さへずり草紙NEO

旧はてなダイアリーを引き継いでいます。

歸つてきた奥様と蔵の中

学校の試験があるので丸二日間、下の居間へも降りず書生部屋に缶詰になつて勉強してゐましたら、ダダダダ、と階段を駆け上る音がして、襖を蹴破る勢いで女中のお八重が飛び込んできました。お八重は床に両手をついて肩でハアハアと荒い息をつきながら塩辛声で叫びはじめました。
「雪夫さん、いい加減奥様をかまつて遣つてくださいな!あれでは奥様が余りにもお可哀さうでご無体でトテモ見ていられやしません!」
 僕は回転椅子で女中のうずくまつてゐる方へ向き直りました。
「一体どうしたんですか騒々しい。どうせまたいつもの病気でせう?」
 女中は奥様からさういゝ含まれてきたのか、新派劇のやうな大仰な演技で膝から半身を立てると、両手を天に差し伸べてイヤイヤをしながら静にいゝました。
「いゝへ、このまゝでは奥様は死んでしまひます。お助けできるのは雪夫さんだけなのです!」
 僕は面倒くささと厭な予感で胸を一杯にしてのろのろと机から離れると、女中に続いて階段を降りてゆきました。
階段室に降りるとお八重は「ほんでは面倒なこってすが奥様ぁよろしゅうお願げ申すだ」とぼそぼそ云つて女中室の方へ去りました。

 奥様はダイニングの分厚い樫の一枚板の卓に肘をついて、いかにも物憂げさうな顔で溜息をつきながらバイロンの詩集を眺めてゐました。ダイニングの敷居をまたいで入つても奥様がお気付きにならない様子なので、僕は
「奥様」
と声を発しました。すると奥様は、あたかもたつた今気がついた、といふ風にビクッと顔を上げて僕を見ると、器用に右の目から涙を一筋ポロ、とこぼしました。
「雪夫さん、わたくし、あの、どうしませう。すつかり雪夫さんに嫌はれてしまひましたわ」
 僕は面倒なあまり溜息をつきながら言ひました。
「僕が学校の試験勉強で二階に籠もることはモウ一週間も前から予告してゐたでせう? まだ二日しか経つてゐないではないですか」
「だつて、だつて、いつも視界にゐる雪夫さんがゐなくなつたら寂しいに決まつてゐるぢやない!」
 奥様は駄々をこねましたので僕は少し怒つてみせました。
「だからつてお八重に芝居を仕込んで派遣することはないでせう!」
「アラ、妾そんなこと知らないわ。キットお八重が妾の気落ちしてゐるのを見て勝手に心配して呉れたんでせう…」
 奥様は、何事もないかのやうに取り繕いながら、嘘をついてゐるのがありありの不審な素振りで手を震はせて詩集を取り落としました。バイロン詩集のカバーがはらりと外れて「変態風俗画鑑」のめくるめく挿図が露はになつたので奥様はあはてゝ本をかき抱いて隠しました。
「わ、妾なんにも言つてないことよ! お八重に芝居なんか出来つこないし期待すらしないことよ」
「いへ、よく頑張つてゐましたよ。あれは案外ギリシャ悲劇の才能があるかもしれません。」
「さうでせう! 妾もお八重の神がかつたやうな演技に才能のかけらを見出したわ。台本は妾が書いたのよ!」
「矢張り奥様でしたか」
「あら……だつて其れは階下に降りてこない雪夫さんが悪いんだワ」
「奥様は僕を見つけたらヅボンを無理やり脱がせて必ず二度や三度は射精させるぢやないですか!」
「射精の四回や五回が何うだといふんです。減るものぢやあるまいし」
「減りますよ。其れで試験が駄目になるのは僕なんですから」
「まあ! 雪夫さんはご自分のことばかり仰る。妾のことなんかどうせどうせ、何うでもいゝんでせう!」
 奥様は涙目でかぶりを振つてボブ刈りのさらさらな黒髪を軽やかに舞わせました。僕は語勢を弱めました。
「そんなことを仰って、今までだつていつたい何ガロンの精液を無駄にしたことか……」


「ガロンですつて!」
 奥様は口早につぶやくと両手を胸の前で結んで、目を輝かせました。
「わたくし、精液をガロンで量る殿方、初めてですわ!雪夫さんとても男らしいこと!」
 奥様はダイニングの敷居際に佇立してゐる僕の足元へ滑り込み、手際よくヅボンを抜き取るとあれよあれよといふ間に下半身を剥き出しにしてしまひ、其の為に予てから用意してあつたらしい絹の手巾とエチルアルコホルでクルクルと消毒しました。さうして下から媚びるやうな顔つきで
「さ、見せて頂戴!」
 と焦れつたいやうな声を出しました。さうする間にも僕は蒸発するエチルアルコホルに熱を奪はれスースーする陰茎を絹の手巾越しに握る奥様の暖かい手の感触で、不覚にも屹立してしまひました。
「お、お、奥様。いけません。いけません。書生とお屋敷の奥様がコンナ関係になつたことが知れたらとと飛んでもないことが」
 奥様は其の言葉を聞くと、獣のやうな情欲を瞳に燃えたゝせました。
「雪夫さんつたら女を興奮させるのがお上手だわ」
「そんな積りで言つたんぢやありません」
「雪夫さんはそんな積りでなくても此処はそんな積りなやうよ?」
 奥様は悪戯つぽい妖艶な顔でいきなり陰茎に喰いつくと、舌を絡めてチュパ、と舐めあげました。僕は思はず本能のはたらきで息を荒くすると、足元の奥様の肩を両手で掴んで床の上に押し倒しました。
「きゃああああ」
 奥様は僕の腕の下で予想外な叫び声を延々とあげながら細い襞のスカートからすらりと伸びた脚をばたつかせて、奥様にのしかゝつた僕を散々に蹴り上げました。奥様の阿蘭陀木靴が陰嚢を思ひきり蹴り上げたので僕は「がっでむ」と叫ぶと子猫のやうに丸くなつて言葉にならない痛苦を味はひました。さうする間に身嗜みを整へた奥様は唸りながらジタバタと床を転げ回る僕に震へる指を指しながら、
「雪夫さん! いつか斯うなるだらうと妾思つてゐましたわ! 雪夫さんの獣のやうな性慾が妾の貞操を蹂躙しやうとするのは時間の問題でしたわ! すこし気を許したらゆ、ゆ、雪夫さんったら其の汚らしい凶悪な、そ、其れであたくしを獣慾の赴くまゝに犯さうと」
 奥様は自分で自分の言葉に怒りを焚き付けられてさらに激昂しました。マジョリカ焼きの皿が何枚も僕を目がけて投げつけられ、床で粉々に割れました。
「えゝさうよ! 雪夫さんは野蛮なけだものだわ!いへ悪魔よ!」
 さう糾弾した奥様はハッと口許を手で隠すと、なにか重大なことに気がついたやうに蒼ざめた顔でジリジリと後ずさりしました。
「サタンだわ。ゆ、雪夫さんはサタンでしたのね。おゝ怖ろしい。わたくし、雪夫さんを見るのがこはい」
 さう放心したやうに呟くと、溶接用の防護面を取り出して頭からスッポリ被つてしまひました。
 僕はこの茶番にいさゝか辟易して、下半身をむき出しにしたまゝノロノロと起き上がりました。僕が動いたので奥様は動転して電気に打たれたように
「ヒッ」
 と声を上げると、大きな樫の一枚板のテーブルの反対側に飛んで逃げました。
「奥様、僕は何んにもしませ」
 奥様が鴨居に飾つてある鹿撃ち銃を下ろしてカチャリと音をさせながら振りかへつたので僕は腰を抜かしさうになりながらあはてゝダイニングから逃げました。耳のすぐ側をピュンピュンと銃弾が走りました。
「ひえええええ」
僕は衣服を小脇に抱へ陰茎を剥き出しにしたまゝ小便の飛沫を撒き散らしながら廊下をこけつまろびつ逃走し、客用の待合室を駆け抜けて座敷を三つばかり越へ、奥の庭に隣接してゐる土蔵に飛び込んで内側から分厚い扉をカッキリと閉じました。さうして扉に背を凭れて心臓の音を耳の中に聴きながらハアハアと肩で息をしました。二十屯爆弾でもビクともしなさうな扉の向ふに奥様の「雪夫さん雪夫さん」と呼ばはる声が近く遠く聞こへましたので僕は肝を冷やして扉を腕でつっかへました。奥様の気配は分厚い扉に遮られて一毛も伝はりませんでしたが、とつぜん外部からカチャリと鍵を下ろす音がしました。僕はビックリして扉を開けやうと力一杯押しましたが、もはや扉は微動だにしませんでした。

