Iwan Gilkin『Ténèbres』(イヴァン・ジルキン『暗闇』)


Iwan Gilkin『Ténèbres』(Edmond Deman 1892年)のリプリント


 5、6年前にこの本の原本初版がオークションで出品されていて、初めてこの詩人のことを知りました。そのとき、面白いと思ったので入札しましたが当然高値で落札できず、bookfinderで検索して、インドから取り寄せたリプリント本がこの本です。送料込みで1164円でした。フランス国立図書館のテキストサービス「Gallica」でも無料でデータの入手が可能です。

 後で、Gilkinについて調べてみると、フランス語版のウィキペディアには出ていて、また所持しているフランス語の近代フランス詩アンソロジー(3冊)には、作品がいずれも数編ずつ掲載されていました。が、日本版のウィキペディアには情報がなく、所持している翻訳のアンソロジー(25冊)に当ってみましたら、かろうじて矢野峰人が『世界名詩選』(毎日新聞社刊)のなかでイーヴァン・ジルカンの名前で3篇訳しているのが見つかった程度です。堀口大學や、永井荷風鈴木信太郎大手拓次あたりがもっと訳していてもよさそうですが。ちなみに、この矢野峰人篇の『世界名詩選』には、シャルル・ヴァン・レルベルグ、グレゴアル・ル・ロア、アドルフ・レッテなどの珍しい詩も収められています。

 過去の読書ノートを検索してみて、フィリップ・ジュリアン杉本秀太郎訳『世紀末の夢―象徴派芸術』のなかに引用されていることが分かり、さっそく本棚から抜き出してみると、読んだ時にはあまり印象に残らなかったのに、全部で8篇の詩が引用されていました。そのなかで、本詩集の作品が、「変容Ⅳ」(『世紀末の夢』p98)、「マギの苦悩」(p177)、「月の光」(p202)、「先駆者」(p300)、「メデューサ」(p304)、「魔術師」(p325)の6篇ありました。

 ネットの記事によると、イヴァン・ジルキンは、1858年ブリュッセル生れ、1924年同市で没。カトリックルーヴェン大学で法律を学んでいる時に、ヴェルハーレン、アルベール・ジローと知り合い、文学の道へ転身。ローデンバッハらとともに、「若きベルギー」を結成し、後にベルギーのアカデミー会員に選出される。数々の詩集、歴史に題材をとった戯曲のほか、オマル・ハイヤームの訳詩もある、とのこと。

 本詩集には、全部で31篇の詩が収められ、4節からの短い詩もあれば、4部に分かれ8頁にもわたる長い詩もあります。私がぞくぞくとした感銘を受けたのは、「LA PENSÉE(思念)」、「ALADIN(アラジン)」、「LE POSSÉDÉ(憑かれた人)」、「LA BOUCHE(口)」、「MÉDUSE(メデューサ)」の5篇。次に気に入ったのは次の15篇。「LE MENSONGE(嘘)」、「LE LÉVRIER(犬)」、「CHEZ PUTIPHAR(ポティファルの家で)」、「CLAIR DE LUNE(月光)」、「LE JOUEUR DE COR(角笛吹き)」、「ARBRE DE JESSÉ(エッサイの樹)」、「LA DOULEUR DU MAGE(マギの苦悩)」、「REQUIESCAT(憩わんことを)」、「LA LYRE(竪琴)」、「ÉVOCATION(招魂)」、「SÉRÉNADE(セレナード)」、「TRANSFIGURATION(変容)」、「PRÉCURSEUR(先駆者)」、「LE SORCIER(魔術師)」、「ET ERITIS SICUT DII(そしてあなたは神になるだろう)」。

 ウィキペディアでも、ボードレールロートレアモンの影響が指摘されていましたが、まさしく世紀末の雰囲気に満ちた詩群です。頽廃、官能、色彩、陰鬱、無気力、悪徳、夢幻・・・。『悪の華』のかなり強い影響があるような気がします。といってもフランス語でまともに読んだ詩集は『悪の華』ぐらいですが。ジャン・ロランの語彙にも近い。

 私の理解の範囲ですが、詩に描かれている世界としては、キリスト教的な悪魔の誘惑との戦い(「LA DOULEUR DU MAGE」、「JETTATURA(邪眼)」、「LUCIFER(ルシファー)」)、悪の瘴気のたちこめるおぞましい世界(「SÉRÉNADE」、「MÉDUSE」、「LE SORCIER」)、老いて無気力な諦観の境地(「REQUIESCAT」、「LA PENSÉE」、「DIALOGUE(対話)」)、女主人に隷属する快感の世界(「LE LÉVRIER」、「LE POSSÉDÉ」)、若い裸体の群舞の風景(「PAYS DE RÊVE(夢の国)」、「ET ERITIS SICUT DII」)、月光・陽光の賛美(「CLAIR DE LUNE」、「LUMEN(光)」)、憧れの女性も肌が透きとおれば肉の塊と化すグロテスク(「TRANSFIGURATION」)、苦痛と死と快感の結合(「ARBRE DE JESSÉ」)、唇の赤と芳香の眩暈(「LA BOUCHE」)など。

