フィクションの笑いと事実の笑い

 大江健三郎の『ピンチランナー調書』は、大江没後、雨後の筍のように叢生した大江論の中でも、あまり言及されることはない。この長編が新潮社から刊行されたのは一九七六年で、「哄笑の文学」として大きく宣伝されていた。その時中学二年生だった私は、二年後に高校一年生になって大江の初期作品を夢中になって読んだあとで、この最新長編を読み、失望するほかなかった。それは哄笑とはほど遠かったし、かといって大江の初期作品のような輝きもなかった。その後、この作品を再評価した人は私の知る限り、ない。
 当時、大江の盟友として知られた井上ひさしが、盛んに「笑いの文学の復権」などと言っていたが、柄谷行人は、「笑いの復権などと言っている者の書いたものが面白かったためしはない」と言っており、私もそれ以後、井上の演劇や小説の、どこがそんなに笑えるのか常に疑問に思ってきた。しかしこれも、実際に笑えるかどうかは別として、憲法九条擁護の姿勢と合わせてか、井上ひさしのファンは多い。
 大江が若いころ連続インタビューをしていたその一部は『世界の若者たち』に収められているが、そこに入っていない、大江より少し年長の小林信彦へのインタビューもあった。小林もまた『日本の喜劇人』のような評論で知られる多作な作家で、時に「笑い」をもたらす作家だと言われるし、自身でもそう自負している趣きがあったが、私はそれほど読んでいないとはいえ、ダミアン・フラナガン著、小林訳と銘打って出された『ちはやふる奥の細道』などは、西洋人が日本の古典をどう誤解したか、という趣旨の、抱腹絶倒の読物として刊行された。しかし、あとになって実際に読んだ私は、少しもおかしくないことに失望させられた。
 それ以来、「抱腹絶倒」という言葉が、宣伝文句であれ書評であれ、ついている書物で、実際にそうであった書物というものを、私は知らない。
 だが、私は『江藤淳大江健三郎』(筑摩書房)を書くために大江の書いたものをほぼ全部読んだが、そのエッセイには、思わず笑ってしまうような話がいくつもあり、私はいつか「大江さんおもしろ話」として編纂したいとすら思ったほどだった。たとえば、長男の大江光がテレビで相撲中継を観ていて、「前みつを早くとりたい出羽の花」とアナウンサーが言ったので、「アナウンサーが俳句を申しました」と大江に知らせに来る。大江が、それは季語がないね、と言うと、光は「出羽の花の花はどうでしょう」と言ったとか、その類の話である。
 私たちは、日常生活の中で、抱腹絶倒し、腹が痛い、というような経験をすることがあるが、それはたいてい、本を読んだりテレビで芸人の芸を観たりして起こるよりも、日常生活の中で実際に起きたことに対して笑いが止まらなくなるものだ。(もちろん、これに異論のある人はいるだろう)
 たとえば、お笑い芸人というのがいるが、彼らはしばしば、はじめは漫才師として出発するが、そのうち次第に独立して、司会者などとして、単独で、即興で面白いことを言うようになっていく。
 先日、黒川博行吉川英治文学賞を受賞して、その記者会見で、黒川作品では漫才のような会話が出てくるが、それは黒川が大阪人だからか、というような、まとめて言えばそういう質問が出て、黒川はその時、「漫才は嫌いです」とはっきり言った。調べてみると、十年前の直木賞受賞の時も、自作の会話を漫才と結びつける質問について、不本意だと言っていた。
 私が高校二年だった一九七九年にいわゆる「マンザイ」ブームが起き、それ以来ある意味ではずっとブームは続いているが、私も漫才は嫌いである。落語は好きだが、落語というのは決して笑うために聞くものではない。くすぐりもあるから笑うことはあるが、爆笑を期待して落語を聴くということは、落語好きにおいてはあまりないだろう。古今亭志ん朝の「駒長」とか「今戸の狐」のように、珍しいが初めて聞いたら本当におかしい落語というのもあることはあるが、例外である。漫才というのは、作ったもの、つまりフィクションで、聴いていても私は面白いとは思わない。むしろ、かつて笑福亭鶴瓶上岡龍太郎が「パペポTV」でやっていたようなフリー座談のほうがよほど面白いと思う。これもまた異論のある人が大勢いるだろうが、つまり私にとっては、作った笑いより、事実が喚起する笑いのほうが面白いのである。
 藤山寛美がやっていた松竹新喜劇はどうか、というと、私が子供のころ、藤山寛美が主演する舞台を中継するテレビ番組「藤山寛美三千六百秒」というのを民放でやっていたし、テレビで寛美の出る舞台を観る機会が多かった。だが、中で最も私の印象に残っているのは、寛美の芸に、相手役の俳優が笑ってしまって(いわゆる「ゲラ」)演技が続けられなくなった時のことで、要するにフィクションよりも実際に起きたことのほうが面白かったということだ。
 私はかねて私小説擁護論者で、モデル小説や実在の人物が出てくる歴史小説が好きなので、フィクションに対してあまり好きではないという感情を持っているが、かといって面白いと思ったフィクション小説がないわけではない。だが、漫才に関しては、面白いと思ったことがない。より正確にいえば、人造的にこしらえられた話によって心の底からの笑いを誘われることは少ないということだ。
 現代においては、ツイッター(X)などで、実際にあった話が簡潔に紹介されて、笑える話として人気を得ることがあるが、私にはそういう風に不意打ちに現れるものこそが実際には心から笑えるものであって、笑わせようと思って作ったものは、笑わせる力は強くないと考えている。もちろん、「喜劇」というものがあるけれど、それは本来はハッピーエンドで終わる劇のことで、「笑劇(ファルス)」とは別のものだし、ファルスの多くは、下品なネタで笑わせようとするものだ。大江健三郎が「笑い」の文学などを書こうとするのは、師である渡辺一夫ラブレーの翻訳の影響があるわけだが、ラブレーの作品は、「ふぐり」が並ぶあたりなど、私は面白く読んだが、別に声をあげて笑うようなところはなかった気がする。
 だが、私が見落としていた大江文献で、山口昌男の『文化人類学への招待』(岩波新書)に付録として書かれた文章で、多摩市で行われた山口の五回にわたる講座を大江が聴いたあと、山口を大江家に招いて食事をしながら話していると、族長をみなで卑しめるという儀礼についての話が出て、当時小学校の卒業を迎えていた次男・桜麻と思しい子供が、それなら、僕たちも校長先生を取り囲んでインブをからかう罵言を浴びせたらどうか、と発言し、笑いを誘ったという逸話で、これもいかにも「大江さん話」らしい。
 『ピンチランナー調書』が出た時、大江に西脇順三郎から手紙が来て、これからは諧謔の時代です、と書いてあったというのだが、これはちょっと意外な感じがする。西脇といえばむしろ君主主義者のT・S・エリオットを愛好する保守的な詩人で、のちに大江がエリオットをモティーフとする『僕が本当に若かった頃』を出した時、読者からその点での批判を受けたということがあった。その一方、西脇は慶大教授として、学生だった江藤淳をものすごく嫌っていて、そのために当時江藤の宿敵となっていた大江に手紙をよこしたのかもしれないと考えられもする。

