この頃の議論

ネット上で人類がよりよくなるには、みたいな議論が起きると、どうも全員が善性を持った状態で、かつ、全世界で同時的、平等的な前提条件での議論が多い気がする。
俺はBIは難しい、と思っていて、BIの前提が、経済活動を必要としないほど、世界に物資があふれた状態だと思っている。
ちなみにある程度実現した時代は古代ギリシア古代ローマであるが、その時代ですら、信仰心や忠誠心を示すための物資入手のための経済活動や、国家レベルでの経済活動は行われていた。

これだけ細分化された世界で、この前提条件をクリアすることは難しい。

であれば、どうあればいいか。
我々のゴールは何なのか。
これに明確な道筋を、私につけてくれたのは、以下だ。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/murohashiyuki/20160201-00054007/

上記より引用

スイスで署名活動を推進した中心人物は、「ベーシックインカムは貧困の削減だけのためのものではなく、むしろ生き方、働き方に関わる問題だ」と語る。「現在の経済のしくみでは、一部の特権的な人びとはともかく、多くの人は食べるために働かなくてはならない。仕事とは、本来、共同体のため、他の人のため、社会のためであるはずなのに、それが自分と家族が何とか生きのびるためになってしまっている。ベーシックインカムの導入によって、人は目先の生活の必要から少し離れて、自分が社会のために何ができるのかを見つめて、そのために生きていくことができる」。

引用終わり

つまり、自己実現なのだ。
経済活動を行いながら自己実現することが難しいので、自己実現に集中したい、という、実に契約社会的思考プロセスではないか。
とすると、答えは簡単だ。
富の占有を妨げればよい。

グローバル企業などといったたわけた存在を滅ぼし、各国内でブロック経済化すればよい。
その結果訪れる不況は、まさに各国の政治の問題であり、そこで生まれる悲劇も同様である。

凡そ、人類が善性をもって接することができなければ、行き着く先は戦争だろう。
ブロック経済化するということは、他社を拒絶することだからだ。拒絶は軋轢を生み、軋轢は憎しみを生み、憎しみは力に訴えかける。

昔は、資本がなければ技術力をつけられなかった。物を作れなければ意味がないからだ。
今は、WEBのせいで、技術力から資本を得ることができるようになってしまった。
我々は異世界を生み出したに等しい。
このパラダイムを変化させなければ、経済活動に一生を捧げる必要がある。
経済活動に一生を捧げられる文化を持つ者だけが、不満なく働くことができるだろう。
そしてそれは、自己実現からは最も遠く、資本家は、自動的に奴隷のように労働者を扱うだろう。それを良しとする者たちだからだ。

我々のゴールは、自分らしく生きる、だ。
分かったかね?我々は、ついに行き詰ったのだ。

この閉塞感は、世界に広がっているだろう。
閉塞感を打破するために、より過激な発言をしたり、より善性を強く出した者たちが指導者になるだろう。
そして彼らは、善ではない。
もっと言うと、我々も善ではない。

我々生命体に、善悪もなければ、正邪もないからだ。
社会を構成するにあたり、その行為は妥当か否か、でしかない。
他者を害することが社会構成として妥当であれば、そうなるだろう。つまり、害獣と指定されれば、そうなる。

私には、こうあれかし、というイメージすらわかない。どちらかというと、よりひどくなる世界しかイメージできない。
この世界で子供たちを守るには、どうしたらいいのだろうか。

何かってーと

http://toyokeizai.net/articles/-/58760?page=3
これだったんだけど。
アカデミック、アカデミズム、プロフェッショナル、実学という話。
日本の大学教育ではアカデミズムに寄り過ぎていて、実学が弱い。実学が弱いから、アカデミズムも弱体化した、と。
国家100年の計としての教育方針への提言なんだが、日本人が培ってきた権威主義(アカデミズムではない)とそりが合わない。
大学教員がアカデミズムという言葉を使ったかどうかは知らないし、使っていたなら大学教員も無念な感じだが。