 さまざまな種類の動物の名が出てきました。蛸、白鳥、ノロ、青蛇、朱鷺、蝶々、仔羊、孔雀、火蛇、スフィンクス、鴉、夜啼き鳥、海月、白鳩、梟、狼、蛙、蝙蝠、ハチドリ。植物も、睡蓮、葡萄、菩提樹グラジオラス、チューリップ、百合、薔薇、梨、杏、スグリ、李、木苺、薊、葦、牡丹、藤、ベラドンナ、海藻、山査子、林檎、毒茄、麻、マンドラゴラ、蔦、椰子、無花果、マンゴー。宝玉鉱物も、琺瑯、エメラルド、青真珠、ルビー、金、象牙、黒瑪瑙、黒檀、珊瑚、アクアマリン、トパーズ、サファイアオパール、緑柱石、赤瑪瑙、金細工、ダイヤモンド、タンタル石、紫水晶、緑玉髄。色彩用語もたくさん出てきましたが書ききれないので略。豪華絢爛な詩の世界が理解できることと思います。

 本来なら私のつたない訳詩をご披露すべきところですが、ジルキンの名を汚してはいけませんので、『世紀末の夢』の杉本秀太郎訳から、本詩集に収められている詩の一部を引用しておきます。
そして紺碧の、エメラルド色の、すばらしい孔雀が、/真珠色の青い尾長鳥が、そして朱色の紅鶴が、/あたり一面、痣のように、ルビーの散っている暑い露台に/しずかに歩いている、黄金の壷のあいだを縫いながら。(「マギの苦悩」)

月の光にまっ白い白鳥が/流れる羽根といっしょに/白い霧のなかを、褐色の水の上を/液状の舟のように滑る。(「月の光」)

みだらな眩暈を 一息に飲みなさい/怪物じみた性交の催淫剤を/乱行と 憎悪と/そして近親相姦的大暴行の血をお飲みなさい(「魔術師」)

 何といっても、矢野峰人の古色の訳しぶりが最高です。本詩集掲載の作品ではありませんが、私の所持するフランス語版アンソロジーの二冊ともに収められていたので、たぶん代表作と思われる「LE MAUVAIS JARDINIER(惡しき園丁)」の訳詩の一部を引用しておきます。
怪奇の花匠ら、冬枯の園に来りて/人知れず忌まはしき種子(たね)蒔きゆけば、/茎たちまちに蠢めき出で、泥に塗れし、/泥沼の岸に絡みて、睡める蛇にも似たり。//その珍しく、大いなる恐ろしき花、/眩暈(めくるめ)くほどなやましき香気のなかに、/誇りがに、毒を含みて綻(ほころ)べば、/死は花の夷(えびす)めきたる美の中にあらはれ来(きた)る//(以下略)

 今回は、ページ数が113頁と少なかったのに、読むのに難儀しました。ひとつは、この本に限った特殊なことですが、活字のsの字がʃのように細長くなってfと紛らわしく、読みにくかったこと。それからもっとも大きな原因は、やはり詩を読むことの難しさです。文章の主語、述語、修飾句が、時には転倒しながら、行またがり、あるいは節またがりとなって、文脈の理解を阻むからです。単語のもつ喚起力を頼りに、何とか雰囲気だけは味わえますが、詳細はよく分からないまま。再度出直して読む必要がありそうです。

続・志村ふくみの二冊

  
志村ふくみ『語りかける花』(人文書院 1993年)
志村ふくみ/志村洋子『たまゆらの道―正倉院からペルシャへ』(世界文化社 2001年) 


 また志村ふくみの続き。今回は、1980年代から新聞や雑誌に連載または掲載された随筆を集めた『語りかける花』と、娘の志村洋子との共著で、志村家の染織のルーツに始まり、日本の古代の染織や日本各地に伝播した染織、さらにその遠いルーツであるペルシャでの見聞を綴った『たまゆらの道』の二冊。


 『語りかける花』は、これまで読んだエッセイと同様、染織の体験を通して個々の草花の話題や色に関する文章が中心ですが、これまで読んできた『一色一生』、『母なる色』、『色を奏でる』と似たような内容のものが目につきました。昔、渡辺一夫鈴木信太郎辰野隆らフランス文学者の随筆を読んだ時、同じ随筆がいろんな本に重複して掲載されているのに驚いたことがありましたが、志村ふくみの場合は、同一の文章のものもありますが、どうしても力を込めて書きたいことは同じになるということでしょうか。また売れっ子の随筆家はいろんな新聞雑誌へ執筆するので、自然とそうなってしまうのでしょう。

 いくつか気がついた例を挙げてみますと、
矢内原伊作の詩に触れた「とりかぶと」(p43)と『母なる色』の「とりかぶと」(p101)
「草木抄」の「山桜」(p96)と『母なる色』の「山桜」(p79)
「草木抄」の「藤」(p97)と『母なる色』の「藤」(p85)
「藤原の桜 壱」(p129)と『色を奏でる』の「藤原の桜」(p116)
は、ほとんど同一の文章になっています。『語りかける花』のほうが『母なる色』より古いので、『母なる色』の方が重複させたわけですが。

 また細かい類似について言えば、
「とけい草」に触れた部分(p26)と、『色を奏でる』の文章(p28)
「視覚混合」についての文章(p87)と、『色を奏でる』の「真珠母色の輝き」の文章(p66)
「莟紅梅」のなかの薬草を身に纏ったという染織のルーツを語った部分(p163)と『一色一生』の「色と糸と織と」の一節(p32)
が共通していました。

 もちろん染色体験に関する話は、何度も繰り返し出てきます。花からでなく幹や枝からでないと花の色に染まらないとか、植物の緑から緑は染まらないという話や、甕のぞきなど藍の建て方の難しさ、蘇芳、紅花、茜など赤の種類が女性のいろんな様態の表現になっていること、鼠や茶の色の種類の多さなど。やはり重要なことなので、何度も力強く主張しているということでしょう。

