立憲民主党の「消費税還付法案」を支持する

 最近の野党は、文字通り右も左も消費税減税を主張しています。これは考えてみれば不思議なことです。なぜなら、世論調査の結果から分かるのは、世論は消費税は上がるときは反対運動が広がるが、いざ上がってみると減税運動にはそこまで積極的にならない、というものだからです。2021年の衆議院選挙でも、消費税については特に大きな争点になっていたとは言い難いでしょう。もちろん消費税には逆進性があり、庶民の家計を圧迫する要因のひとつです。しかしながら、ほぼ全ての野党が減税にベットするような税制かと言われれば疑問です。

 もちろん消費税が安くなることにこしたことはない。しかし全体で20兆円以上の税収となっている消費税を減税するならば、その穴埋めをどこかでしなければなりません。維新や国民民主党が狙っているのは福祉カットです。「世代間格差」というトンデモ理論を根拠に、高齢者福祉を削り、「生きるに値しない生」をつくりだそうとしています。これに関しては維新よりもむしろ国民民主党のほうが、「現役世代への支援」を旗印にしながら弱者を攻撃するネット・ポピュリズムに染まっている気がします。

 また、私はMMT理論を支持していないので、れいわ新選組の消費税に替えて国債を増発せよという意見も支持できません。法人税所得税の累進を強化して消費税減税にあてる共産党の政策には理があると思います。ただその政策を実現するコストはかなり大きいでしょう。

 ところで私は、ことさら減税が正しいとは思っていません。政府が人々に手厚い分配をするためには税が必要です。応能負担で税を取り、生活者の必要に応じて分配するのです。福祉には頼らないから減税してほしいという人は新自由主義者です。リベラルあるいは左翼を自認する人は、減税を主張するよりも先に、税が適切に分配されていないことを問題視するべきでしょう。

 そうはいっても消費税は逆進性があり、応能負担の原則からは逸脱していることも事実です。ではなんとかこの逆進性を解消する方法はないのか。生鮮食料品などに対する軽減税率はひとつの手段かもしれません。しかし現在の日本では、質の良い生鮮食料品を買っているのはむしろ富裕層であり、貧困層は料理する余裕すらなく出来合いの食事をとっているのが現状です。軽減税率はあまり解決になるとはいえないようです。

 私は最近知ったのですが、立憲民主党がこの消費税の逆進性に特化した政策を打ち出しているようです。「消費税還付法案」というのがそれで、これがなかなか面白い。6月に国会提出されたらしいのですが、例によって与党のサボタージュにあい審議はされていません。
https://cdp-japan.jp/news/20230613_6256

 どのような法律なのでしょうか。まず国の統計(全国家計構造統計)に基づき、それぞれの世帯収入に応じて、その年に払ったとみなされる消費税額を算出します。そして算出された金額の5割程度を、その世帯の誰かの所得税から控除します。所得税よりも還付されるべき金額が大きい世帯に対しては給付によって還付することになります。いわゆる「給付つき税額控除」というやつです。

 支払った消費税の5割を還付するならば、最初から消費税を5%減税すればいいじゃん、と思われるかもしれません。しかしこの法案の面白いところは、高所得者については、還付される割合を5割から漸進的に減らしていくということです。もし単に5%減税するだけであれば、払っている金額が大きい高所得者ほど得をします。しかし消費税還付法案であれば、高所得者ほど還付の恩恵は少なくなるのです。

 また、ここでキモなのは、実際に支払った消費税額ではなく、統計に基づいた消費税額を基準としていることです。これは単に事務処理を楽にするだけではありません。収入が少なくても金融資産をたくさん持っているのでお金持ちという人が世の中にはいます。世代間格差論者のプロパガンダに反して、ほとんどの高齢者は苦しい生活を行っています。しかし国民年金しかもらっていないけれど貯金が億単位でありますという人はいるにはいるのです。そういう人がいくら贅沢な消費活動を行い多額の消費税を支払っていたとしても、還付される金額の基準は、乏しい年金を切り詰めて生きている人のそれと同じなのです。もし5%減税であれば、所得税で捕捉できない資産を持っている人に税金を払わせることができるという消費税のメリットを潰してしまうことになります。

 この消費税還付法案では、同時に軽減税率をやめることも提言されていますが、これは歓迎です。8%商品が10%になったところで中低所得者ならば最終的には5%になるだけなので、負担は高所得者だけです。複数税率に伴う事務処理も必要なくなりますし、なによりインボイス制度の口実が消滅することになります。財源は確かに問題ですが、お金持ちからはこれまで通りの消費税を払ってもらうことになることや軽減税率の廃止によって、一律減税よりは減収分は少なくなります。近年の税収増を所得減税に使うよりは消費税の還付に使った方がよいでしょう。

 そういうわけで、この法案は消費税の逆進性を解消するという点ではとてもよさげに見えるのですが、残念ながらその内容が世の中にほとんど知られている気がしません。サイトやyoutubeを探したのですが、この中身を詳しく説明する資料も解説動画もないというのは、立憲さんサボりすぎでは?と思ってしまいます*1。よい法案だと思うので、少しでも周知がなされるよう記事を書きました。

(この記事は11月2日にnoteにあげた記事の転載です)

*1:この記事を先日noteにア掲載した際、立憲民主党の泉代表に取り上げていただきました。11月8日、同党の経済政策がまとまったことで、おそらくこの法案についての広報も強化されるのだと思います。

鉄の夢をみる夜の狼たち

 2023年4月末、日本ではゴールデン・ウィークに入った頃、ロシアのバイカーギャング集団ナイト・ウルヴズ(ナチヌイエ・ヴォルキ=夜の狼)が、5月9日の第二次世界大戦におけるロシア(ソ連)の戦勝記念日に合わせて、ドイツの首都ベルリンへの恣意的ツーリングを行っているというニュースが目に入った。

https://www.afpbb.com/articles/-/3462252

 ナイト・ウルヴズは、ソ連崩壊直前のロシアで結成されたグループで、現在では旧ソ連諸国や東欧圏にも構成員がいる。この男性だけで構成された「無法者」集団はプーチン政権の熱烈な支持者であり、鉄砲玉的な準軍事組織として、その権威主義体制の維持に貢献している。ウクライナでは実際に民兵として戦ってもいる。

 今回のようなロシアと対立する国への恣意的なツーリングは、これまでも行われてきており、ベルリンへのツーリングもドンバス戦争以降の前例があるとはいえ、ウクライナ戦争真っ只中におけるナイト・ウルヴズのドイツ「遠征」は、相当の警戒心をもって迎えられたようである。しかし蓋を開けてみれば混乱はほぼ起こらなかった。構成員にEUの制裁対象者がいたこともあり、数百人規模といわれていた参加者が数十人規模に留まったことや、強制収容所への訪問が拒絶されていたことがその理由であるようだ。元々ドイツ内にも親露派はいて、彼らが5月9日に開いた集会にナイト・ウルヴズも参加したが、ウクライナ支援者との衝突は起こらなかったという。

