パンプキンシザーズがかっこいい。それと、いまさらカウボーイビバップ

怪物王女もいい。

しかし、まえからデトロイトメタルシティのどこが面白いのかわからない。

landreaalはさすがにすばらしい。

グインに於けるツンデレの扱いの酷さについて。

ブルーバックスの「非対称の起源」絶賛読書中。なかなか、頭がくらくらしてくる感じ。

電波的な彼女」シリーズ。こんなに面白いとは思ってなかった。

「ゴールデンエイジ」2巻。けっこう盛り上がってきた。

いぬかみっ!」を途中まで読んでみたのだが、ここまではあんまり記憶に残らない普通の少女まんがという感じ。

そういえばあらいりゅうじとか赤城毅とかも記憶に残らない。そういうつもりで本人も書いてるんだろうけど。

壊憲という字面はけっこう悪くない。(ただし縦書の場合)

Fateをやりたい。PS2を買う余裕がない。いわんやPS3に於いてをや。

いつもブリーチの扉の引用はけっこう真剣にかっこいい。「私は否定する!」もいいフレーズだ。

ツンデレは私にはなんかピンとこない。むしろツンがいい。振り向いてくれた段階で、それが理由でがっかりだ!
わたしのようなものを好きになるなんて理想が低い。その程度の女か! この駄人間!・・・・・・難儀な性格なのは私の方か。

駄人間という言葉はちょっといい。

逆転裁判4はたしかにそんなにいい出来じゃなかった。マヨイちゃんを出せないのはわかるのだが、もう少しサービス的に
だしてもよかったのではないか。

twitterには不思議と心惹かれない。短い文章ばかりの癖に。

バフチンはあくまでもダイアローグ化されたモノローグについて語っているので、現実のダイアローグそのものを、すくなくとも彼の理論の方向性で称賛できるかというと,実は微妙な気がする。ダイアローグではひとは微妙な部分、つまりダイアローグ化されたモノローグが持っているような多義性や揺らぎを、自己の発話から捨象せざるを得ない。ダイアローグといいつつ、モデルはあくまでもドラマではなくノベルであるという点、忘れてはいけないところだと思う。

だれしもそうなのか私だけなのかわからないが、私には映像的な想起能力がない。見たものをもう一度見たときに再認はできるが、あたかも幻覚のように、頭の中で「見る」ということはできない。能力が低いというより、まったく出来ない。丸や三角くらいだったらできないことはないが、それだって、本当に映像を見ているのか、そういう気がしているだけなのか、はっきりと区別は出来ない。もちろん、見たものを絵に描くことは出来るのだから、映像を「記憶」はしているはずで、それをだから、「上映」できないのだ。

奇妙なことに、音声については、これも断言は出来ないが、おそらく、「上演」能力はあるようだ。それは、内言をたしかに「聞いて」いると思われることからもいえる。また、頭の中で歌を歌って、そのリズムに乗ることも不可能ではない。この違いは何だろう。

ということを考えていて、パスワードをハッシュで保存して照合するのと同じだな、と考えた。

仮にSecondLifeをやるとして、何をしたものか。いまひとつ、アイディアがない。紅衣の騎士団でもやるか。昴さま!

そういえばMAD動画もたいして面白いと思ったことがない。ジャンル自体に興味がないらしい。

牛丼も吉野家に拘るひとの理由がわからない。松屋の方がおいしく感じる。というか豚丼のほうがおいしい。

ドラゴンボールがブウ篇以降も続いていたことを最近知った。

silverlight・・・いまさらだけど、Rubyでページのスクリプトがかけるっていうのはいいなあ。

不意に、むかし飼っていた猫のことを思い出した。

水に落ちた犬は叩くべき、というのはたしか魯迅。すくなくとも、死人にはむち打つべきだよな。死人はどうせ痛くも痒くもないし、自殺への抑止力にもなる。

黒人が大統領になるかどうかには、かなり興味がある。そのせいで、ヒラリーはちょっと霞みがち。

思えば、他人と感情を共有することに興味がない人間であった。たとえば、小学生のとき、母親に学校で起きたことを話したいと、ついぞ思ったことがない。モノローグには欲求があるが、報告したり、聞いてもらうことにはあんまり興味がない。むしろ、「知られる」という感じが強い。どうでもいいようなことでも、なるべく明かしたくないという衝動がある。だから、雑談が苦手だ。デフォルトが教えたくない、なんだから。教えたくないわけではないことでも、聞かせて何になるという気が強くある。つまり、自分の感想についての他人の感想に興味がない。自分の判断や考えに対する他人の判断や考えにはひとなみの興味はある。しかし、他人の感想にはまったく興味がない。困ったことだ。(しかし、妙なことに文章化されたものには興味があるんだから、むしろ,相手の感想について感想を述べなければいけない、という状況が嫌いなのかもしれない)自分のことを知ってほしい、なんて異常としか思えない。

叔母にいわせれば、他人を馬鹿にしているのだということだが、ぼくにはそもそもどうしてそういうことになるのか、いまひとつ理解できない。他人に興味がないのは他人を馬鹿にしていることになるのだろうか。飛躍しているような気がする。しかし、それは飛躍だと思うことが、すでにして私の高慢さの証なのだろうか。理屈では納得できなくはないのだが、ここは、どうしても、私には得心できないところなのだ。気持ち的に納得いかない。

他人の作ったモノ、考え、判断、作品、文章、そういうものには、興味があるのだから、他人は嫌いだが、人間は嫌いではない。ということは普通に、見られることや判断されること、リアクションを強制されることが嫌いだという、ごく普通のわがままということなのであろうか。そんな気もしてはくる。地獄とは視線であるというのはたしかに卓見だ。

