死刑執行停止をもとめる『カトリック正義と平は』

日本カトリック正義と平和協議会死刑廃止を求める部会

部会長 ホアン・マシア神父

10月10日の「世界死刑廃止デー」にあたり死刑執行停止を求めます

私たち日本カトリック正義と平和協議会死刑廃止を求める部会」は、先月発足した菅義偉内閣において、第104代法務大臣に就任された上川陽子衆議院議員(静岡1区)に対し、大臣就任のお慶びを申し上げるとともに、本日 10 月 10 日の第18回「世界死刑廃止デー」にあたり、今回の法相在任期間中に死刑の執行を再び命じることがないように要請いたします。

国際的な人権状況に大変詳しく、「持続可能な開発目標(SDGs)」の推進に精力的に取り組まれているあなたに改めて申し上げるまでもありませんが、世界の多くの国々では人道的観点からすでに用いられなくなっている死刑を未だ毎年のように実施している日本に対し、国際社会からはたびたび強い非難が向けられています。また、現代のカトリック教会は福音の光のもとに、死刑は許容できない刑罰であるということをはっきりと教えています。2018年に改訂された『カトリック教会のカテキズム』でも(2267参照)、先週発表されたばかりの教皇フランシスコの最新の回勅『Fratelli Tutti』でも(263-270参照)、全世界で死刑を廃止するためにカトリック教会を挙げて取り組む決意が明確に示されています。私たちも全世界のカトリック教会と声を合わせ、そしてすべての善意ある人々とともに、日本政府に対して死刑廃止を求め続けてきました。

にもかかわらず、9月17日の法務省初登庁後の記者会見において、死刑廃止について「現在のところ適切ではない」とあなたが答えたことを、私たちはとても憂慮しています。適切ではないどころか遅すぎるくらいですが、今からでもまだ間に合います。幸いにも2020年は現在のところ、1件の処刑も実施されていません。どうか今この瞬間から、死刑廃止に向けた勇気ある一歩を踏み出してください。まずは死刑の執行を停止し、死刑に関する現在の不透明な情報をすべて開示し、幅広い国民的議論を呼びかけてください。来年3月に延期開催される国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)開催国の法務大臣として、必ずやその決断が世界から称賛されることになるでしょう。

政治家や法務大臣である以前に一人の人間として、あなたの良心の声に今一度、鏡を磨いて耳を傾けてください。あなたに与えられた豊かな能力、そして法務大臣としての強い権限は、人を殺すためではなく人を生かすために、「すべてのいのちを守るため」に使ってください。昨年11月に来日した教皇フランシスコが首相官邸にて語った「結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです」(11月25日)という言葉を、相次ぐ自然災害を前に、そしてこの未曽有のコロナ禍にあって、再び思い起こしてください。

あなたがこれまでに発した死刑執行命令によっていのちを奪われた16名のために、私たちは祈ります。愛する人を失い、今なお悲嘆のうちにある方々のために、私たちは祈ります。あなたに命じられて直接の殺害行為に従事させられた多くの人々のためにも祈ります。そして何より、あなたのために、私たちはいつくしみ深い神に祈り続けます。あなたが法務大臣としての職務を全うすることができますように。

法務大臣河井 克行 様 に死刑執行停止を求めます

                                                                                                             

 

 

 

第101代

                                                                   Prot. JP 19-○○ 2019年10月10日

                                                                 日本カトリック正義と平和協議会

                                                              「死刑廃止を求める部会」

                                                               部会長 ホアン・マシア神父

 

1010日の「世界死刑廃止デー」にあたり死刑執行停止を求めます

私たち日本カトリック正義と平和協議会死刑廃止を求める部会」は、本日10月10日の「世界死刑廃止デー」にあたり、先月組閣のあった第4次安倍第2次改造内閣において第101代法務大臣に就任された河井克行衆議院議員広島3区)に対し、法相在任期間中に死刑の執行を命じることがないように要請します。

 

幼いころから祇園教会において、また広島学院中学・高等学校において、カトリック教会の信仰と考え方を学んでこられた河井大臣のことですから、現在のカトリック教会が、福音の光のもとに「死刑は許容できない」と教えていることをきっとご存知だと思います(『カトリック教会のカテキズム』2267番参照)。また、本年11月23日から26日にかけて、約38年ぶりとなるローマ教皇の来日が実現しますが、教皇庁バチカン)をたびたび訪れ、今回の教皇来日に大いに貢献したと自負されている河井大臣のことですから、なおさら教皇フランシスコの次のような呼びかけもよくご存知のことでしょう。

