音楽には物語がある(64)堀江美都子の変革  「中央公論」2024年3月

 アニメ歌手として不動の地位を誇る堀江美都子(1957- )は、私が大学生のころにはすでに「堀江美都子大全集」などというLPが出るほどの大物だったが、私は関心はあったけれど、特にLPを買うとかファンクラブに入るとかいうほどのファンではなかった。しかしこの十年ほど、YouTubeであれこれの歌唱映像を見ていると、単に歌だけを聴いていたのとは違う魅力に気づかざるを得なくなってきた。

 もっとも、堀江美都子(ミッチ)のある種の独自性は、私が25歳のころ、特撮番組の音楽を集めたCDを買ったころにも気づいてはいて、それは、女性歌手で初めて、男子用戦闘もののアニメや特撮の主題歌を歌ったということで、これはミッチによる変革だったといえるのではないか。具体的に当時感銘を受けたのは「秘密戦隊ゴレンジャー」や「忍者キャプター」の、男性歌手と一緒に歌っているもののことである。もちろんその当時、フィリピンでは準国歌扱いだという「ボルテスV」は、ミッチの単独歌唱による曲としてあったわけだが。

 ミッチの「男子向け戦闘歌」の最初は、歌手としてのデビュー曲「紅三四郎」(1969)から始まっていると言ってよい。強靭な声で発せられる「ヤーッ!」とか「トーッ!」といった、特撮ものの歌唱は、当時はミッチ以外にやる女性歌手はいなかった。「アパッチ野球軍」(1971)も女性歌手(林恵々子)だったが、どうして? と思うくらい、力の入らない歌唱になってしまっている。「どろろ」(1969)の主題歌は声優の藤田淑子が歌っているが、もし藤田が戦闘歌を歌ったらそれなりの出来にはなっていたのではないかと思う。「キューティハニー」の前川陽子もそうだし、幾人か、男子向け戦闘ものの歌を歌えそうな女性歌手はいたが、本格的に進出したのはミッチであった。

 もちろん、ミッチの代表的な歌は「キャンディ♡キャンディ」なのだが、私は「キャンディ」のアニメは大ファンでも、ミッチの歌としては戦闘系のものに独自性を感じる。

 ミッチは、歌手としてだけではなく、声優としても活動しており、また初期には「宇宙鉄人キョーダイン」(1976)に女優として出演したり、NHK教育テレビの学童向け音楽番組「うたって・ゴー」に立川清登とともに「うたのおねえさん」として出演したり(1978、1981年)していたが、私はこの時期のミッチの不安定な感じが何ともいえず好きなのである。

 20歳を過ぎてからは、ミッチも顔だちが、美人と言わないまでもある程度「素敵なお姉さん」として安定し、ファンクラブの名前「トムボーイ」を思わせるボーイッシュな姿態が確定するのだが、それ以前は歌はうまいがそう美人でもない(本人は、体が丸くなると言っている)のが、何とも不安定なのだが、そこに妙な愛情を私は感じてしまう。いや、年上の人に愛情というのは失礼だが、その年代のミッチに対してという意味である。

 クラシック歌手の藍川由美が歌う軍歌も、ミッチの先例があったからできたことではないかと思う。フィリピンでは国賓扱いされたともいうし、所属事務所では「美空ひばりの次に偉い人」とされているというから、菊池寛賞でも授与してもいいんじゃないかと思う。私からすると五つ上のお姉さんだが、やはり自分と同世代のスターの一人である。

 

人にはそれぞれ理由が・・・

沖雅也が自殺した時(1983年)私は大学二年生だったが、東京へ向かう電車の中で二人のおじさんがその話をしていて「なんで自殺なんかするのかねえ、女でも作りゃいいんだよ」と言っているのを聞き(その時点ではまだ第一報しか入っていなかった)、沖雅也が女がいなくて自殺したと思っていることに少々驚いたことがある。

 ほかにも、北千住の駅の地下道で走っている人を見ながら、「何もそんなに急ぐことねえじゃねえか」と言っているおじさんを見て、いやその人には急ぐ理由もあるんだろうから何も知らずに言うのはどうか、と思ったことがある。

 最近ではあまりいなくなっただろうが、そのころはそんな風に、他人には自分の知らない理由があると思いつかない人がいたのだが、まあ単純に頭が悪かったのだろう。

 

