『青い花』と『ささめきこと』における異性愛

志村貴子といけだだたかし。「史上一番清々しい百合を描いた人」(by松苗あけみ)と、そのフォロワー。近い関係にあるのかと思えばそうでもない。

――でも細かい感情の変化を丁寧に描かれることが多い気がします。
いけだ もともと、そういうものしかできないんです。昔、「いけだくんには世界が描けないね」と言われましたからね。僕がデビューした頃に、ある編集者さんが言ったことですが、君ら若いのは半径三メートルの話しか描けないね、って。
(「季刊エス」Vol.27より)

志村 どうでしょうね・・・。私は、もっと思い切って描いてみたい気持ちもあるんです。半径2メートル以内の世界じゃなくて、やっぱりマンガだからできるってことをやりたい。
(「マンガ・エロティクス・エフ」Vol.49より)

この違いはなんなんだろうかとずっと引っかかっていた。それが、「ささめきこと」 第4話で描かれた男性性の退場劇 - 男の子は去って、女の子は残った(さよならストレンジャー・ザン・パラダイス)この記事を読んで少し整理できた気がする。

両作品における異性愛の扱われ方に注目したい。
ささめきこと』においては、男性性を排除した「女子部」が形成されている。そこでは百合という関係性の同質さが保証される。異性愛を志向していた綿木千津香は話の根幹からは退場し、朱宮くんは村雨との関係を築くために女装を始めた。朱宮くんが村雨との異性愛関係を望んでいないかどうかははっきりしない(「アケミちゃん」というキャラが失われて以降の話に注目したい)が、いずれにせよ彼は異性愛的な関係を拒絶された後は村雨との同性愛的な関係を志向している。勿論具体的な男性性が排除されたからと言って外部にある規範が影響しないことはないのだろうが、少なくとも作中においてはクローズド・サークルとして描かれている。
一方『青い花』においては、女子部のようなコミュニティは見受けられない。中心人物の外部では奥平兄とモギーなど当然のように異性愛が描かれている。また、中心人物同士の同性愛に直接関係してくるものとしても異性愛は描かれる。各務先生や康ちゃんなど。ここでは明らかに、異性愛関係が前提された、そこに包摂された形での同性愛が描かれている。

百合という同じテーマを描きながら、しかしその描き方に大きな違いがある理由の一つは恐らくこの百合に関係するものとしての異性愛の扱い方の違いにある。百合に閉じこもる『ささめきこと』と、異性愛に開かれている『青い花』。
そして、だからこそ『ささめきこと』は面白い。女子部内の関係を保証しているのは百合という関係性だが、志向という点に関しては村雨と朱宮は例外である。この二人は女子部を(少なくとも創設時において)必要とはしていない。村雨が女子部結成のために奔走したのは自身が百合というロマンティシズムに憧れたためではなく、あくまで風間がそれに憧れているからという理由だった。風間という特定の対象との関係を求めての行動であって、関係性を志向していたわけではない。これは、初めは杉本先輩という対象に憧れながら、その関係が終わるやあーちゃんへと目移りしたふみちゃんとは対照的である。対象が入れ替わったのだから当然関係は別物になるが、ふみちゃんはあーちゃんに百合という関係性の継続を求める。
青い花の場合は、異性愛に晒され、百合という関係性の担保が為されない中での人物間の感情のやり取りにその面白さがあり、作風とは裏腹に非常に戦後的だなと思う。だがそれ以上に、戦前の百合的な世界を形成するところから話を始めているささめきことの方が私には挑戦的に見える。