神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

唯書房から京都中心の合同古書目録『書之燈』


 一昨日(5月17日)の大阪古書会館「たにまち月いち古書即売会」では、「南木」宛の葉書が挟まった雑誌『上方趣味』を発見。これは、南木芳太郎だろうとホクホクと購入。詳細は、もう少し調べてからアップします。
 今回は、唯書房から500円で購入した古書目録を紹介しよう。『書の燈』第1号(阪倉庄三郎、昭和24年9月)と『書之燈』第2号(阪倉庄三郎、昭和24年11月)である。前者は照文堂(赤尾薫一)、京都書院(藤岡健太郎)、白州堂(北川光蔵)、文華堂(中山善次)、京阪書房(阪倉)*1、書林(高尾彦四郎)、臨川書院(武井一雄)*2、春和堂伏見店(若林正治*38店の合同古書目録である。表紙が「斎藤昌蔵氏書票」 。正しくは、「斎藤昌三氏蔵書票」ですね。後者は、白州堂を除く7店の合同古書目録である。大阪の高尾書林以外は京都の古書店で、高尾が参加したのはどういう経緯だろうか。第2号の裏表紙に関係書店の地図が載っているので、挙げておく。

 現在も存続しているのは、赤尾照文堂、文華堂、臨川書店、若林春和堂(ただし、新刊書店)である。京阪書房が令和4年6月に閉店したのは、記憶に新しいですね。
 第1号と第2号で微妙にタイトルが変更されている。第3号は『書之燈』で、「京都における戦前の合同古書目録『書燈』と戦後の合同古書目録『書之燈』 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。これで、第1~第3号が揃った。第3号は、印刷がからふね屋印刷所だったことに注目した。しかし、第1号と第2号の印刷は、タムラ印刷所であった。第3号から変更していたことになる。
 第1号の「偶感」(W記)に面白いことが書いてあったので引用しておこう。旧字は新字に改めた。ロンドン大学の某博士とは、誰だろうか。

此の間丸太町の彙文堂*4で「此んな事なら此の間の和本潰すのやなかつた」と云ふ嘆声を聞いたので何故ですかと問へば、昨日ロンドン大学から某博士が本を買ひに来て、此つちの潰して仕舞ふうな本を迄求めて居たと云ふ。
何でも中国で永い事研究してゐる言語学の博士で唐本は中国で相当量仕入れた。日本の和本も東京で大部求めたが関西迄足を延ばして来たらしい。
何にするのかと云へば日本人の送り仮名の研究に資する由。柳文も韓文も要る訳である。感心するより私は呆れた。

河合卯之助の『窰:向日窯陶誌』から見た河合山脈ー小川千甕・川西英・寿岳文章・安田青風・山田一夫ー


 特定非営利活動法人向日庵の機関誌『向日庵』7号(向日庵、令和6年3月)を御恵贈いただきました。ありがとうございます。「編集後記」では、寿岳文章を論じた記念碑的な2著として、高木博志編『近代京都と文化:「伝統」の再構築』(思文閣出版、令和5年8月)と島貫悟『柳宗悦ウィリアム・モリス:工藝論にみる宗教観と自然観』(東北大学出版会、令和6年2月)が紹介されている。前者には、高木「一九四〇年代の寿岳文章ー日本主義と民主主義」が収録されているのである。
 高木論文には、昭和8年寿岳が南禅寺僊壺庵から向日庵へ移った向日町について、寿岳のほかに狩野直喜や河合卯之助が居を移したとある。寿岳と河合の関係については、私は「京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがある。その後、河合が主宰した雑誌『窰:向日窯陶誌』4号(向日窯、昭和38年11月)をハナ書房から入手したので、紹介しておこう。非売品で48頁、編集兼発行人は、上田森蔵である。目次を挙げておく。

