「アリーナ」より

 
 その操作室に入るとあかく燃える火の向こうに心臓がひとつ。
 私はそれを盗み出して一目散にかけていく。
 アリーナ。僕が君を守るよ、哀しかった全部のことを盾にして。


 一目散にかけていく。メインの動力を奪い取ったのにオルガンは歯車によって変わらない速度で「♪」を奏でるし、同じリズムで動く群衆もかわらない。
 逃げられると思った矢先、出口で毒ガスの噴射。曇る視界、すっころんで頭を強く打ってから視界が色とりどりに変わる。緑。ルイと打たれた雷の色。赤。ルイが流した血の色。青。ルイの永遠の色。黄色。ルイとわたしに一番似合った花の色。紫。ルイの魂の色。白。白。白。ルイ、きみのくれた音はいつも真っ白に、僕に渡す為だけに真っ白に調律されてまるで僕自身が色にまみれているような気がしたんだ。わけもわからないまま走った。胸に抱えた心臓はもちろん出血が止まらないままだんだんと音を弱めていく。何億人もの希望がかけられたアリーナ。たった独りの命を人柱にしてこんなにたくさんの人が私欲を肥やすなんて資本主義の限界点、もはや大発明の粋だ。私はゆるされるはずがなかった。アリーナ。君だけは守るよ。そう繰り返しても返事は無い。だんだんと弱まっていく鼓動。ごく原始的な武器が襲う。槍、投石。血が流れているのにそれが何色かわからない。痛いと感じたのはルイ、君の内部のオルゴールの弁に、ふれようとして指を切ったあのときだけだった。そうだ、と思ってポケットのなかを探る。つめたい金属のそれに触れ安堵し、掴もうと力をこめた瞬間するどいそれはポケットの底をも切り裂きカランと音を立てて落ちた。拾おうとしゃがんだ瞬間爆発音が鳴る。瓦礫の下敷きになりもうあの弁にも触れない。あああ、と悲鳴をあげた。足りなくてもう一度あああ、と言おうとした刹那後頭部に鈍い音がし瓦礫がこっちにも落ちてきたのだとわかった。音をかすかに続ける心臓をつよく優しく抱きしめる。声ももうでない。青空も見えない。出会いとわかれ。いろんな人が居たはずなのに思い出せない。ルイ!!!!!!!ルイ、僕は君が。君は僕の生きる世界を全部越えた所にいた。君の生きる世界は眩しく、色鮮やかに僕には見えたけど、君自身には僕がこの世界をこの目で見ているように、灰色で何も無い、誰もいない世界に見えているのだとどこかでわかっていたのに。ルイ。雷に僕らはしゃいだね。青い幽霊が何度もドアを叩いたけど、君は聴こえないふりをする僕の手をそっと音で握った。僕の輪郭船沿いに光の筋が囲っていって、きみは目を細めた。星屑が瞬いて…僕が大げさに泣いたり笑ったりする度に、少しさみしそうにしたね。大げさに泣いたり笑ったりする度に、ぼくらの時間というものの寿命がすこし縮むのをきみは知っていたんだ。ずっと一緒に居たいってほんとうに思っていたんだ。それで、無くひまもなく走ってきたけど僕は、ああ、僕は君が!!ああ、アリーナ、奏でておくれ、僕の悲哀を。神様のお嫁さんにならなきゃいけないんです。と言ったら。がしゃんと音を立てて僕を取り囲むように鉄くずをおとした。その怪我が痛くて血が止まるまでは「神様」の所へは歩いていけないね。って笑ったんだよ。本当にあんなに素晴らしい瞬間がこの世に存在すること自体が、僕は本当に哀しかった!アリーナ、あの傷は傷じゃない。光っている。僕の輪郭線だ。ルイ、君とのこと全部が、僕の輪郭線なんだ。金色を見た。その鋭さと美しさと正しさで、ポケットを破いたきみだからもう本当に飴玉ひとつわたしには無い。ちりちりと焼けこげる音がする。そのまえに多分出血多量のほうでわたしはもう死ぬだろう。心臓も同じくらいに弱っていて、それがたまらなく愛おしく思えた。ルイ。傍にいたかった。ルイ。ずっと一緒だよ。ルイ。君を殺したのは僕だ。ルイ。きみの捻を巻ききっていつかほんとうに死んでしまえと思っていたんだ。ルイ。君はこの世界の宝物だ。ルイ。そんなこと自分でも知ってたんだろう。ルイ。同じ世界に生きられなかった。ルイ。こんなふうでも僕は僕の世界を愛していたんだ。ルイ。一緒に居たい。ルイ。君はほんとうに私のためなんかには生きられないほどに正しく美しい生き物だった。ルイ。あの空洞にわたしは命を見たよ。君が持っていないと言った命を。わたしの心臓を君に。ルイ。あなたと一緒に居たかった。ルイ。あなたが、どうか、ルイ。死後の世界なんてあるのかな?ルイ。終わりはいやだよ。終わらないものだけが愛なんだ。終わらないものだけが愛なんだ。ルイ。最後に近づくにつれやたらと涙もろくなったね。私が微笑むだけで泣き出していた。ルイ。私は本当に私自身のことが憎く、そして最後に大好きだよ。って叫ぶんだ。ルイ。君が笑った。名前をくれた。君の傍に。君の傍に。君の傍にどうか、お願い神様。神様は君だった。「神様のおよめさんに」のほんとうの意味は。そんなのだめだよって怒ったね。ぼくの古い友達も全員まとめて。愛してる。ルイ。愛してる。ルイ。愛してる。愛してる。君がいなければなんの意味も無い。君が居なければ本当に何の意味も無いんだ。ルイ。この世界には何も無いよ。心臓がじきに音を止める。アリーナはそれでもギリギリと音を立てて動いていくだろう。君がいなければこの世界はなんの意味も無いんだ。ルイ。部屋中どこを探しても顔が消えていた私の隣に映っていたのは。君だった。何度生まれなおしても君だった。いつも写真は瞬間だけを残すから哀しい。アリーナ、忘れないで。瓦礫に埋もれたあの金色のかけらは。神様が最後に託したこの世界に対する「愛」なんだよ。それを僕はばらばらにして持ち帰ろうとした。だから僕は今がれきに埋もれて死ぬんだ。僕が独り占めしようとしたあれは、この世界への最後の「愛」なんだよ。覆水本にかえらず、世界は終わる。なんてこともなく、灰色のまま世界は回っていく。僕だけが排除される。生きていた心臓、最後のひとつの心臓も助からない。僕が愚かだから。アリーナ、あれが「愛」だよ。見えるかい。きみはみたことがなかっただろう。あれが「愛」だよ。やっぱり金色をしているだろう。ルイ。どうかここに羽根を休めておくれ。死んだらしばらく小鳥になって、そして最後には星になるんだ。僕は罪を犯したから星の周りに塗りたくられた闇になる。嬉しいよ。ルイ。やっと傍に。ずっと傍に。ずっと、ぴったりとくっついていようね。ルイ。君が光だ。愛してる。すべて奪い取ろうとしてごめんね。どうか君が奪われたぶんとつりあうくらい、柔らかいベッドで、君の星が眠れますように。

