神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正15年上海に寄港した軍艦出雲から京都の友人へ出された軍艦郵便


 平成27年みやこめっせの古本まつりで軍艦郵便の葉書が挟まった矢野峰人『近代英文学史』(第一書房、大正15年6月)を購入した。彙文堂の出品で1,000円ぐらいだったと思う。発信者は上海に寄港した岸本健雄で、消印は1926(大正15)年7月12日、MOJI(門司)局である。文面は同月9日付けで、上海に無事入港したこと、世界の自由市たる上海には東京も大阪も神戸も及ばないこと、香港へ向かって出港することなどが書かれている。
 岸本健雄は、大正15年3月31日付け『官報』で海軍機関少尉候補生の発令を受け、出雲への乗組を命じられたことが分かる。横山裕三『日本の軍艦郵便』(仙台優趣会・東北郵趣連盟、平成23年9月)の「少尉候補生遠洋練習航海」一覧表によると、第47回遠洋航海の閉囊交換局は門司で、期間は大正15年6月30日~昭和2年1月15日、艦隊(出雲・八雲)の行き先は上海、地中海、バタビア、マニラであった。
 岸本は、『陸海軍将官人事総覧海軍篇』(芙蓉書房出版、昭和56年9月)にも載らない無名の軍人である。しかし、海軍におけるラグビー史に名前が残っていた。高嶋航『軍隊とスポーツの近代』(青弓社平成27年8月)39頁から引用すると、

(略)海軍兵学校の英語教師ランダルが海軍機関学校にもチームをつくって練習しようと持ちかけた。(略)海軍機関学校側は慶大にコーチを受けたきりラグビーをしていなかったが、さいわい野球部の岸本健雄が京都一中(香山蕃*1の出身校)でラグビーをやった経験があるとのことで、彼を中心にチームが編成された。

 一方、受取人の寺井信は不詳である。『近代英文学史』を発行直後に購入しているようなので、相当の学歴を有するかと思いきや、第三高等学校京都帝国大学の卒業生に該当者はいない。『京阪神職業別電話名簿:昭和九年九月現在』(京阪神職業別電話名簿編纂所、昭和9年12月)には、同住所の寺井が鉄道小荷物扱所として挙がっている。その他、国会図書館デジタルコレクションにより、戦後の京大医学部事務長に同名の人物(岐阜県出身、明治38年生)がヒットするが同定はできない。タイトルでは、岸本の「友人」としたが、推測である。

 

*1:高嶋航『軍隊とスポーツの近代』33頁によると、東京帝国大学ラグビー部の創設者

『近代出版研究』3号(皓星社発売)4月刊行ー創刊号の拙稿が木村悠之介・荻原稔研究ノートで言及されるー


 『近代出版研究』(近代出版研究所発行・皓星社発売)が無事4月に刊行されるようだ。遅れるかと心配していたが、よかった。常連枠の拙稿は、「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークに関する一考察」です。全体の内容は、「近代出版研究 第3号 | 皓星社(こうせいしゃ) 図書出版とデータベース」を御覧ください。
 私は、過去創刊号に「日記のすき間から掘り出す近代日本出版史」を、2号に「日本初の健康雑誌だった『健康之友』(大正十三年五月創刊)について」を寄稿しています。このうち前者が木村悠之介・荻原稔「大成教禊教禊教会雑誌』解題・目次補遺」(『國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所年報』16号の「研究ノート」)で言及いただきました。ありがとうございます。引用すると、

2022年3月の『近代雑誌研究』では、古本マニアのブロガー「神保町のオタ」が菟道や本荘宗武ら雅学協会による1890年9月の『雅人』創刊に触れ、『雅人』や依田学海の日記から、菟道に関する伝記的事項を明らかにしている。

