しるしと人生―― 『ヴァージニア・ウルフ短篇集』

 「でも、それからどうなったんですか――もうひとりの男の人は、家の角を曲がってきた男の人は?」一同は尋ねた。「もうひとりの男の人? もうひとり?」アイヴィミー夫人は小声で言った。屈んで袖無し外套(クローク)を手探りしていた(サーチライトの光はバルコニーを外れてどこかへ行っていた)「その人は、たぶんどこかへ消えてしまったんでしょう」
 「光は」彼女は付けくわえた。袖無し外套(クローク)やら何やらを拾いあげながら。「ただあちらこちら照らすだけ」

ヴァージニア・ウルフ「サーチライト」

 長いこと手をつけずに積読本の棚に差したままだった『ヴァージニア・ウルフ短篇集』(ちくま文庫)がふとした拍子に目に入り、にわかに「あ、これ読も。いま読も」となった。奥付を確認してみたら8年前の発行となってたから、ほとんどそれくらいの時期に手に入れた本だったのかもしれない。いくらなんでも寝かせすぎた。(同じ棚にはおそらくこの文庫と同時期に購入した同じくウルフの『オーランドー』もあって、そっちは以前に一度手にとってはみたんだけど、読み始めた途端にそこに書かれた言葉の連なりになぜだかくらくらしてしまい、やむを得ずすぐに本を閉じてしまったという記憶がある。いつかまた挑んでみたいとかねがね思いつづけている、そんな気がかりな本のひとつ)。
 ヴァージニア・ウルフの小説にかんしては『ダロウェイ夫人』と『灯台へ』、それから『波』という作品をずいぶん前に読んでるんだけど、今ではそこで感じたはずのぼんやりとした感触だけが記憶のうちになんとなく残っているだけで、言葉の連なりが形づくっていた具体的な褶曲、結び目、肌理や曲直のありかたみたいなものいっさいは情けないことに自分のなかからすっかりと抜け落ちていってしまっている。だから過去に読んだそれらの長篇作品とくらべてここでの短篇作品との絡みで何かをいうことはできないんだけど、この短篇集に収められた個々の作品を通してとくに目をひいたのは、そこに集った人物(おもに、女たち)の生の実質をなすような水準にあるものと、その晦冥で錯綜しがちな思考やイメージ、欲求や意思、情調等々の殺到にも事態の噴きあがりを遮り、あるいは秘匿し、ふんだんに貯えさえしながら、しかしそこにおけるそれら雑多で不純なものでもある人生の質すべてのありかを指し示しもする、いわば秘鑰の役割を果たすかのようなしるし、そのような、対照的で対立的な拮抗関係にこれらふたつの水準を導きながら両者を分かちがたく結びつけてもいる小説言語のありかた、人生と符牒、移ろいつづけるものと存在するもの、書かれるべきものと書くべきもの、見られるべきものと見えているもの、そんなような切断とも癒合とも断定しがたい事態を繰り述べる言葉のありかた、そういったものが読んでいて見えてくるような気がしてならなかった。
 ヴァージニア・ウルフは人生を描く――、そこでの「人生」といったものの内実に関してはとりあえずおいといて、まずはごく率直にそのように一口で言えるとして、じゃあその語られるべき人生という不可視の内実がどのような資格のもとに作品において語られるかといえば、それはある特権的なしるしのもとにおいてである、ということは最小限言えるように思う。語られるべき内容をおのずから語る事柄、見えないものを見えるようにすることを可能にしてくれるしるし、不断に移ろい、変わりつづける事柄がそこに流れていることを指し示す浮標のような存在、それ自体はそれが指し示す事柄の流れからすでに零れ落ちてしまった死物のような存在としてありながら、それに眼差しを注ぐ者に、それがかつて確かにそこに流れていたことをありありと想起させることの可能な、そのようなそれ、しるしとはとりあえずそのような働きのなかでヴァージニア・ウルフのここでの諸作に現れているようにも思う。それは語ることの困難なものがそこにあることを指し示しながらその困難を困難として書くことの実践へとかろうじて繋げてくれもする、ある特権的な役割を果たす貴重でかけがえのない奇貨として出現する物品ではあるけれど、しかしそれはまた、物品というよりその残骸、痕跡、ほとんど物同然の境地にまで零落した遺物かがらくた、染みや、あるいは人物の身体でいえば、痙攣や表情の些細で醜い特徴的な歪みの一瞬の現われ、そのような瑣末で卑小な、いわば存在の抜け殻のようなものとして描かれるものでもある(そのようなしるしを安部公房的対象とでも呼びたい気もするけど、むろんこの発想は転倒している。安部公房がすでにウルフ的眼差しにおける振る舞いのなにがしかを引き継いでいた、とでも言った方が事の順序としてはより適当だ)。

 それが何らかの物質であって、多かれ少なかれ丸みを帯びているならば、それに死せる炎をその内深くに持つものならば、何でも――磁器、ガラス、琥珀、岩、大理石――有史以前の鳥の滑らかな楕円の卵、何でも彼を惹きつけた。また彼は視線を地面に落としながら歩くこともした。ことに家庭の塵芥が棄てられる空地では。その種のものはしばしばそういう場所で見つかるのだ――投げ棄てられたもの、使う人間がいなくなったもの、あるべき形を失ったもの、用をなさなくなったもの。

「堅固な対象」

 そのようなそれ固有の使用価値や有用性が剥落した結果はじめて現れる物品の残骸(またはマントルピースの上で実用書類のペーパーウエイトとしてのみかろうじてその有用さを認められる、属性としての剥き出しの重さにまで還元されきった物の存在といったもの)、ウルフ的しるしはそのようにして誰かの人目を執拗に惹くものとして姿を現わしているだろう。同様の対象が「壁の染み」における暖炉の背後の壁に浮いた丸い染み跡や、「池の魅力」における水面に浮かぶ一枚の「貼紙(ビラ)」として誰かの目を強く惹く奇妙な対象として現れているだろうし、あるいはその類例としてさらに、「乳母ラグトンのカーテン」における転寝する女の膝元にかかった縫いかけのカーテンや、「サーチライト」においてバルコニーに集う人々の周囲を滑るようにして夜陰を照らし出していく円形の輝きがあり、または表題そのものが端的にその作品における含意を示している「徴」における、アルプス中腹の避暑地のホテルから双眼鏡で眺められる山頂の《月のクレーターによく似た小さな窪み》に照り映える雪の輝きといったものも、ウルフ的しるしのひとつとして数え上げることができるだろう。このようにしるしとして見出されることの可能な幾つかの例を挙げていくと、しるしの持つ物的性格のようなものはここでウルフ的しるしを選り分けるにあたり、その弁別にかならずしも本質的に関与するものじゃないことが確認できる。物の堅固さや有用性の剥落や手触りの確からしさといった存在の持つ独特の特性の数々は、それとしてしるしのしるし性に参与する証になるものなのではない。そうではなくて、しるしの充分条件とはヴァージニア・ウルフ的言説風土にあって、それが遡行不可能な過去の時間を貯えたいわば「結晶イメージ」(ドゥルーズ)として結実されて眼差しの前に差し出されてある場合にのみ、そのようなものとしてテクストの上で認めることができるものなんじゃないかなと思う。物的特性一般はしるしの付帯的な属性であってそれ固有の目印になるものじゃない。それは眼差しの対象として見る者の眼前に現われ、現れた矢先に強く目を惹き、その凝視や《盗み見》(「書かれなかった長篇小説」)の振る舞いにおいて見る者に過去の時間を何らかの仕方で喚起させるという特異な働きにおいてはじめて、しるしとしての特性を得ているように思われる。このしるしにおいて、書くこと、言葉を綴るということがそれによる促しと励ましの宛先として現れることができる。

 ガラスだった。不透明と言っても差し支えないほど濃い緑色をしていた。海に掻き撫でられて角が失くなっているだけでなく、輪郭も変わり、そのためそれがもとは壜だったのかタンブラーだったのか窓に使われていたのか特定することは不可能になっていた。それはただガラスであると言うよりほかないものだった。しかし、それは同時に高価な石であるとも言えた。金の枠に留めて、あるいは穴を穿って鉄線を通すかすればおそらく宝石になるはずだった。結局それは本当に宝石なのだろう。王女は入江を舟で渉る。奴隷たちは歌いながら櫂を操り、船尾(とも)にすわった黒髪の王女はその歌に耳を傾けながら、水の面に指を辷(すべ)らせる。たぶんその王女の身を飾った宝石ではないだろうか。あるいはエリザベス女王の御代に沈んだ宝の箱の樫の側板が割れ、転がりでたエメラルドが海の底を延々と旅をして、ついに浜まで辿りついたのだろう。

「堅固な対象」

 あるいは、乳母の膝のうえの《エプロンをすべて覆い隠すほど大きな青い柄物の生地》の広がりを背景にして語りだされる、幻想の描く人生といったものの趣き。

 布全体に描かれた動物たちは乳母のラグトンが五回目の鼾息を発するまで動かなかった。一回、二回、三回、四、五――ああ、ようやく老いた乳母は眠った。羚羊(かもしか)は縞馬に向かって頷いた。麒麟は高い梢の葉を食べはじめた。すべての動物たちが身震いし、凝り固まった四肢を解した。何故かというに、青い生地に描かれた模様は野生の動物の一団であり、動物たちの下には湖や橋や円い屋根の家が並ぶ町があり、小さな男たちや女たちが窓から外を眺めたり、あるいは馬に乗って橋を渡ったりしていたからである。けれども老乳母が五回目の鼾息を放つとすぐに青い生地は青い大気に変わった。木々の枝はそよいだ。湖の波の音が聞こえた。端のうえの人々が動きだし、窓辺の人々が手を振った。