 新しい話題としては、神秘主義的な側面では、次のような文章がありました。

鉱石の、たとえばルビーやサファイヤの色は地球が太陽から分離した時、遊星ののこしていった色というか、いまだに遊星とのかかわりをつづけているという/p98

不空羂索観音も、伎芸天も実はものすごい妙音を発していたのではあるまいか。そのうるわしい大音声を我々はもはや聞きとることができなくなったのではないか・・・いささかもかえりみることのない民衆の中に、ただひとりでもみ仏の声をきくものがいたら、あの羂索をもって苦海に沈みゆくものを掬いとりたいと願っていられるのではないだろうか・・・我々は祀ることを忘れ、祈ることを忘れ、古代の人々にその非礼をわびねばならない/p200~201

色は見えざるものの彼方から射してくる。色は見えざるものの領域にある時、光だった。光は見えるものの領域に入った時、色になった。もしこう言うことが許されるなら、我々は見えざるものの領域にある時、霊魂であった。霊魂は見えるものの領域に入った時、我々になった、と/p204

人間の体の中には、川や、森や、谷や、泉があるにちがいないと思えてくる。宇宙の惑星さえも、どこか人体と呼応しているように思えてくる/p224

 他に、色と匂いの関係について、ある座談会のなかで、古代には「匂ふ」というのは派手に浮き立つ色の表現だったが、それがいつの間にか嗅覚の匂いになったという意見と、染料は実際に匂いを発するのでそこから色についても匂うという表現が生まれたという意見の対立があったことを紹介した後、自身の染織の体験から、色と匂いが一体であるという感覚について述べていました。

 片山敏彦に歌集『ときじく』というのがあることを知りました。片山敏彦らしい思弁的で神秘的な味わいのある歌です。何とか入手してみたいものです。

ひとすぢの 細き光の糸ありて 螺旋の道を 星にみちびく
うつそみの ひと日ひと日にこだまして きこえやまざる 神の笛の音/p222


 『たまゆらの道』については、志村ふくみと娘の志村洋子とが交互に書いていて、娘さんの文章がやはり親に似ており、また文章の最後になって初めて著者の名前が分かるという編集の仕方なので、読んでいるとき誰の文章か分からないのが困ったもの。文章はよく似ていますが、やはり母親の志村ふくみの方に深みがあるように思います。

 いくつか印象に残った部分を紹介しておきます。
①釈迦が居た時代は、衣のなかでもっとも尊ばれたのが、汚れた布や死人の着用していた糞掃衣(ふんぞうえ)で、腐った衣が修行僧に纏われて光り輝く霊衣になるとあり、また薬は腐尿薬が尊ばれたともあったというのを読んで、聖徳太子の片岡老人の逸話はこんな精神風土から来ているのかと感じたこと。

②宇佐見英治が毛越寺について書いた、「草茫々の中の礎石を見ていると、建てられた建築がそのまま残っているよりも、何もない礎石だけのものの方がどうしても美しく思える・・・ないがゆえに、純粋である理念が、あるものを通して呼びかけるからだ」という文章の引用を読んで、象徴主義と共鳴する部分を感じたこと。

毛越寺の延年の祭の「祝詞(のっと)」という舞の神秘的な様式。細い鼻が天狗のようにのびた翁面の神官が祝詞を唱えるが、「秘めたることとてつゆきこえず」と言われているとおり、口中からかすかに白い息が洩れているのでそれと分かるだけという。これも上記の「ないがゆえにあるものをとおして呼びかける」という様態ではないか。

④「帯が細く素材も自由になれば、現代生活への可能性は開かれてくる。さらに帯を着けずに丈が短くなれば羽織や半被(はっぴ)に見られるような手軽さ」という志村洋子の着物の現代的なかたちの提案。

⑤鹿のことを白鹿と言ったとたんにその鹿は普通の鹿ではなく神の使いではないかと思わせる白という色の霊力、また赤という呪術的霊力、青という神秘的霊力、黄という光の霊力と、色彩にはそなわった霊力があるという志村ふくみの主張。

 「バザールの奥の奥、神秘めいたうす暗い一画は古本屋街だった」という志村ふくみの文章があり、そこにビザンチンモザイク、イコン、装飾書体、祈禱書など、イスラームの神秘に充ちた書物が天井までぎっしり並んでいると書かれているのを読んで、たぶんもう行くことはないと思いますが、一度は見てみたい光景だと感じました。

志村ふくみの二冊

  
志村ふくみ『母なる色』(求龍堂 1999年)
志村ふくみ・文/井上隆雄・写真『色を奏でる』(ちくま文庫 1998年)


 志村ふくみを続けて読んでいます。『母なる色』は書き下ろしを中心とした随筆集、『色を奏でる』は、『色と糸と織と』(岩波書店1986年)を文庫化したもので、志村の染織作品や、糸、素材となった木や草の写真と随筆が併載されたもの。二冊ともに、草木など自然に触れた文章が多く、また色に対する鮮やかなイメージがたくさんあり、読んでいてとても気持ちの良い時間を過ごせました。

 文章がとても柔らかく、これはやはり女性らしい感性なのでしょう。人にフローラとファウナの2タイプがあるとすれば、間違いなくフローラに属する文章です。一つ困ったことは、私がまったく草花や樹木に関して疎いのに、これらの本には当然のように何の説明もなくいろんな植物の名が出てきて、半分も分からないこと。困ったもんです。

