ブログのアドレス変更の件

こちらのブログが、先週、エラーとなり更新が行えず、ご迷惑をおかけしました。
またトラブルになるかも知れないので、下記のブログに移行します。
こちらのコンテンツで、内容に価値がありそうなものは、ホームページに移行済みです。
また、2009/11月分の城郭関係のレポートは、新しいブログにコピーしました。

ということで、以後はこちらをご覧下さい。
http://jito54.blog13.fc2.com/

玉縄城築城500年祭発会式と記念講演会レポート

11/22、玉縄城500年を三年後に控え、地元ではその実行委員会の発会式を兼ねた記念講演会が開かれました。玉縄城の場合、遺構が清泉女学院内にあるということで、なかなか中が見られないという難点がありますが、今回は存分に学校内を探索できるということで、行ってきました。
 すでに四年ほど前に、諏訪壇には入ったことがあるのですが、堂々と校庭まで見られるのは初めてでした。これほどの企画はめったにないにもかかわらず、知人が五人ほどしかいらしておらず残念でした。
 この城はとにかく大きいです。今回は中心部から周囲を見回すことになりましたが、本曲輪の広さは格別です。とにかく、この本曲輪の広さは行ってみないと実感できないものです。全体の城域を考えると、まさに関東屈指の巨大城郭だったはずです。
今回は、特に大手側の土塁(土壇)をじっくりと見学できたのが収穫でした。土塁を盛ったというよりも、中を削平したという感があるほど、この土塁は巨大です。昭和33年の空撮によると、この土塁が四囲を取り巻いていたのですから驚異です。学校&宅地開発により、ほとんど破壊されてしまったのが、返す返すも残念でなりません。
 講演の内容は、通常のシンポと違い、初歩的な話が中心だったのですが、パネルディスカッションに入り、ポツリポツリと面白い話が聞けました。玉縄城に関する論文などはほとんど読んできましたが、新たに出た話としては以下になります。

・ 二代氏綱が急死し、氏康が跡を継いですぐ、頼りにしていた弟の為昌が病死し、氏康が頼れるのは幻庵と綱成だけとなった。氏康政権は、この三人が中心となって運営していた三頭体制だったと思われる。特に軍事面での綱成の貢献は大きかった。
玉縄城は水軍の拠点城というイメージが強い。北条氏にとって江戸湾支配は重要であり、氏規にバトンタッチするまでは、それを玉縄衆が担ってきた。玉縄水軍と呼べるものまで持っていて、江戸湾警戒のみならず、相模湾の腰越辺りまでカバーしていた。
・ 北条家の領国支配は二形態あり、氏照の八王子領、氏邦の鉢形領のように、小田原が完全に丸投げしているものから、玉縄領と小机領のように、軍事専門部隊として働かせられつつ、内政は小田原に任されていたものとある(ような気がする)

他にもありますが、だいたい新規なものとしてはこんなところです。水軍イメージはかなり持っていたので、それほど驚くこともなかったのですが、その他の二つは気がつきませんでした。確かに大藤氏の率いる部隊のような半傭兵軍団のようなものもありましたが、玉縄衆もその色彩が濃かったのですね。
 ということで、帰りは大船でいっぱいやって帰ってきました。いつものことながら、同じ趣味の方々との語らいは楽しいでね。
写真は、玉縄城大手口模型、土塁と大手口、校庭から見た諏訪壇


『天下人の失敗学』ラジオ番組収録!

