辞職せよ

 学歴詐称疑惑の民主党古賀議員が街頭で演説し、自らの立場を説明した。
 民主党を離党するとはつまり活動の場を失うことであり、議員報酬を返上するとはつまり活動の資金を失うことであり、アメリカに足らぬ単位を取りにいくとはつまり活動の時間を失うことである。要は自ら政治家としての活動の場も資金も時間も返上しつつ、しかし政治家としての身分だけは返上せぬという内容である。
 働き場も金も時間もない、そのような政治家に用はない。さっさと辞職せよ。

読書の効用

 マキヤヴェッリは『君主論』の中でこう述べている。

 頭を使っての訓練に関しては、君主は歴史書に親しみ、読書をとおして、英傑のしとげた行いを、考察することが肝心である。戦争に際して、彼らがどういう指揮をしたかを知り、勝ち負けの原因がどこにあったかを検討して、勝者の例を鑑とし、敗者の例を避けねばならない。とりわけ英雄たちが、過去に行ったことをそのままやるべきである。

 これを教師の立場に置き換えて考えれば次のようになる。

 頭を使っての訓練に関しては、教師は歴史書に親しみ、読書をとおして、英傑のしとげた行いを、考察することが肝心である。授業に際して、彼らがどういう指揮をしたかを知り、成功不成功の原因がどこにあったかを検討して、成功者の例を鑑とし、不成功者の例を避けねばならない。とりわけ英雄たちが、過去に行ったことをそのままやるべきである。

 生徒には本を読め、と言いながら自らは忙しさを理由に本を読まない教師は、本当に多い。いや、読んでいると言う教師も中にはいよう。しかし、その多くは推理小説などの娯楽小説である。もちろん、それらを読むな、と非難しているわけではない。それらしか読まない、ことを非難しているのだ。
 なぜ、読書が必要なのだろうか。それは「成功不成功の原因がどこにあったかを検討して、成功者の例を鑑とし、不成功者の例を避けねばならない」からである。言い換えれば、到底自分では体験しきれないほど膨大な知識や経験を、読書によって得ることができるからだ。
 教師であるからには、教育雑誌や教育の専門書を読むのは、必要最低限の「仕事」のうちの一つだ。
 もちろん、自分の担当教科に関するジャンルの本も読まねばなるまい。最新の情報を提供できない教師の授業など、生徒に見向きもされなくなる。
 さらに、古典も欠かせない。使い方によってはマキヤヴェッリのように、何物にもかえがたい宝物となるのが古典である。
 また、様々なジャンルの入門書も教師にとっては格好の読書対象である。自分の担当教科に関係のない教科やジャンルの専門書は敷居が高くとも、専門家が素人のために分かりやすく書いた入門書は、読みやすく役に立つものが多い。
 とはいえ、娯楽小説や漫画を読むなと否定しているわけでは決してない。前述した本の上にさらに娯楽小説も漫画も読んでいるならば鬼に金棒、である。
 とにかく、教師はあらゆるジャンルの本を、大量に読めばいい。
 もちろん、読書だけでよい、というものではない。経験も大事である。ただ、教師はあまりに「経験」のみを重視し、「読書」に学ぶことを軽視している。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とさえ言われる。しかし、真の賢者はどちらからも学ぶ態度を持っているものではないだろうか。

アナウンサーの言い間違い

 今朝の情報番組で、埼玉県で行われた秩父夜祭の紹介をしているとき、女性アナウンサーが「やまぐるま」と言った。秩父夜祭日本三大曳山祭の一つであり、ということは当然、山車を曳く祭りである。横にいたもう一人の女性アナウンサーはそのあと、勇壮な「だし」が... と訂正するでもなく、さり気なく言っていた。もちろんのことながら「山車」は、祭りで曳く屋台を指すときは「だし」と、ヤマグルマ科の常緑高木を指すときは「やまぐるま」と読む。
 いったいに言葉の乱れを指摘する際、論者が「アナウンサーでさえもこのような間違いをする」と具体例を挙げることは常套手段である。しかし、実際にそのような映像を見るとは思わなかった。まして、自分が同じことをやろうとは...。
 アナウンサーがすべての言葉に精通していることはあり得ないのは分かるが、下読みくらいしないのか。

称賛と叱責

 マキャベリは「君主論」の中でこう述べている。

 要するに、悪しき行為は一気にやってしまわねばらないのだ。そうすれば、それを人々が味わわねばならない期間も短くなり、それによって生ずる憎悪も少なくてすむからである。
 とはいえ、恩恵は、人々に長くそれを味わわせるためにも、小出しに施すべきである。

 これを教師の立場に引き寄せて考えれば、こうなる。

 要するに、叱責は一気にやってしまわねばらないのだ。そうすれば、それを生徒が味わわねばならない期間も短くなり、それによって生ずる憎悪も少なくてすむからである。
 とはいえ、称賛は、生徒に長くそれを味わわせるためにも、小出しに施すべきである。

 つまり、叱るときはねちねち叱らず、一度きつく叱ってしまえば後は二度とそこのことを持ち出さない。逆にほめる時にはことあるごとにそれを持ち出し、何度でもしつこいくらいにほめる。

 叱責は必要な時にそれが為されないと、生徒のためにならないのはもちろん、教師のためにもならない。しかし、人を叱るのは大変なエネルギーと覚悟と自制心を必要とする。また、生徒にとって叱られるのは何にもまして避けたいのはもちろんのことだ。だから、どうせ叱責せねばならないなら、教師にとっても生徒にとっても一番いい形で終わりたいと願うのは言うまでもない。ではその一番いい形での叱責、とは具体的にどうすることか、をマキャベリは教えてくれている。