 木村さんとは、吉永進一さんに引っ張り出された古本バトルで初めてお目にかかりました。あれから5年も経ち、その間に吉永さんは遠くに旅立ってしまいました。2号で調べた健康雑誌なんかは吉永さんに相談したい事もあったけれど、しょうが無いですね。3号の寄稿は旧Twitterで蔵書印さんこと故青田寿美先生とセッションみたいなことをした話題で、先生がお元気なうちにまとめておけばよかったと悔やまれるところです。

吉永進一さんの三回忌に静坐社史料に関するワークショップ開催


 『図書』3月号(岩波書店)に、鼎談「現代に生きる仏教と仏教学ー『岩波 仏教辞典 第三版』二十一年ぶりの改訂」掲載。出席者は、大谷栄一・菊地大樹・末木文美士各先生である。一部を引用すると、

末木 グローバル化していく近代仏教について、お話しいただけますか。
大谷 (略)なかでも世界的に注目されているのが、近代仏教のグローバル化に貢献した「神智学」の役割です。(略)近代日本の仏教雑誌などを見ていると、「神智学」ということばがしばしば出てくるのにほとんどの研究者が注意を向けてこなかったのですが、二〇二二年に亡くなった吉永進一先生がその役割を明らかにされました。(略)

 吉永さんの研究により神智学関係の「オルコット」が『岩波仏教辞典』に立項されたのであろうことは、私も「雑学王吉永進一と雑学博士土屋元作が交錯したシカゴ万国宗教会議ー『岩波仏教辞典第三版』刊行ー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。
 その吉永さんが亡くなって今月31日で2年目、三回忌である。偶然らしいが、その日に吉永さんが発見した静坐社史料に関するワークショップが南山大学ライネルス中央図書館で開催される。「南山宗教文化研究所所蔵・静坐社史料から見える国際ネットワークとジェンダー 英文学と宗教学の交錯するところ」で、
詳しくは→NIRC参照。オンライン参加もあり。申込みは3月30日まで。また、3月28日まで展覧会も開催中。
 なお、静坐社史料については、ネットで読める栗田英彦「南山宗教文化研究所所蔵静坐社資料 : 解説と目録 - 国立国会図書館デジタルコレクション」がある。この57頁の「12 カメレオン」は、「カメレオン小劇団創立一周年記念私演」の「告知」である。内容の説明として「野村(?)」、「福田(?)」とあるのは、野村梅吉、福田信子と思われる。拙ブログ「新村出・成瀬無極の脚本朗読会カメレオンの会と小林参三郎・信子夫妻ーーそして谷村文庫の谷村一太郎もまたーー - 神保町系オタオタ日記」参照。

日本美術報国会による陸軍省及び海軍省への必勝絵馬献納


 日本画家土肥蒼樹宛葉書は、4枚所蔵。そのうち1枚は「竹内栖鳳門下の土肥蒼樹と新しき村の上田慶之助・高橋信之助 - 神保町系オタオタ日記」で紹介済みである。今回は、昭和19年3月□日消印の社団法人日本美術報国会*1からの葉書を紹介しよう。
 文面は、同会が企画した必勝絵馬が総点数4,340点、揮毫者2,169名(3月3日現在)となり、同月中に陸軍に献納する運びとなったとの報告である。また、献納に先立ち同月8日から12日まで三越本店で情報局後援の下に展示会を開催する旨の案内も記載されている。
 朝日新聞昭和19年2月2日朝刊には、「”決戦の翼“飾る絵馬/美報会員が彩管*2突撃」の見出しで、日本美術報国会による絵馬献納に関する記事が載っている。これによれば、第一線に出撃する勇士達の狭い飛行機や戦車の内部における激戦の合間の徒然を慰めるため、慰問用の絵馬を会長の横山大観以下藝術院会員、美報代議員、正会員計2,280名が各自1枚制作して陸軍記念日の3月10日までに陸軍省へ献納する予定であった。ところが、上記のとおり実際には陸軍記念日までに献納されず、同会が置かれた三越本店で展示会が開催された。1人1点ではなく、1人2点制作することになり、遅れたのかもしれない。
 飯野正仁編『戦時下日本美術年表:1930→1945』(藝華書院、平成25年9月)によれば、陸軍省に献納されたのは3月27日である。なお、海軍省にも献納が行われた。同年表に5月三越で展示会が開催された後、6月28日海軍省に2,681点が献納されたとある。
 必勝絵馬を献納した日本美術報国会がどのような団体であったかを見てみよう。『日本文化団体年鑑:昭和十八年版』(日本文化中央聯盟、昭和18年12月)から要約すると、

