四天王寺春の大古本祭り、阪神百貨店古書ノ市ほか

 2か月ぶりの古本報告です。4月は二つの大きな古本市がありました。
 まず阪神百貨店の古書ノ市には、初日の朝、大阪で会社OB麻雀会があり、1時間ほど時間があったので覗いてきました。
オヨヨ書林の出品コーナーからは、
原葵『くじら屋敷のたそがれ』(国書刊行会、20年10月、800円)
小野恭靖『ことば遊びの世界』(新典社、05年11月、500円)
→こんな本が出てたのは知らなんだ。判じ物や漢字遊びなど例が豊富。
  
ワールドエンズガーデンからは、
金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、10年10月、400円)
関根正雄訳『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、92年2月、300円)
→「コヘレトの言葉」と共通しているものがあるとのことで。

 
 大阪市天王寺の春の大古本祭りでは、初日に古本仲間が集まりました。
まず、小町書店の5冊800円で、下記を購入。
村上道太郎『萬葉草木染め』(新潮選書、昭和59年9月、160円)
→志村ふくみの本を読んでいて草木染目に興味が湧いてきた
辻邦生『神さまの四人の娘』(湯川書房、昭和47年12月、160円)
→限定200部中56番
林屋辰三郎『西方見聞録』(筑摩書房、昭和59年9月、160円)
松本和男『詩人 堀口大學』(白鳳社、96年1月、160円)
→定価5000円のきれいな本が!
鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫、15年2月、160円)
    
次にしおり書房で下記2冊。
ウィルヘルム=ハウフ塩谷太郎訳『アレッサンドリア物語―ハウフ童話全集Ⅱ』(偕成社文庫、77年11月、200円)
→こんな全集があったのは知らなんだ、つい嬉しくなり。
ウィルヘルム=ハウフ塩谷太郎訳『シュッペサルトの森の宿屋―ハウフ童話全集Ⅲ』(偕成社文庫、77年11月、200円)
  
池崎書店では1冊のみ。
ポール・ツヴァイク中村保男訳『冒険の文学―西洋世界における冒険の変遷』(法政大学出版局、90年6月、300円)

最後に、100円均一コーナーで、「3冊まで無料」のハガキを持っていたので、下記2冊は無料。1冊は仲間にプレゼント。
栗田勇『神やどる大和』(新潮社、昭和61年3月、無料)
中尾佐助『花と木の文化史』(岩波新書、86年11月、無料)

 全部合わせて10冊、1500円。野外古本市は安さが魅力です。


 古本屋での購入は、3月に、大相撲観戦で難波に出たついでに、難波天地書房で買った1冊のみ。
堀江敏幸『坂を見あげて』(中央公論新社、18年2月、1200円)
→上に比べるとずいぶん高い

 「日本の古本屋」では下記を購入。
熊田陽一郎『美と光―西洋思想史における光の考察』(国文社、86年12月、1650円)
→ほとんど偽ディオニシウス・アレオパギテースをめぐっての論稿。

 ヤフーオークションでは下記。
伊藤海彦放送劇集『吹いてくる記憶』(思潮社、66年3月、110円)
→500部限定うち337番
アンドルー・ラング生田耕作訳『書斎』(白水社、82年9月、440円)
「europe―MÉMOIRES IMAGINAIRES」(Europe et Messidor、84年6・7月、250円)
→知らない執筆者が多いなかで、Noël Devaulx, André Dhôtel, Pierre Fleutiauxらの名があったので。
PATRICK REUMAUX『L’honorable Monsieur DHÔTEL』(LA MANUFACTURE、84年第2四半期、750円)
アンドレ・ドーテルをめぐっての随想
      

志村ふくみ『一色一生』


志村ふくみ『一色一生』(講談社文芸文庫 1999年)


 志村ふくみについては、以前、宇佐見英治との対談『一茎有情』を読んで面白かったので、少しずつ買いためていましたが、そのうちの一冊。先日読んだ若松英輔の本にも名前が出てきていたので、また読むことにしました。しばらく彼女の本を続けて読んでいきたいと思います。