「乳母ラグトンのカーテン」

 ここではガラスの塊も《青い柄物の》カーテンもその内部に語られるべき内実(真実らしきガラスの来歴や空想された王女の航海という物語、または動物物語といった純然たるおとぎ話等々)を秘めた不在の、ないし過去の時間の結晶物であり、同時に、その時間を展開することを可能にする秘められたものを開く鍵、ひとつの秘鑰でもあるものだろう。しるしはそのようにして、一方で書かれるべき事柄を秘めながら、他方でその秘密を開くこと(書くこと)をも条件づけているものとしてテクストに現れている。それ自身の上で反り返る秘密、秘密を保持しながら秘密を解放するものでもある書くことのこの自己言及的な律動、不在であることの開示であると共にその不在の充足でもあるようなある実践、むしろ「純粋な実践」とでも呼びたいこの撞着的な書くことの励起、そういったある特異な困難をめぐるような事態がここには起こっているんじゃないかと思う(そんなふうに書くとほとんどレーモン・ルーセルの仕事みたいな様相を呈してくるわけだけど、自動化された秘密をめぐるルーセルの狂気と一体化したあの天才的な暗号造形といったものが、無限にどこまでも、徹底的に読めて書くことの可能なシニフィアンの体系の内部だけで遂行されているように見える一方で、ヴァージニア・ウルフのしるしはしかし、人生という記述不可能な生の経験的実質を巻き込む形で不純なものの水準と共に取り出されてくる、という決定的な違いがある。その意味で両者は互いに認知しあつこともすれ違うことすらもない、お互いがお互いにとっての異星人みたいな、完全に別個である二人の作家的存在でありつづけるだろう)。
 表徴のもつ二重の働きかけ、秘密において拒むことと秘密において誘うことという相補的な対立性の複合的な働きが言説の実践の場を準備し充たすものであることは別の幾つかの作品でも確認することができる。「サーチライト」のアイヴィミー夫人に彼女の幼少時代の曽祖父にまつわる思い出話を語りださせたものとは、そのようなしるしの特別な働きかけによるものだった。夜の闇を照らし出すサーチライトの円形の輝きとして現れたしるしは、過去から到来する過去の時間そのものの貯えとして、アイヴィミー夫人と彼女の語りをもはや不在のものである散逸したものの次元へと一挙に運び去っていく。《「見て」アイヴィミー夫人が言った。光が通りすぎた。「あのお陰で何が見えたか、あなた方の誰も言いあてることができないでしょうね」夫人がそう言ったので、しぜん、みな口々にそれを言いあてようとした。》 サーチライトが夜の闇に浮かび上がらせる円形の輝きはそれとしてその場に集った人々によって眺められる、覚束ない、きわめて移ろいやすい対象でありながら、そのありか自体がそれとは別の何かをそれを眺める人々の視界に出現させる、そのような揺れながら移ろいつづける眺めそのものでもあるものだろう。まず見られる対象として現れるしるしは、即座にそれ自身を見ることそのものの条件へと反り返らせて、眺めとそれについての語りとをある不可分の二重的経験の場へと引き込んでいく。そのような二重的経験、見ることと見られること、語ることと語られてあること、不在である過去の時間と現前している現在の時間、対象として受動性のうちにあるものとその対象において当事者として出来事を生きてあること、もはや何もかもいっさいがそれら明瞭な区分の対象となることはない。人はキスをするのか、それともその時キスされてあるのか、誰にもそれを正確に答えることはできない。そこには区分がないのではなく、明瞭さがないというの正しいように思える。何もかもがしるしのもとで相互の場所と演技を交替しあい、混じりあい、また同時に解けあうものとして現れる。曽祖父についての逸話なのか、それとも夫人自身の身の上にかんする語りなのか、曽祖父の愛した少女なのか、それとも曽祖父の愛においてそれを引き受ける夫人自身のことであったのか。いっさいは移ろいながら形を変えていくように見える。《「それが……その娘が私――」彼女はそこで口篭った。「その娘が私です」と言いかけたかのように。しかし気がついた。そして訂正した。「その娘が私の曾祖母なのよ」》 しるしは眺めとして、そこでの語ること、言語の実践全般を、ある特異な、途轍もない、ほとんど前代未聞といってもよいきわめて過酷な愚かしさの経験へと巻き込んでいく視覚的前兆として現れているようにさえ思われる。
 しるしがシンボルとして、ある不在のものの前駆的な指定という働きの側面を注目される場合に、とりわけ死といったものに対する作家の関心が作品において主題や強調の対象となるようにも思える。掌編「徴」では、予兆される死の気配といったものが、アルプス山頂の《死のように完全な白》さに覆われる《月のクレーターによく似た小さな窪み》として、その中腹に位置する避暑地のホテルからそれを双眼鏡で眺める「彼女」の視界に聳えるようにして現れることになる。山頂の小さな窪みとはそれとして地勢の不自然な欠如か削除のような観を呈しているはずのものであり、その陥没した光景においてここにいまだ不在のもの、しかしいずれ生じるであろう死の出来事の予兆として、そこでの「彼女」によって眺められる。その「彼女」は眺める人であると同時に、また他方で、一篇を通じて窓辺の椅子に腰かけながら手紙を書き綴る人でもある。

 「この山は」ホテルのバルコニーの椅子にすわってその婦人は記す。「ひとつの徴です……」彼女はそこで手を止めた。彼女は双眼鏡で一等高い地点を見ることができた。レンズを調節して焦点を合わせる。あたかもその徴というのがどんな物であるのか確かめようとするように。彼女はバーミンガムに住む姉に手紙を書いていた。

「徴」

 死のシンボルに導かれるようにして書き継がれる姉への手紙の言葉は、そこに彼女たちの母親の死というかつて起こったひとつの死「について」のトピックを織り込んで徐々に繁っていきながら、しかし作品末尾に唐突に、眺める人であり書く人でもある彼女の不意をついて、現に今、眼前で生じた死=不在の生起、陥没の発生、ある実質の一瞬の消失、そのような出来事の出来に巻き込まれることになる。正確を期するなら、ひとつの出来事の眺めが生じたというよりむしろ、そこで眺めの不在が生じた、何も起こらなかったことが生じた、出来事について言葉が書きつけられたのでもなく、何か「について」書くということが書かれなかった、そのような営みとその打ち消しとの分かちがたい癒合的な反-出来事のごときものが彼女の目の前に、彼女の手に執るペンの動き(あるいはその落下)のなかに現れた、そう言うべきなのかもしれない。

 「こうして書いているあいだにも、斜面を登っていく若い人たちの姿をはっきりと見ることができます。みんな一本のロープに繋がれています。前に書いたと思いますが、あのなかの一人はマーガレットと同じ学校に行っています。彼らはいまクレバスを渡っているところで……」彼女の手からペンが落ちた。インクの滴りが便箋のうえにジグザグの線を描いた。斜面には若者たちの姿はなかった。

 書かれてきた言葉はそこで完全に欠語する。ペンが落ちる。《インクの滴りが便箋のうえにジグザグの》クレバスを描き、紙を、言葉を、引き裂く。しばしば死「について」書かれてきもしたであろう言葉たちはそこで、死「そのもの」の刻む言葉、言葉というより言葉の不在の事態となる、そして紙面に綴られていく自身の文字の連なりを見つめていたはずの俯かれた視線はそのクレバスの発生において眺めを決定的に見損ねる、正確に言うならば、見えない眺めの発生といった事態に、正しく、見えないという様態、眺めの欠如という様態において、それをそのとおりのものとして立ち会うことになる。ヴァージニア・ウルフにおけるしるしの秘めるものとは、このような逆接的な仕方ではじめて自身を開示することになるものであるだろう。それは(この「徴」におけるように)極端なケースとしては死のごとき不吉な力による書くことの活気づけでもある、そのように言いうる場合からも、けっして逃げ出すことのない作家の力と欲望の埋蔵量、そのありかたの証言ともなっているだろう。
 それ自体が(用をなさないもの、有用さを失ったもの、時代錯誤なもの、等々として)秘められた秘鑰でもあるこのしるしが指し示す秘められたものは、存在するものの存在性とは別の仕方で移ろいつづけるもの、ひとつところに留まることのないもの、その全体を見渡すことのできないもの、実在として手で触れることのできないもの、であるがしかし、ある特異で貴重な瞬間には、そのときだけは、見ることや書くことを通じて作家の生の核心に到達しうるもの、作家の生がそこへと参入しうるもの、そのようなある希望のごときものを胚胎する不純な深みの次元として見出されるもののようにも感じられる(そしてまた、希望の絶対的な途絶といった事態が作家を襲うとするのなら、それもまたそこに淵源するものであるだろう)。そのような希望と絶望のないまぜとなったアマルガムこそが、たとえばヴァージニア・ウルフによって簡潔に「人生」と名指されているものの実質にあたるんじゃないかとも思う。そして確かに、希望と絶望とで織り込まれる困難な経験の実質といったものを叙述するにあたっては捉えがたい流体や光による類推がふさわしい。《堅固な対象》はその背後に、その晦冥で黙せる質料の内部に、水の流れや光の反映、声の響きといった反-実在的なものたちによる恐るべき戯れの運動を秘めている。ヴァージニア・ウルフはたとえばそのように確信していたようにも思われる。「池の魅力」で水面の中心に一枚の貼紙を浮かべる藺草に囲まれた静謐な池は、岸辺に臨んでその深みを思いやってみる者に、人生という思考にとって深甚な捉えがたさをもつものの所在、その計りがたい不埒な生動を伝えようとする。

 もし人が藺草の茂みに腰を下ろして池を見るならば――池というものは何かしら不可思議な魅力を持っている。人が説明することのできない魅力を――赤と黒の文字が記された白い紙が水の表面に薄く貼りついているといった印象を覚えるだろう。また一方、その下では、理解の及ばない水の生活が営まれているという印象も受けるはずである。人の精神における試案や熟慮といったものによく似た営みがそこで行われているという印象を。時の推移にかかわらず、時代の推移にかかわらず、多くの者が、ひじょうに多くの者が独りでここにやってきたに違いない。自分の想念を水のなかに流しいれるために、何事かを池に尋ねるために。この夏の夕つ方ここにいる者がちょうどそうしているように。たぶん池が魅力を持つのはそのせいだろう――池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。

