イギリス人文科学PhD事情:アドミッション

そろそろ出願シーズンなのでこんなのも書いてみようかと。前の記事と一緒で、これはあくまで僕が自分の学部での例をもとに考えているだけなので、歴史学以外とか別の大学とかだと事情がやや違うことも十分考えられます。一応Disclaimer。

僕は2010年秋入学のオファーをもらって、諸事情で1年deferして2011年に入っていま博士課程3年目なのですが、だんだんわかってきたことは、博士課程のアドミッションは提出する書類以上の要素がかなりの程度左右している、ということです。以下、幾つかに分けて書いてみます。




1.その年度の指導教官のキャパシティ

出願に際しては指導教官になってほしい教員を当然考えると思いますが、大前提として、全ての教授が毎年PhD学生を受け入れているわけではありません。教授が学生を取りたくても取れない事情というのが幾つか考えられます。例えばたまたまその年からサバティカルに入っちゃう場合は取りにくいですよね。まあこれはメールとかスカイプで連絡する形にするとか、Co-supervisorを別の先生に頼み、一年目の指導はその先生にお願いする、という方法で回避できなくもないですが、それでも難易度が上がるのは間違いないです。

あと意外に厄介なのが学部内の重要な役職についていて忙しいので学生を受け入れられない、というパターン。これは外からはあんまり見えないですが、会議の連続で忙殺されるようでは仮に採ってもらえてもちゃんとした指導が受け入れられない虞も。

他にも、過去一、二年ににすでに学生を採っていて暫くは人数を増やしにくい、となっているケースもあり得ます。うちの場合は少なくとも学部のルールとして博士課程の学生は一人の教授に何人までと明確に決まってはいないみたいですが(なので教授各人によって指導している学生の人数がかなりばらける)、それでも学部全体で毎年何人くらい採るかはもちろん目安があって、その中で他の先生との兼ね合いというのはやはり考えるんじゃないかと思います。ただリサーチのアウトプットと違って、成功裏に博士を取らせた人数というのは学部のパフォーマンスとして数値化されて大学間の競争の指標となっている気配がないので、そこまで神経質にはなっていないと思いますが。

この辺の事情は逆も言えて、例えばそれまで指導してた学生がめでたく博士号を取得したタイミングだったり何らかの役職から外れるタイミングであれば理論上は少し余裕ができるはずなので、新しい学生を採ろうかな、という気になりやすそうです。

こんなことはなかなか学部のウェブサイトで現役学生のリスト見てもわからないんで、教授本人に聞くのが一番早いです。今年はPhDを採りますか、と。今くらいのタイミングがちょうどいいかも。在籍中の学生に聞いてみるのもありでしょう。



2.ファンディング

人文系学部に共通の事情だと思いますが、どこもお金がないので、イギリスでは大学からファンディングがもらえる機会は少ないです。うちの学部の場合、毎年の新入生の中で、大学のスカラシップによって全額をサポートされている人が一人いて、AHRCという日本で言う学振的なところから同様にスカラシップをもらっている人が一人いて、あとはそれぞれ出身国の政府や財団からの奨学金だったりローンだったり私費だったり、という感じです。なので、色んな所で既に言われていますが、博士課程期間中のファンディングのめどが立っている場合はASAPで伝えるべきです。場合によってはそれなしにはオファーを出せないというケースもありえます。



3.指導教官の現時点での研究関心

やっぱり自分が指導できるテーマの中でも、面白そうだな、と思うテーマを持ってきた人にオファーを出したいのが人情というもので、そうすると自分が目をつけている教授が最近どういうテーマに興味を持っているのかを調べるのは大事です。僕の指導教官はもともと20世紀前半が専門なのですがちょっと前まで20世紀史の人が多かった反動からかここ2,3年は第一次世界大戦以前をやっている人ばっかり採っていて、今考えると僕が持っていったテーマは幸運にもそれにはまった感があります。ただし、在籍中の学生の中にテーマあるいは対象地域がかぶりすぎている人がいる場合は当然ながらとってもらえる可能性は下がってしまいます。この辺は自力ではどうしようもないですが、オファーをもらえる可能性に間違いなく影響する、とは理解しておいて損はないかと。