つまり、何も言ってないんだよね、この人。
実学が弱いのは、いくつかの日本固有の文化と歴史的経緯による。
日本の職人文化があって、ギルドのような職人協会と言ったものが存在しなかったから、職人協会の人間がそのまま楽譜に入ればよかった部分と異なる。それが一つ。
日本で高等学問を収めるには、そもそも徒弟的な、それこそ職人文化の延長線上に合った事。一般教養は、寺子屋で。専門分野は先生のもとに付くこと。これが一つ。
つまり日本においては、アカデミズムこそが歴史的文脈の中に存在しているわけで、大学の体制を変えるのだ!と息巻いたところで、
その文脈をどう伝えてどう精神へ変化を起こすべきなのかがない。
つまり、極論って事。
だから何も言ってないと同じで、問題提起にすらなって無い。そんな事は判ってんだよ、と思ってないとならない。

これに共感している人もどうかしている。効率化に対して先鋭化しすぎてないか。
その文化と、私の文化は異なる。
はっきり言おう。オタクに対してキモイ、と言う精神構造と同じ構造を持って言えば、キモイ。

メディアは道具です。情報源ではない。

全力を出し続ける事が物理的に不可能なのは、みんな判っている。
寝る事が大事、とか、息抜きも大事、とか、スケールの違う表現なだけで、どうすべきは個々人で違う。
寝る事が大事な人もいれば、睡眠時間を削ってでも遊ぶ方が大事な人もいるわけで。
すわ効率化は文化障壁を超えて世界市民のための精神性、と思ったけど、効率化とは何ぞやが判ってないと無理だよな。しかも、それすら文化っていう。そして俺は効率化したくない。
つまり、日本人かつあのバブル期を見聞きした人間として、自分の精神性のもとになった文化を維持したい。
なぜかと言われると言葉にならない。嫌だとしか言いようがない。
精神や文化を理解する事は難しい。
そのくせ、メディアは、それを簡単であるように見せかける事が出来る。
極論を上位に持ってきたりする。もしくは、キーワードとして、それ以外を見いだせなくなったりする。
大学に通わなければものを教えない事が増上慢だというタイトルを見た。
もう極論の極みだ。前提がおかしくはないか?
精神や文化を理解するのは難しいのだ。だから手厚い対応が必要なのだ。かつ師は少ない。物理的に不可能なのだ。
それを技術は簡単にできるように見せる。そんなわけはない。
知識だけでは、精神と文化は伝わらないのだ。知識だけで伝わるならば、俺たちは子供をこんなにも長く庇護しなくて良い。
一例をあげれば、俺たちが弥生人のように生きられないように。彼らの生活を大変だったと思うように。
知識だけでは、精神と文化は理解できない。理解する方法論は判らん。しかし、理解できていない。
なぜなら、彼らは幸せであったのだから。そうでなければ、今へ歴史は繋がらないからだ。
戦国時代であれ、世界大戦の時であれ、世界全体で見れば、幸福と、希望があったのだ。

久々に

もう、SNSから流れてくる友人登録した奴らのフォロワーだか、良いねした記事だとかは、要らなすぎる。
てか、やっぱり、自分で友達を選ばないと、楽しくも何ともない。
Facebookで意図しない連中と繋がったが、どいつもこいつも、面白くも何ともない。
料理や家族の事なんて、どうでも良いんだよ、俺、お前らにそこまでの興味ないもの。
だから尖がったこととか、これは面白いだろ、とか、これはスゲェだろって事を流してほしいんだけど、
そういうのも、そもそも興味がずれているから、全く引っかかってこない。
ぶっちゃけ、なんでみんなつながりあおうとしてんのか、訳が分からねぇ。
だってそいつらお前らがマジで困った時、家に来てくんないっしょ?
来るやつらだけで良いでしょ、そんだけ濃密な繋がりは。
わっかんねぇな。その労力を別に振ったらもっといい人生送れるんじゃないの?

