久賀道郎『ガロアの夢』

自著の販促はしつこいと嫌われるので、そろそろやめて、別の話題に移ろう。

今回は、久賀道郎先生の名著『ガロアの夢』ちくま学芸文庫から復刻されたことを祝してこの本についてエントリーしたいと思う。

実は、久賀先生は宇沢弘文先生の親友で、宇沢先生から何度もお話を伺ったことがある。しまいには、宇沢先生から「君は久賀くんに似ている」とまでおだてられて、恐縮するものの、とても嬉しかった経験までした。その辺の事情はこのエントリーに詳しく書いてあるので、読んでほしい。

 この本のレビューをする前に、せっかくだから宇沢先生がらみで、ぼくが来週から行う市民向けレクチャーの宣伝とプッシュをしておこう。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは2月2日、9日、16日の3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

わりと少人数なので、いろいろ質問とかしたい人には向いていると思う。上のリンクから申し込んでほしい。

 さて、久賀道郎『ガロアの夢』の話に移ろう。

 

これは、専門的な数学書なんだけど、そのスタイルがかなり特異なのだ。通常の専門書とは全く違う書き方をしている。それは目次にも端的に表れている。次のようなあんばいだ。

数学以前のことなど(第0週~第3週)

エイヤーッとひっぱってみる(第4週~第7週)

奥さんがとり替わってもわからない紳士たち(第8週~第11週)

人はしっぽをもっている(第12週~第13週)

ガロア理論を目で見よう(第14週~第15週)

解けるか、解けぬか(第16週~第19週)

さよならはHATTARIのあとで(第∞週~第∞+1週)

この章タイトルを眺めるだけで、その異色さと久賀先生の才気が見て取れる。この目次では何の本かわからないだろうから、簡単に説明すると、要するに「ガロア理論」の本だ。ガロア理論とは、「高次方程式が四則計算と累乗根だけで解けるかどうか」を解明した理論で、おおざっぱに言えば、「解を入れ替える群」の複雑さに依存する、というものだ。本書は、そういう「ガロアの定理」を解説しているわけでなく、「ガロア理論微分方程式への応用」を解説したものである。例えば、与えられた微分方程式が「四則と1次結合」「微分」「不定積分」「exp作用素」だけを有限回ほどこした形で解けるか、というような問題を目指している。

異色なのは、もちろん、章タイトルのユーモアだけではなく、数学の解説の仕方そのものにある。一言でいうなら、「厳密な数学的表現を捨てて、直感的イメージだけで進めていく」というスタイルで書いているのである。とりわけそれは「位相」が関係する部分に顕著である。「位相」を勉強したことがある人の多くが経験していると思うが、理解するのにはすごい努力が必要である。例えば、「連結」とか「連続写像」とか直感的には当たり前に思える概念が、非常にしちめんどくさい方法で定義されており、たくさんの人々が挫折を余儀なくされる。それに対して久賀先生は、その「直感的には当たり前に思える」イメージを使って解説しているのである。

例えば、「連結」については、

領域(すなわち陸地)Dのどんな2点P,Qを選んでも、Pを始点、Qを終点とする曲線をDの中にえがくことができるとき、領域Dは連結であるという、すなわち陸地Dの任意の1地点Pから他の任意の1地点Qまで人が歩いて(泳いだり、ジャンプしたりせずに)行けるとき、Dは連結であるというのである

という具合。また、「基本群の例」のところでは、

領域Dが全平面から1点P0を取り除いたものである場合を考える。海はなく1点P0に無限に小さい湖はあるだけなのである。いかに小さくても湖は湖であるから、既約にしたがい、P0をまたぎ越してゴムでできたレールを移動することは禁じられているのである。そのことが考えにくければ、点P0に天までとどくクイが打ってあると考えたらよい

みたいに解説が始まっている。

このようなイメージ的な書き方は、ありがたい人とそうでない人に分かれると思う。実際、本書の解説は数学者の飯高茂先生が書いているのだけど、次のような回顧をしている。

私は1961年に微積分の講義を久賀先生からきいた。私は高木貞治著『解析概論』に毒されていたので、極限の定義すら厳密に述べないで直感に頼る久賀式講義に馴染めなかった。

飯高先生が書いた数学書にチャレンジしたことがあるので、その印象から想像するだに「そうだろうなあ」と思う。でも、世の中のみんなが飯高先生のような天才ばかりではない。「厳密な数学的記述」にはついていけない人も多い。そういう人には、久賀先生の本は救いになる可能性がある。ただし、それゆえ「厳密に理解したい」と思ってはいけない。あくまで、「そういう感じなのかあ」とずんずん読み進んでいかないとならない。

