映画『ソイレント・グリーン』★★★☆☆

ソイレント・グリーン(原題:Soylent Green)
監督 リチャード・フライシャー
脚本 スタンリー・R・グリーンバーグ
製作 ウォルター・セルツァー
    ラッセル・サッチャー
出演者 チャールトン・ヘストン
音楽 フレッド・マイロー
撮影 リチャード・H・クライン
編集 サミュエル・E・ビートリー
配給 MGM
公開 アメリカ合衆国 1973年
Wikipediaより抜粋:http://bit.ly/176CYd1

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久しぶりの投稿は映画。
初見。今年は日本でもソイレントが発売になるとのニュースを聞いたけれど,そういえば元ネタのソイレント・グリーンを観ていなかったので,観てみた。以下,ネタバレ注意。





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舞台は2022年のニューヨーク。人口爆発により職住を失った人々が溢れ,豊かな自然や植物が失われてしまったディストピア世界で,特権階級を除くほとんどの人間は,ソイレント社が海のプランクトンから作る合成食品の配給を受けて生活している。そんな中で,ソイレント社の幹部殺害事件が起こり,チャールストン・ヘストン扮するソーン刑事がその死を調査していくうちに,ソイレント社の配給食品,ソイレント・グリーンの秘密を知ってしまい,・・・というお話。

まず最初に,さんざ描かれるソーン刑事の腐敗っぷりが,時代と人柄をとてもよく表していた。
殺人現場に着くなり,「富豪の家だし家主死んでるし,何もらってもかまわんでしょ」と言わんばかりに,酒や石鹸,そして当時は幻となっている牛肉(!)など,貴重なものを当然のように漁っていき,シルクの枕袋につめてサンタクロースさながらに帰っていく。この時代は貧富の格差が激しく,多くの人がソーンのアパートの階段で寝泊りしていたり,ソーン自身もお湯でシャワーを浴びた記憶がないくらいだったりするので,そうした役得でなんとか往時(我々の時代)の生活を体験してみようとするのだ。
また,彼は一見乱暴者のように見えるけれど,家には「Book(本)」と呼ばれる老人・ソル(エドワード・G・ロビンソン)が待っていて,自然が豊かで普通に果物や肉を食べていた昔の食事を再現し,彼を喜ばせるなど,憎めないところもある。

映画の世界においては,食事によって人物の性格や関係性を表現する「フード理論」なるものがあり,その観点から見ても,人間味のある食事を大切にする主人公ソーンは善人,食事を無機質なものに変えてしまったソイレント社は悪人ということが暗に示されている。

また,ソルは「Book(本)」,殺されたソイレント社幹部のメイド兼夜伽であったシェリル(リー・テイラー=ヤング)は「Furniture(家具)」と呼ばれ,誰かの所有物として扱われているが,その二人に対しても,ソーンは友人として,一人の女性として接する。

そんな人間的温かみを持っているソーンは,捜査をやめろという上からの圧力がかかっても,捜査をやめない。
ソーンは,ソルから聞く昔話などから,現状にどこか違和感を感じていたように見える。
これはある意味『マトリックス』のネオとも通じる,「この世界の歪みに気づいてしまったもの」の物語だ。

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一度気づいてしまったものは,口を噤む(=死ぬ)か,本当の生を獲得するために革命家になるしかないのだ。

主人公ソーンが真実を目撃するシーンも衝撃的ではあるが,真実を知って安楽死を選んだ人物の安楽死シーンが一番の見どころだろう。
音楽も映像も素晴らしく,自分も死ぬときはこう死ねたら幸せだろうな,と思ってしまった。
実際,ここまで個人主義的感覚が一般化した現代においては,自分の死も自分の所有物であり,自分で決定する権利がある,または『選択』こそが生きることである,との考え方も不自然ではなくなりつつあるように思うが,どうだろうか。
また,山田宗樹の『百年法』にも似たような安楽死施設のイメージがあり,この作品からも影響があるのか,それとも人が安らかに眠りたいと思う環境には共通のイメージがあるのか,なんてことをもにゃもにゃ考えたりした。

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「ソイレント・グリーンを食べてまで生きることに意味はあるのか」というところまで踏み込んで描くと,より深みが増したと思うんだけど,そこまでいかなかったのは残念かなー。
それでも十分に現代社会への批評性・メッセージ性のある,色褪せない作品だと思います。