ときどき、ソーカル事件をものすごく決定的なことのように語るひとを見る。そうはおもえないのだが。

実際のところ、貧乏に冷たいひとのかなりの部分が、貧乏とは不連続な変化だということの認識が不足だからという理由でそうしているのではないかという感じがする。自分の、生活の、レベルが、連続的にダウンしたものが、貧乏だと思っている。だが、貧乏とは、いくつかの境界線を越えると、がくんと別の次元に落ちるもので、階段状の不連続な変化のものだ。つまり、たとえばスーツがかえなければ端的に就職活動が出来ない。住所がなければ行政サービスも、そしてもちろん、家を借りることも出来ない。貧乏のもたらす困難は、多くの場合、可処分所得の連続的な大小として、一般的な生活水準の延長上に想像は出来ない。所持金が半分になった結果、ある線をこえたら、生活水準も半分になるわけはないのであって、あたりまえだが、ずっとひどくなる。「質の大小」は連続的変化だが、「モノの有無」は不連続変化で、貧乏の本質は後者であって、前者ではない。貧乏とは「ない」ことであって、「少ない」ことではない。

降り込められて

 割と誰にでもある感覚だと思うのだが、雨の日に屋内で逼塞していると、船乗りクプクプではないが、外が洪水で、船中にいて、というふうにしかもう思えなくなってくる。ひとたび海と決まれば漂流は必然、逼塞は一転して航海へと変わる。航海となればテラ・インコグニタ、未知の極地へとポオの短編張りに進むに決まっている。日に日に風は香気を孕み、水は澄み、そして危険なほど美しい。リーピチープは彼方への幼い日の憧れに突き動かされ、至る所に魔法が現れる。

 一炊の夢、しかし気が付けば極地はもう彼方に遠く、茫洋とした、至る所水平線の、ただなかに放り出されていて、漂流、潮の香りはあくまできつく、太陽は燦燦と異様なまでに決定的な沈黙の中で照り付け、事物という事物が、くっきりと、影もなく鮮やかに、現実そのもののディテールで迫ってくる。すれば、やってくるのは、体の痛みと空腹で、セオリーどおり、釣りでもはじめなければやっていられない。(ここに「老人と海」張りの海洋格闘もの的文章を各自想像で挿入。「白鯨」とまではいかない)と、水平線に小さな黒い点が見えて、それは無論、海賊船に決まっている。海は遭遇の場所であり、隔離ではなく接続のゾーンだ。

 海賊は筋骨たくましく、むさくるしい親爺とオリジナリティは不要、ナイフを突きつけるが、略奪すべき何者もないのを見て取り、さあ、戸板渡りの危機一髪の仕儀となるが、ここで世相に一筆媚びて、素性知れない若い娘の海賊が一味のうちにいたこととして、とはいえこの娘が除名嘆願の殊勝な振る舞いに及ぶわけではなく、まず先立って血に飢えている。そこで海賊、娯楽にともしいところで残酷なことを思いつき、目出度く戸板の上でナイフのやりあい、こちらが素人と見極めた上でのことだが、この娘、とはいえあまり大事にはされていないらしい。南洋のこととて、板の下にはいまだ人間には知られざる、深海に潜む多様な生物たちが腹をすかせて回遊し、海賊たちの騒ぎや身じろぎや波の音にもかかわらず、圧倒的な沈黙が支配する。

 あわや藻屑、海の贄かと陽光でナイフがぎらぎらときらめくのにもうんざりする頃おい、不意に、日がかげる。何かと見上げれば、見よ、日食がいままさに進行しつつあり、明るい闇が現出しつつある。その隙、娘に反撃しようとしてナイフを右のわき腹へと突き出すが、娘は咄嗟にそれをつかもうとし、その揺れで、渡された板が激しく動揺し、そのまま、抱き合うようにして海面へと落下するのを、あっけに取られて海賊たちが見守る中、海面には日食のせいでもなく、落下しつつあるものたちのものでもない、黒い影が急速に拡大し、それはまたたくまに生臭いにおいとともに莫大な水しぶきとなる。

 巨大な鯨が、打ち上げられたロケットのように、水面に飛び出し、そのすべてを包み隠す水しぶきのなかに、二人の姿は消えた。しぶきが消えたときにはもはや鯨の姿もなく、ただ水面にはきえやらなぬ泡立ちがいつまでも残っている。

 さて、意識を失った娘と少年は・・・・・・

声の名残、散乱の海

 苦しみから意識をそらせてみれば、かれは森の中にいた。苦しみは実体がなく、まるで内臓の不調のようで、先鋭ではないが去ろうとはせず、そして、得体が知れなかった。森は美しい多様な緑色で描かれていた。音楽はない。風もなく、指針もなく、北極星もない。あるのは、半端な苦しみだけだ。苦しみは意識をそらせ、かれを現在に、なかばしか存在させない。まるで、何もかもが、当座のもの、いい加減に、別のことをやりながらのようで、かれは自分が今そこにいる森が、まるで遠いもののように、憧れの対象のように心に映じるのを、どうしようもできない。

 ……そうじゃない。判断の基準がないんだ。どうすればいい。だめだ。ばらばらだ。

 筋の通らない切迫感に惑乱して、かれは不用意に踏み出した。地面はこれも無数の多様なこげ茶色。枯葉の堆積の中には、何億種もの虫がいる。その一瞬の想像に怯え、その怯えに無関心な森の静けさにかれは圧倒された。踏み出した足は柔らかな腐葉土に足跡をつけた。子供のように、それが新鮮に感じられて、かれはもう一度足跡をつける。踏みつけ、枯葉を乱し、並べ、キャンバスのように、まるで親しい女の肉体のように、その感触と戯れる。