一体何日経つたのか、声が嗄れ果てゝ、肋骨が指先の感触でゴツゴツと触れるくらい痩せて喉もかららに干上がつてそろそろお終ひかといふ頃合いに、重くてびくともしなかつた扉がガチャリと音を立てゝ、幾条かの細い光が差しこみました。眩い光のなかで埃が舞つてゐました。
奥様が夜会ドレスでおそるおそる、丸で「まだ生きてゐるかしら?」といふ風に僕を窺ひながらソロソロと近づいてくるのをボンヤリ見詰めながら、僕は朦朧とした頭で「いよいよハライソか」と思ひました。奥様は僕の眼に光を認めると、オペラバックを放りだして駆け寄つて來て、脂粉の香りのする胸に僕の頭を抱へこみ、
「まあゝゝゝ可哀想に! 妾、しばらくパーティー続きでしたでせう? 雪夫さんのことなんかスッカリ忘却してしまつたのよ! 御免なさいね!」
と明るい声で囀りました。朦朧とした頭でなんとか頷く間に奥様は僕の襯衣に冷たい指先を差し込み、肋骨を数へるやうに探ると、言葉もなく僕の頭を抱きしめました。僕は奥様の胸にぐにゅりとめりこみ、息ができませんでした。さうしてバタバタしてゐると、額や頬にポタポタと熱い液体が降りました。
「妾、雪夫さんがコンナになるまで放つてゐたなんて! 不可ませんわね。」
奥様は御免なさい御免なさいと泣いて謝りながら僕の肌を撫でさすつてゐましたが、何の加減かヅボンの下になめらかな手が滑り込み、家具の隙間に落ちた子鼠を拾ふやうに僕の陰茎を暖かい掌で包み込みました。人間は生命の危機を感知すると、残余のヱネルギーを注ぎ込んで種の保存を試みると云ひます。僕の陰茎は幾日かの絶食と運動にも拘らずかつて無い程に怒張をみせました。
奥様の嗚咽が止まり、違ふ種類の鼻息が荒くなつて参りました。
僕は半死半生のまゝ抵抗も空しく藏の中で奥様に荒々しく犯され、魂の抜け去るやうな射精を果たすと遂に気を失つてしまひました。

星子の巴里祭(上)

1
赤と白と青染められた小さな提灯がいくつもいくつも道路の上に翩翻と揺れている巴里は、ちようど巴里祭でした。提灯の群れとはためく仏蘭西国旗は、水分を多めに含んだ濃紺の空にすばらしく良く映えました。
「巴里よ!自由の国だわ!」
星子さんは軽やかな真紅のワンピースの胸をふくらませて両手を目いっぱい広げると、大きく深呼吸しました。僕は馬に載せるほどの大荷物を引きずりながら、安堵の息をつきました。
「僕なんか、お日様を見るのは十日ぶりですよ!」
「それあ雪夫さんが悪いんだわ!ちよつと甘い顔をするとつけあがるからトランクに閉ぢこめなきやいけなくなるんぢやない!」
「とにかくこの開放感つたらたまんないよ」
星子さんは快活に巴里の街を歩きました。地図もなく、行き当たりばつたりの気楽な旅です。一行は、といつても星子さんと僕だけですが、煤けたモンマルトルのあたりに迷ひこみました。星子さんが指差しました。
「アラ!カフヱよっ本物のカフヱよ!」
街の門打ちに店を広げているのは、フランス帰りの画家や作家の随筆でも有名なル•セレクトでした。僕たちは嬉々としてテエブルを避けながら店の中に入つて、窓際に席を取りました。
歪んだガラス越しに巴里の街が濡れたやうに見へます。星子さんはシャンパンをふたつ頼んで、乾杯しました。
ふと奥のコンパートメントを見ると、一人で珈琲を啜つてゐるのはジャン•コクトーでした。僕はあはてゝボイを呼び、シャンパンをもう一つ
コクトーのために注文しました。コクトーは、シャンパンが来ると吃驚したやうに僕たちの方に振り向いてシニカルな笑顔を見せると、
「ありがたう。ちようど五月にお国へ行つてきたところだ。」
と云ひました。さうして僕たちのところへ席を移すと、日本での鮮烈な経験と印象を饒舌に、詩的な表現を混ぜて手ぶりも大きく語るのでした。
「その肌理の細かい白い肌に僕は頬ずりして、小さな節穴に唇を寄せて囁いたんだ、『君は美しい』と。」
星子さんは目を丸くしました。
「マアいやらしい!雪夫さんとどつこいどつこいだわ!いけすかない人。」
「違ひますよ、伊勢神宮の白木の門を愛でてきたのです。」
「!」
コクトーはカフヱの入り口に目をやつて誰か見つけたらしく手を振ると、瀟洒な身なりの男が賑やかにガヤガヤとやつてきました。
「こつちはロバート•キャパとアンリ•カルティエブレッソンといふ男だよ。失業したての写真家だ」
「失業したてのは余計だらう。こつちにゐるのは日本人かい?ジャン」
「あゝ巴里に来たばつかりなんださうだ。シャンパンを奢つてもらつたぜ」
「俺たちもシャンパンを貰つたら此の麗人のポオトレートを撮るんだがなア」
僕と星子さんは一も二もなくシャンパンを取りました。キャパは肩から提げてゐた鞄からカメラを引張りだして星子さんに向けました。
「あゝ、いゝよ。一寸ルルのやうだな、艶気がある」
「まあ!ボイさん、この方に熱々のグラティネを!」
キャパとブレッソンがポーズをとる星子さんにパチパチとカメラのシャッターを切つてゐるのを尻目に、コクトーが続けました。
「紹介がまだゞつた。こつちにゐるのはジャン•ポール•サルトルといふ奴だ。哲学家だつたよな?」
「そんな事はどうでもいゝ。俺が此処にゐるといふのが大事なんだ。」
コクトーは手を星子さんの耳に寄せて内緒さうに云ひました。
「こいつは鬱つぽいんだ。」
サルトルは僕の顔を見ると、同志を得たやうに嬉しさうな顔をしました。
「お前も何かに捕らえられてゐるな!」
「つい先ほどまで大トランクの中に」
「しかし自由といふのは却つて不自由なものだよ、ね、さうだね。」
「えゝまあ。」
星子さんは鬱々としたサルトルを憐れに思つたのか、またボイを呼ぶと
「こちらにもグラティネを頂戴。蟹や蛸をたつぷりと!」
蟹や蛸と聞くとサルトルは顔色をサッと変へ、キャッと叫ぶと頭を抱へて座り込んでしまひました。コクトーがゲラゲラ笑ひながら云ひました。
「アイツは甲殻アレルギーなんだよ」

夕方までシャンパンとトーストで話し込むだあと、星子さんと僕と一行はコクトーたちに誘はれました。
「僕らはこれからフォリーベルジュールへ遊びに行くんだけど、これも縁だ、一緒にどうだい?」
「もちろん喜んで!」
星子さんが胸の前で手を組んで、小躍りしました。
「私知つてるわ!エノケン二村定一が出てるんでせう?巴里でも有名なのね!」
「あれはカヂノ•フォーリーです。」
「似たやうなもんだよ。ジャズがあつて、笑ひがあつて、女の足、エロがあつて。」
コクトーが大柄な躯で僕たちをル•セレクトの出口に押し出しました。

2
フォーリー•ベルジュールは人でごつたがへしてゐました。舞台では既にワンサガールが脚を上げたり下げたり、けたゝましいジャズに合わせてゐます。
さうして巨大なイエローの孔雀の羽根を背負つて登場したのは、有名なジョセフィン•ベーカーでした。彼女はバイバイ•ブラックバードやダイナを奔放に歌ひ踊りました。
星子さんが歓声をあげて舞台のベーカーに手を振つたりおひねりを投げたりしました。さうして傍らで葉巻をくゆらせながら非合法の本物のアブサンを啜つてゐるコクトーに飛びつきました。
「私、歌手なのよ!私も此処で歌ひたいわ!」
コクトーやキャパや、いつの間にか膨れ上がつた取り巻きの仲間たちが、それは面白い!と沸き立ちました。一団は舞台裏にドヤドヤと詰めかけました。
歌ふ ベーカーを横目に見る舞台袖には、おかっぱの藤田嗣治がゐました。フジタは僕たちを見ると不可思議な顔をしましたが、コクトーブレッソンなどと一緒なのを見ると、破顔して迎へ入れました。
「ヤア斯ういふ登場をするといふことは、君らが雪夫さんと星子さんだね。ホラ、いまアメリカのジークフェルト•フォリーズにゐるジョセフィンベイカーがお忍びで此処に来てるんだ、運がいゝねえ」
フジタは超人的な理解力で百年の知己のやうに僕たちの肩と手を握りました。
「君のことは死んだマドレエヌから聞いたよ」
「星子さんに此処で歌はせてほしいんですが」
フジタは流石に眉間に皺を寄せて難しい顔をしましたが、奥向きの支配人室に入つて暫くすると、ニコニコして戻つてきました。
「好きなものを歌ひなさい」
キャアと叫んだ星子さんは飛び上がつてフジタに飛びつき、頬ペタに接吻をしました。
フランス人もジャズが大好きです。フォリー•ベルジュールの数人編成のジャズバンドが、ジャカジャカと沸騰するようなフォックストロットで弾みました。