 日記や書簡好きのオタどんとしては、河合「窯間日記抄」と菊童*1編「書簡集」に注目。後者には、川西英、大西良慶、小川千甕、山田一夫、安田青風、中村桃生(便利堂社長)らの書簡が掲載されている。千甕の書簡は、『窯』春の巻に寄稿が掲載された御礼である。そこで、3号(春の巻)を所蔵する民博図書室で見てきた。昭和38年3月発行で、千甕の「『窯』編集のおかたへ」が掲載されていた*2。これは、『縦横無尽:小川千甕という生き方』(求龍堂平成26年11月)の橘川英規編「小川千甕書誌」に未記載なので、補足としておこう*3西行堂でのスケッチ(キャプションでは大正4年、本文では大正9年)も載っている。
 山田一夫書簡の住所は京都市で、『夢を孕む女』や『配偶』の著者である山田かもしれない。河合と山田の関係は、不明。味の素食の文化センターが所蔵する『食道楽』2年6号(昭和12年6月)掲載の「食道楽座談会」に両者の名前が見えるので、その時以来の仲かもしれない。
 残念ながら、3号・4号には寿岳の名前はなかった。しかし、大久保久雄・笠原勝朗編『寿岳文章書誌』(寿岳文章書誌刊行会、昭和60年1月)によれば、2号(昭和37年11月)に「ひとときを永遠に」を寄稿している。河合と寿岳の関係は、柳宗悦・芹沢銈介・河井寛次郎と寿岳の関係に比べれば薄かったであろうが、もっと語られるべきであろう。向日市文化資料館には、河合に関する展覧会を期待しておこう。
 なお、ググると10年前オークションに1号~4号、特別号(昭和40年、河合卯之助喜寿記念)、『偲び草』(昭和43年、夫人追悼誌)が出ていたようだ。買ったのが研究者で、何らかの形で発表されればよいが。

 

*1:上田菊童(本名森蔵)と思われる。

*2:他には、山田無文「想い出の嵯峨」、北川桃雄「陶器好きの履歴書」、岡部伊都子「鑑賞者」、高橋邦太郎「陶器の都・デルフト」、奈良本辰也「『砂田光悦』あれこれ話」、須田尅太の書簡などが載っている。

*3:他に補足として「楠部南崖の俳誌『変人』(俳華堂)と小川千甕ー『縦横無尽』(求龍堂)の「小川千甕年譜」「小川千甕書誌」への補足ー - 神保町系オタオタ日記」参照

戦時下ジャカルタで南方文化研究所を開設する地理学者林宏ー大佛次郎『南方ノート』からー


 『日本民俗学大系第1巻』(平凡社昭和35年4月)の小川徹民俗学と地理学、とくに人文地理学との関係」は、「三 民俗学史上における人文地理学的方法」の付記として、小寺廉吉*1、林宏、山口弥一郎、千葉徳爾らの民俗学的活動に触れなかったことに言及している。これら地理学者のうち、山口弥一郎については、最近内山大介・辻本侑生『山口弥一郎のみた東北:津波研究から危機のフィールド学へ』(文化書房博文社、令和4年2月)が刊行されたところである。そこで、今回は林宏の話題にしよう。
 小川は前記論考で、「林宏氏も地理学者出身で近畿・北陸の民俗にくわしいし、南方その他海外の民族学的研究にも関心が深い人である」としている。林の経歴を調べると、『吉野の民俗誌』(文化出版局、昭和55年3月)に次のような著者略歴(西暦を元号に改めた)が載っていた。

林宏(はやし・ひろし)
大正3年 富山県砺波市生れ
昭和16年 京都帝国大学文学部史学科(地理専攻)卒業、同時に同大副手
昭和24年 奈良学芸(現教育)大学講師となり、助教授・教授を経て、昭和54年、定年退官
(略)

 戦時中の動向が不明ですね。ところが、大佛次郎記念館編『南方ノート・戦後日記』(未知谷、令和5年8月)を読んでいたら、林が出てきて驚いた。

(昭和十八年)
十二月二十三日
(略)酒井君*2が若い地理学者の林宏君(注71)を連れ Batavia の図を持って来てくれる。(略)
十二月二十四日
(略)南方文化研究所(注73)へ行き、林氏に本を貰ったり見せて貰ったりする。(略)
(昭和十九年)
一月二十五日
(略)林宏君とバサールスメン(略)の古本やを覗く(略)夕方小野佐世男*3林君と来たる(略)

注記
71 林宏 民俗学者(1914~不詳)。
73 南方文化研究所 啓民文化研究所*4とは別組織。詳細は不明。

 当時大佛は、同盟通信社の嘱託として南方に派遣され、この時点ではインドネシアジャカルタに滞在していた。そこで、南方文化研究所を開設していたと思われる林と交流していたことが書かれている。林についても、いつか『山口弥一郎のみた東北』のような本が書かれるであろうか。
追記:『帝国大学年鑑:昭和十九年度版』(帝国大学新聞社、昭和18年9月)の「各大学の動向」に、昭和17年京都帝国大学文学部を中心に南方文化研究会が結成され、会長成瀬清、副会長松本文三郎、顧問羽田総長、会員は文学部有志教授より成るとある。毎月総合研究会を開くほか、南方関係文献の蒐集を行い、将来現地に調査派遣するともあり、この会と南方文化研究所は関係があるのかもしれない。