ぼく自身は、この久賀先生の本が「数学力のリハビリ」になった。この本を読破したことで、数学的概念をどのように具体的なイメージにすれば良いのかを会得することができた。それをバネにして、経済学(というか意思決定理論)の論文を書けるようになった。さらには、いくつかの啓蒙書を久賀流で上梓することができた。例えば、『完全版 天才ガロアの発想力技術評論社とか『数学は世界をこう見るPHP新書とかである。今も、ある本の企画について、この久賀流を試してみようと準備している。久賀先生はそういう意味で、ぼくの「恩人」みたいなものだ。

宇沢先生と夕方の蕎麦屋でビールを飲んでいるとき、久賀先生の話をする宇沢先生は本当に楽しそうな顔をしていた。数学科に所属していた頃の感覚に戻ってしまうのだろうと思った。久賀先生がアメリカに旅発つ前日、宇沢先生が一人でお祝いしてあげたと言っていた。それには(ほんとか嘘かわからない)ちょっといわくがあるんだけど、そのネタについてはここには書けない。墓まで持って行く(笑)。

とにかく、久賀道郎『ガロアの夢』が文庫になったのは、まことにめでたいことである。筑摩書房はほんと、いい仕事をしている。

 

 

 

石川経夫『所得と富』

今回も引き続き、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書の販促をしよう。これまで、これこれこれでもすでに販促のエントリーをしている。

ついでながら、早稲田大学エクステンションセンター」が提供する市民向け講座でもレクチャーをするので、先にそれをアナウンスしておく。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは今年の2月に3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

時間に余裕があり、宇沢先生の理論(or思想)に興味や共感のある人は是非、参加していただければ幸いである。

 さて、今回は、ぼくのもう一人の師匠である石川経夫先生について書こうと思う。石川先生は宇沢先生の愛弟子であり、ぼくの修論の担当教官だった人だ。あまりに悲しいことに、51歳の若さで亡くなってしまった。

石川先生の思い出について、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書から引用しよう。

宇沢氏の薫陶を受けて一念発起し、経済学研究科の大学院を私は受験しました。経済学部出身ではない私には、口頭試験は鬼門です。少し専門的な質問をされて答えに窮しました。試験官は3人で、一人が石川氏でした。他の二人から厳しい質問が続き、私は硬直しました。助け船を出してくれたのが石川氏でした。私が宇沢氏のことを書いたエッセイについて、石川氏が唐突に質問をしたのです。そのエッセイは私が当時勤めていた塾のテキストに掲載したものでした。石川氏がそのエッセイを読んでいたことに私は驚愕しました。その場で理由を尋ねると、「宇沢先生に読ませていただいたので」と柔らかな表情で答えました。エッセイは私が宇沢氏に郵送したものでした。石川氏のひと言をきっかけに私は気持ちを立て直すことができました。自分が経済学を知らないことは仕方のないことだ。宇沢氏に教わったこと、宇沢氏にもらったテーマについて真摯に説明するしかない。そう覚悟を固めたのです。

運良く大学院に合格した私は最初から石川氏に師事することを決めていました。

このエピソードは、実は、以前にもこのブログにエントリーしたことがある。そこにはもう少し詳しいことが書いてあるので、興味があれば読んでいただきたい。また、石川先生のお人柄がしのばれる別のエピソードは、拙著『確率的発想法』NHKブックスのあとがきにもあるので、それも参照していただきたい。

 今回は、石川先生の名著『所得と富』岩波書店を紹介したい。なぜかというと、ぼくはこの石川先生の本で初めて、ジョン・ロールズ『正義論』を知ったからだ。ロールズの格差原理「社会的・経済的不平等が許容されるとしても、それは(a)最も不遇な人々の利益を最大限に高めるものであり、かつ(b)職務や地位をめぐって公正な機会均等の条件が満たされる限りにおいてである。」は、ぼくが経済学者になったあとで最も衝撃を受け、最も感動し、最も影響を受けた理論だ。『所得と富』を読んだことで、石川先生の言葉で格差原理を学び、いつのまにか目に涙があふれていた。経済理論(or思想)で涙を流したのはこれだけである。このときには、既に石川先生が亡くなっていたので、その影響もあったと思う。石川先生の解説はまるでロールズが憑依しているかのように感じられたのだった。拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』の最終章は、正義論の解説と自分なりの理論拡張にあてている。