 

「いつくしみの特別聖年は、一人ひとりの人間のいのちと尊厳を大切にする方法が世界中で発展するのにふさわしい機会です。たとえ犯罪者であっても、神のたまものであるいのちを生きるという不可侵の権利をもっているからです。わたしは、世界の指導者が死刑廃止に向けて国際的な合意に至るよう、彼らの良心に訴えます。そしてその中のカトリック信者の皆さんが勇気ある行動をとり、このいつくしみの特別聖年の間に死刑を行わないという模範を示すよう願います。」(教皇フランシスコ、2016年2月21日)

 

それにもかかわらず、河井大臣が9月11日の初登庁後の記者会見において、「死刑を廃止することは適当ではない」とお答えになっていたことを、私たちは大変危惧しています。河井大臣もたびたび強調されているように、法務省(Ministry of Justice)はその名のとおり、「社会正義」の実現という崇高な使命を担っていると私たちも認識しています。ですが法務省として目指す「社会正義」とは一体何なのか、そしてどのような手段――疑いもなく「平和的」なものであるはずですが――でそれを実現していくのかについて、今一度深く考察してもらいたいと願います。

 

私たちは「すべてのいのちを守るため ~PROTECT ALL LIFE」というテーマを携えて来日する教皇フランシスコと声を合わせ、再度あなたの良心に対して訴えかけます。どうか、死刑の危機に直面している人々を含めた「すべてのいのち」を守ってください。どうか、死刑執行停止という勇気ある行動を通して「すべてのいのち」の尊さを人々に証ししてください。そしてどうか、50年ぶりの国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)開催国の法務大臣として、「すべてのいのち」が大切にされる「社会正義」の実現に真摯に取り組む日本の姿勢を国際社会に示してください。

 

Pope Francis Gaudete et exultate教皇フランシスコ 喜びなさい 聖性について


フランシスコ教皇著 使徒的勧告 『喜びに喜べ』

(多国語の要約)

(E.スペイン語EXHORTACIÓN APOSTÓLICA GAUDETE ET EXSULTATE DEL SANTO PADRE FRANCISCO

(J.日本語)現代世界における聖性への呼びかけ

(E.)SOBRE EL LLAMADO A LA SANTIDAD EN EL MUNDO ACTUAL

(P.ポルトガる語) EXORTAÇÃO APOSTÓLICA GAUDETE ET EXSULTATE DO SANTO PADRE
FRANCISCO SOBRE A CHAMADA À SANTIDADE NO MUNDO ATUAL


1
1 喜んで、喜んで、喜んでいろ。踊り跳ねて喜んでいろ。喜びに喜べ。私のために迫害され、悪口を浴びせられるとき、多いに喜びなさい。(マタイ5、11・12)。
(日)  聖なるものに開かれることへの呼びかけは聖書の最初のページから伺われる。主は油はーむに言う。「私の現存に包まれて歩みなさい。自分から出て全体へと開かれた全き者となりなさい」 (創世記17,1)。

(西)  «Alegraos y regocijaos» (Mt 5,12), dice Jesús a los que son perseguidos o humillados por su causa... Desde las primeras páginas de la Biblia está presente, de diversas maneras, el llamado a la santidad. Así se lo proponía el Señor a Abraham: «Camina en mi presencia y sé perfecto» (Gn 17,1).
 
ポルトガル語) «Alegrai vos e exultai» (Mt 5, 12), diz Jesus a quantos são perseguidos ou humilhados por causa d’Ele... Desde as primeiras páginas da Bíblia; a Abraão, o Senhor propô-la nestes termos: «anda na minha presença e sê perfeito» (Gn 17, 1).

(英) Rejoice and be glad” (Mt 5:12), Jesus tells those persecuted or humiliated for his sake... The call to holiness is present in various ways from the very first pages of the Bible. We see it expressed in the Lord’s words to Abraham: “Walk before me, and be blameless” (Gen 17:1).

2 聖性へのこの呼びかけが現代に響き渡るようにしたいものです。主はわれわれ各人を「ご自分の前で生なる物に使用と、キリストにおいてお選びになった」

A cada uno de nosotros el Señor nos eligió «para que fuésemos santos e irreprochables ante él por el amor» (Ef 1,4).

O Senhor escolheu cada um de nós «para ser santo e irrepreensível na sua presença, no amor» (cf. Ef  1, 4).

