ホイジンガの遊びの理論。
1900年代初頭を生きたオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、
人類を「ホモ・ルーデンス」と名付け、「人間」と「遊び」の関係性について論じました。
彼の「遊びの理論」そのものについての詳述は下記のpdfレポートにここでは譲るとして、
http://www.toyo.ac.jp/fba/keieironshu/pdf23/09_ogawa.pdf
(あとこんなものも)http://www.jstage.jst.go.jp/article/itej/60/4/491/_pdf/-char/ja/
彼の残した有名な格言のひとつとして
「遊びとは美しくなろうとする傾向がある」というこの言葉に着目してみましょう。
遊びは日常生活から、その場と持続時間とによって、区別される。完結性と限定性が遊びの第三の特徴を形づくる。
『遊びとは美しくなろうとする傾向がある』
まるで「遊び」そのものに意志があるかのような言い回しですし、「美しさ」の定義も分かりにくいです。
そこで彼の「遊び」に関する他の言説を覗いてみると、
・文化こそ遊びから生まれる
・文化、人間行動の質が落ちて遊びなる
・遊びは場と時間によって、日常生活から区別される
などがあります。ここで注目であるのは、1つめと2つめ。一見して意味内容が逆転しています。
これは、認知学や情報学における「オートポイエーシス」という概念と同じことが「遊び」でも起こっているのだと僕は考えました。
つまり、遊びによってできた新しい世界によっと構築される秩序がその内に自己循環をし始めることを示しています。
ここで、「遊びによって誕生した新しい世界」とは何でしょうか。世界とは私たちの暮らすこの「地球」ではないのでしょうか。
必ずしもそうとは言い切れません。
本来、今わたしたちが生活している「この日常生活」というものは客観的に存在しません。多様な歴史的背景、そしてその中で存在する個々人の記憶や特性が色濃く作用しあって個々人の主観の中でそれぞれに適合した形で世界が観測されていると考えられるでしょう。
つまり、われわれが生きている客観世界(があったとして)そこから場と時間(それにその遊び独自のルール)を区切ることによって
新たに「遊びの世界」が構築されることも考えられないことではありません。
少し大げさでファンタジーな言い回しかもしれませんが、「遊びの世界」ではその遊びのルールがこの世界の「物理法則」であったり「法律」だとイメージできます。
ゆえに、先のホイジンガの「美しさ」の定義とは、遊びという世界の中で存在する「秩序」のことだと想像することができます。
そして、その新しい世界(=環世界)はその秩序によって自己循環をしはじめることになるのです。
もっとも、遊びの世界にはこちらの世界での生物なり物質が要素として存在しません。ゆえに人間には認知することがこのままでは不可能であり、
一般的にはその遊びの「遊び手=生物」を媒体として我々の社会に浸透/接触して行きます。
(例えば今や全世界的には圧倒的な人気を誇るサッカーというスポーツ。その共同感覚によって世界中の人がワールドカップという興奮を共有できるようになりましたよね)
また時には、非生命である「物質」、いわゆる玩具を遊びの世界が媒介することも考えられます。
ものすごく原始的な例えをすればボール。
「スポーツ」なんて見たことも聞いたこともない辺境の地の子供の前にボールを置いたとき、その子供は自然とそのボールを蹴ったり持ち上げて投げたりするのではないでしょうか。
それが先々の「サッカー」だったり「野球」だったり形を変えつつ蓄積していくのです。
ここで注意して頂きたいのは、
この例えの場合、ボールという「球体」を人間が見た時に人間側がその用途を支配して使用方法も決定しているかのように思われますが、
当然その逆もありえると僕は思います。
例えば拳銃。(これを玩具と捉えることには抵抗を感じる人もいるかもしれませんが)
日本の子供が刑事ゴッコをして遊ぶとき、手と指を拳銃の形にして「バン!」と発声している場面は、みな一度は見たことがあるのではないでしょうか。
その時、その子供の意識の中で起こっていることは、まず先に「拳銃」という概念があって、それに合わせて自らの肉体を変化させているわけです。
ここでいう拳銃の概念とは、「筒状の形態の先端から拘束で小さな物体を射出して標的にぶつける」、くらいの意味です。
この概念は本来、ほんの数百年前の人間にはなかった概念/感覚です。
しかし近代になって拳銃があたりまえの概念として浸透されてしまっている可能性はあります。
拳銃は少しぶっそうな例えだとしても、そのように「すでにあるもの」によって無意識のうちに我々の生命的感覚が、