4.その他雑感

大体こんなとこでしょうか。このポストでは「合否」という言い方を避けてきましたが、それにはちゃんと理由があって、こと人文系のPhDに関しては「別に優れているからオファーが出るとは限らない」と思うからです。もちろん語学試験のスコア(特にライティング)とかが額面上の基準に達していないと厳しいでしょうが、別に修士のときの成績とかは国外からの出願の場合はあまり関係ないと思います。他の出願者と比べようがないから(イギリス国内の場合は大いに関係あります)。それよりも教授自身の今後の研究の方向性とか、教授にとって今年が人を採れる年なのかどうかとか、学部全体のキャパシティとか、そういう不可抗力に左右されるのがPhDのアドミッションなんじゃないかと。なので学部全体での倍率とか考えても仕方ないです。別の教授の所に行っている人とは学部全体のキャパシティという観点を除けば別に競争してないわけだし。



あとは、教授の側からすれば、「この人はほんとに規定の年限以内で基準をクリアする論文を間違いなく書ける人だろうか」という点だけが書類から読み足りたいことなのだと思います。英語の試験の点数だって、修士の成績だって、ライティングサンプルだって、推薦状だって、突き詰めればそれが知りたいから提出させているわけで。



あ、だから、これまでに査読論文を出していればそれはアピールしたほうがいいかと思います。一定基準をクリアするものを書けます、といういい証明なので。日本語の論文の場合は相手が読めるとは限りませんが、ちゃんとスクリーニングされている旨を志望理由書とかで説明したり推薦状で書いてもらえばいいのではないでしょうか。


Good luck to all those applying!

自閉症の僕が飛びはねる理由/ The Reason I Jump (2007/2013)

まだ読んでないのだけどこれは書かなくてはいけない。本の紹介はamazonのリンクに譲るとして、この訳書が英語圏でどれだけ広まっているかについて。

自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心

自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心


10月7日時点で、Amazon.comの書籍全体の中で売上2位。

同じく10月7日時点で、Amazon.co.ukの書籍全体の中で売上40位。


9月だったかもう少し前だったか、Evening Standardというロンドンで最もメジャーな無料夕刊紙でこの本のレビューがあった。最初はあれ、日本人の本が載ってるな、と思って読み始めたら『自閉症の僕が飛びはねる理由』だった。Evening Standardは平日の夜8時に地下鉄に乗ったら誇張なしに車内の4割くらいの人が読んでるものすごいエクスポージャーのある新聞で、それに村上春樹以外の日本人の作品が載るなんて相当だ、と思ったらDavid Mitchellという英国人の有名な作家が訳者だったことが後押ししていたみたいだ。ふらっと入った本屋でも目につく所に平積みになっていて、トップセラーの棚にも載っている。

と思ったら10月1日にはアメリカでThe Daily Showに登場した。The Daily Showというのはこれまたアメリカ人なら誰でも知っていて民主党支持者なら大体見ていると思われる、主に政治ニュースをネタにした超人気トークショーなのだが、普段のどぎつい諧謔を一切省いてホストのJohn Stuartが淡々と訳者にインタビューをしている。いま売上2位なのは明らかにこれのおかげだと思う。

こういう作品がちゃんと日本語だけに留まらずにもっと大きなインパクトを持っているのを見ると嬉しくなる。

CHIMERICA (2013)

【軽いネタバレあり】

http://www.chimerica.co.uk/



主要紙のレビューでことごとく5つ星を取った演劇。89年の天安門事件の際に戦車の前に立ちはだかる男の写真を撮ったNYTの記者が、2012年に彼がNYで生きているという手がかりをつかみ奔走する。いっぽう北京では彼の友人が過去との対峙を迫られている。

小気味良いセリフ回しや「ゴッドファーザー」へのオマージュなど笑える場面はあるが、場面の転回の途中に挿入される中国の描きかたは総じて表層的。政府の検閲および都市の貧困という背景に見え隠れするテーマを掘り下げてはいない。

記者の友人の中国人の男が取る行動はモメンタムを集め始めたあたりで終わってしまう、彼の熱情は表現されきらないままで。主人公はアメリカを信じ表現の自由を信じ上司と戦うことを厭わないが彼の猪突猛進の帰結を示すことなく劇が終わる。

ロンドンからはアメリ東海岸にいた時よりも東アジアが遠く思えるのは気のせいだろうか? 提起した問題にスタンスを示さなくても済まされるほど聴衆にとって中国が遠いのか? 一時間半でこれしかやらないよりは、筋を絞って一人一人の行動を丁寧に描くか、三時間くらい使って全部を回収するくらいの意気込みを見てみたかった。

この国の日本食がどうも今ひとつな理由がわかる気がする。一見全く違うようで根は一緒の話だと思うのだ。

Zadie Smith, NW (2012)

http://www.amazon.co.jp/NW-Zadie-Smith/dp/0141036591


If you have not lived in London the impression you get from this novel will be very different from those held by Londoners. Even if you do not live in NW (postcode for Northwest London), any residents in London should have at least a vague understanding of the communities in each part. Killburn, Harlesden, Hackney, Willesden, Queen's Park, Maida Vale, Wembley, and many more names will sound familiar to you (and if you notice the odd piece here, yep, you know this city). It is just like Yanaka and Seijo-Gakuen Mae bring Tokyoites different images.