第一章

聖性への呼ぶ鋳掛 〔聖なるものへと心を開けよう〕

Capítulo I

A CHAMADA À SANTIDADE

Os santos que nos encorajam e acompanham

CAPÍTULO PRIMERO   EL LLAMADO A LA SANTIDAD

Los santos que nos alientan y acompañan

CHAPTER ONE   THE CALL TO HOLINESS

THE SAINTS WHO ENCOURAGE AND ACCOMPANY US

3. 「私たちは多くの証人に雲のようにとりかこまれており、耐久力をもって歩み続けるように励まされている」(ヘブライ 12, 1)。なかでも、自分の母親や祖母や多の身近な人がいるかもしれないのですが、その方々の生き方は必ずしも完全なものではなかったでしょうけれども、落ちたり立ち直ったりしている中で主野見前に歩み続けたに違いありません。

Tenemos «una nube ingente de testigos» (12,1) que nos alientan a seguir caminando hacia la meta. Y entre ellos puede estar nuestra propia madre, una abuela u otras personas cercanas (cf. 2 Tm 1,5). Quizá su vida no fue siempre perfecta, pero aun en medio de imperfecciones y caídas siguieron adelante y agradaron al Señor.
Na Carta aos Hebreus, mencionam-se várias testemunhas que nos encorajam a «correr com perseverança» (12, 1)... E, entre tais testemunhas, podem estar a nossa própria mãe, uma avó ou outras pessoas próximas de nós (cf. 2 Tm 1, 5). A sua vida talvez não tenha sido sempre perfeita, mas, mesmo no meio de imperfeições e quedas, continuaram a caminhar e agradaram ao Senhor.

The Letter to the Hebrews presents a number of testimonies that encourage us to “run with perseverance” (12:1)... These witnesses may include our own mothers, grandmothers or other loved ones (cf. 2 Tim 1:5). Their lives may not always have been perfect, yet even amid their faults and failings they kept moving forward and proved pleasing to the Lord.

4.主のみもとに帰った聖人は私たちとともに愛と一致のつながりを保ち続けます。

Los santos que ya han llegado a la presencia de Dios mantienen con nosotros lazos de amor y comunión.

. Os santos, que já chegaram à presença de Deus, mantêm connosco laços de amor e comunhão.

The saints now in God’s presence preserve their bonds of love and communion with us.

5. ,列福や列聖調査請願の過程において考慮に入れられるのは当人が諸徳の実践や殉教などだけではなく、命を懸けて人のために尽くしたことの証です。例えば、キリスト者一致のために命を捧げたMaría Gabriela Sagheddu の例があげられましょう。

En los procesos de beatificación y canonización se tienen en cuenta los signos de heroicidad en el ejercicio de las virtudes, la entrega de la vida en el martirio y también los casos en que se haya verificado un ofrecimiento de la propia vida por los demás, sostenido hasta la muerte. Recordemos, por ejemplo, a la beata María Gabriela Sagheddu, que ofreció su vida por la unión de los cristianos.
Nos processos de beatificação e canonização, tomam-se em consideração os sinais de heroicidade na prática das virtudes, o sacrifício da vida no martírio e também os casos em que se verificou um oferecimento da própria vida pelos outros, mantido até à morte. Lembremos, por exemplo, a Beata Maria Gabriela Sagheddu, que ofereceu a sua vida pela unidade dos cristãos

The processes of beatification and canonization recognize the signs of heroic virtue, the sacrifice of one’s life in martyrdom, and certain cases where a life is constantly offered for others, even until death… We can think, for example, of Blessed Maria Gabriella Sagheddu, who offered her life for the unity of Christians.

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.116-119

希望

116.すべてを希望する(panta elpizei、,パンタ・エルピゼイ)とは未来に対して絶望しないことです。相手にはいつも変わる可能性があると知っている者はあくまでも相手が成熟し、おもいがけないうつくしさが芽生え、隠れていたよい種が成長するのを希望します。もちろんこの世ではすべてがかわることがなかなかできないとわかりますが、いろいろなことは思う通りにはいかないにしても、曲がった道でまっすぐな歩みを導く神を信頼してこの世で相手が乗り越えることができなかった悪から良いことが生まれるようにするかもしれないとでも思うことができるでしょう。