「池の魅力」

 池の中心に白い影となって静かに揺れる貼紙の存在、《一マイルほど離れた場所にある大きな農場が売りに出されていて、(…)その旨を記した貼紙(ビラ)の一枚、農耕用の馬や若い雌牛すべて、さらには農耕機具一式も合わせて売却すると記した貼紙》が、そこでのしるしとなるだろう。家屋と土地とそこに集った不定の人々のかつて抱いたの記憶や情念、歴史のすべてが、この一枚の貼紙の覚束ない揺れ動きに先導されて水のなかへと殺到にも似た様相で流れ込み、蝟集し、ひしめきあい、交互に声とイメージを交替させながら叙述の場へと到来する。《自分は一八五一年の大博覧会の熱狂を見てからここにやってきた》という《頬髯を生やした赤ら顔の人物》の想念、《一六六二年》に一人の娘を恋する者であった男の声、重ねられた男との逢瀬ののち池に身を投げることになったというその娘の絶望の嘆き、大きな鯉をその池で釣り上げたという子どもの自慢げな喜びの声、そして、《嗚呼、嗚呼》とだけ呟く水底から届くひどく悲しげな声。しるしの下の池の深みはそのような雑駁で同定のむずかしいさまざまな声とイメージと思念たちが散逸したままそのとおりのものとして流れ、淀み、解け、ふたたび集い、そしてまた交互に渦状の運動を展開しながら幾度となく、またしても、流れ、淀む。ヴァージニア・ウルフの見つめる人生の生動とはそのように振る舞いつづけるもののように思われる。
 そのときヴァージニア・ウルフにおける「書くこと」とはどのような意味をもつものになるのだろうか。書くこと、小説作品を叙述するということ、「人生」を描写の対象として希望するということ、それはどういった所作を作家にもたらし、どのような姿態において言語の形体を形づくることになるのか。たとえば「書かれなかった長篇小説」という短篇もまた、ひとつの表徴が眼前に存在することの厳密な確認から始まっている。そこでは冒頭の一文から、人物の人相に宿るいわく言いがたい魅力といったものが作家の眼差しの前に現れている。《そうした不幸の表出は視線を新聞のうえまで引きあげさせ、憐れな女の顔を注視させるに充分値した。不幸の色がなければありふれたその顔。不幸の色合いのために人間の宿命の象徴にまで昇華した顔。人生とはあなたが人々の眼のなかに見いだすものだ。》 ここでのしるしは不幸によって彩色された女の顔であり、眼である。ヴァージニア・ウルフの精細な眼差しは人物の眼の動きに特異な運動を見出している。それは「知る」ということと「見る」こと、そしてそのことの表出(ある印象の刻み込み)とを巡る自己瞞着的な身振りの現われであるものだ。

 向かい側の五つの顔――人生というものが何であるかを知っている顔。人が人生に関する知識を隠そうとするのは、いかにも奇妙なことではないだろうか。五つの顔すべてに浮かぶ抑制の徴。唇を引き結び、眼を伏せ、自分が気づいていることを隠すために、あるいはそれには何の意味もないという印象を与えるために然かるべきことを為す五人の人物。一人は煙草を吸っている。もう一人は新聞を読んでいる。(……)そして五人目――五人目のその女における最も恐ろしい事実は彼女が何もしていないということだった。彼女は人生を直視していた。ああ、憐れな女よ、不幸な女よ、あなたも同じように振る舞うのだ――我々みなのために――人生を見ていることを隠すのだ。

「書かれなかった長篇小説」

 「知る」ということが「見る」ことと同義であるのならば、「知らない」ことを演技として表出するためには「見ない」こと、見ていないことの振る舞いを選択すればよい。そのとき、見ていないことを殊更に印象づけるためには別の何かを見るということがもっとも正しい選択になるだろう。そこ(列車の車内)に居合わせた五人の人物のうち四人までは時宜にかなった、実に正しい処世上の振る舞いにおいて、そのように「知らない」ということを表出するために別の何かを見、別の何かをしている。語り手によって「憐れな女」と呼ばれる女性はしかしそこで、「知らない」ことを表出するにあたり、あまりに愚直に、そのとおりのものとして、何も「見ていない」という態度を選ぶ。その愚かしさ、あまりに愚直な剥き出しとなった隠蔽の身振りにおいて、何かを「知っている」こと、人生を「見ている」ということが無防備に、裸のままに突き出してきてしまう。語り手の眼前に現れたしるしはこの無防備な裸の眼差し、不幸の色合いが生のままに搾り出されたかのようなこの剥き出しの「見ていない」ことの表出に、目の前の他者の人生を「見る」、「知る」ことを可能にする。《私の内心の声が聞こえたかのように、彼女は顔をあげた。すわりなおして、溜息をついた。彼女は私に謝り、こう言っているように見えた。「あなたが知ってさえいれば」それから彼女は人生に視線を戻した。「でも、私は知っているのだ」私は密かに答えた。》 こうして「彼女」と「私」との黙劇めいた対話がそこに始まる。会話のない沈黙の、会話を凌駕する活発さと饒舌さに満ちた、沈黙における対話の流れが始まる。しるしがそれを可能にした。眼差しであるしるしの存在こそが言葉のやり取りを可能にし、見ることと知ることの混じり合いのなかから書くということが現れる。ほどなく「彼女」は「私」によって「ミニー・マーシュ」という名を授けられるだろう。反りの合わない義理の妹の存在が「彼女」の傍らに呼び寄せられ、二人の姪と甥と共に食堂で気まずい会食が開かれもするだろう。《十二月の午後三時。霧のような雨が降っている》その眺めを窓外に臨みながら、淡い光のなかで神に祈りを捧げることになるだろう。幼少時代のささやかな罪。《「卵が安くなっている」》ことが念頭にちらついているだろう。「ジェイムズ・モグリッジ」と名づけられる巡回セールスマンの男が彼女に近づいてくるだろう。それとして同定することのできないある不名誉と屈辱が彼女を苛みもするだろう。「ベニー」と名づけられる《毛の抜けた老犬》。《ビーズで編んだ敷物、リンネルの下着の心地良さも想像してみるべきだろう。》 《親指が磨りきれた手袋を取り、穴に発展しようとしている箇所に戦いを挑む。あなたはもう一度防備を固める。灰色の毛糸を内に外に走らせて。》……
 そこにおけるウルフ的語彙と文法の範例といったものを幾つかあげることができるだろう。「きっと……だろう」、「かもしれない」、「けれど(そう述べる)つもりはない」、「違うのだ、たぶんこういうことなのだろう」、「……なのだろうか?」、「そうだ……なのだ」、「いや、違う、違う」等々。条件法的語彙と構文の一覧としてこれらは緊密な言表単位を形づくっているように思われる。それらの語彙によって形づくられる小説言語の連関は書かれたものそれ自体として行文のなかに埋め込まれてありながら、そしてそのようなものとして確かに読まれつつも、しかし書かれた言葉それ自体というよりも、むしろ書かれた言葉がその存在によってはじめて書かれることのできるような、条件の次元にある「下に置かれるもの」としての仮定法をもうけるものであるようにも思われる(『時間の前で』のディディ=ユベルマンが説くとおり、このヴァージニア・ウルフの語彙使用における仮定法の意義を、《芸術作品の「主題」だけではなく、芸術作品の最も奥深い「原理」をも与えることができる》ものとして敷衍して了解したい)。おそらく典型的な(そして幾分かは通俗的な)自然主義文学といったものならばそれを無意識に抑制する方向で圧力を加え、そのようなエクリチュールの動静に対する不断の沈静化を図るに違いない、いわば小説言語にとっての恥部のごとき部分が、この仮定法として書き言葉の下に置かれるものの言説的な実体であるだろう。小説の言葉とは本性としてつねに「何かについて」書かれる言葉として現れることになるものであるが、ウルフ的語彙における仮定法の存在は、それがテクストに書きつけられる度に、そこに書かれた言葉が「何かについて」の寄与性にかしずくものである事実を指呼してやむことがない。それは通俗的小説の図る無意識の瞞着的試みにとって最大限拒否されなければならないものであるだろう。それはおのれがおのれとはまったく別のものであるという事実をもっとも恐れている。おのれが、おのれの想定しうる範囲で無や不在に等しいものとみなす、そのような何かであるという厳然たる事実に恐れ、これを忌避している。ヴァージニア・ウルフの不断に繰り述べられる仮定法的エクリチュールは、この別のものであるおのれの身分をその通りのものとしてあからさまに告げ知らせながらテクストに響く。そのとき、逆説的ながらテクストははじめて、おのれが「何かについて」書かれる言葉であることの寄与的な事実性から抜け出してしまっていることを事後的に自覚するに到り、端的に「書くことについて書くこと」、不在である何かについて書くこと(「何かについて」は書かないこと)、あるいはよりいっそう的確には、何か別のもの「と共に」書くこと、別のものである書くこと、そのような別のものであるおのれと共に書くこと、「書くことと共に書くこと」、そのような純粋な実践性の地平に引きずり出されていることに気づくことになるだろう。ヴァージニア・ウルフの仮定法が集積させる純粋な実践性の(ないし、不純な原理性による)言説空間とはそのような裂け目の時空に開く引き裂きの経験の痕跡でもあるだろう。すなわち、しるしであり、人生でもあるものの、癒合と裂け目。文学とはそのとき、この溢れ出した不在の言葉たちの別名でありうるだろう。

 いま、彼女は眼を開けている。窓の向こうを見ている。その眼のなかには――どのようにそれを形容したらいいだろうか? ――そのなかには裂け目がある――分離が――たとえば茎を掴んだとき、蝶は飛び去る――黄昏時、黄色い花にぶらさがっていた蛾はあなたが手を動かすと飛びたつ。高く、届かないところへ。私は手を出さないだろう。そうすると、静かにぶらさがり、震えている。命、魂、霊――それがミニー・マーシュの何であるにせよ――私もまた自分の花のうえで――高原の上空の鷹――独りだ。そうでないと言うなら、人生の価値はいかなるものなのか?

