神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

最後まで光り輝いた金尾文淵堂の京都時代ー幻の与謝野晶子『源氏五十四帖:歌集』ー


 石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房、平成17年5月)は、金尾文淵堂の歴史を次の4期に分けている。
第1期(明治32~37年)
第2期(明治38~43年ころ)
第3期(明治44~大正12年ころ)
第4期(大正13~昭和22年)
 そして、第4期について次のように記述している。

(略)昭和一三年に与謝野晶子『新新訳源氏物語』全六巻を刊行、これを機に出版活動がやや回復するが太平洋戦争が始まり、金尾文淵堂は大阪空襲により京都市中京区西ノ京円町に移転、終戦を迎えた。戦後も九点ほどの出版を行ったが、昭和二二年の一月二八日、狭心症のため金尾種次郎は永眠した。

 この金尾文淵堂終盤の京都時代に発行された書籍については、石塚先生が把握してない三田谷啓「正しき躾」も存在するらしいことを「京都時代の金尾文淵堂と製本所真英社 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。更に「須田国太郎が表紙絵を描いた京都三中の同人誌『時計台』:橋秀文論文への補足 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『時計台』第1輯(時計台同人、昭和21年11月)巻末掲載の金尾文淵堂の広告を見たら、驚いた。画像を挙げておこう。

 『正しき躾』のほかに、与謝野晶子『源氏五十四帖:歌集』が掲載されている。これは、おそらく「源氏物語礼讃」と呼ばれているもの、すなわち晶子が『源氏物語』各巻の内容を短歌に詠んだものだろう。最近でも鶴見大学日本文学科・源氏物語研究所編『与謝野晶子が詠んだ源氏物語鶴見大学図書館蔵『源氏物語礼讃』二種』(花鳥社、令和6年2月)が刊行されたところである。同書には従来確認された刊本、屏風、短冊、巻物、折帖など各種の『源氏物語礼讃』が記載されているが、本書には言及していない。
 前記広告には「二八・〇〇」という値段や「送二・〇〇」という送料も記載されていることや、晶子『新新訳源氏物語』にのみ「近刊」と表示されていることから発行された可能性は高そうだ。どのような本だったかというと、国会デジコレで読める高島米峰『心の糧』(金尾文淵堂、昭和21年7月*1)巻末の「金尾文淵堂図書一覧」に「色紙形自筆」とある。
心の糧 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 昭和13年10月から14年9月にかけて金尾文淵堂が刊行した『新新訳源氏物語』全6巻の巻頭には「源氏物語礼讃」の色紙の写真が掲載されたので、それを使ったものと思われる。
 金尾文淵堂が京都時代に発行した本は、所蔵する図書館が少ないものが多く、現存が少なそうだ。創立者種次郎は、昭和22年1月28日没。予告された『新新訳源氏物語』の再刊は、刊行されなかったと思われる。『源氏五十四帖』の方は発見される日は来るだろうか。それとも永久に幻のままで終わるだろうか。

*1:国会図書館サーチでは、国会図書館蔵の複本の一部が昭和24年発行になっている。

竹内文献の信奉者で藩札狂の前田惇と東京美術学校長正木直彦


 別件で東京美術学校長正木直彦の『十三松堂日記第1巻』(中央公論美術出版、昭和40年9月)を読んでいたら、自他共に認める藩札狂だった前田惇*1らしき人物を見つけた。何回も読んだ日記だが今頃気付いた。

(大正十三年)
 六月二十五日 晴 出勤 楮幣蒐集家前田□□氏来訪 楷幣の我邦に在るものは堺の町人の間に通用せる私幣に始まるといひ藩札は元和年間のもの最古なり 徳川末葉にて諸藩藩札を濫発せし為にその数は五千余に及へりといひ支那のものは唐の会昌年間のものを最古とし宋より明のもの今尚多数に存在せりといへり 最近長崎にて昔の交易商の子孫より享保より文化文政天保弘化に至るまで和蘭陀船の船載せし更紗モールビロード占波なと約千五百種ほと買取りたりとて之を携示せり (略)

