(187)勝利者も哀れ!

                         阪本信子 会員
 直実は敦盛の首を斬り、鎧直垂の袖に包もうとした時、腰にさしてある笛一管を見つけました。
 延慶本では笛でなく「ひちりき」ですが、笛の方が大衆向けのするモチーフです。
 しかし、何れにせよ作者が言いたいのは、これらが直実出家の動機となったということで、回りくどい言い方ですが、あの時代、こういう趣味、遊びに熱中すると、仏道修行の妨げになると思われていた。
 しかし、朝に聞いた笛(ひちりき)の音の主は、今ここに冷たい骸となって横たわっている。無常感そのものです。
 平家一門には確かに風雅な一面がありました。
 建礼門院右京大夫集からも、身内だけで優にオーケストラが編成できるくらいの腕達者揃いだったらしい。
 しかし、戦いの場では何の役にも立たず、軟弱であると非難されるのがオチです。
 作者は滅びゆく一門のはかなさを王朝風な雅に託し、それを無残に断ち切る戦いの不条理を言いたいのです。
 一方では敗者への哀惜のみでなく、直実に託して勝者の空しさ、哀れさも語りかけています。
 『平家物語』で笛の銘は「小枝」となっているが、私たちは「青葉の笛」のほうがお馴染みです。
 江戸時代頃から「青葉の笛」が一般的になり、これは謡曲『敦盛』での「青葉の笛」が広まったものです。
 須磨寺に現存してある笛が本当かどうか。
 そんなことは論外で、今では誰が何と言おうと敦盛と直実の話は物語の域を脱し、人々を感動させています。
 因みに直実が出家したのは、この時より8年後で、親戚の久下直光との所領争いの対決の場で、敗色歴然となり、キレて発作的に髷を切ったというのですが、今ではこれも無視されるほど直実、敦盛のエピソードは事実を超越して人々の心に根付いているのです。    (つづく)

(186) 若者は何故死に急ぐ

                         阪本信子 会員
 敦盛の最期はあまりにも有名で、歌舞伎、能、文楽などのモチーフとして、よく使われています。
 関東武者熊谷次郎直実は見るからに身分の高そうな一人の武者をみつけ、「かえさせたまえ」と招いた。
 武者は既に100mも海に乗り入れていたのに、引き返して直実の挑戦に応じたのです。直実は取り押さえ、頸をかこうと兜を押しのけると、わが子と同じ年ごろの美少年で、ためらったが味方が近づいてくるので、仕方なく涙ながらに頸をかき切った。これが直実出家の動機である。
 以上は皆さん周知のストーリーですが、逃げようと思えば逃げられたにもかかわらず、引き返した若武者の潔さは、読む人、聴く人に感動を与えました。
 「平家物語」の異本の中で、古態の延慶本では、知盛に続いて敦盛が海へ馬を乗り入れており、直実の声は知盛にも聞こえていた筈です。
 しかし、引き返したのは敦盛一人で、知盛は聞こえたのか、聞こえなかったのか、沖の船めざして馬を泳がせている。経験ある武士なら、こんな時に呼ばれようと卑怯といわれようと、のこのこ引き返す馬鹿はいません。
 敦盛は平家全盛時代に生を受け、戦いを知らない世代です。今、味方の敗北は明らかで、阿鼻叫喚の中を家来もいなくなり、一人で落ちゆく心細さに耐え得るしぶとさはありません。
 敦盛はまだ海に乗り入れていなかったと私は推察するのですが、現在でも年老いた人より若い人の方が、案外あっさりと生きることを諦めるようです。
 敦盛は平家の行く先、自分の将来への夢を描くことができなくなっていたのです。夢を失った彼に生はもう何の魅力もなくなったのでしょう。    (つづく)

(185) 撤退上手は戦い上手?

