神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都大学新聞の「特集きょうの妖怪Vol.3」に「北白川の仙人『白幽子』」


 臨川書店の古書バーゲンに行った帰りに、京大生協ショップルネへ寄り道。入り口脇に『京都大学新聞』の無人販売台があってふと見ると、5月1日・16日合併号掲載の「特集きょうの妖怪」の第3回が、「北白川の仙人『白幽子』」。そんな連載があったのか、しかも今回は白幽子!早速100円で購入。
 第4面の全面が使われている。北白川の岩穴に住み200年生きたとも言われ、白隠の病気を治したり、富岡鉄斎*1が墓碑を再建し、岩穴前に石碑を建てたこと、更には京都市立北白川小学校編『北白川こども風土記』に載った伊藤寛「仙人になった白幽子」の紹介やその直筆原稿の写真(菊地暁先生提供)まで載っている。北白川仕伏町バス停からの地図(北白川愛郷会提供)も載っていて、至れり尽くせりの特集である。

*1:鉄斎は、今年が没後100年で京都国立近代美術館で5月26日まで記念展覧会を開催中

京都帝国大学の学知を支えた須磨勘兵衛の内外出版印刷ー井上書店の追悼にー


 今年も無事みやこめっせの古本まつりに行けました。目録の巻頭に井上書店の井上道夫店主の追悼文が載っていて驚きました。略歴を要約すると、

昭和21年4月 今出川通吉田神社鳥居の西側に父小三郎が開業
昭和26年7月 現在地に移転
昭和28年12月 誕生
昭和52年8月 父の後継ぎとして古本屋の道に入る
平成14年6月 京都古書研究会代表に就任(6年間)
令和5年11月 逝去(享年69)

 平成29年12月井上書店の店頭に大量の状態の良い内容見本が100円均一で出たことがあった。何回か行って100冊以上買ったと思う。若き日の先代が河原町の新刊書店で貰ったものとの話を聴いた日を懐かしく思い出します。あらためて御冥福をお祈りします。
 今回は井上書店で買った『春錦会員名簿:昭和十年版』(京都府立京都第一高等女学校、昭和10年6月)の話をしよう。同書店が古本まつりに参加していた数年前に買ったもので、500円。名簿は数冊出ていたが、旧蔵者(大蜘蛛某)による表紙への書き込みがある本書を選んで購入。普通の人は書き込みがない方を選ぶが、私は旧蔵者の痕跡がある方を選んでしまう。ある種の病気ですね。
 「春錦会」は、拝師暢彦『京都府立第一高女と鴨沂高校』(拝師暢彦、平成29年2月)33頁によれば、明治38年5月に設置された在校生徒からなる組織で、後に職員が加わった。名簿を見ると、会長は鈴木博也、特別会員は52人で、その後に正会員として本科第1学年1組が続く。
 鈴木の経歴は、『大衆人事録』(帝国秘密探偵社・国勢協会、昭和10年12月11版)によると、京都第一高等女学校長。明治15年11月生で、41年広島高等師範英語科卒、京都帝大文科に学び*1熊本県第二師範校長を経て、大正14年現職である。校長が会長で、教職員が特別会員ということになる。
 生徒の名簿で目を惹くのは、高等科第1学年の「久邇宮恭仁子女王殿下」である。他の生徒はすべてクラス毎に50音順だが、これは1番目に挙がっている。住所は、上京区荒神口桜木町久邇宮邸が荒神口にあったのですね。現在は跡地がKKRくに荘になっている。全然知らなかったが、京都の人は皆さん知ってるのかな。そのほか、川喜多、野長瀬、六人部という苗字を見ると、川喜多二郎、野長瀬晩花、六人部暉峰と関係があるのかなと思ってしまう。このうち、川喜多和香は「川喜田家(川喜田二郎・川喜田半泥子の家系図) | 閨閥学」によると、二郎の妹のようだ。
 奥付を見ると、印刷人は須磨勘兵衛、印刷所は内外出版印刷株式会社である。そう言えば、『沿革と設備概要:附印刷記要』(内外出版印刷、昭和10年5月)を持っていたはずと、発掘してきた。何でも均一で取りあえず買っておくと、役に立ちますね。製造品目と重役が載る頁を挙げておく。

