こころの道しるべ(213)幸せ集め

幸せ集め

大きな幸せを見つけられないときは、
小さな幸せを集めましょう。
道端に咲く花の美しさ、
頬をなでる風のさわやかさ、
道で人とかわす挨拶のあたたかさ。
そんな小さな幸せを集めてゆけば、
幸せがいっぱい詰まった心で
一日を終えられるでしょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1140)「罪の赦しを得させる悔い改め」

「罪の赦しを得させる悔い改め」

(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:35-48)

 弟子たちの前に姿を現したイエスが、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という旧約の言い伝えを弟子たちに思い起こさせ、「心の目」を開いてその真の意味を悟らせる場面が読まれました。
 十字架と復活の真の意味とはなんでしょう。それは、イエス・キリストによってすべての罪がゆるされ、神と人間とのあいだに和解が実現したということに他なりません。イエスは、イエスを裏切って逃げるという罪さえゆるしてくださった。こんなわたしたちでさえ、イエスはあるがままに受け入れてくださった。その体験を通して、弟子たちは十字架と復活の真の意味を深く悟り、それを人々に伝える使命を与えられたのです。神の愛の本当の意味を、人々に伝える使命を与えられたといってもよいでしょう。
 「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉が使われています。単なる後悔ではなく、罪からの解放をもたらす、根本的な悔い改めがもたらされるという意味だと考えてよいでしょう。では、人間は、どうしたら罪から解放されるのでしょう。罪はいったい、どこから生まれてくるのでしょう。
 わたしは刑務所の教誨師をしていますが、罪を犯した人たちからよく聞くのは、「どうせ自分なんか、誰からも相手にされていない。自分が悪いことをしたって悲しむ人は誰もいない」という言葉です。だから、もうやけになって罪を犯したというのです。そうだとすれば、彼らの罪の根底にあるのは、「自分なんか誰からも愛されていない」という気持ちだといっていいでしょう。幼少期に虐待された体験や社会からの差別など、さまざまな体験を通して、彼らは、「自分は誰からも愛される価値がない。どうなってもいい人間だ」と思い込んでしまったのです。
 彼らの罪の根源にあるのは、愛された体験の欠如、愛の欠如だといっていいでしょう。現に、彼らの多くが、自分を愛してくれる人と出会うことによって、そのような人たちの存在に気づくことによって悔い改め、罪から解放されていきます。家族との関係を回復することによって、あるいは親身になってくれる刑務官や教誨師などと出会うことによって、彼らは悔い改め、罪から解放されていきます。「こんなにも自分のことを思っていてくれる人がいるなら、もう悪いことをするのは止めよう。この人を悲しませることはできない」と思えるようになっていくのです。
 罪のゆるしとは、弱くて意気地なしのこんな自分でさえ受け入れてくれる人がいるという愛の体験に他なりません。そのような愛の存在だけが、わたしたちを罪から解放してくれるのです。十字架と復活の出来事を通してイエスの愛に触れ、ゆるされたわたしたちの使命は、罪の中に閉じ込められている人を愛すること、わたしたちの愛を通して神の愛を告げることによって、彼らを罪から解放することだといってよいでしょう。イエスから与えられたこの使命、「罪の赦しを得させる悔い改め」の証人としての使命を果たすことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(212)大切な人のために

大切な人のために

つらくて挫けそうなときでも、
大切な誰かの顔を思い浮かべると、
心の底から力が湧き上がってきます。
「あの人を守りたい」
「あの人の喜ぶ顔を見たい」
その思いが、あらゆる困難を乗り越える力を
わたしたちに与えてくれるのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1139)神のいつくしみ

神のいつくしみ

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ19:20-31)

