日本の現代演劇界で「社会派」等と呼ばれる人間がいるだろうか?
無理に言えば坂手洋二ぐらいなのではないだろうか。
「社会的な演劇」がそのまま「面白い演劇」とは言わないし、そうは思わないが、社会に対して何らかしらの表現的姿勢を持つ演劇人が少ないということは、演劇の村社会化に拍車をかけているように感じる。

卒論タイトル

「演劇異端思想人の社会へのスタンスの一考察」

<俺なりの理論>

現代日本演劇界におけるパンクスの不足。
演劇にはある種の「反発の精神」が必要だと感じる。
そこで、異端演劇人である川上音二郎を一種のパンクスとして捉える。
彼の取っていた社会へのスタンスを考察。
また、社会に対する何らかしらのアプローチを取っていた<異端な>演劇人の事例を取り上げて
なぜ彼らが社会に対して<異端>となったのか、ということへの考察。

もくじ

1 現代日本演劇界における社会に対してのアプローチ不足
2 安保闘争時にはあったであろう(これはあまりに乱暴な決め付けだから仮です)その力は何故失われたのか
3 川上音二郎の出現による日本演劇界のおおいなる変革
4 川上音二郎が社会へ与えた影響
5 邦人では無い異端演劇人の社会へのスタンスについての考察と事例
6 「パンクと異端演劇人の関連性(これは趣味の領域なんで考え中です」

あまりテーマを広げすぎると書けなくなるので、やはり「パンク」を軸に書いていきたいです。
ここで言うパンクとは、演劇創作、活動がもたらした社会へのアプローチに限定します。
若者の「フラストレイション」が演劇創作に生かされることが無い、もしくは日の目を見ないというのは少し健全じゃないんじゃないかな、と。

今はやっぱひねたり洒落こいてたりするほうが演劇も流行なんだと思う。
小劇場系にはそんなのがありふれてるし。
お台場でフジテレビとコラボレートしてる場合なんでしょうか。
テレビっていう巨大メディアに庇護されるんじゃなくて
カウンターのワンパン食らわす精神、それが格好いい、って俺は思っています。

僕の問題意識。卒論に向けての。心構え

僕は卒業論文というものを、何を書いたらいいのかわからないまま放置してきた。
これは大変に不味い。
でも卒業はしたい。
なので、僕は書こうと思う。
まず、僕はパンクロックという音楽が大好きだ。
パンクロックという音楽は1976年にロンドンで産まれた。
当時ロンドンは大変な不況で、若者たちは働き口が無かった。
イギリスという国は、階級制度がハッキリとしている国で、産まれた時からなれる職業が限定されていたりする。
その中でも、階級が下の人たちを「ワーキングクラス」何て言ったりする。
働くしかないからワーキングクラス、単純だ。
んで、この当時はワーキングクラスの奴にも仕事が全然無かった。
国中が鬱屈していたし、若者はイライラしていた。
今の世界情勢から考えるとフランスなんかが近いかもしれない。
で、ヴィヴィアンウエストウッドの旦那さんであるマルコムマクラーレンっておっさんが
「この若者たちのイライラをバンドの音にしたら世の中引っかきまわせるんじゃないか」
なんてな事を考えて、結成させたのがセックスピストルズ
漫画NANAのお陰で小学生までが存在を知ることになったセックスピストルズ
実際にはピストルズのメンバーは中産階級出身だったりするのだけど、まぁそこはうまく嘘ついてカバー。
奇抜なファッションでめちゃくちゃ単純な演奏、怒りにまかせた歌にならない歌
そんなんを歌ってたら彼らは社会現象になった。
彼らが出したシングル「ゴッドセイブザクイーン」はシングルで一位の売り上げを上げたんだけど、歌詞が不適切ってことで(女王陛下を馬鹿にした歌詞だった。日本で言えば天皇批判)その週のチャートは一位が無し、なんて状況を作った。
そして彼らは一枚のアルバムを発表しただけで、あっさり解散した。
彼らは確かに世界を変えたのだ。

んで、僕はこのセックスピストルズとかパンクが未だに大好きで。
何で好きなのかって言ったら、「権力に歯向かっていく、既存のものをぶっ壊してやろう」みたいな精神が、凄い共感を覚えるし、僕もそうやって生きて生きたいとかずっと思っていたからだ。
現時点の僕を見るととてもパンクとは言えないが(大学出ようとしてるし)、そんなわけで僕はパンクの精神というものを標榜して演劇学科での学生生活を送ってきた。

で、演劇人もやっぱりパンクな人間が僕は好きなわけで。
元々、KERA(有頂天)現、ケラリーノ・サンドロヴィッチが芝居やってるっていう情報を得て、演劇を見始めたりしたんです。
今や売れっ子の田口トモロヲプロジェクトX)のナレーションをやっている人もパンクバンドをやっていたりしたわけで。
でも、「パンク」っていう言葉は凄く定義のしどころが難しくて、
新の意味で革新的な演劇人って言うのは日本ではいないのかな、とか思っていたら、熊谷先生から凄い奴を教えられた。
それが川上音二郎だった。