 先日、テレビで宇陀の薬草園に関する放送を見ていたら、そのなかで布を草木染する場面があり、草木を煮出した液の入った桶に布を浸けると、その瞬間にものの見事にきれいな色に染め上がるのに驚き、志村ふくみの言う「神が自然に託して私たちに示している秘義」(『色を奏でる』p49)を実感しました。『色を奏でる』には、それを思い出させるような美しい色の写真がたくさん添えられていて、堪能しました。


 今回改めて気がつきましたが、志村ふくみに私が惹きつけられているのは、彼女の神秘主義的な側面にあるということです。彼女の神秘主義の由来には二つあり、一つは、染色の体験や自然と触れ合うなかでいろいろ不思議なことが起こることから受けた一種の啓示、もう一つは、彼女の読書体験から来る神秘主義的な言説の影響が考えられます。

 例えば、前者でいえば次のような文章。

あの森での色彩体験から、「人間は内側から色を見る」ことを実感し、「人間自身、色を内包している」ことを確認した/p17

暗黒の夜空には、真空の中を流れる光の道があるのだろうか・・・すべてのものを照らし出す光は、みずからの光でさえぎって光自身をみえなくしている/p17

蜘蛛の巣・・・風にゆらぐでもなく、儚げでも、寂しげでもなくただ空間に銀の糸を、これ以上の精緻な紋様は考えられないほどのたしかな存在でかかっている。それがどこかで私の内部と通路を密にしているような気がする/p65

或日糸を染めていてあまりに予期せぬ泥んこのような色になったのを嘆いて、母屋の方へ走って行きながら、ふと手元を見ると、光り輝く糸があった。風と光の中にあって、色が誕生していたのだ/p153

この頃思うのは、日常あたりまえのことがすでに秘儀なのではないかと思うようになった。かくされているのものは何もなくて、私たちが気付かないだけだと/p154

光りがあなたをみなければ、あなたは存在しない/p163

(以上、『母なる色』)

自然の諸現象を注意深く見つめれば、自然はおのずから、その秘密を打ち明けてくれる。それは秘密などというものではなく・・・見落としている現象である/p84(『色を奏でる』)

 後者については、次のような引用がありました。

もしこの眼が太陽でなかったらば、なぜに光を見ることができようか、われらの中に神の力がなかったならば、聖なるものがなぜに心を惹きつけようか(プロティノス「エンネアデス」)/p14

光りのすぐそばには我々が黄と呼ぶ色彩があらわれ、闇のすぐそばには青という色があらわれる。この黄と青が最も純粋な状態で完全な均衡を保つように混合されると、緑と呼ばれる第三の色彩が出現する(ゲーテ)/p43

湖はその形態によって、独自の音色をもつという。その音色にしたがって湖全体は調律され、フルートや、弦楽器のようにその音色は上音(オーバートーン)をもっていて、月の軌道や、湖の干満と共鳴し合うのだという。月が湖上を移動する時、月はメロディをかなで、メロディは湖全域に響きわたる(テオドール・シュベンク『カオスの自然学』)/p151

あたりまえの事柄に高い意味を、当然の事柄に秘密に充ちた外観を、既知なるものに未知なるものの品位を、有限なるものに無限なるものの仮面をあたえる時、私はそれを浪漫化するのである(ノヴァーリス『断章』)/p155

(以上、『母なる色』)


 ほかに、いくつかの主張らしきものがありました。私の独断曲解を交えて要約しますと、一つは、近代文明に関する次のような指摘。
①自然(植物)と人間のどちらが主であるか考えれば、現状では、人間が主で、さまざまな化学を駆使して自然を従えている。それは人間の叡知がみずから生み出した道であり、自然が主だった時代はすでに古代となっている。それでも現代においても、両方の世界が共存していると信じ、私は古代の道を取る。(『母なる色』)

②現代は着物が不向きな時代であるが、それを裏返しに言えば、美の本質が着物のなかに隠されているということである。機能性のない袖、帯、お端折(はしょ)りなどは無用の用であり、着物の美しさはそのあたりに妖しく漂っている。袖というものが、いかに男女の情を交わすところであったか。(『色を奏でる』)

 もう一つは、染織や色彩感に関する史的展望で、
正倉院法隆寺の宝物のなかには、信じがたいほど鮮やかで豊潤な色彩が今も残っており、古代の人々が山野を渉猟して色を求めた情熱が伝わってくる。その頃の宮廷には染殿、縫殿などがあり、宮中の女性は競って色を染めさせていた。紫式部も相当な染の知識、実際の技術を知っていたのではないか。

②金に勝る墨蹟の美しさを発見したのは『源氏物語』が初めてではないか。白黒の世界と華麗な色調を対比させ、無彩色の世界に最高の美を見出したことに、日本的色彩の本質がひそんでいると思う。

③平安期の貴族の好む優雅鮮麗な色調から、江戸時代になると、洒脱、粋、わび、さびの色にと移り変わってゆく。百鼠の色が現われて、当時の庶民が、いかに自在に茶、鼠を粋に着こなし、楽しんでいたかが想像される。(以上、『母なる色』)

 またもう一つは、染織の技法に関するもので、これまで読んだ本にもたびたび書かれていたことですが、次のようなもの。
①植物の染の世界ではよく花の咲くまで、穂の出るまでと言うが、色は花とともに散り、穂とともに飛んでゆく、というのが自然法則。(『母なる色』)

