正雄少年のお見舞ひはカステラと少年雑誌

 『模範少年』は文盛堂編輯部編、榊原文盛堂魚住書店発行、大正5年1月発行。日記風の体裁で、正雄少年の善行が記されてゐる。模範的でない悪事も描かれるので、当時の世相をうかがふこともできる。

 最初は3月26日。お母さんが父の墓参りに行かうといふ。父は去年の2月13日に亡くなった。今日は父の命日ではない。墓の前で母が正雄に、お父さんの仰ったことを覚えてゐるだらう、と尋ねる。父は生前、しっかり勉強して偉い人になるやうに、と正雄に遺言してゐた。それなのに正雄の成績は悪くなるばかり。母はこの場で死んで、父におわびをするのだといふ。正雄は心を入れ替へて、翌日から学問に励み、品行を良くし、体を丈夫にすることを決心するのだった。

 伊藤君と上野に遊びに行った正雄。伊藤君は西郷隆盛銅像の前に立つと、紙をかみつぶして銅像に投げようとする。正雄は西郷が大英雄であり、紙つぶてを投げつけるのは無礼だと忠告した。伊藤君も素直に聞き入れてやめてくれた。西郷像に紙を投げつけるのは出世の願掛けのためなどといはれてゐるが、ここでは特に説明されてゐない。その必要がないほど、ありふれたことだったのだらう。そしてあまりよくない行動だったこともうかがはれる。

5月18日の日記には、弱い者いぢめに対する憤りを記す。この日、正雄少年は子供たちが集団で1人の若い盲人をいぢめるのを目撃した。袖を引っ張ったり杖を取り上げたりしてゐる。それを見て囃し立てたりしてゐる。子供から杖を取り返し、盲人の手を取って逃がさうとしたが、突き飛ばされて溝に落ちてしまった。気が付くと病院のベッドの上で、そばにはお母さんがゐる。自分の頭には包帯が巻かれてゐる。頭を打って、気を失ってゐたらしい。この話は、正義を遂行しようとすると危険な目に遭ふこともあると教へてゐるやうだ。

 7月1日は急性肺炎で寝込んでゐる伊藤君のお見舞ひに行ってゐる。カステラと二、三種の少年雑誌を持って行った。起きるのはつらさうなので、伊藤君に読み聞かせをしてあげた。

私は『日本少年』の中から、面白さうな題目を択んで、静かに読み聞かせた。伊藤君の顔には、時々笑ひが浮ぶ。私は更に、『少年世界』を読み聞かせた。

 病人には雑誌を差し入れするのが模範的。スマホ普及以前までは受け継がれてきた。 

 

 

黒神直久「中小神社が神社界の基盤なんですよ」

 『人間 黒神直久』は富田義弘著、山口新聞社発行、平成2年5月発行。国会図書館にない。黒神直久は山口県徳山市の市長、徳山商工会議所会頭、神社本庁総長などを歴任。その間、遠石八幡宮宮司も務めた。いくつものわらじを履いた黒神の生涯をたどり、読みやすくまとめたもの。年譜つき。

 著者は山口県下関市生まれで、民話や方言などの著書がある。アルバム8冊の提供を受け、巻頭には黒神の写真が多数収録されてゐる。カラー20枚は公的なものが主で、「徳川宗敬統理と芸能界の美女たちと」なるものも。名前がないので誰か判別できす。セピア色のものは35枚で、國學院大學時代、結婚写真など。山下清展テープカットでは黒神の後ろから山下が覗き込んでゐる。

 黒神は明治40年12月生まれ、昭和62年5月帰幽。市長時代は徳山にモーターボート場を開設し、財源を確保。バクチは見たこともやったこともなかったが、反対派とも対話して実現させた。出光興産徳山製油所の誘致にも成功し、起工式では敬神家の出光佐三の要望に応へ、神主として奉仕した。すぐにモーニングに着替へて市長としてお祝ひの挨拶を行った。

 昭和58年6月、神社本庁総長に就任。西日本初・中小神社の諸社出身としても初として注目された。黒神は次のやうに語ってゐる。

「中小神社があってこそ、はじめて大社が成り立っているんですよ。(略)中小神社が神社界の基盤なんですよ。その上に大社はジーッとあぐらをかいている。(笑い)」

 氏子とのつながりが強い中小神社の意義を語ってゐる。神社本庁庁舎の建て替へ問題も黒神國學院の同級生だった、明治神宮の高澤信一郎宮司から無償で土地が借りられて計画が進んだ。

 総長になると日本宗教連盟理事長などの肩書が何十も増える。5月は家に3日しか帰れず、6月も4~5日だったと激務ぶりを語ってゐる。庁舎の完成を見ずに亡くなり、胸像が総長室に飾られた。