「書かれなかった長篇小説」

ハイデッガー『芸術作品の根源』

 5、6年前に一度読んだきりだったものを久しぶりに再読。最近ではデリダジュネットアインシュタインなんかの芸術関連の著作がちょっとずつ積読棚にたまってきていて、それらの本を今後読んでいくためにちょうど測距儀みたいな役割を果たしてくれるようなブレのない(あるいはブレがあるのなら、逆にそういう振幅がそれとしてよく見て取れる)そんな本が読みたかったし、ちょうどいいタイミングかなと思って。しかし、以前と同様にあいかわらずハイデッガーは難しいなという印象を再確認したけど、すごく刺激的なことを書いてたんだなという点も確認できた。当時は最低限そこらへんすらもたぶんよくわかっていなかった。通例のごとく分量にしてわずか100頁ちょっとの本を読み終えるのにまたしても一週間もかかってしまったんだけど、簡単に感想を書くためにもう一度あたまから読み直し始めてみたら一度目には気づけなかった筋道のとっかかりみたいなものがいろいろと見え始めてくるような気もしてきて(たんに気のせいかもしれない)、しかしそこをあらためてきちんとすべて拾いなおしていたらきっとまた一週間やそこらあっという間にとんでしまうことになるはずで、「これはヤバイ」となり、戦きつつも観念して再読を打ち切った。だもんで、今回は(も)これからの宿題を洗い出すという体で、疑問や理解できなかった点も含め走り書き的なメモとして、いい加減なことばかり書いてしまう。書いてしまうぞえ。(ゾエ?)
 ハイデッガーはここで芸術作品の本質といったものを規定するにあたり、それを「真理がそれ自体を作品のうちに据えること」というようなかたちで明示している。その非人称的で再帰的な真理の生起の結構(「真理が、真理を」)を、他方でまた、芸術家一般の存在というこの真理の運び手として特定化されうるある固有の人称性の活動(「創作」)として記述してもいる。「真理」とはここでは、存在がそこ(開けとしての「世界」と、保持することと蓄え、縛ることとしての「大地」とのあいだの継続的な闘争の戦われる、ある亀裂として現れるような危機的な場所)においてみずからの開けが十全に開かれてあることを露わにする、そのような不断の動向として描き出されているものだけれど(真理、アレーテイア=「不伏蔵性」)、芸術の創作における固有性はこの真理の生起の循環的で非人称的でもある結構に対して、不可避の、逆接的でアナクロニズム的な時間構成による媒介的な介入を果たす前提として真理への参入を算定されているようにも思われる。すでにこのような真理の生成における逆接的特徴を説いているところからして、最近にかけて読んできたディディ=ユベルマンからアガンベンジャン・ルイシェフェール、マリオ・ペルニオーラといった著作家たちの論考に顕著な、一種の歪んだ時間性への一連の問いかけといったものが、各論者が構えるそれぞれに固有の領域、けっしてぴったりとは重なり合わない別個の問題意識のもとでながら、いわば行列をなしてハイデッガーのこの小さな論文に後続しつつ、それぞれの仕方でこれと鋭く切り結ぶもののようにさえみえる。(さらにしかし、とりわけ、『カントの人間学』のフーコーの存在を忘れちゃいけないだろう)。
 芸術における芸術作品の現われ、エネルゲイアとして発源しながら作品存在を「こちらへと立てること」(作品を制作するということ)、森のなかに空き地を切り拓くみたいにして存在の全体を無そのものに淵源するある充実の輝きのもとに存在させようとするかのような(反)営み――たとえば『ベビュカン』のカール・アインシュタインがテクストに響かせた呼号(「カーテンになれ。カーテンになって、おのれ自身が別のものになるまで、おのれをののしれ。カーテンを引き裂け」)に対応するような、反実在的な亀裂や引き裂きの痕跡の刻み込みとしてだけ現われ、そのようものとして遂行される、存在へと持ち来たらされる作品制作の経験、たとえばそういうような何かが、ここでハイデッガーが述べている「創作」ということの実質なのかな、とも推測する。(作品におけるその徴候的な亀裂といったものにとくに注目すれば、そこに『イメージの前で』や『時間の前で』での絵画作品を前にしてのディディ=ユベルマンの問いが発せられる場所と『芸術作品の根源』でのハイデッガーの立つ場所との近さが見出されるかもしれないし、あるいは、不伏蔵的な真理の「空け開け」と一体化している存在の伏蔵性、覆うことと偽ることとの二重の拒絶としての伏蔵、それら両契機の真理の生起における不可分の律動といったものに着目するなら、『裸性』のアガンベンハイデッガーから受け取った寄与のありかといったものがことさら目を引くことになるって感じがする。また、主観性と客観性の区分がそこにおいては無限に脱力させられるかのような、そのような無人の空間の表象とその空白における力動の漲りみたいなものに注目すれば、ランシエールのイメージ論やドゥルーズの映画論との近さと隔たりとが測られることもできるんじゃないだろうか。もっとも、ほんとうの問題といったものは、ハイデッガーからのそのような贈与を彼ら各人の思考がどういうふうに処することになるのか、その一点にかかっているんだとは思うけど)。
 ハイデッガーのここでの叙述によれば、真理の生起という事柄にあって芸術家の存在といったものは、真理の駆動する生成の運動の描く軌道の円周にそって抹消されていくものとしてのみ浮上してくるようにも思われる。近代的な含みのもとでの芸術家という「主体」のありかたは真理の開けと引き換えに不可避的に消え去っていく媒介的な身分としてのみ、去り行く後ろ姿をのみ、現わしてくるように思われるし、同様に主体の相関物としての客体や客観性といった対象性全般の水準も、近代的な知一般をめぐるあれやこれやの議論やお喋りや取り引き等々のなかでいっとき世間を賑わわせた活気ある逸話のひとつ以上でも以下でもないものとして、ハイデッガーの思索の内部からゆくりなく退場を促されているようにも感じられる(物の物的な規定をめぐる物概念の歴史的検査といったものは第1章「物と作品」で入念に行われている)。そのようにして、芸術の現実化、固有化としての作品存在の現われ、ハイデッガーのいう「創作」にさいして、近代的な知の枠組みの一掃が企図されており、創作という営為と創作される作品とはそのような人間的なものの窮乏のような場で、それ自体とは必然的に「別のもの」としてのおのれの姿を露わにするもの、そのような何かとして語られている気もする。
 作品の作品存在に関しては、それはまず、おのれがおのれとは別のものであることを告示するものとして把握されているだろう。それはアレゴリーやシンボルとして、物それ自体の水準として与えられてある自己の限定を超え出る何かとして、作品であるおのれを、物の物的存在や道具の有用的限定の水準からみずから引き抜き、そのようなおのれのありかたを声をもって公表する存在の開示だとされている。「あらゆる芸術は根源的には(狭い意味での詩作品ということではなくて、広義の)詩作である」というようにハイデッガーは発言しているけれど、そういうような断定もひょっとしたら、作品存在のおのずからなされるこの別のものの告示であるような物的なものによる自己超克的な宣言性の水準とどこかでかかわっているものなのかもしれないけど、そこらへんはよくはわからない。それはともかく、ここではたとえば、ディディ=ユベルマンのような人が芸術の表象再現性という通念を否定するために語っていたはずの「描くことは宣言することではない」というあの強い語調の言葉をハイデッガーの声の上にかぶせて二重に響かせておくべきなのだろうし、さらにその響きに「これはパイプではない」でのフーコーによる、あの「描くことは断言することではない」という言説とイメージからなる類似性の回路に踏み迷った者から届くかのような声を混入させるべきなのだろう。(そのうえで、いったん混和したそれらの声をあらためて識別しなおし、それぞれの響きがそれぞれの向かう先にどのように響くことになるのか、ひとつにはおそらく、そのような複数の相互に微細な差異をはらむ異質な機微の重なりやズレの数々から発する軋みのような雑音を聴き取ることこそがここでの課題になるんじゃないかなとも思える)。ハイデッガーにおいて芸術作品の作品存在がある別のものの開示の水準を開くとされるとき、真理の空け開けの場所に詩作とともに、詩作として現れるその別のものは、そこでいかにその存在の衝撃的な「不気味」さや「途方もなさ」といった常識的な世間の尺度や通念を超える情態の異様なありさまが強調されていたとしても、それはつまるところ世界と大地とが、(ギリシャ人ならギリシャ人、ドイツ民族ならドイツ民族という)それぞれに固有の民族性や歴史性のうえで相互に拮抗することによって亀裂として裂開するひとつの空き地、そこに響くひとつの声といったものに収斂されていく一個の宿運めいたものとして叙述されているようにも思われる。単なる物の存在から発して、芸術作品の真理における「立て返し」の動向を介して再び存在の存在することへとあからさまに送り込まれる存在の別のものの輝きには、ディディ=ユベルマンの説くような芸術作品の言表可能な水準での特長である「あれでもあり、これでもある」の不純な健啖ぶりを示す徴となる色斑の拡散みたいな制御不可能な動勢がすっかり消去されてしまっているようにも思われるし、フーコーマグリットの作品を前にしつつ散乱した鏡の破片のひとつひとつを取り集めるようにしてそれぞれの影を律儀に覗き込みながら確認し終えてみせた、あの迷路の完成を示す不純な反映の戯れなんかともほとんど重なり合うことがないようにも思われる。ハイデッガーにおける真理の生起における動向や運動には(たとえば『カントの人間学』のフーコーがいうような意味での「散逸」として世俗的世界に現象する経験的な所与の集合離散的働きを担う因子としての)雑多なものによる活動の水準が徹底して拒まれているように思えるし、移動や交換や流通なんかをともなう広い意味での末梢的で社交的な運動のもろもろいっさいの途絶がひたすらに見据えられており、陳腐なイメージを繰り出せば、あたかもそこに死せるギリシャ人の死のままに鼓動を打ち続ける、奇怪で、途轍もなく巨大な一個の心臓が暗い明滅の輝きを繰り返し、その否定し難い威力の放射においてあたり一面を不穏な光源のもと照らし出しているかのようにさえ感じられる(そして白状すれば、その思索の辿る軌道のおそろしいほどの魅力は、正直にいってとても否定しづらい。自分のなかに、確かに、ハイデッガーのもつ思考や気分の一端に魅了されてしまう感受性の部分が存在することを否定できない気がする。これはどうもきな臭い)。
 真理の創設としての芸術の創作の営みにおいて創作する者(近代的主体)は消え去り、主観性と相互に向き合う客観物としての対象一般であったはずの作品の通念上の存在といったものも、そこで崩落か横滑りを引き起こしながら、作品のあるがままの作品的存在の本質の発現において危険な安らいのなかに飲み込まれていく。芸術作品の根源、存在するものがそのようなものとして存在する本質の、その本来的によって来るべきところである根源の原初性がそのようにして思考のまどろみを破って現れてこようとしているんだろうけど、創作それ自体もまた、別のものとの本質的連関のもと、この根源からの(/への)真理の生起という事象に参与することになる。芸術作品の制作は手仕事的な意味での「技術」として了解されるべきなのではなくて、翻訳を介して意味内容の曲折を経てしまっているギリシャ語の「テクネー」を本義における含みにまで拉し去ること、歪みを矯正することが、そこでの別のものの探求の手がかりとなっているだろう(再び『カントの人間学』におけるフーコーの言語観との際立った相違が目をひく。そこでのカント=フーコーにとって、言語の変形とはあくまで歴史と時間の内部的連関における不可逆な有限的過程のおろそかにできない剰余的生産物であって、それら言語の配置の変遷を克明に踏査することこそ放棄はしないけれど、それが矯正や復原の対象となることなどけっしてなかったはずだ)。ハイデッガーによれば、ギリシャ的経験におけるテクネーの本義は「知=見ること」にあるとされる。それは正確には、「すでに見てしまっている」という完了形において表明されるべき知と転倒的な時間性との交わりとしての経験であり、そのギリシャ的人物造形の典型的なシンボルとして預言者における知のありようを挙げることができるものでもある。預言者は存在の現前においてつねにすでに事前に現前を了解しおおせているものとして知=見ることの先行性を担う者であり、その転倒したアナクロニズム的時間把握の特権性においてすでに決然とした覚悟を引き受けうる先駆的存在でもあるだろう。芸術作品の創作におけるテクネーはそのような予見性と覚悟性、決然的態度の揺るぎのない一貫性によって貫かれてあるべきものだとされるだろう。作品存在がそれに固有の別のものを存在のなかから取り出しその眼前の場所を同じままに別の場所での立ち合いに変えることができるとするならば、創作における先行する見ることとは、存在を別の時間に属するものとして把握することを可能にするものであるはずだ。それは実質化されいかなる留保もなきものと化した一種のデジャビュ的経験のようにも思われる。「見たこともないものが見覚えのあるものとして現前する」、「知らないはずのものが知っているかのように現前する」……事態はそうはなっておらず、もはや見たことのあるもの、知っていたものが、そのとおりのものとして存在のなかに生じる、すべては「すでに見終えてしまっている」ものとして現れる。そこには情態としての混乱もいかなる錯乱もともなうことがない。たとえば『映画を見に行く普通の男』のジャン・ルイシェフェールといった哲学的存在を映画館の暗闇のなかに縛りつけながら映写機の放つ光条の戯れにおいて震撼させつづけることになった、あの「先行する知」における「知っている」とも「知らない」とも、見覚えがあるともないとも、いずれとも断定しがたいデジャビュ的ジャメヴュとでもいいたいようなあの時間錯乱といったものは、ハイデッガーには金輪際知るよしもないのだろう。むろん、「真理」は、それが生起にあたいするものならばハイデッガーの叙述に呼応しながらその傍らで出来することになるはずで、そしてシェフェール的存在にとってそのような「真理」などはもはや文字どおりの「知ったことではない」ものなんじゃないかとも思うけども、どうだろう。(「映画を見に行く普通の男」を襲う錯乱と寄る辺なさと無能力とには確かにそのような「真理」の前を素通りしうるような強度がともなっているようにも思われたし、その一点においてシェフェールにはそのように言い放つ権利が確かにあるとも思われるけれど、あるいはまったく反対に、そのような人間こそがこのうえなくかけがえのない恩寵として真理のごとき存在の現われをもっとも強く切望しているのかもしれず、そして彼の書く言葉の端々からはそのような気配が濃厚に漂ってきさえしているのも確かだろう。よくはわからないけど、だとしてもそれがハイデッガー的な「真理の生起」とはやや異なるものであること、そのことだけは確かであるようにも思われる)。
 芸術作品の創作および芸術の作品存在におけるアナクロニズム的な時間把握と別のものの存在の生起、そうした点を踏まえておくと、ハイデッガーのこの論文における真理との連関における「無」の問題についてもある程度は見やすくなるかもしれない。この本の叙述のなかで無といったものがそれ自体として話題になることはない。記憶にあるかぎりでたぶん2箇所くらいで、無や不在といったものについてハイデッガーが語っている場面があったはずだけど(メモをとってなかったので今ちょっとそのくだりに正確に言及することはできない)、しかしそれをポジティブに語ってはいなかったはずで、彼の念頭にあるものは徹頭徹尾、存在の空け開けという現実的なものの実現の一点にかかっており、ある場合に無ないし不在は、頽落的で通俗的で投げやりでもある俗人の眼差しが存在の伏蔵において存在(物)の眼前における存在性を見落としつづけるという、見ることの一種の過誤によるものであるというニュアンスで語られていたようにも思う。それとはまた別に、真理の生起における結構において本質として存在することに本来的に備わる物の「伏蔵性」(覆い隠されてあること、くらいの意味で大雑把にしか了解できていないんだけど)ということが確認されており、無や不在に見誤れそうな存在のそのような様態においてそれらの傍らをよぎるようにして叙述が進められている。創作と創作される作品とが無にきわめて近しい場所をかすめて別のものの存在の出来を取り出してくる、そのような伏蔵されてある存在の様態こそは物の物的な存在それ自体だとされていて、これらの存在は形相に対する質料でも感覚諸器官に対する所与の感性的多様性のことでも、あるいは基体や実体に対する属性や偶有性なのでもなく、それを見る者の目の前で見る者の「見守る」という態度のうちにはじめて安らいつつ現われることの可能な、そのような非対象的な受納に対する贈与として存在するものであるとされる(ゴッホの絵画作品に描かれた農婦靴の描写にそいながらそのような物の物的な存在の安らいとそれを見守ることへの贈与が叙述されている)。木彫作品のおける木質な何か、建築作品における鉱物質な何か、絵画作品における色彩的な何か、音楽作品における音響的な何か、詩作品における音声的な何か、そういった作品の作品的存在がそれに付け加わることによってはじめて作品として存在することになるそのような何か、そういったものこそがほとんど不在や無でありながらこれ以上ないくらいに伏蔵されつつ現われる存在の性格だとされている。創作はこれに働きかけ、創作作品はこれに剰余の贈答を送り、そのようにして別のものの別の時間がはじめて存在を開始することになる。ハイデッガーにはいろいろと問題にすべき点が多いんだろうけど、たとえばこのような主張にはほぼ全面的に同意をしてもいいのかなとついつい感じてしまう。要するにとても厄介な著作家だなと、いろんな意味で痛感している。夜も更けてきたのでこのへんで。