『所得と富』は、所得分配の経済学を中心に書かれたすばらしい本だ。「はしがき」には次のような一節がある。

本書には2つの主題がある。第1に、労働市場における雇用と所得の決定の理論、第2に、物的な富の蓄積と、その分配の時間的推移をめぐる理論である。

また、次のようなことも述べている。

筆者にもひとつの意見がある。それは、人々の豊かさの感覚を規定する要因としては基本的な生活保障や生活上の余裕を支える物的環境の質ーー広い意味での所得の水準と言い換えてもよいーーだけでなく、そもそも所得を生み出すプロセス、あるいは人々が労働する過程自体の質もあるのではないかということである。人間は、生活時間の主要な部分を労働にあてているからである。所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さの間の不釣合いも、前記の要因と並んで、あるいはもしかするともっと重要な要因として存在するのではないだろうか? 労働のプロセスの豊かさをどのように概念規定するか、それは本書の全体を流れる伏線的主題である。

本書は、1991年刊行だが、この「所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さ」という問題は、今の労働環境について、もっと切実にあてはまるように思える。

 ぼくは大学院に合格してすぐ、エッセイのことを話してくれた試験官の名前を調査し、石川経夫先生だと突き止めた。そして、すぐに『所得と富』を買い求めた。大胆にも、1ページも読まないうちに、石川先生の研究室をアポなし訪問して、この本にサインをお願いしたのである。もし、中身について感想を求められたらと考えると、我ながら恐ろしい行動だったと思う。でも、石川先生は快く、サインをしてくださった。そればかりではない。「宇沢先生とお親しいのだから、私から献本するのが筋です。もう、お持ちなので、せめて代金を払わせてください」と言って、お財布から小銭を出してテーブルに並べはじめ、代金を頂戴してしまった。こういうところにも、石川先生のお人柄がにじみでている。

 サインには、ただ「石川経夫」とだけある。でも、このサインを見るだに、涙が溢れ出るとともに、学問と向かい合う勇気もみなぎってくる。なぜなのかについては、拙著『シン・経済学』で読んでいただきたい。

 

 

 

 

 

医療ベース資本主義

 前々回前回に続いて、新著の宣伝をしよう。新著は、『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書だ。この本では、貧困と格差と孤立を解決(ないし、緩和)する経済政策として、宇沢弘文先生の「社会的共通資本の理論」を推奨することに主眼がある。

 

 

社会的共通資本とは、宇沢先生の言葉を借りれば、

市民一人一人が人間的尊厳をまもり、魂の自立をはかり、市民的自由が最大限に保たれるような生活を営むために重要な役割を果たす財や社会的装置

というものだ。宇沢先生の分類では、自然環境を表す「自然資本」、道路・下水道・湾岸などの社会インフラを表す「社会資本」、医療・教育などの「制度資本」となる。ぼくは、現在では、AIなどを表す「知的資本」を加えるべきだと考えている。前回は「自然資本」について簡単に解説したので、今回は「制度資本」について解説したい。

宇沢先生が制度資本として強調したのは、前述の「医療」と「教育」だった。そして、ぼくも全くその通りだと思っている。なぜなら、これらは通常の経済理論の枠組みから大きくはみ出す社会的存在だからだ。

まず、「教育」について語ろう。教育についての経済理論はいろいろある。出発点にあたるのは、「人的資本理論」というやつ。これは、人が高等教育を受ける意味は、自己の生産性を上昇させ生涯収益を上げるためだ、というもの。しかし、これはちょっと考えてみただけでも無理がある。大学教育が生産性を上昇させるものばかりだとは到底考えられない。そこで出てきたのが、「シグナリング理論」というものだ。これはスペンスという経済学者がゲーム理論の枠組みから提供した理論。要するに、学歴は就業希望者が企業に与える「シグナル」であり、別に直接的な生産性と密接に関係しなくてもかまわない、とするものだ。少なくとも日本の大学教育の現状を鑑みればある程度の妥当性は受け取れる。拙著では、これ以外に、ボウルス&ギンタスによる「対応原理」とか、デューイの「リベラル派教育論」とかを紹介している。でも、ぼくが拙著で強調したかったのは、「教育の自己言及性」という性質なのだ。これは一言で言えば、「教育の真の価値を知るには教育が必要だ」ということである。詳しくは拙著を読みといてくだされ。

それよりなにより、ぼくが社会的共通資本の中心テーマとして打ち出したかったのは、「医療」である。経済学には「医療経済学」という分野があることはあるのだけど、ぼくはその到達段階にあまり納得できていない。そもそも、人間の苦痛や生命にかかわる医療を、通常の新古典派理論(市場経済)で扱うのはあまりに無理があると思っている。むしろ、医療を出発点にして、経済制度を考え直すべきではないか、と思っている。それが、拙著で打ち出した「医療ベース資本主義」なのである。宇沢先生が常々主張していた「医を経済に合わせるのではなく、経済を医に合わせるべきである」という思想の言い換えだ。