 

 ナイト・ウルヴズのモデルは、1948年に結成され1960年代に最も有名になったアメリカのバイカーギャング集団ヘルズ・エンジェルスだという。西側世界に敵対するプーチン政権を支える鉄砲玉のルーツが、ある意味では西側的自由を最も体現したならず者集団だったというのは皮肉めいた話であり、彼らの乗っているバイクが西側産であることも含めて、揶揄されやすいポイントとなっている。

 しかしヘルズ・エンジェルスとナイト・ウルヴズの倒錯的な関係は、ナイト・ウルヴズを権威主義国家ロシアのカリカチュアとして消費せしめること以上の意味を持っている。ナイト・ウルヴズは冷戦期に西側世界がタブー化した欲望が、半世紀以上たってから反転した形で現実化した悪夢なのである。

 

 私が友人たちと翻訳作業を行い、昨年12月に出版されたロレンツ・イェーガー『ハーケンクロイツの文化史』の最終章では、ヘルズ・エンジェルスと彼らがモデルとなったバイカーギャングが登場するSF、ノーマン・スピンラッド『鉄の夢』が扱われている。ヘルズ・エンジェルスは、様々な露悪的意匠の一つとして、ナチズムの象徴的記号であるハーケンクロイツを用いていた。それは単にファッションとしてだけではく、実際にネオナチとの関係があったこともよく知られている。

 ノーマン・スピンラッドのSF『鉄の夢』は、いわゆる歴史改変SFである。この世界ではアドルフ・ヒトラーは政治家にならず、アメリカに移民し、SF小説家として成功をおさめている。この本はその全体が、まるまるヒトラーが書いた架空の小説『鉤十字の支配者』という書籍の体裁をとっており、本編および出版社による著者プロフィール、ホーマー・フィップルなる大学教授による解題によって構成されている。

 ヒトラーが書いたことになっている『鉤十字の支配者』のストーリーは、核戦争によって放射能に汚染された地球で、「北方人種」の特徴を持った美しく男性的で指導力のある主人公フェリック・ジャガーヒトラー自身が投影されている)が、伝説の錫杖の力を借りて、放射能によって醜い怪物と化した人間やミュータントを虐殺し、汚染されていない純粋な人間の楽園をつくるというもの。その中で、フェリックの最も忠実で頼りになる部下が、ヘルズ・エンジェルスをモデルとしたバイク軍団なのであった。

 架空の小説『鉤十字の支配者』が書かれた世界では、ナチス・ドイツが誕生しない代わりに、ソ連がヨーロッパを支配している。ホロコーストがおきていないので、解題の書き手は、この小説の中にヒトラーが盛り込んだ反ユダヤ主義を読み解くことができない。その代わりに、ハーケンクロイツを掲げるバイク軍団がフェリックとともに、ソ連をモデルとしたミュータント国家であるジンド帝国――この物語のラスボス――を蹂躙する描写について、その残虐性を指摘しながらも、カタルシスが存在することを認める。

 スピンラッドは『鉄の夢』を通して、ナチズムへの風刺を行うのと同時に、冷戦期アメリカの抑圧されたスキャンダル的な欲望を描いている。当然ながらヒトラーは忌まわしき敵であり、ホロコーストは正当化することができない。ヘルズ・エンジェルスは悪趣味なならず者であり、少しでもお墨付きを与えてしまうと、「オルトモントの悲劇」のような凄惨な暴力事件を引き起こしてしまう。

 しかしそれは、単なる「公式見解」に過ぎないのではないか?アメリカ社会には一方で、ロシア・コミュニズムユダヤ人への偏見や敵意が確かに存在する。それがある限り、アメリカ人は、ハーケンクロイツやヘルズ・エンジェルスと手を取り合って、「野蛮」の殲滅のために、ヨーロッパ平原を東へ疾走する欲望から逃れられないのではないか?『鉄の夢』が描いているのは、そのような西側「文明」国の不安に他ならない。

 

 そしてナイト・ウルヴズは、半世紀前の西側の不安をちょうど反転したかたちで現実化したのである。このバイカーギャングは、ネオナチとの闘いを称してウクライナに侵略したプーチンの近衛部隊として、西から東ではなく、東から西へとヨーロッパ平原を疾走する。彼らのシンボルはハーケンクロイツではなく、反転したハーケンクロイツ――つまり卍――を構成するZである。

 一方、ナイト・ウルヴズが『鉤十字の支配者』を反転させていない点が一つだけある。ナイト・ウルヴズは女性を排除したマスキュリニズムの団体だそうなのだが、かの架空小説も、女性の登場人物が一切出てこず、それについて解題の著者は精神分析的な興味を抱いているのである。

 

 もちろんこのナイト・ウルヴズが、ウクライナ戦争に決定的な役割を果たすことはこれまでなかったし、これからもないだろう。とはいえ彼らはプーチン政権の象徴的な「近衛部隊」であり続けるし、日本も含む西側のメディアや一般世論は、このならず者たちを「野蛮」な国家ロシアを象徴する集団として、軽蔑的に扱い続けるだろう。

 しかしその「野蛮」とは、得体の知れない「アジア的野蛮」などではなく、我々「文明世界」にいる者たちの不安の鏡像として、我々自身の問題なのである。今、東において反転した鉤十字が、西において再反転しないとも限らないのだ。そして、そのような事態が万が一起こるとするなら、それを媒介するのは、恐らく有害なマスキュリニズムになるだろう。

 

敵は形態としての我々自身の問題である。そして敵は我々を、我々は敵を同じ終末へと駆り立てるだろう。

テオドール・ドイブラー

「表現の自由戦士」は権力がお好き

現代オタクの心性について鋭い分析を加えた墨東公安委員会氏の記事「チンドン屋たちの暴走 SNS時代の「オタク」と表現の自由赤松健氏の出馬について」(https://bokukoui.exblog.jp/32726091/)がバズっています。私自身も興味深く読みました。特にオタクの欲望が「批評」から「宣伝」へと変化しているという指摘は、昨今のSNSでのオタクの振舞いについて鑑みるに、頷けるものがありました。

一方で、この記事は多くの批判に晒されています。新しい視点とは何かも示さず「古い」と負け惜しみのように断言するものや、「長い」という、自分は140文字以上の文章が読めないのだと自白しているようなものがほとんどです。また、多くの人は表現規制問題とは本質的に対権力問題であり、ジェンダーエスニシティを差別的・ステレオタイプ的に描くことへの批判は表現規制とは呼ばない、という氏の主張に反発しているようです。

確かに大資本や宗教団体が国家権力と結びついて表現規制を推進するというケースもあります。しかしその場合でも、表現規制問題が対権力問題であることに変わりはありません。表現は権力からの自由を獲得したあとでも、絶えず批判され、更新されていくものです。墨東氏は、これを「動態的」という言葉で表しています。

この表現はいいか、よくないかをめぐって、議論という表現をさらに重ねる時、そこに表現の自由の場が作られるのです。表現の自由は参加することによって動態的に表れるもの、社会の一員である自分たちで常に作り続けていくものだと、私は考えています。