117.そこまで希望を持つと、この世を超える希望に頼るということになります。つまり死のかなたに希望することです。さまざまな弱さをもっている人は、天において充実した生を生きることに呼びかけられています。そのときキリストの復活の栄光に変容させられるだろうその人の弱さや闇や病理が存在しなくなります。そのときその人の真の美しさと善が輝くでしょう。このことを思えば、今この世の苦しみの中でその人のことを希望の光に照らしてみることができ、今、見えないのに、天の国で見えるようになるだろうその人のうつくしさに希望をかけることができましょう。

118.すべて耐え忍ぶ。Panta hypomonéi (パンタ・ウポモネイ)は思う通りにはいかないすべての不愉快なことを積極的に受け止めることができるということです。周りの環境は敵対であっても、しっかりとがんばります。この耐え忍び方は、ただ単にじゃまになるものに対してがまんするだけではありません。より積極的なことです。たえず抵抗しなければならないところに抵抗することでもあります。どんな挑戦課題とも取り組むことです。愛することは、要するに、いろいろなことが愛さないように招くにもかかわらず、それでもなお愛することです。すべての否定的なことに直面しても、愛は頑固に善を選ぶことを止めないのです。Martin Luther Kingの言葉をおもいだします。「一番あなたを憎んでいる人や国は何かの良いことを心の中に持っています。いろいろなことがあるにも拘わらずその人を愛することができます“。

119.家族の生活の中でこの愛の力を育てたいものです。その力をもって家族生活がおびやかされている悪とたたかうことができましょう。愛は恨みに負けません。愛は人を軽蔑せず、憎まず、人から犠牲の償いをもとめません。キリスト者の家族内の愛は何と言ってもいろいろなことがあるにも関わらずということがあっての愛です。私は感心した素晴らしい模範を見たことがあります。ある人は自分を虐待していた配偶者から別れざるをえなかったにも拘わらず、のちに相手が病気や困難や苦しみに合った時、元配偶者だった方に対する愛徳をもって良いことをすることができ、世話までしたことがあります。その時自分の感情を超えて夫婦としての愛をもってかかわることができたその方は「にも拘わらず」という愛の仕方を実践していたと思います。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.114-115

信頼

114.すべてを信じる、panta pisteuei パンタ ピステウエイというのはすべてにおいて信頼するということです。ただ単に相手はうそをついていないかと疑わないだけのことではなく、もっと基本的な信頼のことです。基本的な信頼は神が相手のこころの中につけた光を見抜き、闇の中で隠れており、杯の下によこたわっている下火を認めることができます。

115.こうした基本的な信頼は愛し合っている者どうしの関係において自由が失われないことを可能にします。相手をコントロルする必要がありません。自分の手から離れられないように相手を引き留める必要がありません。愛は信頼し、相手を自由にし、相手を支配せずに、相手を所有しようとしません。こうした自由は自律の場を認め、世界への開きや新しい経験への開きをみとめます。そうすることによって二人の関係がより豊かになり、閉じた自分たちだけの世界にとじこもらせないのです。配偶者それぞれの活躍の場から帰った時家族の外で受けたものや学んだものを家族の中で分かち合ってよろこびます。それと同時に前述した信頼と自由があるところに誠実と透明が可能となります。相手が私を信頼しており、わたしの根源的な良さを認めていることが分かるとき、安心してあるがままの自分をさらけ出すことができます。しかし相手が私を疑い、無条件に信頼していないと察知したら自分の秘密を隠し、自分の失敗や弱さを見せないで猫をかぶってしまうでしょう。それとは逆に愛情のある基本的な信頼のある家族ならどんなことが起こったにしてもいつも信頼をあらたに取り戻すことが可能でしょう。そのとき家族の各員の真のアイデンティティが現れ、おのずと嘘やごまかしや偽りが入る余地がないでしょう。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.109-113

喜ぶ人とともに喜ぶ

109.<愛は不正を喜ばない>と訳されているoú hairei epí ta adikía, (ウ・ハイレイ・エピ・タ・アディキア)はこころの内部に隠れている悪さの根を指しています。それは毒とも呼べる恨みであり、悪事や不正の被害者になっている人の痛みをあわれむどころかそれを喜ぶということです。この否定的な態度とは違って聖書は勧めます、<愛は人とともに誠を喜ぶ〉というのです。これはつまり人の身によいことが起こることをこころから自分も喜ぶということです。喜ぶ人とともに喜ぶというのは人の尊厳を認め、人の能力を評価し、人の良いことをみて喜ぶことです。しかしいつも人と自分をくらべてばかりいれば喜ぶ人とともに自分も喜ぶことができなくなります。常に自分が背伸びするか卑下するかということだけにとらわれており、配偶者に対してさえもその人の失敗をみて心のなかで喜ぶということまで恨みをいだいてしまうことがあります。