 「沿革」によれば、「京都帝国大学教授諸賢並に有力書肆経営者諸彦の御慫慂により聊か抱負を持し、大正九年四月出版と印刷を業として其創立を見た」とある。また、「当社刊行書目」には、江馬務岡田道一、小川琢治、土田杏村、成瀬無極、本庄栄治郎、三浦周行、山本宣治ら京大関係者の著書が挙がるほか*2、雑誌として次のようなものが載っている。

 「京都帝国大学文科大学(のち文学部)内京都文学会編集の『藝文』ーー『藝文』の卒業論文題目に平田内蔵吉や三浦恒助ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『藝文』(文学部)や『史林』(文学部)『哲学研究』(文学部)『地球』(理学部)の印刷・発行も任されており、京都帝国大学との深いつながりがうかがえる。内外出版印刷は、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)の福家崇洋「戦時下の新村出」にも登場していた。新村の名義で昭和8年「ザハロフ『満蒙辞典』の和訳及び補足に基づく満日辞典の編纂」をテーマに外務省の「満蒙文化研究事業助成」に申請がなされ、採用された。成果をまとめた報告書には他日の出版を期すとあり、内外出版印刷の昭和12年2月9日付け見積書(和訳満蒙大辞典上下2冊、各500部)もあるが、現在のところ刊行は確認できていないという。
 この内外出版印刷を創立した須磨については、『京都書肆変遷史』(京都府書店商業組合、平成6年11月)に記載がある。それによれば、須磨が明治41年に創業した印刷業弘文社を大正9年4月大谷仁兵衛(帝国地方行政学会)始め多くの出版業者の出資と協力を得て、内外出版に改組した。初代社長には大谷、専務に須磨が就任した。大正15年2代目社長に須磨が就任して、昭和2年内外出版印刷(株)に改称したという。なお、須磨は、稲岡勝監修『出版文化人名事典:江戸から近現代・出版人1600人』(日外アソシエーツ、平成25年6月)にも立項されている。明治3年京都府生まれ、昭和29年没である。参考文献に『須磨勘兵衛の面影』(昭和31年)が挙がっているが、未見。内外出版印刷は戦時中の企業整備により出版業を止めている*3が、こういう帝国日本の学知を支えた出版社・印刷所の存在を忘れてはいけないだろう。

*1:別途調べると、大正2年京都帝国大学文科大学哲学科教育学専攻卒

*2:須磨勘兵衛が明治41年に弘文社を創業する前に仏教図書出版(西村七平創立)で約10年勤務したためか、青木文教、梅原真隆、佐々木月樵、寺本婉雅、野々村直太郎らの仏教書も多い。

*3:昭和19年企業整備を機に出版を中止して印刷専業の内外印刷(株)に改称した後に冨山房へ譲渡合併された。現在の冨山房インターナショナル印刷部門

唯書房から京都中心の合同古書目録『書之燈』


 一昨日(5月17日)の大阪古書会館「たにまち月いち古書即売会」では、「南木」宛の葉書が挟まった雑誌『上方趣味』を発見。これは、南木芳太郎だろうとホクホクと購入。詳細は、もう少し調べてからアップします。
 今回は、唯書房から500円で購入した古書目録を紹介しよう。『書の燈』第1号(阪倉庄三郎、昭和24年9月)と『書之燈』第2号(阪倉庄三郎、昭和24年11月)である。前者は照文堂(赤尾薫一)、京都書院(藤岡健太郎)、白州堂(北川光蔵)、文華堂(中山善次)、京阪書房(阪倉)*1、書林(高尾彦四郎)、臨川書院(武井一雄)*2、春和堂伏見店(若林正治*38店の合同古書目録である。表紙が「斎藤昌蔵氏書票」 。正しくは、「斎藤昌三氏蔵書票」ですね。後者は、白州堂を除く7店の合同古書目録である。大阪の高尾書林以外は京都の古書店で、高尾が参加したのはどういう経緯だろうか。第2号の裏表紙に関係書店の地図が載っているので、挙げておく。