Smith's ingenuity is in the playfulness of her storytelling. She switches the style of writing from one part to another, signifying the divergence of experiences the reader can surely associate with, or at least find entirely plausible. It brings to light the lives of London so vividly that you begin to wonder, as you walk through the streets, which character in the novel would best suit that girl you just passed by, which law firm this big-bellied men in a dark suit behind you in a sandwich queue might work for, or what sort of council housing that grandma might be heading back to. You begin to breathe with the city.

Life is not easy here. Though Smith does not go into the equal depths for other parts of London, everyone is victim to the force of the city in one way or another, no matter what walks of life one may identify with. FT readers have their own problems, which may well be quite different from those of Daily Mail fans. The lives of SW - that of Chelsea, Kensington, Chiswick, Kew Gardens, are utterly foreign to born-and-bred NWs, but it does not mean they are less stressful.

In a sense, Smith's tale is a potent proposition that this city moulds you into a certain personality. Nobody escapes it, and there is a limit in your defiance. The protagonists do attempt to make their own choices at various points (Natalie's life, in particular, was defined by a constant trial for 'getting out') - only to find themselves in deeper quagmire. Sad as it may be, it is hard to deny that Smith succeeded in capturing the ethos of today's London.


Audio book highly recommended. The narrators do fantastic job with different accents.

イギリス人文科学PhD事情:TA(ティーチングアシスタント)

このブログに来る人の大半はイギリスの博士課程に興味を持って来てくれるみたいなので、そういう人に役に立つ話もたまにはしようと思って書いてみます。

10月から新学年です。昨年度はTAで一年生の授業のゼミをひとつ持っていたのですが今年はやらないことにしたので、かなり時間があって博論がどんどん進む予定です。

今日は、TAって何をするかという話ですが。

イギリスの大学の文系学部は、多くの場合一つのコースが講義とゼミの二本立てになっています。学年が上がるとゼミだけで2時間とかのコースもあるみたいですが、一年生の授業はまず確実に講義50分、ゼミ50分のセットを10週間×2ターム、それと夏学期にすこし復習セッションがあっておわり、という感じです。以下は大学や学部によって多少変わる部分もありますが一つの事例として読んでいただければ。


ちなみに博士課程の学生にTAは必須ではありません。TAをやってその代わりに授業料免除、というアメリカ的なシステムはなくて、たぶんコマ数も採点しなきゃいけないペーパーの量もこっちのほうが少ないのですがその分給料も安い、という仕組みになっています。一コマやっただけじゃ月々の食費くらいにしかなりません。あ、そうだ、アメリカの大学だと期末試験とかをTAが採点するみたいですが、僕の学部ではそれはありません。その分仕事量が教員に重くなっている、と言えるかもしれません。

僕が割り当てられた授業は一年生の歴史専攻の必修科目で、現代国際関係史入門みたいなやつでした。学生はオムニバスの講義で毎週のテーマの概要を聞いて、関連する課題文献(僕が持っていた授業ではだいたい論文5,6本)を読んでゼミの討論に臨みます。で、これをリードするのがTAの役目なわけです。

クラスの規模は最大15人で調整されています。僕のクラスは14人でした。イギリス出身が半分強、あとはヨーロッパ各地、それ以外の英語圏、という感じでした。英語で苦しんでる学生がほぼいなかったのは結構珍しいようです。同じ授業の別のグループ(履修者が多いのでゼミが複数あるわけです)を見ると、だいたい非英語圏から来ていてリーディングの量とペーパー書きで苦しんでる人が1,2人いたようなので、これはたまたまですね。

例えば経済学部だったらTAの役割というのは非常に明確で、教科書の章末問題の答え合わせと解説、採点なわけですが、歴史みたいに問題を解くわけじゃない授業は議論をちゃんと誘導してテーマへの理解を深めてもらう、という漠然としたタスクが与えられることになります。