楽しい日が来た 私の胸に
恋の花が咲いた 歓びが来た
心は踊るよ あなたと逢えば
いつも胸に春が訪れてるよ
夢にまで見る君が面影
楽しい日が来た 私の胸に
恋の花が咲いた 歓びが来た
(ハッピイデイズ "Happy Days")

フジタは星子さんが舞台で何曲か歌ふのを眺めながら
「雪夫君もステージで何かしたまへ」
とけしかけました。
「えッいやあ僕には何んにもできませんよ!」
「昔、浅草の大勝館だか何処かで面白いかなとをやつたぢやないか。僕はあの時は前の奥さんのユキと見て、手を叩いて笑つたんだぜ」
「何をしましたつけ?」
フジタはドテラ姿で手真似を混ぜながら剽軽に云ひました。
「ジャズバンドを伴奏にしてステージで射精したんだよ!」
赤面する僕を囲んでコクトー快哉を叫びました。
「素晴らしい!僕はそれを素描にするよ!」
キャパやサルトルもぜひやれやれと僕の肩をどやしつけ激励しました。顔色を明るくしたサルトルが云ひました。
「まさに生の営みではないか!」
「そんなことしたら星子さんに嫌はれます!」
「一瞬だからいゝぢやないか」
「ダメ!絶対!」
「だつたらおしつこでもいゝぜ」
「おしつこなら…」
「いいのか!?」
厭がる僕を、悪戯な連中が箒の柄で舞台へ押し出しました。
フォリー•ベルジュール満杯の客がさざめきながら星子さんの歌に聴き惚れてゐるところへ新顔が飛び出したので、哄笑が席のあちらこちらから起こりました。
僕は腹を決めて星子さんの背後でゴソゴソと用意すると、噴水のやうなジャズバンドのシンバルに合はせて小水をしました。
それは舞台のライトに照らされてキラキラと輝きながら客席に飛び込んでゆきました。客席は蜂の巣を突ついたやうな騒ぎになりました。
円弧を宙に描いて放たれる黄金水を浴びた前列の客は、アブサンかそれとも何か強烈な麻薬でもやつてゐたのか、舞台の雰囲気に呑まれきつたのか、体いつぱい嬉しさを満開にして小水を浴び、歓声を挙げました。満杯の客が立ち上がつて拍手をしたり、ヒスを飛ばしたり、喝采を寄越したりしました。星子さんは青ざめた顔色で舞台を退けました。
調子に乗つた僕は、ライトに照らし出されてカーブを描く玉が静止しているやうに見へる小水を左右に振り撒きました。騒ぎは一層おおきくなり、僕は引つ掛け棒で舞台袖に引き戻されました。フジタやキャパやサルトルが腹を抱へて馬鹿笑ひをしながら
「狂つてる」
と、僕を指差しながら云ひました。
星子さんは憮然としてそそくさと赤いワンピースから溶接用の防火面を出すと、すつぽり顔に被せてしまひました。
「前から危ない危ないとは思つてゐたけれど、雪夫さんがそんなに危険人物だとは思つてなかつたわ!とても顔なんか直に見られません!」
星子さんはそれから一週間、口を利いてくれませんでした。

星子と南十字星(下)

 カモメの交わす声もかまびすしく、眩い朝日が窓からキャビンに丸い光を突き刺してゐました。
「ちよ、ちよつと!そんなに勢ひよく突き込んで、まさか本当に中に出すつもり?やめて頂戴!アヽッ」
「だつてモウ入れちやつてるんだから止めやうつたつて止まらないよ」
「イヤよ!ダメだわ!すぐ抜いて!」
「だつてもうすぐそこまで出かゝつてます。アッアッ」
「アーーーーー」
 星子さんは眉を寄せて、びくんびくんと躰を痙攣させながら、悲しい顔で全世界の全てを失つてしまつたやうな絶望的な声を出しました。僕は全てのものを注ぎ込んだ満足感で、ふう、とひと息つきました。星子さんがぽかぽかと僕の胸を叩きました。
「ちよつと!どうして呉れるのよう!こんな濃厚な…しかも泡立つくらい!責任とつて頂戴よう」
 泣きわめく星子さんに、僕は鼻白んで云ひながらカプチーノを啜りました。
「知らんね。星子さんが飲みこんだら済む話だ」
「この鬼畜!馬鹿!馬鹿!雪夫さんの正体が見へたわ!私を不幸のどん底に叩きこむ地獄の水先案内人なんでせう?」
「そんなことを言つてゐたらカプチーノが冷めますよ。だいたい、泡立てたクリームミルクをエスプレッソに注いでカプチーノにしろと言つたのは星子さんぢやないですか!」
「えゝゝゝゝ口惜しいつ。台詞で状況を説明するなんて素人のすることよ!」