 「□□」には「原文空白」とのルビがあって翻刻者は2文字分を想定しているが、おそらくは「惇」1文字分の空白と思われる。前田は昭和4年10月に酒井勝軍と共に天津教の「神宝」を拝観。昭和5年12月第1次天津教事件で警視庁に取り調べを受けている。その時の肩書きは、皇国神代文字仮研究所・大日本藩札研究会長であった*2。翌年5月東京帝国大学法学部の明治新聞雑誌文庫に出現して吉野作造に「山師」と見破られたことは、「[トンデモ]明治新聞雑誌文庫に迫るトンデモの影 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。この後間もない昭和6年7月12日に前田は脳溢血で亡くなっている*3。 
 なお、Kamikawa氏の「梅原北明が作成した『変態趣味研究家名簿』について|Theopotamos (Kamikawa)」によると、梅原北明「変態趣味研究家名簿(第1輯)」『変態・資料』3巻1号(文藝資料編輯部、昭和3年2月)に「東京市 前田藩札狂 藩札」が掲載されているようだ。

*1:「惇」が正しいと思われるが、『神代秘史資料集成 人之巻』の大内義郷『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年8月)やネットで読める鶴岡実枝子「『日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録』の編集を終えて」『史料館報』57号(史料館、平成4年10月)では、「淳」になっている。

*2:お札博士スタールのトンデモ山脈(その3) - 神保町系オタオタ日記」参照

*3:『集古』辛未5号(集古会、昭和6年11月)の「会報」による。

藪内清を小林信子の静坐社に連れて行った曽我了雲


 近代仏教研究者で曽我量深(そが・りょうじん)を知らない人はいないだろう。一方、同じ曽我でも曽我了雲(そが・りょううん)を知る人はほとんどいないだろう。私も最近まで知らなかったが、「静坐社に参加した福田與の旧蔵書が古書市場にー吉永進一さんの追悼としてー - 神保町系オタオタ日記」で言及した南山大学の研究会でチラリと名前が出たので覚えてしまった。そして、『藪内清著作集第8巻』(臨川書店、令和5年11月)の「有縁の人々」*1を読んでいたら、驚いた。藪内の甲陽中学(甲陽学院高等学校の前身)時代からの友人として、了雲が登場したのである。

多勢の兄弟の末っ子ではじめは新作という名であったが、後に僧職にはいって了雲と改めた。(略)卒業後は姫路高校にはいったが、この時代に人生の問題と真剣にとりくみ、悩み多い青春を送ったらしく、一年留年してしまった。活路を仏教に求め、当時真宗の思想家として有名だった暁烏敏師を北陸に訪ねたり、曽我君が姫路高校ではじめた仏教青年会に招いたりした。こうして同君は京大文学部の仏教学科に進んだが、やはり京大にいた私は毎日のように彼と会い、仏教にはついに縁がなかったが、一緒にローマ字運動をやったり、静坐社へつれて行かれて静坐の仲間に入れられた。(略)京都下鴨の蕪庵の庵主森本瑞明師に信用され、神戸の三宮駅の近くに新築された洋風のモダン寺院をまかされたが、ここでいろいろの講座を開いて、神戸の文化活動に貢献した。晩年は神戸の成徳女子高校の理事長兼校長となり、同校の立て直しに成功したが、いつも仏教者としての立場をつらぬいた。