②草木の染液から直接緑色を染めることはできない。たとえ葉を絞って緑の液が出ても、刻々色を失って灰色が残るばかりである。移ろいゆく生命の象徴こそ緑なのである。

③緑と紫は、補色に近い色彩だが、この補色どうしの色を交ぜると、ねむい灰色調になってしまう。この二色を隣り合わせに並べると、「視覚混合」の作用で、美しい真珠母色の輝きを得る(岡鹿之助の言葉)。

④一回で分かってしまうことを、何回も何回も繰り返しやらないと分からない。繰り返しやっていると、一回で分かったものとは本質的に違ったものが掴めてくる。そして、それを大きく包んでいるものが、運である。運は偶然にやってくるものではなく、コツコツ積み上げたものが、運という気を招き寄せるのである。(以上、『色を奏でる』)

Paul Féval『Le cavalier Fortune』(ポール・フェヴァル『幸運という名の騎士』)


Paul Féval『Le cavalier Fortune』(OLIVIER ORBAN 1982年)


 ポール・フェヴァルは、10年ほど前に読んだ『Le Chevalier Ténèbre(暗黒騎士)』以来です(2014年1月11日記事参照)。chevalierとかcavalierとか騎士がお好きな人みたい。フェヴァルの本は日本ではまだ訳されてないようですが、序文のHENRY MONTAIGU(アンリ・モンテギュ)によれば、新聞小説家の走りで、デュマが『三銃士』で切り開いた道を追随し、18世紀のオルレアン公フィリップの摂政時代からブルボン王朝の王政復古にいたる時代を舞台にした活劇小説を書き、デュマよりも多作だったとのこと。ちなみにフランス長篇推理小説の祖と言われるガボリオはフェヴァルの秘書だったとのこと。

(ここからはネタバレ注意)
 推理的要素のある大衆小説だけあって、冒頭からわくわくさせられました。大きな謎が物語を引っ張って行きます。まず主人公の出生の謎、幼いころ大きな館で育った記憶があり、いじわるな兄弟の悪戯をいつも自分のせいにされ叱られていて、誰も居なくなった時だけ頭を撫でてくれる男の人が居たこと。次に、マドリードから目的地の分からない伝令を命じられ、言われた行先に着くと次の行先の指示があるという形で旅を続け、左右の肩の高さの違う男には決して話しかけるなと注意され、その男が行く先々で姿を現わすこと。旅の道中、高貴なフランス女性とたびたび擦れ違い、公爵様と呼びかけられたりするなど。

 物語を面白くする要素として、そっくりな顔立ちの二人の登場人物があり、人違いが事件を巻き起こしたり、わざと衣服を交換して混乱を助長させたり、さらに喜劇のメーキャップ係が変身を助け、そっくりの人物が当人に成り済ましてみんなを騙すなど、いろいろと仕掛けがあること。また、江戸川乱歩怪人二十面相に代表されるように、冒険探偵ものには欠かせない変身の要素があり、旅の途中に、主人公が、神父の姿から、騎士、次に農婦、石工の作業着姿と、めまぐるしく服装を変えたり、溺死体のぼろぼろの服を奪って屍体のふりをしたり、男が女装してお目当ての貴族令嬢の家に女中として入り込んだりします。それと、これも冒険ものに特有ですが、地下牢から隠し通路を通って脱獄したり、殺人犯が地下通路を使って出没したりなど、秘密の通路が事件の鍵になっていること。 

 なにせ448頁もある大作で、舞台となっている18世紀のフランスの政治状況が混沌としているうえに、公爵や伯爵や侯爵さらにその夫人や娘らが入り乱れる人間関係が複雑で、さらに追い打ちをかけるように私の仏文読解力のお粗末さが拍車をかけて、頭が混乱したまま。物語の要約は難しいので、以下に、要素だけをいくつか示します。

主人公の幸運の騎士は、その名のとおり、万事塞翁が馬を人格化したような人物で、盗賊に襲われたが一文無しだったので逆に財布を恵んでくれ、がそれが盗品で捕まって牢屋に入れられたが丁度その夜泊まるはずだった宿屋が火事で命拾いをし、脱獄してまた捕まってローマで絞首刑になるところ綱が切れ、フランスへ帰る途中アルジェリアの海賊に襲われアフリカにつれて行かれたが、まともにマルセイユに戻っていたらペストで死ぬところだったという幸運児。

彼は、ブルボン家の母親が、結婚する前に、リシュリュー家の男に騙されて生まされた子であり、現リシュリュー公爵とは腹違いの兄弟。物語の最初ではそれを知らない設定。またアルデ嬢というブルボン家の美女とも腹違いの兄妹関係であり、彼女に持参金を持たせて、知り合ったコートゥネ家の貴族に嫁がせたいと思っている。

物語の背景にあるのは、当時のフランス政治の中心人物である摂政フィリップ・ドルレアン公から、ルイ15世に実権をとり戻させようとする動きで、主人公が密使となってマドリードからパリへスペイン王の誓約書を運んだり、ブルターニュの騎士たちが陰謀をめぐらせたりする。物語の枠組みのもう一方として、大金持ちのシザックという男が、金に欲が絡んで次々と買収し、殺人を重ね、そのなかでバダンというにわか成金を殺す事件があり、主人公が犯人と間違われて逮捕されるという展開がある。