あらゆる表現は、生き生きした社会の運動との連関の中に常に置かれています。表現されたものが、評価を許さず超然的に保障されるという事態は、本来的にあり得ないのです。

 しかしそれでも、そのような常に揺れ動く混沌とした環境は不安だ、という人もいるでしょう。表現の自由が動態的に更新されていかなければならない概念だとしても、何らかのフォルムがなければ結局は強者優位の殺伐とした世界となってしまいます。そこで重要なのが人権概念です。もちろん人権概念それ自体も動態的なものであり、常に更新を要求されています。しかしそれでも、人権概念は皆が目指さなければならぬ理念として、近代市民社会のなかにビルトインされています。表現の自由はその一部にすぎません。

 ところが、表現規制問題を対権力だけではなく、対市民社会的なものへと拡張することを頑なに要求する者ほど、この人権という概念への思慮がないように思えます。たとえば、「冷笑系」アルファツイッタラーとして知られるもへもへ氏のこのツイートです。

「人種」や「性的少数者」への迫害が許されないのは、それが差別だからです。自由権というより平等権に関連し、日本国憲法では、たとえば一四条に関連する問題です。ところがもへもへ氏の議論では差別という観点が一切なく、無理やり表現の自由の問題へと接続されているのです。もちろん、あらゆるマイノリティには自分自身を自由に表現する権利があります。しかしそのような権利がこれまで弾圧されてきたのは、差別があったからです。仮に国家権力とは無関係の差別だったとしても、差別は差別であり、単なる批判ではないのです。

 この例のように、差別のような他の人権問題を全てスポイルして、表現を規制するか否か、という一つの基準でしか世界を認識できない人が「表現の自由」の議論の中ではしばしば散見されるところです。実際は、人権を守るためには様々な尺度を組み合わせる必要があります。ヘイトスピーチに関しては、たとえ法律によってでも規制すべきだ、という立場は一つの自由主義者のスタンスとして認められています(たとえばホロコースト否認の禁止法を肯定しているからといって、ドイツの政治家のほとんどを全体主義者に分類する政治学者はいないでしょう)。一方、LGBTsが登場する作品を作ってはいけないという規制は、たとえ国の法律ではなくても、ハリウッドの自主規制であれ、ディズニー社の方針であれ、撤回させなければいけません。「規制か、規制以外か。」は「表現の自由戦士」という生き方としては成立するかもしれませんが、その外側では成立しない議論なのです。

 

 ところで、自由であることの定義を、あらゆる規制や干渉がない状態と定義して事足りるという思考には、いわゆる二つの自由概念、すなわち積極的自由と消極的自由の概念が欠けているような気がします。反規制という意味での自由は、しばしば「〜からの自由」といわれる消極的自由に該当し、もちろん大切な自由ものです。しかし規制がなければ人間は自由かといえば、けしてそうではありません。たとえば紙とペンすら買えない窮乏状態であったり、1日の大半を労働に費やさなければならず休みがない状態に置かれている人にとっては「表現の自由」は絵に描いた餅です。あるいは、公権力が法的にマイノリティを迫害しなくても、社会の中に差別意識が蔓延している状態では、マイノリティが自分の意志を自由に実現することは極めて難しくなります。そこで人間が自分自身の意志を実現可能にする(ある行為ではなく、この行為をすることを積極的に選択する)自由としての積極的自由(「~への自由」と呼ばれることもあります)が重要になります。公権力は単に規制を行わないだけではなく、社会保障差別是正のような社会的公正のためのプログラムを行う必要に迫られるのです。

 消極的自由だけでは人々が本当に自由を享受できる状態にはならない一方で、(自律的な自己という前提を要求する)積極的自由を重視しすぎると特定の価値に人々を従属させる状態になり、全体主義に至る可能性もあります。二つの自由概念の提唱者であるアイザイア・バーリンは、ナチズムやスターリニズムをリアルタイムで目撃していたこともあって、積極的自由に対する消極的自由の優位を説きました。オタク表現に関する「反規制派」も、積極的自由は全体主義につながるとして、あらゆる規制や外部からの干渉を退ける消極的自由タカ派に分類することができるでしょう。

 問題は、自分自身の意志に対する干渉は、外部からだけでなく内部からもやって来るということです。たとえばお笑いコンビ「プラスマイナス」の岩橋は、「先輩芸人の説教中にアカンベーをしてしまう」など、その場で絶対やってはいけないと分かっていることを気がついたら実行してしまうという特性を持っており、そのために命の危機に陥ったこともあるといいます。そこまで極端ではなくても、ダイエットの意志はしばしば食欲に敗北します。何かをチャレンジしようとする意志は、失敗への恐怖によって妨害されます。人間の欲望や感情は、人間の意志と対立することも多いのです。人間が単に欲望に従っている状態は自由とは呼べない、というのはカントを引くまでもなく自由論の一般的な考えですが、バーリンもこれを認めています。そのうえでバーリンは、消極的自由に対する干渉を、外在的なものに限定するのです。

しかしながら、ここで問題になるのは、人間の欲望はコントロールされるということです。人間は他者の欲望を欲望する存在であるという思想は、実はドイツ観念論の時代から考えられてきました。そして現代のテクノロジーおよび統治技術の発展は、その欲望を無尽蔵に拡大することを可能にしています。ジジェクの言うように、欲望はメディアやアーキテクチャーによって増幅され、人々に「楽しめ!」と享楽を強いるのです。墨東氏は、現代ではオタクのコンテンツ消費のあり方が、作品と個人的に向き合う欲望から、作品をダシにオタク同士でコミュニケーションを取りたいという欲望に取って変わられたことを指摘しています。オタクは、

「俺はすごい『オタク』だぞ」と見せびらかすのが目的となっているのです。コンテンツを自分の楽しみのために鑑賞するのではなく、自分がひとかどの存在だと見せびらかすために消費しているのです。

(中略)

 そうやって注目や反応を集めるうちに、コンテンツが好きという原点を遠く離れて、ネットで「オタク」として注目を集めることに依存してしまっている人が結構いるんじゃないか、私はそう思うのです。どんなコンテンツを享受するよりも、自分自身をコンテンツ化することで快楽を得るようになる倒錯です。こうなると、アニメや漫画などのコンテンツは、自己宣伝の素材に過ぎなくなってしまいます。

オタクがこのような自己宣伝を社会に対して行い、自らの文化に内在する性差別的なノリを公共空間に持ち込もうとするとき、そこで生じるコンフリクトは単なる消極的自由としての表現の自由の問題を超えています。しかしオタクは、公共空間の中で批判に晒されることを嫌がるのです。

 話を戻して、こうして考えていくと、「表現の自由戦士」と揶揄されるような一部の「オタク」が求める「表現の自由」とは、所かまわず自己宣伝して、なおかつそれに異論を挟まれない(自己を受け入れさせる)権利という、まことに以て自分勝手な要求の面が否定できないのではと思うのです。私はこれを仮に「表現の無責任」と呼んでいます。

