『クロニクル』

Chronicle [DVD]

Chronicle [DVD]

『クロニクル』 監督:ジョシュ・トランク 出演:デイン・デハーン アレックス・ラッセル マイケル・B・ジョーダン マイケル・ケリー


(ネタバレ)

誰にも頼ることもなく、誰であっても行くことができない場所に、3人は行くことができる。彼らが獲得した自由であるはずの場所が、こんなにも窮屈に見えるのは何故だろう。彼らが過ごす学校のルールからは遠く外れた上空で、何もないはずの空においても、そこには関係が持ち込まれる。干渉し合わなければならない。どこまで行っても、1人を失っても、彼らは空で対峙させられる。終盤、彼らは自ら人前に現れたのかもしれないが、空であっても、地上にいたときと同様に「さらされる」のである。
差し出された手を標であると思うことができない、きっかけに気づいてそれを信頼を持って掴み取ることができなかった主人公は、未熟で、やはりどうしようもなく愚かなのだろう。超能力は突飛かもしれないが、それによって出会う世界というものの普遍性は変わらない。新しい場所に踏み出すことへの、「発見」の驚きと怖れ、「共有」する喜びとわずらわしさが、あたりまえに混在し反響しあっている。時にうるさいほどに。ゆえに豊かな映画であると思うが、どうしたって悲しい物語なのだ。だけども彼らを想う。何ら顧みることなく、憂いもなく思い切り踏み出せる時間が、たった僅か、期間としては一瞬だったかもしれないが、それでも確かに在ったのだと。結末を知った後も思い出せることができる。
映画を観る者はこの記録をひとつの連なりとして観ることができるが、主人公が撮り続けている間は、撮り貯めている段階では、単なる断片であったということ。自分が何であるか知ろうとする前に押し固められ身動きができなくなるような窮屈で不可解で理不尽な世界に、視点をもって臨むこと。そこに自分が記録されること。それはまだ断片であったが、彼が混乱から何かを掴みとろうとする、何らかの連なりを見出そうとする意志があったことが分かる。これらの記録を、誰がどんな意図をもって繋いでいったのかは分からないが。
あるいは、ここに視点をおくという意識が存在し、または記録するためにカメラと向き合う(語りかける)ことで貫かれているもの。後半の展開での、その外から向けられる「視点」の距離。映画の始まりと終わりが繋ぐのは、「すべてを撮る」という意志と、そのカメラが収めるべき場所。

『オブリビオン』

オブリビオン』 監督:ジョセフ・コシンスキー 出演:トム・クルーズ モーガン・フリーマン オルガ・キュリレンコ


(ネタバレ)

ジャック(トム・クルーズ)はジュリア(オルガ・キュリレンコ)を見ていた。ジュリアもまたジャックを見ていたのだろう。そしてヴィクトリア(アンドレア・ライズブロー)も。映画を観る者は、ジャックと同じように冒頭以前の記憶を知ることはできない。映画を観ることは、彼と同じようにかつてに出会い、顧みていくこと。誰かが何を見ていたのかは知ることはできないが、ただひとつ言えるのは、クローンとして目覚めたそのときにヴィクトリアはジャックを確かに見たのだろうということ。(冒頭の説明で、記憶を消されたとあったが、おそらくクローンとして目覚めてからの時間が5年しかないのだろう。)
「テット」は捕獲した人間をもとにクローンを製造し地球に派遣する。クローン製造の目的は、地球の監視であり、海水を吸い上げる巨大プラントを「異星人スカヴ」の残党(本当は人類の生き残り)から守ることであった。フライトレコーダーで、ジャックは過去を再生する。そこで、(調査船での)かつてのヴィクトリアの視線に、映画を観る者も気づくのだ。いや確かめようとしたのか。いつかの彼女もジャックを見ていたのだと。観る者は再び冒頭に立ち返る。彼女を想う。ジャックがジュリアを見ていたように、ヴィクトリアはジャックを見ていたのだということ。彼女は、ジャックよりずっと先に、自らの呪われた運命に気づいていたのかもしれない。
フライトレコーダー。ジャックは過去を顧みる。地球が破壊される以前、彼が乗る調査船は土星に向かっていた。テットに遭遇し、ジャックとヴィクトリアは捕らわれ、睡眠状態にいるジュリアは船から切り離されることでテットから逃れるも宇宙を漂うこととなる。そこは自分を失ってしまった場所、かつての軌道上に、時間や存在を超えて再び乗ろうとすること。いつかの過去と乗り合わせる感覚。
かつての自分が解き放った(切り離した)夢の、その軌道上に、過去を失った現在の自分が再び遭遇し、それを(半信半疑ながらも)掴みとることの奇跡。いや奇跡というのか。それは神が生んだ「自分」の誰かがいずれどこかで成し遂げること。この「自分」が死んでも、誰かがその先を歩むことの希望。ラストにフライトレコーダーはいらない。