 志村ふくみの魅力は、染織家として糸を染める技芸を極め、そこで培われた色に対する繊細な感受性が、文章に表われていることです。もともと文学への興味がおありになったようで、この本でもノヴァーリスゲーテマラルメ高村光太郎の言葉が引用されていますし、今読んでいる『母なる色』では、タゴールプロティノス三島由紀夫、それに『源氏物語』や短歌にも言及されています。

 この本は、4部に分かれていて、Ⅰは、色や染織に関するエッセイ、Ⅱは、少し拡げて、西陣論や芸術論、Ⅲは、家族や交友関係を語ったもの、Ⅳは日記と詩、という構成になっています。志村ふくみらしさが出ているのはⅠ部で、Ⅲ部は、母との確執を中心に生まれてから染織の道を本格的に歩むまでの苦難の道のりを綴ったエッセイ、画家を目指して奮闘する兄の姿を描いた評伝、これまで出会った人々についてスケッチが収められています。ちなみに「一色一生」というのは、藍染を極める難しさを喩えて、一色に十年というより一色に一生かかるという趣旨の言葉。

 恒例により印象に残った部分をあげておきます。 
①植物から色を染めたとき、単なる色ではなく、植物の生命がその色に映し出されているように思ったり、幹で染めると桜色、花弁で染めるとうす緑となるのは自然の周期がそこに表われていると考えたり、山野にある植物すべてから鼠色を染め出すことができることの不思議を感じたり、色と生命、自然とが響きあうさまが描かれていること。

②色の微妙さと音とを比較して、音階の場合、半音と半音の間に多くの複雑な音が隠れているように、色においても細かな色の差というものがあるとして、そして色の微妙な差や変化への感受性が言葉となって表われていること。例えば、次のような表現。

古代インドの染織品・・・インドの人々がそれらを「織られた天気」「夜の滴」「朝の霞」等と形ではとらえられぬものとして呼んでいる/p41

遠州利休という言葉のかもし出す雰囲気と実際の色、白い磁器の茶呑椀にほんのすこし呑みのこされた煎茶の夕やみに浮かぶ色とでもいおうか、その名と色のいちぶのしのびこむ隙のない秀れた感覚におどろく/p63

高村光太郎は「空は碧いという、けれども私はいうことができる、空はキメ細かいと」といっている/p70

空の滴がそのまま、私の織の中にしたたり、浸みとおって、蒸留してゆくのがよく分かる。ひとの細工などどうにもならない/p70

平安時代には、人間を守る和霊(にぎたま)が宿るといわれる薬草から色を染め、その衣を着て自らを守っていたとか、藍が一つの甕の中で、二カ月間全精力を振り絞り力を使い果たして、ある朝忽然と色をなくしたとき、思わず線香を立てたいと思わせられたというように、色の持つ呪力、生命力を指摘していること。

鳥取の弓ヶ浜というところで、農村の婦人らが手仕事として受け継いできた弓浜絣に現在取り組んでいる人が、
弓ヶ浜の人々は「豊かに貧乏してきた」と言ったことを受けて、それならば現在の我々は「心貧しく富んだ生活をしている」というべきかもしれないと書いているところ。

⑤先生が作品を出展した際、「飾り衣裳」という副題をつけたことに感動したり、「なぜ、ひとは/ガラス絵や、貝殻や、玉をみるように/織物をみようとしないのだろう」という詩を書いたり、織物を実用から美的な鑑賞に価するものとして捉えようとしているところ。

 読み物としては、Ⅲ部が面白く、「母との出会い」では、出生の秘密に悩んだ少女時代、母親が断念した染織を始めてからの母との関係など、波乱にとんだ半生が語られています。母親は、安宅コレクションの源になったと推測される安宅弥吉夫人の知遇を得たり、女学校時代の友人に青鞜の一員で後に富本憲吉夫人となった人が居たり、柳宗悦との交流があったりと、一家を取巻く芸術的な雰囲気が窺えました。その影響か、兄は画家を目指しますが、若くして病死。「兄のこと」では、芸術を志しながら煩悶する兄の心の動きを日記などを引用しながら綴っています。

 志村ふくみ自身も、母親の交友関係からいろんな師に恵まれ、それが染織家として成長していくきっかけとなったことがよく分かります。昔は人づてにいろんな人との深い交流があったみたいでうらやましい。それとも工芸の世界だから特別なのでしょうか。

