バイブル・エッセイ(1136)成し遂げられた

成し遂げられた

 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28-30)

 イエスが十字架の上で最期に口にした言葉は、「成し遂げられた」だったとヨハネ福音書は伝えています。イエスは処刑され、弟子たちは散り散りになってしまったのですから、一見するとイエスの人生を通して成し遂げられたことは何もないように思われます。イエスは、十字架上の死によって、また全生涯を通して、いったい何を成し遂げたのでしょう。
 イエスが成し遂げたこと、それは神と人間との和解だといってよいでしょう。全生涯を通して、とりわけその生涯の頂点としての十字架の死を通して、イエスはわたしたち人間の罪をゆるし、神と人間とのあいだに和解を実現したのです。ナザレを出てイエスがしたこと、それは自分自身の罪によって、あるいは人々から罪人と決めつけられることによって社会の片隅に追いやられた人たちのもとに行き、その人たちの罪をゆるしたということに尽きます。イエスは徴税人や売春婦、重い病気で苦しむ人たちのもとに行き、彼らの罪をゆるしたのです。イエスの3年間の公生活は、「ゆるしの旅」あるいは「和解の旅」だったといってよいでしょう。
 その旅の最期に、ゆるしの業の頂点として、和解の完成として起こった出来事、それが十字架でした。十字架の出来事の始まりはユダの裏切りでしたが、イエスは、これから自分を裏切ろうとしているユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」といいました。それはつまり、「神のために命を捨てるほどの信仰を、まだあなたは持っていないのだから、わたしを裏切るのもやむをえないことだ。あなたがしたいようにすればいい」ということです。イエスは、自分を裏切ろうとしているユダの苦しみにさえ共感し、ユダをそのまま行かせたのです。
 イエスはペトロが、翌朝、鶏が鳴くまでに三度、イエスのことを知らないということまで分かっていました。しかし、イエスはそんなペトロをゆるしました。それだけでなく、「立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」という励ましの言葉さえかけたのです。鶏が鳴いたとき、イエスは振り向いてペトロを見つめたとルカ福音書は伝えていますが、そのまなざしは愛に満ちたものでした。「あなたの弱さ、罪深さをわたしはよく知っている。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」、イエスのまなざしは、ペトロにそう語りかけるまなざし、ゆるしのまなざしだったのです。
 イエスは、自分に死刑を宣告したピラトに対してさえ愛情深い言葉をかけ、自分を十字架につけて殺そうとしているローマ兵たちのためにゆるしを願いながら死んでいきました。それらのことをすべて含めて、イエスの十字架は、まさにゆるしの完成、神と人間との和解の完成だったといってよいでしょう。人間のすべての弱さをあるがままに受け入れ、ゆるすことによって、イエスは人間の罪を贖い、救いを実現したのです。
 聖金曜日に、イエスの十字架を前にして、あらためてイエスの愛、神の愛の深さを思いだしましょう。わたしたちの弱さ、罪深さを知った上で、そんなわたしたちをあるがままに受け入れてくださるイエスの愛に触れ、わたしたちが心から悔い改めることができますように。