『ソイレント・グリーン』はゲームの『ゼノギアス』など,様々なSF作品に栄養…もとい影響を与えているので,どこかで「ソイレント」の名前を耳にしたことがある人は,元ネタもぜひ。

これを観た後だと,完全栄養食品と言われてもソイレントは食べる気起きないなあ。。。

第1225回夢日記 雪と空

あるところに二人の姉妹がいた。仮に姉をアキ、妹をサキという名前にしておこう。
彼女たちは母と三人で暮らしていた。父は他界したのか、離婚したのか、単身赴任中なのか、分からない。
よく雪の積もる北の大地の平原と森の境に、小さな家を建てて住んでいた。


姉妹にはそれぞれ思い人がいて、それぞれ結婚を考えた付き合いをしていた。
仮に姉のアキの思い人をケンタロウ、妹のサキの思い人をナオキとしておく。
ケンタロウは熊のような大男であったが、のんびりとした森の生活を好む男だった。
ナオキは細身だがガッシリとした体躯で、平原を颯爽と越えて毎日姉妹の家までやってくる都会人であった。


おっとりした性格のアキと竹を割ったようなあっさりした性格のサキには、それぞれぴったりの相手だった。
母も二人を気に入り、五人でよく夕食を共にした。


ある大雪の日、ナオキが仕事を終えて姉妹の家までやってきた。
車から降りてザクザクと家までの短い道を歩いていると、車が横滑りしてきてナオキに激突する。


ナオキは雪と車の下敷きになった。


大きな音に気づいて駆けつけるケンタロウと姉妹。
吹雪の中、ケンタロウは普段は見せない渾身の力を振り絞って車を持ち上げ、その隙にサキがナオキを引き擦り出した。
しかし、ナオキの体は妙にしぼんでいて、代わりにヘンテコな球体が宙に浮いていた。
それは小さな宇宙船で、ナオキは宇宙人だったのである。小さな宇宙船に乗って空にかえってゆくナオキは、サキに近づき、何かムラカミハルキ的なことを言い残す。やれやれ。


ナオキだったものが空を上っていった。
姉妹とケンタロウはそれを呆然と眺めているしかなかった。
雪の降る空の真上を、姉妹とケンタロウはいつまでも眺めていた。


やっぱり名前はなかったほうがよかったかも。
そんな感じの第1225回夢日記。やれやれ。

第1222回夢日記 競馬場

彼女が競馬を観たいと言い出したので、電車に乗って遠い町の競馬場まで見に行った。


そこはどこか山の近くのような、海の近くのような寂れた町だった。
ラクターが走り、藁を敷き詰めた道ができていたから単なる田舎町だったのかもしれない。


兎にも角にも、二人は競馬場までやってきた。


競馬場の中に入ったはいいが、まだ目的のレースは始まっていなかった。
目的のレースは14:00から。まだ2時間ほど時間がある。
3、4人で騒いでいる子供達が僕らをからかった。
でも僕らが何か言う前に彼らは消えてしまった。


席に着くと、彼女がこの町にないものを食べたいと言い出した。
彼女を一人座席に残し、僕は一人電車に乗って買い出しに行った。


外の風景を眺めているうちに、隣町に着く。
そこは隣町と同じような町で、競馬場があるかないかの違いだけだった。



僕は必死にその町にしかない食べ物を探す。
しかしそのうちに、うとうとと木陰で眠ってしまった。



キャタキャタと鳴る乾いた音がして起きてみると、この町にしかない食べ物のことなど頭からすっ飛んでしまった。
サルがトラクターを運転していた。
必死に人間を探すが、サルしかいない。
サル、サル、サル。どこに行ってもみんなサルだった。
彼女のことが心配になったので、とりあえず電車に乗って隣町の競馬場に向かう。


駅から競馬場までの道を僕は走る。
競馬場へ向かう車もみんなサルが運転していた。
サルのトラクターに、サルを乗せたサルのタクシー。
藁でできた黄色い道がよく似合った。