 戦後京都大学人文科学研究所長となる藪内は、同書の略年譜によると大正15年4月京都帝国大学理学部宇宙物理学科入学、昭和4年3月卒業で同年4月同学部副手となっている。了雲は昭和3年4月文学部哲学科仏教学専攻入学、6年3月卒業なので、了雲が藪内を静坐社に初めて連れて行ったのは昭和3年~6年の間ということになる。
 家蔵の『静坐』(静坐社)昭和11年10月号や18年9月号の裏表紙に掲載された「静坐案内」に光徳寺(神戸市葺合区御幸通6丁目)の了雲の名前があり、静坐の指導者の一人として活躍していたことがわかる。一方、藪内は主に学生時代だけ静坐社に出入りしていたのだろうと思いきや、家蔵の昭和16年10月号の「第十五回静坐実習会記念撮影」(昭和16年8月24日)に了雲と共に名前があった。藪内は、当時東方文化研究所研究員嘱託である。

 曽我は『仏教年鑑:昭和13年』(仏教年鑑社、昭和13年4月)の「現代仏教家人名録」によれば、明治39年3月山口県生まれ*2。国会デジコレで『月刊社会教育』22巻6号(旬報社、昭和53年6月)に訃報が載っていると分かるので、72歳まで生存していたことになる。藪内は享年94なので、いずれも50年も生きられなかった静坐の創始者岡田虎二郎より長生きしたことになる。
 末木文美士先生、吉永さん、栗田英彦先生の尽力で日文研に収まっている『静坐』の揃いは、「岡村敬二先生がブログで大連静坐会について言及 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように利用され始めている。オンラインで公開されれば非常にありがたいが著作権法上そうもいかないので、「平安神宮の古本まつりで東寺済世病院長小林参三郎夫人の小林信子宛絵葉書を掘り出すーー『静坐』(静坐社)の総目次を期待ーー - 神保町系オタオタ日記」でも述べたが総目次の作成か、目次だけでもオンライン公開かしてほしいものである。
参考:「昭和通商ベルリン支店長前田富太郎と岡田式静坐法 - 神保町系オタオタ日記」、「九鬼周造「最後の歌」の初出誌としての『静坐』(静坐社) - 神保町系オタオタ日記

*1:朝日新聞夕刊』昭和57年5月31日~6月11日の間に6回掲載された分から「わが道」(同紙昭和45年5月18日~26日の間に5回掲載)と重複する一部を削り、5回分としたもの

*2:「曽我新作」で立項されていて、そのほか昭和7年より光徳寺における大乗仏教研究所事業に従事し、雑誌『光徳』、『法雷』(真宗学研究誌)、『瑞雲』(信仰誌)を編集しているとある。

京都大学新聞の「特集きょうの妖怪Vol.3」に「北白川の仙人『白幽子』」


 臨川書店の古書バーゲンに行った帰りに、京大生協ショップルネへ寄り道。入り口脇に『京都大学新聞』の無人販売台があってふと見ると、5月1日・16日合併号掲載の「特集きょうの妖怪」の第3回が、「北白川の仙人『白幽子』」。そんな連載があったのか、しかも今回は白幽子!早速100円で購入。
 第4面の全面が使われている。北白川の岩穴に住み200年生きたとも言われ、白隠の病気を治したり、富岡鉄斎*1が墓碑を再建し、岩穴前に石碑を建てたこと、更には京都市立北白川小学校編『北白川こども風土記』に載った伊藤寛「仙人になった白幽子」の紹介やその直筆原稿の写真(菊地暁先生提供)まで載っている。北白川仕伏町バス停からの地図(北白川愛郷会提供)も載っていて、至れり尽くせりの特集である。

*1:鉄斎は、今年が没後100年で京都国立近代美術館で5月26日まで記念展覧会を開催中

京都帝国大学の学知を支えた須磨勘兵衛の内外出版印刷ー井上書店の追悼にー


 今年も無事みやこめっせの古本まつりに行けました。目録の巻頭に井上書店の井上道夫店主の追悼文が載っていて驚きました。略歴を要約すると、

昭和21年4月 今出川通吉田神社鳥居の西側に父小三郎が開業
昭和26年7月 現在地に移転
昭和28年12月 誕生
昭和52年8月 父の後継ぎとして古本屋の道に入る
平成14年6月 京都古書研究会代表に就任(6年間)
令和5年11月 逝去(享年69)