(未完)

中西進と中村光夫について

Amazonで、私の「もし『源氏物語』の時代に芥川賞直木賞があったら」に、sasabonという人が2月26日づけでレビューを書いた。「目くじらを立てるほどではないですが、過去の名作を恣意的に「芥川賞・直木賞」に選定したというお遊び」というタイトルだ。以前はAmazonレビューにはコメント欄があったのだが、なくなってしまったし、私は昨年自分のAmazonレビューを削除されてから、レビューを書くことができなくなり、今Amazonを提訴する準備をしているところだが、なのでここで答える。

 まず「恣意的」ということだが、文学であれ美術であれ音楽であれ、最終的には評価は個人の主観であって、いくら説明しても相手が納得しなければ「恣意的」ということになる。

 それから、中西進が国文学界では異端と書いたことに不満のようだが、これは私の主観ではなく、客観的事実である。時おりこれを言うと、私が中西を攻撃しているように思って怒る人がいるのだが、どうも落ち着いてもらいたい。中西はかつて日本比較文学会の会長をしていたが、これも国文学界で異端だからで、私は筑波大学で中西に教わった加藤百合・現筑波大教授に、なぜ中西が異端なのか訊いたことがある。すると「比較文学なんかやるからですよ」ということだったが、私はあまり納得しなかった。次に、東大名誉教授で学士院会員の川本晧嗣比較文学)が、なぜ中西が異端なのか、当時東大教授だった小森陽一神野志隆光に聞いてみたら、二人ともせせら笑うばかりでまともに答えなかったというところから、小森や神野志共産党系の左翼だから、保守派の中西を嫌っているだけ、つまりイデオロギー的なものではないか、と話していたのだが、私の先輩で古田島洋介明星大学教授は、漢文学の人で、小堀桂一郎の弟子筋の右翼っぽい人だが、「どうせお前らの参照している『万葉集』は講談社文庫のだろう」と思う(この場合「お前」は私ではない)とせせら笑っていたことがあるので、イデオロギー的なものですらない。