110.愛する人は愛している人のためによいことをすることができるとき喜びます。愛する人は愛している人の人生は充実していることを見て喜び、相手の生きがいを喜び、神に感謝します。「快く与える人を、神は愛してくださる」(1コリント9,7).人のしあわせを喜ぶ者を主は評価します。人の善を喜び、人の善を楽しむ能力を養わずに、自分のニーズばかりを満たすことだけしか考えなければ、自分自身の人生を喜ぶことができなくなるでしょう。イエスが言うように「受けるより与えるほうが幸いです」使徒伝20,35.
すべてをゆるす

111.7節では「すべて」という強調のしかたではじまる四点が指摘されます。「愛はすべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ・と言っております。このように愛の活力が強調されています。愛の力は愛する人を逆行に泳がせ、逆境を乗り越えさせ、どんな障害物にも立ち向かわせることを可能にします。

112.愛はすべてをこらえるといっています。Panta sutegeiはすべてのミスには弁明の余地があると思うことです。先の5節に出た「悪を数え立てない」とはニュアンスが違います。すべてをこらえると言う言い方には沈黙と関係があり、相手のよくないところに関して黙っておくことという意味もほのめかします。いいかえれば判断を抑え、きびしくて容赦のない断罪をしないということです。「人を罪に定めてはならない。そうすればあなたがたも罪に定められないであろう」。ルカ6,37.み言葉がすすめます。「兄弟のみなさん、たがいに悪口を言い合ってはいけません」ヤコブ4,11.相手のイメージを傷つけることによって自分のイメージをよくしようとするときわたしたちは自分の恨みや妬みを吐き出してしまい、どんなに害を与えているかを気にしないのです。名誉棄損は大きな罪になりうることを忘れてしまうことがあります。名誉棄損は修復しにくい害を与えるのです。み言葉は厳しくこのことを戒めています。「舌は、体の器官の中で、不義の世界を代表し、全身を汚します…舌は死をもたらす毒に満ちています…この舌をもって、神にかたどって造られた人々を呪います」ヤコブ3,6−9 愛は人のイメージを傷つけないように気を使い、敵の名誉さえもきずつけないのです。神のおきてをまもるときこの愛の要求を忘れないようにしましょう。

113.互いに愛し合い、属し合う夫婦は配偶者の悪口を話さずに、相手の弱さと過ちを超えてよいところを浮彫にします。とにかく相手のイメージを傷つけないように気を使ってだまっておくことがあります。これは外的なジェスチャではなく、こころの態度です。もちろん相手の欠点を見ていないというナイブな態度のことではないのですが、相手の弱点を広い視野の中に位置づけられ、そうした欠点は相手のすべてではなく相手の存在のすべてではないことがわかります。ちょっとしたいやなことが二人の関係を傷つけても、それはその関係のすべてではないのです。わたしたちはみな光と影の複雑な混合であることを受け入れましょう。相手の中で私に迷惑をかけるそのことは相手のすべてではないのです。相手はそれ以上の者です。だから相手の愛を評価するときその愛は完全であることをもとめません。相手は自分自身のあるがままに見せて私を愛し、自分の限界の枠内でわたしを愛しており、その愛は不完全ではあっても似非の愛でもなく、真の愛の現実です。相手の愛は現実ではあるが、もし私はできる以上のことを相手から要求すれば、相手は何らかの形でそれは無理だとわからせてくれるでしょう。相手は神のような者でもなければ私のすべてのニーズにこたえる者でもないのです。愛は不完全性とともに共存することができ、それを大目に見て、愛している者の限界がわかって黙っておくことができるのです。

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.103-108

心の内部に暴力をなくそう

103.(愛は怒らず〉と訳されているparoxinétai (パロシネタイ)というのは心の中で抱かれる憤慨を抑えることを指しています。言葉や表情などで表現するのを抑えても、心の中で強い反感を感じているからわたしたちは相手に対して警戒する姿勢で向き合い、相手を避けて通りたい障害物や敵対関係にあるものとして見てしまいます。これは、おもてには現れない内部の暴力とでも言えるでしょう。このような攻撃性を養いたくありません。この攻撃性は、何の役にも立たないし、私たちを孤立にさせ、病気にもさせてしまうのです。健全な憤慨の仕方もあるのです。たとえば、大きな不正なことに対して反応しなければならないとき当然怒るでしょう。しかし、憤慨する心は他者に対する私たちのすべての態度や振舞いに浸透させるのは健全ではありません。