社]団法人日本美術報国会
所在地 東京都日本橋区室町一ノ七三 三越本店内
役員 会長 横山大観
   理事 安田靫彦、野田九浦(第一部会長)、山口蓬春、石井柏亭、辻永(第二部会長)、木村荘八、斎藤素巌、石井鶴三(第三部会長)、加藤顯清、香取秀真、高村豊周(第四部会長)、山崎覚太郎、児玉希望
    監事 大智勝観、太田三郎、関野聖雲、北原千鹿
組織 第一部(日本画)、第二部(油絵水彩)、第三部(彫塑)、第四部(工芸美術)。会員は美術家及び美術関係者
目的 肇国の精神の下に全日本美術家の総力を結集して、皇国の伝統と理想とを顕現する日本美術を振興し、進んで文化総動員の実を挙ぐ、以て大東亜文化の建設に挺身する
事業 一 皇国美術観の確立
   二 美術による国策宣揚並に戦力増強
   三 美術家の錬成
   四 国民精神の作興並に国民資質の向上
   五・六 略    
   七 戦争美術の振興
   八 皇軍将兵及産業戦士の慰問激励
   九~一八 略
沿革 昭和18年5月18日創立

 事業八の皇軍将兵の慰問激励の一環として、必勝絵馬の献納が行われたことになる。このような戦争協力を行った日本美術報国会は戦後役員が公職追放に該当する団体に指定される可能性があった。しかし、結局は指定されなかった。念のため上記大観会長以下の役員について『公職追放に関する覚書該当者名簿』(日比谷政経会、昭和24年*32月)を見ても、全員記載されていない。
 櫻本富雄が大部の『日本文学報国会:大東亜戦争下の文学者たち』(青木書店、平成7年6月)を刊行した社団法人日本文学報国会も指定されなかった。社団法人大日本言論報国会が指定されたのに対し、日本文学報国会が指定されたなかった経緯については、赤澤史朗・北河賢三編『文化とファシズム:戦時期日本における文化の光芒』(日本経済評論社、平成5年12月)の赤澤史朗「大日本言論報国会ー評論界と思想戦ー」に次のような記述がある。

団体解散令や公職追放を、GHQの中で担当したのは民政局である。その民政局の文書「日本文学報国会に関する調査」によると、民政局では言論報国会については、「強力な思想団体としての実体を有し思想戦遂行のための指導的影響力を実際に扱う存在」であったとして強力なファッショ的統制団体と位置づけているのに対し、日本文学報国会に対しては「単に芸術諸団体の範囲の一組織に過ぎない」との評価を下している。(略)

 この民政局の文書は、同書の注に国会図書館憲政資料室の所蔵とある。日本美術報国会に関する民政局の文書もどこかに残っているだろうか。そして、7千枚以上制作された必勝絵馬もどこかで見つかるだろうか。