 あと中村光夫に対して私が批判的なのが気に入らないというが、中村は私小説批判派で私は擁護派だから、それは『リアリズムの擁護』(新曜社)や『私小説のすすめ』(平凡社新書)に書いてあるので、読んでもらいたい。

 以上、sasabonさんへの回答であった。

小谷野敦

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音楽には物語がある(63)「或る日突然」と「Dear My Friend」  「中央公論」3月号

 「或る日突然」は、1969年に男女2人組のトワ・エ・モワが歌ってヒットした曲で、作詞は山上路夫(作曲・村井邦彦)である。私は当時小学校一年生だったし、その時はこの歌を聴いた記憶はなく、あとでマンガの中で人物が口ずさんでいるのを見たことがあるが、ちゃんと聴いたのは大人になってからだ。

 歌詞は、二人の男女が、これまで友達でいたのに、ある日突然、お互いに恋ごころを抱きあっていることに気づくという甘いものである。男女二人で交互に歌う形式で「いつかこうなることは、私には分かっていたの」などと歌うのが、どっちの気持ちなのか分からないように作ってある。ある意味で、これとは逆の設定を歌っているのが、Every Little Thing(ヴォーカルは持田香織)の「Dear My Friend」で、こちらは仲間数人組の中のある男女が、いつしか2人で会う機会が多くなっていて、男がある日突然、告白を始めるが、女のほうにはその気がなくて、振ってしまうという割と苛酷な歌なのだが、最初さっと聴くと気づかない。しかし気づくと、歌っているのが持田香織で、私は好きなので、持田に振られているようなややマゾヒスティックな快感すら覚える曲である。     私は長いことこれらの歌を聴いてきて、後者はいかにもありそうなことだが、前者はまずないシチュエーションではないかと思うようになった。

 男女が友達関係でいて、ある日突然、双方がお互いを好きであると気づくということは、ありそうもない。むしろ、友達関係でいた間に、どちらかがもう一人に恋愛感情を抱いているが、相手にその気がなさそうなので諦めているというのが普通ではなかろうか。どうもこの歌詞は「相思相愛」の幻想にとらえられている。

 一時期「セフレ」などと言われていた男女関係も、二人がともに「体だけの関係」と割り切ってのそれではなく、片方は恋愛感情を抱いているがもう片方はそれほどでもないまま肉体関係を続けているのをいうのだろうと私は考えていたが、間違ってはいないだろう。

 今年の大河ドラマで主演している吉高由里子が主演した「婚前特急」(2011)という映画でも、はじめ吉高は複数の男と関係しているアバズレ女の設定だったが、次第に様子がおかしくなっていって、その中の一番冴えない男と結婚してしまうというエンディングだった。

 金井克子が歌ってヒットした「他人の関係」(1973、有馬三恵子作詞、川口真作曲)は、それこそ「セフレ」かと思われるような冷淡な男女のセックス関係を歌っているようで、当時金井の手のアクションが面白かったので、小学生だった私も歌詞の意味も分からずそこだけ面白がっていたが、この歌は最後まで来ると、クールだったはずの女が、もし相手の男が自分を捨てて逃げるようなら必ず引き留めて見せる、という未練たっぷりぶりを見せる展開になっている。これは山口百恵の「Playback Part2」と同じ、冷たく見えた女が最後に普通の人情を持つことを示して聴き手の保守的な感覚を安心させる技術だとも言えるが、人間はそう冷酷ではないことを作詞家が知っているとも言える。もっとも「或る日突然」のケースだと、男女の間に友情は成り立たないのか、などと言われそうだが、むしろ話は逆で、同性異性を問わず、友情というのは恋愛の要素を含んでいると考えるべきだろう。「或る日突然」の作詞家は、それを知らなかったわけではなく、ちょっと奇を衒ってヒットを狙いに行って当たっただけだろう。