歴史上の人物の名誉毀損

 新潮社のPR誌『波』に、俳優の高嶋政伸が「インティマシー・コーディネーター」というですます調の文章を書いている。私はほとんど観たことのない「大奥」というドラマで高嶋が徳川家慶の役をやり、自分の幼い女児に性的暴行を加える話を撮影するのに、役を演じる女児がトラウマにならないように配慮するのを統括する仕事の人のことで、高嶋自身もやたら配慮している。だがこのドラマは女が将軍をやる話ではなかったのか? まあそれはいい。

 しかし、私は一読して、そういう配慮を素晴らしいと思うより、そんなフィクションの映像をわざわざ作らなくてもいいではないかと思った。だいたい徳川家慶は歴史上の実在の人物で、自分の娘を強姦したなどという事実はない。いくら歴史上の人物とはいえ、これは名誉毀損ではないか? 考えてみるがいい、勝海舟近藤勇が女児強姦者だなどというドラマが作れるか? ジョージ・ワシントンやナポレオンがそういう変態だったなどというドラマが作れるか? あまり有名でないからといってなめているのではないか? 徳川黎明会は抗議しなかったのか?

 死者の名誉毀損は、事実ではない場合に成立するとされているが、これなどは法的にはともかく、ドラマを作る側の良識の問題ではないかと思う。

小谷野敦

 

宇野信夫『役者と噺家』九藝出版

これまた、読書メーターにはこの本の登録がないしするのでここに書いておく。歌舞伎の俳優と落語家の思い出噺だが、あまり有名どころは出てこず、不遇な役者、落語家が多いところがいい。特に、二代目の左団次が死んだあとの未亡人の零落ぶりが、はっとするほど胸をうつ。実は私は宇野信夫の戯曲はそれほど評価していないのだが、こういう随筆はいい。どこかで文庫とかにしないかしら。

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永井龍男「雑文集 ネクタイの幅」講談社、1975

何しろアマゾンレビューからは閉め出されているし、読書メーターにはこの本の登録がないしするのでここに書いておく。最初のほうはいかにも身辺雑記や天気の話などが多かったが、自作解説や他の文学者の話になると面白くなる。子母沢寛が『戊辰物語』をほとんど一人で書いた話とか、企業人の伝記を書いた話とか、『庄野潤三全集』の月報の島尾敏雄の文章の話とか、小説書き以外には特に関心のない丹羽文雄とかで、人が出てこないと面白くないようである。