若松英輔/小友聡『すべてには時がある』


若松英輔/小友聡『すべてには時がある―旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』(NHK出版 2022年)


 旧約聖書のなかの昔「伝道の書」と言われていた「コヘレトの言葉」について、このところ読んでいる若松英輔と、神学の専門家で牧師でもある小友聡のテレビでの対談をまとめたものです。NHK教育テレビの「こころの時代」で見て感銘を受けていたところ、幸い書籍化されていたので読んでみました。

 聖書そのものをまともに読んだことはありませんが、「コヘレトの言葉」というのは、旧約聖書を構成する「モーセ五書」「歴史書」「知恵文学」「預言書」のなかの「知恵文学」に属するもので、「モーセ五書」と「歴史書」が過去、「預言書」が未来について書かれたものとするなら、「知恵文学」は現在について書かれていて、「コヘレト」以外に「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「雅歌」があるとのこと、いずれも面白そうなので、また読んでみたいと思います。

 若松英輔らしさが最大限に発揮されたすばらしい対談となっています。「コヘレトの言葉」自体に、キリスト教の枠にとらわれない自由な思想があり、すべてを空と見る仏教的なものも感じられ、心にしみるような名言の数々があるうえに、それに関連した古今東西の思想家、宗教家の言葉が引用されて、宗教の本質に触れるような議論になっています。

 若松英輔は、ネット情報によれば幼児に洗礼を受けていて、小友聡は母親がクリスチャンで子どものころから教会学校に通っていたというように、2人とも幼いころからキリスト教に接していたというのが共通する点で、立ち位置が、ともに学者、評論家ではなく、宗教者、伝道師であるということから、言葉遣いもやさしく、心に響く対談になっているものと思われます。

 いくつかの主張を私の解釈を交え列挙してみますが、これらは互いにつながり支えあっているものだと思います。
①とにかく生きよ、人生を肯定せよということ:コヘレトは、それでも明日に向かって種を蒔け、たとえ明日が終わりだとしても、今日を精一杯生きよと言っている。「人生は短い、だから生きていても意味がない」ではなく、「人生は短い、だからこそ生きよう」と言う。挫折や苦しみといった、これまでは失敗に分類されていたものにこそ価値があるとする。これは、「悲しむ人々は、幸いである」というキリストの言葉に通じるものである。

②知ることではなく信じること:心に届く言葉というものは、宗教的に洗練された教理でも哲学的なテーゼでもなく、むしろ黙ってその人の手を握るといった行為こそが心に届くものである。現代人は、知恵というものは生活の工夫によって得られるものと思っているが、旧約聖書の言う知恵とは、神とのつながりの中で明らかになっていくもので、知恵は「あたま」ではなく、「いのち」によってもたらされるものである。
→そもそも世の中が不条理である限り、頭で考える知ではなく信によって対抗しなければならないということか。

③人は自分の意志だけで生きているのではなく、生かされているということ:我々はずっと「どう生きるつもりなのか」と問われ続けてきた。でも実は、現に私たちは生きていて、生かされているのである。生きるとは、自分が納得するような小さな世界で人生を決めていくものではなく、むしろ受け身の姿勢で賜物として与えられるものを待つことである。
→これは近代の個の概念と対立するもの。

④幸福とは比較するものではないこと:私たちは、誰かが作った、本当にそれが幸福かどうか分からないものを幸福として押しつけられているともいえる。自分にとっての幸福とは何かを今一度改めて見つめる必要がある。労苦についても、本来は自分が生きるために行なうものだから、人と比較するものではない。しかし現代の世の中では、他人の幸福や労苦を自分の場合と比較するようにして生きている。

現代社会がいかに貪欲なものであるか:生活水準がある程度向上しているのに、なおもっと豊かになろうとしている社会とは何なのか。いちばん豊かな社会がさらに経済的利益を追求しようとするのは、現代人の心が貪欲と嫉妬心に征服されているからである。大学では学生に優秀な人材となれと言うが、教育者がそんなことをためらいもなく言う時代になってしまった。アレントが言うように、商品やサービスを創り出す「仕事」ではなく、生活に深く根差した生きるという「労働」にこそ生命の祝福があるのに。