 すると、猫がいた。瞳の黄金色の黒猫は尻尾を揺らめかせてかれを見つめていた。考えていることを測ることはできず、迷信的な恐怖と好奇心と、美しさへの賛嘆の念がかれを襲う。話しかけられるのではないかという恐怖がそこには色濃く溶け込んでいた。見られること、話しかけられることへの意識が、よみがえり、息の詰まるような感じを与えた。すると猫はついとあらぬ方へ視線をそらし、ほっとしたかれが思わずため息をつくと、そのときにはもう視線を戻して、かれのその反応を、物を見るように眺めやった。なぜかかれは失望した。ただしそれは自分への失望だった。まるで、試験に失敗したような、それは感情だった。

 永遠だか、数分だかが、たいした意味もなく経過した。猫はゆっくりと近づいてくると、かれのあしをしげしげと眺め、そして、やおら、意外と大きな口に剣呑な牙を見せ噛み付いた。かれは痛みよりも、意味がわからないという感情に支配されて、がっちりと噛み付いたまま動こうとしない猫を見つめた。だんだん、じんじんとした痛みが実感されてきて、とりあえずかれはあしを振ってみたが、猫はあしと一緒に振り回されるだけで、離れようとしない。どうすればいいのだろう。かれはあっさりと途方にくれた。

 仕方がないので、かれは、あしに黒猫を付属させたまま歩き出した。いつか、勝手に離れてくれるかもしれない。ずるずると噛み付いたまま猫は引きずられているが、苦にする様子もない。しばらく、獣道なのかもしれない、比較的木のならびがまばらな場所を歩いていると、目の前に明るみが見え始め、広い場所に出た。そこには、想像したとおり、一軒の小屋があった。古びた、みすぼらしいもので、人が住んでいるかどうか、いまひとつ判然としない。思わず、足元の猫に、かれは、問うように視線を送ったが、猫は噛み付きに余念がない。

 ほかに思案もないので、無策にもかれはドアへと漫然と近づいていった。ドアの周りには巻き割り用の切り株と、物騒な斧が放り出してある。井戸もその近くにあったが、なんだかそのことにかれは違和感を抱いた。上を見ると、蒼穹がどこまでも輝かしく、森のなかに切り取られた空間からのぞいている。

 不意に乱暴にドアが開いた。「で?」ひどく不機嫌そうな老婆だ。鼓動が早くなる。「そこ、邪魔なんだけどね」あーとかれが何とか何かをいおうとすると、不意に後ろから一人の奇妙な、どこか見知らぬわけではないような人物が現れて、勝手に返事をした。

 「ああ、すいません。私たちはこの先のランコイアからやってきた旅行者なのですが、森に入り込みすぎて公道を外れてしまって困っているのですよ。もしよろしかったら、一夜の宿をお借りできないでしょうか。いやなに、怪しいものではありませんよ。きちんと御代もお支払いしますよ。困ったときはお互い様ではありませんか。ゲデオンの神々もよそ者も歓待は千の千倍も来世では報われるとおっしゃっていることですし。いえいえたいしたものは要求しませんよ、辺鄙なところでご不便でしょうし」

 なんとなく、いやなやつだな、と思いながらかれは男の饒舌を傍観した。男はかれと同年代で、目の前のものを面白がっているような、人によっては不愉快なと評すであろうし、また別の人は愉快そうなと評するであろうような様子で、身に着けた旅装はくたびれていたがだらしなくはなく、むしろいかにも「らしい」という感じを与える。

 はじめて、かれは、ここはいつで、どこなのだろうという疑問を心に抱いた。

 「あんたは?」 うかうかとぼんやりしていたかれに、老婆はあごをやって指差す代わりにして詰問した。「人事みたいにしてるが、あんたは何なんだね。地面から今生まれたみたいな顔で突っ立ってこの御仁の言いなりになる気かね」

 「いや、その、ええ。そんな感じです」

 老婆はまじまじとかれの顔を珍しいもののように見つめ、それから何か諦念をこめてため息をつき、不意にきびすを返した。

 かれは一心不乱にいまだ噛み付いている猫を引きずりながら老婆についていった。


 「それで、あなたはどういう人なんですか」
 男はヨルと名乗り、ただの旅行者だ、と強調した。これは何語なんだろう? かれはまた奇妙な疑問に襲われた。それは簡単に答えられるはずの疑問であり、そもそも疑いが生じる余地などないはずの問いだった。まるで、何語でもなく何語でもあるような言葉が、存在しうるかのように、そのことに違和感を感じてしまったことにかれは、後ろめたさを感じた。愛想のよい旅行者ヨルは、それ以上のことをほとんど語らなかったが、国や時代を特定できるような特徴は、あるようでもあり、ないようでもあった。かれの語りは矛盾しているようでもあり、何かひとつキーさえみつければすぐに理解できるようでもあって、ランコイアというのはどこかの国の地方都市で、あるいはなにか小岩のような漢字を当てる日本の都市なのかも知れず、そのことすらさだかではなかった。

 ……いま、わたしは何を考えたのだろう。何か奇妙な齟齬がそこにはあったようだった。かれは薄暗い小屋の中に意味不明に噛み付きに固執する猫とひとりの胡散な男と老婆と座っていた。窓はあったが、光はあまり入ってきていない。だがなぜか、屋根の下はかれにとって心安らぐものだった。壁によって取り囲まれていれば、みられることが少ないからだ。それはかれ自身の想念のようでもあり、何か遠い啓示のかけらのようでもあった。

 困ったな、と思ったとき、不意にヨルが闇の中で口を開いた。

 「夜までは間もあることですし、話をしましょう。」

 旅行者ヨルは、こうして第一の話を語った。

 ……わたしはかつて一匹のネズミと相知っていました。(この言葉を聞くと、依然として噛み付きながらではあったけれども、黒猫がぴくりと耳を動かした)まったくけちなネズミでしたが、しかしただ勇敢であるということだけは否定できない、変わったネズミでした。このネズミは、問われるたびに別の名前を答えるので、結局私は本当の名前を知らずに終わったのですが、もしかすると、それこそがかれの何か理由の知れない矜持の表れだったのかもしれないのですが、ともあれ、このかれと私は、或るとき、ひとつの賭けをしたのです。

