淡々と描く、ということ――「影裏」を読んで

ここ最近の芥川賞は、一応候補作も含め全部読もうと思っているんだけど、155回あたりから読んでいないのが溜まっていて、やべぇな、という感じです(語彙)。

受賞作だけは一応追えているんですが。『しんせかい』(前回受賞作)、今作と受賞決定前に図書館で借りてしまったので買うこともしていません。って「影裏」は今日発売なんですが。『しんせかい』は結構散々な評価ですが僕はなんとなく好きで、単行本欲しいなあとぼんやり思っているのですがお金の関係でまだ叶っていません。

閑話休題。「影裏」についてです。

文學界新人賞を受賞したときに、セクシャルマイノリティもの」「震災もの」という前情報だけ入って来たため(別にバラしても問題ないとは思いますがこれから読む人のために伏字にしておきます)、どんだけどぎついものなのだろうと思っていたのですが、実際には非常に淡々とした筆致のものでした。

評価されたのは描写力だろうと思います。作中に出て来る釣りの描写、自然の描写、そして心理描写と、かなり高い水準です。ただ、やや肩肘が張りすぎな印象も受けました。先日から「小説が読めないモード」に入っている自分には、脳に負担がかかるなあ、という感じです。同じ高い描写力を持つ作家の高橋弘希がまだ受賞できていないことを考えると(僕は高橋弘希を高く買っているので)、うーん、と思ってしまいます。

ただ、恐らく多くの人が極めて大げさに書き立ててしまいたくなる(伏字にした)要素二つをあくまで抑えた筆致で書いたことが高く評価されたのでしょう(結局電話のかかってこなかった自分の作品もこのうち一つをテーマにしたものだったのですが)。

特に震災に関しては、取り扱いが見事です。それが、いかに唐突に訪れるか、ということをうまく書いていると思います。

セクシャルマイノリティに関しても、実際主人公のセクシャリティは謎の状態なままで、そこを伏せたまま書く、ということが新しいのでしょう。

ただ一読、というか読み始めて受ける印象ほどこの作品は難解では無く、内容に(先述の一件を除けば)もったいぶった謎や伏線などはほとんどありません。

ただやはり、文章が難解さを感じさせるようになってしまっています(そして、その文章力が評価されたのでしょうが)。自分も正直この長さが読むのが精一杯、というところでした。

最近話題性のある作品の多い芥川賞ですが、うーん、これは地味に終わりそう…(単行本見てないけれど、かなり短いのを無理やり一冊にするっぽいですし)。

という訳で

今月は電話がかかってくると噂の月です。

いやあ、かかってくる訳ないとわかっていてもソワソワしちゃうね!このソワソワ感、久しぶり!冷静に考えて一週間で書き上げた小説がいいとこいく可能性なんてほぼないんですが。まあでも世の中には「二週間で一気に書き上げました」とかいう事例もなくはないけどね。

まあ今月はソワソワして過ごします。徐々に絶望へと変わっていくのだ…。

新天地にて

ブログをはてなダイアリーからはてなブログへ移行した。

過去の記事が容易に辿れるので、2005年とかいう超昔の黒歴史に簡単にアクセスできるという恐ろしい仕様になってしまったのですが、その辺はどうするか今後考えます(当時の年齢を考えるとまともなことを書いていると思えない。まあ今もさほど変わらないか)。

まあ理由としては1日に1記事しか書けないという仕様がうーんという感じだったのが大きいんですけど。

その代わり見出しで分けていたものが全部1記事になってしまっているみたいですね。

そのうち非公開に引っ込めるかもなあ…。っていうかそもそも1記事以上書くのかという話なのですが。まあ、いろいろあって心機一転というのも兼ねて。あとたぶんこれでアクセス解析が見れるようになったのかな?アクセスなくて凹むのが目に見えてますが…。

 

が、頑張ります!