 インドで活躍したというカトリックの修道司祭ビード・グリフィスという人の言葉で、個々の宗教と、霊性との関係を喩えた言葉が紹介されていました。それぞれの宗教と霊性は、ちょうど手の指と手のひらとの関係で、それぞれの宗教(指)は離れて存在しているが、手のひら(霊性)によってつながっているというものです。宗教には、その根底でつながるセンスというようなものがあると思うと小友聡も発言していました。

 最後に、「コヘレトの言葉」他から心に残った言葉を書いておきます。

空の空、一切は空である(「コヘレトの言葉」第1章2節)

母の胎から出て来たように/人は裸で帰って行く。/彼が労苦しても/その手に携えて行くものは何もない(〃、第5章14~15節)

生きている犬のほうが死んだ獅子よりも幸せである。/生きている者は死ぬことを知っている。/けれども、死者は何一つ知らず/もはや報いを受けることもない/・・・/太陽の下で行われるすべてのうちで/彼らにはとこしえに受ける分はない/さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。/あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい(〃、第9章4~9節)

たらふく食べても、少ししか食べなくても/働く者の眠りは快い。/富める者は食べ飽きていようとも/安らかに眠れない(〃、第5章9~11節)

すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。/これこそが神の賜物である(〃、第3章12~13節)

すべての出来事には時と法がある。/災いは人間に重くのしかかる。/やがて何が起こるかを知る者は一人もいない(〃、第8章6~7節)

貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください(「箴言」第30章7~9節)

若松英輔『神秘の夜の旅』


若松英輔『神秘の夜の旅』(トランスビュー 2011年)


 タイトルに惹かれて買いましたが、内容は、越知保夫という50歳で亡くなった文芸批評家についての評論。若松英輔が書いた二冊目の本です(一冊目は、井筒俊彦について書いた本)。前回読んだ二冊に比べると、文章が硬いような気がしますが、若書きのせいか、力が入りすぎているせいか、それとも引用されている越知保夫や、吉満義彦、井筒俊彦の文章がみんな生硬で、それらに引っ張られているせいでしょうか。彼らよりは、まだ若松の文章のほうが、幼いころからキリスト教の説教に親しんでいるせいか、少し柔らかいと思いますが。内容も少し難しくて、よく分からないところもありました。

 ひとこと印象を言えば、越知保夫というあまり世間に知られていない批評家を顕彰しようという意欲が感じられすぎて、自然さが失われているように思いました。例えば、西洋中世の吟遊詩人が歌った愛は、古今集の雅に通じると最初に言ったのは越知だとか、越知は小林秀雄が将来宣長論を書くのを見通していたとか、中村光夫が「祈りの喪失」を論及していると指摘した人は越知の前には居なかったとか。

 この本には、若い日にある知的な探求を開始した人によく起こる現象がみられます。ある人物を探求しようとして、その人物にまつわるいろんなことが次から次へと関連づけられて、視野が広がって行くというあり方です。著者も、文中で、「越知を論究しようと書き進めると、越知以外の人物が、いっそう何かを強く訴えかけてくる衝迫を拭うことができない」(p92)と告白しています。また、「越知は、『小林秀雄論』で単に小林秀雄を論じているのではない。小林に随伴されつつ辿りついた場所の『風景』を、明示しようとつとめている。また、その道行きで、交差した人々を含む『風景』を活写しようとした」(p93)とも書いていますが、これは、若松英輔自身が越知に対してしていることではないでしょうか。

 いくつか私なりに気付いた論点を書いておきます。
①中世では、自然は超自然によって意味づけられていたが、近代になると、そうした超自然とは切り離された自然を新たに発見することになった。近代とは祈りが失われゆく時代とも言えるが、祈りに対立するものが技術とすれば、祈りの喪失とは技術化ということになるが、はたしてそれだけで近代といえるか。
→最後の部分がよく分からない。

②生者間の交流を意味するコミュニケーションとは別に、死者との交わりも意味するコミュニオンという言葉がある。亡くなった人なら今、どう感じ、何を思っているかに思いを馳せることが重要で、死者たちの声に耳を澄まさなければならない。「死者たちはあなたの内部で生きようとしており、自分たちの欲したものをあなたの生命が豊かに展開することを欲している」(アラン)
→言わんとすることは分かるような気もするが、突き詰めるとやはりよく分からない。