殺されたバダンの娘はテレーズと言って、アルデ嬢と双璧を成す美女。その二人の美女比べの夜会の企画が持ち上がったりもする。アルデ嬢とテレーズはともに美男のリシュリュー公爵にぞっこんだが、アルデ嬢にはさきのコートゥネ家の貴族が心を寄せ、テレーズにはルネという青年が居て、幸運の騎士がなんとか仲を取り持とうと画策するのが、物語のもう一つの枠組み。物語の結末部で、幸運の騎士は、この二組の結婚を成就させ、自分も幼馴染の女性と結婚し、さらに主人公の友だちの仲の悪い喜劇役者夫婦のよりを戻すという3組半の結婚に寄与し、めでたしめでたしで終わる。

 物語の山場としては、地下牢からようやく抜け出た主人公が袋小路の屍体安置所に辿りつき、そこからまた脱出する方法として、屍体に成りすまして横たわりながら突然動き出し、警備係らが恐怖で身動きできなくなった隙に外に出るという場面や、主人公がリシュリュー公爵の服を着てなりすまし夜会に出てみんなを騙し、一方、リシュリュー公爵は仮装夜会のために主人公の兵士の服を着て入れ替わったところを、女装の男にぼこぼこに殴られ、公爵に成りすました主人公が仲裁に入ったうえに、兵士姿の公爵に対して居丈高に命じる場面。

 主人公は料理や酒に目がなく、旅での注意事項として、酒と賭けを禁止されていたにもかかわらず、酒を呑んで酔っぱらって正体を無くしたり(そのせいで殺人犯に仕立て上げられる)、人の話にもろくに耳を貸さず料理に舌鼓を打ったり、また、腹違いの妹の結婚の持参金を作ろうと賭場に行って、密使でせっかく得た謝礼を全部すったりもして、愛嬌がある。


 フェヴァルには、他に、生田耕作が「フランス小説ベスト…選」で挙げている代表作の『Le Bossu(せむし男)』やバロニアンが『フランス幻想文学の展望』で『Le Chevalier Ténèbre』とともに幻想小説作品として挙げている『La Ville-vampire(吸血鬼の村)』、『Les Drames de la mort(死のドラマ)』があるので、何とか手に入れてまた読んでみたいものです。

四天王寺春の大古本祭り、阪神百貨店古書ノ市ほか

 2か月ぶりの古本報告です。4月は二つの大きな古本市がありました。
 まず阪神百貨店の古書ノ市には、初日の朝、大阪で会社OB麻雀会があり、1時間ほど時間があったので覗いてきました。
オヨヨ書林の出品コーナーからは、
原葵『くじら屋敷のたそがれ』(国書刊行会、20年10月、800円)
小野恭靖『ことば遊びの世界』(新典社、05年11月、500円)
→こんな本が出てたのは知らなんだ。判じ物や漢字遊びなど例が豊富。
  
ワールドエンズガーデンからは、
金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、10年10月、400円)
関根正雄訳『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、92年2月、300円)
→「コヘレトの言葉」と共通しているものがあるとのことで。

 
 大阪市天王寺の春の大古本祭りでは、初日に古本仲間が集まりました。
まず、小町書店の5冊800円で、下記を購入。
村上道太郎『萬葉草木染め』(新潮選書、昭和59年9月、160円)
→志村ふくみの本を読んでいて草木染目に興味が湧いてきた
辻邦生『神さまの四人の娘』(湯川書房、昭和47年12月、160円)
→限定200部中56番
林屋辰三郎『西方見聞録』(筑摩書房、昭和59年9月、160円)
松本和男『詩人 堀口大學』(白鳳社、96年1月、160円)
→定価5000円のきれいな本が!
鈴木大拙『日本的霊性』(岩波文庫、15年2月、160円)
    
次にしおり書房で下記2冊。
ウィルヘルム=ハウフ塩谷太郎訳『アレッサンドリア物語―ハウフ童話全集Ⅱ』(偕成社文庫、77年11月、200円)
→こんな全集があったのは知らなんだ、つい嬉しくなり。
ウィルヘルム=ハウフ塩谷太郎訳『シュッペサルトの森の宿屋―ハウフ童話全集Ⅲ』(偕成社文庫、77年11月、200円)
  
池崎書店では1冊のみ。
ポール・ツヴァイク中村保男訳『冒険の文学―西洋世界における冒険の変遷』(法政大学出版局、90年6月、300円)

最後に、100円均一コーナーで、「3冊まで無料」のハガキを持っていたので、下記2冊は無料。1冊は仲間にプレゼント。
栗田勇『神やどる大和』(新潮社、昭和61年3月、無料)
中尾佐助『花と木の文化史』(岩波新書、86年11月、無料)

 全部合わせて10冊、1500円。野外古本市は安さが魅力です。


 古本屋での購入は、3月に、大相撲観戦で難波に出たついでに、難波天地書房で買った1冊のみ。
堀江敏幸『坂を見あげて』(中央公論新社、18年2月、1200円)
→上に比べるとずいぶん高い

 「日本の古本屋」では下記を購入。
熊田陽一郎『美と光―西洋思想史における光の考察』(国文社、86年12月、1650円)
→ほとんど偽ディオニシウス・アレオパギテースをめぐっての論稿。