傘もいらない

宇宙の天気は解るかな。
もうしばらく針が落とせない。
待ちぼうけのレコード。
でも魔法だよ。
ずっと知ってる。


広くて冷たい部屋の窓は
あんまり高く付けたらだめだよ。
牢獄みたい。
でも結構気持ちがいいね。
「微睡み」っていう字に似てる。


車に乗ってみたくて、免許を取った。
ミニを買うのはさすがに哀しいかもしれないけど
ちょっといいのを買って、可愛がろう。
サーチライトは灯台。今日だって想うよ。白いお腹。
夏の間だけ夜までやってる遊園地に行った。
ママと遊ぶのは嬉しくて泣きたくなるけど楽しい。
15年くらい前からある木製のジェットコースターに乗った。
ふだんは昼間しか動いていないもの、笑っちゃうくらい真っ暗で。
ガタガタ揺れて全身痛い。
人工衛星が見えて、走り抜けていった多分あれは未来。
世界が停止していた。
もう何も走らないレールの上を歩く君の後ろ姿は
やっぱり夜だね。
心の中の秘密の部屋で大泣きした。
あの「君」の、足元に溜まって月でも映し込む水溜りを。


こんなに静かなのは、ほかの何処かがうんと賑やかだからだろうね。
小さい頃から夢なんて、象の背中に乗ることと、あとはもうひとつくらい。
孤独はいつも、「誰かを想うやさしい気持ち」に焦がれている。
そのふたつが触れ合った瞬間のことを何て呼ぶのかもう知ってる。
だけど私それをそのまま「私の人生。」と言おう。
そろばんで解けない問題が解けたらそれが私の奇跡の終わり。
まだパチパチ計算をしている人も、もうそろばんが壊れて泣いてしまうことしか出来ない人も、
分厚い雲が途切れる時までは生きていよう。
宇宙の天気は解るかな。


