困らせてます

「とにかくあの怪獣の動きを食い止めない事には多くの人命が!博士!」
「そう・・・多くの人の生命には代えられませんね・・・。その・・・ゴキブリ
 ホイホイのように動きを止める手段はないですが・・・、生物と言うのは
 身体中の動きを束縛してしまうと、生きる意欲・気力を失って死んで
 しまいます。・・・・・・むやみやたらに縛り付けるってのは反対ですな」
「・・・じゃあ薬で眠らせる・・・というのは?」
「・・・致死量が解らない。下手すると死んでしまいます・・・反対です。」
「・・・でっではどうすれば・・・!」
「人間が巨大化して戦うのです!」

島本和彦「ワンダービット」1巻


 さて。
 前のエントリからさらに一月以上間が空いたが、名のある者には
 さほど動きが見られない。この事が何を意味するのかは以前から
 書いて来た通りだ。そしてその状況を変えるには誰かの力が要る。
 必要なのは理由である。事が起こってどういう経緯で今の沈静に
 陥ったのかの理由が要る。それによって名のある者の信用がどう
 にかなろうともだ。だがその作業は気が進まないものでしかない。


 ところで
 世に炎上は多数あるにしろ、それに効く万能薬はまだ見つかって
 いないようである。ここでは少しその作成を試みて見る事にする。
 例によってまずは引用しよう。少し読み込みが重いが致し方ない。

大学は、学問の自由を享受する主体と自己規定し、その構成員
にも独立した研究者として学問の自由を保障すべき存在と自己
規定してきたはずです。

だから、構成員たる研究者の学問の自由、思想の自由、表現・
言論の自由をコントロールしようとするようになれば、もうそれは
大学の名に値しないと述べました。

青学准教授のblog記事を元に処分か?: Matimulog

 エントリの要点はここだ。コメントを残らず見ようとこの点以外には
 問題点はない。件の准教授をどうするにしろ予め世間に公表して
 いる大学側の規定が問題にされずに済む訳がない。学者特権を
 云々するような的外れもあるが、特権と言うなら大学のそれこそ
 まず問題にすべきだろう。教育効果を云々する場合もなおそうだ。
 大学はもっと沢山の人を雇える。常識による判断だけで話が済む
 なら、逆に言って、世間さえ騙せればいいと言う事にも陥るだろう。
 
 
 それは例えば空手家が銃武装するようなものだ。暴れる空手家に
 ド素人が銃で立ち向かうのはともかく、同じ空手家が相手なのに
 道場主らが銃をもつのはおかしな事だ。空手で戦うべきであろう。


 
 ともあれ
 炎上の万能薬だが、それは恐らく「困らせてます」と言うだけの
 異議を認める事だろう。実際はどうだか知らないが、海外ドラマ
 「アリー・myラブ」ではそうした異議が出され、少なくとも検討に
 値するものと見做されていた。逆に言えばこの事を自覚しつつ
 なお行うような者は、もはや議論には相応しくない、と見做して
 構わないのではなかろうか。コメントの数量で疲弊させる事とか
 悪意ある曲解とかいった問題の具体的な点を基準にする事は
 実際危いし、そもそもコメント数の問題では基準に取りうる点も
 見つけがたい。下手にそうしようとしても「幾つまでいいのか」
 という難詰が続くばかりだ。これでは議論などとても出来ない。
 
 同じ事で、情報の受け手にのみ取捨選択を強いるのも問題
 であろう。開封前に剃刀入りの手紙を見抜く事が出来るなら
 嫌がらせの手紙を取捨選択すべきだとかいう事も出来ようが
 実際はそんな事は出来ないし、もし出来たとしてもそれでは
 開封したのと同じで、取捨選択なんて出来ていないという事
 にしかならない。本来無理なものを要請したって無理である。