 このような一部の「オタク」は「売れている」コンテンツを宣伝します。表面的には好きなコンテンツを推しているように見えても、それは売れているから選ばれたのであって、批評眼はありません。自分が感銘を受け、素敵だと思ったコンテンツを宣伝するのは、何のどこを推すかで自分の批評が反映されます。しかし「覇権アニメ」(下品な言葉ですね)に乗っかって、断片化された決めフレーズをネットで叫ぶのには、批評精神はいりません。むしろ批評という個性のない、売れているという「客観的」な数値の方が、万人向けの宣伝になります。

(中略) 

 「表現の無責任」というのは、コンテンツの宣伝を通じて、自己もまたコンテンツと化して宣伝の対象とし、その自己宣伝を無批判に受け入れてほしいという、たいへん虫のいい、傍迷惑なことだと私は考えます。自分の領分と思い込んだ表現(宣伝)を批判されたくない、というのは、言い換えれば「ありのままの自分」を受け入れてほしいという欲求なのです。当然、社会的責任などは埒外となります。

その欲求に従った結果、オタクたちは、墨東氏が「「大日本オタク報国会」を作ろうとしているのではないか」と懸念するような、権力への接近をしていくことになります。

 現在の政権与党には、アニメやマンガに理解があるとされる議員がいるようです。しかし、たとえばオタク文化の裾野を形成するようなクリエイターたちの待遇改善は一向になされる様子はありません。最近ではその待遇は中国や韓国にも劣っているといわれます。一方、クールジャパンのようなオタク文化を「国家公認の文化」とする施策はどんどん進められています。最近では東京オリンピックの開会式で、ゲーム音楽が流されるといったことがありました。これについては、当のオタクたちにとっても好評だったようです。

 

 何が言いたいかといいますと、もはやオタクが求めている自由は、もはや「権力からの自由」にとどまらず、「権力への自由」になっているのではないか、ということです。別にそれでもいいのです。しかし、そうであるならば、少なくともそれを行っている自覚は持つべきです。いつまでも「規制か、それ以外か」では困るのです。なぜなら、無自覚に積極的自由を求める運動は、先述したように全体主義へ容易に至るからです。しかもその自己実現が自律した理性に基づくものではなく、資本や技術によってたやすく操作されるような欲望に基づいているのならなおさらです。ですが、多くのオタクたちは未だに自分たちの運動が消極的自由しか志向していないと思い込んでいるようです。それが様々な局面で議論がかみ合わない理由の一つでしょう。

 オタクが自身の文化の価値を社会的に認めさせようとする政治運動を行うこと自体に善悪はありません。しかしそれは基本的人権の尊重、「表現の自由」の動態性を受け入れ批判に対して応答責任を果たしていくこと、そして公共的思考(国家主義的思考ではなく)をセットとする場合においてです。それらを欠いた政治運動は、自由を求める運動ではなく、ファシズムへと至ってしまうのです。

 

シルバー民主主義なるものは存在しない――Here is no such thing as Silver Democracy

 世の中には、存在しないものを存在すると言い張って社会を惑わす人たちが存在する。存在しない大量破壊兵器が存在すると主張した大統領は戦争を引き起こしたし、差別やハラスメントをこれからも続けていきたい人々は「キャンセルカルチャー」という存在しない文化が存在すると主張して、被害者の告発を無効化しようとしている。そして、日本の政治が目下の日本の社会問題に対して機能していない理由を「シルバー民主主義」なる造語によって説明しようとしている勢力についても、存在しないものを存在すると言い張って社会を惑わす人たちに分類することができるだろう。

 

 「シルバー民主主義」とは、少子高齢化の進展により有権者の多くが高齢者となり、その結果、高齢者にとって得になるような政治が行われ、若者や子供は置いてきぼりにされてしまう、という現象を表したものであるという。これによって世代間格差が広がり、若者は高齢者に搾取され続けることになる、とこの概念を提唱する者は主張する。「シルバー民主主義」の批判者は、この状態を打破するために、たとえば高齢者の票の重みを若者よりも小さくするような選挙制度改革を提案する。

 加齢はあらゆる人間に平等に訪れるとはいえ、このような高齢者の参政権を不合理に制限するような政策は反人権的であり、馬鹿げている。しかし、高齢者の参政制限は「優生思想」であるとして、「シルバー民主主義」論者を批判するのは、あまり有益ではないのではなかろうか。確かに常識的な目線からすると、高齢者を政治的に迫害し、高齢者のための政治を糾弾するのは、高齢者を「生きるに値しない生命」とみなしているかのように思える。しかし「シルバー民主主義」論者の言い分では、高齢者は「勝ち組」なのであって、高齢者の政治的な影響力を削減し若者に政治的優越性を与えるのは、いわば階級闘争として行われているのである。

 従って根本的な問題は、むしろ「シルバー民主主義」という概念そのものに起因する。世代間格差という事実認識が既に歪んでおり、前提が間違っているからこそ、それへの対策も間違ってしまっているのである。優生思想への警戒はもちろん大事だが、優生思想は歴史的にみれば右派だけではなく穏健な社会民主主義思想にも持ち込まれてきた。一方、以下で述べるように、「シルバー民主主義」批判は社会保障を否定する新自由主義的なロジックで構成されている。従って、ここで警戒すべきなのはむしろ新自由主義であろう。

 

 日本の選挙をみると、確かに若い世代の投票率は低い。それに加えて少子高齢化の進展により、投票者の多くが高齢者で占められているのは事実だ。しかしだからといって、近年の日本政治が高齢者に優しいとはいえない。年金はどんどん減額され、医療費負担も増えている。生活保護受給者の半分以上は高齢者であり、その割合は年々増え続けている。また65歳以上の4世帯に1世帯は貧困世帯である。乏しい年金で貯蓄もない状況では暮らしていけないので、低賃金労働に従事する高齢者も増えた。

 「シルバー民主主義」を批判する者は、高齢者の金融資産の多さを問題にする。しかしそうした金融資産は、一部の裕福な高齢者が溜め込んでいるにすぎない。資産は年月がたてばたつほど増え続ける。従って若者の資産持ちと高齢者の資産持ちを比較すれば、後者に軍配が上がるのは当然だ。しかし資産を持たない者は、若者も高齢者も変わらず貧困のままなのである。

 このような貧弱な社会保障は、現役世代にとっても他人事ではない。老後には2000万円の貯蓄が必要などと簡単に言われても困るのである。高齢者の年金や医療が保障されている世の中は、自分の将来の安心に繋がる。普通に考えれば「高齢者ばかり得しやがって」とは思わないだろう。数十年後のことなんて考えられない、という現役世代であっても、親の老後をどうするかは今すぐ考える必要がある問題だ。親に資産がなければ、高齢者の福祉がどんどんカットされ続ければ、結局は家族が面倒をみなければならないという世の中に逆戻りする。自民党的な「美しい国」ではそれが理想なのかもしれないが、現役世代の負担は大きくなる。親の面倒をみるために、自分の子供に十分な教育を与えてあげられないかもしれないのである。