小谷野敦

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創作「これはフィクションです」終

 ふと、蕨ミニシアターというストリップ劇場へ行ってみようか、と思った。これは九年くらい前に一度行ったことがある。埼玉県のさいたま市の南にちんまりと存在する蕨市蕨駅から歩いて少し行ったところにあるが、狭い階段を昇って行って、貧弱な楽屋みたいなところから入っていく実に小さな劇場だった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に「まことに小さな国が」とあるが、日本はツバルやバルバドスに比べたらまことに小さくはない。蕨ミニシアターは、その点、まことに小さい。だが、調べてみてすぐ、昨年の春蕨ミニシアターは火事に遭って焼けてしまい、いま再建運動をしていることが分かった。泉は、それではあの古ぼけた佇まいはもうなくなってしまうだろうと、寂しく思った。
  前に触れた榊敦子というトロント大学教授の英語の新刊『鉄道文学という物語理論』(Train Travel as Embodied Space=Time in Narrative Theory)というのが手に入ったので、まえがきを読み始めたら、二〇一七年から五年ほど、部位は分からないががんの治療をしていたと書いてあり、ちょっとショックを受けた。世話になった医師の名前がいちいち書いてあって謝辞となり、抗がん剤と手術で、一時は髪も抜けて、ウィッグで世話になった人の名前まで書いてあり、今では再発の可能性はゼロに近いとあったけれど、母語ではない国でそんな治療をしていて、さぞかし不安だったろうと考えると、昔からこの女性に対して抱いていた「(精神的に)勁い人だなあ」という感嘆の念がため息のように漏れる。自分なら、とても異国で三十年、四十年と一人暮らしをすることなど考えもつかないし、こんな風に冷静に自分のがん体験について英語で書くなどということは考えられない。やっぱり、海外で出世する人はそういうところが違うんだなあ、と少し落ち込んだりもする。
 そのあと、冬になった。人間は冬には一度くらい風邪をひくのが自然でいいと、泉は考えているが、コロナになってからは、風邪とコロナと区別がつきにくいから、風邪もひかないように気を付けていた。
  十二月はじめの月曜日のちょうどお昼ころ、電話が鳴った。とると女性が出て、営業かな、と思ったら、何とかがん保険の資料請求ありがとうございます、というようなことを言う。ぺらぺらしゃべり続ける相手をさえぎって、ちょっ、ちょっと待ってください、私が資料請求をしたんですか? と訊くと、はいと言うから時間を訊いてみると、夜中にウェブ上から請求があったといい、私の住所と生年月日まで言った。泉は住所も生年月日もある程度公開しているので、誰かがいたずらで請求をしたのかな、と思い、電話を切ったが、そのあとネットでその会社の電話番号を調べてみると、割と悪質な会社だったから、あれも嘘かもしれない、と思った。
 ところが翌日になると、A5版の大きさの霊園とか墓石の資料が届き始めた。はじめ五通くらい来たが、その次に来たのは、泉が若いころ知っていた女性の名前を私の宛名の下につけて「×××を囲む会」と書いてあったから、あっ、これはいやがらせだなと気づいたのである。その「囲む会」だけは、宅配便の人から手渡しされるくらい分厚くて、開けたら、スティールのメジャーや、墓石の見本が三個も入っていて、げんなりした。こういうのは「お前は墓へ行け」という脅迫の意味を持つのである。泉はこれを送ってきた千葉県野田のキンポール三宝堂というところへ電話したら、夜中の一時過ぎにウェブから資料請求したという。私は近所の警察署にも電話したら、生活安全課で、記録すると言ったが、少したって掛け直してきて、詳しい捜査はしないことになった、と言った。
 だが翌日も五通くらい霊園や墓石の案内は届き、そのうち一通には泉の前の妻の名前に「××××ファンクラブ」などと書いてあった。さらに翌日来た四通のうち一つは、前の妻と別れた時に脅迫状みたいのを送りつけてきた弁護士の名前が「××××を愛する会」として記入してあった。これは「犯人」がウェブ上で私の名前のあとにつけて書いたものである。
 「鮫嶋石材工業」「朋友」「中空の会」「株式会社犬塚」「終活と相続」……といった具合である。
 泉も精神的に参って、ズームでフランスの妻を呼び出して窮状を訴えた。妻は、もうそろそろ終わりになるよ、と言い、しかし夜中にパソコンに向かってちまちま他人の住所や生年月日を打ち込んでるって寂しい人生だねえ、と言った。それで泉は救われた気分になった。
 三月になって、妻がフランスから帰って来る日が決まった。泉は、成田エクスプレスに乗って、空港まで迎えに行った。妻の姿を見た時、ああソープ嬢とセックスしないで良かった、と思い、そう思ったことをソープ嬢まおみに対して申し訳なく思い、そう感じたことを妻に対してすまなく思った。
 帰りの成田エクスプレスに妻と並んで乗っている時、ああこれで自分はもうセックスをすることはないんだなあ、と泉は思った。泉は晩生だったから、初めてセックスをしたのは三十歳を過ぎてからだった。最後にしたのは五十ちょっと過ぎだったから、セックスをしていた期間というのは僅々二十年ちょっとでしかなかったんだなあ、と思い、まあそれもしょうがないか、と思った。するとちょっと目に涙が浮かんだので、妻に見えないようにそっと脇を向いた。もちろんこれはフィクションである。
 (終わり)

創作「これはフィクションです」(3)