 冒頭の引用は人間のファジー感覚で怪獣を殺さずに退けよう
 という結論になるシーンだが、これは中々非現実的なようだ。
 さて。

根をもつこと

人は迷子になると言う事を 抱いて歩いて 行けるから
どうぞ手を 離して 何度傷跡が消えても 繰り返す
まるで 過ちのように 嗚呼 僕等、バラ色の日々

鬼束ちひろ「僕等、バラ色の日々」

 さて。
 また少し時間が開いたが、これもまた意図的に間を空けたものである。
 この半月ほどの間に、松永氏関連の問題を追ってきたブログが幾つか
 問題の追跡から外れている。その個々については後回しにしておこう。


 ところで
 またも迂路だが、昨今の若年者の犯罪についてアニメとかゲームとかを
 問題視する向きの問題を見よう。この浅薄な態度のどこがよくないのか。
 槍玉に挙げられる方の怒りは問題じゃあない。それは公共性とは関係が
 ないからだ。だがこの怒りが公器によってしか生まれないなら話は別だ。
 そしてこの浅薄な動機分析が具体的な問題を覆い隠すなら問題になる。
 では、どういったものが具体的な問題点として相応しいものなのだろうか。
 つまり、具体性とはどういう事かと考えれば、それは抽象的でないという
 事になるだろう。それは観念のレベルに抽象化されていないと言う事だ。
 この定義は消極的なものだが具体性の観念そのものは抽象的であると
 言う事を考えればその消極性も怪しむには当たらないだろう。その上で
 注意すべきなのは曖昧なものと抽象的なものとは違う、と言う事である。


 月面から見れば地上の五歩なんて曖昧にしか見えないかも知れないが、
 だからといってその五歩がなかった事になる訳はないし、ましてや観念
 的なのだと言われる筋合いなんて生まれない。それは抽象的ではない。
 勿論曖昧にしか見えないその五歩についての未確認情報は抽象的だが、
 具体性そのものは決して欠損せずにそこにあり続ける。単にその見方を
 誤るだけだ。適切な見方を学びさえすれば月面から地上を判然と見る事
 だって不可能ではない。具体的なこの距離を手繰りさえすればいいのだ。


 勿論、抽象性が邪悪と言う訳ではない。この議論自体も抽象的ではある。
 問題なのは、曖昧にしか見えなかったものを単に抽象的なもので上書き
 して済ます事だ。その曖昧さのために、何が何だか解らなかったとしても、
 そこで、解らなかったと言う具体性から逃れようとして観念にジャンプする
 事こそ問題なのだ。具体性を追跡して辿ってゆくには忍耐が必要となる。
 それでも具体性の追跡が不可欠な場合は必ずある。具体性は観念とは
 違って、そのイメージ次第でどうにでもなったり、出来たりはしないからだ。


 で、
 若年者の犯罪動機の浅薄な分析は、よく見るまでもなく抽象的なものだ。
 それは具体的な関係性を切り捨てたものだ。その点は成人の事件だって
 同じだ。ごくありふれて嘘臭さの漂う理由なんて、まさにありふれている。
 それらと、若年者の犯罪動機分析の違いは、人間的な具体性の有無だ。
 ゲームなんかを槍玉に挙げる観念は、単に、そうした情報を摂取している
 だけの人間を前提にしている。つまりは何も考えないような姿で最初から
 イメージされている。それは曖昧なものへの真摯な追跡の正反対である。
 知った風な口を利いているだけじゃあなくて、自己免罪までしている訳だ。


 さて。
 冒頭に書いたが、松永氏関連の問題を追跡していたブログがその追跡を
 降りている。具体的な理由は知らないが、それを探すよりも先に、改めて
 書き記すべき事は、結局、松永氏の何が問題だったのか良く解らないと
 言う事だ。僕は問題を追跡していたが、別に提起まではしてきていない。
 そしてその問題点を説明できるのは、問題の見方を知っている者だけだ。
 その彼らが継続的な説明の場を自ら去った今、問題はどうなるのだろうか。
 さて。

君さえいれば

向かおうという意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げた
としても、いつかは辿り着くだろう?向かっている訳だからな
・・・・・・・・・違うかい?