 一方、高齢者世代にとっても、福祉の充実は自分事だけではない。十分な年金や医療介護制度によって自立できれば自分の子や孫への負担を軽減することができる。また子や孫のために、子育てや教育など若い世代への支援に関心がある高齢者も多いだろう。世代間格差や「シルバー民主主義」を主張する者は、人間はあらゆる世代を経験することや、血縁関係などを通した世代間の連帯意識への思考を欠いているといえる。ある意味では「今だけ自分の世代だけ」と一番考える人が多いのは、むしろ20代の若者世代なのではないか。親世代はまだ現役だし、現代では子供もまだ持たない人が多いからだ。家族の問題について様々な面で自分の力だけは立ち行かなくなって初めて、社会保障の重要さに気づく。

 ただ子供がいない若者であっても、年金や子育てが自分に関係ないという思考は直感的にも正しいとは思えない。実際、私も若い時からそのような考えは持ったことがなかった。なるほど税金のことを考えると憂鬱になるが、だからといって社会保障が充実していないのも困る。そこで考えるのは所得の再分配であって高齢者への憎悪ではない。だから「シルバー民主主義」の議論に即座に納得できてしまう人は、相当なエゴイストなのではなかろうか。

 この意味で、「シルバー民主主義」なる論は世代間の分断を招くだけと喝破した枝野幸男志位和夫は正しかった。必要なのは高齢者から現役世代への再分配ではなく、富裕層から中間・貧困層への再分配である。つまり富裕層の負担を増やし、貧困層の負担は減らし、ベーシックサービスとしての全世代型の社会保障を構築することに他ならない。

 

 「シルバー民主主義」論というのは結局のところ、そのようなシンプルな社会民主主義的解答を拒絶したい人たちの議論だと思う。高齢者の社会保障が削減されて気にならない人は、親が金持ちで年金を必要としない人や自分自身が富裕で老後資金を既に蓄えている人だろう。そういう人は、自分が社会保障を必要としないので他人のために負担をしたくないという新自由主義的な思考をしているにすぎない。「シルバー民主主義」論者はもっと若者向け政策を、と言うが、左派が主張する子育て政策の充実や大学無償化などを評価しない。ではどのような政策を望んでいるのかといえば、解雇規制緩和のような単なるネオリベ政策だったりする。

 参議院選挙も近づき、「シルバー民主主義」の打破を争点に持ち込んで政治を混乱させようとする者もまた増えてくるだろう。しかし選挙の争点はシンプルだ。これまで社会保障を削減し続け、「資産所得倍増」で富裕層をさらに富裕にする与党を支持するか、「生活安全保障」によって「くらしに希望が持てる」社会をつくる野党を支持するかである。

 高齢者に優しく若者に厳しい政治も高齢者に厳しく若者に優しい政治も存在しない。高齢者に優しい政治は結局は若者にも優しい政治になるだろうし、高齢者に厳しい政治は結局は若者にも厳しい政治になるだろう。若い世代には、世代間対立を煽るような言説に惑わされずに、自分や家族の人生、及び公共の事を冷静に考えた投票を望みたい。

オープンレターについて

 前回記事で言いたいことはほとんど述べてしまったのだが、補足として、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」に対する誹謗中傷に関しての意見を述べておく。念のため言っておくが、これはあくまで一署名者としての考えである。

 オープンレターに対しては様々な攻撃があるが、ここで言及しておくべきだと思っているのは、(1)オープンレターが呉座氏の失職を狙ったものである、というデマについてと、(2)オープンレターのイタズラ署名問題についてである。しかし(2)については(1)を前提に問題視されている部分もあるので、先に(2)から答えておく。

 

 まずネット署名には、こうした悪意あるイタズラに対する脆弱性が構造的に存在する。とはいえ、隠岐さや香氏述べているように、その脆弱性についてはこれまではほとんど問題にならなかった。

私自身、ネットでの署名や賛同集めに携わったこともあるが、このようなことが問題になった記憶はない。恐らくは、そのようなイタズラは単なる悪意以上のメリットがないからだろうが、逆に言えばこのオープンレターがどれだけ強い悪意に晒されているかの証左でもある。

 当然のことながら、この件でオープンレター側は被害者である。たとえば、ある人が嫌がらせで頼んでもいない寿司の出前を頼まれたとしよう。寿司を頼まれた側は被害者だが、寿司屋もまた被害者である。出前というシステムでいちいち本人確認することはないので、それを怠ったことは寿司屋の責任ではあるまい。出前のイタズラが多発することに閉口して寿司屋が何らかの対策を取ったとしても、それは本来はやる必要のなかった対策であって、あくまで悪いのはイタズラの主である。

 オープンレターについてもこれと同様のことがいえる。ネット署名で本人確認などは普通しない。もちろんどこかに請願するなど、多少なりとも効力を持たせようとするならば、ある程度の本人の同定はするだろうが、このような声明に対する賛同については、一般的にそこまではやらない。

 ここに誤解の一つがあるように思われる。ネット声明の賛同の価値は、連帯を示すことそのものの中にある。数や書かれた名前は二義的な問題なのである。賛同者の数が多いと勇気づけられるかもしれないが、数が少ないからといって声明の価値が薄れるわけではない。影響力のある者からの賛同は力になるが、それは捏造ではなく真にその人が賛同していることによってである。もちろん賛同していない声明に賛同していたことにされるのはその本人にとって重大な問題なので、それがわかった場合は速やかに取り下げるべきだが、それ自体がオープンレターの正当性を左右するわけではない。

 賛同者の数や名前によってオープンレターの正当性が左右されるという思考は、あるものの正当性の有無を他律的に判断する思考の産物だと思われる。オープンレターやネット署名の本質とはそうした思考に反して、むしろ一人ひとりの自律的な思考を求めるものなのである。

 

 続いて(1)の論点に移ろう。前回の記事で書いたように、オープンレターは呉座氏に強い制裁を求めるものではなく、彼の様々な差別や誹謗中傷の土壌となったボーイズクラブ文化の解体を求めるものである。

 そもそもオープンレターの文面には、呉座氏に強い処分を与えよとは書かれていない。呉座氏のTwitterのログから明らかとなったのは、誹謗中傷の事実だけではなく、ミソジニーによって駆動するような誹謗中傷を楽しむ「ボーイズクラブ」が存在するということであった。その界隈には研究者や学術関係者も含まれており、ここで呉座氏が受ける処分が何であれ、本質的な解決にはならないと考えられていた。また、被害者に対する二次加害がはやくも行われていた。オープンレターはかかる状況を変えるために出されたものであることは文面から明らかである。「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を享受してきた者たちの居心地が悪くなればなるほど、相対的に研究環境は改善されるだろう。 