弱者という言葉 弱さの実体化と精神力は万人の共有という幻想

http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060727/1153958256

こういう言論の問題は、工夫する能力そのものが、環境次第で容易に欠損しうるということへの想像力がないことだ。工夫しさえすればよい。そのとおり。問題は、工夫する能力こそが物質的情況によって、まずはじめに失われるものだということだ。すべて、こういう議論は、ワーキング・プア関係でもそうだが、物質的情況は、精神を犯さないという前提がある。がんばる能力、工夫する能力こそが、物質的支援を何よりも必要とする、いちばん容易に喪失されるものなのだ。工夫できないということは、工夫しない、工夫したくないということではない。そのような読み替えこそが、つねに叱責の回路を可能にする。競争に伍せないということの、源泉の大きなもの、それは物質的リソース、手札の不足と同時に(とはいえ、まず何よりも絶対的な欠乏を無視してはいけない。そして、この欠乏は、実は、距離としては大きなものではない。ただ、不連続な、ある境界線に対して、「少し」足りない。そして、その「少し」が、たまたま、その「不連続線」をまたいでいるために、抵抗しようもなく、「絶対的」なのだ)、工夫し交渉する主体であることの不能性だ。精神は欠損する。そして、精神の欠損を、意志によって癒すことはできない。(ここでわたしは精神の病について述べているのではない。もっと広く、精神の情況、あるいは構成について述べている。程度の差はあれ、すべての人が、何がしか、何かの精神の欠損を持つ。そういう意味において、だ。)意志は、備わった能力を動員しうるだけだ。そこには、或る客観性が間違いなく存在する。

工夫できないということに対して、叱責や自己認識が役に立つのは、よほど、すでに、その欠損がいやされたフェーズにおいて、のみである。しかし、もちろん、このような言論は、必然的に泣き言として、あるいは甘やかしの言説として、読まれる運命を持つ。だが、そのような読み替えこそ安直なのだ。もちろん、自立の方向でしか支援は本来的に有効ではありえない。しかし、工夫し、交渉する狡猾さの育成というフェーズを抜きにして、自立はありえない。工夫し、交渉する狡猾さは、叱責や啓蒙によって、身につくということは、断じてありえない。叱責と啓蒙を重視する人々は、そもそも、精神論という「意志の万能」への幻想に陥っている。意志こそが、なによりも物質的リソースによって基礎付けられているのに。

意志とは精神のすばらしい世界、内面の奥底、美しい魂から、あるいは最近の「科学」主義の司祭たちの信じているような聖なる「遺伝子」からやってくる、万人に分け与えられた可能性、などではない。(それこそがアメリカン・ドリーム的セルフ・ヘルプの理念のマイナスの遺産だ)意志とは、一定の余裕のある人間が、それゆえに身につけることができる、ちょうど、学力などと同列の、ひとつの「能力」なのである。意志力を、失われえないもの、ででもあるかのように、他の能力に対して特別扱いしてはいけない。

そして、矛盾するようだけれども、ここでいうような議論において、つねに、弱者というものがあるかのように、実体化して語られることにも違和感がある。「弱者」というものがいる、という語りは、弱さを個人に帰属させ、その実体的な性質として語る。だが、それは、あからさまにフィクションだ。弱さとは、ひとつの関係における位置に過ぎない。弱者とはステータスだ。個人の属性ではない。弱さとは、相対的な関係のひとつのフェーズを語っているものにすぎない。弱さが個人に配当されるとき、そこには、慈善と憐憫と軽蔑の回路が同時に進行する。だが、弱さは個人の内部にあるのではなく、人と人との間にある。それは外部なのだ。そのことからどういう帰結が出てくるか。

意志や工夫の不能性や、学力や、物質的リソースや、手札や、信用の欠乏は、たしかに、個人に帰属しているかのように見える。そして、それが、たしかに、個人において現象していることは事実だ。しかし、それは、その個人において、欠乏がある、ということなのだ。問題は、唐突なようだけれども、「名前」なのである。いいかえれば、交換可能性だ。

誰もが、弱者でありうる。誰もが欠損しうる。誰もが、不能でありうる。違いは、固有名詞には、名前には、そして、あなたをあなたたらしめているもの(それが何であれ)には、ない。違いは、ただ、偶然と歴史にある。いや、違いは、ただ、あなたと他との関係と、その人と他との関係との、二つの関係の間にあった。

ややとっちらかった物言いをまとめていうと、「弱さの実体化、個人への帰属という語りは、『弱者』と『強者』の間の違いを、その個人の間の違いとして語ってしまう。しかし、違いは、『個人の間の違い』ではない。『個人の間の違い』は「個人が置かれていた情況の間の違い」の結果に過ぎない」

(勿論、勿論、われらのかけがえのない歴史が違いを生んだのではない、と云っているのではない。私たちの生と選択、過ぎ去った日々の無数の苦痛と幸福、意志と悔恨と、それらは無限の違いを生じさせた。にもかかわらず、私は云う。それは、やはり、情況の規定した一定の範囲の内部で、そうだったのだ。それは、まったく持って私たちの歴史の意味をむなしくしない。たとえば私の生は私が日本人に生まれたという事実に規定されているし、それゆえに、どうしても不可能なことがある。同じことは、わたしがこの時代に生まれたことによる制約をあげてもいい。しかし、そのような意味で、あらかじめ規定されていることがある、ということは、なんら、選択や意志をむなしくするものではないだろう。この二つのタイプの『違い』は尺度が、意味が違う。一方は、社会経済的な『範囲』での制約であり、これは越えられない限定をもつ。他方の違いは、「固有性」の度合いであり、それには、たしかに同じような意味では限定はない。異質性は無限でありうるが、程度は無限ではありえない)