 ノルマンディ号の朝は、いつも大騒ぎのうちに始まります。
「よくそれで同じ方向を見て歩んでゆきたいとか偉さうに云へたものね!」
 ぷんぷん怒る星子さんのしなやかな手を取ると僕は無言で薄い桃色のネグリヂェの彼女を、レディの着替へを見たがるなんて助平よ、人権蹂躙だわこの変態と喚くのも構はずアラヨ、アラヨ、と追い立てるやうに着替へさせ、無理矢理引つ張つて一等船室の扉を排してずんずん廊下を歩いてゆきました。
「ちよ、ちよ、何処へ連れて行くのよ!?私は貴方の所有物でもなんでもないんですからね!」
 僕は一等船室のある最上階から三階分階段をタタタタヽヽヽヽヽと星子さんを引きずりながら降りて、デッキの見張りの海員にチップを握らすと、ノルマンディ号の錨鎖が長々と延べてある舳先にまで星子さんを連れてゆきました。さうして、すらつとしなやかな星子さんのブルーグレーのジョーゼットドレスの身だしなみを整へると、手をつなぎました。さうして、彼女の瞳の奥まで通るほど星子さんを凝視めました。
「同じ方向を見やうぢやないか?」
 僕は星子さんを押し歩かせて、ノルマンディ号の舳先のいちばん先つちよに立たせました。さうして、其の背後から彼女を支へて、腕を水平に伸ばさせました。快速で海原をヨットのやうに走るノルマンディ号の潮風を正面から受けた星子さんは、袖や裾を風ではたはたとはためかせました。
「素敵だわ!私、斯ういふの、何故か知つてる!見たことがあるやうな気がするわ!」
「なんのことでせう?細かい事はいゝから今は楽しみませう」
 ノルマンディ号の舳先には結構な勢いの潮風が渡り、舳先のフランス・ラインの小旗がちぎれさうなほどはためいてゐます。水平線の彼方は黒く果てしなく続き、どこまでも深く高い蒼穹につながつてゐます。さうして水平線の向こうからはモクモクとアイスクリイムのやうな群雲が山と聳へてゐるのでした。
「素敵!凄いわ!凄いわ!私たち、希望を目の当たりにしながら進んでゐるのね!」
 船内のサロンからはバンドのテナーサックスが吹く「朝日の如く爽やかに」のソロが微かに聴こへてきます。まだ朝つぱらで潮風が冷たいうへ、風に乗つて滑空してきたカモメがこつん、と額にぶつかつたりなどして、僕はたちまち野外にゐるのが堪らなくなりました。
「モウそろそろ戻りませんか?」
「あら、つい今しがた来たばかりぢやない。船の舳先を楽しむんぢやないの?」
「ほさきをたのしむですつて?」
「モウッ。雪夫さんはすぐ混ぜつかへす」
 星子さんはブルーグレーの布をなびかせながら腕を組んで膨れつ面をしました。その胸元にはピンク色のチェーンに錨のヘッドがついた、マリン調のネックレスがキラキラと朝日に輝いてゐます。
「オーいゝよー。其の儘、其の儘。もつとアクション附けて」
 背後からイキナリ声がしたので吃驚して振り向くと、白人がディレクターチェアに腰掛けて、最新鋭のパルヴォ・カメラのクランクをゆつくりと滑らかに廻してゐました。
「ちよ、ちよつと、貴方は誰何ですか!断はりもなく撮つて失礼ぢやないですか」
 僕が喰つかゝると、男はチェアから立ち上がつて、つと歩み寄ると名刺を差し出してきました。
「デイヴィッド・セルズニックですつて?」
「だあれ?せんずりつて云つた?やだ!私せんずりなんて言つちやつた。」
  星子さんがのんきに首を伸ばしました。
「映画プロデューサーのセルズニックだよ。あの、キングコングを作つた人!」
「まあ!私この間キングコングと共演したわ」
「アレはパロディぢやないですか。本物のキングコングを作つた人だよ」
「まああ。ぢやあキング・コングつてやつぱり本当に居るのね」
「どうも話がやゝこしくなるなア」
 セルズニックは不可思議さうに僕たちのやりとりを聞いてゐましたが、いゝことを思ひついたといふやうに頭上に電球をぴかぴか光らせながら口を出しました。
「君たち、此処で嵌め撮りを撮らせてくれないかい?」
「其んなもの撮つて何うするンですか」
「上映するのさ」
「独りで観て楽しもうとでもいふのでせう?」
「全世界の配給網に乗せるに決まつてゐるぢやないか。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーがいゝだらうか」
「頭が可笑しいんぢやないですか?僕はこのレディと付き合つてすらゐないんですよ」
「それは素敵だ。舳先のシーンから2時間以内にハメドリして最後に船が沈む悲劇に仕立てたらロマンティックぢやないか!」
タイタニック号ぢやあるまいし」
 星子さんが何を言はれたの?と訊いたので僕は星子さんの耳に手を当てゝ、何ういふ種類の映像を撮影したいのかをこと細かに説明しました。さうすると星子さんはマア!と開いた顔で発作的に僕の頬ぺたをピシャリと平手で叩きました。
「雪夫さんたら最低だわ!」
「と、撮りたいと云つてるのは僕ぢやなくてセルズニックさん…」
「そんな節操のない、陳腐でくだらない映画、当たる訳がないぢやない!」
 星子さんは図体のでかいセルズニックに向かふとけんけん捲くしたてました。
「私、雪夫さんなンか男としてすら見てないわ!下僕よッ私の言ふことなら何んでも聞く寺男みたいなものよ。この人は精神的に去勢されたとんでもない変態男よ。私のラヴの対象だなんて、ちやんちやら可笑しい。笑つちまうわ!第一私にだつて恋人て云ふものが…」
「私には雪夫君が其処まで非道く言はれるやうな木偶の坊には思へないのだがねえ」
「いゝへ!この虫けらつたら、虫けらの癖に私に色目使つてベタベタくつついてくるから気色が悪いつたら。はなつから眼中になんか無いのに!アウトオヴガンチューよ!」
 僕は星子さんに舌鋒鋭く言はれて身を竦めてゐましたが、その過酷な言葉を聞いてゐるうちに身体の奥から快感にも似た熱いものが湧き出して、頭がクラクラしてきました。
「雪夫君は其処まで貶しつけられて何ふも思はないのかね?」
 ゐたゝまれない様子でおたおたしたセルズニックに問いかけられて、僕はハッと我に帰りました。
「僕は星子さんの幸せだけが生き甲斐なんですよ。星子さんが飛び込めつて言ふならこの舳先から海に飛び込んだつて構はない。」
「其れは愛してゐるといふことではないのかい?」
「愛してゐますよ。星子さんは僕を何とも思つちやゐないですけどね」
「ぢやあ今スグ此処から海に飛び込んで頂戴。私、雪夫さんがどうなつたつてけらけら笑つてゐられることよ」
 僕はこの世の名残に星子さんの瞳に眸を当てると、さらばとひと言、手すりを軽々と飛び越へやうとしました。ところが、後ろから脚を捉へられて、僕はすつてんころりんと後ろざまに転げてしまひました。空がグルグル廻つてゐるのを不思議な思ひでボーと見つめてゐると、星子さんは泣きながらポカポカ僕を叩きました。
「此の世の事なんて何もかも茶番だわ。飛び込むなんて、もつと楽しまなきや損よ」
 僕は起き上がると星子さんを固く抱きすくめ、彼女の独活のやうにしなやかな躰が斜めにのけぞるのも構はず、深い口づけを無理矢理に奪ひました。陶然としたキスに身体は溶け合ひ、ひとつになるやうな感覚を覚へました。セルズニックがワオと小さく呟いてカメラのクランクを興奮気味に廻し始めました。
「アラ。撮つちやダメよ。」
 星子さんはセルズニックのカメラのレンズを手で塞いでしまひました。さうしてこつそり囁きました。
「この船の船倉には自動車が積んであるのよ。乗りにいかないこと?」


  一等船室のキャビンに蒼い月明かりが斜めに差し込んでゐました。甲板では航路の半分まで来たといふので、花火をボンボンと揚げてお祭りをしてゐます。その赤や青のきらめきがキャビンの丸窓を上から下に時おり横切つて降りました。
「あらあ、何んの騒ぎかしら」
 星子さんがまどろみながら生白い、魚の腹のやうな腕で目をこすりました。
「あれはフランスまで半分の処に辿り着いたといふお祝ひの祭ですよ」
 僕は手足を後ろで一つに束ねて縛られたまゝ床に転がつて答へました。
「そんなことよりそろそろ解いて呉れませんか?これぢやあ…」
「ダメよ、駄目駄目。雪夫さんは悪戯が過ぎるからさうしておかないと、私、自分てものが保てなくなるわ。さつきだつて危うく車から転げ落ちるところだつた!」
 星子さんはムクリと起き上がると、嗜虐的な感情がムラムラ沸いてきたのかキャビンの隅に乗り捨てゝあつたデッキゴルフ用のカートに乗つてブルンブルンとヱンヂンをかけました。彼女は舌なめずりしながら言ひ放ちました。
「サア狩りの始まりよ!逃げなきやあ此の車で轢かれつちまうわ!」
 僕は仰天して、水たまりに落ちた芋虫のやうに身を前後左右によじつて少しでも遠くへ逃げやうと試みました。しかし、頭を振る力が腰へ、反つた背中が足に作用して、いくらモガモガ藻掻いても元の場所から一尺と離れませんでした。「ホホホヽヽヽヽ」とから笑ふ星子さんのカートはキュルキュルと迫つて僕を轢くと、其の儘ドアを排して外へ出ていつて仕舞ひました。デッキにカートを置き去りにしたらしい星子さんが直ぐに戻つてきました。
「雪夫さんたら、逃げないから轢かれつちまつたぢやないの。詰まんないわ」
 僕はヒクヒクしたまゝ
「これぢやあ動けないンだもの。何ふして僕を轢きたいんですか?」
 と云ふのが精一杯でした。星子さんは深刻に腕を組んで悩むと、顔を挙げて空ろな声で呟きました。
「だつて雪夫さんを虐めると楽しいんですもの。」
 僕はギョッとして身を固くしました。
「また轢くンですか!?」
 「いゝへ今夜はモウいゝわ。そんなことより精神的にじわじわ苛める方が余程いゝのよ」
 さうして、グイと星子さんの眸が僕の顔に迫りました。
「雪夫さんを滅茶苦茶にして上げる!」
 得体のしれない快感が脊髄を走り、僕はゾクゾクしてしまひました。昂奮した星子さんは僕を後ろ手に縛り上げたまゝキャベツの皮でも剥くやうに僕の着てゐるシャツもセーラヅボンも鋏のちからを借りて八つ裂きにしてゆきました。さうしてさめざめと泣きながら
「ウソよ!私だつて本当は雪夫さんが好きで好きでタマラナイのよ!でも迷ひがあつたら雪夫さんを惑はす言葉なんて吐けないぢやないこと?だから故意と素つ気ない振りをしてるのよ!其のくらいお察しなさい!」
 と叫びました。星子さんは僕を丸裸にしてしまふと、鋏を開いて屹立した陰茎の根本に咬ませ、凄みのあるデーモニッシュな引きつり笑ひを浮かべました。さうして、子供が買つて欲しいものをねだるやうな上目遣いで甘つたれた声を出しました。
「ねヱ、ちよつとだけ…ホンの一寸でいゝから切らせて頂戴」
「だだゞゞゞ駄目ですよ!第一痛いぢやないですか!」
「大丈夫よ。ねえ、本当にホンの少し、二ミリ位でいヽんだから!」
「大丈夫な訳ないぢやないですか」
「一瞬で済むわ」
「やつぱりちよん切る積りでせう!」
「一寸だけ切つてみたら何うなるか興味があるだけよ」
「ウソでせう」
「本当よ!」
「さうやつて猟奇的な快楽に浸りたいだけでせう?」
「アラ雪夫さんもさういふ趣味なのね、ぢやあ話が早いわ」
「ぼ、僕は違ひます!たたた助けて!」
「面倒ね」
 星子さんは乱暴に僕にのしかゝると情欲の油を瞳にぎらぎらと流し、白魚のやうな指を僕の頸にからめて締め上げながら心地よさげに睫毛を合はせました。
「あゝいゝわ!うつとりしちまふ」
「ググググググ」
 首を絞められて息がつまる苦しさに僕の視界がぼやけました。両手を伸ばして苦しさうな憐れみの色を目に浮かべた星子さんの顔も二重三重にボヤけてきました。そのしなやかな肩から腕につながる線がいやにクッキリと鮮やかに目に入りました。さうしてひときは強く締めあげると、星子さんはブルブルッと身を震ひ、髪を散らすと天井を仰いで朗々と声をあげました。
「あゝ…イッちまつたわ!雪夫さん死んじまったかしら?モウ目を開けていゝことよ」
 首を締められてゐる最中、僕は異様な昂奮に包まれてツイ射精して仕舞ひました。さうしてぐつたりと気を失つてしまひました。意識が遠のくとき
「男の人が失神しながらとくとくザアメン流すのを見るのと余計昂奮するわ」
 と星子さんが陶然として言ふのを聞きました。
 目覚めると星子さんはキャビンの籐椅子でマティーニのグラスを傾けながら、暗い丸窓から満天の星を眺めてゐました。僕はまだ心臓がどきどきしてゐましたが、生きてゐる証に大あくびを一つしました。星子さんは薄物のしどけない姿でグラスを掲げたまゝ物憂げに振り向きました。彼女はグラスを手に立ち上がつて縛られたまゝの僕に屈みこむと、
「生きてゐたのね。これは御褒美よ」
 と優しく囁きながらグラスを乾し、マティーニを僕の口の中に流し込みながら口づけをしました。それから後ろ手の緊縛を解いて呉れました。
 僕は虎のやうに猛然と躯を翻して綿のやうに柔らかい星子さんを抱き伏せました。波濤のざわつきが心臓の鼓動のやうに響いて、夜の刻は永遠に続くかに思はれました。