で、飛ぶけど僕はほかにもシュルレアリスムが好きで

フランスの作家アンドレピエールド・マンディアルグが大好きなのだ。
彼の文体の美しさには常に心を揺さぶられてきた。
基本的にマンディアルグの小説はエロイんだけど、そのエロさが半端じゃないのだ。
演劇人だと、アントナン・アルトーかっけー!とか思ってて。
最初卒論はシュルレアリスムについて書こうと思っていた。
でも、やはり俺の脳には理解不能で。
それでまた戻って、演劇について考えていたんだけど。
今現在演劇界って言うのは本当にヤバイ。
演劇自体凄いつまらないし。
もう演劇を見て感動することなんて無い。
何でかって言うと、それは演劇が社会に対して何の揺さぶりもかけてこないからなんじゃないかと思う。
演劇って言う村社会に自分たちのフィールドを限定して、その中でぬくぬくやっているだけ。
進歩も発展も無く、ただただなんとなく芝居好きな奴が増えていく、もしくは辞めていく世界。
大体普通の奴演劇なんて見ないし。
時代が違うから、なんていって見ればそれまでかもしれない。
けど川上音二郎は違う。
川上音二郎は「演劇」そのものを変革したし、社会に対して常になんらかしらのアプローチを取っていた。
川上音二郎はパンクスだ。
パンクスな演劇人達は一体「何」を変革しようとしていたのだろう?
今演劇界に足りないのはパンクスなんじゃないだろうか?
乱暴かもしれないけど、そういう風に卒論を書いていきたいと考えている。

アートフリーマーケット用の台本を泣きながら徹夜で書いています
なかなかかけません
僕は台本を書くときはいつもいつも遅筆です
ドラグエを暇つぶしに見ていたら、なんか1万5000くらいのアクセスがありました。
これって結構すごい数だと思います。
自慢ではなくて。
僕が芝居出るときなんか精一杯呼んでも三十人くらいしか呼べません。
そこにチケットというものが存在するからです。
でもネットに乗っけた僕らの寸劇は1万人くらいのひとが見てるわけです。
うーむ。
いろいろ考えてます。
とりあえず、今日も卒制本番です。
その前に台本書かなきゃいけません。




のだいほんがなかなかかけません。
遅筆です。
でも寝てないです。
うおお

アートフリーマーケット用の台本を泣きながら徹夜で書いています
なかなかかけません
僕は台本を書くときはいつもいつも遅筆です
ドラグエを暇つぶしに見ていたら、なんか1万5000くらいのアクセスがありました。
これって結構すごい数だと思います。
自慢ではなくて。
僕が芝居出るときなんか精一杯呼んでも三十人くらいしか呼べません。
そこにチケットというものが存在するからです。
でもネットに乗っけた僕らの寸劇は1万人くらいのひとが見てるわけです。
うーむ。
いろいろ考えてます。
とりあえず、今日も卒制本番です。
その前に台本書かなきゃいけません。




劇場で行われている演劇と、劇場以外での演劇の差異について
もっともっと考えなければ。
ねみーっす。

今日は僕の父と母と犬の生活している家にいます

母の代理で今日はこのクロワッサンみたいな犬を井の頭公園で連れまわしました。
そして最近は映画を見ています。
ここ一週間で見た映画は

真夜中のカーボーイ(ダスティホフマン主演のアメリカンニューシネマ)

ゼイリブ(プロレスラーのロディ・パイパーが主演するSF映画。ジョンカーペンター監督)

・黒猫白猫(エミールクストリッツアの1995年ヴェネチア国際映画コンクール監督賞受賞作品)

メタリカ〜真実の瞬間〜(メタルバンドメタリカドキュメンタリー映画

・バロン(テリーギリアム監督のファンタジー映画)


等です。

この中でも特にお勧めは「黒猫・白猫」です。
これは、是非熊谷ゼミの皆さんにも見てほしい映画です。
クストリッツアはサラエヴォ出身の映画監督で、早くから才能を発揮してきました。
超大作「アンダーグラウンド」でカンヌのバロムドールを受賞するのですが、政治的な論争を世界中で巻き起こしてしまい、映画撤退宣言をします。
しかし、その宣言をあっさりと撤回して撮ったクストリッツア初のコメディにして、僕が最も好きな映画の一つである「黒猫・白猫」です。
ドナウ川のほとりに住むジプシーの生活や恋物語、列車強盗などが縦走に重なる映画なのですが、素晴らしいの映画のキャストの大多数を占める、本物のジプシー達です。
この映画では、職業俳優はほんの数名しか出ていません。
キャストはその辺で酒呑んでるおっさんです。
演技なんか出来るはずはありません。
撮影時間も守りません。

しかし、その本物のジプシーの顔が凄い。
みんなメッチャクチャに「濃い」顔をしていて、とにかくリアルな人生の辛苦が、一つ一つの動きに現れています。

映画の素人が、俳優に圧倒的に存在感で勝ってしまう映画なのです。

「こう見せたい」と願う表現者の意図を、素人があっさりと超越してしまう瞬間を切り取ってみたいというのも、卒論における僕の一つの目標なのだと認識しました。

少し話しがずれるかもしれませんが、我々の日常に置き換えて考えて見ました。
携帯での「自分撮り」というのは、とても興味深いパフォーマンスです。
自分で自分を撮るという時点で、多少の自己愛があるのは決定的です。
いいんです、みんな自分が大好きだから。
問題は、自分で撮った自分の写真が、「自分というイメージの最大値」として機能させたい、という意図が働いてしまうかもしれない、ということです。

気に食わなければ削除してしまうでしょう。

皆さんの携帯に、自分ひとりだけが写っている写真がありますか?
もしあるのならば、きっとその自分が、無意識化に他者に与えようとする自分の印象なのではないでしょうか。

しかし、その思いはたいていの場合は伝わらない気がします。
クールに見せたいのに「可愛いね」とか
格好つけてるのに「変な顔」とか

そんなことありませんか?