 

 



 

木の花社営業ニユース「祭りは真釣り」

 『営業ニユース」は木の花社発行、No.5は昭和33年5月発行。おほもと5月号の付録。一枚の紙の表裏に通販の商品がたくさん載ってゐる。全国的茶道ブームで、大本支部でも茶道の習得に励んでゐる。そこで茶箱頒布会を開催し、茶道用具を毎月届けるのだといふ。

 電気罨法器は電灯から電源がとれる温シップ。腰、背骨、腹に使ふ。3500円。木の花こけしは新しい参拝土産とあるが、通販してゐる。郵送料共で116円。八雲琴は松号、梅号、竹号がそれぞれ1万円、8000円、6000円。松号の分割だと1回1000円で6か月。松竹梅の順番でなく松梅竹なのは何か神学上の理由があるのだらうか。

 食品や栄養剤の種類が充実してゐる。元気の素は「薬でないのに薬の働きをする最良栄養素」。GH100番は「副作用絶無 長期大量服用可 相乗作用服合せ(無害)」。

 2面には「病魔を追放せよ!!」といふ無署名論文が載ってゐる。神々の働きで食品の選び方を説明してゐる。アルカリ性食品は高御産巣日系統。海草、野菜、果実が含まれる。酸性食品は神産巣日系統。肉、魚、玉子、大豆、穀類が含まれる。こちらには嚙む作用の凝集性求心力と説明がある。嚙むでカムムスヒ。この2系統をうまく調和させることが大事である。これが祭り=真釣りにつながる。

祭りの本義は真釣りであり、その調和を失うものを罪けがれというのであり自づと禍を生じます。

 日本家屋の構造も日本人が肉食をしないのも真釣りの本義にのっとったもの。

 そのほかにも紙面いっぱいに商品を展開。笏と祝詞いれ、神授のカルシウムの真珠、食中毒にも急性肺炎にも効果を謳ふオモトゲン、左右の柱に水虫のタロン。湿疹にエクメンなどと幅広く、目移りがする。

 

 

 

漁師の弁当の歌をお詠みになった高松宮殿下

 『うひまなび 高松宮宣仁親王歌集』は平成12年8月発行、中央公論事業出版制作。函入り。高松宮殿下が青少年時代にお詠みになった和歌100首が収められてゐる。

 解説で出版の経緯を記してゐるのは阿川弘之正字正仮名。阿川の全集には著作目録にも年譜にも触れられてゐない。これによると自筆本が現存してゐるかどうかは不明で、学友の佃正雄が書写したものを基にしてゐる。佃は高松宮日記にも登場。殿下薨去の際に喜久子妃殿下に献納し、さらに約10年後、上木して世間に発表してほしいと希望した。佃は95歳になってゐた。妃殿下は「稚げな御作」もあるのでどうすべきかとお迷ひになったが、100部限定の自費出版、非売品で近親者たちに配ることになった。変体仮名は普通の字に改めたが、書名の「な」だけそのままにした。

 殿下満7歳から18歳まで、明治45年から大正12年までの御作。阿川はわらべうたのやうな御作風が次第に和歌らしく整ってゆくと評価してゐるが、かへってそのわらべうたのやうな御作の方に胸を打たれる。一首だけ謹載する。大正2年、「折にふれて(辨当)」の詞書がある。

わたくしはれうしのべんたう見た時に驚きましたよそのおほきさに

 「私は漁師の弁当見た時に驚きましたよその大きさに」。昼飯時にでも漁師の元をお訪ねになったのだらうか。漁師にとっては普通の日常のことなのだらうが、大きな弁当に驚きになってゐる。人の顔ぐらゐあったかもしれない。

 このやうな歌は逆立ちしても詠めない。シャッポを脱ぐしかない。覚えたので何度でも暗誦できる。2カ所のにでにっと口角が上がってしまふ。

 

 

 

西澤才吉「陰陽の真理を具体化したる電化事業」

 『陰陽』は陰陽士会編輯部発行、大正14年1月発行号が創刊号。約90ページ。易占者の機関誌で、松岡若翁理事長の日本陰陽士組合と佐藤了翁理事長の東京占業組合が大同団結して陰陽士会が発足した。その経緯や祝辞などが載ってゐる。創刊の名刺広告には新井石禅や大西良慶徳富蘇峰内田良平、柴田徳次郎らの名前もある。

 編輯兼印刷人の小林宜園が「天地の公道と大和民族」を巻頭に置いてゐる。明治天皇五箇条の御誓文で「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」と仰せになった。これをただ盲目的・信仰的に唱へるだけでいいのだらうか。科学的説明が必要である。それは陰と陽の理を根本とした易にほかならない。