荒木飛呂彦先生『ジョジョの奇妙な冒険』59巻

 さて。
 またしても迂回路から始めるが、前回同様に引用しないでおこう。
 

 で。
 料理を食べる目的についてだが、これは栄養を摂る事ではない。
 そう考える奴がいても、そういう奴に料理なんて必要じゃあない。
 サプリメントで十分。つまり料理なんて食べない訳だ。そんな奴
 に料理の目的なんて解るはずがない。故に、そいつの主張して
 いる料理の目的なんて傾聴には値せず、料理の目的は栄養を
 摂る事じゃあないとはっきり解る。哲学の目的もこういうものだ。
 哲学の美食家たちもいるにせよ、少なくとも僕にとってはそうだ。

 
 勿論トニオ・トラサルディーのイタリア料理店のように、愉しんだ
 結果として健康が手に入る事もあるだろうが、それは目的では
 ない。だから哲学の効能を尋ねる事はシニカルで余りよくない
 事ではある。料理のメニューに効能書きがないとかいって腹を
 立てるようなものだ。だがその問いに敢えて応えるなら哲学は
 常に、あなたの自由を提案している。おいしい店を教える美食
 家たちはどう言うのか知らないが、味わう事を愉しむ者はその
 愉しみを教えてくれるだろうし、一人でもそれを愉しめるように
 一人でも出来る料理を教えてくれる事さえあるのかもしれない。


 勿論これはシニカルな答えだ。愉しんだ事がなければそれの
 意味も解らないだろうからだ。だが、シニカルな問いに対する
 答えとしては、おそらく、相手に相応しい回答ではあるだろう。




 さて。
 Bait_Assalam氏から訂正のトラックバックが来ている。正直に
 言ってよい訂正とは思えないがともかくもまずは引用しておこう。

彼の記述を読んで、私の目からはこう読める、という
ことで、BigBang氏の内心は違うかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/Bait_Assalam/20080319

 これがよくないのは、自分の憶測を単に憶測だとしか言えない
 というところだ。他人の内心についてを守るとか言う事ともここ
 では関係ない。これでは単に自分の判断理由も述べられない
 無力さを、内心の不可侵性に責任転嫁しているだけだからだ。
 

 判断が憶測に過ぎないと言うのはあまりにも当たり前の事で
 言うまでもない事だ。何よりも「自発的に訂正させる意志」を
 松永氏が理解出来ていればよかった、と言う文脈での話だ。
 そして、それを「はっきりと伝えていれば」という話だった訳で
 その内容を憶測に過ぎないと言って引っ込めようとするのは
 全く傲慢な事だ。それでは一体理解すべきだったのかどうか。
 ここで傲慢なのは自分の判断について他人がそのまま受容
 するというような、天動説的な前提が含まれているところだ。
 何故自らの判断について、その理由を内省し伝えようとする
 事ではなく、判断自体も根こそぎに無効化しようとするのか。
 

 他人がいれば、自由な他人が考えたのなら、違った結論を
 出すかもしれない。だからこそ、自分の判断根拠を提示して
 精錬する意味がある。それをしないのは、結果的に言えば
 他人の自由と、その判断とを信用出来ていないと言う事に
 なってしまう。無論、その態度はいい。好きにすればいいし、
 どうでもいい。しかしそれが他人の自由を損ない始めるなら
 話は違ってくる。それは自分の愉しみを損ない始めるからだ。

何かへの意志

 さて。
 またしても迂回路から見てゆく事にするが、引用はやめておこう。
 

 誠実さとは言うなれば真実への忠誠のようなものであり、信用
 ではない。というのは、誠実さそのものはスタンスに過ぎないが、
 信用はその結果だからだ。逆に言うと、信用の出来ない相手に
 対してさえ誠実さがないと断じる事は出来ない。単に見えない
 だけかも知れず、見えない事と存在しない事とを混同するのは
 真実に対する不義である。同じ事で、信用出来るからといって
 相手が誠実じゃあない事もある。世の中に理不尽があるように。
 そして世界にさえ理不尽があるように、自分自身に見える事に
 理不尽があってもまるで不思議じゃあない。信用出来ない相手
 にだろうと、誠実さを見せずにおられないと言う事もままある。