 あなたという存在がこの世にあったというだけで私の魂に永遠に消えない誇りが付与されたようなものだから。
 命が輝く条件はひとつ。
 愛することは踊り続けること。
 時計の針が止まったなんて希望的観測だったみたい。ほんとは溶けてた。12時を持ってフリスビーにしたら追いかけた犬にもさよなら。本当の怪物は時でも七つの罪でもない。
 

 堰を切ったようにたくさんの話をした。
 白い紙が落ち着いた頃にまた再生する、私の涙の跡。
 君に二度と見せられない弱さも。
 「あなたという存在が…」
 これからだってどんな場所にいたって言えること。
 都合がいいんだか悪いんだか、同じ言葉をまた言うなんてね。


 だから、二度と癒えない傷を心に、また痛んで流す涙を幸福と呼ぶ卑怯さを借りて。
 あんまりずるいことばかりしていると死んでから星になれないかな。

 
 愛って孤独なのね。
 嘘みたいに色も匂いも生まれるの。
 人はきっと一粒の宝石で、砕いて売って生き延びていく。
 君がストロボ。光が当たらない世界には虹も無い。
 電車の窓を開けて、いるはずのない影を探す日には。
 誰にも秘密だよ。君と魂を交換する。
 どこまで行ったって変わらない答えは。
 神様なんかいなくたって探すよ。
 自分で結んだ目印の糸、自分で嫌になって引きちぎったって。
 次の世界で…どこ?次の世界には君が居ない。
 だからこれで終わり。君が神様になる前に。
 どこまで行けるの。
 詠えたら届くかな。
 どうせ約束なんか守らないって笑うでしょ。
 何処にも行かない。
 何処にも行かないことが君の邪魔になるなら、
 石になる。いつか自分の詩で目を覚ます。


 名前だけ借りるよ。
 

一粒も涙の流れなかった夜

すべてを映すその黒い眼に
退屈な大人になった僕が映る。
諦めで世界を縮小し
いつかの自分の声も聴けなくなる。
正しさは「正しさ」を批判しても
その”正しさ”は誰が正すのだろう。
嘲笑と「こんなものだよどうせ人生は。」
誰もが吐いた言霊で今日も空気は濁っていく。


誰だってひとりで換気は出来ない。
それでも必死で息を潜めていた。
これ以上二酸化炭素が満ちないように。
誰か助けてくれるの?
食べ物がとっくに無い。
辛うじて飲み水くらいなら。って
塩分過多の濁った水ばかり。
飲めば飲むほど渇いていく。


すべてを映すその黒い眼に
醜い家畜になった私が映る。
自分の言葉を忘れた代償が。
誰かの声でまた遠ざかる。
弱さは「弱さ」の頬叩いても
その”弱さ”は何処から湧くのだろう。
張りつめて、「終わるはず無いわ人生は。」
唱えれば叶うなんて思い込みだろう。


慈愛も諦めも愛と見間違えば
脂肪分過多の餌が積み上がる。
あの日見つけ合った骨の形が
醜いレイヤーで見えなくなる。
「ご飯は残しちゃいけないの?」
これを食べ続けて延命を望むくらいなら
今、辞める。



崩れゆく夢物語から
住人達はこぞって逃げ出した。
食料も全部持ち出して
やせた犬にやる残飯も無い。


空さえ綺麗ならと見上げれば
目玉が濁っていてよく解らない。
いつか理想の死に方を笑って話した。
路地裏から見上げる青空の話を。


崩れゆく夢物語から
最後の一秒まで逃げなかったらどうなる?
分解され砂漠の塵になるだろうか。
それともあの灰色の中にまたひとりで立つんだろうか。


間に合うか?なんて問わずに走る。
いつだって間に合ってない。
君の部屋。無駄に持っている合鍵。
間に合ったことなんかずっと無い。
飛び散るガラスに両足は染まり
投げる者もいないのにどこからか石が降ってくる。
血は生温い、生臭い。
致死量なんか忘れた。
初めからずっと間に合ってない。
こんなomamagoto、現実と
一体何が違うというのか。