 平成29年12月井上書店の店頭に大量の状態の良い内容見本が100円均一で出たことがあった。何回か行って100冊以上買ったと思う。若き日の先代が河原町の新刊書店で貰ったものとの話を聴いた日を懐かしく思い出します。あらためて御冥福をお祈りします。
 今回は井上書店で買った『春錦会員名簿:昭和十年版』(京都府立京都第一高等女学校、昭和10年6月)の話をしよう。同書店が古本まつりに参加していた数年前に買ったもので、500円。名簿は数冊出ていたが、旧蔵者(大蜘蛛某)による表紙への書き込みがある本書を選んで購入。普通の人は書き込みがない方を選ぶが、私は旧蔵者の痕跡がある方を選んでしまう。ある種の病気ですね。
 「春錦会」は、拝師暢彦『京都府立第一高女と鴨沂高校』(拝師暢彦、平成29年2月)33頁によれば、明治38年5月に設置された在校生徒からなる組織で、後に職員が加わった。名簿を見ると、会長は鈴木博也、特別会員は52人で、その後に正会員として本科第1学年1組が続く。
 鈴木の経歴は、『大衆人事録』(帝国秘密探偵社・国勢協会、昭和10年12月11版)によると、京都第一高等女学校長。明治15年11月生で、41年広島高等師範英語科卒、京都帝大文科に学び*1熊本県第二師範校長を経て、大正14年現職である。校長が会長で、教職員が特別会員ということになる。
 生徒の名簿で目を惹くのは、高等科第1学年の「久邇宮恭仁子女王殿下」である。他の生徒はすべてクラス毎に50音順だが、これは1番目に挙がっている。住所は、上京区荒神口桜木町久邇宮邸が荒神口にあったのですね。現在は跡地がKKRくに荘になっている。全然知らなかったが、京都の人は皆さん知ってるのかな。そのほか、川喜多、野長瀬、六人部という苗字を見ると、川喜多二郎、野長瀬晩花、六人部暉峰と関係があるのかなと思ってしまう。このうち、川喜多和香は「川喜田家(川喜田二郎・川喜田半泥子の家系図) | 閨閥学」によると、二郎の妹のようだ。
 奥付を見ると、印刷人は須磨勘兵衛、印刷所は内外出版印刷株式会社である。そう言えば、『沿革と設備概要:附印刷記要』(内外出版印刷、昭和10年5月)を持っていたはずと、発掘してきた。何でも均一で取りあえず買っておくと、役に立ちますね。製造品目と重役が載る頁を挙げておく。

 「沿革」によれば、「京都帝国大学教授諸賢並に有力書肆経営者諸彦の御慫慂により聊か抱負を持し、大正九年四月出版と印刷を業として其創立を見た」とある。また、「当社刊行書目」には、江馬務岡田道一、小川琢治、土田杏村、成瀬無極、本庄栄治郎、三浦周行、山本宣治ら京大関係者の著書が挙がるほか*2、雑誌として次のようなものが載っている。