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

バイブル・エッセイ(1135)足を洗う意味

足を洗う意味

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 なぜ足を洗うのですかと尋ねたペトロに、イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と答えました。いまはわからなくても、十字架と復活の出来事の後で必ずわかるようになる。いまはただ、わたしにあなたの足を洗わせてくださいということでしょう。
 ペトロはなぜ、イエスが弟子たちの足を洗うのを見て疑問に思ったのでしょうか。それは、ペトロがまだ「身分の低い人が偉い人に仕える。それが当たり前」と考えていたからでしょう。そのことは、ペトロたちがいつも、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と言い争っていたことからわかります。弟子たちは、最後の晩餐の席でさえ、自分たちの中で誰が一番偉いかと言い争っていたのです。弟子たちはまだ、「自分こそイエスの一番弟子だ。自分が一番偉い。他の弟子たちは、わたしを尊敬し、わたしに仕えるべきだ」と考えていたのです。だからこそ、一番偉いはずのイエスが自分たちの足を洗うのを見て驚いたのだと思います。
 弟子たちのこのような考え方は、十字架と復活の出来事を通して根底から覆されます。イエスがローマの兵士たちに捕らえられたとき、弟子たちはみな怖くなり、自分の命惜しさに逃げ出してしまいました。そのとき弟子たちは、自分がイエスの弟子と呼ばれるに値しない者、誰よりも弱く、意気地のない者だと思い知らされたのです。しかし、復活したイエスは、そんな弟子たちをゆるし、大きな愛で包み込みました。イエスは弟子たちに、「あなたたちはわたしを裏切った。しかし、それでもわたしはあなたたちを信じ、あなたたちを愛している」とやさしく呼びかけたのです。そのとき、弟子たちの心は変わりました。自分の弱さを知り、神の愛の偉大さを知ったとき、弟子たちの心は傲慢の罪から清められ、柔和で謙虚なものになったのです。イエスの愛で心を満たされた弟子たちは、自分たちと同じように弱い人、罪の中で苦しみ助けを求めている人を見たら、その人に助けの手を差し伸べずにはいられない人、困っている人たちに奉仕せずにはいられない人になったのです。
 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とイエスがいったのは、十字架と復活の出来事を通して弟子たちがこのような体験をするとわかっていたからでしょう。十字架と復活の出来事によって、弟子たちは傲慢な心を打ち砕かれ、互いに奉仕する者、奉仕せずにはいられない者に変えられていったのです。
 イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」「多くの人のために自分の命を献げるために来た」ともいっておられます。もしわたしたちのあいだに、まだ互いに自分の知恵や力、経験などを誇って互いに競いあう心があるなら、いまこのとき、弟子たちの足を洗ったイエスの姿をもう一度しっかり心に刻みたいと思います。自分の弱さを知り、いつも謙虚な心で互いに仕えあうことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

 

こころの道しるべ(210)伝えたいこと

伝えたいこと

「あれが最後の別れと分かっていたら」
という後悔ほど、
つらいものはありません。
一回一回の出会いを、
悔いが残らないほど大切にしましょう。
謝るべきことはいま謝り、
感謝すべきことはいま感謝し、
伝えたい愛はいま伝えられますように。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ210「伝えたいこと」2A3.JPG - Google ドライブ

 ハガキ 道しるべ210「伝えたいこと」2ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1134)十字架と復活の神秘

十字架と復活の神秘

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。(ヨハネ12:20-33)

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というイエスの言葉が読まれました。ご自身が十字架上で死ぬことによって、全人類に復活の希望がもたらされることを、一粒の麦の死にたとえて弟子たちに教えた言葉で、十字架と復活の神秘の最もわかりやすい説明といってよいでしょう。
 十字架と復活の神秘は、わたしたちの日々の生活の中でも起こります。イエスが十字架で自分の命を差し出すことによって永遠の命に移されたのと同じように、わたしたちも、自分に与えられた使命の十字架を日々担い、自分に死ぬことによって、永遠の命の喜び、永遠の命の力に満たされて生きることができるのです。自分のことばかり考えるのを止め、家族や友人たちのため、助けを求めている人、苦しんでいる人のために自分を差し出すときにこそ、わたしたちは日々を生き生きと、幸せに生きることができるのです。
 東日本大震災のときに、こんな話を聞きました。海辺の町で理髪店を営んでいたのだけれど、津波によって店も、また奥さんや子どもたちも流されてしまったという方の話です。避難所にたどり着いたあと、その方はしばらく、悲しみのあまり起き上がることができなかったそうです。「なぜ自分にこんなことが起こるんだ。なぜ自分がこんな目にあわなければならないんだ」と絶望的な気持で日々を過ごしていたのですが、1カ月あまりが過ぎたあるとき、避難所の人たちの髪の毛が伸び放題になっていること気づきました。かろうじて店から持ち出したハサミで避難所の人たちの髪を刈るボランティアを始めたところ大好評になり、いつの間にか辛い気持ちから這い出すことができた。「みんなのために働かせてもらうことで、生きる力を与えられた」とその方が語っておられたのが印象的でした。この方は、自分のことを忘れ、人々のために自分を差し出すことによって生きる力を与えられたといってよいでしょう。
 このようなことは、わたしたちの日常生活の中でも多かれ少なかれ起こります。わたし自身もときどき、「なぜ自分にこんなことが起こるんだ。なぜ自分がこんな目にあわなければならないんだ」という考えに陥ってしまうことがあります。そんなときわたしは、自分のことを考えるのを止め、いま自分が果たすべき使命を思い出すようにしています。そして、気を取り直し、信者さんたちに配る印刷物を作るとか、どんな小さなことでもいいので、いま自分がみんなのためにできることを始めるのです。すると不思議なことに、気持ちが少しずつ晴れていきます。生きる喜び、生きる力が少しずつ蘇ってくるのです。
 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」ともイエスはいいます。「自分さえよければいい」とか「なぜ自分が」といったような自分中心の考えに陥ると、わたしたちは生きる喜びや力を失ってしまう。そのような考え方を捨て、自分をみんなのために差し出すことでわたしたちは永遠の命の喜び、永遠の命の力に与ることができるということでしょう。この十字架と復活の神秘を改めて心にしっかりと刻み、日々の生活の中で生きられるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