                         阪本信子 会員
 一の谷の合戦で多くの平家公達が死にましたが、「平家物語」の作者は彼らの最期を飾り、鎮魂の言葉としています。
 名を残すと一口に言っても、それに現世利益が付随するのは勝ち組の場合で、負ければいかに立派に死のうと、名を残そうと実質的には何の利益もありません。
 この視点にたてば、いかに称賛されようと、敗者の名は空しい名、虚名と言えるでしょう。
 本当にそんな死に方をしたかどうかは問題外で、作者は彼らに代わって最後の演出、パフォーマンスを見せているのです。
 戦いにおける死は自然死でなく、他殺もしくは自殺という異常死なのは勿論ですが「平家物語」では、一の谷合戦の真最中に戦って死んだのより、逃げてゆく途中の死に多くのページを費やしており、逃げそこねたり、味方の船に乗れなくて死んだケースの記述が殆どです。
 この時、沖に何艘の大船が待機しており、何艘の小舟がピストン輸送していたか分かりませんが、身分の低い者の中には折角生き延びながら、船に載せてもらえず、むざむざ命を失った者が大勢いたのは確かです。
 なまじ大船が沖に見えるということで、背水の陣を布いた戦いの認識が薄く、また陸路を敵中突破して逃げようという選択も考えなかったのでしょう。
 何よりも、平家は負けて逃げる場合を想定していなかったのかもしれません。義仲と頼朝が争っている間に、平家は勢力を回復していたのです。
 しかし、戦いというものは直接対決の時よりも、敗れて落ちてゆく途中の方が危険なことは、古今東西言えることです。
 撤退上手は究極の戦い上手かもしれません。(つづく)

(184)  近代にも通用する古典的犯罪

                         阪本信子 会員
 井原西鶴の「日本永代蔵」にこういう話があります。
 越前に住む利助は才覚の利く男で、お茶の担ぎ売りをするのにも工夫を凝らし、「えびすの朝茶」と触れ歩くと、縁起がよいと喉の渇かぬ人までも普通なら一服2〜3文のところ、12文も払って買ってくれたので、ほどなく大勢の手代を抱える葉茶の大問屋となった。
 嫁も貰わずかね銀がたまるのだけを楽しみに年月を送っていたが、もっと儲けたいと悪心をおこし、越中、越後に手代を遣わし、捨てられる茶殻を集め、京の染物に使うと称し、売り物の葉茶にこれを混ぜて売ったので、面白いほど儲かった。
 同じく昨今問題になっている、食用にならない米を食用米と偽り、良い米に混ぜて売るとか、外国の安い肉を国産と偽って売るなど、いずれも簡単、単純で何ら高等技術も思索も要しない、シンプルな騙しの金儲け手法です。
 元禄時代と現代が違うのは、天がこれを咎めたのか、利助は急に気がおかしくなり、自らこの悪事を国に触れまわり「茶殻茶殻」としゃべり散らしたので、信用もなくなり、人付き合いも絶え、医者を呼んでも来てくれない、結局狂い死にしたということになっています。
 現代において、これが表沙汰になった場合、その責任は直接実行犯である企業の負う所であり、その存続は難しくなるという結果になっていますが、暗黙のうちにそれを予想しながら許してきた官公庁の責任がうやむやになっているというのは何とも不思議な国です。
 しかし、所詮身の丈にあった官僚、政治家しか育てられないのですから、国民にも責任ありと天が問うているのではないかと、私は今日の不穏な世相を見て感じております。 (つづく)