社会に生まれてからのわずか十数年の間に著しく矯正されている可能性は十二分にあるのです。
この感覚の矯正についてもっとも慎重に構えなければならない分野といえば、人間とロボットの融合。「サイボーグ」の分野だと僕は思います。
この領域についてはまだ技術が不十分であり、いささかSFの域を脱しない気もしますので詳しい言及はここではやめておきます。
しかし冗談まじりで話すとすると、例えば先の拳銃のたとえの場合、
子供たちが自分のおこづかいで自分の手を指先から豆鉄砲が出るように改造してしまうことも考えられるということです。
震災後
さて、twitterとはてブロとの連携も切ったところで今年の初投稿となってしまいました。
あれよあれよと言う間に東日本大震災まで起きてしまいましたが、皆様ご無事でしょうか。
僕は2年生への進級も決まり健康体であります。
最近さぼっていた読書も再開させたく思っています。
昨日はマクルーハンからの贈り物という本を読みました。
今日は社会学系の本をいくつか手に取りました。
しかし改めて思うことは、「学問に王道なし」というか、未熟者にはよくあることでどんな学問も大抵始めのうちは「とっつきにくい」ものだということです。
その上「実践的ではない」などすぐに投げ出す理由が見つかります。
その点2010年時のtwitterやソーシャルメディア周りの情報は、毎日更新で変化にとみ、ドラマ性もあった点で学問とは違いただ情報を収集するだけでも一定の楽しさがあったんだと思います。
しかし古典だったり、難解な学問書に酔ってはいけないこともまた事実であります。
マクルーハンを読めば、数十年前からネット通信による人類の「部族化」など、現代でも遜色内示唆に富み、また
「テレビは聴覚的なメディアである」という言葉に表される人間の根源としての「目と耳」の役割などは、重要な視点です。
しかしもう既にもっぱら人の関心は、各種企業・サービスの内でどのブランドが「部族化」という事業を達成するのかという点に移っています。
社会学も社会科学の一分野として、時代時代の優勢・劣勢があるのだと思います。
マクルーハン再考
さて、前記事について軽く触れたマクルーハンのメディア論について少し。
ただ、僕が読んだのは触りも触り、それも翻訳本、、ですらない解説本ですからあまりご期待なきよう。。
最近読書中はevernoteでメモを書いたりしています。何かもっと便利な道具があればお教え下さい。
以下メモ
マーシャル・マクルーハンのメディア論を読み解くことは現代広告シーンの把握にどのように役立つのか。
重要なことは、既にいくつかのポイントに分けられ、整理されている。
・聴覚という情報と視覚という情報の違い
特に、「テレビは聴覚的なメディアである」という式を感覚的に正しいと把握することが必要である。
従来人が言葉を開発し、それは会話によって伝搬されるものであった原初の時代をイメージするのである。
また、電気通信によるコミュニケーションの激変については現代に読んでも遜色ないほどに示唆にとんでいる。
特に、言葉の文字化による「部族」の「個人化」と正反対の現象が起こっていること、現代人の部族化については、
この数年来広告界などでも非常にホットなテーマとなっている。
メディアとは本来人間の能力の外化・拡張である、という方式も興味深い。
しかし一方で、光と同程度の速度で通信することが可能になった現代では、とてもそれを人間の能力の拡張と捉えることはできず、
人間はあらたな世界をそっくりもうひとつ手にしたほど、心と身体が混乱しているともいえる。
携帯電話が人間の身体性を拡張した、という説明は必要ではあるが、十分ではない。
時代の興味は既に各種インターフェースの開発、市場に置いてどの商品/ブランドが一位を勝ち取るのか、
などの本来的にメディアの進化とは真逆な部位に多くの人の興味は動いている。
「情報の時代に住み、狩人はいま、情報を獲物として狙っているのです。狩猟はいま、研究の形態でなされています」
・情報を獲物とした狩りが行われている、しかしその一方で「情報が私たちを見つける時代」という風にも語られている。
これは狩猟と労働が、完全には一致(そもそも完全一致などしないのですが)しないことによる錯誤だと思われます。
情報を獲物とする狩人とは、これからの時代のセルフブランディングを暗示しています。一方で、情報やブランドとは離れた
純粋な商業によって富を得た者も、お金をつかって情報を得ることになります。そして怠け者だけが、無料で情報のみを得る、
という図式でしょうか。
「情報が私たちをみつける時代」というのは、そもそも果たして真なのでしょうか。
何をもって真だと言い張るのでしょうか。