指導の仕方に関して学部からの指示はほぼ無かったので毎回自分でどうやって議論を進めるかを考えていきました。シラバスに幾つか論点例が載っていて、それをとっかかりにするのですが、たまに文献と論点がマッチしていなかったりもします。2学期からはゼミの3,4日前に学生にメールをして優先的に読むべき文献、考えてきてほしい点を伝えるようにしていました。20世紀は正直専門外だったので準備が大変でひやひやしましたが、そこはうまくしたもので相手も一年生なので特にすれていなくて授業が崩壊することはなく、つつがなく学期が終えられました。

小テストを作っていったり、小さなグループに分かれて議論してもらう質問を幾つか用意していったり、ミニゲームを作っていったり、ビデオを見せたり、(ペーパーの締め切りと重なってる週はみんなあまり課題文献を読んでこないので)議会の議事録とか新聞記事とか外交書簡とかをその場で読ませて議論させたり、色々やりましたが、こちらが準備したらしただけうまくいくとは限らなくて、学生側がまったく準備出来ていなかったら話にならないわけです。そのへんはこっちがコミットメントを示して相手が応じてくれるのを信じるしかないのですが。まあ講義自体が時間の制約上概説しかできないので、いずれにせよそこまで深い議論ができるわけではありません。

学期中に3回、短めのペーパーを書いてもらう課題がありました。「第一次世界大戦が4年間続いた理由を説明せよ」とか「ヒトラー外交政策は最初から戦争を目的としていたかどうか論ぜよ」とか「東アジアにおける冷戦の始まりとして朝鮮戦争中華人民共和国の成立どちらが重要だったか」とかそういう設問のリストがあって、各自がそこから選んで2000語で論じるものです。これらは実は学年末試験の過去問なので、そのまま試験対策になっています。TAであるこちらはそれを読んで、この部分の論証が弱い、とか、この学者の議論はあまりに重要なので君の立場と違っても触れない訳にはいかない、とか、自分の主張をもっと明確に、とか、パラグラフ構造をちゃんと使って相手に伝わるように書いてくれ、とか、色んな角度からフィードバックを対面でして、成績表には載らない目安としての点数をつけて返していました。

一学期の終わりに、つまり8,9回授業があった時点で、学生の側からTAへの授業評価アンケートが行われます。これがあまりにひどいと大学が介入して授業責任者の教授と面談、と相成るわけですが幸いそういうこともなく、授業の進め方とかペーパーへのコメントについて要望をもらった程度で済みました。これはTA間での相対評価も教えられるので戦々恐々でしたが、そこそこ平均的な評価で収まっていました。

この授業は成績評価が学年末(6月初旬)の持ち込みなしの筆記試験3時間一発勝負だったので、ゼミへの出席すら必須ではありません。まあ二週続けて休むとメンターになっている教授へ通報が行くシステムがあるので、みんなそれなりに真面目に来るのですが。4月末に夏学期に入って正規の授業日程が終わってしまうとTAはたまに試験準備中の学生からの質問にメールで答えるくらいで、特にできることはなくなります。実は学年末試験の作成会議みたいなものには出ていたりもするのですが、意見は言っても最終的に設問を作るのはコースの責任者の教授の仕事です。

他のグループを教えてる人の中にはもうPhD持ってる人やこの授業持つのが3回めの人とかがいたので、同じ授業料払ってるのに他のクラスよりしょぼい授業しかできていなかったらちょっと申し訳ないなと思っていました。なので試験が終わって成績が出る9月頃には単位落とす学生が出ないだろうか、と多少ハラハラしました。うちの大学の学生は年間4つしか授業を取らないので一つ落とすとおおごとなのです。蓋を開けてみるとまあまあ皆頑張ってくれていて、ただ事前のペーパーの点数とはかなり比例しない部分があって面白かったです。直前に試験対策を頑張ったんだろうな、という人から、当日失敗したなこいつ、みたいな人まで。

とりあえずこんなところで。TAは必須でないにしろ、PhD終わって仕事探すときにCVに載ってないとけっこう苦しいみたいなので、大体の人が一年はやっています。時間をかなり食うので僕はあとの二年は自分の研究に集中しようかな、と考えています。

大江健三郎『万延元年のフットボール』(1967)

おっそろしい本。これのまともなレビューが書けるようになるにはあと3回は読まないといけない。

四国の山村出身の兄弟を主人公とする。彼らの曽祖父の弟が率いたとされる万延元(1860)年の農民一揆と、村に帰ってきた兄弟のうち弟が仕掛ける暴動、という2つの騒擾が重ね合わせに語られる。というか、弟は自分の暴動を万延元年になぞらえようとし、兄はそれを懐疑の目で眺める。