It's crazy but it's true,I only wanna be with you

アリー・myラブ サウンドトラックより「I only wanna be with you」


 そして誠実さは態度でありスタンスだから、それを求める事は
 容易に操作にも行き着く。何故といってどんな結果が出たって
 なお誠実さを求め続けられるからだ。結果を求めていない相手
 には全く注意が要る。相手がそいつ自身に誠実なのか注意を
 すべきだ。そいつ自身に誠実でない相手は、何をしたって満足
 せずにごね続ける事もありうる。同じ事は公然と罵る相手にも
 言える。まずは公然とした罵りが正当化される状況を考えよう。


 それは例えばこんな状況だ。特殊な呼吸を使う拳法が弱点の
 未知の生物が暴れており、ナチスもなす術なくなっているのに
 その場の中でその拳法を使える唯一の男が結構ノンキしてて
 「ハッピーうれピーよろピくねー!」とか言いながらその危険な
 生物に自己紹介してたりするような状況。この状況なら相手を
 罵倒しても正当化されるだろう。つまり切羽詰った状況である。
 だがここでも、自分自身に誠実でない奴は、さほど切羽詰って
 いない場合でも、罵る事が正当化されうると内心考えるだろう。


 重要な事は、まず何よりも自分自身に対して誠実になる事だ。



 さて。
 Bait_Assalam氏からトラックバックが来ているが、内容的に
 見るべき部分は少ない。何故ならそれが自責の吐露だからだ。
 僕は氏の友人でもないし、職責から擁護すべき立場でもない。
 だから氏の自責に興味はない。関心があるのは問題解決だ。
 だが少しだけ言うなら、その自責は「みんなが悪い」といった
 安易さと同様に、具体的な問題点を覆い隠してしまうだろう。


 その上で言えば、BigBang氏による脱会認定云々のくだりは
 問題だろう。その認定についてがつまびらかにされているのか
 という点もそうだが、何より「自発的に訂正させる」という考え
 自体が問題だ。それは相手に「誠実さを求める」事だが、その
 危険が認識されていたとは思えないし、公然と問題にした事
 について十分な始末がつけられているとは思えない。それは
 個人的な信頼がどうだとか言うお話とは別の事だ。問題点が
 十分解消されたと考えているのなら、それを誠実に述べる事
 で火消しに努めるべきだ。そしてまだ問題点があると考えて
 いるのなら、少なくともその整理分析は誠実にしておくべきだ。
 さて。

混ぜるな危険

 さて。
 続いてやはり関係のないような話を扱うが、実際別に無関係
 ではない。最後まで読めば解るだろう。ともかくも引用しよう。

正義のはずの被害者のいうことを鵜呑みにして、被害者の
主張をそのまま責任者にぶつけて交渉すると、どんどんボロ
がでてきて、擁護しているボクの立場がヤバくなりました。

職場のイジメの被害者を助けてあげようとして、酷い目にあいました - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

 
 エントリの要点はここだ。あとは贅肉だ。つまり、間違いもここ
 にある。問題はここに描写された振る舞いは全然擁護だとは
 言えないと言う事だ。というよりも、むしろこれはマヌケである。
 何故これが擁護と言えないかと言うと括弧付きの「被害者」の
 言い分を単純に告げ口しているだけなのと変わらないからだ。
 ポイントは代理しているものが代理者の責任で喋っていない
 と言うところだ。括弧付きの「被害者」の素振りからどの程度
 冷静なのか見て取れるだろうに、その点を割り引かないのは
 単にマヌケだ。それは括弧付きの「被害者」の落ち度なんか
 じゃあなくて、安易にしゃしゃり出てきた奴個人のマヌケさだ。


 火薬に火を近づければ爆発するが火も火薬も悪い訳がない。
 両さんが酒に近づけば両さんは飲酒する。両さんも悪くなくて
 酒も悪くなければ、要するに、酒と両さんの組み合わせがよく
 ない訳だ。その組み合わせをくっつけない事がポイントになる。
 つまり最もろくでもない擁護とは相手の主張をそのまま伝える
 事だ。それでは燃焼反応を広げているだけだ。まさに火に油。
 