『ウルヴァリン SAMURAI』

Wolverine

Wolverine

ウルヴァリン: SAMURAI』  監督:ジェームズ・マンゴールド 出演:ヒュー・ジャックマン TAO 福島リラ 真田広之

あらすじ:カナダの山奥で隠遁生活を送るウルヴァリンことローガンのもとに、彼の旧友でもある日本の大物実業家・矢志田の使者が現われる。余命わずかの矢志田は、命の恩人であるローガンに最後に一目会いたいと願っていた。日本を訪れ、病床の矢志田と再会したローガンだったが、矢志田はまもなく“君の永遠の命を終わらせてあげる”との謎の言葉を残して息を引き取る。その後、葬儀に参列したローガンは、謎の武装集団に狙われた矢志田の孫娘マリコを救い出す。執拗な追っ手をかわし、一緒に逃避行を続ける2人はいつしか恋に落ちる。またやがて、戦いの中で、自らの不老不死の肉体を支えていた驚異的な治癒能力が失われていることに気づくローガンだったが…。
<allcinema>

  • 誰かが見ていてくれていることの、世界の外側から見られるということへの希求。自分が生きてきたことの連続性なんて、あやふやで確かさを持ち得ないし、いとも簡単に断ち切られるものではないか。例えば個人が帰属する場所において、そうした枠の中からでは常に覚束ない、危うさを持ってしまう感覚。冒頭、ローガンが捕らわれている穴から見える光景、爆弾が落ちる場所と、間にはハラキリの日本人。再び訪れた日本で、マリコとの逃亡先で、彼はまた同じ場所に立つ。そこから見えるのは、焦土から回復した町と、間には、あの時に失われなかった命が繋ぐ新しい生命があるという。ローガンは我々とは生きる時間が違う部外者、世界の外側に近い者。ローガンが見た光景は、誰かから見る世界ということ。ローガンが目撃したことによる過去と現在の連続は、彼によって行われる反復は、たとえデタラメであっても、まったくの無意味であっても、ただ単純に、お前は生きてきたんだということを告げられるようで、ああ確かにあったんだというような感覚を持ち得てしまう。
  • またそれ故かどうかわからないが、映画に出てくる忍者たちにすごく惹かれてしまう。内側からは幻の中に生きていたものが、外側からは確かに存在するということ。東京のビル群に潜んだり、屋敷を音もなく制圧したり、距離を取って集団でローガンを仕留めるところとか、同じ世界の中で忍者が堂々と忍者であったのが、とても良かった。

デンゼルの不思議

デジャヴ [DVD]