*1:小寺廉吉と辻村太郎が旅した硫黄島の思い出 - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:昭和18年12月23日の条に出てくる啓民文化研究所の酒井常陽

*3:昭和17年8月シンガポールで交錯したジャワ派遣の大木惇夫と日米交換船の鶴見和子・俊輔 - 神保町系オタオタ日記」参照

*4:河西晃祐「大佛次郎『南方ノート』解題」によれば、啓民文化研究所は、昭和17年4月軍政部によりつくられた文化施設。初代所長は陸軍大佐中山寧人、総務を大宅壮一が担い、文学部の指導者として武田麟太郎、美術部には小野佐世男が配置されていた。

広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た京都帝国大学生の絵葉書:オールドブックス ダ・ヴィンチから


 碧海寿広『仏像と日本人:宗教と美の近現代』(中央公論新社、平成30年7月)105頁に、町田甲一が戦時下に京都の寺を巡ったとある。

 戦後日本を代表する美術史家の一人である町田甲一(一九一六~九三)も、東京帝国大学の学生時代に、友人と奈良に近い京都の寺(略)を巡っている 【町田一九八九】。それは、一九四三年の三月下旬のことであった。「戦争はいよいよ絶望的な段階に深入りして行く時期で、若いものは、少しでも心の糧になるものを、むさぼり求めている時代だった。古寺をたずね、古い仏像に心の安らぎを求める人が少なくなかった」。

 上記は町田の後年の回想だが、手元に京都帝国大学の学生が広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た感想を友人?に送った絵葉書がある。数年前さんちか古書大即売会で、オールドブックス ダ・ヴィンチから入手、100円。最近さんちかとは相性が悪く、初日に行っても拾えないので最終日に行く時もある。この時は初日に行ったのに買えず、最後にダ・ヴィンチの100円の絵葉書箱を漁っていて、見つけた気がする。
 この際言っておくと、ダ・ヴィンチの値札は大きな短冊でビニール袋の中に絵葉書の表面(宛名面)の方へ入れてある。絵葉書を漁る人はもっぱら裏面(絵柄が印刷)を見るのでそれでいいのだが、私みたいにもっぱら表面の宛名人や発信者、下部にある通信欄の記述に注目して買う人には値札が邪魔でしょうがない。一々開封する訳にもいかないので、何とかならないですかね。
 さて、この絵葉書はかろうじて「大阪の中学時代の友達」とか広隆寺の仏像を観たらしいと読めたこと、発信者が京都市上京区出雲路に下宿していることに注目した。もしや、第三高等学校京都帝国大学の生徒・学生ではないかと買ってみた。消印と発信者が重なって読みにくいが、消印は昭和15(又は16)年11月20日で、発信者は藤江金一郎のようだ。国会デジコレで調べると、藤江は、静岡県出身で昭和15年3月第四高等学校(金沢市)文科甲類を卒業後、京都帝国大学経済学部に進み、昭和17年9月に卒業している。本来修業年限は3年だが、戦時下のため臨時短縮されている。京大生かもと思った読みは、当たっていた。宛先は、大阪府島本村の森田茂である。
 葉書の文面は、9日に大阪の中学時代の友達と太秦広隆寺に行って、「宝冠弥勒」を観たことが書かれていた。感想として、

元来、神経が太くて何うしても、明瞭に美の本体をつかむ事は出来ないが、久し振りに、傑作に出会ふと、何だか、嬉しくなる。正面から眺め、横から□□□して居る内に、ふーんと感心して了ふ。何故、何所を感心するのかと言つても別[ママ]らない。全体からうける一つの電子見たいなものが、ぴん/\飛んで来て、□□□と言つた方が良い。まあそんな喜び方だ。
併し、最も、美しいと小生なりに感じた所は、頬に当てた指、五指の柔軟さである。此れは特に目立つ。