いわゆる「ボーイズクラブ」問題に寄せて - 過ぎ去ろうとしない過去

ここで(2)の論点につなげれば、オープンレターは呉座氏の失職を求めるものであり、その際に賛同者の数が圧力として機能したという妄想に基けば、賛同者数の正確性は重要なのだろうが、そもそもその前提が妄想であり、日文研側にオープンレターが提出されたという事実も存在しないので、その論点はマッチポンプに過ぎないのだ。

 これに対しては、呉座氏への制裁が目的でないならば、なぜ呉座氏の所業が実名入りで比較的多くの文字数を使って記されているのか、という批判がある。答えは単純で、このオープンレターのきっかけが呉座氏のTwitter問題を出発点にしているからだ。この件はNHK大河ドラマ監修の降板をきっかけに全国メディアで取り上げられており、名前を匿名にすることに意味はない。またその内容も既に誰でも見られるかたちでアーカイブ化されているのであって、それに基づいて論評を加えることは不当な攻撃とはいえないだろう。

 それでももちろん、オープンレターは名前を匿名にしたり、やったことに詳細に触れずに書いたりすることもできた。その意味でこのオープンレターは呉座氏に特段の配慮をしていないといえる。だが、オープンレターが呉座氏に配慮する必要はどこにあるのか。オープンレターを含むネット上での評判が、日文研の処分に影響を与えるかもしれない、というのは呉座氏の事情であって、そのことをもって呉座氏のやったことに対する論評を禁ずることはできない。オープンレターは呉座氏を強く罰するべきだと言っていないが、寛大な処分を要求してもいない。寛大な処分を要求しないことは過剰な処分を要求することにはならない。処分に無関心だというだけである。そしてそれは別に非難されるべきことではない。

 当然のことながら、日文研側の内定取り消しという「処分」が不当に重いものであり、それが主にオープンレターの曲解に基づくものなのであれば、オープンレターの呼びかけ人なりが日文研側の解釈は誤りであると主張したほうがよいだろう。しかし前回記事でも書いた通り、日文研の「処分」がなぜこのようなものになったのかは全く分かっていないのだ。情報がないので、内定取り消しが「不当に」重いのかどうか、またそこにオープンレターはどのように関わっているのか、全く分からない状況で、オープンレター側は主体的に何かを発信する必要もないし、そもそも発信しようがない。

 もし呉座氏側が、オープンレターは呉座氏の強い処分を要求するものであるという解釈を、日文研側がしていたという証拠を掴んでいるなら、裁判の際にオープンレター側の誰かに頼んで、その解釈は誤りだと証明してもらえばよい。しかし、これまでのようにオープンレターに対する犬笛を吹き続けるなら、それは自身の立場をより悪くすることにしかならないだろう。

いわゆる「ボーイズクラブ」問題に寄せて

  昨年三月頃に明らかとなった呉座勇一氏による誹謗中傷事件の被害者に対して、これまで見るに堪えない激しい二次加害が行われている。その件に関して、考えていることをここでいくつかコメントしておくとともに、ジェンダーや他の差別問題に対してバックラッシュを行い、学問研究の風通しを悪くさせている醜いボーイズクラブ文化が一刻も早く消滅することを願っている。 

 

 被害者に対する二次加害は問題が発覚したときから続いていたが、それがより激しくなったのは、呉座氏の処分が明らかとなり、それが訴訟問題へと発展したときからだ。 

呉座勇一氏によれば、彼は昨年一月に常勤職への昇格の内定を日文研から受け取っていたが、三月の誹謗中傷事件ののち再審査が行われ、内定が取り消しになったという。また呉座氏はかかる事件について一ヶ月の停職処分も受けている。呉座氏は自身の行いや考え方が誤りであったことは認めつつ、この「処分」は不当に重く、また解雇権の濫用であるとして、停職処分の無効およびテニュア准教授の地位確認を求めて、日文研の運営母体である人間文化研究機構を提訴した。 

 呉座氏の停職処分及び内定取り消しが明らかになると、その内容に関して呉座氏への同情の声が集まった。しかし処分に対する批判は何故か、それを下した日文研側ではなく、誹謗中傷の被害者や誹謗中傷を批判した者たちへの攻撃となっていく。最も強く攻撃されているのは北村紗衣氏であり、また同氏も呼びかけ人の一人として名を連ねているオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」である。 

 

 ここでいくつかコメントをしておきたい。呉座氏がどのような根拠でかかる処分および内定取り消しになったのか、日文研側は何も明らかにしていない。経緯についての資料は、今のところは一方の当事者である呉座氏の主観的かつ概要的な発信があるにすぎない。この時点で、処分の正当性や不当性を論評することはそもそも出来ないはずなのだ。呉座氏に対する処分が、若手研究者の労働問題に接続される可能性は十分にありうるが、事実が何一つ明らかになっていない以上、まだ「ありうる」という段階でしかない。日文研は公の機関であり、またこの件が他の若手研究者に影響を及ぼす可能性もあることから、日文研側はかかる経緯についてきちんと説明せよ、と要求するならわかるし、私も同意見である。しかし、現時点でそのような声はあまり大きく上がっているようには見えない。確かな事実というものが一切ないにかかわらず、憶測やこの件とは無関係の事例を持ち出すといった乏しい手持ちの武器で、呉座氏のテニュア取り消しについて、オープンな場で雄弁に語る大学関係者や法曹関係者が続出していることに私は戦慄する。そういうところだぞ、と思う。情報が少なくても、いろいろなことを想像して語りたくなるのは人間の常である。しかしなぜそれをオープンな場で語ってしまうのだろうか。せいぜい四、五人の気の知れた仲間内に留めておくことがなぜできないのか。そもそも「語る場」への無自覚さが、呉座氏が四〇〇〇人の前で公然と誹謗中傷を行ってしまった一因なのではないか。なぜそこから何も学んでいないのだろうか。 

 こうした無責任なおしゃべりは、無責任なオープンレターに対する陰謀論となって現れている。呉座氏がかかる「厳しい」処分を受けたのは、オープンレターのせいだというのである。しかしその根拠らしきものは、呉座氏が一時的に、自分の主観的判断とともにブログに載せていた処分理由が記された(?)書類の一部しかなく、しかもそれがどれだけの重みもっていたのかは全く分かっていない。 

 

 そもそもオープンレターの文面には、呉座氏に強い処分を与えよとは書かれていない。呉座氏のTwitterのログから明らかとなったのは、誹謗中傷の事実だけではなく、ミソジニーによって駆動するような誹謗中傷を楽しむ「ボーイズクラブ」が存在するということであった。その界隈には研究者や学術関係者も含まれており、ここで呉座氏が受ける処分が何であれ、本質的な解決にはならないと考えられていた。また、被害者に対する二次加害がはやくも行われていた。オープンレターはかかる状況を変えるために出されたものであることは文面から明らかである。「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を享受してきた者たちの居心地が悪くなればなるほど、相対的に研究環境は改善されるだろう。 