 ヤフーオークションでは下記。
伊藤海彦放送劇集『吹いてくる記憶』(思潮社、66年3月、110円)
→500部限定うち337番
アンドルー・ラング生田耕作訳『書斎』(白水社、82年9月、440円)
「europe―MÉMOIRES IMAGINAIRES」(Europe et Messidor、84年6・7月、250円)
→知らない執筆者が多いなかで、Noël Devaulx, André Dhôtel, Pierre Fleutiauxらの名があったので。
PATRICK REUMAUX『L’honorable Monsieur DHÔTEL』(LA MANUFACTURE、84年第2四半期、750円)
アンドレ・ドーテルをめぐっての随想
      

志村ふくみ『一色一生』


志村ふくみ『一色一生』(講談社文芸文庫 1999年)


 志村ふくみについては、以前、宇佐見英治との対談『一茎有情』を読んで面白かったので、少しずつ買いためていましたが、そのうちの一冊。先日読んだ若松英輔の本にも名前が出てきていたので、また読むことにしました。しばらく彼女の本を続けて読んでいきたいと思います。

 志村ふくみの魅力は、染織家として糸を染める技芸を極め、そこで培われた色に対する繊細な感受性が、文章に表われていることです。もともと文学への興味がおありになったようで、この本でもノヴァーリスゲーテマラルメ高村光太郎の言葉が引用されていますし、今読んでいる『母なる色』では、タゴールプロティノス三島由紀夫、それに『源氏物語』や短歌にも言及されています。

 この本は、4部に分かれていて、Ⅰは、色や染織に関するエッセイ、Ⅱは、少し拡げて、西陣論や芸術論、Ⅲは、家族や交友関係を語ったもの、Ⅳは日記と詩、という構成になっています。志村ふくみらしさが出ているのはⅠ部で、Ⅲ部は、母との確執を中心に生まれてから染織の道を本格的に歩むまでの苦難の道のりを綴ったエッセイ、画家を目指して奮闘する兄の姿を描いた評伝、これまで出会った人々についてスケッチが収められています。ちなみに「一色一生」というのは、藍染を極める難しさを喩えて、一色に十年というより一色に一生かかるという趣旨の言葉。

 恒例により印象に残った部分をあげておきます。 
①植物から色を染めたとき、単なる色ではなく、植物の生命がその色に映し出されているように思ったり、幹で染めると桜色、花弁で染めるとうす緑となるのは自然の周期がそこに表われていると考えたり、山野にある植物すべてから鼠色を染め出すことができることの不思議を感じたり、色と生命、自然とが響きあうさまが描かれていること。

②色の微妙さと音とを比較して、音階の場合、半音と半音の間に多くの複雑な音が隠れているように、色においても細かな色の差というものがあるとして、そして色の微妙な差や変化への感受性が言葉となって表われていること。例えば、次のような表現。

古代インドの染織品・・・インドの人々がそれらを「織られた天気」「夜の滴」「朝の霞」等と形ではとらえられぬものとして呼んでいる/p41

遠州利休という言葉のかもし出す雰囲気と実際の色、白い磁器の茶呑椀にほんのすこし呑みのこされた煎茶の夕やみに浮かぶ色とでもいおうか、その名と色のいちぶのしのびこむ隙のない秀れた感覚におどろく/p63

高村光太郎は「空は碧いという、けれども私はいうことができる、空はキメ細かいと」といっている/p70

空の滴がそのまま、私の織の中にしたたり、浸みとおって、蒸留してゆくのがよく分かる。ひとの細工などどうにもならない/p70

平安時代には、人間を守る和霊(にぎたま)が宿るといわれる薬草から色を染め、その衣を着て自らを守っていたとか、藍が一つの甕の中で、二カ月間全精力を振り絞り力を使い果たして、ある朝忽然と色をなくしたとき、思わず線香を立てたいと思わせられたというように、色の持つ呪力、生命力を指摘していること。

鳥取の弓ヶ浜というところで、農村の婦人らが手仕事として受け継いできた弓浜絣に現在取り組んでいる人が、
弓ヶ浜の人々は「豊かに貧乏してきた」と言ったことを受けて、それならば現在の我々は「心貧しく富んだ生活をしている」というべきかもしれないと書いているところ。

⑤先生が作品を出展した際、「飾り衣裳」という副題をつけたことに感動したり、「なぜ、ひとは/ガラス絵や、貝殻や、玉をみるように/織物をみようとしないのだろう」という詩を書いたり、織物を実用から美的な鑑賞に価するものとして捉えようとしているところ。

 読み物としては、Ⅲ部が面白く、「母との出会い」では、出生の秘密に悩んだ少女時代、母親が断念した染織を始めてからの母との関係など、波乱にとんだ半生が語られています。母親は、安宅コレクションの源になったと推測される安宅弥吉夫人の知遇を得たり、女学校時代の友人に青鞜の一員で後に富本憲吉夫人となった人が居たり、柳宗悦との交流があったりと、一家を取巻く芸術的な雰囲気が窺えました。その影響か、兄は画家を目指しますが、若くして病死。「兄のこと」では、芸術を志しながら煩悶する兄の心の動きを日記などを引用しながら綴っています。

 志村ふくみ自身も、母親の交友関係からいろんな師に恵まれ、それが染織家として成長していくきっかけとなったことがよく分かります。昔は人づてにいろんな人との深い交流があったみたいでうらやましい。それとも工芸の世界だから特別なのでしょうか。

若松英輔/小友聡『すべてには時がある』


若松英輔/小友聡『すべてには時がある―旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』(NHK出版 2022年)