*1:しばしば「大日本美術報国会」と誤記されているので、注意

*2:「彩管」は絵筆のことで、葉書の文面にも「彩管奉公」とある。

*3:奥付には昭和23年とあるが、正しくは昭和24年であることは「死してなお公職追放となった満川亀太郎 - 神保町系オタオタ日記」を参照

京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を


 先月の京都古書会館の古本まつりには、一時間ほど遅刻。それでも、シルヴァン書房から葉書2枚と本1冊を購入できた。今回紹介する昭和10年6月30日付け河合卯之助から高槻の吉田健治宛葉書は、300円。
 文面は一部しか解読できないが、「昨暁の大雷雨」がすさまじく、吉田のことを案じ、見舞う内容のようだ。昭和10年6月29日の「大雷雨」は、京都や大阪に大きな被害をもたらした。『京都府百年の年表7』(京都府、昭和45年3月)によれば、「梅雨前線による豪雨で市内各所の河川氾濫。未曽有の被害、死傷者83名、家屋被害43,289戸、鴨川氾濫により三条・五条大橋はじめ56橋流出」の被害があった。この鴨川大洪水の絵葉書はよく見かけますね。宛先の吉田が住む高槻の芥川も決壊寸前になったようだ。なお、吉田の経歴は不詳。
 昭和3年に向日窯を開窯した河合邸には、大きな被害はなかったようだ。河合紀編『河合卯之助遺文』(用美社、昭和58年3月)の略年譜には、昭和10年の条は存在しない。この年の河合の活動を同書収録の随筆から作成しておこう。

昭和10年冬 朝鮮旅行で李王家博物館を観たり、李朝の陶器を購入した*1
同年5月 京都大毎会館へバーナード・リーチの個展を観に行き、富本憲吉と出会う*2
同年11月15日 恩賜京都博物館へ本阿弥光悦展覧会を観に行く*3

 『河合卯之助遺文』の序文は、壽岳文章である。「河合さん一家とは、卯之助さん亡きあとも親近を重ねて今日に至っている」とあり、昭和8年から向日町に住んでいた壽岳は同じ向日町の文化人として河合と親しかったようだ。

*1:『河合卯之助遺文』の「冬の朝鮮」(昭和10年2月)

*2:『河合卯之助遺文』の「窯辺近事」(昭和10年6月)及び『生誕125年バーナード・リーチ展』(朝日新聞社平成24年)の年譜

*3:『河合卯之助遺文』の「光悦展を見て」(昭和10年12月)及び『日本美術年鑑昭和十一年版』(美術研究所、昭和11年10月)の「主要美術展覧会」

「聖戦技術協会」改め「常民生活科学技術協会」と渋沢敬三ー公文書館を使おうー


 @wogakuzuさんが《大川町の柳は大大阪の夢を見るか?》
https://twitter.com/wogakuzu/status/1751923395170857416#
をポスト。大大阪時代に淀屋橋南詰から西へ土佐堀川沿いにあった大川町遊歩道について調べて漫画にしたもので、とても面白くかつ勉強になった。特に大阪市公文書館で青焼きの設計図を発見していて感心した。
 私も調べるのは好きな方だが、古本漁りのほかはもっぱら図書館とネットに頼っていて、公文書館は使ったことがなかった。そこで、試しに国立公文書館の資料検索機能で二つのワードを調べてみた。「旅する巨人宮本常一と七三一部隊に協力した亀井貫一郎の聖戦技術協会 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した「聖戦技術協会」とそれを改称した「常民生活科学技術協会」である。さすがに前者は敗戦直後に関係文書を廃棄したようでヒットしない。ところが、後者はヒットした。「財団法人常民生活科学技術協会聯合国最高司令部第三一般命令ニ基ク協会概況報告(昭和20年)」である。「公開」とあるので、即日閲覧できるようだ。
 七三一部隊につながる聖戦技術協会が戦後常民生活科学技術協会に改称されたのは、戦時中にアチックミューゼアムを日本常民文化研究所に改称した渋沢敬三の入れ知恵だった可能性がある。渋沢は宮本常一を聖戦技術協会に取り込んだ人物だが、そもそも聖戦技術協会との関係が不明である。国立公文書館が所蔵する文書により謎の組織に迫れるだろうか。