スプーン持参の超能力者、暖簾をくぐって登場

 今週はカール・アインシュタインの小説『ベビュカン』を難儀しながら読み終えたらすでに一週間が終わっていた。……だいたい終わっていた。本文で100頁ほどの小さな作品なんだけどその分量と釣りあわないくらいの、ちょっとした体力が必要な読書を強いられるような文章だった。そして読み始めた際にすでに予感していたとおり、案の定内容をよく理解できないまま本を閉じるという残念な結果に終わった。おもしろいんだけど、なにがなんだかよくわからないというこの感じ。困った。好きか嫌いかでいえばはばかりなく大好きと公言してしまえるくらいにおもしろかった作品なんだけど。訳者の鈴木芳子さんという方が作品の解題で「キュビスム文学」という評しかたをしていて、キュビスムっていわれても教養がないので通俗的にはびこっているイメージ以上のものとしてはまったく了解できないんだけれど、なるほどそういうものなのかもなとも思う。相互に異質なイメージを反映する復元困難なまでに散乱した鏡の破片みたいな言葉たちが集まって一篇を形づくっていて、確かにそこにわけもわからず魅了される感じはある(カフカの断片集を読んでいるときに感じるような感触。イメージのはっきりした継ぎ目が見えてくるような、やっぱり見えないような、読んでいてもどかしくなってくるようなあの言葉の連なりのもたらす感じに近いようにも思った)。主人公のベビュカンが作中で何度か、「新しい人間」とか「新種の人間の誕生」というようなことを口にするんだけど、そういうものの文学的なビジョンといったものを目眩をもたらすような煌びやかで暗くもある色彩で描く作品としてざっくり了解し、ここはお茶を濁そうかなと思ってる。お茶、濁さざるをえない。芸術の産み出す破裂的で異例のフォルムの産出と現実主義的な事実性や合法則性のまどろむ通例的な世界との衝突、とか、死とか罪とかいった限界に憑依されている生が世界に描きだす特異な形態の追求、とかいった点を了解しておいて、ここはやりすごす(……どうでもいいはなしだけど、ニコラ・ド・クレシーが『ベビュカン』を原作にコミックを描いたらすごくおもしろそうだなと思った。そういうの見てみたい)。カール・アインシュタインには『ベビュカン』、『二十世紀の芸術』のほかにも邦訳にあと一冊、『黒人彫刻』という本があるらしいので、それも来月あたり手に入れてみたいと思う。そういや『ベビュカン』も含め以上3冊とも未知谷という出版社から刊行されていて、付属の刊行案内の目録を眺めていたらジョルジュ・ブラックについての研究書の紹介文が目をひいた。ブラックといえば以前読んでさっぱりわからなかったグリーンバーグの本にも名前が出ていて個人的に気になっていた人物だ。図版も豊富らしいし、この本にも興味が湧いている。いっちょいっとこう。