星子と南十字星(上)

 星子さんと僕はふたゝび船の人となつてゐました。アメリカから出航したノルマンディ号は轟々とたゞ一筋に欧州を目指してゐます。ノルマンディ号はツイ去年の一九三五年、フランス・ラインに就航したばかりの最新鋭豪華客船で、其の流線型のフォルムは如何にも速さうでした。舳先が波を蹴散らしながら疾走するさまは、流石キュナード・ラインのクヰーンメリー号と大西洋横断の最高速記録を競ふほどの勢ひに満ち満ちてゐます。
 水平線の彼方が茫漠とけぶる風景を僕は長い籐椅子に寝そべつてボーと眺めてゐました。水兵服を来たやうなカモメが何羽も頻繁に頬をかすめて、海員がバケツから放る小魚の掠奪を試みてゐます。白い翼がバサバサとまどろみを邪魔するのに辟易して防戦してゐると、ザブーンと派手な音がして、塩つぱい飛沫に見舞はれました。
 船の甲板に大きく場所を取つてゐるプールから海豹のやうに首を出してプカプカ浮いてゐる星子さんが楽しさうに大きく手を振つてゐました。
「雪夫さアヽヽん、あんたも泳いだらどう?気持ちいゝワ」
「あンなに気持ちよがつてゐたのにまだ気持よくなりたいのかい?」
「なんですつてー?」
 僕は乳首や海水パンツを執拗に突つくカモメを蹴飛ばすと、プールの端つこに腰をおろして揺れる波をチャプチャプと脚で弄びました。さうしてオレンヂのセパレーツ水着で身をくねらせて泳ぐ星子さんを興味ぷかく観察してゐました。
「其処まで来たんなら泳ぎなさいよ!」
「そんなに気持ちいゝのかい?僕は海のない処で生まれたからヨク分かんないんだ」
「泳いだら分かることよ」
 誘はれるまゝにプールのへりから波間に身を躍らせると、思ひのほか感触の柔はらかい海水と波間の泡が僕を包み込みました。星子さんにミニ戦車で轢かれた肩口がまだ痛いので平泳ぎにも苦心してゐると、星子さんが腰に手を突ゐて頬を膨らませました。
「雪夫さんはさうやつていつまでも私のせいにするのね!えゝ気持ちいゝでせうよ?」
 僕は水中で脚を攣りかけて波間に立ちました。
「違ひますよ。泳ごうつたつてなかなか体が元通りにならないんだから仕方ないぢやないですか」
 星子さんは哀れなものを見詰めるやうな同情の視線を僕に注ぎました。
「プールで泳げないなんてそれあ雪夫さんは可哀想よ、ノルマンディ号のプールなのに!」
 すると何の挨拶もなく滑らかな肌の黒いものがシュッと立ち昇つてきれいな円弧を描くと、盛大な飛沫をあげてプールに潜りました。星子さんは驚きと歓喜で瞳をキラキラさせて濡れた髪をかきあげました。
「マアヽッイルカだわ!」
 それは実際イルカの子供でした。海で群れて飛んだり潜つたりしてゐる連中より小ぶりで、青い水面の下を滑るやうに泳ぎまわつてゐます。プールに複雑な路線図でも描くやうに水中を駈け巡るイルカは、時々、僕の脚の間をすり抜けたり星子さんの脇腹を撫でたりして目にも止まらない速さで移動してゐました。 星子さんがニコニコ破顔しました。
「とつても面白いわ。地下鉄のやうね!可愛いイルカ。撫でたいわ、ネエ雪夫さんどうにかしてよ」
 僕はヨシきたと小ぶりなイルカを掴まへやうとプールに仁王立ちになつて、両手でイルカの通過を待ち構へましたが、ゴム引きの玩具のやうに濡れたイルカはいくら強く手をかけても易易と滑り抜けて行つてしまひます。
「駄目よ駄目よ、全身でアタックしないと!恋だつてさうでせう?」
「そんな無茶な」
 僕はエイヤと水着をかなぐり捨てゝ、イルカが突進してくるのを腰を据へて待ち構へました。
「なにも裸になれとは言つてないわ」
 星子さんはさう言ひながらも僕の傷だらけの躰を興味深さうにチラチラしげしげと凝視してゐました。しばらくすると案の定、イルカがスイスイと僕の股ぐらを潜らうと近づいてきました。しかしイルカは毎度のやうにスッとは泳ぎ去らず、僕の腰回りを遊弋すると、イキナリ陰茎をパクリと歯のない口で咥へこみました。僕は忽ち勃起してしまひました。
「ひえゝゝゝゝ」
 イルカは母イルカの乳でも飲むやうに巧みに唇と舌を使つたので、僕はまつたく不本意にも射精してしまひました。ガクガクと足腰を痙攣させながらイルカの口遣ひにイかされるまゝ立て続けに三回射精した僕は呆けた頭で波間に身を任せ、だらしなく漂ひました。さうしてたゞ眩い太陽をボーと見続けてゐたら、星子さんの「きやあアアヽヽヽヽ」といふ叫び声が鼓膜をつんざきました。
 僕は仰天のあまり其処が水上だといふのも忘れて振り向かうとして水中にのめり込み、危うく溺れさうになつた挙句やうやく水に立つて、小手をかざしました。
「ちよつとオオヽヽヽ此のエロイルカを何んとかして頂戴!」
 見れば先ほどの小憎らしいイルカが星子さんを下からチョコチョコと突つ突き上げて悪戯をしてゐます。星子さんは最初は抗つてゐましたが、いつの間にかトロンとした目になつて、眸に欲情の油が浮いてゐました。それを知つてか知らずか、イルカは長い鼻先で思ひ切りよく星子さんを掬ひあげると、其のまゝ彼女を背中に放り投げて、水面に叩きつけられた星子さんに乗りかゝりました。星子さんは我に帰りました。
「キャアアアアヽヽヽヽヽ」
「こりやあ本当にまづい」
 僕はあはてゝ超特急のクロールで泳ぎつけると、だらしなく長い陰茎を露出させていま正に落花狼藉に及ぼうとしてゐるイルカをポカポカ殴りつけ、蹴りあげました。猥褻な児イルカは濡れ雑巾のやうに宙を吹つ飛んでデッキサイドを滑り走ると、手すりでもんどり打つて海に落ちてゆきました。星子さんは両手を目に当てゝエーンエーンと泣いてゐました。
「私、あんな獣に犯されたわ!」
「え…アノ、あの……僕は、僕がなんとでも全て受け容れ」
「犯されたのは心よ!あんな可愛いイルカが!私を襲うと思つて?信じられないわつ」
「星子さんがそれだけ可愛いからですよ。魅力的だから誰だつて襲いたくもなりますよ。あのイルカが僕でも…」
 星子さんはギョッとして身を固くしました。
「マアアッ!矢張りさうじやないかさうじやないかとは思つてゐたけれど、雪夫さんもソンナ獣なのね!油断がならないわ!」
「ち、違ひますよ!ぼぼぼ僕は星子さんを慰め褒め褒め褒め」
「いゝへ、雪夫さんは私の躰だけが目当てなのよ。所詮はアノ種付け獣と変はらないのよ。綺麗事は云はないで頂戴!」
 さう言ひ放つと星子さんはオレンヂ色のセパレート水着の何処に隠してゐたのか、溶接に使ふ防火面を後ろから引つ張りだすと、かはいゝ顔にスッポリと被せてしまひました。
「モウ雪夫さんとは金輪際お友達付き合ひも無理ね。とても面と向かつてお話なんか出来ないわ!」
「そんなあ」
「さうなんですよ。ごきげんやう」
 すつかり冷たくなつて仕舞つた星子さんはくるりと踵を返してプールから上がらうとした拍子に、水中ですつてんころりんと転んで、きれいな脚を水面から突き出してぶくぶくと沈んでしまひました。が、すぐに体勢を立て直すと、髪をブルブルと振るつて両手で頭に撫で付けながら整へて、
「アラやだ。私そそつかしいからバナナの皮に滑つて転んでしまつたわ」
と言つてからからと笑ひました。僕が
「違ひますよ。星子さんが滑つて転んだのは僕のザアメンですよ」
と教へてあげると、彼女はマアッと目を見開いて絶句したまゝ、ふたゝびへたへたと水中に沈んでしまひました。