牧野富太郎より知名度が高かった鳥居龍蔵の小学校退学問題


 平安蚤の市で独学修養会『名士成功実話:立志奮闘』(独学修養会、昭和8年4月初版・15年4月10版)を200円で購入。よくある独学者達の成功物語だが、田山花袋、私が私淑する鳥居龍蔵、最近旧蔵書が古書市場に出て話題の長谷川伸などが載っているので購入。非売品の冊子(63頁)である。どうせ国会図書館が所蔵してるだろうと思いながら買ったら、国会図書館サーチで全くヒットしないので、ホクホク。

 鳥居龍蔵については、次のような記述がある。

 紋章学の沼田頼輔、植物学の牧野富太郎、人類学の鳥居龍蔵、この三学者に対して夙に世に独学三博士の称がある。してこの中で、牧野、沼田両博士の名はよし気付ずとも、鳥居博士の名丈は恐らく誰も知らぬ人はあるまい。

 沼田は論外として、牧野よりも鳥居の方が世に知られた存在とすることに驚いた。現在では牧野の名前はよく知られているが、鳥居を知る人は一部の研究者や出身地である徳島県の人ぐらいではないだろうか。牧野の方は、新橋や神保町の通行人に聞けば、朝ドラ「らんまん」効果もあって100%近くの人が知っているだろう。一方、鳥居の方は、新橋では10%未満、本好きの人が多そうな神保町でも10%を超えるかどうか。徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の図録を売ってるすずらん通りの東方書店に出入りする客に聞けば、もっと多いかもしれない。
 牧野はもっぱら植物学の学者で、それに対して鳥居は考古学、人類学、民族学の学者であるほか、写楽に関する論考など幅広い分野で活躍した。国会図書館サーチで「出版年」を「~1933」に限定して、「著者・編者」をそれぞれで検索すると、牧野の277件に対して、鳥居は327件である。「ざっさくプラス」で同様に検索すると、牧野は80件、鳥居は754件もヒットする。やはり、鳥居の方が一般人が接する機会は多かったのかもしれない。
 また、本書には鳥居が「正式に小学校の課程すら踏まれて」いないことや小学校時代にしばしば落第したことが書かれている。これは、鳥居自身も『ある老学徒の手記』(朝日新聞社、昭和28年1月)で「私は尋常一、二年級の間に、二度落第した」、「小学二年の中途で退学された」と書いている。ところが、最近の研究によれば小学校退学は誤りで、卒業していたようだ。
 徳島県立鳥居龍蔵記念博物館鳥居龍蔵を語る会編『鳥居龍蔵の学問と世界』(思文閣出版、令和2年12月)の天羽利夫「人類学者鳥居龍蔵の学問と人物像」によれば、鳥居の遺品から卒業証書が11通確認され、

長谷川は、現存する証書からすると「後の小学校尋常科に相当する下等科を終えており、小学校教育における一定の区切りをつけていたこと、小学校を退学しているが少なくとも公式には二年中退の退学ではなかった」と推論している*1

 鳥居は、小学校の少なくとも下等科は卒業していたことになる。本人の回想は当てにならないものである。更に『ある老学徒の手記』で教師と卒業証書の重要性を巡って「むしろ家庭にあって静かに勉強して自己を研鑽して学問をする方が勝っている」と主張したとある点も、今回入手した本では校長との議論だった。出典は「小学校時代の回顧談」のようだが、具体的には不明である。校長とのやり取りが詳しく書いてあるので、情報提供として写真を挙げておく。
参考:「鳥居龍蔵の次男鳥居龍次郎に「先ずは鳥居龍蔵全集を読んで」と言われたオタどん - 神保町系オタオタ日記

*1:長谷川賢二「鳥居龍蔵の小学校学歴に関する資料と検討ー履歴書・回顧文・卒業証書」『徳島県立鳥居龍蔵記念博物館研究報告』3号,徳島県立鳥居龍蔵記念博物館,平成29年3月。「https://torii-museum.bunmori.tokushima.jp/download.html」から読める。