 ダブステップ・カウボーイ。別名chibi。すなわち、ブライアン・ゲイナー。

 やさぐれた演技がめちゃくちゃかっこいい。アウトローすぎる。

 吐く息が一呼吸ごとに目の前の大気を打擲するむちの朝のようだった。むっくむく鳥。

 むっくむくやったで。……今週は文庫でトリスタン・ツァラの『ムッシュー・アンチピリンの宣言(ダダ宣言集)』を読んで、それからカール・アインシュタインの小説『ベビュカン』を読み始めてみたり。ツァラの宣言集はずいぶん以前に買ったきり手をつけずに積読棚でほこりをかぶってたような状態で、そしてこの先も当面手をつける予定はなかったんだけど、どうもアインシュタインが(ベルリン・ダダのみならず)チューリッヒでのダダの誕生とその後の運動の展開とも影響関係があったってことらしくて、まったく別個の関心からそれぞれ偶然に手元に確保していたこの2冊の本の関連から、取り急ぎ読みたかったアインシュタインの小説を読むためのいいきっかけになりそうなことも手伝って、逆算してこの本から目をとおすことにしてみたという次第。結果、一週間かけて難儀しながらツァラの言葉を追ってはみたものの、何をいってるのかほぼちんぷんかんぷんだった。あまりにも理解できなかったので、むしろあとくされなくすみやかに忘却の彼方に追い払えるというものである。強がりなのである。面白そうな本をまったく理解できなかった自分にしんそこガッカリなのである。(以前にロートレアモンのマルドロールの歌を読んだ際にも同じような挫折を味わったことを思い出した。詩とかシュルレアリスムとかいった、文学のとくに前衛方面に対する感性といったものが徹底して鈍磨してるんだなと痛感する)。
 よって、今まだ序盤を読んでいる最中のアインシュタインのベビュカンも、たぶんツァラの文章と同じように、このまま何一つ確からしい感触もつかめずに終わってしまうんじゃないかと危惧している。明日あたりには注文していたアインシュタイン『二十世紀の芸術』も届くことだろうし、断続的ながら腹をくくってこの線の読書を進めていく所存である。ジュネットの本がまだひかえてるし、ハイデガーの『芸術作品の根源』もこの機会に再読しときたい。

 書くことがないときは写真や動画の転載多めで。今月購入の書籍。

 『ゴリオ爺さん』は、バルザックの数ある翻訳から次に何を手にとっていいか迷ったので、信頼できる訳者の一人である平岡篤頼さんの仕事ってことで選んだ。厚みもあるし読みでがありそう。集英社ギャラリーの『世界の文学(フランスIV)』にはクロード・シモンロブ=グリエの、それぞれいずれも自分は未読の作品に篇が収録されている。ちょっと前には気づいてたんだけどお値段的になかなかふんぎりがつかなかったのを今回無理して購入。いずれ読む日を楽しみに待ってちょっとのあいだ本棚で寝かせておく。『来るべき書物』は脊髄反射で。高い単行本が多くてブランショの本はこれまでほとんど手をのばす気力がわかなかったので文庫化はうれしい。そしてBDを2冊。ド・クレシー先生の『サルヴァトール』とエマニュエル・ルパージュという作家の『ムチャチョ ある少年の革命』。ニコラ・ド・クレシーは作家買いするって決めてるBD作家のひとりだけど、『ムチャチョ』のルパージュってひとは名前も知らなかった作家で、けどたまたまYouTubeで彼のアトリエを訪問した動画を見つけて、そこで見た作品の原稿の様子にとても感銘を受けて実作の購入を決めた。膨大な下絵の数々に驚いたし、塗りがとても美しい原稿だと思った。

 
 ド・クレシーさんの作画作業の光景もあがってる。うまいなあ。

 


  ついでに久しぶりにおもしろかったdragon house関連の動画も貼ってしまおう。ETというひとのパフォーマンス。

 
 肩から先の関節のやわらかさにまず驚かされるけれど、その柔軟さが人間の身体というものを見たこともない奇妙な記号の連続みたいなものに変化させているようにも感じられて、とてもおもしろい。まるで未解読の象形文字が目の前で踊っているかのようにも見えてすごくおもしろいんだけど(背後の壁に長く引き伸ばされて映るダンサー自身の影絵とともに二重になった記号みたいな視覚的な効果もおもしろい)、しかしもちろん筋肉や関節のそこでの運動の可能性と限界とによって人間の身体のもつ輪郭・身体の圏内といったものの大枠に限界づけられてはいる。体の柔軟さは自由な身体による運動の表現ってよりも、むしろ束縛とか窮屈さの表出のようにも感じられたりする。音楽の流れにそってひっきりなしに位置を変えつづける身体の姿勢や四肢の配置が描く自在なパフォーマンスの内部に、それとは正反対の束縛や詰屈、歪みや矯正を意味する何らか不純な記号が嵌めこまれているみたいに感じられておもしろいと思いました。ちょっとあの、カフカの描いた例の針金みたいな線による人物のデッサンを思い出したりもしましたけれど。