競馬場に着くと、大量のサルの蠢きに圧倒される。
こんな場所で果たして僕は彼女を捜せるのだろうか?
不安を覚えながら席へ向かう途中、さっき僕らをからかってきた子供たちが見えた。
彼らだけは、サルではなく、人間だった。
声をかけようとしたが、彼らはどこかへと走り去ってしまった。


まあいい。
今は彼女の安否を確かめる方が重要だ。
僕は席へと急いだ。


サルゴミの中をかき分け、彼女のいる席まで辿り着く。
彼女は隣のサルと何かを話している。
彼女もサルになってしまったのだろうか?
分からない。
ここでは彼女の背中しか見えない。
しかし僕はそこから一歩も動けない。
彼女の前に立つことを想像してしまったからだ。



「彼女はサル?人間?」



どうしようもない恐怖と不安の前に、僕は立ち尽くすことしかできなかった。



そして次の瞬間、蛍光灯が僕の目を刺してベッドの中にいる自分を発見する。
すべて夢だったのだと気づき、ほっと胸をなで下ろす。


普段の僕はコーヒーを淹れるが、今日は久しぶりにココアを淹れた。
それを飲みながらいまはこれを書いている。


そんな感じの第1222回夢日記

ナマとアマ

10/12に第五回吉祥寺アニメーション映画祭に行ってきました。
http://www.kichifes.jp/wonderland/event/filmfestival.html


いやあ楽しかった。全16個のノミネート作品を鑑賞したのですが、どの作品もアイディアに溢れていて面白かった。
個々の作品についての感想は友人兼後輩のid:my_youくんが書いてくれているのでそちらをご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/my_you/20091012/1255376148

グランプリの『恋するネズミ/ひだかしんさく』は、審査員の方々もおっしゃっていたように構成力が素晴らしかった。テンポ良し、ストーリー展開良しで、画面構成やカメラの動かし方も良かった(ネズミが倒れた振動でチーズが落ちてくるところとか足元の映し方とか)。



my_youくんと彼女はチーズかバターか論争が起きたんですが、もし彼女が最初からバターであったら、なぜチーズだけを盗んだネズミが彼女を偶然盗んでしまったのかの説明がつかなくなります。彼女だけがバターであった理由が分からない。それにこの作品では、チーズであった彼女がバターになってもネズミは彼女を愛し続ける、というところに彼女の代替不可能性が見えて愛というテーマに対する答え(=eternity)を提示しています。最初から彼女はバターだったけどそれが分かっても好きっていう話になると、「最初女だと思って惚れていたのに実は男だったけど愛し続ける」という話も可能になって、『ストップ!ひばりくん』や『天使な小生意気』的な展開も思い浮かぶんですが、どうでしょうか。。自分としては「恋人が実は〜だった」系だと相手が心変わりしても仕方ない、むしろそれは盲目ゆえの過ちなのでそれでも好きと言われてもプラス評価にはなりません。反対に「恋人が事故で〜になってしまったけど好き」系なら「やっぱりそれが愛だよなぁ」と頷かされてしまいます。恋愛はベタでいいんです。だって愛をeternalなものだと信じたい人間の心性は昔から変わらないのだから。


まあ個人の解釈なので作品からどんなメッセージを受け取るかは個人の自由ですけどね。しかし人と同じものを観てあれこれ言い合うのはやっぱり楽しいですねー。なかなかこういうことをできる友人がいなかったので、彼は自分にとって貴重な存在です。付き合ってくれてありがとう!


あと彼イチオシの『プッシーキャット/長尾武奈』には自分も笑わせてもらいました!THE ENDのタイミングが素晴らしい笑 リアルなホラーだったら笑って観てられなかったでしょうが、クレイだから自分みたいなホラー童貞でも安心。

武奈さんの過去作品も見てみたんですが、明らかにカメラワークや人形の造型が向上していて音楽なども含めた演出的な技術が良くなっている代わりに、画面の荒々しい臨場感が失われてしまったかなあと感じました。BLOODY NIGHTにあった『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や『REC』みたいな手振れカメラの臨場感がどんどんなくなっていっているのかな。審査員の方々が武奈さんの過去作品も観ていたのであれば、今回の作品は少々小奇麗にまとまって物足りなく感じたのかも知れませんね。素人感想ですが。ホラー作家がエログロナンセンスに行く過渡期的作品?かもしれません。


