神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

パステル画家矢崎千代二と近角常観を繋ぐネットワーク


 何となく面白そうと思って横田香世『パステル画家矢崎千代二:風景の鼓動を写す』(思文閣出版、令和5年6月)を読んでみた。そうすると、71頁に驚く記述を発見。大正8年に中国旅行から一旦帰国した画家矢崎が渡印の援助を求めた可能性のある人名の一覧に関する記述である。「スクラップブック」のインド関連資料の中に貼られ、22名の名前が記されていた。一覧の端には「○印は交渉済み」と書かれていた。そして、

 その○印がつけられた一四名を記載順に記すと、近角先生(近角常観か)、帝大講師・常盤大定、帝大教授・高楠順次郞、帝大講師・島地大等、帝大学士員[ママ]*1会員・南條文雄、文学博士・前田慧雲、帝大教授・村上専精、文部省技師・中川忠順、孝修[ママ]*2官・荻野仲三郎、帝大教授・瀧精一、藝術院長・森鴎外、帝大教授・伊東忠太、宗教局長・柴田局長、常盤(ママ)井尭猷(常磐井尭猷)となっている。また、○印は付されていないが「西・大谷光瑞上人、東・大谷光演上人」の名もあり、ほとんどが仏教学者、宗教家である。

( )内は横田氏による注、[ ]内は神保町のオタによる注

 引用文に名前が出てこない残りの6名は、一覧の写真を見ると、正木直彦、大村西崖、□本□三郎、關野貞、九鬼隆一、榊博士である。「□本□三郎」は紙の折り目の部分に書かれていて肩書きも含めて判読しにくいが、当時京都帝国大学文学部教授だった松本文三郎と思われる。榊博士は「京帝大教授」の肩書きがあるので、榊亮三郎である。
 これらの人物の関係を調べてみよう。「近角常観研究資料サイト」で見られる近角常観が主宰した『求道』1巻1号(求道発行所、明治37年2月)掲載の「求道会館設立趣意書」の賛助者として、荻野*3、高楠、常盤、南條、前田、松本、村上の名がある。また、一覧の肩書きに「帝大教授」とあるのは東京帝国大学教授のことで、記載がないものの前田は同大学文学部講師(印度哲学)、中川は同学部講師(日本美術史)でもある。更に、岩田文昭『近代仏教と青年:近角常観とその時代』(岩波書店平成26年8月)32頁に書かれているように、常盤は近角と同じ明治31年東京帝国大学文科大学哲学科卒業である。前年には瀧が同科を卒業など、半数が東大卒である。
 この一覧について、横田氏は、各人の肩書きや氏名は矢崎の筆跡ではないと思われるが、「○印は交渉済み」の覚書は矢崎本人が記したものと判じられるとしている。とすると、矢崎から支援者の候補を尋ねられた人物が矢崎に渡した一覧だろうか。近角を「先生」と呼び、多くの仏教学者や宗教家とネットワークを持っていたと思われるこの人物は、いったい誰だろうか。

*1:正しくは、帝国学士院

*2:正しくは、考證

*3:「萩野仲三郎」と誤植

上林暁の妻徳廣繁子と徳正寺の井上正子ー京都第一高等女学校の同窓会誌『鴨沂会雑誌』ー


 井上迅編『ためさるる日:井上正子日記1918-1922』(法藏館、令和5年11月)大正11年5月11日の条に鴨沂会が出てくる。鴨沂会は、正子が同年4月本科5年に入学した京都府立京都第一高等女学校の同窓会である。同会の機関誌『鴨沂会雑誌』を数冊持っているので、パラパラ見てみた。すると、53号(京都鴨沂会、大正12年12月)の「会員名簿」の「大十二、本」の条に「在国 京都市富小路四条南三十九 井上正子」とあった。前掲書の略年譜によれば、正子は同校本科を大正12年3月卒業後、同年4月同校国語漢文専攻科入学、15年3月卒業である。残念ながら、正子の寄稿はないが、名前を見つけただけで嬉しくなる。
 もう1冊、66号(京都鴨沂会、昭和5年7月)の「転居改姓」に「昭二本 東京市本郷区駒込駒込アパートメント 田島改 徳廣繁子」とあった。上林暁(本名・徳廣巖城)の妻繁子ですね。山本善行編『文と本と旅と:上林暁精選随筆集』(中公文庫、令和4年7月)の「京都の思い出」*1によれば、繁子は錦林小学校卒業後の第一高等女学校5年生だった大正15年の夏に上林と見合いしている。逆算すると、大正11年に同校入学である。正子とは、4年間在学期間が重なる。学年が異なるので、話す機会はほとんど無かったかもしれない。しかし、正子と繁子が女学校で同じ空気を吸っていたと思うと面白い話である。