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トニー・スコットのここ3作の流れに不思議な印象を受ける。いずれの主人公もデンゼル・ワシントンであるが、主人公は、作品ごとにだんだん「動かなくなって」いく。『デジャヴ』では、主人公はまさにアクションによって本来不可逆であるものに突き進んでいく。デンゼルは車で過去にいる犯人を追いかけるのだが、ある装置によって、片方の目は過去(数日前)の映像を見て犯人を追跡しており、現在を見ているもう片方(肉眼のほう)は、高速道路を逆走する。一見むちゃくちゃである。理論としての過去、逆方向に進んだ先の場所というより、過去が歴然と過去である場所。僕らにすでに「起きてしまった」ことの場所。それを変えるということはどういうことだろうか。高速道路の暴走が何であるかと言えば、そこには過去への信頼があり、現在へのまっすぐな意志があった。常に過去が先にあるように、すべては後悔から始まる。もし現在のこの意志を過去に届けることが出来たならば、それを受け取った過去が現在の私に追いついたとき、私はそれを信じることができるのだろうか。この言葉を、あなたの進行方向に引き伸ばしてほしい。それこそが未来を想像することではないか。高速道路の逆走をもう一度言うなれば、そこには今への信頼があり、未来への確かな意志があったのだ。
サブウェイ123 激突』ではどうだろう。デンゼルはトラボルタ(犯人のボス)を追う。一般市民の彼にトラボルタを追う理由は無い。彼を突き立てるものは何なのか。トラボルタに追いつく場面。デンゼルは線路を横切りトラボルタに近づこうとするが、同じタイミングで電車が向かってくる。ちょっとためらった後、電車が来る前にひょいと線路をこえる。一瞬我に返ってこのまま進む理由を失った時にも、人はそのまま歩みを止めない。そこでは『デジャヴ』のような切迫も熱情も無い、言わば普通の日常の動作である。『アンストッパブル』では、更に「到達」すらも為されないままである。暴走列車を止めようと、彼は最後部から貨物の上を渡って運転席に向かおうとする。だが、やがて行き止るのだ。それ以上は進めなくなる。彼は運転席にたどり着けない。そこにはTV局のカメラによって立ち止まる彼の姿が映し出されるだけであった。
『デジャヴ』で在ったデンゼルのそれは、デンゼル本体のみではなく、一部を別の何かへ「外部化」したのかもしれない。横切る電車。踏み越えられるレール。あるいは、それは誰かに託され、いつか振り返ったときにやっと世代交代と呼ばれるような類であったと認識されるようなささやかさで、下の世代の誰かがそれを引き受けたのかもしれない。わからないが、いずれにせよ『デジャヴ』で感じたデンゼルのそれは、『サブウェイ123 激突』『アンストッパブル』においても少しも後退していないと思われた。

デンゼルは、作品ごとにだんだん「動かなくなって」いく。けれども『デジャヴ』も後2作も、デンゼルは相変わらずである。そこには信頼があり、未来への意志があったのかはあなたに確かめてほしいのだが、もしかしたらアクションを置いたままトニスコは映画をすごいところへ連れていくかもしれない。

『ウォンテッド』

ウォンテッド [DVD]

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『ウォンテッド』 監督:ティムール・ベクマンベトフ

『ウォンテッド』のラストは、物語の不信によって、世界はお前に関係しないということを、世界は接点でしかないことを知る。運命は絶対だけど、何らかの形であれ己は運命に介入できる、その主体性を放棄したところに着いて、物語ははじめて映画を背負えることができるんではないか。ここでもまたひとつ決別が生まれたのだ。「自分を知りたい」という願望は、すなわち自分で自分を裏切り続けることであると、この映画ははっきりと言っているのだ。主人公の前にあらわれる物語は、押したら倒れるような薄情さで、彼の運命を証明してはくれないだろう。だがたとえ前から真実が現れたとしても、主人公には、俺には、それを信じることができるのだろうか。主人公は自分の才能に目覚めてからも「自分がわからない」と言った。主人公は2度ほど裏切られる。ひとつはサミュエル・L・ジャクソンの謀略。もうひとつはヒロインとの決別だ。アンジェリーナ・ジョリー自死は、主人公と彼女の信じるものが、一度も、少しも、交わっていなかったことを告げる。そしてそれは、彼が依った親子の物語もまた何ら証明されるものではない、と思い知ることに等しい。
ファミコンのカセット取りかえるみてーに軽薄に、いつか自分は自分の物語もまた裏切るだろう。