個人的には『くじびき/イ・ドンフン』が好きでした。
子供の主観世界を描く作品って大好きなんですよねー。もう失われてしまったものだから。そして忘れてはいけないものでもある。大事なものを思い出したり、発見したりすることが多い。この作品では年上のお兄ちゃんや無表情な大人の怖さ、駄菓子やの怪しい雰囲気、子供が本当に欲しい物などが淡々としたモノトーンの世界描かれていて、瑞々しい気持ちになりました。色んな感情が混ざって泣き出してしまう子供の姿。泣き方を忘れてしまったどこかの大人の話を思い出します。ゆっくりとしたテンポの底を流れる緊張感も絶妙で、この作品のように観客が様々な思いを巡らせる余地のある作品は強度が高い。観るたびに感想が変わってくるだろうし、観た人によって全然違うことを考えているでしょう。こういう作品を作るのは難しいと思うのですが、イ・ドンフンさんはなかなか上手く作っていらっしゃいました。韓国人の方なのかわかりませんが(ググっても俳優しか出ないし)、次回作も楽しみです。


今回のアニメーション映画祭で良かったのは、生産者の顔が見れたことですね。学生の方もいたし、脱サラしてバイトしながら自主制作アニメを作っているという方もいて、普通の人間の力でこれを作っているんだ!という事実に励まされました。アマとはいえナマの生産者を観ると、彼ら/彼女らの目がキラキラ輝いているのに変わりはありません(むしろプロより輝いているかも)。今の自分に一番足りないものが情熱だと思うので、情熱を持って何かを作っている人にできるだけ近づいて情熱を燃やすきっかけを掴みたいと最近考えています。行動あるのみ!青臭いこと大好き!あー話かけてみればよかった!


後悔をしたら次に活かすべし、ですね。
ではでは。

イベントメモ

知人が面白いイベントを紹介してくれてたので、そのお返しではないですが自分もメモメモ。


http://www.mmjp.or.jp/pole2/
岡田茉莉子の映画を見て我らが蓮實先生、小林康夫四方田犬彦トークも聞ける。素晴らしい。
前から見てみたかった映画が多いので楽しみです。「おそいひと」もできれば。


http://www.cinemarise.com/
伝説のアニメーター、ライアン・ラーキンの珠玉の作品集。予告編見たけど、これは観る価値がありそう。
ジャームッシュのリミッツ・オブ・コントロールも10/30まで。


http://www.bounce.com/news/daily.php/20616
これは行くとかじゃないけど欲しい。くるりのトリビュート盤。でもお金ないから迷う。


http://www.furorock.com/info/index.html
向井秀徳風呂ロック
トクマルシューゴの抽選当たったのに振込みそびれて当日券も諦めたのでこっちは行きたい。


http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/iii/event/post_63.html
これは明日。てかもう今日ですね。コミケとかコンテンツ産業の今後についての講演。
来年電○マンになる友人を誘って行ってみようかと。


お金を払って話聞いたり物見たりするほうが、学校より楽しかったり。
台風で休校になったら映画を見に行こう。たぶんならないけどさ。

エヴァという神話を乗り越えられなかったエウレカセブン

2009年公開 日本
監督:京田知己
製作:劇場版「交響詩篇エウレカセブン」製作委員会
原作:BONES 脚本:京田知己 脚本協力:大塚ギチ


新文芸座で劇場版エウレカセブンを観てきました。エスカフローネラーゼフォンと一緒に。
とりあえず今回はエウレカセブンについての感想です。


自分はTV版エウレカセブンが大好きで、劇場版予告&あらすじを観た瞬間、「これは・・・観に行ったらあかん!自分の好きだった世界が壊される!」と感じて絶対観に行きたくないと思っていたんですよ。予想通り、今回のエウレカレントンのラブストーリーは、二人の性格がTVシリーズと違い過ぎる・エウレカ大胆すぎて興冷めなどの理由により、自分はあまり感情移入して楽しむことはできませんでした(終始デレっぱなしのエウレカも可愛かったけれど)。それでも今回自分が楽しめたのは、「愛」でなくもう一つのテーマ、「神話」についてのメッセージが面白かったからです。もうメッタメタな感じで失敗していたのでwある意味非常によくできているんですがw