*1:初出は、『洛味』昭和25年4月号

『京都吉田忠商報 きもの』へ寄稿した作家・詩人達ー大阪高島屋の今竹七郎と吉忠の上田葆の時代ー

 平成17年10月から11月にかけて西宮市大谷記念美術館で、「生誕100年 今竹七郎大百科展」 が開催された。南陀楼さんがブログ「朝6時に大阪で、夜10時は神戸だった - ナンダロウアヤシゲな日々」で紹介されていたので、私も観に行ったと思う。図録を見ると、今竹が表紙を描いた京都の吉田忠商店(現吉忠)の商報『京都吉田忠商報 きもの』4冊がカラーで掲載されている。表紙が今竹というだけで注目すべき雑誌だが、寄稿者も超絶であった。
 京都の古書店ワキヤ書房の脇清吉が主宰した『プレスアルト』22・24輯(プレスアルト研究会、昭和13年10月・14年1月)に掲載された上田葆(吉田忠商店宣伝部長)「編輯者の手帖」から商報に寄稿されたであろう随筆、詩などを要約しておこう。

10月19日 邦枝完二、藤澤桓夫が執筆快諾。宇野千代から「バタ臭さと粋さ」
10月22日 小寺菊子から「色に苦労する」
10月26日 南海高島屋に今竹を訪ね、12月号の表紙を依頼
10月27日 椋鳩十から原稿
10月29日 宮本三郎のカット(ほとんど裸婦)
11月19日 深尾須磨子から「きものの幻想」
11月23日 吉田謙吉が原稿承知。吉井勇から随筆に代えて「きもの」に関する歌15首にしたいという手紙
12月4日 堀口大學から春の主調色に因んだ詩
12月7日 次の表紙に今竹、カットに新人金野*1を推薦
12月13日 宇野三吾を訪ね、田中佐一郎と海老原*2のカットを貰う

 豪華な執筆、挿画陣ですね。この商報は、国会図書館サーチや美術図書館横断検索では全くヒットしない。『大阪における近代商業デザインの調査研究:2000年度サントリー文化財団助成研究報告』(平成14年10月)の下村朝香「戦前までの今竹七郎のデザイン活動」により、大谷記念美術館が昭和13年12月号~14年6月号までの7冊を所蔵していることが確認できるぐらいである*3。戦後も発行されていて、安西冬衛の日記*4昭和26年4月9日及び11日の条で吉忠の上田葆に「きもの」の詩の原稿を渡したことが分かる。いったいどれだけ未知の随筆、詩、短歌、表紙、挿画が埋もれていることか。ある程度は吉忠に残っているのだろうか。

*1:金野弘と思われる。

*2:海老原喜之助と思われる。

*3:追記:大阪中之島美術館が『プレスアルト』8輯(昭和12年8月)、13輯(13年1月)、14輯(同年2月)、17輯(同年5月)に綴込まれた商報を所蔵しているようだ。

*4:安西冬衛全集九巻』(寶文館出版、昭和57年7月)