弱さとは本質的にはステータスであり、確かに、そこにいるその人のその弱さは、実体的属性だが、第一にその属性が弱さとして現れるのは、特定の関係の効果でしかない。(身分制では生まれの悪さは弱さだろう。何が弱さになるかは情況の関数だ)そして第二に、その現状の社会において弱さとして存在するその特定の属性が彼・彼女に存在すること、そのものが、ひとつの、彼・彼女にとっての「本質ではなくステータス」なのだということだ。弱さの実体化の言説は、弱者ではないと信じる人々を、先天的に弱さの例外にすることへと貢献する。

これは、人は環境の奴隷である、というような、古臭い決定論にすぎないだろうか? 違う。おかれた関係の情況が同じならば、人はいくらでも、差異を生かせるだろう。意志は有効だし、工夫は無ではない。あたりまえだ。問題は、にもかかわらず、情況は、制約を課すし、場合によってはそうした制約は、孤立していては乗り越え不可能だ、という当たり前のことに過ぎない。結局のところ、主張はきわめて穏当なのだ。環境はひとに制約を課すし、それについては、意志や工夫や精神力は、まったく例外ではない。ということに過ぎない。決定ではなく、制約が問題なのである。しかし、そのような穏当な主張こそ、意志と工夫への幻想的な信頼によって、つねに踏みにじられている。

付記。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50579309.html
それはそれとしてこの議論も重要だと思う。また、いわゆるフロー強者の切迫感や被害者感情のようなものが、ストック強者へは向かわず、下へ向くという構造もあるだろうし、それゆえの「不安定な強者」が「より下」からの批判の矢面に立つとき、文句も言いたくなるというのも、わかる。しかしそれはやっぱり、筋違いなので、自分だってがんばったからこそ優位にいるんで、それだって全然安定してないんだ、というのは、まったく、それ自体としては正しい主張だけれども、それを、欠乏にさらされている劣位の人々に向けるところには、倒錯というか勘違いがあると思う。競争し続けなければいけないつらさの存在は、競争できないつらさを否定しない。どっちだってあるので、一方が他方の存在を否定することなどできはしない。そして、双方を認めたうえで、深刻度の違いはやっぱりあるだろう。

関連。
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20060727/wpoor
明晰。

追記
話者の意図は文章の意味とは別のものだから、敢えて書いたかどうかということは関係がない。この追記と同じ資格で、あれはわざと書いたという言明もまた余計な解説だ。たしかに、語り手をわたしが説得しようとしていたのなら、そうした誤認は問題だ。しかし、はなから、私は、語り手や語り手の意図など眼中にはない。こうした言論、と書いたのはそういうことだ。また、そうそう甘く見てはいけないのは、考えてもいないことは書けないということだ。本当の意見と価値判断が正反対のことを書くことはできる。しかし、それは「本当の意見」と同じ欠陥を分け持っている。ここで、奇妙にも感慨深いのは、意図や動機に、メディアリテラシーの言説でも、こうした、釣りや「芸としてのテキスト」のゲームという言説にしても、取り付かれているということだ。しかし、言説の効果への配慮に対して、言説の動機への配慮など、あまり実践的に実は意味があるものではない。思うに、こうしたスタイルの支配には、さんざ言い尽くされたことだが、「地下生活者の手記」のような、過剰な先回りの欲望、自己防衛が存在する。ただし、こうして、相手の言説を思慮ではなく欲望で読むという意味では、この解釈もそうした偏向をまぬかれてはいない。ただし、だから、とシニックな相対主義に陥るべきではない。問題は、そうしたメタ判断によって相手の言説の内容そのものの検討に先入見をもったり、検討を自らに免除してしまうことで、そうした詮索そのものではない。意図や動機ではなく、テキストの表現された限りでの目的へと焦点をずらせば、敢えて書いた、自己と異なる意見は、バフチン的に、自己の声の中に、対話相手として響く反論者の声だ。そこにこそ、本当の声というものが、もしあるのならむしろ漏れ出てくるという言い方もできるだろう。作者は死んでいるのだから、死者がまじめに述べたのかどうかなどというのは、遠い昔のエピソードにすぎない。エピソードとしては面白いけれども。

意志や精神力が、環境の制約の例外ではないということは、自己の苦境を他の責任に帰することを可能にするだろうか。実はそんなことはない。自分にとって、何ができることで、何ができないことかということは、やってみないとわからないのだから、つねに自分を、その可能性において過大評価すべきであり、実力において等身大に見るべきだ。たとえば、「自分は常に怠けていると考えよ。そして、他人は常に環境によって自分の責任ではない苦境に陥っていると考えよ。」そういう不公平な基準はそれなりに正当だ。(ただし、それを強いる権利は誰にもない。苦境にある人が自罰的になることが、当人にとってよく働くかどうかは、まったく持って状況しだいであり、他人が決めることではない)できることは何かという正確な線は、ひとは相手の内面生活など知りようがないのだから、自分と他人では評価基準が違うべきだということを意味するからだ。

要約すれば、一般的なファンタジーと異なり、意志や精神力もまた、リソースを必要とし、それを消費する。精神的なものもまた無料ではない。精神的なリソースは物質的なものとは限らないけれども、おおむね金銭的窮乏にともなって欠落していく。それは思考するための余暇や、ある種の思考のスタイルの習慣や、愛情や励ましをもたらす同胞の存在であったりする。信用も、教養もそういうものだろう。精神的なものだけは無から生み出せるというのが嘘だということだけにすぎない。そのことは、別に免責の言説でもなんでもないだろう。そのひとにそうしたリソースがあるかどうかが個別に検討されるべきだからだ。あることに「気がつく」かどうか、「その気になる」かどうか、それは、決して、そのひととおかれている状況と、独立してはいない。それは、それ以上でもそれ以下でもない。ただの事実だ。