経済政策のターゲットを「GDP」から「健康寿命」に変更すれば、日本もまんざら捨てたものではない、という結論を導ける。このところ、日本の一人当たりGDPは世界ランキングの30位以下に落ちてしまったが、平均寿命は世界ナンバーワンである。「医療ベース資本主義」の立場からは、日本は世界に誇れる国だと言えるのだ。医療についての分析については、細かいことは拙著で読んでほしい。

 以上のように、「教育」とか「医療」とかを経済分析の中心に据えるならば、現在の経済学の定番的なアプローチははなはだ力不足だと言わざる得ない。なぜなら、「教育」や「医療」は、人間の尊厳や基本的人権というものに抵触するものだから、「価格を付けた市場取引」という観点だけでは全く掌握しきれないからだ。逆に、「教育」や「医療」を正当に分析し得る経済学が完成させられれば、それこそが経済学が物理学と肩を並べる「科学」の座を獲得しうる瞬間なんだと思う。

 これらについてのもっと詳しい議論は、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』で読んでいただきたいが、ぼく自身のレクチャーを聴いてみたいのであれば、ちょうど良い講座があるので紹介しておこう。それは、「早稲田大学エクステンションセンター」が提供する市民向けの教養講座だ。ぼくはここで、2月にレクチャーをすることになっている。リンクをはっておく。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャー内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

 

値段のないもの価値

 いよいよ、ぼくの新著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書が書店に並び、アマゾンにも入荷されたので、満を持して販促することにしよう。

 その前に、ショックだったことをひとつ。それは、チバユウスケさんが亡くなったこと。彼の音楽のすごいファンだっただけに、早すぎる死には衝撃を受けた。

チバユウスケさんのライブを観たことは少なくて、たったの3回だった。1回はミッシェルで、1回はロッソで、1回はバースディで。どれもバンド初期のライブだった。

ミッシェル・ガン・エレファントを観たのは、「世界の終わり」でメジャー・デビューした直後だったと思う。客席は若い女の子でいっぱいで、みんなキャーキャー騒いでいた。そしたら、ステージからチバさんが「うるせ~」って怒鳴ったのが印象的だった。あまりにかっこよかった。

ロッソを観たときは、もっと鮮烈だった。ぼくとつれあいは、マーズ・ボルタというアメリカのプログレバンドを観るためにライブハウスに行った。そのとき、前座で、知らないバンド「ロッソ」が演奏した。スリーピースのバンドで、ステージに出てくると、なんの挨拶もなく、突然演奏を始めた。「態度悪いな」と思ったが、その直後、音楽に引き込まれた。名曲「シャロン」を演ったからだ。「このかっこいい曲は、いったいなんだ!」とぼくは目を丸くした。すると、つれあいが「あれって、チバユウスケじゃない?」ともう気が気じゃない様子で言った。そう、チバユウスケの新しいバンドのお披露目ライブだったのだ。彼らは3曲ぐらい演奏すると、挨拶も感謝も、そしてマーズ・ボルタへの賛辞もなく、帰っていった。ぼくとつれあいは、あまりのことにびっくりして、メインのマーズ・ボルタの演奏はほとんど記憶に残らなかった。

チバユウスケさんは、バンドを変えるごとに、新しい音楽にチャレンジする才能ある人だった。その死は、あまりに大きな損失だと思う。

 さて、拙著の紹介をしよう。

この本は、バブル崩壊後の日本経済の低迷と、それに起因する貧困・格差に対し、その原因を小野善康さんの不況理論から説明し、解決策として宇沢弘文先生の社会的共通資本の理論を推奨するものだ。

さらには、経済学を現実を説明できる理論に進化させるための方策として、熱力学を模倣すべきだと提案している。

今回はこの本の第5章「値段のないものの価値」の内容について、多少の紹介をしたいと思う。

 ぼくは、京都大学の寄付講座「人と社会の未来研究院・社会的共通資本の未来」のレクチャーに招待してもらって、宇沢先生の「自動車の社会的費用」について解説したり、さらに先生の「地球温暖化に関する炭素税」のアプローチをレクチャーしたりしている。そうしているうちに、気がついたのは、宇沢先生が「帰属価格」という経済概念を多用していることだった。このことはこれまであまり意識したことがなかった。

 「帰属価格」というのは、一言で言えば、「値段のないものの価値を測る」数学的な技術のこと。宇沢先生の説明によれば、メンガーが導入した概念らしい。メンガーは19世紀末の経済学者で、「限界革命」の立役者の一人だ(他の二人は、ワルラスとジェボンズ)。