 その夏は、どえらい暑さだった。地球温暖化がどんどんひどくなっているのではないかと、泉は不安になった。妻のいるフランスもかなり暑いらしかった。
 泉には、友達がいない。もちろん、学生時代の知り合いとかで、何かあったらメールするとかいう相手はいるが、酒を呑まないせいもあり、時どき会って酒を呑むという友達はいない。非常勤講師でも、講師控室で、ほかの非常勤の人と話が合えばラッキーだ。もう二十年くらい前に、さる大手大学で非常勤をしていた時、当時は講師室が喫煙可だったから、喫煙者の集まるテーブルがあり、そこで話していたのが楽しい思い出になっている。その時知った蒲生さんという、ノースロップ・フライの研究をしている人は、今では母校の落柿舎大学の教授になっている。いや、准教授だったかもしれない。
 紅子さんという人がいる。元吉原の高級ソープランド嬢で、今は引退して五十歳、高校生になる息子のいるシングルマザーで、二年前からYouTubeをやり、日本各地の元遊廓の写真を撮るアマチュア写真家でもある。もちろん仮名だが、「みなさん紅子です、お元気で、しょうかー」という語り口が柔らかで、チャンネル登録していつも観ている。子供のころは劣悪な環境だったらしく、世間からも爪はじきされていたようで、
当時から、こんな自分でも大人になって裸になったら人から相手にされるようになるんじゃないかと思っていて、中学卒業後、色々あってソープ嬢になり、三十五歳まで勤めていたという。
 その紅子さんが、猛暑の中、岐阜の金津園とか名古屋の中村遊廓とか、三重県渡鹿野島とかに出かけていって写真をとっているから、やはりソープ嬢をやっていたくらいで、頑丈な人なんだなあ、と思っていると、岐阜だったか、八十代後半くらいのおじいさんがソープの外で、「今日は出勤している女の子が少ないから」順番が回ってくるのを待っていた、という話をしているのを聞いて、そんなおじいさんでもソープへ行くなら、俺も行ってみるか、と泉は思った。
 泉は、世間の人が、風俗街というと、渋谷道玄坂を思うのはともかく、新宿歌舞伎町を想像するのが不快である。歌舞伎町はほとんどソープランドはないからである。そこで吉原のソープのウェブサイトをあちこち見て、調べた。「総額」は普通「入浴料」の三倍で、総額が書いてある店と、入浴料が書いてある店とがある。
 ところで、ソープといえばお風呂である。お風呂でソープ嬢といちゃついて、マット遊びからセックスというのが普通の流れだが、客が、お風呂はいい、といえばお風呂なしになることもあるらしい。
 泉は、実は風呂が嫌いである。思い返してみると、若いころから嫌いだったわけではなく、次第に嫌いになっていったようだが、それは阪神とか東北とかの地震を経験したことや、閉所恐怖症がひどくなったことと関係しているだろう。何しろ、入浴中に大きな地震があったら、それは恐ろしいことで、全裸で外へ飛び出すようなことになる。
 全裸になるのが嫌いなのかな、と思ったが、セックスの時だけは全裸になるのが楽しいから現金だし、そういう時に女と二人で風呂に入るのも好きなので、単に性欲が強いだけじゃないか、と思うのだが、まあそうなのだろう。
 とはいえ、病気は怖い。いくらエイズが昔のように死の病でなくなったといったって、エイズであれ梅毒であれ、性病なんぞにはなりたくない。だからセックスする時は、妻以外の相手とはコンドームをつける。ソープでは「ゴムなし」というサービスもあるというが、恐ろしいことである。そのへんが、泉がこれまでソープへ行かなかった理由の一つではあろう。
 さて、一週間ほど検討を重ねて、「黄金宮殿」という、総額五万円のソープへ行くことにした。なお、指名についてだが、ソープ嬢の指名は、先の元AV女優のように、この人、という目当てがない場合は、特に意味はない。目隠しをした写真で、これがいい、と思っても、実際には全然違うのが来ることもあるし、現在のソープで五万円も出せば、そうひどい嬢が来ることはないので、店任せでいいかということにした。
 明日はソープランドへ行くという日は、風呂に入ってシャワーで体を洗った。まるで初めてセックスに臨む童貞の若者のような気持ちになったが、ふと、これが生涯最後のセックスになるのかもしれないな、と頭を洗いながら考えた。湯舟に入るのは面倒なので、年に一回くらいしかないし、どうせ明日は風呂に入るのだと思った。
 ヘルスには何度も行っているしストリップ劇場のピンクルームというところでサーヴィスを受けたことはあるが、ソープは初めてだから、蒲団に入っても眠れず、ハルシオンを呑んで寝た。
 朝起きても、ちょっとどきどきする。ソープの予約は午後三時からなので、それまで本を読んだりネットを見たりして時間をつぶす。翻訳家の越懸澤(こしかけざわ)恭子という泉の二つ下の女性の、ノーベル文学賞についての論評が目に入り、泉はどきっとした。この人は昔から知っていて、何となく憧れの気持ちを持っているから、こういう高尚な話題を書いている人と、これからソープランドへ行こうとしている自分との落差が、悲しくなったからである。なるべくそのことは考えないようにして、昼は軽いものを食べて出かけた。