 ところが、このオープンレターは呉座勇一の解職を企図して作成されたものだ、という陰謀論が存在する。それに伴い、オープンレターの署名を日文研に送った、呼びかけ人らが共謀して日文研に圧力をかけたなどという存在しない事実が既成事実となっている。もちろん日文研に対する抗議は個別にはあった。これだけの大きな誹謗中傷事件なのだから当然だろう。逆に日文研側から個別の被害者に対して確認があったケースもあったようだ。しかし、そうした個々の人間の意図を勝手に結びつけて、共謀関係に落とし込んでしまうことこそが陰謀論陰謀論たる所以なのである。 

 

 現在既成事実化しつつある、最も醜悪ともいうべき陰謀論は、「北村紗衣が呉座氏と和解したにもかかわず呉座氏をより強く罰するためにオープンレターを企画した」というものである。驚くべきことに、この説は全てが妄想と事実誤認で構成されているのだ*1。北村氏が呉座氏と和解したのは七月のことであり、オープンレターが発表されたときはまだ和解は成立していない。三月に呉座氏の謝罪があったのだから和解したのだろうと考えることこそ浅はかな思い込みなのである。もちろん「和解違反」という言葉を安易に使うこともできない。和解の内容は全く明らかになっていないし、明らかにすべき性質のものではない。もっとも常識的に考えれば、和解して以後に加害者が和解を反故にするような行動にでた場合は和解違反といえるだろうが。 

 オープンレター北村陰謀論のそれ以外の部分、つまり北村氏が呉座氏を強く罰する云々については全てが何ら根拠のない妄想の産物である。恐ろしいのは、このような妄想を少なからぬ研究者や法曹関係者が無責任にも前提にしているということなのである。 

  このような陰謀論を信じる者は、そもそも呉座氏による誹謗中傷自体を認めない傾向にある。誹謗中傷していないにもかかわらず厳しい処分が下されたということは、何らかの闇の勢力の圧力によるものに違いない、ということだろう。しかし呉座氏の誹謗中傷については本人も認めており、争われるべき事柄ではない。性差別以外の差別発言についても、呉座氏のTwitterアーカイブが残っているため、嶋理人氏が行なっているように、客観的に検証可能なのである。

researchmap.jp

アーカイブについては、日文研側も当然確認しているだろう。ところがボーイズクラブは感覚が麻痺しているので、差別や誹謗中傷をそれと認識できない。従って呉座氏に落ち度はなかったと主張することになる。問題なのは、過去ログを自分の目で確かめずに、そうしたボーイズクラブの意見だけを読んで、呉座氏は可哀想だと主張したがる野次馬が絶えないことである。当然ながら、そこには研究者も法曹関係者もいる。かれらがハラスメント事件の取り扱いについて自分の職場でも適切に扱えているのか不安で仕方がない。もちろん誰でも読める書かれた文章や、どちらか一方の主観が挟まらない公開の事実について、論評する自由はある。しかし、不確かな情報をもとに、あるいはそもそも一切の事実関係が分からぬ状況で、根拠のない論評をパブロフの犬のように公開のSNSでベラベラ喋るというのは、どこか感覚がおかしくなっているのではないか。 

 

 私はオープンレターが出たからといって、「日本のアカデミア、言論業界、メディア業界に根強く残る男性中心主義」が直ちに消滅するとは全く思ってはいない。しかしそうした男性中心主義からのバックラッシュ、二次加害を増幅させてしまっているのが、研究者や法曹関係者の無責任なSNSしぐさだと思っている。呉座氏の裁判は続いており、その過程で様々な事実が明らかになることだろう。なぜそれまで待てないのか。双方の主張が出揃ったあとで、仮にオープンレターが何らかの役割を果たしていたと判明したなら、そこで初めてあれこれ論評すればよいではないか。何を急ぐ必要があるのか。自分で妄想して、あるいは誰かの妄想を鵜呑みにして陰謀論を構築し二次加害に加担している暇があったら、自分自身の内なるボーイズクラブへの内省でもしていたほうが、多少なりともこれからの学問環境への貢献になるだろう。それもできない研究者や法曹関係者は、SNSをやめてしまえばよい。

*1:たとえばこの記事https://agora-web.jp/archives/2054771.htmlの末尾にある「北村紗衣氏が、呉座雄(ママ)一氏のツイッターの鍵アカウント(一部の人しか見られないアカウント)で批判されたことで、訴訟を起こすと呉座さんに通告しました。しかし、名誉毀損に該当しないので、弁護士を入れて和解していました。その後、北村氏自身が発起人になって、呉座氏を学界から追放しろという「オープンレター」を出していました。これは和解違反であり、法律的にも非常に大きな問題を含んでいます。」という一節は、これ自体が事実誤認と妄想に基づいており「法律的にも非常に大きな問題を含んでい」るといえよう。

書評:綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社、二〇一九年)

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

 

 この本の結論、すなわち、我々は「経済と差別というふたつの領域で平等を求める」「ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある」と宣言すべきだという結論*1には異論はない。

 だが、私が思うのは、この本の内容に代表されるように、なぜ人は、差別の問題とその解消をひたすら訴えかけるような現在の反差別運動にひとつの行き詰まりを感じてしまうのか、ということである。小説でもテレビドラマでもよい。10年前、20年前、30年前のコンテンツを見てみるがいい。いかに現在の視点からは耐え難い差別表現が随所にみられることか。そしてそれらは現在、いかに解消されてきたことか。現在のバックラッシュが激しいとはいえ、昔からバックラッシュはあったのであって、今日がこれまで続いてきた反差別運動の最終地点だと主張する根拠はないだろう。

 とはいえ、現在の反差別運動がとりあえずぶち当たっている問題について、多少図式的ながら整理をして検討を加えてみるという作業自体に意味がないとは言わない。しかし、この本においては、その図式がまずい。綿野が反差別の問題を分析する上で根幹に置いている二項対立は、シティズンシップとアイデンティティの区別である。そしてそれは、公法学カール・シュミットが論じた自由主義と民主主義の区別に対応しているという*2。しかし、この構想は思想史的には大いに疑わしいものがある。

 綿野のタネ本となっているのは、樋口陽一が訳した岩波文庫版の『現代議会主義の精神史的状況』(2015年)である。この本には付録として同じくシュミットの論文「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が収録されている。

 『現代議会主義の精神史的状況』が書かれたのは1923年であり、「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」が書かれたのは1926年であるが、前者と後者の間の3年間に新たに付け加わった重要な概念こそが、いわゆる「政治的なもの」である。かの『政治的なものの概念』の初版が発表されたのは1927年だった。そして、シュミットの決定的な自由主義批判は、この「政治的なもの」の概念を生み出した思考と結びついている。つまり、自由主義では本質的に「政治的なもの」は生じえないということだ。それが生じうるのは、民主主義に基づくときなのだ。幾度となく引用されている自由主義の平等が「空虚な」な平等であるという一節は*3自由主義では政治的な意味で平等な集団をつくりえないという意味であって、反差別運動のロジックとして自由主義を用いることはできないという意味と解釈するのは、誤読とはいわないがかなり無理があるだろう。