 現在も存続しているのは、赤尾照文堂、文華堂、臨川書店、若林春和堂(ただし、新刊書店)である。京阪書房が令和4年6月に閉店したのは、記憶に新しいですね。
 第1号と第2号で微妙にタイトルが変更されている。第3号は『書之燈』で、「京都における戦前の合同古書目録『書燈』と戦後の合同古書目録『書之燈』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。これで、第1~第3号が揃った。第3号は、印刷がからふね屋印刷所だったことに注目した。しかし、第1号と第2号の印刷は、タムラ印刷所であった。第3号から変更していたことになる。
 第1号の「偶感」(W記)に面白いことが書いてあったので引用しておこう。旧字は新字に改めた。ロンドン大学の某博士とは、誰だろうか。

此の間丸太町の彙文堂*4で「此んな事なら此の間の和本潰すのやなかつた」と云ふ嘆声を聞いたので何故ですかと問へば、昨日ロンドン大学から某博士が本を買ひに来て、此つちの潰して仕舞ふうな本を迄求めて居たと云ふ。
何でも中国で永い事研究してゐる言語学の博士で唐本は中国で相当量仕入れた。日本の和本も東京で大部求めたが関西迄足を延ばして来たらしい。
何にするのかと云へば日本人の送り仮名の研究に資する由。柳文も韓文も要る訳である。感心するより私は呆れた。

河合卯之助の『窰:向日窯陶誌』から見た河合山脈ー小川千甕・川西英・寿岳文章・安田青風・山田一夫ー


 特定非営利活動法人向日庵の機関誌『向日庵』7号(向日庵、令和6年3月)を御恵贈いただきました。ありがとうございます。「編集後記」では、寿岳文章を論じた記念碑的な2著として、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)と島貫悟『柳宗悦ウィリアム・モリス:工藝論にみる宗教観と自然観』(東北大学出版会、令和6年2月)が紹介されている。前者には、高木「一九四〇年代の寿岳文章ー日本主義と民主主義」が収録されているのである。
 高木論文には、昭和8年寿岳が南禅寺僊壺庵から向日庵へ移った向日町について、寿岳のほかに狩野直喜や河合卯之助が居を移したとある。寿岳と河合の関係については、私は「京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。その後、河合が主宰した雑誌『窰:向日窯陶誌』4号(向日窯、昭和38年11月)をハナ書房から入手したので、紹介しておこう。非売品で48頁、編集兼発行人は、上田森蔵である。目次を挙げておく。

 日記や書簡好きのオタどんとしては、河合「窯間日記抄」と菊童*1編「書簡集」に注目。後者には、川西英、大西良慶、小川千甕、山田一夫、安田青風、中村桃生(便利堂社長)らの書簡が掲載されている。千甕の書簡は、『窯』春の巻に寄稿が掲載された御礼である。そこで、3号(春の巻)を所蔵する民博図書室で見てきた。昭和38年3月発行で、千甕の「『窯』編集のおかたへ」が掲載されていた*2。これは、『縦横無尽:小川千甕という生き方』(求龍堂平成26年11月)の橘川英規編「小川千甕書誌」に未記載なので、補足としておこう*3西行堂でのスケッチ(キャプションでは大正4年、本文では大正9年)も載っている。
 山田一夫書簡の住所は京都市で、『夢を孕む女』や『配偶』の著者である山田かもしれない。河合と山田の関係は、不明。味の素食の文化センターが所蔵する『食道楽』2年6号(昭和12年6月)掲載の「食道楽座談会」に両者の名前が見えるので、その時以来の仲かもしれない。
 残念ながら、3号・4号には寿岳の名前はなかった。しかし、大久保久雄・笠原勝朗編『寿岳文章書誌』(寿岳文章書誌刊行会、昭和60年1月)によれば、2号(昭和37年11月)に「ひとときを永遠に」を寄稿している。河合と寿岳の関係は、柳宗悦・芹沢銈介・河井寛次郎と寿岳の関係に比べれば薄かったであろうが、もっと語られるべきであろう。向日市文化資料館には、河合に関する展覧会を期待しておこう。
 なお、ググると10年前オークションに1号~4号、特別号(昭和40年、河合卯之助喜寿記念)、『偲び草』(昭和43年、夫人追悼誌)が出ていたようだ。買ったのが研究者で、何らかの形で発表されればよいが。