思ったこと

1:シェアと投票だけのコミュニケーションは、本質をゆがめるよね

2:本質がゆがむから、あるクラスタの中で、何かをディスっているとき、「違うんじゃない?」という発言に労力が必要になるよね

3:その労力を惜しみ始めると、クラスタの中にいる友人に対して、友人関係を正しく適用できないよね

経緯とかぶっこ抜くと、思ったことはそれだけ。

人に対する諦めがまず最初にやってくる文化は、いつか世界を滅ぼすと思うんだよな。
ちょうどキングダムでそんなことを言い合ってますがw

具体例で言うと、この動画を見ろよ!っていうだけの通知が来たことなんだけどね。
それを見て、本当にこいつはあほだな、と思って、SNSの画面を眺めたたら、ああ、こういうあほが情報を垂れ流しやすいようにしているのか、
と気づき、ガチャゲーのような「くせになる簡単さ」が画面の設計思想にあるのだな、といたり、1番。
で、1番を踏まえ、2番に至るのだけど、役人の発言についてなのね。
ものづくりの覇権を握るつもりだろうか、という発言について、なんか、それ違うんじゃない?と思う突込みを入れていている人がいて、
元記事は警鐘くらいのつもりで書いたんじゃないの?って俺は思うんだけど、そんな文章の一部を抜いて、こんなこというから駄目なんだ、
みたいな流れは、よろしく無いと思ったんですよね。
つまり、元ソースに書かれている内容は意味が無くて、刺激的なテキストが世に出たことに意味があるんだと。
そういいたいんだけど、そんなことを懇切丁寧に言うのは大変だよね、と思った瞬間、どうでもいいや、と。
で、それって駄目だよね、と3番に来たと。
たぶん、どう書いても、伝わらないと思ったのだけど、どこかで何かに使えるかと思って、こちらに書いておく。

それでいうと、1番ももうちょっと書いておくと。

そもそも、この動画見ろよ!というやつが、これのうち何がどうすごくて、何をどう伝えたいのか、まとめるべきであり、配信者がその労力を惜しむとか、あほの諸行以外なんでもないんですよ。
だって、本当にそいつが言いたかったことは、そいつにしかわからないわけですから、そいつが言うほか無いんです。
動画見たやつらが、あーでもないこうでもないってやる分が無駄だし、たぶん、そいつが受け止めた方法論じゃない方法論とか、受け止めた内容じゃない文化で進むはずなんです。

なので、人のテキストをシェアするだけのクズは、世界から消え去っていただきたい。

久々に

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150223-00067199-diamond-soci

エクセルで上書き保存した後に計算ミスを見つけたら、もう戻せない、っていうのが全く意味が判らなくて吹き出した。

そもそも、計算式を変更するって事は、新しいものを作り出そうって事なので、デジタルデータなんだから、バックアップは取りましょう、ってのが一つ。

もう一つは、計算式を入れなきゃならないような何かを用意するなら、プログラム書いた方が確実です。
覚えましょう。
エクセルは、「表計算シート」であって「経理会計用ソフト」でもなければ、「営業資料作成ツール」でもないです。

代替できるものだから、それで代替する、ってのは、一つの「アイディア」であって、それで解決する問題もあれば、
解決し切らない問題もあるわけです。

それらはきっちり考えなければならず、思考停止して「とりあえずエクセル」っていうのが、そもそも間違ってるわけですよ。

見積もりマシーンとか、検算マシーン(マシーンて言い方はちょっとひどいと思うけど)として、理工系の人材を営業部や企画部に入れるのは、こういったことが不得意な感性型の人たちの業務を改善するには、ちょうどいいと思うのだけどね。

気持ち悪い

https://www.youtube.com/watch?v=uB9v_gJ3iHE
企画自体が気持ち悪い。
過去映像なら「記録」なので見てられるけど、新作は無理だ。
死者に鞭打ってるように感じる。
技術的に凄いことと、倫理的に受け入れられることは違う。
子供たちは無邪気におもしろいというだろう。大人たちは懐かしさに見るだろう。僕もそうした。
そのために、死の前日まで、声が出ないのごめんなさい、とまで言いながら、仕事をしたこの人を、客寄せパンダとして扱うのか。
その発想がおぞましい。この嫌悪感は、薄れてしまうものなんだろうか。
僕らは僕らで、そのような企画を世に出していく事になるんだろうか。
それで良いのか。
「怪物と戦う物は自らも怪物とならぬよう心せよ
 深淵を見つめるとき、深淵もまたこちらを見つめている 」
この言葉を思い起こされた。
消費者はまさに怪物だ。それをつぶさに見続ければ、怪物を理解する。
そして、怪物に合わせて動き始める。それは、形が違うだけで、怪物ではないのか。