無批判な?

身内(家族という意味ではない)に対する無批判な迎合(応援?)。
それに合わせて行われる、異質に対する無批判な反発。

生活の糧を得ていることに関わるのであっさりとはなんのことか書けないけど(……)、たとえ自分がそのことで「応援される側」だとしても、ぎょっとした。



私は、去年拾った、いまは自分の家にいる猫のことだけは、たとえ毎日どれだけ噛まれても、引っかきながら起こされても、とにかくとにかくとにかく、可愛いと思っている。

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ブログがまだ生きてた。。。
なんとなく、ほっとした。

マンゴーを買った。430円。

熟れてるかどうかの見分け方がわからない。
そういえば種のかたちもわからない。

母がまったくはじめて洋ナシをむいていたときのことを
思い出す。

とりとめもなく。
ずっとログインしていなかったホットメールは
見事に真っ白になっていた。

インドで

インドに旅行したとき、滞在10日めくらいのこと。毎日毎日、宿を一歩出れば、リキシャに乗れだの、どこどこに一緒に行ってくれだの、どこに行くのかだの、とにかく少なくとも数十メートルは声を掛けられるのに段々とイライラしていた。最初は面白かったけど。

"Where are you from?" というのも結構聞かれて、ジャパンと答えるのも無視するのもいいかげん面倒になってしまった。

つい、どうしても試したくなった。心の中で、在日のともだち、韓国人の知り合い、その他いろんな思いに頭を下げて、思い切って言ってみた。「Where are you from?」 と聞かれて、「コリア」と。思いがけないくらいの勇気がいった。

結局、インド人の態度はずっこけそうになるくらい、私がジャパニーズであろうがコリアンであろうが、まったく変わらなかった。そうか、そうなのか、と思った。

デリーのマクドナルドでイタリア人の女の人としゃべったときに、「ベトナム人?」と聞かれたのにはひっくりかえりそうになった。中国人か韓国人かと聞かれることは随分あったけど、ベトナム人とははじめてだったな。


南米の日系人についての講義を聞いていて、講師の人の話があまりに訥々と眠たかった。でも、途中でふとその人自身がボリビア生まれの日系2世であり、両親はオキナワ出身の移住者であると知り、そういうバックグラウンドの人が研究者であること、私はもう、その事実の前だけに立ちすくんでしまう。

よみがえる

ずーっとずーーっと過去のことばかり考えていたら、あるいは整理していたら、突然思い出す事柄があるらしく。思い出はときどき自分には大切なものなのに、自分以外の人にとってはまったくどうでもいいであろうことが悲しい。すごく悲しいと思う。

  • 針山とちらしずし

いま一度「結婚祝いはなにがいい?」と聞かれることがあれば、裁縫道具と答えたい。手元に簡単なソーイングセットなるものはあって、ここ4年ほどはそれで事足りてきたけれど、裁縫箱も持っていないことにふと心細くなる。裁ちばさみ、糸きりばさみ、指ぬき、いろんなボタンをいっぱい集めたの、なかから髪の毛がでてきてとても怖いと思っていた針山。針山に詰めてあるのは髪の毛だったから。いま針山ということばを思い出せただけでも、なんだか胸がいっぱいになってしまう。

私の母は別にほんとうになんということはない、私がおもうところのいわゆる田舎から京都にでてきて、そのあと結婚して大阪でこどもが産まれて。いまちょうど50才くらい。

そんな人生の母は、でも裁縫箱を持っていた。ハレの日はちらしずしだった。残ったちらしずしにはぬれ布巾をかけて置いてあった。そんなこんながとてもうらやましいと思う。

ちらしずしは「ごちそう」だと頭の片隅で思いつつ、私のちらしずしは『すし太郎』をまぜるだけ。それが悲しいことなのか、仕方のないことなのかは、正直なところいまは、そしてたぶんこれからも、あまり考えたくない。