 

*1:上田菊童(本名森蔵)と思われる。

*2:他には、山田無文「想い出の嵯峨」、北川桃雄「陶器好きの履歴書」、岡部伊都子「鑑賞者」、高橋邦太郎「陶器の都・デルフト」、奈良本辰也「『砂田光悦』あれこれ話」、須田尅太の書簡などが載っている。

*3:他に補足として「楠部南崖の俳誌『変人』(俳華堂)と小川千甕ー『縦横無尽』(求龍堂)の「小川千甕年譜」「小川千甕書誌」への補足ー - 神保町系オタオタ日記」参照

戦時下ジャカルタで南方文化研究所を開設する地理学者林宏ー大佛次郎『南方ノート』からー


 『日本民俗学大系第1巻』(平凡社昭和35年4月)の小川徹民俗学と地理学、とくに人文地理学との関係」は、「三 民俗学史上における人文地理学的方法」の付記として、小寺廉吉*1、林宏、山口弥一郎、千葉徳爾らの民俗学的活動に触れなかったことに言及している。これら地理学者のうち、山口弥一郎については、最近内山大介・辻本侑生『山口弥一郎のみた東北:津波研究から危機のフィールド学へ』(文化書房博文社、令和4年2月)が刊行されたところである。そこで、今回は林宏の話題にしよう。
 小川は前記論考で、「林宏氏も地理学者出身で近畿・北陸の民俗にくわしいし、南方その他海外の民族学的研究にも関心が深い人である」としている。林の経歴を調べると、『吉野の民俗誌』(文化出版局、昭和55年3月)に次のような著者略歴(西暦を元号に改めた)が載っていた。

林宏(はやし・ひろし)
大正3年 富山県砺波市生れ
昭和16年 京都帝国大学文学部史学科(地理専攻)卒業、同時に同大副手
昭和24年 奈良学芸(現教育)大学講師となり、助教授・教授を経て、昭和54年、定年退官
(略)

 戦時中の動向が不明ですね。ところが、大佛次郎記念館編『南方ノート・戦後日記』(未知谷、令和5年8月)を読んでいたら、林が出てきて驚いた。

(昭和十八年)
十二月二十三日
(略)酒井君*2が若い地理学者の林宏君(注71)を連れ Batavia の図を持って来てくれる。(略)
十二月二十四日
(略)南方文化研究所(注73)へ行き、林氏に本を貰ったり見せて貰ったりする。(略)
(昭和十九年)
一月二十五日
(略)林宏君とバサールスメン(略)の古本やを覗く(略)夕方小野佐世男*3林君と来たる(略)

注記
71 林宏 民俗学者(1914~不詳)。
73 南方文化研究所 啓民文化研究所*4とは別組織。詳細は不明。

 当時大佛は、同盟通信社の嘱託として南方に派遣され、この時点ではインドネシアジャカルタに滞在していた。そこで、南方文化研究所を開設していたと思われる林と交流していたことが書かれている。林についても、いつか『山口弥一郎のみた東北』のような本が書かれるであろうか。
追記:『帝国大学年鑑:昭和十九年度版』(帝国大学新聞社、昭和18年9月)の「各大学の動向」に、昭和17年京都帝国大学文学部を中心に南方文化研究会が結成され、会長成瀬清、副会長松本文三郎、顧問羽田総長、会員は文学部有志教授より成るとある。毎月総合研究会を開くほか、南方関係文献の蒐集を行い、将来現地に調査派遣するともあり、この会と南方文化研究所は関係があるのかもしれない。

*1:小寺廉吉と辻村太郎が旅した硫黄島の思い出 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:昭和18年12月23日の条に出てくる啓民文化研究所の酒井常陽