ケン・フォレット「大聖堂」が日本ではイマイチなのはなぜ

 先日、アメリカの作家ケン・フォレットが12世紀英国を舞台にして書いた大長編『大聖堂』について、これははじめ新潮文庫で翻訳が出たので、新潮社の校閲の人が原作のミスを見つけたという記事を読んだ。前から『大聖堂』は気になっていて、世界で二千万部のベストセラーだと言われていて、しかし長いので手をつけられずにいたのが、それで気になって、調べたらドラマになっているので、ドラマの第一回を観たがそれほど面白くはなかった。だが原作を借りてきて全三冊の上巻を読んだら面白かったのだが、周囲の人に訊いても、誰も「読んだ」という人がいないので、Xで投票にかけてみたら、読んだという人はごく少なく、大多数は「何それ、知らない」であった。

 それでも、もちろん普通の本よりは読まれているが、「ハリー・ポッター」に比べたらさしたる成功を収めていない。

 かつて渡部昇一は、アメリカの作家ハーマン・ウォークという、『ケイン号の反乱』で知られる作家が若い女を描いた『マージョリーモーニングスター』という長編を、初めて英語で読み通した小説だと言っていて、これは50年代にアメリカでベストセラーになり、日本でも翻訳されたのだが、ちっとも売れなかったようである。

 比較文学の世界では、「翻訳研究」というのが盛んで、たとえば日本文学がどのように英訳されたか、などを調べたものがあるのだが、私のようにカナダの大学で日本文学を学んだ人間には、さほど新味はない。これに対して四方田犬彦は、キティちゃんは世界的成功を収めたが、「ちびまる子ちゃん」は西洋では受けず、むしろアジア諸国マーケティングに成功しているということを言っていて、これは実証的研究の対象になりにくいのだが、私はむしろそっちのほうに面白みを感じる。つまり『大聖堂』はなぜ日本ではイマイチなのか。それは単に12世紀イングランドについて日本人が不案内だからなのか。まあ、そうかもしれないが、日本文学が源氏物語や川端から村上春樹までどう西洋に受け入れられたかを研究するというのは、どうも愛国的すぎて好きになれないところがある。むしろどういうコンテンツがどこで受け入れられ、どこでダメだったか、のほうが私の興味に合致するのである。

小谷野敦

川端康成と服部之総

大正15年末に、川端康成は伊豆の湯本館に滞在していた。そこへ大阪から梶井基次郎がやってきて、川端と知り合い、そこで肺病の養生をした。その時のことは『川端康成詳細年譜』(深澤晴美共編)に詳しく書いてあるが、服部之総は出てこない。

 しかし、京都精華大学斎藤光さんのXポストで、服部が「三十年」という随筆で、「私が川端と湯本館に来ているとき、彼(梶井)はこの湯川屋で肺病を養っていた」と書いているのを知った。この随筆の初出は『日教組教育新聞』1953年5月6日で、「明治維新史 付・原敬百歳』(新泉社、1972)に載っていて、『原敬百歳』という題でのち中公文庫に入っているが、どうもその時「6日」を「16日」と誤記したらしい。

 あと大久保典夫の『物語現代文学史 1920年代』(創林社1984)には、林房雄(本名・後藤寿夫)が「伊豆の湯ヶ島湯本館に出掛けた。そこに新人会員の服部之総(のちの歴史学者)がいて、同館滞在中の川端康成中河与一に紹介される。」とあり、これは『詳細年譜』にもあるが、服部の名は川端の文章にも、梶井の手紙にも出てこない。「川端と湯本館に来ているとき」という表現もちょっと疑問がある。

小谷野敦

N響アワーの芥川也寸志らの鼎談

N響アワー」という番組で、1985年から88年まで、私が大学三年生から大学院生だった時期に、芥川也寸志なかにし礼木村尚三郎の鼎談形式による司会がなされていたことがあった。芥川は文豪の息子で作曲家、なかにしは作詞家、木村は西洋史学者で東大教授という顔ぶれで、私は一年生の時木村の授業に出たことはあったが、大教室でマイクを使わず大声で叫ぶような授業をしていて、割とすぐ出るのをやめてしまった。

 だがこの三人はいかにも音楽に詳しくてダンディな三人という感じがして、当時私は、自分もこの人たちのようになりたい、という気持ちを抱いていたのを覚えている。もっとも芥川、なかにしは顔がいいので、私には無理だったろう。

 木村とは大学院へ行っても接点がなかったが、少しして60歳で定年になり、退官記念論文集みたいな『世界史を歩く』という本が、一般書みたいな感じで出て、見たら佐伯順子さんが寄稿していたので驚いた。修士時代に授業に出てでもいたのか、訊いたはずだが忘れてしまった。わりあい早く死んでしまったのは、あのマイクなしの大声のせいだったのかどうか。芥川も、父譲りの短命家系か、わりあい早く死んでしまった。