  • 校歌と洗剤

国立の中学校に通ってた。その校歌が嫌いだった。もう忘れてしまったけれど、ようするに国立なので、何かに万歳を強制されるようなそんなかんじの校歌(だったと思う)。

全校朝礼があって、副委員長かなにかをやっていたので、クラスの整列の一番前に立たないといけなかった。で、校歌を歌うのだけど、嫌いだったからいつも歌わないでやりすごしていた。

そしたらこれまた大嫌いな音楽の教師がトトトとやっていて、「なぜ歌わん?」と言う。「歌いたくないから」。

「・・・・・・」。しばし無言のやりとりは続いて、突拍子もなく、「なあ、なんで洗剤を使って洗濯したらきれいになるかわかるか?」と聞かれた。「漂白剤が入ってるから」と答えた。
その瞬間、その先生は何も言わず、去っていった。

この前なぜだか突然このやりとりが頭によみがえって、あれは何やったのか、あの先生の言いたいことは何やったのか、いまだに分からなくてほとほと困ってしまった。中学生のころから、私は何も成長していないということかな。いま考えても傑作の返答だったと思うけどな。

ごめんなさい。

国民

「国民」「国民」「国民」とひとくくりに言われることに徹底的に反抗を感じながら、でも「国民」であることから逃れようはないんよねとうんざりしながらその覚悟をもつ。


自民大勝の結果がでた今、自省が必要なのは選挙に負けた政党だけではなく、自分のことを「知的エリート」(メディア、個人とも)やと思っている人たちやと思う。

「国民」がいちばん嫌いなのは、小泉首相でもなく自民党でもなく官僚でもなく民主党でもなく公務員でもなく、「知的エリート」やと思う。
偉そうなこといって、結局なにもせえへん人。本書いてるとか、意見してるとか、それは何かをしてるとは言わへんよ。
だってあなたが一番思ってるはず、「国民はアホ、なにもわかってない」と。


このままじゃ経済格差はどんどん広がるばかりなんよ。このままじゃ日本は危ない。

そう思って、そのことを伝えたいならばそのことを話さないといけない。
じゃあどうすればいいか、どうなればいいか、そのモデルを示して「国民」(大勢の意味かな)をまとめないと。マジョリティになるよう道をつけないと。
モデルを示せなんて言い方は、郵政法案に反対なら代替案を出せと民主党につっかかっていた小泉首相とおんなじやけど。

それができひんなら、大多数をまきこむことができないって認識するなら、「知的エリート」はそれぞれはほんとにちっぽけでその声なんてほんとに誰にも届いていないような小さなものであることを直視して、で、そのうえで誰に向けて話すかを、誰の心をつかみたいのか。

少数派であることのメリットなんてほとんどないと思うけどね。人と違うことに嬉しいって思うのは変な人。でも私は変な人が好き。
辻元清美みたいな言い草?



そして私はここまで書いて、書きっぱなしで、まだしばらくボーっと総選挙関連のテレビをみて、そして布団かぶって寝る。

2年前にアメリカに帰国した、自分と年齢がふたつみっつしか違わないアメリカ人の友人夫妻から、生まれた男の子の写真と新築庭付きの家の写真が送られてきた。すごく嬉しい。嬉しいんよ。
でも、いらいらしてしまう。イライライライラしてしまう。どうしよう。

奇妙な

ひとのページを読むのは大好きなのに、自分のページにはなにも書く気が起こらなくて。頭のなかと、ほんのときどきメモ用紙の上にだけ、ことばが出現。

普通に働きたい、バイトしたい、翻訳?、大学院、子供、猫、旅行、いろんな思いが浮かんでは消え、それでも週末は新聞の求人欄にそれとなく目を通してしまい。

平穏だから、これでいい。
数年前に買ったまま手をつけていなかった英語教材1年分とせっせせっせと格闘している。いつまでもいい加減なわたしの英語。できるでもない、できないでもない。語学の勉強の地道さに音をあげそうになりながら、でもとにかくこの教材を捨てたい一心で、そして元は取るよの大阪人の根性で、のこりはあと8ヵ月分。
11月に韓国人のともだちが結婚する。お母さんが来日されるそうなので、そのときには韓国語で挨拶したい。話をしたい。