 復活したイエスは、弟子たちに聖霊を送り、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」といって宣教に派遣しました。自分自身、神から罪をゆるされた者として、同じように罪の中で苦しんでいる人たちに神のゆるしを告げなさい。神の愛を、すべての人のもとに届けなさいということでしょう。
 「ゆるす」というと、ちょっと上から目線のようにも聞こえます。しかし、イエスはここで、弟子たちに人を裁く権威を与えたわけではありません。なぜなら、実際にゆるしてくださるのは神で、弟子たちの役割は、神のゆるしを告げることだけだからです。弟子たちは、神がどれだけいつくしみ深い方なのかよく知っています。神は、イエスを見捨てて逃げ出した自分たちでさえゆるしてくださる方。わたしたちの弱さを知りながら、それにもかかわらずわたしたちを愛してくださる方だということを、弟子たちは身をもって知っているのです。
 自分自身、ゆるされた罪人の一人として、神のいつくしみをまだ知らず、「自分なんかゆるされるはずがない。生きている意味がない」と思い込んで苦しんでいる人たちに、「いや、そんなことはありませんよ。神さまは、どんな罪でもゆるしてくださいます。何も心配する必要はありません」と告げること。神のゆるしを告げ、その人が安心して神のもとに立ち返り、神の愛の中で生きていけるようにすること。それが弟子たちに与えられた使命なのです。
 わたしたちにも、同じように、神のゆるし、神の愛を人々に告げる使命が与えられています。「こんな自分でも、神はゆるしてくださった。この神の愛を、同じように自分を責め、苦しんでいる人たちに伝えずにはいられない」、そのような思いに駆り立てられ、人々の元に出かけていくこと。それがわたしたちの使命なのです。
 しかし、残念ながら、わたしたちはときどき「こんな自分がゆるされるはずがない。わたしはダメな人間だ」という考え方に戻ってしまうことがあります。疑い深いトマスと同じで、目に見えない神の愛を、ときに疑ってしまうことがあるのです。そんなわたしたちのために、イエスは目に見える証拠を準備してくださいました。それが教会です。教会に行き、ミサに与ること、御聖体を頂くこと、信仰を共にする仲間と交わり、励ましあうことを通して、わたしたちは、「神はこんな自分でさえゆるし、大きな愛で包み込んでくださる」と実感することができるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」とはいいながら、見なければ信じられないわたしたち人間の弱さを知り、その弱さにそっと寄り添ってくださる方。それがイエスなのです。
 今日は「神のいつくしみの主日」ですが、神のいつくしみを人々に告げるためには、まず自分自身が神のいつくしみを実感する必要があります。目には見えない神の愛を、目に見える教会の交わりの中で実感し、神のゆるしを告げるために出かけていくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(211)幸せになる力

幸せになる力

幸せな人とは、
見つける力、驚く力、
感動を人と分かち合う力、
与えられた恵みに感謝する力を
持っている人のこと。
特別なものは必要ありません。
誰にでもあるそれらの力を磨くだけで、
わたしたちは幸せになれるのです。

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バイブル・エッセイ(1138)天国は心の中に

天国は心の中に

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 ヨハネ福音書の「空の墓」の場面では、イエスが葬られた墓の中に入っていくと、そこには亜麻布だけが置いてあった。しかも、顔を覆っていた布は離れたところに丸めてあったと、墓の中の様子が詳しく語られています。もし誰かがイエスの遺体を持ち去ったのなら、亜麻布ごと運ぶのが普通でしょう。まるでイエスが起き上がり、自分で布を外したかのようなその様子を見て、弟子たちは「見て、信じた」とヨハネ福音書は伝えています。そのただならぬ様子から、弟子たちはイエスが復活したこと。死者の世界にはいないことを悟ったのです。
 十字架上で死んだイエスは、天に上げられ、神の右の座に着いた。それがわたしたちの信仰です。わたしたちも、イエスと共に死ぬなら、天に上げられ、イエスと共に永遠の命を生きる。わたしたちはそう信じています。ですが、天国に行ってしまったら、先に亡くなって天国に行った人たちとは会えても、まだ地上で生きている人たちとはもう会えなくなるのではないかという心配があります。そのあたりは、いったいどうなっているのでしょうか。
 天国は、実はわたしたちの心の中にある。わたしたちの心は、一番深いところで天国とつながっている。わたしはそう考えています。亡くなって天国に行った人たちは、実は、わたしたちの心の中で生きている。そういってもよいでしょう。イエスは、わたしたちの心の奥深くに住んでおられます。それと一緒に、先に亡くなったわたしたちの家族や友人たちも、わたしたちの心の中で生きているのです。
 それは、わたしたちの実感だといってよいでしょう。亡くなった大切な人たちを思い出すとき、大好きだったおじいさんやおばあさんの手のあたたかさや、やさしくほほ笑みかけてくれた友だちの笑顔を思い出すとき、わたしたちは、まるでその人がまだ生きているかのようにはっきりと、その人たちの愛のぬくもりを感じることができるのです。「苦しくて仕方がありません。どうかわたしを守ってください」と語りかけると、その人たちが、「だいじょうぶ、わたしがいつも一緒にいるよ」と答えてくれる。ときには、その人がいつも座っていた椅子に、いまもその人が座っているように感じられる。そんな気がすることさえあります。亡くなった人たちは、わたしたちの心の中で、確かにいまも生きているのです。
 大切なのは、いつも心の中の天国とつながっていることだと思います。わたしたちは、日常生活の忙しさや思い煩いの中で、天国とのつながりを見失ってしまうことが多いのです。さまざまな心配事をいったん脇に置き、静かな心でイエスの愛を思い出す時間、亡くなった人たちのことを思い出す時間の中で、天国の扉は開きます。イエスの愛、亡くなった人たちの愛に感謝する祈りの中で、天国の扉は開くのです。心の中にある天国とのつながりをいつも持ち続けることができるように。天国の喜びの中で、イエスと、また亡くなった人たちと共に生きていくことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1137)石を転がす力