 吉原のソープは、だいたい三ノ輪の駅まで迎えのタクシーかハイヤーが来てくれる。泉は駅から出てタクシーが来るだろう場所に行って立っていたが、やりきれなさと罪悪感を感じてならなかった。タバコを喫っていた当時なら、喫うことで精神をハイにできたのだが、それができなくなっているため、しまったなと思ったが、タバコをいったんやめたあとでいきなり喫うと急性肺炎になる危険性があるからできない。こんな苦しい思いをしてなんでソープランドへ行かなければならないのかと思い、紅子さんが会ったという老人のように、若いころから気軽に行っているような人が一種羨ましくもあった。
 それでも、どんなに緊張していても時間はたち、タクシーに乗る。乗っていて、ふとタクシー内で気を失って死んでしまった西村賢太のことを思い出し、自分がそうならないように祈った。店に着くと、黒服に出迎えられて、待合室へ通った。ふと気が付くと、握った右手の中が汗でびっしょり濡れている。
 (奥さん、もうびっしょりじゃないですか)
 などという官能小説の一節を想像してみたが、少しも楽しくないし、エロい気分にもならない。するうち、ソープ嬢が来た。座って手をつき、
 「本日はご来店ありがとうございます。まおみと申します」
 などと言い、泉の先に立って部屋へ向かった。
 「今日はお仕事、お休みですかァ?」
 と訊かれ、
 「いえ、もう定年になりました」
 「まあ、悠々自適なンですね」
 と答える。「ン」を片仮名にしてみると、それらしく見える。
 言われるままに服を脱いだが、もとから別に立派な体ではなかったとはいえ、さすがに若いころとは違うであろう体をさらすのが恥ずかしく、ふと見るとペニスは気おくれのために萎え切ってウィンナソーセージの一片のようになっている。
 まおみという源氏名ソープ嬢は、泉と一緒に風呂に入り、「潜望鏡」という遊びをやってくれた。泉のペニスも、少し元気になってきた。それからマット・プレイになるのだが、何だか早く帰りたくなってきた泉は、マットを飛ばして布団に行ってくれ、と頼んだ。
 だが泉の頭には、
 (もし自分が教授だったら、こういうところへ来ているのはややスキャンダルだな)
 という想念が浮かび、だが非常勤講師でしかないからスキャンダル性はまったくない、とか、そのことを淋しく思う気持ちが芽生えて、ペニスはまたもしぼんでしまった。
 布団へ移ってペニスがしぼんでいることに気づいたソープ嬢まおみは、口でせっせと奉仕してくれ、ペニスはまた少し元気になった。まおみはコンドームを取り出して着けたが、その瞬間、再びペニスはしぼんでしまった。泉は、いくらなんでも焦った。もとから、こういうことが起きるんじゃないかと恐れていたのである。
 まおみは、口を使ってペニスを回復させてくれたが、コンドームを着けるとまたすぐしぼんでしまう。これが二度繰り返された。泉は、激しくタバコが喫いたくなった。だが、二〇〇〇年代になってから、喫煙するソープ嬢を嫌がる客のために、ソープも喫煙と禁煙の室に別れており、ここは禁煙だった。どのみち、実際に泉は喫煙はできないし、タバコも持ってきていない。まおみは、
 「ねえ、ゴムなしでもいいんだけど」
 と言った。泉は、背筋にぞうっと寒気が走り、いや、それはいい、と言って、
 「口で出してくれればいいから」
 と答えた。まおみはちょっと困った風ではあったが、実際には緊張して「できない」客は時どきいる。西村賢太が日記でソープへ行って、「当たり」とか「外れ」とか書いていたのは、実は中折れ、つまり自分が勃起できなかった時は「外れ」だということをインタビューで言っていた。もっともそのインタビュー自体が、四人くらいの風俗嬢に囲まれてのもので、エロ写真週刊誌に「クズ芥川賞作家の・・・」と恐ろしいタイトルをつけて掲載されたもので、もちろん西村賢太には黙ってしたことである。泉はそれを見て、世間というものの恐ろしさを感じたものだ。

 さて、まおみは口で出すよう努めたが、泉があまりに緊張し、さらにできなかったことで失望しているため、それもうまくいかなかった。
 「どうぞ、またおいでください」
 と言われて、「まおみ」と書かれ、店の名とメールアドレスなどが書かれた名刺を渡されて、タクシーに乗って帰った。
 家に着いた時は七時前だったが、精神的に疲れていて、服も着かえずにベッドに横になると、そのまま寝てしまった。
 目を覚ますと真っ暗で、もうすぐ九時になる頃おいだった。近所のドミノピザに電話してピザを出前してもらって食べた。
 その晩泉は、自分が定年を迎えて最後の授業(最終講義)をやり、女子学生から花束をもらう夢を見た。昔、NHKの朝の連続テレビ小説まんさくの花」で、高校の数学教師であるヒロインの父が定年を迎えて、最終講義として「π」の話をする逸話があったが、高校教師に最終講義なんてあるんだろうか、と後で思った。
(つづく)