今年のこりの目標は、フルマラソンを走ること。

気がついたら平穏にたどり着いていた。
平穏だから、これでいい。
そうは思ってもこれでだめなのだから、我ながらややこしい話。

こんなこと書いていったい誰になにをアピールしたいん?
ほんまにあほをさらすだけやなと思いつつ、きっとこのページをアップする。

もう関係ないのに8月=夏休み。その末日の、こころの迷いかな。

フルマラソンを走るころにはなにか違う局面に身をおいているかな。
それは3ヵ月後か、半年後か。

そのころにまた書けたらいいな。ああ、救いようのないあほー。

突如こんなにもあいだがあいてしまったら、もう読んでくれるひとはほとんどいないかなあと思いながら。

このブログになかった6月は、
前半は友達がたくさんいっぺんに家にきてくれて、母が来た。
そしてその母に「来週のおわりから一人旅にいってくるわ」と告げると、「結婚しているのになんでそんなことをする必要があるの」とそこまでとは思わぬくらいの猛反対にあい、ひたすらその反対は続いて、その反対がそのほかの要因ともごちゃごちゃになっていくのにげっそりし(念のため、母は心底わたしの心配をして、反対していたのだ、それは痛いほどわかってた)、ならばもう一人旅なんて取りやめようと、もぬけの殻になった。そしてそのあとの2日とちょっと、都合30時間、ひたすらウォンビンの韓国ドラマを見続けた。その後も朝昼晩朝昼晩朝昼晩と行きたい・行かないの心は変わり、家のなかには嵐の風が吹いていたことと思う。最終的に、買っていた航空チケットに記載された出発日3日前、「やっぱり行こう」と心が決まった。

それから一応はどこに行くかの足どりをリストにして、宿の予約と確認をこなした(とにもかくも家族への安心のため)。

インドへ2週間、そのあとロンドン、ポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、ロンドンと2週間、計4週間の一人旅。

でも、旅そのものよりも行く前の騒動のほうがよっぽど大変だった。

とはいいつつ、最後の最後の夜にのどを痛めたうえ、エア・インディアでロンドンからムンバイへ、そこで乗り換えてデリー・バンコク経由で帰ってきたルートはやっぱり疲れた。きっちり風邪ひいて、帰ってきて2日間は寝づめに寝た。

このあとは、心の整理を、逃げないでやらないといけないと思う。
それが終わったら、旅の整理もできたらいいのだけど。でも、その前にやらないといけないことがある。


ひとつだけ。
ロンドンのテロ第1報は、スロヴァキアにいるときに知った。
それを知った日は、本当に心底怖かった。帰りの飛行機はロンドン発、でももうそんなロンドンには戻りたくないとその日の夜は真剣に思った。
スロヴァキアで泊まっていた部屋にはたまたまテレビがあったけど、英語ニュースの流れるチャンネルがなく、文字スーパーすら流れない現地の言葉ではまったく様子がわからない。
挙句の果て、そんなさなかに隣の部屋のカップルから漂ってくる雰囲気に驚き、思わずスロヴァキア語のニュース番組もプチッと消してしまった。
まさに悩ましかった(はじめてこの単語、正しく使っている気がする)あの時間。

テロのロンドンに戻りたくないと咄嗟に、でも確実に思った私には、ジャーナリスト魂なんて宿ってないということかと思った。次の日からは、せっかくなんやから、そんなロンドンを見てみたいと思ったけど、でもそれは一晩寝て起きて思ったことだった。

結局ロンドンに戻った、7/12、13、14。あまりにもたくさんの警察官と警備員、そして花束。迂回しなければならなかった地下鉄。でも同時に、やまほどの観光客がいた。私もまた、そのうちのひとりだった。