*3:昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔 - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:河西晃祐「大佛次郎『南方ノート』解題」によれば、啓民文化研究所は、昭和17年4月軍政部によりつくられた文化施設。初代所長は陸軍大佐中山寧人、総務を大宅壮一が担い、文学部の指導者として武田麟太郎、美術部には小野佐世男が配置されていた。

広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た京都帝国大学生の絵葉書:オールドブックス ダ・ヴィンチから


 碧海寿広『仏像と日本人:宗教と美の近現代』(中央公論新社、平成30年7月)105頁に、町田甲一が戦時下に京都の寺を巡ったとある。

 戦後日本を代表する美術史家の一人である町田甲一(一九一六~九三)も、東京帝国大学の学生時代に、友人と奈良に近い京都の寺(略)を巡っている 【町田一九八九】。それは、一九四三年の三月下旬のことであった。「戦争はいよいよ絶望的な段階に深入りして行く時期で、若いものは、少しでも心の糧になるものを、むさぼり求めている時代だった。古寺をたずね、古い仏像に心の安らぎを求める人が少なくなかった」。

 上記は町田の後年の回想だが、手元に京都帝国大学の学生が広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た感想を友人?に送った絵葉書がある。数年前さんちか古書大即売会で、オールドブックス ダ・ヴィンチから入手、100円。最近さんちかとは相性が悪く、初日に行っても拾えないので最終日に行く時もある。この時は初日に行ったのに買えず、最後にダ・ヴィンチの100円の絵葉書箱を漁っていて、見つけた気がする。
 この際言っておくと、ダ・ヴィンチの値札は大きな短冊でビニール袋の中に絵葉書の表面(宛名面)の方へ入れてある。絵葉書を漁る人はもっぱら裏面(絵柄が印刷)を見るのでそれでいいのだが、私みたいにもっぱら表面の宛名人や発信者、下部にある通信欄の記述に注目して買う人には値札が邪魔でしょうがない。一々開封する訳にもいかないので、何とかならないですかね。
 さて、この絵葉書はかろうじて「大阪の中学時代の友達」とか広隆寺の仏像を観たらしいと読めたこと、発信者が京都市上京区出雲路に下宿していることに注目した。もしや、第三高等学校京都帝国大学の生徒・学生ではないかと買ってみた。消印と発信者が重なって読みにくいが、消印は昭和15(又は16)年11月20日で、発信者は藤江金一郎のようだ。国会デジコレで調べると、藤江は、静岡県出身で昭和15年3月第四高等学校(金沢市)文科甲類を卒業後、京都帝国大学経済学部に進み、昭和17年9月に卒業している。本来修業年限は3年だが、戦時下のため臨時短縮されている。京大生かもと思った読みは、当たっていた。宛先は、大阪府島本村の森田茂である。
 葉書の文面は、9日に大阪の中学時代の友達と太秦広隆寺に行って、「宝冠弥勒」を観たことが書かれていた。感想として、

元来、神経が太くて何うしても、明瞭に美の本体をつかむ事は出来ないが、久し振りに、傑作に出会ふと、何だか、嬉しくなる。正面から眺め、横から□□□して居る内に、ふーんと感心して了ふ。何故、何所を感心するのかと言つても別[ママ]らない。全体からうける一つの電子見たいなものが、ぴん/\飛んで来て、□□□と言つた方が良い。まあそんな喜び方だ。
併し、最も、美しいと小生なりに感じた所は、頬に当てた指、五指の柔軟さである。此れは特に目立つ。

 藤江は、戦時短縮で京大を卒業して出征したのかもしれない。戦地で半跏思惟像を見たときの感動を思い出すことはあっただろうか。
追記:「Kyoto University Research Information Repository: 2 京大出身戦没者(判明分) (II データ)」(京都大学大学文書館)の「戦没者氏名」に、戦没年月日不明、戦没場所不明で藤江の名前が挙がっている。
参考:兵庫古書会館でオールドブックス ダ・ヴィンチから早稲田大学教授武田豊四郎の絵葉書を見つけたことは、「兵庫古書会館で武田豊四郎発の絵葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記