いつだって間に合っていない。
花は何度枯らした。
一回のチャンスを
何回も棒に振った罪。
許されるはずが無い。
この世は地獄だ、身から出るくだらない毒物全部含めてこの世は地獄だ。
灰色の世界だけは嫌だ。
灰色の世界だけは怖い。
灰色の世界だけは
灰色の世界だけは。


 あなたが
 もうその部屋の中で死んでいるとしても
 わたしは
 窓を開ける。
 そよ風が申し訳程度に入って
 充満した腐臭を何%か和らげるだけでも
 わたしは
 窓を開ける。
 瓦礫に変わり、もう砂になる街で。
 分厚い雲で宇宙の天気も測れない街で。
 落としてきた血溜まりは知らないが
 今この瞬間にわたしから流れ出ている血潮からは
 決して腐臭はしない。
 今この瞬間にわたしは生きているから。
 死んだふりをしていないから。
 窓を開ける。
 あなたが望んでいないとしても。
 考えて走ったわけじゃない。
 青空が忘れられない。
 灰色の世界は怖い。



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静かな青いノートの日記。

わたしは泉の番人として、広い檻の中の森で暮らしていた。
飲めば不老不死になると言われる水を求めて、檻の中の近くや遠くから、色々な生き物が来ることが、わたしは嬉しかった。
やっと救われるといった顔をして素直に笑う者、もっと獣そのままの姿の者、あなたはこんなことろでずっと一人でいて淋しいはずだから傍にいるよと笑う者。
その檻の森は、他の世界線と比べても決して狭くはなかったから、きっと退屈はしなかった。
だけれど私は、この泉にわいているものがただの蜃気楼だということを知っていた。それで、かれらが飲むといつも、「また今日もだれも気づかなかったよ。」と、空の星にでも話すのだった。他の話し相手は居なかった。


ある日、片足を引き摺った一匹のユニコーンがやってきた。
片目は潰されていて、身体中傷だらけ、自慢の角も随分削られて丸くなっていたが、その佇まいが精悍として美しく、私は魅入った。

「お前さん、そいつぁ詐欺だぜ。まさかそのクレーターに水が満ちているなんて幻、お前ごと見ているわけじゃあないだろうな。」

私がきょとんとして尚も魅入っていると、飄々として、泉に鼻先を突っ込んだ。
ごくごくと飲む仕草をしている。きっと同じだ、蜃気楼を飲んで満足するならそれでもいい、プラシーボ効果に希望を適当に託して目を閉じた。

「なんのつもりかは知らねえが、そんな下らない幻は俺が全部飲み干してやるよ。ほら、一滴残らず寄越しな。」

彼が鼻先をくいっとするので、わたしも困って答えた。

「一滴残らずって、だからそんなものははじめから無いのよ。無理だよ、大体泉なんだから、幻だって湧き続けるものでしょう?好きなだけ飲むといいわ、飲めるんならね。」

「つれねえなぁ。」

そう答えると彼はさらに泉の水を飲む仕草をした。ごくごくと喉を鳴らすと、無いはずの水が、彼の食道を通り、身体に満ちていく光の筋が見えた。
彼は目の中に星を宿して、顔をあげて、わたしを見た。
わたしも、目を疑った。


「身体が痛くない…。」

そう言って、ユニコーンはたかたかと走り回った。

「なあ、檻の外の世界って見たことあるか?」

彼はとても嬉しそうに言った。わたしはそんなものがあると信じていなかった。誰もが、この檻の中のどこかから来て、この檻の中のどこかへ去っていく。

「そんなものあるのかな?あなたは見たことがあるの。」

「俺も見たことがないんだよ!でもほら、今、身体が痛くないだろ。だから行けるのかもしれないと思ってさ。」

わたしは1人、なんだ泉に水はあったんじゃないか…。と安堵しながら、彼の話をぼんやり聞いていた。

「もし良かったら、一緒に行ってみないか。俺が走るから、背中に乗ってくれたらいい。」

少し時が止まったけれど、わたしはこう答えた。

「わたしを乗せない方が速く走れるよ。それに、その向こうに何かがあるなんて、そんな保証はどこにもないよ。」


そう言うと彼は哀しそうな顔をして、「また来るよ。」と言った。


それから冬が3回通り過ぎても、わたしはずっと泉の前に座って考えていた。
ユニコーンは度々やってきては、何かしら置き土産をしていった。
宝石、虫の死骸、本物の透明な水、花。
彼に泉を飲むことが出来たのなら、他にも誰か飲める生き物がいるんじゃなかろうか?
本当にあの向こうには何もないのかな。行ってみなきゃわからないんじゃなかろうか?
彼はくりかえし私のところへやってきて、そんな日々を無駄だと思わないんだろうか?今にももう来なくなるのではなかろうか?
もしも、もしもあの向こうへ行けるとしたら、ここにいる人達はみんなどうなるのだろう。私一人だけ抜け出すなんて、そんなこと許されるんだろうか?
…許されないんじゃなかろうか?