易に於ては此太陽対地球、雄対雌、男対女等の二元作用に名づくるに陽と陰の辞句を以てした

 宇宙の成り立ちから男女の性質まで、陰陽によって説明をしてゐる。

 明星電機製作所主の西澤才吉が「陰陽の真理を具体化したる電化事業」を寄せてゐる。目次では陰陽道、本文では陰陽。西澤曰く、世界は何十もの元素で構成されてゐると考へられてきたが、ここに一大革新が起こった。元素よりももっと小さい電子の波動が熱を生み、熱が人間の生活を豊かにすることが明らかになってきた。電気を利用することにより天国的・極楽的世界が地上にもたらされた。

電気の作用こそ陰陽両儀の最も顕著なる具体化であり立証である。

 電気と陰陽の関係ははっきりしないが、電子の陰子と陽子が念頭にあったことが推測される。電化による天国的・極楽的世界の具体例を、夫婦の生活で説明してゐる。まづは電化前の時代。夫が目を覚ますと、女房の髪はぐちゃぐちゃ、口からヨダレを垂らしてゐる。水が冷たいので顔も洗はず目ヤニをつけたまま。夫が外出すると食器も洗はず安火炬燵にもぐったり井戸端会議をしたりで風呂の湯も沸かさない。これでは一家繁栄する筈がない。

 これが電化した家庭だったらどうなるか。夫より早く起きた妻は僅かの時間で湯を沸かし髪を調へ、雑巾がけもする。起きてきた夫はまことに心地よい。お湯で洗濯し、風呂とお茶で帰宅した夫をもてなすので、自然に夫の帰路の足も軽くなるといふもの。一家和合は一国安泰、電化は国家社会のための大事業となる。ここでの電気安火は夫の着替へを温め、食後の団欒のときにも用意される。電気火熨斗(アイロン)も夫の衣服のために活躍する。

 ここで奇異な感じがするのは、電化したあとの妻の起床時刻。電化して家事の時間が節約できたのだから、朝は遅くまで寝てゐられる筈。しかし妻は逆に、電化前よりも早く起きてゐるやうだ。なぜだらうか。恐らく次のやうな考へだらう。

 冷水のつらい家事から解放されて、湯が手軽に使へるやうになった。温かい湯で気持ちよく楽しく家事をすると、夫の機嫌もよい。ますます家事に力が入る。夫はますます仕事に励む。かうなると寝るよりも家事をしたほうがいい。電化によって、妻は家事をし、夫は仕事をするといふ分担がますます強くなる。夫の喜びが妻の喜びなのだから。西澤の「天国的・極楽的世界」とはこのやうな価値観に支へられてゐたのだらう。陰陽は世界万般の構成要素。電気も陰陽からなり、男女も陰陽の別に基づくのがあるべき姿。夫が家事をするなど、陰陽の真理を理解しない間違った考へだ。

 夫が家事をしないからといって、妻への愛情がないわけではない。夜に遊び歩かず、家で夫婦仲良く暮らすのは愛情あってこそ。

こんな真心の妻を外にして娼婦等に耽る男子があらば、夫れは所謂変態心理の持主で真人間ではない、精神病者か獣的動物である。

 裏表紙には明星電機製作所の広告が載ってゐる。電灯からコードを引いた電熱器とともに、女性がにっこり微笑んでゐる。

 

 

 

 

・『夜更かしの社会史 安眠と不眠の日本近現代』(吉川弘文館)拝読。江戸時代の夜なべの農作業から現代のポケモンスリープまで、眠りについての論文をまとめたもの。どれも面白かった。一番夢があるのは睡眠学習を論じたもの。勉強の大敵、睡眠を逆転の発想で味方にする。勉強するために眠るといふ驚天動地の夢の勉強法。怠惰のために燃やす情熱は錬金術を髣髴とさせる。文中に繰り返される(睡眠中こそ勉強の好機!)が力強い。「寝床を電化する―『電気あんか』の技術社会史」も良い。「所詮暖房器具でしょ…」といふ先入観を裏切り、電気あんかの登場と隆盛、そして衰退を描く一代記。平家の栄枯盛衰のドラマを見るやう。

 

メサーブ「神武天皇はアフガニスタンの皇子」

 『実話』は実話出版発行、昭和32年10月号が1巻4号。その中に「私は印度人の女占い師です」といふ記事がある。表紙、目次、グラビア、本文で文言が違ふが、ここでは目次から採る。彼女の名前はメサーブ・ベンチ・アブドロヒム。グラビアページにはメサーブが占ひをする様子も掲載されてゐる。玉子を立てたり火のついた蝋燭3本を口の中に入れたりする。