 うつとりと眸の帳をあげた星子さんは、「あら」と言ひました。僕は星子さんの重みと熱さを腕にずつしりと感じながら、デッキの籐椅子にそつと寝かせました。夏の夜に潮風に吹かれる星子さんの肌から揮発する女の匂ひが、僕の鼻を打ちました。満点の星は船を包むやうでした。
「あれ」
 星子さんの指す先には南十字星が瞬いてゐました。
「さう、あれがサザン・クロスだよ。」
「違ふわ。南十字星の下を飛行機が」
 たしかに薄い爪のやうな月の下、宝石箱をひつくり返したやうな星空にくつきりと存在を主張する南十字星のそばを飛行艇が一艘、音もなくゆつくりと飛んでゐました。
「あれはエールフランスの定期輸送便だよ。きつと。さうしてあの飛行機にはサン・テグジュベリが乗つてゐるかもしれない」
 星子さんはまだ目つきの定まらないうつとりした眸で僕を見上げます。それはあどけない幼い少女のやうに無垢な魂を感じさせました。
「サン・テグジュベリつてだれ?」
「詩人です。丁度いま位にエールフランスで定期便に乗つてゐるはずなんだれど…彼はとてもいゝ言葉を言つてゐるんだ」
「たとへば?」
「愛するとは、其れはお互ひに見つめ合ふことでなく、共に同じ方向を見つめることである、といふのが僕は好き」
「同じ方向を?」
「おなじ世界を夢見てゐるつていふことさ。星子さんはフラッパーでジャズって楽しく生きたいだらう?僕もさうだ」
「雪夫さんと同じ方向を見つめてゐるのかしら?私」
 僕は返事をせず、籐椅子で潮風に息づいて火照つた星子さんの唇に覆ひかぶさりました。星子さんは喉の奥で鳩のやうな声を立てゝ、くさびのやうに深く結ばれた口づけにはやがて海の潮の味が混じるのでした。

摩天楼の星子 3

 四十二番街には本や映画で知つてゐるだけの有名な劇場が建ち並んでゐます。しかしお昼前のことですから、何処もまだ公演を打つてゐません。
「なあんだ。詰まんない」
星子さんはブロードウェイの舗道に仁王立ちになつてネオン灯の落ちた看板を眺めながら悔しさうに呟きました。まだ午前中とはいへ、ブロードウェイですから人の流れがあります。後ろから歩いてきた大柄な人が小さな星子さんにぶつかりました。さっぱりと謝つて歩み去る相手にゴメンなさい、と声を投げた星子さんは、人がぶつかつた拍子に頭から飛んだ髪飾りをキョロキョロと探しました。
 深い緑の瑪瑙で千鳥を象つた髪飾りは、思ひのほか遠く飛ばされて、劇場と劇場の間の路地の、下水溝にかぶさつた踏み板の上で光を反射してゐました。
「あつた!」
少女のやうに髪飾りに駆け寄つてしやがんだ星子さんは、拾つた拍子に路地の奥を覗き見て、アラと驚いた声をあげました。
「何ふしたんですか?」
「コンナ処にも劇場があつたのよ。しかもこんな時間にもう演つてるぢやない!」
「怪しいお店ぢやあないんですか」
「ちがふみたいよ」
 僕らはこはごは路地の奥に進みました。

それはまつたく、路地から外へネオン光が洩れないほど小さな劇場でした。
「サクセス•シアター…ですか。日本語で成功座ですね。」
「雪夫さんが云ふといやらしい響きになるわ。」
 シアターのファサードにはネオンと絵看板で出し物が大きく宣伝されてゐます。
「ブロードウェイ•スキャンダルス•オヴ•一九三六ですつて。何処かで聞いたやうなタイトルね。」
 入り口で三十セントの木戸銭を二人分払つて劇場に入ると、ちようどオケピからアンサンブルの整った楽団でイントロデュースミュージックがスヰングしてゐました。劇場は小ぶりながら八分の入りで、僕と星子さんは最前列の中央から右寄りの空席にようやく空席を見つけて座りました。すぐに目の前でスルスルと幕が上がりました。
舞台ではリアルに雑な格好をした大道具方や演出家、監督らしい人物と、いかにもな衣装に身を包んだ燕尾服や流行スーツ、現代的なドレスの男女が中央に集まつてあれやこれやと揉めてゐます。
「リアルな演出ね」
 星子さんが囁きました。しかし舞台の上の静かな喧騒は台詞を観客に聞かせるでもなく、地味に続いてゐます。
「あれは本当に揉めてるところね。お芝居ぢやなさゝうよ。それだつたら一度幕を下ろしても良さゝうなものなのに」
 眉をひそめて見てゐた星子さんは身を乗り出しました。舞台の上の人々は、やがて観客席をざつと見渡しはじめて何かを吟味してゐるやうでした。どうやら観客も斯ういふことは日常茶飯事なやうで、大して騒ぎもしません。
 そのとき、フト星子さんの肩を叩く者があります。星子さんが振り向くとそれは舞台の上に出張つてゐた裏方の格好をした男で、
「俳優のストで今日出る筈だつたヒロインが出なくなつた、こんな時は観客から適当に選ぶんだが今日に限つて女性客が少ないときた。そこで目に飛び込んだのが貴女だ。見ればオーラがある」
 などとまくし立てゝ星子さんを連れて行きました。幕はいつの間にか降りてゐました。
 星子さんは一体どこへ連れて行かれたのだらう、本当に大丈夫だらうか行かせなきやよかつたんぢやなからうか、などとモヤモヤ考へてゐると、先ほど聴いたスヰングの前奏曲と共に幕が上がりました。偽紳士がタップと色恋の手管だけを持つて都会に繰り出して高級ホテルで失敗をやらかしたシーンで遭遇するヒロインに僕は目を奪はれました。星子さんが身にぴつたりと沿つたチャイナドレスで出てきたからです。日本人の星子さんが選ばれたのは役柄の故だと思つてゐると、其処は矢張りミューヂカルで会話をするうち唄に入るのでした。なかなか代役がゐないのも無理はありません。

 〽私たちの仲良しの小ちやいチョングはオリエンタルが好き
  だから仕事が終わるといつも太鼓を叩いて 愉快な歌をいつでも歌う
  チョングは毎日太鼓を叩く 香港から
  チョングは歌う 面白くみんな歌つて毎日歌つて踊つて
  チョングは香港へ また帰へる友達とみんな手を取り輪になり
  ピチピチメリタンソン
  毎日歌って 聞かすだらう
      (チョング "Chong")

 古い流行歌をスヰングにして一くさり歌ふと客席から口笛と喝采が飛びました。日本の大人しい観劇風景とは丸で逆です。星子さんのヒロインは偽紳士のリードで如何にも上手さうに流線型のダンスを踊りました。さうして大都会で偽紳士から本物の紳士に脱皮してゆく男に密かに恋心を抱くのですが、彼の成功を邪魔しないやうにと姿を晦ますのです。
 クライマックスは、そんな健気な星子さんがエンパイヤ・ステイト・ビルの上で巨大な類人猿に拉致され、声を限りに泣き喚くところを今は紳士となつたヒーローがスーツをかなぐり捨て、空を飛ぶ正義の怪人となつて救うシーンです。
 星子さんは超人の胸に抱かれたとき、ふと恋しさを覚へますが、超人はスグに別れを告げていずこへか飛び去ります。
その直後に現はれた恋しい紳士に星子さんはついよろめいて抱かれますが、その胸の感触に超人の正体を知るのでした。星子さんは歌ひます。

