浅野栄一『ケインズの経済思考革命』勁草書房

 われわれニートにとって,ケインズとはどんな存在なのであろうか。われわれは当然自発的に失業しているのだから,われわれの存在をケインズはどう考えるのであろうか。
 本書は,著者が述べるように,著者のケインズ研究の集大成であり,また昨今盛んに研究が進められているケインズの思想が十分な紙幅をもって論じられ,既存のケインズ研究の到達地点であるといっても過言ではないと思われる。本書を一読することにより,おおよそ現在のポスト・ケインズ派によって了解されうるという意味で,「正しい」ケインズ解釈を得ることができるであろう。
 しかし,あくまで一ニートの見解であることは強調されねばならないが,本書に示されるケインズ像に疑問がないわけではない。筆者によれば,ケインズの思想,あるいは「倫理思想」は,前期と後期に分かたれるという。前期ケインズは,個人的判断に基づく個人の行為の合理性・正当性をあくまでも主張しようとした。しかし後期ケインズは,人間本性の合理性に対して疑問を呈し,その反省から新しい人間観,新しい「倫理思想」を求めたという。すなわち,後期ケインズは,人間の本性を無知と可謬性の中に見出し,将来への不確実性のもとで伝統なり慣行なりに頼りながら個々人が日々生きていることを理解し,かくなる人間観を彼の理論体系に反映させていったのである。
 伝統や慣習に流され,あるいは気まぐれや感情に突き動かされて生きている,非常に人間的な人間像,そして多様な価値観と多様な動機をもっている人間によって構成される全体としての社会,これらを総じて,私が理解するかぎり,筆者は「ケインズ倫理学」といい,「倫理思想」という。ここで当然次のような疑問が浮かぶ。「倫理」とは何か。本書の中にはその明確な答えはないように思われる。
 われわれは不確実性のもとで生き,そして「非合理的」な常識や惰性のまま,ときには直感に頼りながら,生きている。そのとおりである。しかしそれでよいのか。われわれはどう生きるべきなのか。一億総ニートになって社会は成立するのか。この問に答えを与えてくれるのが「倫理学」であり「倫理思想」なのではないか。私はそう思っている。
 これらの点について,例えば,間宮陽介は明確な答えを用意している。一言でいうならば,伝統への回帰である。不確実性のもと,一寸先に戸惑い,道に迷い,互いに傷つけあうことを,無知で非合理的なわれわれは避けられないであろう。それを避け,われわれの行動に,少なくとも歴史的に見て「正しい」指針を与えてくれるのが,伝統であり,ハイエクのいう「自生的秩序」なのである。ここに間宮は,ケインズハイエクの本質的な親和性を見出している。
 だが,このような解釈は,前期ケインズが忌避したという,安直な保守主義,あるいはナショナリズムに陥りかねない危険もあるだろう。それはさておき,本書には細かい疑問点が少なからずある。例えば,「合理的」あるいは「非合理的」という言葉が度々用いられているが,それは何にとって合理的であるのか。また,「古典派は誤り」という断定が散見するが,どういう意味で誤りであるのか,などなど。しかしながら,本書は,ケインズの思想・理論・政策,彼の「政治経済学」がコンパクトにまとめられ,上述のように,既存のケインズ研究の到達点を手軽に知ることができるという意味で,唯一無二の良書といえよう。