昨日、FM東京でラジオ番組の収録を行ってきました。 
発売から一ヶ月たち、爆発的ではないながら、『天下人の失敗学』もようやく販売が上向いてきました。各所で話題になることも多くなり、今回は、何とあのFM東京さんからお声が掛かったという次第です。「クロノスカレッジ」という朝番組で、パーソナリティはあ中西哲生氏でした。
http://www.jfn.co.jp/ch/
私の出演は、11/23-26の四回で、一日あたり五分ほど出ます。時間は、おそらく6:00-6:30の間です。出勤の支度をしながらテレビをつけている方が大半だとは思いますが、たまにはラジオをつけてみるのもいいかも知れませんよ。
私はほとんどサッカーに疎いので、中西氏のことはあまり存じ上げなかったのですが、スポーツマンらしいさっぱりとした性格の方でした。さすがラジオのパーソナリティを務めているだけあって、話の持って行き方がうまいです。収録前に雑談をしながらすぐに打ち解けてしまいました。実物はテレビで見るよりも恰好いいです。
内容は、『天下人の失敗学』に関して、私が中西氏の質問に答えるというものです。月曜―信長、火曜―光秀、水曜―秀吉、木曜―家康という構成になっています。
ご多忙とは思いますが、今回ばかりは武田・北条領国内ならどこでも聴けるはずですので、よろしくお願いします。

2009/11/14「鉢形オフレポート」第三部


外曲輪土塁と横堀

鉢形城二曲輪と秩父曲輪の馬出

 いよいよ鉢形城めぐりです。個人的には五回目の鉢形ですが、何せ最後に来たのが四年前ですから、かなり新鮮でした。最初に来た時(2003初頭)は整備前だったので、その変貌ぶりには感慨深いものがあります。
 さて、四十人という大人数なので、二班に分かれて見て回ることになりました。今回はボランティア・ガイドさんにご案内いただけるので、ガイド役の私は随分と気が楽です。私は第一班を担当しました。まず、歴史館を出発し、長い外曲輪の線を歩き、馬出を経て搦手突端部の笹曲輪に至りました。そこから主郭である御殿曲輪、御殿下曲輪、二曲輪、秩父曲輪という順序で見て回り、逸見曲輪を右手に見つつ、歴史館に戻りました。大手と諏方神社(馬出)は雨が激しくなったため、省略となりましたが、雨が上がった帰りがけに見てきたので、これでほとんど見学したことになります。
 鉢形城の基本的なことを説明しているサイトは多いので、ここでは、当日に受けたご質問に対するお答えだけを記します。

鉢形城は誰が築いたの?」
この城の原型は、長尾景春が築いたと思って間違いないと思われます。というのも、その原型が長尾氏の本拠白井城に求められるからです(よく似ています)。すなわち、河岸段丘上にある段差を利用し、平場を作り、陸続きの場所を掘り切ることで、それぞれの曲輪に独立性を持たせるという縄張り手法で、これは長尾氏系城郭に多い築城術なのです。長尾一族の影響力の強い秩父の諏訪・宮崎・永田などの諸城にこの手法が多く取り入れられています。

「なぜ景春クンは、ここに城を築いたの?」
 鉢形の地は秩父への入口にあたり、山内上杉家の本拠平井城と扇谷上杉の本拠河越城のほぼ中間地点に位置していました。すなわち、敵方である両城を完全に分断して連絡を絶つ戦略要地にあたります。しかも、もしも敗れた場合は、秩父山中へ逃亡できるという逃走経路も確保されています。さらに、上杉方の対古河公方最前線である五十子陣にも一日の行程のため、背後牽制にも最適です。氏邦クンが継続使用したのは、鎌倉街道上道と秩父往還が交錯する交通要地”結節点”だからです。

長尾景春の時代の鉢形城の城域はどこまでなの?」
長尾景春使用時の城域は、従来、御殿曲輪だけと言われてきましたが、地形上、御殿下曲輪と笹曲輪も使われていたはずです。「遮断」という城にとって重要な概念からすると、荒川と深沢川の合流点となる北端の笹曲輪と、深沢川が遮断する東側の御殿下曲輪を使うのは、普請力が不十分な戦国前期においては、至極、当然だからです。しかも「道灌状」などによると、少なく見積もっても二千五百ほどの兵が集結しており、御殿曲輪だけでは、いくらなんでも手狭でしょう。