 「京都帝国大学文科大学(のち文学部)内京都文学会編集の『藝文』ーー『藝文』の卒業論文題目に平田内蔵吉や三浦恒助ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した『藝文』(文学部)や『史林』(文学部)『哲学研究』(文学部)『地球』(理学部)の印刷・発行も任されており、京都帝国大学との深いつながりがうかがえる。内外出版印刷は、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)の福家崇洋「戦時下の新村出」にも登場していた。新村の名義で昭和8年「ザハロフ『満蒙辞典』の和訳及び補足に基づく満日辞典の編纂」をテーマに外務省の「満蒙文化研究事業助成」に申請がなされ、採用された。成果をまとめた報告書には他日の出版を期すとあり、内外出版印刷の昭和12年2月9日付け見積書(和訳満蒙大辞典上下2冊、各500部)もあるが、現在のところ刊行は確認できていないという。
 この内外出版印刷を創立した須磨については、『京都書肆変遷史』(京都府書店商業組合、平成6年11月)に記載がある。それによれば、須磨が明治41年に創業した印刷業弘文社を大正9年4月大谷仁兵衛(帝国地方行政学会)始め多くの出版業者の出資と協力を得て、内外出版に改組した。初代社長には大谷、専務に須磨が就任した。大正15年2代目社長に須磨が就任して、昭和2年内外出版印刷(株)に改称したという。なお、須磨は、稲岡勝監修『出版文化人名事典:江戸から近現代・出版人1600人』(日外アソシエーツ、平成25年6月)にも立項されている。明治3年京都府生まれ、昭和29年没である。参考文献に『須磨勘兵衛の面影』(昭和31年)が挙がっているが、未見。内外出版印刷は戦時中の企業整備により出版業を止めている*3が、こういう帝国日本の学知を支えた出版社・印刷所の存在を忘れてはいけないだろう。

*1:別途調べると、大正2年京都帝国大学文科大学哲学科教育学専攻卒

*2:須磨勘兵衛が明治41年に弘文社を創業する前に仏教図書出版(西村七平創立)で約10年勤務したためか、青木文教、梅原真隆、佐々木月樵、寺本婉雅、野々村直太郎らの仏教書も多い。

*3:昭和19年企業整備を機に出版を中止して印刷専業の内外印刷(株)に改称した後に冨山房へ譲渡合併された。現在の冨山房インターナショナル印刷部門

唯書房から京都中心の合同古書目録『書之燈』


 一昨日(5月17日)の大阪古書会館「たにまち月いち古書即売会」では、「南木」宛の葉書が挟まった雑誌『上方趣味』を発見。これは、南木芳太郎だろうとホクホクと購入。詳細は、もう少し調べてからアップします。
 今回は、唯書房から500円で購入した古書目録を紹介しよう。『書の燈』第1号(阪倉庄三郎、昭和24年9月)と『書之燈』第2号(阪倉庄三郎、昭和24年11月)である。前者は照文堂(赤尾薫一)、京都書院(藤岡健太郎)、白州堂(北川光蔵)、文華堂(中山善次)、京阪書房(阪倉)*1、書林(高尾彦四郎)、臨川書院(武井一雄)*2、春和堂伏見店(若林正治*38店の合同古書目録である。表紙が「斎藤昌蔵氏書票」 。正しくは、「斎藤昌三氏蔵書票」ですね。後者は、白州堂を除く7店の合同古書目録である。大阪の高尾書林以外は京都の古書店で、高尾が参加したのはどういう経緯だろうか。第2号の裏表紙に関係書店の地図が載っているので、挙げておく。

 現在も存続しているのは、赤尾照文堂、文華堂、臨川書店、若林春和堂(ただし、新刊書店)である。京阪書房が令和4年6月に閉店したのは、記憶に新しいですね。
 第1号と第2号で微妙にタイトルが変更されている。第3号は『書之燈』で、「京都における戦前の合同古書目録『書燈』と戦後の合同古書目録『書之燈』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。これで、第1~第3号が揃った。第3号は、印刷がからふね屋印刷所だったことに注目した。しかし、第1号と第2号の印刷は、タムラ印刷所であった。第3号から変更していたことになる。
 第1号の「偶感」(W記)に面白いことが書いてあったので引用しておこう。旧字は新字に改めた。ロンドン大学の某博士とは、誰だろうか。

此の間丸太町の彙文堂*4で「此んな事なら此の間の和本潰すのやなかつた」と云ふ嘆声を聞いたので何故ですかと問へば、昨日ロンドン大学から某博士が本を買ひに来て、此つちの潰して仕舞ふうな本を迄求めて居たと云ふ。
何でも中国で永い事研究してゐる言語学の博士で唐本は中国で相当量仕入れた。日本の和本も東京で大部求めたが関西迄足を延ばして来たらしい。
何にするのかと云へば日本人の送り仮名の研究に資する由。柳文も韓文も要る訳である。感心するより私は呆れた。