宮崎義一『現代企業論入門』有斐閣,1985年

「働かざるもの食うべからず」とは,時代や体制を問わず妥当する,人類普遍の格率であろう.しかしわれわれニートは,各々固有の事情のもと,働かざるとも生きてゆける.なぜであろうか.この問に答えるためには,現代資本主義がいかなるものであるかを確認する作業が不可欠であると思われる.
 宮崎は,現代資本主義をコーポレィト・キャピタリズムと規定する.19世紀末から20世紀前半の株式会社制度の確立,所有と経営の分離を経て,資本主義は経営者資本主義と呼ばれる段階へ移行した.そしていま,資本主義はコーポレィト・キャピタリズムへと移行したのである.かくなる資本主義の変容がわれわれの生活にとって何を意味し,どのような影響を実際に及ぼし,及ぼそうとしているのかを知ること,言い換えると,コーポレィト・キャピタリズムという視座から経済社会を見つめなおすことによって,現代資本主義と対座することの必要性を,本書は提起している.
 古典派,及び新古典派は企業を点として捉え,消費者主権の貫徹した世界を描くとされる.だが企業は明らかに点ではなく,消費者は生産者側の広告を通じた戦略的操作によって企業の意のままに操られている.すなわち生産者主権の確立であり,資本主義を動かす第1の経済主体は企業というべきであろう.また同様にして,完全競争市場はいまや存在せず,寡占市場体制が支配するに至った.(付言すれば,これらの変化に基づいて新古典派の「非現実性」を批判するのは,論点相異の虚偽というべきであろう.例えば完全市場という概念がなければ,不完全市場という認識もまた存在しえず,また現実を知り評価する視点も得られないからである.)
 本書が含む多様な,そして重要な論点の中でも私がとくに関心をもつのは,株式の保有構造に関する議論である.株式会社が成立し,株主が分散するにつれて,経営者が会社を実質的に支配することができるようになった.だが,企業拡張の主要手段としてM&Aが一般化するにつれ,株主がいま一度会社の支配権を握ることになる.また現在,多くの株式会社の大株主は,個人ではなく株式会社そのものであり,会社が会社を支配するに至る.その支配権を握る会社を支配するのが当会社の経営者であるとしても,M&Aを実行する上で自社の株式価値を増大させることは至上命題である.かくて所有と経営の分離は不明確となり,誰が会社を支配しているのかも,会社は何を目的として行動するのか,そもそもなぜ誰のために会社が存在しているのかも不明確となる.あくまで諸個人の富拡大の手段にすぎなかったはずの会社が,個人の手を離れて一人歩きをし始め,そしてわれわれの生きるための目的にすらなる.すなわち株式会社が人間,あるいは社会を従属せしめ,そしてその会社は会社の存続と拡大をその自己目的とする.ここに現代社会の矛盾が見えてくる.
 かかる論点を含め,本書は現代資本主義認識の視座をわれわれに与えてくれるものとして,決して古びてはいない.まさに現代の古典という名に相応しい一冊である.

Roy Harrod,Are These Hardships Necessary?,Rupert Hart-Davis,1947.

 この本はわずか10日で完成された。ハロッドは,47年8月時点での政府の政策を大至急に批判し,その修正を求める必要に迫られていたからであった。 
その批判の要点は,戦後イギリスの労働党政権による資本支出計画を削減せよ,ということであった。ケインズ主義といえば,財政拡大によるインフレ主義というイメージを抱きがちであるけれども,これは時と場合によらねばならない。超完全雇用下での財政支出拡大はケインズの名とはまったくかかわりのないただの愚行である。
 完全雇用の状況,労働力を含む生産資源の不足の状況での政府による資本支出は,その内容の是非をひとまずおくとしても,民間部門の生産資源を奪ってしまう。需要が供給を超過し,インフレ圧力が生じる。のみならず国際収支の大きな赤字も発生する。だから統制の必要がある。
 統制は国民の自由を奪う。ここでいう統制とは,物資の配給制であったり,輸入制限であったり。国際収支が赤字であっても,輸入制限は決して正当化されない。アメリカとともに新たな国際協調体制の模範となるべきイギリスが,自由貿易の原理を自ら侵すことは,先人の労苦を台無しにしてしまう。そもそも消費者は国内財,輸入財を問わず安くてよいものを消費する権利をもつ。戦争は終わったのである。人民は,好きなものを好きなだけ消費できるという最低限の自由を保障されねばならない。「貨幣は自由の砦」であり,「価格メカニズム」の復権をハロッドは訴える。そのためには政府支出の削減が第一に必要なのであった。
 本書の全体を貫くのは,ハロッドの正義感であり,経済学者としての義務感である。経済政策論議に関心をもつ方は,一読してみても損はないだろう。もちろん私のようなニートも得るところ大であった。