 とは言っても、数学的にはもっと以前から使われていたもので、いわゆる「ラグランジュ乗数」というものに他ならない。ただし、数学でラグランジュ乗数法を習った人でも、それが「帰属価格」という経済概念であることを知っている人は少ないと思う。ラグランジュ乗数法とは、制約付き極値問題を解くために使われる便法だ。例えば、g(x, y)=bの制約の下で、関数 f(x, y)極値を求めたいときは、L(x, y)=f(x, y)+\lambda(b- g(x, y))x, y,\lambdaに関する微分がすべて0となるようにすればいい。この\lambdaラグランジュ乗数。そして、経済学では帰属価格にあたるというわけなのだ。

 大事なことは、パラメーターbを限界的に1だけ緩めると、最適化された f(x, y)には\lambdaだけ跳ね返ることになる、ということ。つまり、\lambdaは「制約が影に備えている価格もどき」だということになる。したがって、これを経済的な最適化の中で用いれば、「制約が秘めている価値を効用水準で計測する」というような使い方(あるいは解釈)ができる。詳しい数学的な解説は、以前のエントリー、

ラグランジュ乗数と帰属価格 - hiroyukikojima’s blog

を読んでほしい。

 ラグランジュ乗数について、たしか、経済学部の大学院のミクロ経済学で教わったけど、それが帰属価格というものであることは、明示的には教わらなかったと思う。しかも、かなり広範に用いられている技術である、ということは宇沢先生の論文を読むようになって初めて意識したことだった。

 帰属価格について意識するようになって、宇沢先生の「自動車の社会的費用」が、帰属価格の概念から発想されたのではないか、と思うようになった。宇沢先生は、自動車の社会的費用を1台あたり200万円という、とんでもない値に算出したのだけど、これが帰属価格だと理解すれば、そんなに驚くべき数値ではないと思えるようになった。(詳しいことは拙著を読んでくれたまえ)。

 そうしてみると、ラムゼーの最適成長理論も、小野さんの長期不況動学も、宇沢先生の最適炭素税も、すべて帰属価格から解釈できることがわかった。これは、大学院を出てずいぶん経過した今頃になって到達した境地である。(特定の研究分野の人にはあまりにあたり前のことかもしれないが)。

 そんなわけで、この第5章では、帰属価格を中心に据えて、自動車の社会的費用、最適成長理論、長期不況理論、最適炭素税を解説している。知らなかった人には、有益な知識になると思うので、是非読んでほしい。

 

 

 

 

 

シン・経済学

前回のエントリーでお知らせしたように、ぼくの新著が刊行される。刊行まであと一週間ぐらいになったので、販促を始めようと思う。タイトルは『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書である。

帯には、宇沢弘文氏没後10年・森嶋道夫氏没後20年』特別企画、とある。実際、本書の中には、宇沢先生の思想と森嶋先生の思想をふんだんに書き込んである。本書はお二人へのオマージュであり、その一方で、経済学への新しいアプローチの提案の書でもある。

まだ刊行前の今回は、目次と各章の簡単な要約をさらそう。

「はじめに」

この章では、日本の「見えざる貧困」について解説している。参考にした本は、阿部彩『弱者の居場所がない社会』、阿部彩・鈴木大介『貧困を救えない国日本』、石井光太『日本の貧困のリアル』

第1章 限界を暴いた経済学者

この章では、経済学の歴史と新古典派経済学に対する宇沢先生の批判を解説している。

第2章 「失われた30年」の真相

この章では、バブル経済のあとに不況が訪れることを中心に、ケインズ経済学についてまとめている。

第3章 長期不況と金持ち願望

この章では、ケインズ経済学を超克した小野理論(小野善康さんの長期不況理論)について説明している。とりわけ、小野さんの「資本主義の方程式」を導入して、バブル経済のあとに不況が訪れる理由を解明する。

第4章 見えざる貧困の解決

この章では、小野さんの研究を引用して、ケインズがどう間違ったか、とりわけ乗数理論の誤謬を解説する。その上で、見えざる貧困の解決には宇沢先生の「社会的共通資本の理論」が有効であることを説得する。

第5章 値段のないものの価値

この章では、経済学の真骨頂とも言える「帰属価格」について、けっこう丁寧に解説する。帰属価格とは「値段のないものの価値を測る」数学的技巧であり、理系向けに言えば「ラグランジュ乗数」のことだ。応用として、自動車の社会的費用、最適成長理論、温室効果ガスとしての二酸化炭素と炭素税、を解説する。

第6章 教育の自己言及性

この章では、社会的共通資本としての教育をどう考察すべきかを論じる。題材として、センの潜在能力アプローチ、ボウルス・ギンタスの対応原理、ジョン・デューイの思想を概説する。その上で、社会的共通資本の5つの特性について論じる。