ソビエト社会主義と、アメリカン・ドリームの共通点は、英雄を必要とすることだ。セルフ・ヘルプ、意志と努力の人、なるほど、彼や彼女は立派だ。しかし、英雄の存在は英雄の切り抜けた困難が、絶対的不可能ではないことを証明するが、非常な困難でないことはまったく証明しない。むしろ、英雄への賞賛こそが、暗黙のうちに、困難の実在を静かに語ってやまない。そして面白いのは、そうした、英雄たちは、誰よりも、自分がそうであった、そうなりかねなかった人々に厳しい。それは階級上昇した貧困者がひたすら上層の価値観に同化しようとし、下層にいっさいの共感を示さないのと似ている。(かれらは区別しなければならないのだ)そういう上昇した移民の態度というのは、アメリカの小説を呼んでいるとよく出てきて面白い。自分にだってできたのだから。しかし、かれらと自分は、本当に状況は同じなのだろうか。(人は忘れ、状況は見掛けは同じでも変わっていく)そしてなにより、社会経済的に何ができるかを考えるとき、余分の努力、凄い人、立派な人を、基準にして裁くのは、あきらかに倒錯している。下層は、強い意志と余分の努力の人であることを強いられ、普通であることは許されない。普通であることが許されないことこそ、不正の実在を語っているはずなのに。事実問題としてそういうものが必要だということと、そういうものが必要とされることは正当かということは、当然に、別問題だ。

状況をニーチェ的な強者の論理(すべてを、たとえ虚構的にであれ、私の責任、選択として引き受ける)で見るべきというのは、自己啓発セミナー的ではあるが、それなりに正しいだろう。しかし、それを他者を裁くのに用いることは傲慢以外の何者でもない。そしてしばしば、不思議なことに、他者に強者の論理を適用するのは、自分に対しては、「おしまいの人間」のごとく、現状維持を志向する人々なのである。フェアプレイを意図するなら、相手のハンデを支援すべきだ。それは同情の禁止の倫理と完全に両立する、誇りの論理だ。ニーチェは同時代の社会主義者を、民族主義者・国粋主義者を嫌悪したのと同じく嫌悪したが、しかし、支援は同情ではなく矜持によってこそ、むしろ必然なのではないか。

メディアリテラシー、あるいは解釈の優劣を競うことのむなしさ

http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20060725#1153746892

メディア・リテラシーについては以前書いた。

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20041206/1102344331

今読み返すと、かなり読みにくい文体で、いろいろ考えが変わっているところもある。(教育の必要、とか)しかし、あの頃から、メディアリテラシーを唱えることに感じる胡散臭さというのは、少しも変わっていない。そこで、改めて、いったいぜんたい、何故、安易なメディアリテラシー意識が、結果として、読み手が、自分の解釈で、テキストを好き勝手に判断してよい、テキストを尊重しなくていい、という陰謀論的な方向に向かってしまうのか、ということを考えてみた。

第一に、そして最終的に、基本にあるのは、われわれは、判断せざるを得ない、ということがある。メディアリテラシーは、少なくともその流布バージョンは、原則として、「何を疑うべきか」ということは教えるが、「何を信用すべきか」を教えることができない。これは相対主義から保守主義へのコース一般にいえることでもある。メディアの情報をすべて遮断したり無視したりしないのであれば、われわれは、「何を信用するか」という課題を持たざるをえない。しかし、メディアリテラシーは、われわれに何も信用するなといい、それが何であれ、われわれにそれを信用しない根拠を与えてくれる。「何かを信用しなければいけない一方で、何でも好きなものを信用しない根拠だけは手元にある」という状況では、われわれは消去法の見せ掛けにおいて、「あたかも仕方なく、であるかのように」、望むものを根拠なく信用することができる。なんにせよ、「何を信用するか」において基準がなく、「何を信用しないか」において基準がある、というとき、選択に恣意性が、しかも「消去法によって擬似的に根拠付けられた」恣意性が紛れ込むのは必然の結果だ。わたしたちは、冷静であること、いやいや判断しており、事実によって強いられている受動態であると思われたいと「心から強く」願っている。しかし、その欲望の強さこそが、われわれの論争的な偏向を何よりも証拠立てる。

もうひとつは、このわれらが解釈の時代に特有のことだけれども、誰もが、解釈だけでは正解にはたどり着けないし、逆にむしろ、解釈だけで正解にたどり着いたとしてもそれは偶然に過ぎないのだということを、忘れ去り、無視している。算数を習ったとき、答えだけがあっていてもいけない、式があっていないといけません、と言われたものだ。「もっとも適切な解釈」と「事実に即した解釈」はイコールではない。同じだけ情報しかないなら、もっとも合理的で適切な解釈というのを論じることには意味がある。このいわば「解釈論争」で勝つということは、事実に近づくことを意味するだろうか。残念ながら、必ずしもそうではない。「解釈としては正しくても事実としては間違っている」ということは、いくらでもありうる。しかし、そのことは、限られた情報の中で合理的に振舞うために、「適切な解釈」にリスク込みで賭けることを否定する根拠にはならない。しかし、逆に言えば、解釈の優劣というのは、それだけのものである。それ以上でも以下でもない。