 家の前で撮られた写真から看板の文言も分かる。

妾は印度の易者です アラーの御力で皆様の手相を観て人生一般の運命お鑑定致します

 メサーブは大正3年2月、タイのバタニー生まれ。数へで44歳。アフガニスタン系のインド人で、熱心なフイフイ教徒。フイフイ教はイスラム教のこと。夫の瀬島正日呼が両親の反対にもかかはらず日本に連れてきた。昭和21年12月に来日し、長崎で運命鑑定をしてゐたが、長崎ではイスラム教徒が重視する土葬が許されないので上京した。「私は日本が大好きなのです」といふメサーブ。その理由は信仰の中にもあった。

神武天皇は、アフガニスタンの第七皇子だつたのです。それが、ナガスネヒコを退治するために、単身日本に渡つた。そして、日本全土を平げて、天皇になつたのです」

 だから2代目のスイジン天皇まで、天皇イスラム教徒だった。メサーブと天皇は同じ先祖を持ってゐるといふ。神武天皇のこともコーランに書いてあるといふ。時代が合はないので、歴史的には荒唐無稽な言ひ伝へだが、地理的にはタイやアフガニスタンまで広がる。

 コーランといへば大川周明なので、彼のことを知ってゐるかと記者が聞いてゐる。メサーブの評価は芳しくない。

「直接は知りませんが、あの人の『コーラン』は英訳本からの重訳で、間違いだらけですよ。あの人は、死んだらひどい罰を受けるでしよう」

 

 

 

水谷安子「そうだ狢に食べられて死のう」

 『夜明けを信じて』は水谷安子著、平成13年9月発行、出版社不明。正誤表付き。まえがき・第一章から第十五章・あとがきの198ページ。巻頭写真は8枚で親族の記念写真が多い。水谷自身は幼少期のものと小さな横顔のみ。

 大正2年、満州奉天生まれの著者の自分史。各章が数字だけなので分かりにくいが、読んでみると大正から終戦時までの半生が克明に記録されてゐる。親戚や無名の隣近所の人、同級生、社会主義運動の人々が登場する。

 父の佐藤才太郎は奉天薬種商をしてゐた。ペスト流行時にも商機を逃さなかった。

誰もが恐ろしくて外に出ず、堅く戸を締めて震えおののいているというのに、父はこの機会とばかりに外に飛び出し、各病院を廻り、薬を売り込んだのです。機を見るに敏で、危険も恐れず、勇猛果敢とは、実に男らしい人です。

「薬につきものの麻薬もどんどん扱って、ぼろ儲けもしています」。しかし大正4年11月に交通事故で死去。一家の生活は暗転し、日本での苦労の日々が始まる。転居先では暗くなって電気がつく前に帰宅するやうに言はれてゐたが、遊びに夢中で気が付いたら電気がついてゐた。そもそもまだ時計の見方も知らないほど幼かった。一度締め出され、後日また同じ失敗をしてしまった。もう死ぬしかないと思ひ詰めた。大人たちから以前、言ふことを聞かないとムジナに食べられるぞと脅されたことを思ひ出す。

そうだ狢に食べられて死のう、と決心しました。何でも、外にいれば夜中に狢が現れるに違いない、と実に幼児らしい発想です。

 他人の家の軒下で狢が来るのを待ってゐたら、その家の小母さんに発見された。学校や住居を転々とする。5、6年生のときはのちの大宅壮一夫人となる奥田昌先生に教はった。上京後は田中角栄も通った中央工学校で理数や英語、製図を学んだ。

無試験で卒業証書も要らない呑気な学校で、女学校卒で入学しました。当時左翼の人達が、いろいろ運動中に資格を得る必要で、この学校を卒業した人達も結構あることを後に知りました。

 この学校を卒業して就職したが、夫の水谷信雄が何かの集会に出席したことで逮捕された。安子も即日クビになった。もとの学校に再就職を頼むと、日産自動車を紹介されて採用された。学校では左翼の人達でもよく斡旋したやうだと記してゐる。

 戦時中は姉の不敬事件に連座した。

次第に激しくなる戦争を呪い、その戦争の大もとである天皇を呪い、天皇一家を殺しても飽き足らないように喋ったそうです。

「皇国思想のガリガリ」の知人にどうしてそんな本心を語ったのかと姉に聞くと、表向きは話を合はせるので気づかなかったのだといふ。夫もその仲間の左翼グループもつかまってゐる。南京虫が出るので部屋の中央で寝たなどと、安子も留置所での経験を述べてゐる。

 献呈の紙片には「突然の送本ですが拙い自分史をどうか御笑覧下さい」云々とある。