情報コンテンツの流通、とりわけ現段階ではいくつかの先進的なマーケティングの事例が、そうさせるのでしょうか。
ソーシャル性を用いた情報の拡散は、とても部族的です。小さなコミュニティでは、噂話は一斉に広まります。
しかしどんな部族であっても、コミュニティには、必然的に役割が振り当てられます。その役割によって、部族内人間の
仕事や運命や価値は決定してしまうのです。
メモ以上。
要約致しますと、部分的には大変面白いところもありつつ、今の時代に「機械の花嫁」とか言われてもポカーンってなっちゃいますよ、
という様なことを申しております。
といっても、時代によって同じ書物の中でも重要な部分とそうでない部分が別れることも珍しくないわけで。
個人的には、マクルーハンの教育論の部分が、(難解でまだ理解できないのですが)テレビっ子としてテレビに漬かって育った僕としては興味をそそられはします。
2010年の終わりに。@genfujimoto
とあるイベントにて、わずか20分でしたが拝聴した芦田先生のtwitter微分論の中での一説を受けて。
旧来メディアは覇権主義(当該国の実利的利害関係にのみ基づいて他国に対する対応を決定すること)的。
簡単に例えると「テレビに出ているやつはエライ、フォロワーの多いやつはエライ」的な考え、これが払拭されるとのこと。
もしもこの説が真理であって、なおかつ社会が着実にその方向に進んで行くのだとすれば、「広告」「テレビ」どころか「メディア」という言葉さえも変革を余儀なくされるのではないか。
思うのだが、メディアビジネス(テレビのビジネスモデル、旧来的広告のビジネスモデルなど)とは須くこの「覇権主義的」な考えに基づいて構築されて来ている。
それに僕は経済社会に置ける企業体としての「メディア」の価値とは、
アテンション経済の中である施策を打った時に返ってくる反応(アテンション)の量(質?)を担保すること「のみ」なのではないかと思っている。
それはつまり「視聴率」「PV」など、数字で表される各種データによってメディアは価値が規定される。
「質の高いメディア」「大人なら日経くらい読め」的なブランディング、メディアを「コミュニティ」と捉えその運営こそがメディアビジネスであるという考え方とは似て非なる。非て似なる。
そもそも前者のようなブランディングは、単純に旧来のマーケティング手法で顧客をセグメンテーションしようとしているだけで、後者とすら根本的に異なる部分がある。
さて、返ってくるアテンションを担保するとは、つまり「期待値を高める」ということである。
そしてそれは同時にマーケティング側にとっても重要な目標である。
マスメディアの規模の縮小によって数字的な媒体価値は減少(不明瞭化)。
インターネットを活用した経営コスト(配信コストなど)の削減よるローリスク化。
残された期待値を高める方法はおのずとコンテンツが「化ける」可能性のみになる。
メディア激変として「広告」という言葉を揺さぶっていてこれら時代の流れは、むしろ期待値を操作する方法論としての「マーケティング」をこそ消滅の危機に追い込んでいるのではなかろうか。
マーケティングの意味、意義がどんどん削がれて行った先に残された純粋な「広告」が残すものは、僕は「アイデア」と「クリエイティブ」だけだと思っている。
もしかしたら「問題解決」という役割さえも市場における需要と供給の概念から跡づけされた要素である可能性すらある。
またもう一つ例として、「期待値を高める」方法論の衰退が何を意味するのか。
それはソーシャルメディアによって初めて可能になるニュー・ライフスタイルの増加を意味する。
真の意味でマスメディア(覇権主義的、旧来的なメディア)が消失するということは、
いわば人間がギャンブルをしなくなるということ。夢を見なくなるということだ。
「あんなキレイな芸能人と付き合いたい、あんないい男になりたい。有名になりたい。」
そういう全てのアメリカンドリームを放棄することだ。
そしてそういういい意味でも悪い意味でも俗っぽい、子供じみた「憧れの感情」「夢」が、おそらく今までのテレビの9割だったのではなかろうか。
確かにテレビが、テレビCMが大衆に見せつけて来た「華やかな世界」「幻想」は、その全てが良い結果をもたらしたとは言えない。
解決がいっこうに進まない各種社会問題から目を背けさせる「ドラッグ」のような「害悪」ですらある可能性がある。
(参考:「広告は私たちに微笑みかける死体」オリビエーロ トスカーニ (著))
それにたしかにtwitterによって様々な社会問題に利益などなど度外視で真摯に向き合う人々の活動が可視化、広まりつつある。
生活水準は必要レベルがあればよく、しかも何も無理に日本国に居住することもない。
このような「行儀の良い」考えを日本国、全世界中の人々が持てばよいのだろうか。