フーコー『カントの人間学』

 蛇「シャーッ!」
 カントの「純粋理性批判」の上巻を読み終えたところでフーコーの『カントの人間学』に手をつけたのが早お正月の頃のはなしで、つまり、以来十日以上この本を繰り返し読んでたことになるけど(3回は読み直した)、残念ながらけっきょくはかばかしい読解に至ることもなく本日をかぎりに読み続けることを一旦断念。このままではいつまでたってもこのブログの年が明けない。しかし、いやー難しかった。『批判』を読んでればなんとかなるんじゃないか?とたかをくくって読み始めてはみたんだけど、持ち前の勘の悪さもあって、やっぱり最低限の前提として『人間学』とか『論理学』とかいった論述の直接の対象になっているカントの著作を読んでいないとどうしても理解に無理があった。降参。これが本の内容がつまらなかったり自分にまったく興味がないんだってんならとっとと諦めて素直に手を引けばいいだけのはなしだったんだけど、わけもわからずやたら面白かったというのが災いのもとで、どうにもこうにも引っ込みがつかなかったというのもある。年始からひどい蹴っつまずき方をしてしまったよ。2013年、早くも挫折感で心が折れそうなわけですが、落ちこんだりもするけれど、わたし、この町が好きです。小さい頃は神さまがいて、ふしぎに夢を、かなえてくれた。優しい気持ちで、目覚めた朝は(シャーーッ!)。
 フーコーはこの本の最終章で「人間学的錯覚」ということを言い出すんだけど、この指摘とカントの『人間学』での考察自体、それからフーコーのこの『人間学』に対する見解といったものがどういう具合に関係しているのかがよくわからなかった。(わからない箇所ならまだまだ他にもたくさんあるけれど、とりわけそこを理解しておきたかったという強い心残りを感じる点で、この人間学的錯覚を説く一連の連関がとくに印象に残った)。「人間学的錯覚」は《カント以後の西洋哲学に特有の「錯覚」》としてフッサールハイデガーはもとより現代哲学や人間諸科学全体の思考の脈網に絡みつく宿痾みたいなものとして素描されている。それは発生の形態にかんしていえば、一種の忘却の誤謬みたいな形をとるものだとされているようにも思われ、18世紀後半を通じてカントの思考が「人間」という有限性を帯びた形象を巡って経験性の探求のなかで辿ったプロセスにおける複雑な起伏が消去されて、その結果、人間についての思考の根拠となるものにかんする思考(根源といってもいいし起源といってもいいような、ある「根本的なもの」、基礎的なものを志向する哲学的探求)が人間それ自体の上に乗り上げる、実体化されおのれ自身の足元に折り返された人間の有限性という暗礁に乗り上げる、そんなような、ある種の閉塞や拘禁状況を巡る病態論みたいなものとして指摘されているようにも思われる。(《認識の予備的な批判からも客観への関係という最初の問題からも解放された哲学は、だからといって、根本的な定立であり、考察の出発点である主観性から解放されはしなかった。それどころか、哲学は逆に主観性のなかに閉じ込められてしまうことになった。厚みを増し、実体化され、「人間的本質」ののりこえ不可能な構造のなかで閉塞する主観性のなかに。》)
 カントの思考のなかのどのような契機が忘却されたのか、そのような哲学と思考全体にわたる大規模な錯覚を導いた消去とはどのようなものだったのか、その忘却と引き換えに人間の形象の実体化と起源からの隔たりの測定が仮初めにも可能となる、そのような契機をもうけることを思考に可能にし、あるいは積極的に促しさえしたものとはなにか、といえば、それこそはカント哲学の全体において『人間学』のはたした特異な反転的反復という機能的側面にあることはフーコーの記述から確からしい。《一定の交錯するアナロジーにしたがうと、『人間学』は『批判』の陰画(ネガ)らしきものであることが垣間見られるのである。》 第6章の「鏡のなかの反復」ではそのタイトルどおりに、「批判前期」から継続していたと目されるカントの経験的なものを巡る研究が、三批判を経由して、その後の『人間学』において『批判』との関係でいかなる成果として結実するかを示しつつ、そこにおける『批判』の反転された反復のいくつかの様態を描き出すものとなっている。議論の詳細を網羅することはできないけど、ここでは「総合」と「所与」の関係にかんする『批判』から『人間学』への反転のポイントをとくに注目しておいたほうがいいのかな、と思った。つまり、『批判』の能力論における認識のア・プリオリとしての条件である統覚「私」の自発性の働きと経験的で多様なものの無関心な広がりとして本源的な受動性のうちに現れる所与との関係が、『人間学』ではその逆として捉えられているということ、認識のア・プリオリは現実存在の経験的な受納と同時に遡行的につねに「すでにそこに」あったかのようにしてアナクロニズム的構造のもと還元済みのものとして思考に示されること(そのズレの経験において時間というものが発生すること)、他方で、経験の平面において均一に広がるはずのものであった純粋な所与は本源的な受動性において総合の働きかけを待つものというより、その散逸の偏差をはらむ分布において、「すでにそこに」あるものとしてではなくあらかじめ謎めいた不透明な総合の働きによって根拠づけられ構成されているものとしての姿を現わすこと(交換や記号のやり取りにおいて散逸的で形態的なパースペクティブをもつ空間を何らかの仕方で準備し、満たすもの)――、人間学的錯覚というものについての理解にはそこらへんを押さえておくのがいいような気がしているんだけど、じっさいにはよくわからない。カテゴリーと純粋直観の形式として明瞭な光源のもとでくっきりと照らし出されていた『批判』における各能力の機能と区分は、『人間学』の反転された鏡の反映のなかでは経験性と有限性におけるそれらの脆く危うい揺曳を示す人間の危機的現存の明示的な形象となる。第7章「源泉・領域・限界」では人間についての認識が問いうる3つの問い(「何を知りうるか」、「何をなすべきか」、「何を望みうるか」)を各能力(感性・知性・理性)の観点から明らかにしつつ、それらの問いが第四の人間学的問いかけ(「人間とは何か」)に収斂するさまを確認し、そこからこの人間学的設問に相関的な世界への問いの設定へとこれら三分法を接続しながら、真理と自由(可能的なものと必然的なもの、自然(ピュシス)の領分と当為の領分)の相互的な帰属と超越の運動が世界のなかの人間という有限性の経験の構造を一定の相関関係のもとでいかに形づくるかが素描されているだろう(所与と人間の知の「源泉」としての世界と受動性-自発性の相関関係、決定論と義務とが「領域」として限界づける世界と必然性-自由の関係、理性が理念の働きのもとに描き出す全体性と侵犯の「限界」としての世界と理性-精神の相関関係。それらの三分法はさらに「三批判」の分割とも重なりあう、らしい)。
 「鏡のなかの反復」において素描されていた人間の逸脱や危機や苦闘にさらされる姿といったものはこの「源泉・領域・限界」の章の人間と世界との交わりという契機を経由して、つづく第8章「体系的、大衆的」でさらに具体的な分析の目標となるわけだけれど、とりあえず確認しておきたいのは、ここらへんのフーコーの記述に明らかな反転と捻転につぐ思考の反復の様態といったものがまず一点。カントの思考における反転的反復を追うフーコーのここでの記述から、人間的錯覚にかんして彼が最終章で語る、たとえば《人間学は限界と否定性について語ることしかできない》という文句が理解可能になるんじゃないかなとも思う。あるいはまた、「批判」から人間学を経由して超越論哲学へと至るカント哲学総体の辿りうるラインを描きながらも、《人間学はどこまでも縁でありつづける。中心はいつもそこからずれているのだが、たえずその縁に立ち返り、その縁に問いかけるのだ。》とか、《人間学が根本的なものの地帯の通路となるには批判に従わなければならなかった》とかと明言するとき、その理由となるのはカント『人間学』に不可避的だったのその反復的で従属的な性格にある。《『人間学』の経験性はそれ自身に根拠を持つことはできないこと。『人間学』はただ『批判』の反復としてのみ可能であること。したがって、『人間学』は『批判』を包摂することも参照せずにおくこともできないこと。最後に、『人間学』が『批判』の外で経験的な次元におけるその類比物となるのは、すでに名指され、明るみに出されたア・プリオリの諸構造に依拠するからであること。したがって、カントの思考全体の編成のなかでは、有限性がそれ自身の水準で考察されることなどありえない。有限性が認識と言説に与えられるのは副次的にでしかないのだ。》 このような記述の確認から、フーコー人間学的錯覚と名づける人間にかんする哲学的思考にまつわる誤謬といったものが、カントの思考の辿った複雑なプロセスを忘却したうえで犯される「混同」というタイプをもつものであることが理解できるだろう。『批判』に対する経験的な領野での反転的反復であるという『人間学』のその依存性、そしてその後にやってくるはずだった来るべき超越論哲学によって事後に根拠づけられることを待つものであるという「先行する遅れ」とでもいった時間構造的な性格、そして『批判』と超越論哲学の実現という時間的な隔たりのなかでカントの思考の始まりから終わりまでに随伴しながら潜在しつづけるという場所なき場のようなその思考の配置における通路的位置づけ、そのような『人間学』の辿った経験のすべてを誤って実体化してしまうとき、人間学的錯覚が大いなるまどろみのなかに姿を現わすことになる、とそういうことなんだろうか。このへんから、フーコーの記述を何度読み返しても何もかもが混濁して理解できなくなってしまう(フーコーの書くものに対する自分の読解力の限界がこのへんにあることだけは、よーくわかる)。ひとつの指標として、この人間学的錯覚の思考における生産物として、人間についての認識にまつわる弁証法化といった事態が問題になっている点をあげることができる。《人間についてのあらゆる認識はなぜ、最初から弁証法化されたものとして、あるいは弁証法化しうるものとして示されるのか? そしていずれにせよ、なぜ、本源的なものへの回帰、本来的なものへの回帰、あるいは根本的な能動性への回帰、すなわち世界に意味を成り立たせるものへの回帰が問題となるような意義を帯びるのか?(……)人間学とは、人間の経験と哲学を非反省的な媒介によって結びつけ、私たちの知の根拠へと向かわせる秘密の道なのだ。「人間とは何か」という問いの惑わしに満ちた多義性こそが、均質で、脱構造化され、果てしなく反転可能なこの領野、人間が自分自身の真理を真理の精髄として示すこの領野を生んだのである。》 《真理の精髄》とは別の文脈で《真理の真理》とも呼ばれてすでに指摘されていたところのものでもあり、それによれば経験的な領域に不可避な否定性によってつねに脅かされる運命にある有限性を刻まれた人間存在は《真理の領野と真理の喪失の領野》の円周によって決定的に限界づけられており、あるいは、《鏡のなかで反転される複製》によって分節化されてあるその境地、《認識のア・プリオリが定義される地帯と現実存在のア・プリオリが確定される地帯とは、かくも近く、またかくも遠い》。カントの考察から取り出したそのような真理の弁証法化の運命といったものを、ではフーコーはどこまでを肯定し、どこからを拒否することになるのか。そういうような思考の細かな綾みたいな部分がどうしてもうまく見取ることができない。フーコーの他の著作にあたるなりすればこういう不審がいずれ解消される日もやって来るのだろうか。どうも心もとない。そして人間学的錯覚のまどろみと、人間学、そして人間の誕生とはどんな具合に関係するものなのか。それは日付や誕生地をまったく同じくする三つの別個のものなのか。あるいはひとつのものの別の側に向けられた三つの顔立ちをもつものだったのか。それはカントの哲学研究のなかで周到に腑分けされて、やがて到来するはずだった超越論哲学とよばれる試みのなかで相互にぴったりと重ねあわされるか、あるいは三つの顔をもつもの同士がそれぞれの顔を黄昏の仄暮れのなかで、または朝明けの薄明のなかで、砂の上に描かれた表情に手をまぶすみたいにして消し去ろうとする、そんなしぐさの開始を告げようとするものだったのか。いずれにしろまったくそういうものではなかったとするなら、ではカントの思考はこの人間をその人間学のなかでどのように処すべきものとして取り扱おうとしていたのか。そしてフーコーはそのカントの企図に、カントの弟子として、どこまでの意図を汲んで、どこまでの達成を目指そうとするものだったのか。……まあわからないよね。めちゃくちゃ面白いのは確かだからフーコーの書くものはこれからも読み続けるつもり満々だけど、まあわからないよね。そして、明けましておめでとうございます。(シャーーーッ!)

 本年最後の購入書籍。ジュネットの新刊も無事年内に入手することができた。良かった良かった。

 ランシエールの本は以前から気になってたのに後回しにしていたものをようやくって感じ。シェフェールのは絵画論らしくて読んでもおそらくさっぱりだろうけど、このあいだ読んだ『映画を見に行く普通の男』が素晴らしかったのでこれはもはや読まずにいるわけにはいかない。フーコーのカントにかんする著作はなんとなく。久しぶりにフーコー読みたいなあって思ったとき、いろいろまだ読んでない本をみつくろってその中でじゃあ何にしようかなとあれこれ考えたすえに、あらかじめ議論の前提になる文脈のレベルである程度は内容についていけるだろう著作ってことでカントについての本を選んでみた。今週はたまたまカントの純粋理性批判を読み直していたんだけど、タイミング的にもうまく合ってるし、カントを読み終えたらフーコーのこの本に目を通してみようかなと思ってる。一週間かけても岩波文庫の三分冊になってる一巻目を読み終えることができなかったんで、まだだいぶ先の予定だけど。
 そんなわけで今週は眠い目をこすりながら仕事終わりにカントをよちよち読み直していたんだけど結局読み切ることができず、ここに感想を残す材料がそろわなかった。そのかわりに、久しぶりにまた絵を描いてそれがさっき仕上がったんで、その画像をのっけとく。年賀状代わりってことで。