だけれどわたしは、冬が3回通り過ぎてもこの場所にのこのことやってくる、彼のことが本当に好きになっていた。
泉の水を飲もうとやってきた全ての生き物を、わたしは好きになりたいと思ってきたけれど、いつもどうしてか自分を騙しきれると思った頃に、どこからか嘲笑う声が聞こえるのだった。「滑稽だな。そんなおままごとが続くと思ってるのか?」
それはほかの誰でもないわたしの声だった。
だけれどわたしは、この孤独なユニコーン一匹を想う時、なぜだかちっとも滑稽ではなかった。
嘲笑う声も一緒に、ただ彼に魅入っていた。


ある夏の日、彼は今にも干からびそうによろよろとここへやってきて、目を真っ黒にしてこう言った。

「何もなかった。何もなかったよ。」

彼は一人で行ってみようとしたらしかった。檻の外へ。
そして、黙って動かなくなってしまった。

わたしは、それまで悩んでいたことのくだらなさを知った。自分を運命の檻で囲うことの醜悪さを。誰かを救い出せないかと驕ることの卑しさを。目の前の手を取り、その目を見つめることを避ける理由になり得る全ての怠惰を。


今、ふりはらうなら、不老不死の泉はここに、初めて、存在する。そう思った。きっとこれが鍵なんだ。
そしてわたしは、彼が目を覚ますのをじっと待った。懺悔さえも下らなく消え、ただ、その目に光が戻るとき、必ずいつでもそこにいようと、思った。



荷物をまとめていると、思い出も記憶も混ざってわからなくなる。
何ももっていかなくていいとはいえ、少し寂しくてアルバムに手を掛けると、突然虫に噛まれたりする。
最後の最後まで友達を連れていきたいとごねるわたしに、彼はうんざりし尽くしていたが、結局彼だけと手を繋いで行くことにした。結局それしか方法がなく、二人とも、もうそれが悲しくもなく、少し嬉しいとさえ思っていた。


この世のだれもが苛まれ続けなければならない見えない巨大な問題から、例えば自分一人が抜け出せるとして、それを辞退するなんてこと、それこそ本当に許されるんだろうか。いいや許す筈がない。

それは二人の、明日の夜の夢から届く優しい拘束だった。


泉の前で、微睡みながら、垣間見た懐かしい光は確かにわたし自身の持つものだったが、懐かしいだけで、もう一度手にしようとは思わない。
そこには自由を求め、理解を求め、支配を求め、未来を求める、私がいた。
その想いは、泉にまた蜃気楼を満たすだけ。