「氏邦クン時代の本曲輪はどこなの?」
 定説では、景春時代の本曲輪である御殿曲輪が使われてきたかのように言われていますが、秩父曲輪だと私は思います。理由は最高所にあること、荒川に面した最も奥まった場所にあること、虎口二箇所(金蔵と諏方神社)に堅固な馬出が備えられていること、泉水のある庭園跡が発掘されている等です。あまりに広いので、氏邦クンのプライベートエリアも兼ねていたかも知れませんが―。この辺は、八王子城の御主殿曲輪と張り合っていたかのように見えて、微笑ましいです。
 となると大手口から近すぎるという難点が出てきてしまいます。確実なことは言えませんが、大手口は別のところだったのかも知れません。例えば、外曲輪の土塁が喰い違っていた場所から、深沢川を渡り、真ん中の馬出を経て、御殿下曲輪と二曲輪の間を通らせるとか。これだと、二曲輪と秩父曲輪の馬出(金蔵)も生きてきます。

 ということで、懇親会は東松山のやきとり屋となりました。いつものことながら、盛り上がりました。「伊東さんの作品は色っぽい女が描けていない」というご指摘もあり、たいへん反省しました(笑)。
帰りの電車でトイレに行かないように、ビールを控えてホッピーにしていたのですが、やはり池袋は遠く、朝霞台でトイレ下車しました。おかげで、予定より一時間も帰宅が遅くなってしまいました。 

 縄張りは専門ではない上、鉢形城はあまり詳しくないので、私の説が間違っていたらごめんなさい。ご指摘いただけると幸いです。


鉢形城から花園城方面を臨む


鉢形城二曲輪と秩父曲輪の堀

2009/11/14「鉢形オフレポート」第二部


13:00に寄居駅に集合し、鉢形城に向かった一行は、クルマ組との合流も果たし、13:30頃から鉢形城史記念館開館五周年記念特別展「北条安房守と真田安房守展」の見学をスタート。それにしても、この展示会のタイトル、やけくそのように長いですね。
私はこの記念館のオープニングの時も訪れていたので、常設展示も五年ぶりだったので、楽しめましたが、今回の特別展では、なかなかお目にかかれない真田家の文書が見られるので、楽しみでした。
 こうした展示は甲冑や武具がないと、華がないと思われがちですが、実はこの古文書の見方がわかる面白いのです。それについては、すでに神奈川県立歴史博物館で開催された「戦国大名北条氏とその文書」展についてのレポートで述べたので、ここでは繰り返しませんが、竪紙、折紙、切紙等、当時の文書作法について知っていると面白さも格別です。
 また、祐筆が書いたものが多い中で、真筆の花押は貴重です。「書は人を表す」と言われますが、まさに言いえて妙です。
 さて、今回の展示についてですが、「二人の安房守」とタイトルにしているのですから、漫然と展示物を並べるのではなく、二人の対比年表などを作って、展示物を並べるなどの工夫があると、もっとよかったと思われます。
武田家滅亡後の十年、二人は各所で攻防を繰り返しながら、最後の鉢形城攻防戦で決着を見るのですが、その因縁がよりドラマチックになったと思いますし、見学者の理解も、より深まったと思われます。
 それにしても、謙信、信玄、昌幸を相手に、一歩も引かず、北条家の上武戦線を守り抜いた氏邦の評価は、あまりに低い気がしてなりません。彼らの華々しい戦歴に花を添える脇役でしか名の出るところのない氏邦ですが、己の使命を守り、粘り強く戦い、最後まで大敗を喫することがなかったわけですから、もっと高く評価されてしかるべきと思うのですが、いまだその位置づけは10年前と変わりません。
 やはり、最後の最後で降伏してしまったというのが大きかったのでしょうね。ここで討死ないしは自害していたとしたら、氏邦の名は不朽のものとなったでしょう。
 小山田信茂といい、荒木村重といい、氏邦といい、死に場所を誤ると、武士はたいへんな重荷を背負って歴史の中で生きねばならないのです。当時もそれくらいのことはわかっていたと思いますが、それまでは勇猛果敢で人格者であっても、どういうわけか死ねない人もいるのです。人とは不思議なものですね。