  〽明るいシャンデリア かゞやく盃
   うるはしきジャズの音に 踊るはシャンハイリル
   今日はこの御方と
   明日はあの方と
   悩ましき姿は 私の上海リル

   いつでも朗らかにみせかける
   だけどリル お前は泣いてるよ
   涙をば隠して笑顔でむかえる
   可愛い可愛い 私のシャンハイリル
           (上海リル "Shanghai Lil")

 ステーヂは大成功でした。星子さんは楽屋を出てくる時は天竺鼠の襟巻きの附いたコートを誂へてもらつてゐました。さうして出演者やスタッフや観客にもみくちやにされながら劇場の外へ出ると、劇場に引き留めやうとする彼らに申し渡しました。
「私、本当を言ふと此処に留まらうか迷つてゐるワ。自分にはとても合つた生き方のやうに思へるもの。でも今は旅の途中よ、此の何んにも出来ない下男のやうな小男を放り出して行けやしないわ」
 さうしてローヒールの新品の靴でカツカツと舗道をもと来た道へ戻りました。星子さんは浮かない顔ですこし未練に苛まれてゐるやうでした。
「星子さん、そんなにいゝ処なら此処に居ればいゝのに!」
「さつき言つたぢやない。」
「僕だったら構はないよ。星子さんがしあはせになるなら不満なんぞあるものか」
 星子さんは僕に振り向いて優しい顔で言ひました。
「彼処にゐるとね、私、恋が幾つあつても足りないことよ。かりそめの恋と此のメトロポリスの空気と、自由気ままな旅の空とを換へやうつたつて換へられるもんですか!」
 僕は星子さんをすこし見直しました。
 ふと一丁足らず歩いてきた道を振り返ると、劇場と劇場は隙間なく繋がつてゐて、先ほどの路地など元から存在してゐなかつたかの如く、幻のやうに消へ失せてゐました。
「星子さん!」
 星子さんも茫然自失してゐました。
「あのまゝ彼処に留まつたら星子さんは何ふなつたことでせう?あれは一体…」
 星子さんは劇場支配人から貰つたコートや天竺鼠の首巻を確かめながら確信に満ちた口ぶりで言ひました。
「でも彼処で浴びた喝采は本物だつたことよ。この服や靴も。」
 僕には、あの劇場が、幸福を齎らされる者にのみ開かれる場所のやうに思はれました。星子さんも同じことを思つてゐたらしく
「成功座だつたわね。縁起がいゝわ」
 と呟きました。僕はすかさず返しました。
「演技もいゝのさ」

 お芝居を演じてゐるうちにギラギラの夕陽が中空を落ちる時間になつてゐました。グダグダと喋り通しながら、僕たちはウォール街まで歩いてきてゐました。星子さんが立ち止まりました。
「さうだ!せつかく紐育に来たんだからアレに昇りませうよ。」
 星子さんの指先にはエンパイア•ステイト•ビルが鈍く銀色に光り、夕陽を浴びてそれは燃へてゐるやうでした。
「コートは暑いわね」
 外套を脱ぎ去ると、星子さんは黒い絹のナイトドレスで、ハート型のルビーをつけたチョーカーを首に嵌めてゐました。
「すごく似合うよ」
 チョーカーに目のない僕は彼女に見惚れてしまひました。
「でせう?せっかくの摩天楼だからふんぱつしたつていゝぢやない。」
 夕暮れどきであるのにエンパイヤ・ステイト・ビルの入り口にはまだ行列が出来てゐます。五列も行列が並んでゐるうちの一列が二階のロビー行きで、其処で八十階行きのエレベータに乗り換へ、八十階から更にエスカレータで八十六階に昇ります。此処が野外に出られる第一展望台で、其処から更にエレベータで百二階に昇り詰めるとエンパイヤ・ステイト・ビルで最も高所にある第二展望台です。星子さんと僕も第二展望台まで昇つて、エレベータで百二階に直行しました。その第二展望室は細長いガラス窓でぐるりを囲まれた狭いホールになつてゐました。
「あら、外には出られないのネ」
「此処はビルの天辺だから窓から外を見られるだけなんですよ。」
「手を伸ばすとお星様が取れさうなくらい空に近いのに。…でも先達てのヒンデンブルク号なら届くかも知れないわね。」
「届かないと思ひます。」
 クリスタルのやうに磨きあげられたガラスに手をついて僕らは下界に目を遣りました。遠い地上には星屑をばら撒いたやうに無数の灯が見へます。その無数の灯は大気の悪戯で蝋燭の火のやうに揺らいで見へました。しかしガラス越しでは其れが紐育だと実感する程の夜景には到底思へませんでした。
「此処は夜景を見るには不適当だね」
「あンまり外が見へないんですもの。道理で人が餘り来ない筈だわ」
「ぢや、此処まで来る人は一体なにを求めて来るんだい?」
 星子さんは其の言葉で初めて気がついたやうに辺りをキョロキョロ見渡すと、ギョッとして身構へました。
「マアッ!雪夫さんたら私を騙してこんな処に連れ込んだのね!私、此処で何ふ料理されるの?判つたワ!獣のやうなヤンキイに大勢で襲はせるのね!雪夫さん見損なつたわ、一等最初の初めから私を陵辱する積りでコンナ猿芝居を組んだんでせう?」
 星子さんは自分の言葉でさらに昂奮してドームのガラス窓を後ろ手で探り探り、僕から離れやうと逃げを打ちました。僕は仰天してブンブン手を振りました。
「いゝへ違ひます違ひます!誤解です。そんな乱暴なこと、僕はしないこと、星子さんが一番よく知つてるぢやありませんか!」
「人は豹変するわ」
 僕は星子さんに誤解させた許しを得やうと両手を差し出してヨロヨロと星子さんに歩み寄らうとしました。と、床の絨毯に蹴躓いてよろけた挙句、星子さんの腰部に抱きつく形となりました。
「キャアアアヽヽヽヽヽ」
 星子さんは嫌悪感を露はにして僕の股ぐらを思ひ切り蹴りあげました。僕は悶絶してその場にしやがみこみました。
「そら御覧なさい。雪夫さんの中の獣性が頭をもたげたわ!この鬼畜!ド変態!」
 僕は悶絶しながらも、じわじわと云ひ知れぬ快感が心の奥底から沸き上がるのを覚へました。
「あゝさうです。も、もつと言つてください」
 星子さんはたじろぎました。
「雪夫さん、被虐趣味だつたのね!最低!」
「美脚フェチでもありますから星子さんに蹴られたときはいゝ思ひをさせてもら…」
 僕はふたゝび猛つた星子さんに蹴られて、ツイ勃起してしまひました。星子さんはモウ居ても立つてもいられない様子でヴァニティ・ケースから溶接用の防火面を取り出すと、すつぽりと顔に被せました。さうして長方形に嵌まつた黒いグラス越しに鼻息荒く言ひ放ちました。
「もう雪夫さんの顔を正視することなんか出来ませんわ!」
 その冷酷な言葉に、僕は腰を二三度グラインドさせて甘美の頂点に押し上げられました。星子さんは呆れたやうに仮面を仕舞ふと
「分かつたわよ。雪夫さんが悪かないのは分かつたから下に降りませう。本当に困つた人ねえ。」

 エスカレータで八十六階に降りてくると、其処はラウンジになつてゐて、エンパイヤ・ステイト・ビルの記念品や世界の高層ビルの写真などが飾つてあります。星子さんは写真を巡り観ながら独り言のやうに言ひました。
「このビルは飛行船の係留もできるンだつたわね。其のうち夕べ見たヒンデンブルク号の写真もこゝに飾られるかも知れないわね」
 このラウンジではしばしばジャズの演奏もされるやうで、柱の蔭からトリオのジャズが聴こへてきました。星子さんとあはてゝ現場へゆくと、それはテディ・ウィルソンのピアノとバニー・ベリガンのトラムペット、それから銀行員のような風貌のクラリネット、あのベニー・グッドマンでした。「うわあ!」僕達は歓声を挙げました。彼らは「スターダスト」や「ボディ・ヱンド・ソウル」などをジャズつてゐましたが、終ひに「三日月娘」のイントロを始めました。ラウンジに大きくとられた窓から、繊細な銀細工のやうな三日月がゆるやかに音を立てず上昇してゐます。星子さんは思はず歩を進めて、「鋪道の囁き」のベティ稲田が歌ひだすシーンのやうに自然に演奏に唄で加はりました。トリオも其れを当たり前のやうに受け入れてヴォーカルを盛り上げるやうに絡み合ひます。