 旧約聖書のなかの昔「伝道の書」と言われていた「コヘレトの言葉」について、このところ読んでいる若松英輔と、神学の専門家で牧師でもある小友聡のテレビでの対談をまとめたものです。NHK教育テレビの「こころの時代」で見て感銘を受けていたところ、幸い書籍化されていたので読んでみました。

 聖書そのものをまともに読んだことはありませんが、「コヘレトの言葉」というのは、旧約聖書を構成する「モーセ五書」「歴史書」「知恵文学」「預言書」のなかの「知恵文学」に属するもので、「モーセ五書」と「歴史書」が過去、「預言書」が未来について書かれたものとするなら、「知恵文学」は現在について書かれていて、「コヘレト」以外に「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「雅歌」があるとのこと、いずれも面白そうなので、また読んでみたいと思います。

 若松英輔らしさが最大限に発揮されたすばらしい対談となっています。「コヘレトの言葉」自体に、キリスト教の枠にとらわれない自由な思想があり、すべてを空と見る仏教的なものも感じられ、心にしみるような名言の数々があるうえに、それに関連した古今東西の思想家、宗教家の言葉が引用されて、宗教の本質に触れるような議論になっています。

 若松英輔は、ネット情報によれば幼児に洗礼を受けていて、小友聡は母親がクリスチャンで子どものころから教会学校に通っていたというように、2人とも幼いころからキリスト教に接していたというのが共通する点で、立ち位置が、ともに学者、評論家ではなく、宗教者、伝道師であるということから、言葉遣いもやさしく、心に響く対談になっているものと思われます。

 いくつかの主張を私の解釈を交え列挙してみますが、これらは互いにつながり支えあっているものだと思います。
①とにかく生きよ、人生を肯定せよということ:コヘレトは、それでも明日に向かって種を蒔け、たとえ明日が終わりだとしても、今日を精一杯生きよと言っている。「人生は短い、だから生きていても意味がない」ではなく、「人生は短い、だからこそ生きよう」と言う。挫折や苦しみといった、これまでは失敗に分類されていたものにこそ価値があるとする。これは、「悲しむ人々は、幸いである」というキリストの言葉に通じるものである。

②知ることではなく信じること:心に届く言葉というものは、宗教的に洗練された教理でも哲学的なテーゼでもなく、むしろ黙ってその人の手を握るといった行為こそが心に届くものである。現代人は、知恵というものは生活の工夫によって得られるものと思っているが、旧約聖書の言う知恵とは、神とのつながりの中で明らかになっていくもので、知恵は「あたま」ではなく、「いのち」によってもたらされるものである。
→そもそも世の中が不条理である限り、頭で考える知ではなく信によって対抗しなければならないということか。

③人は自分の意志だけで生きているのではなく、生かされているということ:我々はずっと「どう生きるつもりなのか」と問われ続けてきた。でも実は、現に私たちは生きていて、生かされているのである。生きるとは、自分が納得するような小さな世界で人生を決めていくものではなく、むしろ受け身の姿勢で賜物として与えられるものを待つことである。
→これは近代の個の概念と対立するもの。

④幸福とは比較するものではないこと:私たちは、誰かが作った、本当にそれが幸福かどうか分からないものを幸福として押しつけられているともいえる。自分にとっての幸福とは何かを今一度改めて見つめる必要がある。労苦についても、本来は自分が生きるために行なうものだから、人と比較するものではない。しかし現代の世の中では、他人の幸福や労苦を自分の場合と比較するようにして生きている。

現代社会がいかに貪欲なものであるか:生活水準がある程度向上しているのに、なおもっと豊かになろうとしている社会とは何なのか。いちばん豊かな社会がさらに経済的利益を追求しようとするのは、現代人の心が貪欲と嫉妬心に征服されているからである。大学では学生に優秀な人材となれと言うが、教育者がそんなことをためらいもなく言う時代になってしまった。アレントが言うように、商品やサービスを創り出す「仕事」ではなく、生活に深く根差した生きるという「労働」にこそ生命の祝福があるのに。

 インドで活躍したというカトリックの修道司祭ビード・グリフィスという人の言葉で、個々の宗教と、霊性との関係を喩えた言葉が紹介されていました。それぞれの宗教と霊性は、ちょうど手の指と手のひらとの関係で、それぞれの宗教(指)は離れて存在しているが、手のひら(霊性)によってつながっているというものです。宗教には、その根底でつながるセンスというようなものがあると思うと小友聡も発言していました。

 最後に、「コヘレトの言葉」他から心に残った言葉を書いておきます。

空の空、一切は空である(「コヘレトの言葉」第1章2節)

母の胎から出て来たように/人は裸で帰って行く。/彼が労苦しても/その手に携えて行くものは何もない(〃、第5章14~15節)

生きている犬のほうが死んだ獅子よりも幸せである。/生きている者は死ぬことを知っている。/けれども、死者は何一つ知らず/もはや報いを受けることもない/・・・/太陽の下で行われるすべてのうちで/彼らにはとこしえに受ける分はない/さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。/あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい(〃、第9章4~9節)

たらふく食べても、少ししか食べなくても/働く者の眠りは快い。/富める者は食べ飽きていようとも/安らかに眠れない(〃、第5章9~11節)

すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。/これこそが神の賜物である(〃、第3章12~13節)

すべての出来事には時と法がある。/災いは人間に重くのしかかる。/やがて何が起こるかを知る者は一人もいない(〃、第8章6~7節)

貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください(「箴言」第30章7~9節)