第7章 医療を基本とする資本主義

この章では、政策のターゲットをGDPから健康寿命へ変更することを提案する。それがぼくの構想している「医療ベース資本主義」である。

第8章 シン・経済学の待望

この章では、物理学との比較によって、経済学がいかに未熟であるかを論じている。経済学がダメな原因を、経済学における「限界革命」がニュートン力学を模倣したことに求める。その上で、経済学が模範とすべきだったのは「熱力学」であり、そして今でもそうであることを説得する。要するに、シン・経済学とは「熱力学的経済学」なのである。(勘違いしてほしくないのは、決して、「統計力学的経済学」ではない、ということ。それなら既にいくつか研究成果があるし、それらはそんなに有望なものじゃないと個人的に思っている)。

第9章 過去の最適化

この章では、主にロールズ『正義論』とそれをぼくなりに拡張した「過去の最適化」について論じている。言ってみれば、経済学への哲学的アプローチである。

章立てを眺めた人は、異端の経済学に見えるかもしれない。でも、「人々を幸せにできる経済理論」で、現在最も有望なものが、宇沢先生の「社会的共通資本の理論」だと、ぼくは正直思っている。もっと適切な理論がどこかに存在するのかもしれないけれど、既存の理論の中ではぼくにはこれしか候補がない。本書には、ぼくがどうしてそう思うかを魂を込めて書いたつもりだ。

整数の中のランダム性

 今年は、夏からあまりに忙しくて、このブログを更新する時間が取れなかった。

忙しさの最も大きな要因は、新書を書いていたことだ。しかも、普通の新書とはわけが違う。ぼくの勤務する帝京大学が、このたび、帝京大学出版会を立ち上げる運びとなった。そして、帝京新書というブランドを新設し、新書市場に参入することとなった。その第一弾の1冊をぼくが書くことになったのだ。その新書は、『シン・経済学ー貧困、格差および孤立の一般理論』である

タイトルは編集者がつけた。ぼくには恥ずかしくてこんなタイトルはつけられない。まあ、ぼくも庵野監督のファンだから、拒否まではしなかった。

この本については、刊行時期が近づいたら販促しようと思う。

 もうひとつ、忙しさをちょっとだけ担ったのが、NHKの番組への出演だ。それは、市民X「ビットコインの生みの親『サトシ・ナカモト』とは?」である。

www6.nhk.or.jp

NHK総合の放送は終わってしまったけど、NHK BSで放送される完全版は11月26日(日曜)夜9時の放送だから、是非、観てほしい。ぼくは、拙著『暗号通貨の経済学』講談社メチエに書いた知識をベースにインタビューに答えている。実によく取材されている面白い番組になっている。

 さて、これだけで終わっては何なので、最近読んで面白かった本を紹介することにしよう。それは、小山信也『素数って偏ってるの?~ABC予想、コラッツ予想、深リーマン予想技術評論社だ。

この本のメイン・テーマは、著者の小山先生が最近になって論文にした「チェビシェフの偏り」に関する「深リーマン予想」の仮定の下での証明だ。

チェビシェフの偏り」というのは、「4で割ると1余る素数」と「4で割ると3余る素数」の出現順序に関するものだ。100以下の奇素数では、「4で割ると1余る素数」が11個で「4で割ると3余る素数」が13個。後者のが多い。1000以下では前者が80個で後者が87個。1万以下では前者が609個後者が619個。このように、たいてい後者のほうが多い。300万以下では、後者が前者より249個も多い。

こうなると、「4で割ると1余る素数」全体よりも「4で割ると3余る素数」全体のほうが多いんじゃないの?と疑りたくなるけど、実はそうではない。奇素数全体の中に「4で割ると1余る素数」の占める割合と「4で割ると3余る素数」の占める割合は(極限としては)等しいことが証明されている。すると、この見た目の偏りはどういうことなのだろうか。このように、与えられたx以下の範囲で調べると「4で割ると3余る素数」が「4で割ると1余る素数」より多い傾向が強いことを発見者にちなんで「チェビシェフの偏り」と呼ぶらしい。

本書は、この「チェビシェフの偏り」が深リーマン予想を前提とすれば説明できることを解説している。深リーマン予想については、当ブログのこの記事を参照してほしい。

 しかし、ぼくにとってのこの本の白眉は、「コラッツ予想」についての最近の進展を解説していることだ。「コラッツ予想」というのは、アマチュア数学愛好家にも有名な予想で、「正の整数から出発して、偶数なら2で割り、奇数なら3倍して1を加えるという操作を繰り返すと、有限回で1になる」というものだ。一例をあげれば、6からスタートして、

6→3→10→5→16→8→4→2→1

と8ステップで1に到達する。

この予想は、数学者のコラッツが1930年頃に考えついて、1950年の国際数学者会議の中の雑談を通して世間に広まったとのことだ。整数論で有名なハッセが取り組んで解けなかったことはよく知られているらしい。