居場所がなくなる

別に浜崎あゆみの歌詞じゃあないが、居場所がない。
今までも何度も繰り返して来たことだけれど、とにかく、何にせよ僕がいるとそこでトラブルが起きるのである。前のバイト先でも、そんな感じだった。だから僕は辞めた。
そしてまた、(まあ今度はネット上だが)そんな感じになっている。今自分が病気であるということも大きな理由だろけれど、そうでもなくとも僕は常に「自分はここにいていいのだろうか」ということが気になってしまうタイプなのである。例えばそれが創作のサークルのような場所だったら、自分が場違いだと感じているのにそこに留まるのには相当な気力が必要で、正直、逃げ出した方が楽だと思う。そして自分は、その場所がどんなに「大丈夫だよ、ここにいて」「ここにいてほしいよ」とメッセージを発してもらっても、それを信じることのできないクソ人間なのだ。もう頭が、「ああ、僕はここにいない方が良いんだ」と思ってしまうとダメなのだ。何を言われても、「ここにいたら皆の邪魔になる」「僕は必要とされていない」「嫌だ、嫌だ、ここから逃げたい」という思考で埋まってしまう。そうやって今までも何度も逃げてきた。今回は今、半分降りるみたいな形をとって保留しているけど、結局「自分がいなくても世界は回る」という中学生並みの絶望を味わって、結局そこから逃げ出すことになるだろうと思う。
辛い。

twitterが若干バズった話

自分のとあるツイートが、まとめというかまあそんな感じのところに晒されて(晒されて、というとちょっと表現が悪いんだけど)、若干バズった。
まあバズるといっても、80RT、110イイねくらいだから、普段フォロワーが3ケタいるような人からすれば当たり前の数字かもしれない。
しかし、普段リツイート自体ほぼされない、イイねは出版社が書名に反応して、とかそんな世界の住人からすれば十分「バズった」感覚である。
ちなみに自分、「バズる」という単語自体最近知ったのだけど、もしかしてもう死語だろうか。まあそれはいい。
とにかく通知がすごい。どんどん来る。最初は良く自体が飲み込めておらず、「やたらリツイートされるけどなんでだろう…」みたいなこと書いたら、友人が「ここに載ってたよ」と見せてくれた。
その後、どんどん来る。スマホを触ってるともうしょっちゅうブルブルする感じだ。
いや、自分のこの程度のバズり方(多分バズってるうちに入らない)でコレって、ほんと、3ケタフォロワーがいる人の通知欄とかどうなっちゃってるんだろうか。普通に会話とかしてるけど、埋もれないんだろうか。まあ多分リスト作るとかなんとかでうまくやってるんだろうけど、ちょっと未知の世界を覗いた気分だった。