しかしそのような世界が実現するのはまだ当分先か、下手すれば永遠に完成しない。
人間は楽をしたい。飽きのこないことをしたい。おまけに怠け者。なのにまだまだ他人の芝生は青く見える。
競争に勝とうとしない、勝てないその言い訳に「行儀よく」バカを見ることをしなくなっているのではないか。
メディアプレゼンス
「メディアになる」という言葉は、その時点でソシオメディア論的かもしれない。
というのも、何かあるものや存在が特別な「ブランド(意味)」を持った時、特別なメディア的価値も同時に会得するかのような、そんなニュアンスを感じる。
確かにその通りかもしれないが、もっとシンプルに、「多くの人の注目が集まるようになる」ではだめなのか。
メディアとは確かにひとえにコミュニティ運営だし、そこには強いブランド感、仲間意識などの構築が必要だ。
そしてその最終型が宗教とも言える。キリスト教は今でも欧米のナンバーワンブランド、、なんて例え話もある。
しかし閉じたコミュニティの中の人のみを相手にし、その中だけでマネタイズを計るような行為はとても「ビジネス」とは言えない。
某芦田先生の発言にこのようなものがある
“「ソーシャル」メディアの本質は、メディアプレゼンス主義(テレビや新聞に出てるからエライ、フォロワーがたくさんいるからエライなど)を払拭することにある。言い換えれば、メディアの淘汰圧、フィルター機能がいい意味でも悪い意味でも効かなくなることが「ソーシャル」の意味。”
もしこの発言の通りだとすれば、真のソーシャルメディアはwikipediaということになる。
そしてwikipediaは今、とても貧乏だ。
それに、「フォロワーがたくさんいるからエライ」ことが払拭されることはおそらく間違いだ。
具体的にリーチできる人が多い人のほうが価値が高くなることは間違いないから。
それがどれほど濃い付き合いのフォロワー/フレンドなのか、なども計算に入れるべきだが。
facebook or website
http://capote.posterous.com/facebook-or-website (2010年8月30日) を参照
facebookかwebsite、こんな疑いが頭をよぎる時点でインフラとしてのソーシャルメディアの整備は完璧に近づいていると実感する。少なくともソーシャルメディア最前線、facebook普及率が7割を超える米国では。
参照先記事の中から一部引用(@capoteさん)
現在1100万人以上のファンがいるCoca-Colaを例にとって見ると、
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というこれだけの「ボリューム」がfanpageにはある、ということを述べている。事実そう→http://www.facebook.com/cocacola
メディアは今まで3つに分けて考えられてきて、
・オウンドメディア
・ペイドメディア
・ソーシャルメディア
とあったわけだけれども、その3つがどんどんお互いに吸いよせられてきているのが現在なんじゃないかと思う。
(ペイドメディアは別な気もするけども)
アプリケーションとかを使えば、おおよそWEBで可能なクリエーションは、fanpageなり、ソーシャルメディア上で動作・機能させることが可能だと思う。
例えばUNIQLO LUCKY MACHINE とか。
あとは企業のマーケティング担当・広報担当・WEB担当とかが力を合わせられるか、そこに予算をつぎ込めるかどうかだと思う。テレビよりコスト面が〜というけれど、企画&実行する「人」という「コスト」はむしろテレビよりかかる。と思う。
もちろんソーシャルメディアと「連動」させて特定のWEBサイトに〜〜って施策はこれまでのメインストリームだったわけで、両者の統合なんて未来はそう予想外なんてものではないはず。
最初で最後のソーシャルメディア入門
最初で最後のソーシャルメディア入門。
と題して、つらつら書いていきたいと思います。
うわっつらばかりを舐めている昨今のソーシャルメディア事情を鑑みて。
大の大人が何人も、セミナー開講をしたりして小銭を稼いでいるのはもったいない。
インターネットユーザーとしてのソーシャルメディアへの取り組みのイロハは、本当はもっと簡単なもの。
大学生が半年も勉強すれば足りるもの。
できれば一冊の本にでもしたいものですね。
ソーシャル「メディア」入門書なのでマーケティングの比重は敢えて減らしています、とも言い訳できるし
ソーシャルメディアを実践したい現場のマーケターの人の需要が多いと考え、多少初心者に分かりにくい部分もあります、とも言い訳できる
という風に逃げ道もちゃんと残しています。
毎日少しずつ書いていくのでよろしくお願いします。