一見してわかるように、全く手のつけようのない問題に見える。しかし、この難問に最近、大きな進展があった。それが語られているのである。

その進展をもたらしたのは、素数に関する「グリーン=タオの定理」で有名なテレンス・タオだ。またしてもタオが偉業を成し遂げた。

タオのコラッツ予想へのアプローチには、整数の中に潜んでいる特殊なランダム性が利用されている、とのこと。非常に難しい定理なので、簡単には理解できないが、この本には測度論などの前提知識を丁寧に初歩から解説してあるから、理解しようという意欲がわいてくる。

小山先生は、「チェビシェフの偏り」も、素数の持つある種のランダム性の現れだという。ランダム性というのは、確率に関する概念であるにもかかわらず、「静的な」整数の集合や素数の集合にも適用できることに数学の深みを垣間見ることができる。

 これはうがった見方かもしれないが、確率論に構築されているランダム性は、実は「静的な」概念で、「動学的な」ランダム性は別のところにあるのかもしれない、という妄想も膨らむ。数学者による一般向けの解説書は、そういう楽しい妄想をかきたてる効果もあるのだね。

 最後に、途中で紹介したビットコイン関係の書籍はこれですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2平方定理の幾何的証明

 今回は、「2平方定理」について、数学書の中に幾何的証明を見つけたので、そのさわりの部分を紹介したい。読んだ本は、キャッセルズ『楕円曲線入門』岩波書店だ。
この本は、楕円曲線(y^2=x^3+ax+bで定義される曲線)の数論を解説した本だが、p進体上の楕円曲線も含むのが特徴である。

この本のユニークなところは、各章が非常に短いこと。長くても5ページぐらいで終わる。だから、長い解説や証明を読まされる苦痛は少ない。しかし、そのおかげで全部で26章もある。

この本は、(ぼくにとって)めちゃくちゃわかりやすいところとすげぇわかりにくいところが混在している。おおざっぱに言えば、最初のほうはものすごくわかりやすいが、途中からかっとんでしまって歯が立たなくなる。後半には、「ガロアコホモロジー」とか、「セルマ-群」とか、フェルマー予想解決のときに耳にしたアイテムが出てくるだけに読破できれば幸せだと思うのだけど、近未来の目標というところだ。

 さて、「2平方定理」というのは、「4で割ると1余る素数は2つの平方数の和で表せる」というもの。例えば、5=1^2+2^2, 13=2^2+3^2, 17=1^2+4^2のようなことだ。同値な言い換えをすれば、「素数pに関して、l^2 \equiv -1 (p)を満たす整数lが存在するなら、pは2つの平方数の和となる」である。

この定理は、(初等的にも証明できるが)普通は2次体のガウス整数を使った証明がなされる。ガウス整数とは、a+bi(a,bは整数)の形の複素数だ。おおざっぱには、4で割ると1余る素数pは、ガウス整数の世界では素数でなくなり、p=(a+bi)(a-bi)素因数分解されることから証明される。(a+bi)(a-bi)=a^2+b^2だから巧くできている。詳しい証明は、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社で読んでほしい。

 キャッセルズの本には、この定理の幾何学的証明が載っていてのけぞった。この手法自体は知っていたけど、2平方定理が証明できるとは初耳だった。

 証明にはひとつの補題とそれから導かれる定理が使われる。

補題とは、「mは正整数。Sn次元空間の点集合で、その体積V(S)mより大きいとする。このとき、Sに属するm+1個の点\boldsymbol{s}_0, \boldsymbol{s}_1, \dots,\boldsymbol{s}_mが存在して、任意の0 \leq i ,j \leq mについて、差\boldsymbol{s}_i-\boldsymbol{s}_jのすべての座標が整数となる。」というもの。点集合Sがどんなに変な形をしていても、体積がmより大きいなら、すべての座標の差が整数となる点がm+1個以上とれてしまう、ということだ。m=1の場合はBlichfeldtという数学者が最初に証明したらしい。

この補題の証明は次のようにすごく簡単明瞭だ。

まず、「単位立方体」の点集合Wを、「すべての座標が0以上1未満の点の集合」と定義する。すると、n次元空間のすべての点\boldsymbol{x}は、点集合Wの点\boldsymbol{w}とすべての座標が整数である点(格子点とも言う)\boldsymbol{z}を用いて、\boldsymbol{x}=\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z}と表せる。