一方では「解釈からいってそんなことはありえない」という整合性にもとづく蓋然的判断が、あたかも実証と同じレベルのものとして断定的に通用してしまうことが起こる。(……そんなことをなさる筈が……)それは実証だけを根拠にするなら起こりうるけれども、それでは私の解釈と整合性を欠く、などという論証は、ほとんど論証ではない。データの真理性そのものを既存の解釈との整合性が判断してしまうなら、解釈は自らを脅かすデータに出会うことができない。また、他方では、たまたま自分の解釈が事実に即していたからといって、論証過程を問わずに、もっとも、その時点で与えられていた情報から判断する限りで適切な解釈を選択した人々を嘲笑する人々も現れる。どちらの場合でも、自分たちが限定された条件のもとにいる、という認識の欠如が問題なのだ。

もちろん、すべてのメッセージはパフォーマンスとしての性格を持っており、そこに利害関心を読んだ上で、意識的・無意識的な歪曲に対して、修正を加えるべきだ、というのは、一応のところ正しい。しかし、そのように語り手にわれわれが想定する偏向によってメッセージを読み替えてしまうなら、そのわれわれが送り手の偏向についてもつ想定は、どのようにして変更されうるのか。そのレッテルの検証は、絶望的に困難になってしまうのではないか。誰が偏向しているか、という想定・レッテルこそが、もっともわれわれの主義主張という偏向によって恣意的に決定されることは、ばかばかしいほど日常的にわれわれが見せ付けられていることではないか。解釈学的循環、と人は言うかもしれない。たしかに、この状況は見かけほど自閉的で恣意的な状況ではない。見かけは悪循環のようでも、こういう循環を経て真実にたどり着くということが不可能ではないのは、自然科学をみればわかる。しかし、それは、あくまでも、検証が多様でありえるという条件のもとでのことである。つまり、解釈学的循環のような、一般的なループ状況に対して、メディアリテラシーをめぐる状況の救いがたさをもたらしているひとつの条件がある。それは、「送り手による判断」だけによっては、「送り手についての判断」は訂正されえない、ということだ。「送り手についての判断」は「送り手による判断」以外の方法によっても評価されたデータ、メッセージによってしか修正されえない。だから、俗流メディアリテラシーが唯一のもののように振り回す「人による判断」は、本来、複数の判断基準のひとつとしてしか、それ自体の有効性すら担保できない。ひとは既存の解釈や評価との整合性を無意識に重く見るものであり、あいまいな状況下では、「誰が何のために」という根拠からする判断ほど、それ自身の効果で累乗的にエスカレートするものはない。その行き着く先は、単に「党派的な」だけの判断だ。しかし、われわれは、このプロセスを、まさに、党派的であるまいとして始めたのではなかったか。

洗脳されまい、洗脳しようとしているように見えたくない、というのは、畢竟、論争的な配慮である。問うべきは、誰に同意するかではない。何に同意するかだ。反作用としての「用心」は、決してわれわれを真実へと近づけない。いわゆるメディアリテラシーは拒否の身振りであって、追求の身振りではない。拒否の身振りだけでは、われわれが何者かに落ち込むのを防ぐことはできない。突き止めるということ、考えるということは、問うことであって、答えることではない。どのような場合に信用しないか、ではなく、どのような場合に、そしてなによりも「どの程度だけ」信用するか、ということをこそ、考えるべきではないだろうか。すべてのひとを信用しないということは、畢竟独善に陥ることでしかない。特定の或る他者、教説だけを盲信するのと、自分だけ、自分の教説だけを盲信するのとでは、どれだけ距離があるというのだろうか。

失われた時を求めて、の囚われの女、と、蟲と眼球と殺菌消毒、を読んだ、読んでいる。途中なのは前者。

日日日は面白い。かなりはまっている。いま一番なのは凶華様だろう。それで、これはどういう高いハードルなのかわからないけれども、それでといっても、殆ど文脈と関係ないのだけれども、ヴィルパリジ老侯爵夫人と、極上生徒会のれーちゃん先輩との間には共通点がある。形容詞を三つ繰り返すところだ。

程度をあらわす副詞がかなりとかすごくとか、非常に退化していていかんともしがたい。これは明白な言葉の衰亡だ。

涼宮ハルヒの憂鬱について、セカイ系という指摘をするのは間違ってはいないが安易で、そこに批判とまではいかないが意識的に表面的構造として採用しているという事情があるのだから、そういう表面の構造を採用させている事情まで届かなくては、誰でも言える指摘に過ぎない。

ところで、神人について、使徒とかシシ神さまとか言っておいて、巨神兵に誰も言及しないのはどういうわけだと。(後で確認したら数人言及している人がいた)いうまでもなく、巨神兵ナウシカの/クシャナの子供という側面があった。腐り落ちていく巨神兵のフォルムの美しさ。

ハルヒは全能なのだから他者がいない、というべきではないのは、彼女にとって彼女こそが他者だからだ。自らを知ることができないのは、キョンや組織などの気遣いや努力によるものではない。彼女は守られている、保護されている、限定された領域内での裸の王様なのではない。そのような図式は、まさしく、そのように思いたいキョンや組織の(意識的な行為や理性の側に立つ、あえていえば男性的な)語りが擬制しているものにすぎない。彼女が彼女の真実を知らないのは構造的なより根本的な問題なのだ。原作読者は知っているが、キョンは一度真実を彼女に語っており、彼女は信じなかったのだ。ハルヒはむしろミダス王の立場にいる。

もちろんここから精神分析で人は己の欲望の真実を知りえないという在り来たりの命題にいくとものすごくつまらないのだけれども、本来の原作のテーマが時間テーマであるということ、そしてみくるの重要性、この二つの契機が割愛されざるをえないということは、やはり、アニメに一定の限界を課している。

時間テーマというのは、非常に、どうしても、狂気に関する命題なのである。

眼球抉子でグリコってセンスが大好きだ。

しかし、ここでわたしの接続詞の選び方が出鱈目であるということが露呈されつつあるのだけれど、蟲と眼球シリーズは、もうひとつの傑作「悪魔のミカタ」シリーズを想起させる。