以下ネタバレを含む「神話」についての考察です。


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もともとエウレカセブンはTVシリーズのときから対構造をよく意識している作品で、選ばれた子どもレントンと選ばれなかった大人ホランド、反政府ゲリラの弟ホランドと権力の中心にいる兄デューイ、そして主人公レントンエウレカとレプリカのドミニク・アネモネなど沢山の対がドラマとして描かれていました(そういえばカップルも沢山いたなあ、6組以上はいたはず)。劇場版でも、神話をなぞることによって理想の新世界(ネバーランド)へ行こうとするホランドたちゲッコーステイトに対し、この世界で新たな神話を作り上げることによって理想の世界を作ろうとするレントンエウレカ、という対立軸が明確に描かれていたと思います。時代の空気という観点からこの間の衆院選に当てはめれば、過去の神話に頼るホランドたちが自民党、新たな神話で未来を築こうとするレントンたちが民主党というイメージでしょうかねw(前回のエントリ参照)。


しかし、ホランドにとって未練の無かったこの世界で生きる理由ができてしまったこと、即ち新しい生命・愛する者の誕生がホランドの行動を変化させ、結局彼とゲッコーステイトのメンバーはレントンたちの神話創造に未来を託します。永遠の命を求めてネバーランドに逃げることを止め、この世界で自分の運命と戦いながら生きることを選択する、というのは彼等が大人になったことの証ですね(=ここでピーターパン・ストーリーを回収)。そしてアネモネばあさんの話を経たのち、エウレカがイマージュに自分の記憶を伝えることでエウレカの夢=レントンの夢の世界を実現し、新たな神話創造を成就させてハッピーエンドに。


というのが神話を軸にした大まかなストーリーなんですが、「神話をなぞるのではなく、自分たちの神話を作れ!」というメッセージが非常にアツい!!!!!なぜならこれってメタ構造になっていてもの凄く説得力があると同時に、生産現場の人間の切実な叫びだと思ったからです。


まず、どうメタ構造になっているかというと、この映画がTVシリーズの劇場化作品であり、TVシリーズ同じキャラクターや似た設定を使いながらも全くの新しいストーリーになっているという成り立ちが、上記のメッセージとシンクロしているんですよね。「古い神話(=TVシリーズ)を壊して新しい神話(=劇場版)を作り直す」ということを、製作者自身が実行しながら映画のメッセージにもしているわけです。ろくすっぽ努力をしていない自分が「小さな努力の積み重ねは大事だ」って言うより、イチローがそれを言うほうが断然説得力がありますよね。自分が説得力5のゴミだとしたらイチローの説得力は530000くらいあるでしょう。そうした経験や実績に基く強い説得力がこのメタ構造によって生まれていると思います。


そしてまた、「自分たちで神話を作れ!」ってのは昔の作品の焼き直し・継接ぎばかりになってしまったいまのアニメ業界への抗議にもなっていると考えられます。宮崎駿監督がポニョを作ったのも、同じような物語の焼き直し嫌気が差して物語の枠や理屈によらない純な神話を作ろうとしたからですし、いまのアニメ業界では共通のテーマなのかもしれません。それに「打倒エヴァンゲリオン」を謳っていたエウレカセブンにとってエヴァという神話を超える神話を作ることが悲願なわけで*1、「よかったー!!これも一つの答えじゃないか!!とうとうやったね!たえちゃん!」って一瞬思ったんですが、あれ、そういえばこの構図どっかで観たことあるぞ・・・


























ってやっぱりエヴァかよーっ!!!!!



もちろん新劇です。気付いてだいぶガッカリしました。。。ここまでキャラの性格も違う、設定も違う、ストーリーも違うTVシリーズの劇場化作品はエウレカセブンが業界初だと思うのですが、TVシリーズの設定を変化させた類似世界における完全新ストーリーというコンセプトは先に庵野監督がエヴァ新劇のために考案したものだと思われます(エヴァ序の段階ではキャラの性格変化やシナリオの改変がまだ少なかったので、エヴァの話を聞いた京田監督がエヴァ破公開の前にエウレカでその手法を使ってしまったのではないでしょうか)。てかよくよく調べてみると、京田監督は実はエヴァ序に絵コンテで参加していて、庵野監督がその際、今のアニメ業界の現状や問題点、そして新劇について京田監督に話をしたという経緯があったみたいですね。。。
http://homepage3.nifty.com/mana/new-eva13.html
これはほぼ確信犯だと思われます。