 一年ぶりに怨霊アカーキー先生に登場していただいた。タイトル『蛇革をまとったアカーキー』、または『田植えをする老人』(あれ? 田植えじゃないよ! ぜんぜん違うよ! これは中腰で物を拾おうとしてる姿勢だよ!)。へび年にちなんで蛇革のアイテムを何点か散らしてみたわけだけど、こうして画像であらためて確認してみるとあんまりうまく効果が出てなくてちょっと残念だ。手元の生原稿で見るともうちょっと雰囲気あるはずなんだけどなあ。う〜ん。ポーズも不自然に見えるんだけど、ちょっと一言弁明させてくれ。アカーキー・アカーキエヴィッチの顔を中心にして手足がそっから生えてるように見えるでしょ? それはあたかも、胴体の真ん中に突如顔が現れたかのようには見えないか? そこであたらめて、蛇の姿といったものを想像していただきたい。蛇、それもとぐろを巻いて鎌首を持ち上げている蛇の姿である。そう、おわかりいただけただろう。とぐろを巻いておのれの胴の中心で顔をこちらに向けている蛇、くちなわ、それこそがこの絵のイメージの隠された参照元なのであった。ポーズの破綻に見えたものにも実はこうして隠然たる根拠といったものが確かに存在していたわけなのであった。……こじつけ乙。当初の予定ではバックに毛皮のコートをバサッと翻させて気持ちばかりのアカーキー要素を演出しようかと思ってたんだけど、すぐに毛皮の表現は自分の能力じゃ無理だって気づいてプランを変更せざるをえなかった。がんばって試してみたらもっと面白い絵になったのかもだけど、どう考えても自分の画力じゃ不可能っぽかったし、挑んでみてもそれだけで三日や四日はかかりそうな気がして、断念した。機会があれば挑んでみたい表現ではある。
 そんなこんなで今年のブログ更新も本日まで。正月休みは何も考えず、好きな本ばっかり読んでのんびり過ごそうと思ってる。それでは良いお年を!

バルザック『サラジーヌ』

 バルザックは以前から興味があったんだけど、『人間喜劇』がどうにも膨大すぎるって印象があってどの作品から手をつけていいものやら見当がつかずにこれまで放置していた作家だった。ロラン・バルトの『サラジーヌ』論は読んでないんだけどとりあえずその存在は知っていて、それにもやっぱり興味があり、いいきっかけだし岩波文庫でお手ごろな値段ってこともあって先日出版された「サラジーヌ」を含むこの短篇集をまずは手に取ってみることにした(芳川泰久があらためて訳出してるってとこも加点ポイント)。
 表題作「サラジーヌ」に他3篇(「ファチーノ・カーネ」、「ピエール・グラスー」、「ボエームの王」)を収録した短篇集で、どの作品もおもしろく読めた。語りの構成の水準ではどれもけっこう入り組んだ作りになってるんだけど、明瞭でくっきりした輪郭をもつ文体のおかげでほとんど混濁なしに物語の骨格を読み取ることができる。リーダブルといえばリーダブルな作品なんだけど、作家のメッセージなんかとはひとまず別に、作品自体の無意識の水準というか、言述されたポジティブな内容とは別の次元で作品を活気づけているような細部や叙述の働きのようなものが読めば読むほど透けて見えてくるような雰囲気もどこかしら湛えていて、バルトやミシェル・セールのような人たちがバルザックに魅かれる理由もなんとなくわかる気がする(バルトとセールにおけるそれぞれのサラジーヌ論の触りの部分が訳者あとがきで紹介されているけど、どっちもいい意味でかっ飛んでてすごく興味深い。残念ながらバルトの本は現在再版の見込みがないみたいだけどセールのは今も手に入るみたいだ。来月以降ふところに余裕があれば是非入手したいと思ってる)。
 読んでる最中気になった点のメモを取ってたんだけど、さっき本を読み終えてじゃあ感想でも書こうかなって腰をあげつつ参考までに芳川さんの解説を読んでみたら、言いたいところが先に、しかも自分が書けるかなと思ってたものよりずっと見通しのよい形で的確に、ズバっと言い尽くされてしまっていた。批評家 kills 泡沫ブログ(涙)。つまり、それぞれの作品の構成に確認することのできる目に見えるイメージの水準に描かれるものとその内実との乖離、みたいな点をまずは指摘できるかなと思ってたんだけど、まさにそこらへんの問題を芳川泰久は、「バルザックの二つの〈プラン〉」という標題のもとで簡潔に指差してくれている。(芳川氏によって)バルザックがそこで仮構したとされる「二つの〈プラン〉」とは、物語のなかで進行する現在がその状況をもたらすことになった原因や、その活動を推し進めることになる目標として、しだいに縮減され、またつぶさに踏査されるべき隔たりのもとに見出す、ある別のものの実現の時間や場所とのあいだに取り結ぶような企図、あるいは一種の地勢図のようなもののことで、それらを「現プラン-原プラン」とセットで名指しつつ、四つの短篇それぞれの構成からこの「プラン」の形づくる作家の叙述における事態の推移と帰結とを抽き出して、バルザックにおける作品構成の不可欠の単位とみなしている。「サラジーヌ」における醜悪な老人と美しい女性を描いた肖像画との対照、「ファチーノ・カーネ」における盲目の老いた音楽家の窮境と彼に潜在的なままとどまる黄金に囲まれた本来の貴族としての栄えある姿、「ピエール・グラスー」での凡庸な絵描きの手からなる贋作絵画の集積とそれに取って変わるべき真作のコレクションが並べられる展示室の光景、そして「ボエームの王」における没落貴族の若きボヘミアンが踊り子あがりのブルジョワ夫人に対して一種の理想画として脅迫的に描いてみせる正真正銘の貴族的人生を垣間見させる実現不可能な青写真の数々、といった、対照的でありながら、なお踏破することのけっして適わないこれら「プラン」相互の隔たりこそが、物語の運行をここで促しているとみなされる。そうして二つの「プラン」の隔たりを挟んだ終わりのない運動を作品の内部に確認しつつ、芳川泰久は、バルザックに顕著とするその構成を《広くヨーロッパが十八世紀と十九世紀の間で、つまり近代のはじまりにおいて育んだ知の構造そのものに対応する》ものとして簡潔に指摘してみせてもいる。このあたりの知見の堂々としたひろげかたはさすがに本職の批評家だけあるなあと感心した。似たような着眼点を抱いたけど、自分にはさらにそこまでは言えなかったなと思ったし、小説の言葉だけ追っかけているかぎりじゃこうは筆が進まないだろうなあとも感じた。いろいろとまだまだ勉強するところが確認できて嬉しいかぎりではある。
 それと繋がっているのかはまだ自分でもわからないし予感以上のものではないんだけど、ここでのバルザックの語りと知の水準とのかかわりとして、たとえばそれを、「私(だけ)の知っている秘密と真実をあなたに教えよう」というような、一種の誘い文句か睦言のような(金銭か、またはエロティックな欲望に深く関与する誘惑という)形で要約することができるんじゃないかな、とも思った。ぶっちゃけていってしまえば、新聞の三面記事とかゴシップ誌のスキャンダラス記事みたいな水準で流通するような知の授受のありかたみたいな側面がバルザックにはひょっとしたらあるんじゃないかな、とかも思った。スクープとしての小説みたいな感じ。芳川氏のいう「バルザックの二つの〈プラン〉」は埋めることのできない隔たりの内部での言説の運動を促すものとして見出されてるはずだけど、そこから、帰結から原因へと向かう漸進的で一方通行的な運動としての側面を承認しつつも、同じく芳川氏もすでに指摘しているバルザック的説話の迷宮的な入れ子構造のありかたなんかも視野におさめながら、むしろ両義性や曖昧さの増大にばかり貢献する不実な知のあり方といったものへと議論が進められないかな、とか思った。その言説が嘘かまことか定かならない、その言説の担い手の地位も立場も信用の置けない、そんな非主体的な語り手が現れるような局面がバルザックの小説に確認できるとすればこれはちょっと面白いんじゃないかなと思う。言説の組織する閾のような次元に複数のイメージが現われ、それら相互に増殖する矛盾したり無関心だったりするイメージが取り集められて、その中からあるひとつのイメージが最良のイメージとして最終的に選別の対象となる。そういったイメージの経る過程は確かにバルザックのここでの作品すべてに確認することができると思う。語り手のもたらす知の真実の光のもとで、美貌の歌手ザンビネッラは最終的に百歳を越える醜怪な老人の現在へと同定され、あるいは盲いた老残のクラリネット奏者は幻視された黄金の輝きのなかへといつの日か再び送付されることに残りの全人生を賭けることになるだろうし、贋作の絵画は一枚ずつ真作へとかけかえられていきいつかオリジナルだけからなるコレクション室の眺めが完成されるのかもしれないし、また、偽りだらけの栄達と変わり身の人生を辿るうちに破廉恥な踊り子はいずれ本物の貴族の夫人という地位を手に入れるのかもしれない。そういった良きイメージに向かっていく叙述の運行の過程から、どうにかして、多少無理を押してでも、イメージと知との切っても切れないような不埒な結託の瞬間みたいなものを掬いだせるとしたらよりおもしろくバルザックの作品に向き合えるんじゃないかな、などと夢想してみるけど、どんなもんだろか。なんにせよ、そのうち別の作品を是非とも読んでみたいと思わせるような作家であり作品ではあった。来月あたりまたバルザック読んでみることに決めた。

 昼間届いた購入書籍。感想文が短めでどうも物足りない感じが否めないので、スペースを埋めるつもりでなんとなく貼っておこう。そういやジュネットの新刊が出ましたね。気づいたら出版日を過ぎていて乗り遅れてしまったんだけど、とりあえずamazonでポチっといた。入荷予定の日にちが未定なんでいつ届くのかわからないけど、クリスマスプレゼントみたいな気分で今からワクワクしながら待つことにする。プレゼント・フォー・ミー。わりかし頑張った今年の自分に、プレゼント・フォー・ミー。