104、こうして怒らないように聖書で勧められています。「まず、自分の目から丸太をとりのぞけ」(マタイ7,5).「悪に負けてはいけない」(ローマ書12,21).「うまずたゆまず善を行いましょう」(ガラテイア6,9).自分の内部からあの攻撃性が沸いてくるのを感じることが避けられないでしょうが、それに同意することを避けたいのです。「あなたがたが腹を立てている間に日が沈むことがあってはなりません」(エフェソ書4,26)。一日の終わりに家族の中で仲直りしましょう。そのためには簡単なひとことやちょっとしたこと、言葉なしの愛撫でも足りるでしょうが、とにかく、和解せずにお休みにならないようにしましょう。人から迷惑をかけられたら心からその人を祝福しましょう。相手の為に祈り、相手の善を願い、神がその人の心を変え、解放してくださるように祈りましょう。そして神がその人をいやすように願いましょう。「兄弟愛と慈しみのこころをもち、謙虚で、悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはいけません。かえって祝福をもって報いなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(1ペトロ3,9)。

ゆるし合い

105.人に対する悪い感情をわたしたちの腹まで入るのをゆるしてしまえば、その内部に根をおろすでしょう。「愛は人の悪事を数え立てない」と訳される5節 のoú logízetai to kakónは〈ねたみを抱かない〉という意味です。言い換えれば、仕返しをするために相手の悪事の記録を心に刻みたくないのです。そればかりか、相手をゆるす積極的な態度を取ろうとし、相手の弱さを理解し、相手の悪事を大目に見てやれるために言い訳を見いだすほうがよいでしょう。イエスは、十字架に付けられるとき、言いました:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」(ルカ23,34).しかし私たちは度々相手の過ちを根ほり葉ほり探り、相手の悪い志を憶測で考えたり、その悪いと思われるところを大げさに捉えたりします。そのために恨みが大きくなり、ますますこころに根を下します。ちょっとした過ちや落ち度がきっかけとなって愛の絆と家族の安定が動揺します。ときにはすべての問題は同じ程度の重要さとし受け止められてしまいます。そうすると、わたしたちは人の失敗に対して残酷な態度をとりがちになります。自分の権利を主張するのも当然ではあっても、そのやりすぎは自分の尊厳を守らないかわりに、たえざる復讐の精神を育ててしまいます。

106.人から傷つけられたり期待を裏切られたりしたとき、許し合いが望ましいです。ゆるしし合いは可能ですが、簡単ではありません。家族内の一致の絆を保つためには、譲り合いの精神が働く必要があります。相手を理解し、寛容をもってゆるしあい、和解を求める必要があります。どの家族もわかるように、エゴイズムや不一致や緊張や葛藤対立が避けられずに、ときには致命的な傷を与えてしまうことがあります。家族の生活の中でたびたび多くの分裂が起こります。

107.人をゆるすことができるように私たちは、まず、自分自身を理解し、自分自身をゆるすことを学ばなければなりません。多くの場合、自分自身の過ちの為、または、愛する人への批判的なまなざしのため、自分自身を大事にすることを見失ってしまうことにもなりかねないのです。したがって人に出会うことから逃げることがあります。人間関係において多くの心配や恐怖に襲われることがあります。失敗を人のせいにすることは似非の慰めになるかもしれません。私たちは自分の歴史を振り返って祈る必要があり、自分を受け入れ、自分の限界を認め、自分自身をゆるすことさえも学ぶ必要があります。そのようにしてはじめて人をゆるせるようになるでしょう。

108.しかしこのことを可能にするためには、神から私たちはただでゆるされており、聖なるものとされている経験がなければなりません。私たちに先立って私たちのメリットなしにただで神の愛の対象になっています。神の愛はいつも私たちに新しい機会を与え、いつも励ましてくださり、良い刺激を与えています。神の愛は無条件だと受け止めましょう。父の愛はお金で買えないし、お金で返せないのです。このことがわかってはじめてわたしたちはすべてをこえて愛することができるようになり、私たちを不正にあつかった者さえもゆるすことができるでしょう。そうでなければ家族生活は愛し合い理解し合う場ではなくなり、同伴と励まし合いの場ではなくなり、相互の罰や緊張した関係の場になりかねないでしょう。