次に、\psi(\boldsymbol{x})Sの「特性関数」とする。すなわち、\boldsymbol{w}Sに属するなら\psi(\boldsymbol{x})=1、そうでないなら、\psi(\boldsymbol{x})=0と定義された関数である。そして、この関数をn次元空間全域で積分する。積分値は\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}であるが、定義からこれは体積V(S)である。したがって、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=V(S)>m

さて、この積分を単位立方体に分解して実行するとしよう。2次元なら、例えば、点\boldsymbol{z}=(1, 2)を最小点とする単位立方体は(1+w_1, 2+w_2)なる点の集合だから、\boldsymbol{z}+Wとなる。だから、先ほどの積分は、整数点\boldsymbol{z}にわたる総和として、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\sum_{\boldsymbol{z}}\int_{\boldsymbol{z}+W}  \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}

と書き換えることができる。各積分を、\boldsymbol{w}を変数に取り替えて、単位立方体内での積分に書き換えると、(さらに積分と総和を入れ替えて)、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\int_{W}\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})d \boldsymbol{w}

となる。

ここでもし、積分の中身の\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})がすべての\boldsymbol{w}に対してm以下であると、単位立方体の体積が1であることに注意して、

\int   \psi(\boldsymbol{x})d\boldsymbol{x}=\int_{W}\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}+\boldsymbol{z})d \boldsymbol{w} \leq \int_{W} m d \boldsymbol{w}=m\int_{W}1d \boldsymbol{w} \leq m

となって、V(S)>mに矛盾してしまう。よって、ある\boldsymbol{w}_0に関して、

\sum_{\boldsymbol{z}}\psi(\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z})>m

が得られることになる。左辺の総和の中身は1または0だから、左辺は整数。よって、左辺がm+1以上になる\boldsymbol{w}_0が存在する。これは、\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z}Sに属する点\boldsymbol{w}_0+\boldsymbol{z}が少なくともm+1個以上存在することを意味する。これらを\boldsymbol{s}_0, \boldsymbol{s}_1, \dots,\boldsymbol{s}_mと置けば、それら任意の2点の差は(\boldsymbol{w}_0が相殺されて)、すべての座標が整数となって、補題の証明が終わる。

 ポイントは積分の単純な評価にすぎないから、こんな簡単な分析でも面白い結果が出てくることに数学のパワーを実感できる。

 この補題を使うと次の定理が証明できる。m=1の場合はMinkowskiによって、一般の場合はvan der Corputによって証明されたとのこと。

定理「\Lambda\boldsymbol{Z}^n(整数のみからなるn次元ベクトルの成す加法群)の指数mの部分群とする。\mathcal{C}n次元空間の凸かつ対称的な部分集合で、体積がV(\mathcal{C})>2^{n}mであるものとする。このとき、\mathcal{C}\Lambda(0, 0, \dots,0)以外の共通点をもつ」

この定理は、上の補題を使って、引き出し論法に持ち込めば簡単に証明できるのだけど、部分群の指数とか説明するのが難儀なので省略する。

そしていよいよ、この定理を上手に用いることで、2平方定理「正整数Nに関して、l^2 \equiv -1 (N)を満たす整数lが存在するなら、Nは2つの平方数の和となる」が証明できる。冒頭で述べたのは素数に関してだけど、ここでは一般の正整数Nに拡張されていることに注目してほしい。

この2平方定理の証明は、\mathcal{C}を開円盤x^2+y^2<2Nととり、\boldsymbol{Z}の部分群\Lambdaを「 y\equiv lx (N)」で定義すれば、先ほどの定理から(0, 0)と異なる(u, v)で、(u, v) \in \mathcal{C} \cap \Lambda をみたすものが存在する。つまり、0<u^2+v^2<2Nかつu^2+v^2=u^2(1+l^2)\equiv0 (N)となる。これから、u^2+v^2=Nが得られる。要するに、Nの倍数となるu^2+v^2で、0以上2N未満のものがあり、それはNそのもの、ということだ。補題や定理における「体積がある程度大きいなら整数点(格子点)が存在する」ことと、「合同式の制約」から、ピンポイントの平方和が出てくる、というからくりなわけ。実によくできている。

 キャッセルズは、この2平方定理の証明は定理の簡単な応用例として紹介している。ほんちゃんは、Hasseによる「局所・大域原理」を証明することだ。これは、「\boldsymbol{Q}上の2次曲線\mathcal{C}上に有理点が存在するための必要十分条件は、\mathcal{C}実数体\boldsymbol{R}上およびすべての素数pに関しp進体\boldsymbol{Q}_p上で定義された点をもつこと」

という定理。これは現代数論のひとつの象徴的定理と言えるものだ。

 しつこくてすまんが、2平方定理の2次体の数論を使った証明を、わかりやすく知りたいなら、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を読んでほしい。他にも素数の魅力が満載の本だよ。