僕は小説が読めない

3月末に、久しぶりにとある賞に小説を応募した。
どうなるかはわからないけれど、まあダメだろうと思っている。
もうずいぶんここは放置しているのでここに何をどこまで書いたか全く忘れてしまったが、まあ有り体に言えば自分は今心の病というやつにかかっている。
果たして本当にそうなのか疑わしいと思ったりもするが、まあ普通の人間ならこういう風にはならないんだろうという状態にちょくちょくなるので、たぶんそうなんだろう。
かかってからはだいぶ長い。一時期働いていたが(それも一般人とは比べものにならないくらい少なくだ)、自分の状態が不安定になったのと人的トラブルとで、辞めることにした。ちょうど小説の締め切りも近く、書くことに集中しようと思ったのもある。
辞めたのは10月末だった。だけれど自分は、全く書かず、狂ったように読んだ。まあ、読書家と呼ばれる人からすれば大した量ではないし、大して深い本でもないのだが、今までの自分ではありえないペースで本を読んだ。貪るように読む、という表現があるとすればこんな感じなんだろうと思うくらいに。
いや、書かないと間に合わないし、と思っていた。当初の予定では、二作品を別の賞に出すつもりだった。自分の今までの執筆ペースを考えればギリギリだ。だけど、書くことができなかった。とにかく読んだ。
結局それは2月まで続いた。もう絶対に間に合わない。そう思った。3月に入り一週間経った頃、買ってあったノートにずっと考えてあった書き出しの部分を書いた。6枚ほど書けた。しかしそこで止まってしまった。
数日して、ずっと、ずっとこの書き出しと決めていたそれを、やめることにした。
新人賞に応募する小説の書き出しは重要だ。自分が出した賞がそうなのかは知らないが、書き出しと結末だけ読んで一次審査の前の予備審査を行なっている賞もあるらしい。
だけれども、自分はずっとこの書き出し、と決めすぎていたせいで、そこの続きがうまくイメージできなくなっていた。
今まで小説を書くときは、ほとんど全部の展開をちゃんと決めて、シーンも決めて、それに従って書いていた。結果が15年近くの一次落ちである。それもあって今回は、何も決めずに書く、ということをしようと思っていた。というかもう、そうせざるを得なかった。
書き出しのシーンは作中絶対にどうせ書かなければならないものだったので、もっと平凡な書き出しにした。まあ、平凡な書き出しが何なのかは実際良く分かっていないけれども。
そうすると、主人公の考えていることが見えてきて、続きがするすると書けた。あ、書けそう、と思った。
予感は正しかった。結局、一週間と少しで小説は完成した。一日に15枚ほど書いた計算になる。驚くべきことに間に合ってしまった。まあ途中、作中の重要なテーマがたまたま読んだ漫画にあっさり答えが書かれていたり、展開に多少詰まったりもあったものの、とにかく小説はできあがった。
作家に必要な素質なんて幾らでもあるだろうけど、たぶんその内重要な一つに、『自分の作品を客観的に見る』ということがあるだろうと思う。特に新人賞を獲るのには多分これが必要不可欠だ。作家になって編集がつけば、編集の人がある程度意見をくれる。だけれど新人賞は誰もそんなことをしてくれない。
そして、恐らく自分にはこの能力が致命的に欠けている。一次落ちの判明した作品を読んでも、なぜ落ちたのか全く分からないのである。つまり、成長できない。
まあなので、逆によく言われる『書いたら少し置いて冷静になる』などの類のアドバイスは自分には無用である。幾ら置いても自分は冷静になれないのだから。
というわけで開き直って締め切りギリギリに小説を出した。ああ良かった、これでまた本でも読もう。そう思った。
そこから、ぱたりと本が読めなくなった。
今までも小説を書いた後、自分の作品と比べたくなくてなんとなく読みたくない、とかはあった。しかし、そんなのの比ではない。小説だけではない。漫画もアニメもダメだ。とにかく、物語を体が受け付けないのである。お腹いっぱいでもう食べられない、という表現が一番分かりやすく近いと思うけれど、なんというか、『そこ』で新しく何かが繰り広げられることが耐えられないのである。本を読みまくった時期に「楽に読める作家」の代表格であった西尾維新の本すらつらくてページを開くことができない。
ただエッセイや評論などはなんとか何冊か読むことができた。本当に、『物語』がダメなのだ。
映画はなんとか何本か見た。だけれどどれを見ても、余り楽しくなかった。これは自分の心の問題なのか映画そのものの出来なのかはわからないけれど。
そんな折母親がつけていたテレビで、うつ病の初期症状として本が読めなくなる、というのが紹介されていた。やっぱり、と思った。
今自分は結局全く読むことができず、図書館で予約した本がようやく回ってきても読めずに返却、というのを繰り返している。
まあここまで長々何が言いたかったかというと、本当に追い詰められている人間は本など読めないのだ、ということだ。んなこと知ってるよと言われそうだけれど、自分は今回身を以てそれを実感した。
苦しくて本が読めないのだが、本が読めないのが苦しい。早くここを脱したいと思いながら、日々悶々と過ごしている。

勘違いでした…

芥川賞の発表、19日でした。なぜこんな勘違いをしたのか、自分でもわかりません…、
仕事中も何になるのかな〜ってウキウキしてたのに!全く!
万が一うちのを見て勘違いされてしまった方がいたら、本当にすみません。