 藤江は、戦時短縮で京大を卒業して出征したのかもしれない。戦地で半跏思惟像を見たときの感動を思い出すことはあっただろうか。
追記:「Kyoto University Research Information Repository: 2 京大出身戦没者(判明分) (II データ)」(京都大学大学文書館)の「戦没者氏名」に、戦没年月日不明、戦没場所不明で藤江の名前が挙がっている。
参考:兵庫古書会館でオールドブックス ダ・ヴィンチから早稲田大学教授武田豊四郎の絵葉書を見つけたことは、「兵庫古書会館で武田豊四郎発の絵葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記

古書あじあ號で買い逃した宗教雑誌?『復興』と買ってしまった婦人雑誌『日本婦人』ー日本婦人新聞社の衣川延治とはー


 四天王寺春の大古本祭りが終了しました。今回古書あじあ號が目録参加のみ*1で、会場は不参加でした。体調がお悪いようです。御回復され、次回を期待しています。あじあ號というと、均一台で買い逃した本を思い出す。「買った本より買い逃した本の方がいつまでも記憶に残る」というのは、古本者の皆様には共感していただけるだろう。
 あれは、5年前の四天王寺だった。あじあ號の500円均一台に背表紙に『復興』と書かれた雑誌の合冊版らしきものがあった。タイトルから関東大震災からの復興に関する雑誌かなと思っただけで、目次を見ることもしなかった。ところが、翌日吉永さんが入手され、民間精神療法に関する珍しい記事が載っていたという。悔しいので詳しい話を聞かなかった。そのためどういう雑誌とか記事の詳細も分からない。大谷大学図書館が創刊号を有する『復興』(大谷大学内復興社、大正13年1月)と同じものかどうか。
 私はその時のあじあ號からは、「心斎橋のヨネツ子供服装店と三条寺町のコドモヤ洋装店 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『日本婦人』(日本婦人新聞社)5冊(大正12年4月~8月)を入手している。値段が付いていないので、店主に聞くと1冊1,000円だという。どうしても欲しい雑誌ではなく5冊5,000円ではなあと思ったが、今更返すのも恥ずかしいのでお買い上げ。まあ、京都発行の婦人雑誌で珍しそうだという意識もあった。

 30号(大正12年5月)の目次を挙げておく。目次に記載はないが、「宇宙の大愛に触れよ」の執筆者は帆足理一郎である。残りの無署名の記事は、編輯発行兼印刷人の衣川延治の執筆なのだろう。目次と共に挙げた「『日本婦人』の使命」にあるように格調の高い雑誌で、実用的な婦人雑誌というより修養雑誌、更には宗教雑誌の感がある。それもそのはずで、この時点では特定の宗教性をうかがうものはないが、国会図書館デジタルコレクションで見られる『報告書8(司法研究;第21輯)』(司法省調査課、昭和12年3月)に、「京都市左京区西福の川天理教信者衣川延治著「吾れ天地を語る」と題する著書は、宇宙間の現象を天理教独特の教義に依り説明するもの」とある。この衣川の住所は、『日本婦人』奥付記載の日本婦人新聞社の所在地と一致する。また、天理大学附属天理図書館が衣川著の『神言註解やしきの言葉』(天光社、昭和10年)を所蔵している。大正12年当時から天理教の信者だったかは不明だが、後に天理教の信者となっていたことになる。
 衣川の詳しい経歴は不明である。『新聞総覧大正11年版』(日本電報通信社、大正11年)によれば、『日本婦人新聞』(月2回)を大正10年5月12日に創刊している。中嶌邦監修『「日本の婦人雑誌」解説編』(大空社、平成6年1月)の「近代婦人雑誌関係年表」(三鬼浩子)によれば『日本婦人』は大正10年6月25日創刊*2なので、同時期に婦人新聞と婦人雑誌を発行していたことになる。京都で手広くやっていたようだ。入手した『日本婦人』の裏表紙には、髙島屋呉服店や大丸呉服店の広告が載っていて、宣伝効果があると評価されていたのだろう。なお、令和4年阪神百貨店古書ノ市でモズブックスから同誌68・69号合本(日本婦人会、大正15年8月・9月)も入手しているので、発行所名の改称はあったものの5年間は続いたことが確認できる。

追記:むしろ古書あじあ號が「日本の古本屋」に大正13年6月号を出品して売り切れた大阪の復興社が発行していた『復興』の方かもしれない。

*1:古書あじあ號が目録に出品した薄田泣菫『暮笛集』(金尾文淵堂、明治32年11月)30万円や『泣菫詩集』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社大正14年2月)8万円は、売れただろうか。