③昼は現象の世界だが、夜は実在の世界である。中世の歌人にとって、月を眺めることは、単に美しい天体に見入ることではなく、実在に触れることであった。「地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、何か言いしれぬ魅惑がある」(井筒俊彦)のである。

④哲学者が考え、分析し、謎を解決しようとするのに対して、詩人は逆の歩みを取る。彼は謎を愛し、それをいっそう生々と現前せしめようと願うのである(越知保夫)。

⑤人間、動物、植物、鉱物それぞれは、一つの霊魂から生まれている。それぞれが表象しているのは、一つの霊魂の部分であるが、しかし、無限者である一つの霊魂の内にあることで、不可分的に存在しているのである。もしこの考え方に従うなら、私たちは、「花が存在する」ではなく「存在が花する」と言わなくてはならない。

⑥我々はいちいち自分の認識を疑うわけには行かない。でないと、日常生活が送れなくなってしまう。しかし、我々は、他人と同じものを見聞きしているつもりでいるが、現実は、人それぞれ別の世界を認識している。あたかも我々には共通感覚があるように思っているが、文化が違えば星座の読みも違い、色、音、香の意味も異なる。
→この後、「主体的に働いているのは人間の意識ではなく、逆にものの側ではないか」というようなことを書いています。実は、この最後の展開は上記⑤にもかかわる重要な部分だと思いますが、よく理解できないでいます。

若松英輔の二冊

  
若松英輔『悲しみの秘義』(文春文庫 2023年)
若松英輔『生きる哲学』(文春新書 2016年)


 堀江敏幸の後は若松英輔を少し読んでみます。この二人は、文章の風合いも書いている内容も異なりますが、私のなかではなぜか同じグループのように感じています。二人とも、大学でフランス文学を学んでいて、しかもその大学が早稲田と慶応という仏文の伝統ある両校であること、生まれも近いこと(1964年と1968年)、片や岐阜、片や新潟と地方出身者であること、などがそう思ってしまう理由かもしれません。

 しかし読めばすぐ分かりますが、両者の違いは、堀江のほうがフランス文学の王道に近いところを歩んでいるのに対し、若松英輔はフランス文学からは距離を置いた文芸批評家であり、また実業家でもあり、宗教家でもあるというところです。若松英輔の書籍を読むのは今回が初めてですが、これまで教育テレビの「こころの時代」に出演してるのを見たり、「中央公論」のインタビュー記事を読んだりして、共感していました。

 『悲しみの秘義』が詩人でない人の詩を扱っているとするなら、『生きる哲学』は、哲学者でない人の哲学を扱っているといえるでしょう。この二冊は、とくに宗教家としての一面が濃厚に出ています。奥様を亡くした後に書かれたものなので、全体に死についての考察や死者への鎮魂の思いが感じられるのがその理由です。同じく妻を亡くした堀辰雄原民喜、上原專祿、C・S・ルイス、また妹を亡くした宮沢賢治柳宗悦、夫を亡くした須賀敦子が取り上げられ、師である井上洋治神父への追悼や、万葉集の挽歌、古今和歌集の哀傷歌に関する文章があり、それ以外にも、原爆の災禍、ハンセン病水俣病に直面した原民喜北条民雄石牟礼道子らについて語っています。

 いくつか両書に共通する考え方感じ方があるように思えましたので、私なりの考えを交えて、それを抽出してみます(いろんな人の引用がまじっていますが出典は略)。
①ひとつは、すべてはその人の心に内在しているという思想:知るべきことはすでに私たちの内に存在しており、何かが分かったというとき、それはその人の内に宿っていたものが明るみになるということである。他者の詩を読むことによって自己の内心の奥深く潜むものを知ることがあるが、そもそも初めから本能的に自分に近い言葉を他人の詩の中に見出そうとしているのである。これは、彫刻家が、石に像を刻むのではなく石にあらかじめ存在している像を彫り出そうとする姿勢と共通するものがある。

