幸せになってほしいと思う
自分は社交的な人間ではないし、友達も多くないが
だからこそ、
これまで仲のよかった人たちには幸せになって欲しいと思う。
自分も幸せになりたいと思う。
あまり説得力がないかな? どうだろう
そういうことを考える日もあるってことですね。
カラス
http://d.hatena.ne.jp/hyorohyoro/20080830#c1225383656
こーいちの挑戦を受けて。
「鳴かぬカラスは何となく?」
「何とでも鳴く」
とりあえず思いついた答えを書こう。
(我ながら良く出来た答だと思うので、
ひょっとしてどこかでこの話を聞いたことがあるかもしれない)
「AならばB」という命題はAが偽である場合、真となる。
このときBにどんな言葉が入っていても必ず真となる。
というわけで
A=このカラスが鳴く
B=そのカラスの鳴き声は○○である(○○は任意)
を代入してやれば、上の問答は理解できることになります。
まあ、でもちょっと屁理屈っぽいな。再考を要する。
背理法を現実のモデルに適用すべきでは無い
背理法を使うとき忘れてはならないこと - hiroyukikojimaの日記
バーナンキの背理法に足りないもの - hiroyukikojimaの日記
バーナンキの背理法とやらの騒動
この辺の話なんですが。
そもそも背理法とは
命題Aを示したいときに
「Aの否定」を仮定して、矛盾を導く
という手順をとる証明方法のことです。
で、この簡易版として
「Aの否定」を仮定して、現実にありそうもないことを導く
という手法を使うことがあるのです。
しかしこのやり方、
とくに「現実に適用可能と思われているモデル系」に対して使うのは
非常に危ないと思います。
なぜかと言うと、
この「モデル」が真に現実に適用可能かどうかは
そのモデルから導き出される定理やらなんやらが
現実に則しているかどうかで判断されるべきだからです。
その判定材料であるはずの定理を導く際に
「現実に在りそうも無いから」という主張を利用してしまうと
それは何の証明にもなってません。
引用した例でいうと「無税国家の存在はありえない」は
現実世界では納得できるかもしれませんが
経済学の採用しているモデル系で、即座に矛盾が導けるかどうかは
自明で無いように思います。
そういうわけで、こういう背理法の使い方は
あまりよくないのではないかと思う次第です。
(ひょっとして、引用の例では経済学のモデルではなく
現実世界そのものに対して議論しているのかもしれませんが
その場合、そもそも矛盾を導くのは不可能でしょう。)
F=ma
隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記
F=maだけど - finalventの日記
昔、読み齧ったマッハの本(多分)
マッハ力学史〈上〉―古典力学の発展と批判 (ちくま学芸文庫)posted with amazlet at 08.04.07
の内容を、かすかな記憶を元に再構成すると
ニュートンの運動法則とは、
慣性系と力と慣性質量の定義なのだという話があったように思う。
以下のような感じ。
多分、いろんなところで聞いた話や読んだ話が
混じっていると思うのが、そこは許して。
まず、ニュートンの運動法則からおさらい(wikipediaより)。
第1法則(慣性の法則)
第2法則(ニュートンの運動方程式)
第3法則(作用・反作用の法則)
で、本題。
まず、充分距離の離れた物体からの影響は無視できるとする。
第1の法則は、慣性系の定義である。どいう事やねんというと、
他の物体からの影響が無視できるような
孤立した物体を観測することを考える。
ここで、その物体が等速直線運動するように見える系を慣性系と定義する。
以下の議論は全て、慣性系において観測するものとする。
次に、他の物体からの影響が無視できるように
二つの物体(人間とボールとか)を置く。
その後、これらを相互作用させる(例えば人間がボールを投げる)。
すると、この二つの物体は互いに異なる加速度を得る。
この加速度の比から、われわれは適当な単位を使って
第2法則、第3法則を満たすように慣性質量を定義することが出来る。
すなわち、加速度の比=慣性質量の逆比。
最後に、第2法則F=maを使うことで、力を定義することが出来る。
とまあ、こんな感じの話だったように思う。
これを本で読んだのか、自分でいろんな話をつなぎ合わせたのかは
忘れてしまったのだが。
とにかく↑の話を理解したときには、かなり感動したのだった。
なんと言うか公理論的な、非常に綺麗な話に思えたから。
でもね、本当は違うんですよ。
いや、違わないんだけど。
公理論的な話(言葉遣いがあっているか自信がないが)というのは
ちょっと危険なところもあると思ってるのです。
あまりの綺麗さにそこで思考停止してしまったりする。
それで全てが分かった気になってしまうのが、(自戒を込めて)危険。
少なくとも、たった一つの公理論的方法で理解し、
それで終えてしまうのは駄目だぜと。
一つの式、一つの現象に対して
複数の観方が出来ることが大事であるという
ファインマンの名言があったと思うがこの余白はそれを書くには狭すぎる。