*2:「近代婦人雑誌関係年表」大正10年の条の末尾に「〈この年〉」として記載され、凡例に「刊行が認められながら、実際に確認出来なかった場合〈この年〉として当該年の末尾に収録した」とある。やはり珍しい雑誌のようだ。

武井武雄刊本作品友の会本会員を目指す我慢会の好古家や宝塚の女優達


 先日1時間遅らせて行った京都古書会館の古本まつりで見つけたもう1枚*1の葉書。武井武雄から北海道弟子屈の木下某宛で、昭和41年6月7日付けである。文面は、
・色々と委しい報告を拝見したこと
・近く(多分8月下旬)我慢会への特頒があり、今度のは一寸豪華版であること
・11番までくれば、いずれ入会の可能性があること
などが書かれている。シルヴァン書房出品で、500円。
 武井については、平成26年5月京都髙島屋の「生誕120年武井武雄の世界展」や昨年7月神奈川近代文学館の「本の芸術家武井武雄展」を観ている。しかし、前者の図録や後者のリーフレットを見ても、葉書中の「特頒」が特定できなかった。
 ところが、ゴールデンウィーク中に書物蔵氏らと行った阪急古書のまち内のリーチアートで武井に関する資料が詰まった袋を発見。『武井武雄刊本作品と周辺事項年譜』(刊本作品友の会、昭和51年7月)、『武井武雄刊本作品目録』(刊本作品友の会、昭和58年11月)や『武井武雄刊本作品友の会規約』などが入って、2,750円。大喜びして、購入した。
 規約によれば、
・会員は親類という愛称が付けられ、300名の本番からなる。武井の刊本作品を版元から毎回頒本が受けられる。
・本番を待つ人を我慢会員とし、特別頒布の機会に限り200番まで頒本される。
 規約の末尾には昭和47年4月から実施とあるが、葉書の出された昭和41年当時も大筋では変わらないだろう。また、目録を見ると63番『祈祷の書』が、470部で昭和41年6月25日刊・10月15日開頒である。8月下旬予定の特頒が遅れたのであろう。値段も2,750円*2で、それまでの刊本の中では3番目に高い値段だ。確かに「一寸豪華版」であった。
 更に奈良に行ったら古書柘榴ノ國で、数冊の『刊本作品親類通信』*3を発見。「古本が古本を呼ぶ」(by高橋輝次氏)ですね。1冊400円。そのうちの14号(刊本作品友の会、昭和39年4月)に、『我慢会順位(昭和39年5月現在)』が挟まっていた。これによると、木下は24番であった。ここから、昭和41年6月には11番にまで繰り上がったことになる。木下は、その後めでたく本会員になれただろうか。
 この順位表には、他に後に西宮で辰馬考古資料館を創設する辰馬悦蔵や造本小僧こと内藤政勝の名前がある。また、宝塚歌劇天津乙女、黒木ひかる、歌川波瑠美ら8名ほどの女優も見える。歌劇団で武井が人気だったのだろうか。

*1:京都古書会館で入手した別の葉書については、「京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:偶然だが、私がリーチアートで武井の資料を買ったのと同じ値段だ。

*3:武井武雄刊本作品と周辺事項年譜』によれば、昭和32年10月『豆本親類通信』として創刊され、11号から『刊本作品親類通信』と改称された。

『古本イエーZINE』8号に「京都市立絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェーカナリヤ」寄稿


 みやこめっせの古本まつりをウロウロしてたら、狂言屋こと齊藤さんの奥さんと遭遇。『古本イエーZINE』8号(狂言屋、令和6年4月)をいただいた。ありがとうございます。拙稿「京都市立絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェーカナリヤ」が載ってます。例によって、タイトルが長いですね。昭和2年京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身の一つ)の生徒やOBを中心に結成された劇団美術劇場と、同時期に河原町蛸薬師にあったカフェーカナリヤについて話題にしたものです。同誌の目次もあげておきます。

 美術劇場には、粥川伸二、高谷伸、永野芳光、伴登代彦、福田豊四郎、山川幸世、吉川観方らが参加した。1冊200円かと思います。「狂言屋」でググるとヒットする二条駅前のお宅で買えます。拙稿で言及した市道和豊氏と斎藤光氏には送付する予定です。
 なお、京都市立芸術大学芸術資料館では移転記念特別展「京都芸大〈はじめて〉物語」の「第1期カイセン始動ス!」が6月2日まで開催中。