 ということは、ほめる時にも生徒にとっても先生にとっても一番いい形、というのがあるはずである。この「ほめる時にはことあるごとにそれを持ち出し、何度でもしつこいくらいにほめる」方法ほど、ほめるに値する行為や言動の少ない劣等生を称賛するときに有効な手段はないであろう。

並行読み

 塩野七生ローマ人の物語IX 賢帝の世紀」とユリウスカエサルガリア戦記」、それにマキャウ゛ェッリ「君主論」と高坂正堯「文明が衰亡するとき」をいま、同時進行で読んでいる。塩野七生つながりであることが明らかなラインナップだ。今日で「ローマ人の物語IX 賢帝の世紀」「君主論」「文明が衰亡するとき」は読み終えられそうだ。しかし、似通ったテーマであったりするので頭が混乱する。並行読みには全く違ったジャンルや内容の本を揃えた方がいいようだ。

微妙

 中学生にボキャブラリの豊富さなど求めるべくもないが、それでも何を聞いても「微妙」としか答えようとしない女子中学生には呆れ返る。何に対しても同じような返事しかできないと、社会生活が営めなくなる。だから私はそういう生徒にはしつこく指導する。

「宿題はやってきたのか?」
「微妙」
「教科書は持ってきたのか?」
「微妙」
これは否定で使っている「微妙」である。

「コーヒーとジュース、どっちを飲むのか?」
「微妙」
これは迷いをあらわす「微妙」である。

 「宿題はやってきたのか?」に対する微妙という返事に込められた意味を考えてみると、
(1)全く宿題はやっていないが、はっきりそう言うと怒られそう
(2)少しはやっているのだが、「やってきました」と胸を張れるほどにはきちんと仕上げていない
(3)やったことはやったのだが、家にノートを忘れて来たなどの事情で先生に見せられない
といういずれかであろう。

「教科書は持ってきたのか?」に対する微妙という返事に込められた意味を考えてみると、
(1)持ってきていないのは分かっているが、はっきりそう言うと怒られそう
(2)鞄の中を探してみないと分からない。入れてきたような気もするし、入れ忘れたような気もする
というどちらかであろう。
 
「コーヒーとジュース、どっちを飲むのか?」に対する微妙という返事に込められた意味を考えてみると、
(1)どちらも飲みたくはなくて、例えば紅茶を飲みたいのだが、そうはっきりと言うのもはばかられる
(2)べつにどちらか一方を強く飲みたいという気持ちはないのだが、だからといってどちらか一つに決めるには迷いがある
というどちらかであろう。

 いずれにせよ、それらの感情を一言で片付けてしまうのが「微妙」という言葉だ。自分のそういった感情をきちんとした言葉で表せないのが、子供だ。言い表せない理由を一言で言えば、訓練が足りないからだ。「微妙」という返事で大人がその裏にある真意を汲み取ってしまう。それは子供にとっては、どう言えば相手に分かってもらえるかを考えずにすむから楽ではあるが、彼等の役には立たない。むしろ有害でしかない。大人になって「この仕事の進捗具合はどうなのか」と問われたのに「微妙」と答えては円滑な社会生活は営めない。

 だから、私はしつこいくらいに問いただす。例えばこんな風に。
「宿題はやってきたのか?」
「微妙」
「微妙ってどういうこと」
「だから微妙」
「やったのかやってないのか、どちらかで答えなさい」
「やってないわけじゃないんやけど」
「じゃあ、やっているの?」
「んー、途中まで」
「具体的には?」
「30ページまではやっているけれど、そこからは忘れた」
「なんで続きができなかったん?」
「クラブで忙しくて、昨日も疲れて寝てしまったから」
「じゃあ今までの内容をきちんとした文で言い直しなさい」
「ええと、クラブで疲れて寝てしまったので、途中の30ページまではできているけれど、その続きは忘れました」
「忘れた分はどうしたらいいの?」
「今日、残ってやります」
「もう一度、今の内容も含めて言い直し」
「ええと、クラブで疲れて寝てしまったので、途中の30ページまではできているけれど、その続きは忘れました。だから今日、残ってやります」
「そう。これから先生に報告するときには、単に忘れました、ではなくて、忘れたのでどうします、まで言うこと」
「はい」
「そもそも、これからは宿題忘れないように」

説得

 マキャベリは「政略論」の中でこう述べている。

 民衆の賛同を得るには、どの方法だと容易で、どの方法だと困難かということを、ここでは考えてみたい。容易なのは次の方法である。
 つまり、彼らに向かって、こうやればトクで、反対にこうやれば損になると、具体的に説得することだ。または、こうすれば勇敢に思われるが、別の方法だと臆病者で卑劣だと思われるだろう、と説くのである。
たとえその背後に、どれほどの困難が控えていようと、どれほどの犠牲を払うことになろうと、表面上ならば得になり立派に見えそうなことなら、民衆を説得するのは難しくない。
 反対に、どれほど有益な政策も、表面上は損になりそうだったり、または外見がぱっとしなかったりすると、民衆の賛同を得るのは大変難しくなる。

 この文中の「民衆」を「生徒」に変えれば、そのまま教師に与えられる示唆に富んだ教訓になる。

 教師は生徒に向かって、こういうやり方で勉強をやればトクで(つまり成績が上がり)、反対にこうやれば損になる(つまり成績が上がらない)と、具体的に説得することだ。

 この方法が有効である理由を私が付け足すとすれば、はじめにこう言っておけば、この後に生徒の成績が向上すれば「先生の言う通りにしたから成績が上がった」と教師が言えることである。「だからこれからも先生の言う通りにすれば大丈夫だ」という信頼を、たとえ教師は口にしなくとも、生徒から得ることができる。逆にこの後に生徒が勉強せずとも成績が下がろうとも「先生の言われた通りにしなかったからではないか」と教師は言える。