時間

今、8月末にシューレ大学で開催する映画祭に向けてアニメを作っている。この制作過程が非常に困難で、始めに決めた予定からどんどん延びてしまって、今に至る。別に怠けていたわけではない。自信のなさから手をつけづらいということはあったが、しかし何故こんなにぎりぎりになってしまうんだろう。

時間があれば、時間がない、といつも思う。あと一ヶ月、あと一週間、あと一日、あと一時間・・・・
どの時点に来てもそう思うのだ。
そして結局、「あと一時間」が増えたとしても、その一時間が経つころにはきっと「あと10分」と思っている。これではいくら時間があっても、足りると思うことができない。

人はどこかで無意識に、自分がやれるかどうかを予感していると思う。絶対に無理なことは、やろうとも思わない。もし予定が延びるとするならば、そのことをすでにどこかで予感して、それでもやれると思うから延ばすのだろう。制作する過程でどんなにぎりぎりでも必ず完成するのは、ぎりぎりになることを予感しながら、手順を進める上で選択し続けた結果なのであろう。

それでも、意識では「これではやれない」と思ったりする。それは時間に限ったことではない、お金や人、技術や道具などを対象に、いろいろに対して思うことをする。「限られているからできない」と思うのだ。

しかし、もしもいろいろに対して限られているのなら、極端に言えば生活や人生においていろいろに縛られ、自由でないとするならば、それだからこそ何かを表現したり作ることが必要なのだろう。限られている状況でいかに「限られていない」人と同等になれるように血反吐を吐いて努力するという事ではなく、限られている中の自由さや面白さを作り出すことが表現であって、生きることのような気がする。

物事の本質はお金にも無限にある時間の中にもない。ただ人がそこに生きているだけで、生きている人間の数だけ表現がある。もしも何かによって出来ないと思うのなら、それは限られているという私の壁に対することなのだ。

ううむ、だから私はこれからはもっと作ることと向き合わなきゃならない。時間の話しに戻ると、限られた時間でやりたい事をかなえるにはどうしたら良いのか、というのは真剣に考えなくちゃならないんだから。予定をだからちゃんと立てないといけない。計画をしっかり練る、というのは、明日死んでも後悔しないように毎日を生きることなんだなあと反省した。

反省のアニメはこの映画祭で上映します。誰か観に来てください。
 シューレ大学国際映画祭 生きたいように生きる