②外部からの声を聞くことで目覚めさせられるということ:外部の言葉であっても書き写すことによって自らの言葉へと変じていくことがある。また外部からの声に気づかずまたその意味が理解できずに沈黙にしか見えない場合もある。経験に意味が潜んでいたとしても、それが認識されるには時間の経過が必要だからである。犬笛の音が人間の耳には聞こえないように、現代人が容易に認識できない感情があったとしても不思議はない。美を感じとるには、その場の一回性が重要で、我々の内なる光と共鳴するタイミングが重要ということだろう。

③われわれが呼びかけるのではなく、われわれが呼びかけられるのだということ:人麻呂は歌人である前に祭司であり、語る人である前に何ものかが託そうとする言葉を聴く者だった。花は人の呼びかけに応えるのではなく人に呼びかけている。生きることは、世界を変えようと願うことではなく、世界からの語りかけに耳を傾けることである。また悲痛とは、しばらく立ち止まって時間によって癒されるがよい、という人生からの促しなのかもしれない。

④人生の実質というものを大切にしていること:人格というものは絶対的に個的なものであり、固有の意味を持っているものである。人は二つの道を同時に考えることができても、同時に歩むことはできない。またある仕事について知るということと、ある仕事を生きるということは大きく異なる。その仕事の労苦を身をもって感じている者だけが、そこに潜んでいる喜びを見出すことができるのだ。人間を上から眺めている人は、よく見えるかもしれないが、自分が同じ人間であることを忘れてしまっている。

⑤哲学は叡知を愛すること、宗教は求道であり、ともに動くもの生成するものとして捉えなければならないこと:ソクラテスの哲学は真理を言い当てることではなかった。それゆえ生涯を通じて何ら結論を言い残さなかった。情報過多の時代にあって情報に心を占領された者は結論のみを求め考えることを止めてしまっているが、考えるとは、情報の奥にあるものを見極めようとする営為である。宗教も、建物や教義、あるいは教団といった固定化されたものではなく、超越を求めるような働きを意味するものである。

 最後に、色、光、風、自然に関する美しい考察がありましたので、それを紹介しておきます。
『悲しみの秘義』では、

色は、象徴の手段として用いられただけではない。色にはもともと、魂を守護する働きがあると信じられた/p190

『生きる哲学』では、

眼を閉じ、耳を開いて傾聴してみるがよい。いともかすかな気息から荒々しい騒音にいたるまで・・・そこで語っているのは自然そのものである。自然はこのようにその存在、その力、その生命、その諸関係を啓示しているので、無限の可視的世界を拒まれている盲人も、聴覚の世界の中に無限の生命あるものを捉えることができるのである(ゲーテ『色彩論』)/p95

無色は自然界には存在しない。凝視すれば水にさえ色を見ることができる/p102

色とは、彼方の世界からの光が、この世界に顕現したものである(ゲーテ)/p103

緑・・・を植物から引き出し、糸に染め出すことはできない。緑だけでなく、肉眼で植物に見られる色は染め出すことが難しい。桜色は桜の花びらからではなく、花が咲く前の枝や樹皮から生まれる(志村ふくみ)/p107

黄色の染料の元になる植物は皆、燦々と太陽の光を浴びて育った植物である。志村は黄色を「光に最も近い」色だと書いている・・・「黄色の糸を藍甕につける。闇と光の混合である。そして輝くばかりの美しい緑を得るのである」(志村ふくみ『ちよう、はたり』)/p108

人は、常に今にしか生きることができない。やわらかな風は、どこまでも今を愛せと告げる。語るのは自然であり、聴くのが人間であるという公理を、風は幾度となく示そうとする/p121

堀江敏幸『回送電車』ほか

  
堀江敏幸『回送電車』(中公文庫 2008年)
堀江敏幸『一階でも二階でもない夜―回送電車Ⅱ』(中公文庫 2009年)


 堀江敏幸は、この「回送電車」をシリーズ化していて、現在Ⅵまで出版されているようです。『回送電車』の冒頭に、「回送電車主義宣言」というのがあり、その趣旨を次のように説明しています。回送電車というのは、踏切で待っている通行人をあざ笑うかのように通り過ぎてますますイライラを募らせる存在で、特急でも各停でもなく役立たずな一方で業務上必要という中途半端で居候的な性格があり、これは自分の評論や小説、エッセイを横断する散文の性格に近いもので好感を持っていると。これは一種の偏屈の美学と言ってもいいものではないでしょうか。