河合卯之助の『窰:向日窯陶誌』から見た河合山脈ー小川千甕・川西英・寿岳文章・安田青風・山田一夫ー


 特定非営利活動法人向日庵の機関誌『向日庵』7号(向日庵、令和6年3月)を御恵贈いただきました。ありがとうございます。「編集後記」では、寿岳文章を論じた記念碑的な2著として、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)と島貫悟『柳宗悦ウィリアム・モリス:工藝論にみる宗教観と自然観』(東北大学出版会、令和6年2月)が紹介されている。前者には、高木「一九四〇年代の寿岳文章ー日本主義と民主主義」が収録されているのである。
 高木論文には、昭和8年寿岳が南禅寺僊壺庵から向日庵へ移った向日町について、寿岳のほかに狩野直喜や河合卯之助が居を移したとある。寿岳と河合の関係については、私は「京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。その後、河合が主宰した雑誌『窰:向日窯陶誌』4号(向日窯、昭和38年11月)をハナ書房から入手したので、紹介しておこう。非売品で48頁、編集兼発行人は、上田森蔵である。目次を挙げておく。

 日記や書簡好きのオタどんとしては、河合「窯間日記抄」と菊童*1編「書簡集」に注目。後者には、川西英、大西良慶、小川千甕、山田一夫、安田青風、中村桃生(便利堂社長)らの書簡が掲載されている。千甕の書簡は、『窯』春の巻に寄稿が掲載された御礼である。そこで、3号(春の巻)を所蔵する民博図書室で見てきた。昭和38年3月発行で、千甕の「『窯』編集のおかたへ」が掲載されていた*2。これは、『縦横無尽:小川千甕という生き方』(求龍堂平成26年11月)の橘川英規編「小川千甕書誌」に未記載なので、補足としておこう*3西行堂でのスケッチ(キャプションでは大正4年、本文では大正9年)も載っている。
 山田一夫書簡の住所は京都市で、『夢を孕む女』や『配偶』の著者である山田かもしれない。河合と山田の関係は、不明。味の素食の文化センターが所蔵する『食道楽』2年6号(昭和12年6月)掲載の「食道楽座談会」に両者の名前が見えるので、その時以来の仲かもしれない。
 残念ながら、3号・4号には寿岳の名前はなかった。しかし、大久保久雄・笠原勝朗編『寿岳文章書誌』(寿岳文章書誌刊行会、昭和60年1月)によれば、2号(昭和37年11月)に「ひとときを永遠に」を寄稿している。河合と寿岳の関係は、柳宗悦・芹沢銈介・河井寛次郎と寿岳の関係に比べれば薄かったであろうが、もっと語られるべきであろう。向日市文化資料館には、河合に関する展覧会を期待しておこう。
 なお、ググると10年前オークションに1号~4号、特別号(昭和40年、河合卯之助喜寿記念)、『偲び草』(昭和43年、夫人追悼誌)が出ていたようだ。買ったのが研究者で、何らかの形で発表されればよいが。

 

*1:上田菊童(本名森蔵)と思われる。

*2:他には、山田無文「想い出の嵯峨」、北川桃雄「陶器好きの履歴書」、岡部伊都子「鑑賞者」、高橋邦太郎「陶器の都・デルフト」、奈良本辰也「『砂田光悦』あれこれ話」、須田尅太の書簡などが載っている。

*3:他に補足として「楠部南崖の俳誌『変人』(俳華堂)と小川千甕ー『縦横無尽』(求龍堂)の「小川千甕年譜」「小川千甕書誌」への補足ー - 神保町系オタオタ日記」参照