瞬き二回、
星じゃなくて隣の、確かにいるきみに話してみる。

「何もなかったのは、君ひとりじゃ、あの檻を越えられないから。」


だからもう、この檻の中に生きる全ての生き物とは、話ができない。

虹の橋

海の上に虹がかかる場所があるんだ。
それを渡ってみたい。
そのために船も造った。
形はへんだけど立派さ。
どんな荒波にも嵐にも負けない。
正確には負けそうになる度に増築を繰り返して、
今じゃあすっかり何になら負けられるのか誰か教えて欲しいくらいのもんさ。
形はもちろん最初よりもずっと歪になったけど、
ここに乗ってくれれば必ずあのずっと向こうまで行けるさ。
もうこんな息の詰まる街で行きているのは嫌かい?
退屈が心を蝕んで食べたくないものを食べてしまうかい?
それならお代はいらないよ。
期限もないからいつまで乗っていてくれてもいい。
そう言って誰かが乗ってくると僕はよろこんで舵を切った。
立派なもんさ。絶対にどんな暴風雨が来ても沈まない魔法の設計図。
本当は何度もビリビリに破ってはまた貼りなおした、僕の継ぎ接ぎ模様の誇りさ。
そうしてまた何百人目かの友達が、食料を買いに寄った適当な島で降りていった。
 「旅はとても楽しかった。だけどずっとこうしてはいられないことを君も知っているはずさ。僕は次の島で降りて、この船の上で出逢った大事な人と手を取り合って生きていく。」
降りていく理由はみんなそれぞれ違っていたけれど、みんながみんな同じ理由で降りていった。
これは本当にどこまでも行ける船だ。
あのずっと向こうに虹のかかる場所があるんだ。そのことを話したら笑ってくれた。微笑んで、見てみたいって、そんなものが見れたらずっと悲しかったのが無駄じゃなかったって思えるはずだって、笑ったんだ。
虹を渡ってみたくはないかい?
そう聞くと誰もが最後には、ありもしないものを追い求めるよりも、今確かに触れられるものを大事にしろと、でないといつか独りぼっちのままで死ぬぞと、頭を打った犬を看病するようなやさしい目で言った。
膝から下がなくなったような気がしたが立っていた。ちゃんと立っていた。何百回目だ。立っていた。
僕は泳ぎが得意なんだ。独り乗りの船だったらもっとはやくに完成出来た、独り乗りの船だったらもっと危なくて近道の航路で、何度だって辿り着けたんだ。
僕がどうして虹の橋を知っているか、知っている?
僕ずっと小さい頃見たんだ。ガラスの割れる音。罵声。友達の顔が歪んでナイフで僕をぶすりぶすりと刺して笑っていた。お兄ちゃんは自分の腕を切り落として可哀想ネって言ってと縋り付き、パパとママは怒鳴り合って何の責任だかわからない責任を、なすり付け合っていた。きつく、きつく目を閉じたその中で見たんだ。たった独りになったとき、世界はただ完全を僕に見せつけた。美しさに胸がふるえた。涙が止まらなかった。僕はあの美しい景色を初めから手に入れていた。たった一人であんなものを手に入れていた。どうしたらいいのかわからなかった。涙がずっと止まらなかった。空を見上げても、風に吹かれても、雨に打たれても、転んで血を流しても、僕がいきていることを教えてくれた。胸が震えていた。どうしたらいいのかわからなかった。寂しかったのかどうかももう本当に解ったことがない。ただ美しかった。自分の大切に思う人と、あの橋を渡りたいと思った。


そうして何百人の人が通り過ぎていっても、僕は船を降りない。
本当にいつか辿り着けるのかと不安に思う日があろうと、僕は知っている。
きつく、きつく目を閉じて、時にはやわらかに目を閉じて。
いつでも逢える。だから、必ず逢いに行く。


真実を一度でも見たことがある人間は、呪われてしまうという。
一度でも見られたということを、真実のほうがずっと覚えていて、見たものが忘れてしまってもその人生はずっと、終わるまでずっと真実に見据えられているのだという。
その監視の恐怖から逃れるべく、人は暇つぶしを繰り返して頭を麻痺させるが…。
誰にも見られないものなんてきっと寂しい。
それがどんな黒く、黒い、何も無い穴でも、
僕はそのことを忘れない。
僕の目とお揃いだよ。だから他の誰も知らなくたって平気さ。


そして潰した目をもう一度あけたなら、見える世界は反転していた。


もう誰も乗って来ない夜の海を僕はずっと、これからもずっと漕いで行こう。
今度は人なんて僕の他に一人しか乗れない船でいい。
誰もが目を覚ませと言った。ありもしないものを追いかけるなと。
僕を大事に思ってくれた人たちは、口を揃えて「見捨てるのか。」と言った。
目の前の手を温めるより、枯れる為の涙を流すより、張り付いた笑顔で誰かの笑顔を誘うよりも大事な、大事な僕の生きる術は。


今度は人なんて君じゃないと乗れない船がいい。
雨や嵐に沈んでも、抱き合ってきっと助かろう。僕ら、
生き延びるだけでも大正解だ。
そして必ず連れて行くよ。
独りぼっちで見たって意味がない、僕の人生の唯一の宝物。
あのずっと向こうに、
そして僕の目の奥に、
本当にあると信じてくれたね。
最初の笑顔で解ったよ。