「この10年、エヴァを超えたアニメはありませんでした」という庵野監督の新劇製作会見時の言葉がより一層深く胸を突き刺します。





はい、あなたのおっしゃる通りでございます。




「古い神話を乗り越えて新しい神話を作る」という試みを新しい神話=エヴァ新劇の焼き直しで実現してしまったので、一見メタ的に成功しているように見えてももう一層上から観ると実は大失敗している、ということが今回の映画一番の見所ではないでしょうか(皮肉なことに)。進化し続ける神話っていうエヴァ自体反則的なんですけど(良い意味で)、でもそこからコンセプトをもろに流用していながら「新しい神話を作ろう!」と嘯くエウレカセブンは反則です。「新しい神話を作る」というテーマはTV版でエヴァの劣化パクリと批判されたことへの反省から来ているわけではなく、単なるエヴァへのオマージュと捉えるべきでしょう。これはTVシリーズからの一貫した姿勢なのかもしれません。


そしてもう一つなんだかなあと思ったのは、「人間が生きるには記憶が必要だ」「記憶こそ生命が未来に進む根拠だ」というメッセージが出てきたところです。これは既に京田監督自身がラーゼフォン劇場版でも言っていて、それを持ち出すなら人類の記憶である旧レントンエウレカ神話を再現して未来に進んでもよかったのでは?と自分は思ってしまいました。ホランドたちに「人殺しだ!」と言いながら、レントン自身もエウレカと自分の未来ために人を殺しまくったという過去=記憶とどう折り合いをつけたのかもよくわからないですし。不遇な運命にあったホランドたちは人を殺して生き延びることの罪を自覚したうえで何が何でも生き延びるという貪欲さが描かれていたと思いますが、レントンはそこを誤魔化したままラストまでいった気がします(レントンは「どうしてこうなっちゃったんだろう?」と言って責任を他に押し付けていたし、「エウレカのためにならバカになれる」的発言を根拠として愛のために正当化されたと考えると、あまりに陳腐で独善的です)。尺の関係上無理だったのかもしれませんが、そこが流されたせいで愛を肯定する・わがままを肯定する説得力が弱くなっているのが残念だと思います。


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チビエウレカとチビレントン、二人のラブラブっぷり、KLFの空中戦、テレビ版や他の映画をオマージュしたギャグ(バックトゥザフューチャーの“ジゴワット”という単位が出ていた)などは観ててとても楽しかったんですが、アップテンポで爽快感のあるテクノを理屈優先で封印してしまった*2、長い理屈の説明や解説くさい台詞回しが多かった、レントンエウレカが直接的にイチャイチャしてて思春期の情趣が薄れた、レントンよりホランドのほうが感情移入できた、ニルヴァーシュがなぜマスコット化w、スパイロボットw、ドーハの悲劇w、いい奴だったハップとストナーが・・・などなど、気になる点も沢山あったので評価が難しいです。


でも観てよかったと思いました。

TVシリーズで最後に美味しいとこを持っていったユルゲンスが劇場版でもさりげなく美味しい役になっていること、グレッグ・ベア・イーガンの扱いw、デューイの性癖がトンでもないことになっていることなど(あれは名言ですね)w、TVシリーズを観ていた人はいたるところで吹き出したことでしょう。
TVシリーズのパワーで観れたってことかな。
やっぱりなんだかんだで自分はTVシリーズの方が好きなのでした!佐藤大マンセー

*1:エウレカセブンのTVシリーズは「打倒エヴァンゲリオン」を謳って作られたもので、シナリオ・宗教的なモチーフ・主人公のコンプレックスなど、様々な影響を受けていた。しかし、人物造詣が浅い、ストーリーの骨格が弱いという評価が多く、超えられなかった。

*2:トークショー時の監督の話によると、TVシリーズではサブカルに憧れる田舎の少年レントンと視聴者自身を重ね合わせてもらう狙いがあったが、劇場版ではもはやエウレカセブン自体がサブカル化したのでテクノを使う必要性がなくなったとのことだった。