 ここで問題なのは、20年代のシュミットにとっての「政治的なもの」は、(国民)国家のほかには何もなかったということである。国家以外の集団が「政治的」な集団になりうるという発想は、1932年の第二版から登場する。しかしそのような政治的な「強度」を持つ集団が国家内に現れたとたん、その国家はもはや単一体ではありえなくなる。したがって、国内マイノリティを民主主義=政治的なもの=アイデンティティの集団とみなすのは、少なくともシュミットの視点からは問題となる。シュミットの図式において解釈するならば、国内のさまざまな利益集団は、国家=公に対する私的な集団でしかありえない。

 しかし、この本ではシュミット的な公と私の区別を欠いている(カール・シュミット公法学者であることを無視しているといえる)。たとえば綿野は政治学者であるマーク・リラの主張を、アイデンティティに対してシティズンシップを要求する運動だと考えている。そしてそのような処方箋は、シティズンシップでは同質性が確保できない以上、不可能な試みだと考えている*4

 だが、シュミット的に考えれば、「市民」概念に国家統合の求心力を持たせ、公共領域の再生をはかるリラの運動は、そもそも民主主義的国民の創造とみなすのが妥当ではないか。シュミット理解の不十分さとcitizenとnationの辞書的意味に引っ張られ、分析に失敗しているのではないだろうか。

 シュミットにこだわらずとも、シティズンシップとアイデンティティという綿野の図式に適合するような、自由主義と民主主義の対立を説く政治学者は、探せばほかにもいそうなものである。しかしよりによってシュミットを選んでしまったためか、この二項対立は思想的な緻密性を欠いたものになっている。二項対立である時点で確かにある程度の乱雑さに目をつぶらざるをえないのだが、この本の論じ方は許容不可能なほどに乱雑なのである。

 たとえば、綿野は第二章で『帝国の慰安婦』騒動を取り上げている。2019年に出版された本で、一貫して日本軍「慰安婦」問題ではなく、「従軍慰安婦」問題と書かれている時点で、この問題に対する著者の知見のレベルは理解できてしまうのだが*5、まあそれは置いておこう。問題なのは、綿野が「従軍慰安婦」も兵士も動員された被害者という視点によって、朴裕河民族主義の対立を超えたシティズンシップの立場に立った和解を考えているのに対して、批判者はこの両者の絶対的敵対性というアイデンティティの立場に立っていたので、両者の相互理解に失敗した、といっていることである。

 だが、朴裕河を批判している者たちが一貫して主張していることは、日本軍「慰安婦」問題を戦時性暴力の問題ととらえたうえで、日本政府は法的な責任を取らなければいけない、ということなのである。ここのどこに民族対立が入り込む余地があるだろうか。「平和の少女像」の作者が「ベトナムピエタ」を製作したのに対して、日本政府は右翼とタッグを組み、戦時性暴力被害の象徴としての「平和の少女像」を世界各地から撤去させようとしている。そうした動きを批判してきたのも、『帝国の慰安婦』批判者たちである。

 日本軍「慰安婦」問題を、民族の対立だと解釈したがっているのは、朴裕河および彼女と密接につながっている「アジア女性基金」のグループのほうであろう。かれらは法的責任よりも道義的責任のほうが重いなる奇妙なロジックで、日本の国家としての責任を回避しようとしているのだ。そもそも、実証的にもほぼほぼインチキである、兵士と「慰安婦」の連帯なるDV夫もつらかったのよという昭和歌謡的な世界に、自由主義=個人の尊厳=シティズンシップ的な関係を求めることに無理があるのではないだろうか。綿野は自らが設定した二項対立に自縛され、そのため事実認識をゆがめてしまっているのではないだろうか。差別を差別として認識することは難しいと綿野も述べているが、まさにこの朴裕河を相対化したこの節こそが、著者が身をもって実践した、差別を差別として認識することは難しいという実例であろう。

 さらに、綿野は、しばき隊のようなカウンター反差別運動はシティズンシップの立場にたったためアイデンティティ・ポリティクスの立場から批判されたとまとめている*6。実際は、かれらが在特会よりはマシな右翼と組んだため、運動における場の安心が損なわれるという、綿野の理解ではシティズンシップの立場から批判されたのである。当事者の一人として言わせてもらえば、明らかな取材不足だろう。やはり全体的に、片方がアイデンティティなら、もう片方はシティズンシップ、その逆もしかりという思い込みがあるので、その図式に当てはまるようにすべてを解釈してしまっているのではないだろうか。

 また、綿野が指摘していないトピックとしては、いわゆる「表現の自由戦士」問題がある。「表現の自由」というキーワードは、法学的な通説への知識を欠いたうえで、主にオタクの中で広がっており、国会議員まで当選させている。「表現の自由戦士」が主張するのは、ある種のラディカルな自由主義である。彼らのロジックにおいては、個人の私的自由だけが問題であり、アイデンティティは単なる趣味の問題にすぎなくなる。在日コリアンペドファイルは、個人のアイデンティティという点において「平等」なのである。公的な価値については、「正義」の押し付けだとして、徹底的に拒否する。つまり、綿野がいうところの「空虚な平等」の論理を前面的に振りかざして、彼らは差別を擁護するのだ。「表現の自由戦士」については、少なくともロジックにおいては、アイデンティティの論理の簒奪によるバックラッシュという綿野の図式は崩れるのである。

 最後に、この本でもうひとつ重要な論点である天皇制の問題について触れる。いかにリベラルな天皇であろうと、天皇制そのものが差別であるという指摘についてはその通りだと思う。しかし、自由主義と民主主義の調停者としてのリベラルな天皇という分析については、少なくともその議論はシュミットに全く関係がないので、名前を出さないほうがよいと思う。シュミットは君主主義者ではないし、自由主義によって分解しようとしていた国家の維持を国民によって選ばれたという権威に基づくライヒ大統領の調停に求めたとしても、それは例外状態において決断する権能をライヒ大統領が持っているからである。現在の天皇制を血統ではなく国民の喝采によって正統づけられるカリスマ支配だと解釈するとしても、シュミットの想定と綿野の想定にはかなり距離があるといえるだろう。

 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』のカール・シュミット理解が不十分であること、またそれには目をつぶっても、この書物の根幹をなすシティズンシップとアイデンティティの二項対立自体が実情においても矛盾をきたしていることについて論評してきた。全体を通して読んだ印象では、この本の著者は、反差別運動それ自体にはたいして興味がないのではないかと感じた。しかし、英米系の学者の引用で固めているところに無理にシュミットなど用いても、軽さしか伝わらないので、もう少し言説分析を丁寧にやったほうがよかったのではないかと思う。

 

カール・シュミット著作集 (1)

カール・シュミット著作集 (1)

 

 

*1:三一四頁

*2:一八頁

*3:岩波文庫版では一四五頁

*4:六三頁

*5:PCにうるさい左翼の実践ですよ!綿野さん!

*6:十五頁