静坐社に参加した福田與の旧蔵書が古書市場にー吉永進一さんの追悼としてー


 3月31日は、吉永進一さんの命日でした。吉永さんが発見した静坐社の資料に係わる研究会が南山大学であるというので、のぞいてきました。発表は、栗田英彦「京都静坐社の人脈に見る宗教・文学・女性」と雲島知恵「静坐社資料に見る戦間期女性文筆家の国際ネットワークと日本文学の英語翻訳:小林信子訳 The sketch book of the Lady Sei Shōnagon を糸口に」。関係者の皆様、ありがとうございました。
 吉永さんが蒔いた種が栗田先生らを中心に順調に育っていることがうかがえて、感慨深いものがありました。また、静坐社資料が静坐社そのものに関心のある研究者だけではなく、近代仏教や英文学など、多彩な分野の研究者が注目する資料が含まれていることも実感できました。やはり、一次資料の保存・公開・活用は重要ですね。
 雲島先生の発表の中で「もしや?」と思った人名については、さすがA先生が質問しておられた。私がビビビと来た背景について説明しておこう。劇作家秋田雨雀の日記には、栗田先生が静坐社の国際的人脈として挙げるミラ・リシャールが夫のポール・リシャールと共に*1、ビアトリス鈴木が夫の大拙と共に*2登場する。そして、アレキサンダーの名前もそれらと同時に登場している。更に秋田は、静坐社の創設者小林信子が参加した京都の脚本朗読会「カメレオン」にも参加している*3。これらは日記に断片的に出てくるので、アレキサンダーと信子や静坐社との関係は不明である。
 もう一人、私が連想したのは戦前の静坐社に短期間参加した福田與という女性である。與は、京都市立崇仁小学校や京都府立盲学校の教諭であった。この女性も注目すべき人物で、多くの求道者との関わりがある。静坐社には発起人の一人である足利浄円の勧めで参加した*4。そして、戦後のことではあるが昭和27年に再来日*5したアレキサンダーと会っている。これは、與の『草の花:歌集』(初音書房、昭和37年7月)の昭和27年の条に「アレキサンダ女史」の前書きで4首掲載されていることで確認できる。その1首には、「国々を旅してここに五十年バハイの教をときひろめ給ふ」とある*6
 この注目すべき與の旧蔵書が、昨年知恩寺の古本まつりで竹岡書店の均一台に出現した。最初に見つけたのは、青山廣志編『芦田恵之助先生七十八歳の教壇記録』(いずみ会、昭和38年11月)で「福田與」と記されていた。これで、残りの会期中パトロールすることになった。

 その成果が、師友の没日一覧に書き込み多数の前掲歌集である。府立図書館所蔵分には3人の没日の訂正がされているが、本書には同じ筆蹟で他に4名分の訂正と100人近い追記がなされている。こちらには署名はない。しかし、與による書き込みと見てよいだろう。秦テルヲ、岡田幡[ママ]陽*7、若原史明*8、芦田が出てくる頁を挙げておく。與がアレキサンダーに会った際に集まった7人の中に信子はいただろうか。

『小林一三日記』全3巻が3月31日まで驚異の安価で発売中


 昨年が小林一三生誕150年ということで、逸翁美術館では『小林一三日記』全3巻(阪急電鉄、平成3年6月)を2,900円(税込)で3月31日まで発売中。「日本の古本屋」では22,000円~33,000円で売っているので、驚異的な安さですね。→「【ミュージアムショップ】キャンペーンのご案内 | お知らせ | 逸翁美術館 | 阪急文化財団
 私は図書館で読破して、「本のすき間を探」り*1、思わぬ記述を発見してブログに挙げた。日記の日付順に一覧にしておこう。

1 明治36年3月15日~12月2日 「村井弦斎と国木田独歩の時代を生きる小林一三 - 神保町系オタオタ日記
2 昭和21年4月17日 「靖国神社宝塚化計画 - 神保町系オタオタ日記
3 昭和24年5月19日~27年2月18日 「小林一三日記にスメラ学塾の戦後を見る - 神保町系オタオタ日記

 1では、黒岩比佐子さんから「大喜びどころか、びっくりして飛び上がりました」と、コメントをいただきました。2は、坪内祐三靖国』(新潮社、平成11年1月)への補足ですが、坪内さんが目にする機会があったかどうか。皆様も、『小林一三日記』のすき間から面白ネタを掘り出してください。