よくこれを外国語に訳す人がいると思う。フランス哲学の影響なのかもしれないが文章はきわめて入り組んでいて、日本語という迷路を隅から隅まで知り尽くしているような練達さで重厚なイメージが作られる。こういう作品が言語の境界を押し拡げているおかげで自分たちの思考が可能になるのだ。

全体を通して「本当のことを言う」という行為をめぐる思考が鍵となっている。殆どの人は「本当のことを言」わずに、あるいはその振りしかせずに死んでいく。蛮勇か狂気かとにかく何か抜き差しならない、一片の不純物も認めない衝動に全身を任せた者だけが「本当のことを言」い、その帰結を引き受ける。

はて、自分にはいつか「本当のこと」が言えるだろうか。

藻谷浩介・NHK広島取材班チーム『里山資本主義』(2013)



資源高に伴う貿易赤字への転落、高齢化・生産年齢人口の現象に伴うデフレ、実体経済の成長が頭打ち、といった日本の置かれた諸状況に対処する方法として、藻谷とNHK広島取材班のチームが提唱するのは、言わば資本主義のゲームを半分降りるアプローチである。まず都市を離れて田舎に移り住むことによって住居費、食費などの支出を減らす。もちろん収入は一気に減ってしまうが、それを補って余りあるほどの、貨幣に換算できない価値(人とのつながり、ただで得られる食材、仕事のやりがい、少ない環境負荷など)を得られる、と主張する。バイオマスで成功を収めつつある岡山県の山村やIターン、Uターンの若者の移住で変わりつつある山口県周防大島などの事例を挙げつつ、お金の価値に全てを置き換える資本主義に振り回されるのは終わりにしよう、と訴える。


こういう生き方で救われる人がおおぜいいることは間違いない。就職市場の非人間性や一部企業の雇用環境の劣悪さを仄聞するにつけ、大都市でホワイトカラーの職につくだけが選択肢じゃないという声には諸手を挙げて賛同したい。しかし、例えば周防大島で作った手作りでエッジの効いた高付加価値の(したがって高価格の)ジャムを買ってくれる人が存在し続けるためには、資本主義の側でも日本がある程度勝ち続けないといけないんじゃないのか。それだけのお金を、何も大きな手を打たずせずとも日本の都市部は稼ぎ続けられるのか。


もちろん筆者たちは原始時代に戻れと言っているわけではない。スマートシティを導入しようとするプロジェクトも取材し、「なんだ、目指すところは里山資本主義と一緒じゃないか」という(きわめて楽観的な)見解に達する。スマートシティと里山資本主義が今後の日本の車の両輪となるべきだ、と。700円のジャムはスマートシティ側、進化した資本主義の側の皆さんが買ってくれるということだろう。確かに里山資本主義の共同体が一定程度大きくなるとある側面ではスマートシティのような外観を呈するのかもしれない(村中の暖房機能を一括管理しているオーストリアのギュッシングの例がそれに近い)。それでも、ITを活用してエネルギー消費の無駄を街全体でなくしていきましょう、という話と、裏山で拾った枝をエコストーブで燃やして美味しいご飯を炊こうぜ、という話を並べて、「コミュニティの復活」というキーワードの一致だけを根拠に「同じ方向を向いている」と胸を張るのは正直無理があるのではないか。スマートシティはコミュニティの復活を第一の目的に行っているわけではない。(たぶん)念頭にあるのは、世界中とくに新興国で今後数十年のうちに爆発的に増える都市人口をいかにマネージするのか、より重要にはそこに生じるビジネスチャンスにどう食いこむか、のはずだ。日本でスマートシティを考えているコンサルなり建設会社なりが日本向けサービスとしてコミュニティの強化を促す機能を考えることはあるだろうが、スマートシティそのものはあくまで、資本主義の次の大きなゲームの一つであるように思える。そこにこれまでの資本主義にはなかった、そして里山資本主義が重要視する、人のつながりを根源的価値として見出すのはいささか曲解なんじゃないか。


以上のような留保もありつつ、本書の描く未来が日本の田舎で実現するのは歓迎すべきだと思う。車輪のもう片方、従来型資本主義の側の議論が弱いのは、もちろんそれが本書の主眼でないからで、まあそっちはそっちで打ち手を考えるべきだろう。それを可能にするためにも、戦略特区なり道州制なり、全国横並びを廃する行政機構のメカニズムを早く整備すべきだ、といういつも一人で考えたり人と議論してたりするときに辿り着く論点に今回も来てしまった。