2009/11/14「鉢形オフレポート」第一部

カズさん主催の北条系城郭をめぐるオフ会も、二年越しで八王子、八王子搦手、滝山に続き、今回で四回目を迎えました。今回は遠隔地である鉢形城ということもあり、参加人数が危ぶまれましたが、何と40名近い参加者を見ました。当日は完全な雨天で開催が危ぶまれましたが、午後から晴れるという予報もあり、開催を強行しました(ぎりぎり正解でした)。
 私の場合、午前は、鷹取さんと平さんと三人で、朝駆けを二城(腰越城と中城)しましたので、まずはそちらから。
 なぜ午前の部からレポートするかと言うと、比企郡の城には素晴らしいものが多く、皆さんにも知ってほしいからです。
 レポートは午前の部、特別展、鉢形城という三部構成にて。

【腰越城】
 これだけの雨の中、山城に上ったのは初めてでした。そのかいあって、一年に一度くらいしか出会えない名城に行くことができました。
 アクセス方法や城の概要は、たくさんのサイトで紹介されているので省略します。基本的には悌郭式山城です。詳細については、こちらのサイトの解説がいいかなと―。
http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/kosigoejyou.html
 この城に来て、あらためて「城」とは殺戮のための施設(装置)だということを痛感させられました。この城の「城取り」(デザイナー)は、「キル・ゾーン」、「キル・ポケット」という概念をよく理解しています。東半里にある青山城とは、造りも工夫もかなり似通っており(特に虎口への導入路)、「城取り」は、地域国人山田氏の家臣の誰かということになるのでしょうが、杉山城というオーパーツも近くにはあり、同じ「城取り」の可能性もあります。この城に上るだけで、戦国時代を生き抜いた「名も知れぬ天才」の息遣いを、近くで感じられるのですから興奮します。ちなみに発掘調査によると、十五世紀後半に焼かれているようで、城郭攻防戦の痕跡も見られます。どんな戦いだったか知りたいですね。
 ということで、前置きが長くなりましたが、縄張りなどは、他のサイトで、いろいろ取り上げられていますので、ここでは要点だけ。
・ 導入路の工夫により、敵をキル・ゾーンに誘い込む(特に本曲輪虎口に至る坂虎口と虎口前曲輪の工夫は秀逸)
・ 「囮虎口」という小技により、敵をキル・ポケットに誘い込む。
・ 切留(行き止まり)の横掘を走らせて、敵をキル・ポケットに誘い込む。
もう完璧です。
これをスカーレット・ヨハンソン状態というのでしょうね。
悩ましくて眠れません。

【中城】
 八幡台という台地上にある変形型方形居館跡です。変形型というのは、台地上の地形に合わせているため、土塁と堀は必ずししも方形を示していないためです。それでも単郭なので、時代比定が難しいです。
完存とは言えないまでも、小川町の中心部にありながら、戦国以前の形式のこの城が、よくぞ残っていてくれました。
 単郭の四囲に土塁(でかい)と堀(深い)をめぐらせるという基本構造をベースに、二重土塁(雨のためよく見れず)、微妙な屏風折れ(横矢掛かり)、喰い違い虎口、物見台というトッピングも効いており、まさに「基本は醤油ラーメン」だけど、しっかり隠し味を持っているという感じです。まさに正統派美人だけど、えもいわれぬ味があるという木村佳乃という感じかな。
 ということで、「太田道灌状」には、「文明六年(1474)元旦、長尾景春征伐のため、北上を続けた私(道灌)は、上田上野介正忠の居館がある小河に留まり正月を迎えた」という一節があり、それが中城ではないかと比定されています。ここで道灌が正月を迎えたと思うと、感慨深いものがあります。

 ということで、誰も期待していないと思われますが第二部へ。
写真は、腰越城北端の二重堀切、囮虎口の石積み、東端の袋小路の横掘、中城の土塁