*1:南陀楼綾繁『古本マニア採集帖』(皓星社、令和3年12月)の「『本のすき間』を探る人 神保町のオタさん」を参照

大学堂書店のおばちゃんは健在だったー京都新聞樺山聡記者が取材ー


 3月26日の京都新聞*1に、大学堂書店の閉店について語る店主の髙井昌子さん(89)の記事。樺山聡記者の取材。仕事が早いですね。
 河原町にあった大学堂書店については、旧ツイッターに店内の古本がリサイクル業者の車に運ばれる写真が投稿され、大騒ぎになった。また、私もシャッターに貼られた閉店を告げる案内の写真を投稿したところである。閉店ということで、店主のおばちゃんが亡くなったのかなと心配していたところ、病気療養中とはいえ、御健在と分かりホッとした。ありがとうございます。
 記事によるとノーベル文学賞受賞者のあの人のほか、三島由紀夫大佛次郎も来店したという。明治40年頃創業以降の歴史について紹介されているが、補足しておこう。「『書物礼讃』を印刷した唐舟屋印刷所の堀尾幸太郎・緋紗子兄妹ーー高橋輝次『古本こぼれ話〈巻外追記集〉』への更なる追記ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したように大学堂書店(杉田大学堂書店)は、戦前書物雑誌『書物礼讃』(大正14年6月~昭和5年7月まで11冊)を発行していた。執筆者は、石川巌、尾崎久弥、頴原退蔵、神代種亮、佐古慶三、庄司浅水新村出、杉浦丘園、鈴木大拙、禿氏祐祥、内藤湖南、成瀬無極、矢野峰人錚々たるメンバーであった。地の利を活かして、三高、京大、大谷大の先生が多い。
 古書目録も発行していて、家蔵の大正14年10月*2発行分(76頁)が確認できる限りでは最も古い*3平成27年みやこめっせの古本まつりで500円。

*1:有料配信の「THE KYOTO」では、3月15日

*2:奥付による。表紙には、「大正十四年十一月印行」とある。

*3:号数の表示はない。近代書誌懇話会編・鈴木宏宗解説『日本古書目録大年表:千代田区千代田図書館所蔵古書販売目録コレクション』(金沢文圃閣平成27年1月)記載の大学堂書店の目録で最も古い。ただし、8号,大正15年4月が記載されていて、ひと月に1冊とすると大正14年10月より古い号が存在しそうである。

大正15年上海に寄港した軍艦出雲から京都の友人へ出された軍艦郵便


 平成27年みやこめっせの古本まつりで軍艦郵便の葉書が挟まった矢野峰人『近代英文学史』(第一書房、大正15年6月)を購入した。彙文堂の出品で1,000円ぐらいだったと思う。発信者は上海に寄港した岸本健雄で、消印は1926(大正15)年7月12日、MOJI(門司)局である。文面は同月9日付けで、上海に無事入港したこと、世界の自由市たる上海には東京も大阪も神戸も及ばないこと、香港へ向かって出港することなどが書かれている。
 岸本健雄は、大正15年3月31日付け『官報』で海軍機関少尉候補生の発令を受け、出雲への乗組を命じられたことが分かる。横山裕三『日本の軍艦郵便』(仙台優趣会・東北郵趣連盟、平成23年9月)の「少尉候補生遠洋練習航海」一覧表によると、第47回遠洋航海の閉囊交換局は門司で、期間は大正15年6月30日~昭和2年1月15日、艦隊(出雲・八雲)の行き先は上海、地中海、バタビア、マニラであった。
 岸本は、『陸海軍将官人事総覧海軍篇』(芙蓉書房出版、昭和56年9月)にも載らない無名の軍人である。しかし、海軍におけるラグビー史に名前が残っていた。高嶋航『軍隊とスポーツの近代』(青弓社平成27年8月)39頁から引用すると、

(略)海軍兵学校の英語教師ランダルが海軍機関学校にもチームをつくって練習しようと持ちかけた。(略)海軍機関学校側は慶大にコーチを受けたきりラグビーをしていなかったが、さいわい野球部の岸本健雄が京都一中(香山蕃*1の出身校)でラグビーをやった経験があるとのことで、彼を中心にチームが編成された。

 一方、受取人の寺井信は不詳である。『近代英文学史』を発行直後に購入しているようなので、相当の学歴を有するかと思いきや、第三高等学校京都帝国大学の卒業生に該当者はいない。『京阪神職業別電話名簿:昭和九年九月現在』(京阪神職業別電話名簿編纂所、昭和9年12月)には、同住所の寺井が鉄道小荷物扱所として挙がっている。その他、国会図書館デジタルコレクションにより、戦後の京大医学部事務長に同名の人物(岐阜県出身、明治38年生)がヒットするが同定はできない。タイトルでは、岸本の「友人」としたが、推測である。

 

*1:高嶋航『軍隊とスポーツの近代』33頁によると、東京帝国大学ラグビー部の創設者