲のいい友達として一緒にいた憂が、今もいてくれたらよかったのに……。
 憂がお風呂から上がってから、二人はぷよぷよをして遊んでいたが、憂が強すぎていっこうに勝てないので、梓はすぐに飽きてしまった。
「もうやだ」
「梓ちゃん、そんなこと言わないでよう」
 二人はそんなことを言いながらしばらくじゃれあっていたが、不意に顔が近づいたとき、憂のほうからキスをした。お互いを求めるように、そのまま何度も唇をかさねた。
「……今日、する?」
「……」
 したいからあたしのこと誘ったんじゃないの、と梓は思った。
 なんだかイライラしてきて、梓は何も言わずに憂に背を向け、ベッドの横に敷かれた布団にもぐりこむ。
「あっ、……」
 足になにか熱いものが当たり、思わず声を上げてしまった。憂は、目を丸くしている梓を見て、くすくす笑っていた。
「おどろいた? 今日寒いから、お布団に湯たんぽ入れておいたの。梓ちゃんがお風呂入ってるあいだに、お湯わかしてたんだよ」


 翌朝、鎌倉みやげだという苺ジャムを、食パンに塗って食べた。食器を片付けた後、
「梓ちゃん、紅茶でいい?」
「あ、手伝うよ」
「いいよいいよ、座ってて」
 憂が台所で紅茶を淹れているあいだ、梓はテレビで流れている天気予報をぼんやりと見ながら、ふあああ、と大きくあくびをし、テーブルに突っ伏して目を閉じる。
 ――でもさあ、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?
 二人のことを打ち明けたときの、純の言葉が不意に思い出された。どうしてだろう、と梓は思った。
(ごめん、純……。今、すごい眠いから後で考えるね……)
 憂が戻ってきたとき、すでに梓はすうすうと寝息を立てていた。憂はいったん紅茶をテーブルに置くと、こっそり梓のわき腹をつまんだ。