(183) 公武合体政権は可能だった

                         阪本信子 会員
 平家は軍事貴族ともよばれ、貴族たちからは異端視されていますが、元を辿れば皇族であり、何代か前には貴族であったはずです。
 保元の乱平治の乱においてはお飾りであったとはいえ、名目的には藤原頼長藤原信頼ら貴族が大将として戦っています。
 つまり必要に応じて貴族の武士化がみられ、公武合体政権というのは、それほど不自然なものではなかったのです。
 ただ朝廷の上から下まで、特に中枢は貴族に独占されていて、武士が入りにくかっただけの事で、貴族たちの武士への反発は既得権益を侵害されるかもしれないと恐れたからです。
 武士は人殺しを生業とする忌むべき者という、仏教的大義名分の口実を設けて、彼らは貴族社会への仲間入りを容易に許しませんでしたが、それも自分の手を汚すのが嫌で、武士に命じてやらせたものです。
 頼朝は東国の田舎に政権を樹立し、京都政権と真っ向から対決することはしなかったが、清盛は京都にあって真正面から後白河法皇院政を否定し、政治改革に取り組みました。
 これは見方によると貴族社会に取り込まれて、ミイラとりがミイラになり、平家が貴族化したと見られなくもありません。
 残念ながら平家は頼朝と違って、政府の武力担当専任として、公的な命令によって兵力動員が可能であったのが裏目に出ています。
 つまり、平家の武力は国家権力に依存しているということで、積極的家人対策に欠けていた。
 また、清盛を除いた一門の危機感の欠如と相俟って奢る平家といわれても仕方がないでしょう。 (つづく)

(182) 色眼鏡の貴族観

                         阪本信子 会員
 平家は貴族化したために滅亡したといわれています。
 これは貴族を貶めている言葉です。
 確かに武力行使を専門職としている武士に比べ、貴族が戦いに向いているとは思われません。
 しかし、これは長い武家政権鎌倉時代第二次世界大戦)の間に培われ、多くの日本人に影響を与えた考え方です。
 特に江戸時代の国学者は公家政権を批判し、武家政権が登場したのは正当であり必然であると評価しました。
 新井白石も「読史余論」に公家は国家の害毒であるとまで書いています。
 第二次大戦の敗北によってこの考えは低調になったとはいえ、現在でもわずかに残っています。
 例えばテレビで登場する公家の多くは弱々しい癖に、陰険で薄気味悪く、メーキャップも王朝風で、現代の美意識から見れば化け物のような風貌にしています。
 腐敗した貴族支配のもとで、虐げられていた武士が苦難の末に立ち上がり、武家政権を打ち立てたという設定です。
 そこには武士は不正をしない清廉潔白という幻想があり、それが軍部の独走を許し、悲惨な近代戦争をひきおこしたのかもしれません。
 武士は潔く、貴族は陰険というイメージで「平家物語」を読むのは大いなる誤解で、人いろいろです。
 しかし、清盛を「武士そのもの」と力説する私は、やはり貴族に偏見をもっているのかもしれません。(つづく)

(181) 正しきが勝者ならず

                         阪本信子 会員
勝者が敗者に力の優越を誇るのは仕方がないとしても、道義的優越を誇るのは筋違いです。
正しいから勝ったわけではない。
 平盛俊は剛の者として聞こえた男で、個人戦ならば誰にもおくれをとる者ではありませんでした。
 それがむざむざと首をとられてしまったのです。
 源氏方の猪俣小平太を簡単に抑え込み、首を斬ろうとした時、小平太は「降伏したものの首をとる法はないでしょう」といいました。人の良い盛俊は「それもそうだ」と助け、二人で畦に腰を掛け休んでいると、源氏の武士が近づいてくるのを見て、猪俣は手柄を横取りされると、油断している盛俊を押し倒し殺してしまいました。
 猪俣の慾どおしい品性下劣を責め、情けが仇となったと嘆く前に、食うか食われるかの戦いに盛俊のこの甘さを、ご立派と手放しで称賛できるものではありません。
 しかし、実際に戦いにおいては知力体力を尽くし、生き残る為にはいかなる手段も弄するのが人情というもので、平家作者は剛の者盛俊が尋常に討たれたのではなく、それらしき理由を設定し、平家の負けるべくして負けた体質として書いたのです。
 私たちは武士といえばある種の理想像を思い浮かべますが、平家物語においては源氏の武士より平家の武士の方が高潔な精神の持ち主のように思われます。
 鎌倉幕府は秩序を保つために、東国武士のモラルの徹底に苦慮していますが、案外この話は実話だったかもしれません。(つづく)