谷川流にとって可能世界と固有名詞性と時間テーマという、クリプキというか永井均的というかライプニッツ的というか、相互に強く関連しあったテーマは基本的な重要性を持っている。ここで、不安な自己同一性というテーマはどうしても見なければならないだろう。同じ私であるということはどういうことなのか。改変された世界での貫世界同一性はどういうものか。

SOS団の日々をハルヒの視点で見るとき、それはまさしく完全に光画部的日常だろう。過剰な意味付けによって日常に無理に意味を付与していく試み、つねに見立てを繰り返し、世界を物語化しつつ、たまさかそこにその物語をもしやと信じつつも、結局は信じてはいない。あるいは、「あるとしかいえない」という名コピーのような日常。制御できる物語を享楽する主体たらんとする欲望。

したがって、むしろ、キョンにとっての真実は、ハルヒにとって無意識の恐怖の対象なのだ。なぜならそれは、「現実」なのだから。かなってしまう願望ほど恐ろしいものはない、というのは、最近のライトノベル作家が、期せずして語っていることではなかったか。それは、それが魅惑の対象であるのと同じことだ。フィクションを楽しんでいたらそれが現実だった、それは冷やりとする恐怖だ。小泉の組織が、理性を代理するというのは、より根源的な意味においてそうなのだ。

組織と芝居のテーマというのは、自我=理性が、本当に恐れているアブジェクトなことが現実化しないように別の耐えられる恐ろしいことを好んで想像し=実演してしまうというメカニズムと相同的だ。

ハルヒに願望実現能力があるという前提なら、ハルヒこそが語られることを望んでいないという議論も成り立つということに気が付くべきではないだろうか。

ところで実際、みくるは、いきなりものすごい鬱展開の主人公になっても全然おかしくない。日日日みたいなもっと残酷展開な作者なら、むしろ発狂フラグが立ってるくらいだ。実際には物語りのトーンからいってそこまではいかないだろうけれど。このことはいくら強調されてもいい。

ハルヒが日常を受け入れることが成長という視点には実際には根本に欺瞞がある。なぜなら、彼女の本当の現実は実際には侵食された日常であって、もはやいわゆる日常ではないからだ。したがって、むしろ、彼女が作り出そうとした「新世界」こそが、「不思議が排除されたいかにもな日常」だったのかもしれない。それはわれわれの現実とも微妙に違うだろう。なぜなら、われわれの現実もまた、侵食された日常だからだ。「完璧な日常」というのは、逆説的だけれども、物語の中にしかない。そしてこのことは、もちろん「消失」でほとんど完全な形で語られた。

もちろん、ハルヒトータル・リコール解釈というのはつねに成立する。

ところで、こうしたことに自覚的な作品としてフルメタをあげることは唐突だろうか。とくに最近の展開において。

これも関係ないがプルースト井上究一郎訳はものすごく読みにくい。断然、鈴木道彦訳。あと、女性に感情移入して読んでいると、語り手いやなやつだなあ。

学園祭の回の冒頭、おそらく異世界人であろう人影がうつっている。着ぐるみではないと思う。ただし原作とは姿が違う。

ハルヒの能力と「星へ行く船」。

ねらわれた学園」と朝比奈みくる。「時かけ」ではなく。高見沢みちると名前も似てるし。

ところで青空文庫に「私は海を抱きしめていたい」が入っていた。ユーモアたっぷりの「勉強記」や「金銭無情」もおすすめだけれども、こういう、ややもすると感傷的なものも、けっこういい。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42909_23103.html

これはもう別の話題で、欲望について、欲望は幸福との関係で生まれるものではない。幸福や快楽といった素敵な状態を享受することが欲望の目的ではないのだ。これはいわゆる「功利主義」がすべて勘違いしているところだと思う。欲望とは欠如の子であって、幸福の子ではない。欲望には厳密にいえば目的は無い。単にそれをしてしまうということ、それが欲望だ。

目的とするすばらしい状態や、その状態を想像することは、全然前提ではない。欲望は幸福をかなえたいのではない。それをしたいのだ。

つまり、意味も理由も目的も無く、単にそれを私にさせるもの、のことを欲望という。そして、幸福や快楽というのは、欲望にとってぜんぜん前提でも関連項目ですらない。ひとは不快や不幸を欲望する。もちろん、欲望されたものを、欲望されたということから、「定義上」、幸福や快楽として解釈することはできる。でも、それは都合のいい言葉の操作でしかない。

原理的には、快楽と欲望の間には、関係は無い。単に、二つが連結されているのは、結果として快楽を実現する事が多い欲望を人間が所有しているからで、このときの快楽や幸福と欲望との間の関係は、「たまたま、進化の過程で連結された、蓋然的な、非本質的な」つながりにすぎない。いいかえれば、たまたま、幸福や快楽につながりやすい欲望をもつ生体が生き残りやすかっただけなのだ。それ以上の意味は無い。


http://d.hatena.ne.jp/PEH01404/20060703

http://d.hatena.ne.jp/ontai-producer/20060705

はてな認証API

時々囲い込みという意見があるけど、違うと思う。はてなが、はてなのサービスを、認証しなければ使えなくするのであれば、囲い込みだけれども、認証を利用するのは、サードパーティなのだから、はてなに認証目当てに登録した人が、はてなを利用するかどうかは、ぜんぜん確保されない。

だから、このAPIをはてなユーザー向けのアプリのために利用する必然性も、実際には、まったくない。今後、そういうはてなのサービスとの連携を意識しない利用アプリが出れば、そうした意識も広まると思う。もう、MTのコメント用のプラグインはそういえば誰か作ったのだろうか。

あとこの件の、はてなアイディア、配当あるのかなあ。いまさらアイディアポイントもらっても、という気も少しするのだけれども。