古書あじあ號で買い逃した宗教雑誌?『復興』と買ってしまった婦人雑誌『日本婦人』ー日本婦人新聞社の衣川延治とはー


 四天王寺春の大古本祭りが終了しました。今回古書あじあ號が目録参加のみ*1で、会場は不参加でした。体調がお悪いようです。御回復され、次回を期待しています。あじあ號というと、均一台で買い逃した本を思い出す。「買った本より買い逃した本の方がいつまでも記憶に残る」というのは、古本者の皆様には共感していただけるだろう。
 あれは、5年前の四天王寺だった。あじあ號の500円均一台に背表紙に『復興』と書かれた雑誌の合冊版らしきものがあった。タイトルから関東大震災からの復興に関する雑誌かなと思っただけで、目次を見ることもしなかった。ところが、翌日吉永さんが入手され、民間精神療法に関する珍しい記事が載っていたという。悔しいので詳しい話を聞かなかった。そのためどういう雑誌とか記事の詳細も分からない。大谷大学図書館が創刊号を有する『復興』(大谷大学内復興社、大正13年1月)と同じものかどうか。
 私はその時のあじあ號からは、「心斎橋のヨネツ子供服装店と三条寺町のコドモヤ洋装店 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『日本婦人』(日本婦人新聞社)5冊(大正12年4月~8月)を入手している。値段が付いていないので、店主に聞くと1冊1,000円だという。どうしても欲しい雑誌ではなく5冊5,000円ではなあと思ったが、今更返すのも恥ずかしいのでお買い上げ。まあ、京都発行の婦人雑誌で珍しそうだという意識もあった。

 30号(大正12年5月)の目次を挙げておく。目次に記載はないが、「宇宙の大愛に触れよ」の執筆者は帆足理一郎である。残りの無署名の記事は、編輯発行兼印刷人の衣川延治の執筆なのだろう。目次と共に挙げた「『日本婦人』の使命」にあるように格調の高い雑誌で、実用的な婦人雑誌というより修養雑誌、更には宗教雑誌の感がある。それもそのはずで、この時点では特定の宗教性をうかがうものはないが、国会図書館デジタルコレクションで見られる『報告書8(司法研究;第21輯)』(司法省調査課、昭和12年3月)に、「京都市左京区西福の川天理教信者衣川延治著「吾れ天地を語る」と題する著書は、宇宙間の現象を天理教独特の教義に依り説明するもの」とある。この衣川の住所は、『日本婦人』奥付記載の日本婦人新聞社の所在地と一致する。また、天理大学附属天理図書館が衣川著の『神言註解やしきの言葉』(天光社、昭和10年)を所蔵している。大正12年当時から天理教の信者だったかは不明だが、後に天理教の信者となっていたことになる。
 衣川の詳しい経歴は不明である。『新聞総覧大正11年版』(日本電報通信社、大正11年)によれば、『日本婦人新聞』(月2回)を大正10年5月12日に創刊している。中嶌邦監修『「日本の婦人雑誌」解説編』(大空社、平成6年1月)の「近代婦人雑誌関係年表」(三鬼浩子)によれば『日本婦人』は大正10年6月25日創刊*2なので、同時期に婦人新聞と婦人雑誌を発行していたことになる。京都で手広くやっていたようだ。入手した『日本婦人』の裏表紙には、髙島屋呉服店や大丸呉服店の広告が載っていて、宣伝効果があると評価されていたのだろう。なお、令和4年阪神百貨店古書ノ市でモズブックスから同誌68・69号合本(日本婦人会、大正15年8月・9月)も入手しているので、発行所名の改称はあったものの5年間は続いたことが確認できる。

追記:むしろ古書あじあ號が「日本の古本屋」に大正13年6月号を出品して売り切れた大阪の復興社が発行していた『復興』の方かもしれない。

*1:古書あじあ號が目録に出品した薄田泣菫『暮笛集』(金尾文淵堂、明治32年11月)30万円や『泣菫詩集』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社大正14年2月)8万円は、売れただろうか。

*2:「近代婦人雑誌関係年表」大正10年の条の末尾に「〈この年〉」として記載され、凡例に「刊行が認められながら、実際に確認出来なかった場合〈この年〉として当該年の末尾に収録した」とある。やはり珍しい雑誌のようだ。