 
 重要な事は両当事者の言い分のどことどことがよくない反応を
 起こしているのか突き止める事だ。その上でなければよくない
 反応を起こさせないようにする事は難しい。勿論組み合わせを
 作らないようにすれば話は別だ。だが大抵その組み合わせは
 一方の思い通りにはならないようになってしまっている。職場
 なんてその際たるものだ。それを考えなければ擁護じゃあない。


 つまり、上のエントリは、擁護なんて出来ていないだけだという
 自分の誤りを「被害者」の側に転嫁して遊んでいるだけである。
 ポイントはそもそもの当事者じゃあないからそれなりに冷静な
 裁定も出来たはずなのにそれをせず「自分の被害」についてを
 言ってしまっているところ。もっと単純に言えば、火遊びをして
 自分も火傷したところだ。そして火傷したのが火遊びのせいだ
 とは考えていないところだ。しかし火が火薬を爆発させずには
 おかないのと違い、そもそもの当事者ではなかった部外者は
 選ぶ余裕があったはずだ。それは職場を離れるとかいう空想
 的で抽象的なだけの可能性より、もっとずっと現実的にである。

 

 そして何よりマヌケであるのは、自分が火傷をするほど火力を
 強くしたのに、その火がそもそもの当事者にどう影響したのか
 考えていない点だ。自分の火遊びに他人を使用している点だ。
 本人は「諧謔諧謔ゥ!」とか「メタメタのラッシュ」が決まって
 いるとか考えているかもしれないが、火傷は自業自得としても
 他の火種に火をつけたマヌケさは全く擁護しようがないだろう。
 それについては形ばかりの謝罪でなく現実的な火消しが要る。 
 それなのに前者を選んだ場合、そいつ自身の自己憐憫と自己
 憎悪とが透けて見える事になる。そいつは放っといても苦しむ。



◆翌日追記:「おおっとここでネタばらし」
 余り気は進まないが、礼儀上ブックマークコメントに応えておく。
 こっちの関心は火遊びの不始末のみ。火種に興味は余りない。
 こちらに論難の調子を見て取るのは妥当だが、それが意図を
 証だてうるとか、あるいは意図を問題にしないほどに悪いとか
 と言う事が言われない以上、特に言って差し上げる事はない。
 トラックバックは礼儀上リンクした際に自動送信されたものだ。

子どもと結婚

 さて。
 ここでする話は全然別の話のようだが、最後まで読めばそう
 ではない事が解るだろう。ともかくもまずは引用から始める。

企業は新卒を採用するので、最初のタイミングで
躓いた人はもう就職の希望はほぼ途絶える。

30歳から34歳が受けた心の傷

 このエントリを発端としていくつものエントリが書かれたが
 ここで扱うものは次のエントリだ。これもまずは引用しよう。

彼らの最初のターゲットは教育の大改革だった。子供たちを幼いうち
から、骨の髄までマッチョ思想で鍛え上げるのが、彼らの目的だった。

2010年、マッチョ主義によって日本社会のとてつもない大改革が始まり、人々の生活が根底から変わりはじめた - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

 

 勿論問題点は全く自明だ。論理矛盾も破綻も全てここに
 ある。ブックマークを読んでも全然ツッコミがないようだが。
 コントラストのために、次の文言まで引けば解るだろうか。

マッチョの基本は、自分で決断し、自分で
実行し、自分で責任をとることである。

同上

 連中の理想とやらはこのように文言化される。だがその
 実連中がするとされているのは一体どういう事だろうか。
 

 それは簡単だ。自分たちのケツを拭いて貰うためだけに
 ビチグソを出し続けようとする不始末だ。そして、そうした
 ビチグソで拭かなければ自分たちのケツは綺麗になど
 ならないと喧伝している。そして、彼らはよく知っている。
 汚辱と侮蔑と嫌悪の中で生まれた次世代が前世代を
 洗浄せずにはいられなくなるだろう事をよく知っている。