Diva。届くかな。

明日になっても消えない。
信じるということは自分で決めること。他の誰にも出来ないこと。
代わる代わる新しい君が姿を現したが、私はそのどれもが好きだった。
どこかのバンドの汚いベースの音に、溶かされた昨日の憂鬱に、簡単に色を変えさせられて行く君が、もう目を真黒に染めるとき、それに気付いた私に気付くと、鏡を見たような顔をした。
その眉毛の角度も赤い鼻も、逸らした目の金色の星々も私の世界で一番美しい国
私その石畳の上を、星座の下を、冷たい水の流れる川のすぐ近くを、歩いて行けるならもう何も要らない。
自分を卑下すれば許されるというような風潮をまずは無視しようね、なんて事を守っても尚弱音を吐きたくなるくらい、私は胸に咲いた花を言い表す言葉も音もわからない。
何度千切って君に渡したつもりになっても気付いたら此処で揺れている。
何度泣き出せば涙は涸れるのか、何度染めれば頬はまた冷えるのか、何m上がれば大気圏を越えるのか、窒息しそう、こんなに呼吸がしていられるなんて窒息しそう。


鏡を見て君はいつもなんだか泣き出しそうな顔をするね。
そのとき世界は完全なんだよ。
Diva,君が唄った寂しさを私は、出逢った頃からずっと、ずっと宝物にしてるんだ。変だろ。
哀しみの置き場所さ。


愛を君に。
たった一言を言う為にも、地上の果てまで行ってぼろぼろになって帰ってくる。
詩人はリンゴを齧っていっそう愚かになった。
葉っぱと花びらを頭にいっぱいつけて、今日も泣きそうな顔をして突っ立っている。
渡す勇気を削りだす前にどうしてそれを取りに行ったの。
手にきつくきつく握りしめたたった一言は。
ねえ私が何をしてもそれには敵わないのかもね。
消えないよ。消えない。君が要らないって言っても一生分。私の命を。
消えないよ。消えない。私の心は君のもの。要らないって言っても引き取らないんだから。
Diva,世界は君の為にあるって、私なら証明出来るかい。
何度千切って君に渡したつもりになっても気付いたら此処で揺れているから、此処に居て。
見えるかな。見えるかな。
逢いたかったんだ。生まれる前からずっとだよ。本当だよ。



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鏡のない国 第6話「Rosie you can」

覚えてないだろ。僕ら二人であのお化け見た事あるんだぜ。
東の森の主、濃灰の巨大な化けもん、学校の裏の鉄塔は勇者の雷が降りる前に僕らで目指したね。くっつき虫を100個つけて帰ってきた。
疲れた庭のてんとう虫。シチューは母さんがどんなに僕らを怒っても暖かかったろ。
ずっと一緒に居たいって思った事あるかい。僕はあるぜ。
通り過ぎていった11月の夕空の羽根も。君は鼻水でずいぶん汚していたね。悲しかったかい?僕はあの独りで見た世界を誇りと呼んだよ。
愛って君のそのどうしようもない哀しみに一番近いんだ。どうして友達は君を毎日ナイフで刺していたんだろう?僕は怒ったけど君は笑っていたね。
僕ら本当に似てたんだ。だけどいつも挫けるのは君で、君の為に立ち止まるのが僕だった。
君は実在しないと誰もが諭したけど、僕だけは知ってた。だって僕の、この頭の指揮を取って生き延びてやりたいって思いは本物だぜ。
それなのに君は度々僕の足場を奪ってわざわざ泣いたり笑ったりしたもんだろ。どんなに嫌になってもやめないのは君の悪い癖さ。あのお城が崩れるまでもう時間がない。
君は知らないだろうけど、僕ら友達だったんだぜ。
僕は君の価値を知っていた。君は泣き出す前にいつも僕を呼んだね。それだけが「負けない」ということだった。報われない努力が在ること、叶わない夢が在ること、自分が、もしかしたら幸福ではないかもしれないという事、ひとつも認めないで走り続けていた君に、誰にも内緒で一度だけ、声に出して叫んだんだ。


もう僕は影を失くさない。愛するっていうのは、愛し続けるってことなんだぜ。
君はもう幼い頃からそう繰り返しては落胆していたね。
この影に隠れて付いておいで。君は全てを手に入れられる。もうスポットは存在しない。そこに立つ者以外をいちいち排除する必要がないからさ。
「存在する」っていうのはこういう事なのかな。僕ら一度失くした輪郭を確かめて、確かめて
「信じられない。」
「信じられない。」
って互いの目を見たね。
現在地を確かめるってこういう事だろ。過去と未来をたくし集めないで、皺の間に哀しみを隠さないで。僕は確かめる。何度でも。
未来ってそういう事だろ。


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