石を転がす力

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-7)

 マグダラのマリアや弟子たちがイエスの葬られた墓に行ってみると、墓は空だったという話は、イエスの復活の証としてすべての福音書で語られています。それぞれ少しずつ内容が違いますが、マルコ福音書には、イエスの墓の入り口に置かれた石について「石は非常に大きかった」という記述があります。イエスを墓の闇の中に閉じ込めるために置かれた石は、とても大きかったのです。しかし、その石でさえイエスを閉じ込めることはできませんでした。人間が置いたその石は、すでに脇に転がされていたのです。
 人間が置いた石によって、闇の中に閉じ込められてしまうということは、わたしたちにも起こりうることです。たとえば、「健康でたくさんの仕事ができる人、生産性の高い人には価値があるが、生産性が低い人には価値がない」という人間の思い込みが、大きな石となってわたしたちを闇の中に閉じ込めてしまうことがあります。もし高齢者が、「わたしは歳をとって、もう人の世話になるばかりだ。なんでこんな情けないことになってしまったのだろう」と嘆くなら、そのとき、その人は自分の心に、「生産性が低い人には価値がない」という思い込みの石を持ち込み、自分で自分を絶望の闇の中に閉じ込めているのです。
 そんな石を、イエスは簡単に転がしてしまいます。思い込みに閉じ込められたわたしたちに向かって、イエスは、「そんなことはない。人間は、ただ生きているというだけで十分に価値がある。情けないことなど何もない」「あなたはこれまで、たくさんの人を助けてきた。今度は、助けられる番になったのだ。互いに助け合いながら生きていく。それこそが人間の最も美しい姿なのだ」と語りかけてくださるのです。イエスの愛の前で、人間によって置かれた石は簡単に転がされてしまいます。どんな人でも、ただ生きているというだけで十分に価値があるのです。
 もう一つ、気をつけなければならない石があります。それは、「これまでに自分は何度も同じ間違いを繰り返してきた。自分はダメな人間なんだ」という思い込みの石です。「あんなに反省し、もう絶対に同じ間違いを犯さないと誓ったのに、またやってしまった。わたしはなんてダメな人間なんだ」と思って落ち込んだ体験は、きっと誰しもあるでしょう。そんな絶望の闇の中に閉じ籠ったわたしたちに、イエスは、「絶対に間違わない人間などいない。なんど失敗しても、あきらめずに立ち上がり、前に向かって進み続けるなら、あなたは必ず変わることができる。わたしはあなたを信じている」と語りかけてくださいます。イエスの愛の前で、わたしたちが自分で自分を閉じ込めた石は簡単に転がされてしまいます。ダメな人間などいません。人間は必ず、変わることができるのです。
 イエスの前では、人間の置いたいかなる石も無意味です。どんな大きな石でも、イエスは簡単に転がしてしまうのです。復活したイエスと共に、いつも光の中を歩み続けることができるよう祈りましょう。

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