 偏屈の美学は、テーマとして取り上げるものに表われています。臍麺麭の捩ぢれたのであったり(「贅沢について」)、他の動物との類似を否定することでしか自己を表現できない四不像という動物(「引用について」)、季節に関係のない里程標としての誕生日(「誕生日について」)、上でも下でもないどっちつかずの踊り場(「梗概について」)、あまり見向きもされないトラクター(「三行広告について」)、鶉でも鶏でもないちゃぼ(「さびしさについて」)、二輪にリヤカーをつけたものでもなく四輪の安定感も拒否する三輪自動車(「引っ越しについて」)。

 偏屈の美学へのこだわりはあくまでも心構えのようなものであって、実際には、雑誌や新聞へその都度寄稿した随筆を集めたものですから、いろんなタイプのものが混在しています。それを何か私にはよく分からない基準に従って両冊とも4章に分類して掲載しています。かろうじて推測できるのは、『回送電車』の場合は、4章に分かれたうちの「Ⅰ」が上記の回送電車の趣旨に見合ったエッセイをまとめたもので、「Ⅳ」は身辺の小物について書かれていて題名がカタカナ語でほぼ統一されているということかもしれません。『一階でも二階でもない夜』では、「Ⅱ」が作家についてのエッセイ、「Ⅳ」が身辺雑記といった分類でしょうか。

 基本は、生活や読書を通じて体験したことをもとに綴っていますが、それを私のほうで無理やり仕分けすると、フランス文学者らしくフランスの文学芸術に触れたもの、さらに広げて海外や国内の文学に触れたもの、小学校から中学校にかけての読書体験、フランス滞在中の生活に題材をとったもの、国内の地域に関するもの、道具や食べ物などの消費財やスポーツに関するものなど、種々雑多です。

 近松秋江和田芳恵山口哲夫神西清山川方夫、吉江喬松、八木義徳など、日本のマイナー作家をよく読んでいて教えられることが多いこと。また、身辺雑記で面白いのは時代の風潮が味わえることで、Eメールが登場したばかりの頃の懐かしい話題がちらほらとあったりします。こうした話題の豊富さや、二人の会話体で綴られた「あの彼らの声が…」のように才気走った筆遣いは、随筆の名手と言われた辰野隆の現代版といったところでしょうか。

 全体的な印象としては、魂に触れるような切実な文章と、身辺雑記を洒落た感覚で味付けした軽い読み物とが、混在しているように思われます。私の感覚が古いのかもしれませんが、身辺雑記のなかの消費財に関するものは、ひと頃の都会派雑誌が称揚したような物質文化に汚染されている気がしてあまり歓迎できません。

 なかで私がとくに惹かれたのは、『一階でも二階でもない夜』に含まれたエッセイで、フランシス・ジャムがアルベール・サマンの死を悼む詩を取りあげた「此処に井戸水と葡萄酒があるよ」、須賀敦子、宇佐見英治のそれぞれの文章へのオマージュとともに、束の間の交流を語る「断ち切られた夢」と「存在の明るみに向かって」。いずれも私の好きな文人に関わるエッセイです。他に早稲田の古本街の思い出を語った「古書店は騾馬に乗って」、ハードボイルドな味わいのある「順送りにもたせて生かしときたい火」、初期の作品『郊外へ』に連なる「跨線橋のある駅舎」。

堀江敏幸の二冊

  
堀江敏幸『正弦曲線』(中央公論新社 2010年)
堀江敏幸『その姿の消し方―Pour saluer André Louchet: à la recherche d’un poète inconnu』(新潮社 2017年)                                              


 清水茂や伊藤海彦、矢内原伊作と、最近フランス系エッセイを読んできたので、その流れで読んでみました。堀江敏幸の作品は、98年頃に、『郊外へ』、『おぱらばん』と続けて読んで、小説とエッセイの中間を行くような不思議な境地に引きずり込まれ、フランスものの書き手でそれまでにない新しい感性を持った世代が登場したと衝撃を受けたことを思い出します。