こころの道しるべ(209)幸せの感受性

幸せの感受性

家族や仲間の思いやりに
気づいて感謝する心があれば、
道端に咲く花や木々の美しさに
気づいて感動する心があれば、
わたしたちはいつでも幸せになれます。
幸せは、手に入れるものではなく、
むしろ感じとるもの。
「幸せの感受性」を磨きましょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ209「幸せの感受性」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ209「幸せの感受性」ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1133)愛を証しする

愛を証しする

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)

 モーセがニコデモに、「人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と語る場面が読まれました。自分が十字架につけられるのは、人々に神の愛を信じさせるため。信じて永遠の命を得させるためには、自分が命を捧げ、十字架につけられる必要があると、イエスは考えていたのです。
 なぜイエスは、そのように考えたのでしょう。そもそも、イエスはなぜ十字架につけられたのでしょうか。それは、イエスが神の愛を説いたからに他なりません。神の愛は無償であって、高価ないけにえを捧げなければ神からゆるされないという考え方は間違っている。職業や身分、財産などに関係なく、すべての人がかけがえのない神の子であり、すべての命は神の前に限りなく尊い。そのことを言葉と行いによって人々に教えたために、イエスは律法学者やファリサイ派の人々の怒りを買い、ローマ兵たちに引き渡されることになったのです。十字架につけられても、イエスは決してその教えを曲げることがありませんでした。あらゆる侮辱や痛みに耐え、神の愛の教えを最後まで守り抜いたのです。わたしたちは、誰もがかけがえのない神の子であることを命がけで証ししたのです。
 神の愛は、十字架によって証しされるということは、すべての時代に当てはまる真実だと思います。十字架というのは、神さまからわたしたち一人ひとりに与えられた、誰かを愛する使命のことだといってもよいでしょう。たとえば、お父さんやお母さんには、自分の子どもたちを愛し、守り育てるという尊い使命が与えられています。その使命を果たすために日々、懸命に働くことによって、ときにはいわれのない侮辱にさえ耐えることによって、お父さんお母さんたちは自分に与えられた十字架を日々、背負いながら生きていくのです。子どもへの愛のために、自分を十字架に捧げているといってもよいでしょう。その姿を見るとき、子どもたちは、親の愛を確信するに違いありません。神の愛、神によって人間に与えられた無私の愛は、十字架によってこそ証しされるのです。
 人それぞれに十字架は違いますが、すべての人に誰かを愛する使命、神の愛を証しする使命が与えられていることは間違いありません。わたし自身であれば、たとえどんなに疲れても、多少の嫌なことがあったとしても、司祭として皆さんに奉仕すること、その使命を果たすことで自分を十字架につけ、神の愛を証しすることが使命だといってよいでしょう。学校や幼稚園で子どもたちのために自分を捧げる人、老人ホームなどで高齢者のために自分を捧げる人、医療機関で病気の人たちのために自分を捧げる人、それぞれに十字架は違いますが、誰もが神の無償の愛を証しているのです。共にそれぞれの十字架を担い、神の愛を証しし続けることができるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

 

こころの道しるべ(208)命の答え

命の答え

自分の力で生きているのではなく、
命の力によって
生かされているわたしたち。
「何のために生きているのか」
と自分に問いかけ、
答えが見つからないときは、
「何のために生かされているのか」
と命に問いかけましょう。
命には、必ず答えがあります。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ208「命の答え」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ208「命の答え」ハガキ.JPG - Google ドライブ