秋葉原通り魔事件について
もちろんこれは痛ましい事件だ。
被害者の方々にとって、これはどうしようもなく痛ましい事件だ。
犯人に対しては厳罰に処するべきだ。
けれど、この事件を一人の「弱い」人間のおこした特殊な例外と片付けてはいけないのではないだろうか。
もし仮にそれを弱さが引き起こした事件だとしても、「弱い」からこそ見えてくることもあるのだ。まるで炭鉱のカナリアのように。
加藤智大の書いた掲示板の文字をたどっていると、そこにあるあまりの普通さに驚かされる。本当にどこにでもいる真面目で内気な青年の心情があらわれている。
彼もまた殺されようとしていたのではないか。目には見えない何かに攻撃されていたのではないか。そしてそれは本当に僕たちの住む社会や僕たち自身と関わりのないものなのだろうか。
彼をそこまで追い詰めたものは何なのか。
僕は頭でっかちだったから、自分の頭の中の世界と、外の世界とのギャップを少しでも埋めようと、いろんなアルバイトや契約社員等を経験してきた。その中の一つに工場労働も含まれている。そしてそこで見てきた沢山のものの中で、彼の行動に妥当性を与えることのできるような出来事にも何度となく出会った。沢山の表に出ないどうしようもない痛みや悲しみを抱えている人たちに出会った。
いったい誰がその弱さを責めることが出来るのか。誰がそんな権利を持っているというのか。
おそらく会社側のコメントには複数のウソが隠れている。