 はっきり覚えていませんが、洒落た文章からは、村上春樹のフランス版のような印象も持ち、村上春樹フィッツジェラルドやカーヴァーなどアメリカ作家から影響を受けたとすれば、堀江敏幸にはモディアーノの影響があるように思いました。その後、『ゼラニウム』、『熊の敷石』を読み、ともに小説的な要素が強くなったというぐらいで、内容はよく覚えてませんが、いずれも高評価をつけています。

 今回は、『正弦曲線』はエッセイ、『その姿の消し方』は長篇小説の体裁をとっています。何と言っても惹きつけられたのは、『その姿の消し方』のほうです。冒頭何とも言えずミステリアスな滑り出し。
留学時代に古物市で偶然古い絵はがきを購入し、その通信面に書かれたぴったり10行の矩形に収められた詩が気になって、古物市の絵はがき屋に、同じような絵はがきがあればと頼んだところ、半年後に1枚、それから1年半後にもう1枚と入手できた。それらすべてに1行の矩形の詩が書かれていて、絵はがきの絵柄、差出人も宛先も同一だったというものです。その詩がまたシュルレアリスム詩のような散文詩でなかなかいい。

それから10年以上経って、再びフランス滞在の機会があったとき、思い切って絵はがきの写真の町へ出かけて役所に問い合わせると、差出人が隣の市の会計検査官だったことが分かり、そこから、その人の孫と会ったり、その会計検査官のポートレートを持っているという古物商から、商工会のパンフレットに落書きされた4番目の詩を入手したりと、新たな展開をしていきます。この謎を追う展開は、モディアーノの小説を思わせます。

 フランス留学時の体験に基づいたエッセイかと思って読み始めましたが、あまりに意外な展開の仕方をするのと、引用されている詩が出来過ぎなので、長篇小説だとするのがまっとうだと思い直しました。しかし事実のような気もするし、どこまでがフィクションでどこまでが事実かよく分かりません。もしこの話がまったく架空の話であるなら、著者の才能は凄いとしか言いようがありません。

 小説としての構成上、謎を解くポイントが複数あり、一つが絵はがきの写真の建物、一つが差出人の名前(住所なし)、一つが宛先の女性の名前と住所、一つが投函された年月、そしてもう一つが、書かれている詩そのものです。途中、その詩の解釈をめぐって、詩行が反復して引用されるのが、詩の味わいを深めて、とても効果的。しかし作者は一方でこう書いています。「もっともらしい読み筋を示したとたん、絵はがきの文言をただ飲み込んだ瞬間の驚きと心地よいめまいは消えてしまう」(p73)。その驚きと心地よいめまいこそが詩の核心です。

 出だしのスリリングな作品では、後半は、期待の重さとのバランスを欠いて失速してしまうことがよくありますが、本作も、冒頭章の「波打つ格子」からちょうど真ん中あたりの「数えられない言葉」の章あたりまでは緊張感が持続しますが、私の読み方のせいもあるのか、その後が散漫な感じになってしまっているのが残念。


 『正弦曲線』は、46の章に分かれたエッセイ集ですが、独特な感性が感じられました。それは、三角関数の正弦からはじまり、地球ゴマ、風景の曲線、階段の歩幅、声の波長の正弦曲線、楕円(オブラート)、上昇気流、グライダー、周期律表、海の深さの測量、曲線軌道、転轍機など、幾何や物理の要素が一つの基調となっていて、それに文学的な見方が加わり、文理の入り混じった独特な境地が醸成されていることです。

 そういうこともあってか、どちらかと言えば、理屈っぽい文章にはなっていますが、日常生活のなかから、他の文芸作家が無視するようなネタをうまく見つけ出す感性はさすがです。本人は田舎育ちと謙遜していますが、なかなかの都会的な感性の持ち主で、団塊の世代の私などとは違う世代的な若さを感じます。

 ただ悪く言えば、前回読んだ伊藤海彦の大人びて落ち着いた筆致と違って、どこか人より一頭地を抜こうとするような、気の利いたフレーズを入れたり、話の最後に落ちをつけずにはおれないようなところがあるのが、少々気になります。別の言い方をすれば、自然ににじみ出るという感覚がなく、つくりもの感が残るということです。『おぱらばん』や『郊外へ』を読んだときは気になりませんでしたが、今から考えると、すでにその要素があったのかもしれません。