 〽人目をしのぶ戀路の尽きぬ逢瀬に
  ほのかな今宵を君と語れば
  またも出る悲しい涙 胸が痛むよ
  なぜでせう?
  別れたら会えぬ貴方だもの

  せめては三日月 話すだけ
  二人の逢瀬も今宵をかぎりよ
  いとしい貴方の胸の中
  ほほえめ三日月、淡くとも
       (三日月娘 “Shine on Harvest Moon”)

 情感の豊かな唄ひぶりは紐育つ子にも伝はつたのでせう、トリオの周りに集つた人々は手に手に拍手をして、やがてほどけてゆきました。
「凄ひわね。カーネギー・ホールなら百万弗のトリオよ!」
 星子さんは昂奮も醒めやらない顔つきでした。
「あの三人お忍びで時々ここに来てジャズつてるさうよ。あ!サイン貰ふの忘れた!」
 バタバタと星子さんはさつきのトリオの処へ走つてゆきましたが、すぐにショボンと戻つてきました。
「逃げ足の早い連中だわ」
 僕は悔しさうな星子さんを野外の展望台に誘ひました。野外の展望台は外べりに柵があるくらいでだだつ広く、六月とは云へ三百数十米の高さに風はやゝ強めに吹いて、その肌寒さに人はまばらでした。
 星子さんとマンハッタンの下界を眺めると、クライスラア・ビルやトリニティ教会、マンハッタン銀行ビルが光の高層を競ひ、彼方のハドソン河がオレンヂ色に光るこちら側は無数のビルの窓が海ホタルのやうに、或ひはサンタクロースの袋から宝石を鷲掴みにしてバラ撒いたやうにキラキラした光芒が大気の加減でゆらゆらと息をしてゐるやうに揺らめいてゐます。その美しさに星子さんと僕はたゞたゞ息を飲むばかりでした。境界が曖昧な夜空のための首飾りのやうな三日月は、高くクライスラア・ビルの頭上にぶら下がつてゐます。
「月が綺麗ですね」
「私、モウ死んでもいゝわ」
 それはロマンティックの至高な時間でした。

 八十六階の野外展望台の端には望遠鏡が据へてありました。二セント入れゝば見られるやうになつてゐます。僕は早速お金を放り込んで覗いてみました。トリニティ教会の前庭に男が立つてゐます。その前に女性が座り込んでしきりに頭を前後させながら祈りを捧げてゐます。男は敬虔な女性の頭を撫でたり自分に押し付けたりしてゐましたが、最後に彼女に覆ひかぶさつて背中が二つある不思議な生き物になつてしまひました。
「面白い面白い」
「ちよつと。何見てるのヨ。私にも見せて頂戴。」
「レディには毒ですよ!」
 星子さんは憤つて柵の土台を伝つて望遠鏡の尖端に手をかけると、
「なら私はもつと高い処から夜景を楽しむから!」
 と、望遠鏡に跨つて、小手をかざして夜景に見入りました。僕は負けじと、望遠鏡で手当たり次第にビルの窓を覗いて回りました。

「やあマンションの部屋でカップルが激しいセックスをしてゐるのが見へますよ」
「ズルいわ!こゝからぢや見へないもの!」
「ぢやあ斯ふしたら判るでせう?」
 僕は悪戯心を発揮して、星子さんが乗つかつた望遠鏡を小刻みにゆすりました。
「ちよつと!そんな事をしたら気持ちよくなつちまふぢやないのさ!」
「クライスラア・ビルのオフィスで立つたまゝヤつてゐますよ」
「実況なんかしなくてもいゝわよ。あつ。」
「さつきのカップルが二回戦を始めました。お互いにねちねちと舐めあつてゐますよ」
「あゝ、そんないゝことを!あつあつ。イヤッ」
  怒り口調だつた星子さんの声音は和えやかに変化してゆきました。
「寝そべつてる男に女の人が跨つたよ。おつきいのが刺さつて…沈むやうに合体した!星子さんが跨つてる望遠鏡くらいあつたなあ」
「ンンッ…あああゝゝゝゝ、アーーーーーーーーーーッ」
 僕はグイッと星子さんの乗つた長い望遠鏡を持ち上げました。
 すると星子さんは高々と嬌声をあげながら望遠鏡を滑り落ちてきました。それがまた決定的な刺激を与へたのでせう。星子さんは僕の顔面にお尻をおつことすと、腰をがくがくと激しく前後に揺すりながら、こゝを前途と朗々とソプラノの声をあげ続けました。
 細い三日月は星子さんの笑みこぼれた眼にも似て、エンパイヤ・ステイト・ビルの天辺の電波塔に引掛かつてゐました。エクスタシイがとめどなく星空に吐き出されされながら、摩天楼は夜を深めてゆくのでした。

摩天楼の星子 2

 サヴォイ•ボールルームの外は朝日の眩しい、白茶けた街でした。真紅なボディのブガッティが土埃を巻き上げるやうな爆音をあげてダウンタウン方面へ走り去りました。ボールルームの客なのでせう。
「あれは1936年型のアトランティックといふモデルよ」
 星子さんが眠さうな声で車を見送りました。
アメリカだつてまだ不景気の最中には違ひないから、あんなフランスの高級車を走らせるのは相当な金満家ね」
「へえ、星子さん詳しいんだなあ」
「それほどでもないわね」
 僕たちはお腹が空いたので食べ物屋を探しながらウロウロと右往左往しながらマンハッタンを下りました。するとアッパーイーストサイドの美術館があると思はれる辺りに美味さうな匂ひを立てゝゐる小さな店がありました。
「これは何でせう。」
「パイヤキングといふお店らしいわ。ホットドッグのテイクアウトね」
「ホットドッグといふものは初めて食べるよ」
 星子さんはフヽと笑みました。
「私は銀座で食べたことあるわ。コカコーラといふジュースと一緒に食べるのよ。もう一寸したら…四年後の東京オリンピックになつたら日本でも流行するかも。」
「へえゝ、ぢやあ此れを食べませう!」
ホットドッグは細長いパンに長くてむきむきと野太い先太りのソーセージを挟んで、其処にブチュブチュと黄色いマスタードが奔放にぶちまけてあります。
「わあ」
 僕は歓声をあげました。星子さんが髪を揺らして鋭い眼差しを投げかけました。
「待つて頂戴。先は言はないで!」
「え。」
「雪夫さんの言ひさうなことくらい判るわ。だつて頭の中にはそれしかないんですもの!ケダモノ!」
 僕はうろたへました。
「そ、それは誤解です。僕は、その、見たまゝを云つたゞけで」
「マアいゝわ。食べませう。このお店はトロピカルジュースが名物なのよ」
 僕と星子さんは大ぶりなホットドッグとトロピカルジュースの包みを提げて近くのセントラル公園に行きました。だゞつ広い公園の芝生は朝露に濡れて足もとも冷えます。困つたなぁと思いながら歩き続けてゐたら、公園の中の癖にお城が出現しました。
「ベルベドーレ城ですつて。」
「此処で落ち着きませう」
 お城はゴチック調の簡素な造りで、雨宿りが出来るくらいの代物でしたが、それでも座る場所を探してゐた僕たちには願つてもないお城でした。二階に上がると、内部は薄暗くガランとした只の石造りの建造物ですが、もともと岩の上に建てられてゐるらしいだけあつて、その眺めは抜群でした。前後が遥か二キロにわたる長大な敷地の眺望は芝生と湖、その先は靄のなか。すぐ近くにはメトロポリタン美術館が威風堂々と聳えてゐます。ホットドッグを頬張りながら、星子さんは湖の方を指差して
「あの辺りは其のうち訳あつて苺の丘と呼ばれるやうになるわよ。さうして世界中から甲虫のファンが集まることね。」
 と言ひました。僕は少し可笑しくなつて
「カブトムシのお仲間つて、ぢやあ四つん這いになつてあの辺りで交わるのかい?」
 と訊きました。
「マアッ!だから雪夫さんは!」
 星子さんはぶりぶりと怒りながらホットドッグを平らげ、ジュースを勢いよく飲み干しました。それから小さな声で呟きました。
「間違つてはないけど。」
 僕は石の壁にかつちりと両手を突ゐて星子さんを閉じこめ、
「だつたら何ふして怒るのさ?」
 と顔をすれすれに近づけて不平を云ひました。星子さんはしなやかな草色のワンピースを小魚のやうに翻へしてスルリと抜けると、シャアシャアと言ひます。
「だつて雪夫さんがムキになるのが面白いんですもん」
 僕は仕方なく、アハハヽヽと笑ひながらスタスタと階段を降りる星子さんの後を追ひました。

 芝生の丘に降りた星子さんはイキナリ振り向くとにこやかに左を指しました。
「まだこんな時間だし折角だからブロードウェイに行きませうよ!」