 何故洗浄しなければならなるかと言えば、こうした洗浄
 計画こそ自力などから遥か隔絶した他力本願だからだ。


 それは子どもらに伝わるだろう。自己憐憫と憎悪の形に
 翻訳されて。主義者のそんな自己憐憫を見抜いた上で
 子どもたちは押し付けられたケツ拭き仕事を想像以上に
 よくこなすだろう。彼らにとってはそれが自意識の根本
 だからだ。主義により自己など持たないよう育てられた
 彼らにとっては、それが侮辱だと理解する事にさえ枷が
 施されている。要するにこの洗浄計画は自分の子ども
 と結婚しようとする事よりもなお下劣なものでしかない。


 精神的に劣位のものを自分のご都合で操作しようとする
 この下劣さは、結局のところ、綺麗にされる必要がある。

対人的な知恵

現実に起こる事態はイメージへの回収合戦になるのだろう。
それはルールの提示と判断のタイムラグを考えるなら解り
やすい事だ。自分たちの提示したルールが「正しかった」と
いう過去形の言い方をそれが可能にするからだ。

All One Way SYMPATHIES - 売文日誌


 さて。
 まずBait_Assalam氏から返答が来ているので、引用から始めよう。

ところどころにちりばめられたBigBang氏の隠喩のような
ものに気がついて、ああそうだったか、と、思った。

http://d.hatena.ne.jp/Bait_Assalam/20080211

 すでにpsycho78氏からの突っ込みが入っているのも承知しているが
 ここではもう少し細かく見てみる事にしよう。まずこの手法そのものが
 不誠実の産物なのは自明だ。自分自身が何を言おうとしているのかを
 明確に知らせはしないのに言いたい事だけは伝えた事にしようとする
 訳だ。そして明確に知らせないから知らせたかどうかの確認にも隙が
 出てくる。そういう意図ではないとかいった一点張りでなかった事にも
 出来ない事もない。そんな不確定なものは誠実な安定とはほど遠い。


 次にこの手法が意志伝達を一方通行化する事も注目するべきだろう。
 一方はその意志を承知していようと他方はその意志を蹴り飛ばせる。
 蹴り飛ばす事が「出来る」という潜在性は隠された優位性として作用
 する。傍目には解らないが一方から他方には作用する隠秘的な力だ。
 そしてそれが作用し始めると、次を仕込む事も随分容易になるだろう。


 これは意識的なものだろうとそうでなかろうとあまり大差ないものだ。
 何故ならこの話が少なくとも軽いものでないと言う事は誰にも自明で
 あるからだ。そうであればそうしたあやふやさを手法として採用する
 事もそれと知らず使ってしまう事も注意して避けられるべきだからだ。
 誰でも見る事の出来るネットで仕掛けをする薄暗い欲望もそうである。


 さらにそれが相手のコンディションを踏まえているのかも随分問題だ。

それにしても、松永氏の心理的疲労を考えれば、正確な情報を伝えて
安心させておけば、その後の展開は違っていたのではないかと思う。

同上

 Bait_Assalam氏自身このように自分自身に向けては書いている。
 この反省が何故自分自身に限定されてBigBang氏には適用されて
 いないのだろうか。そこに聖化を見てとる事はそう難しい事ではない。
 
 
 そして、ではそうした仕込みを見抜ける者は、果たしてその相手に
 悪意がないと理解したところでどう出来るだろうか。相手を信用する
 事が出来るだろうか。相手に安心する事が出来るだろうか。という
 よりそもそも相手の行動を受容して差し上げる意味があるだろうか。
 悪意がないと言う事はつまりそうした仕込みを自覚出来ていないと
 言う事になるが、それは自律からは余りにも遠い癖に他を操作して
 行こうとしている訳だ。そこへの理解が誰かを楽にするのだろうか。

オ・レ・の・ア・タ・マだ─────────────── ッ!

『マルコヴィッチの穴』より、マルコヴィッチ