ゆらぎの生動感(閑人亭日録)

 味戸ケイコさんの絵、北一明の茶盌から「(ぐっと迫ってくる)訴求力がある」「(ぐっと惹き込まれる)奥の深い印象」としか表現できない感動を覚える。訴求力、奥の深い印象とは何とも曖昧だ。他に良い表現がないかと、無い知恵を絞って呻吟はしないが、午後布団にもぐりぐっすり沈思黙考・・・短い眠りから目覚めてハタと浮かんだ言葉が「ゆらぎのダイナミズム」。ダイナミズムを辞書で調べると、私の思う意味とはちょっと、いや結構違う。で、却下。ここは日本語で「ゆらぎの生動感」に仮留め。以前浮かんでいた用語は「隔たりの君臨」。カッコいいなあと自賛していたが、堅い印象が気になった。美にはそういう側面があるだろうが、それだけではない。もっと生々しいモノだ。瑞々しいといってもいい。20日の日録で紹介した塚本邦雄の短歌と加藤郁乎の俳句。

《 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる 》

《  冬の波冬の波止場に来て返す  》

 塚本邦雄は、「隔たりの君臨」、加藤郁乎は「ゆらぎの生動感」といえよう。二人の著作はずいぶん読んだが、ファンレターを投函してお目にかかり、長くお付き合いしたのは加藤郁乎だった。

美しき魔モノ(閑人亭日録)

 これからの美術品で心を魅了する作品、心を虜にする魔性の作品が現れるだろうか。美は破調にあり、ともいう。調和のとれた美術作品には感心はしても気紛れの風が吹く。心を揺さぶる作品は、破調、乱調を潜ませているだろう。すなわち歴史の正統性からの逸脱。伝統への挑戦、美の革命。生きているうちにその現場に立ち合いたい。見果てぬ夢か。夢は見るもの。美しき魔モノに遭遇したい。・・・しかし、味戸ケイコの小さな絵、北一明の焼きもの、白砂勝敏の木彫椅子・・・の他に何を希求するというのだろう。美しき魔モノはすでにそこにある。ユーレカ! 我、発見せり。
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
 http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm
 https://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/

 午後、北一明記念館の方が来訪。運営などいろいろ語り合う。有益な内容。
 https://www.kitakazuaki-kinenkan.jp/

『第13巻 言語空間の探検』(閑人亭日録)

 共同通信などが報道。
《 冷泉家秘伝の箱130年ぶり開封 藤原定家古今集注釈書発見 》
 https://news.yahoo.co.jp/articles/417aecf9592ff7a3e9c7d06e9305c5c40a3311ce
 昨日取りあげた『全集・現代文学の発見 第13巻 言語空間の探検』収録、安西均「新古今斷想 藤原定家」を想起。

《 「それが俺と何の関わりがあらう? 紅(クレナヰ)の戦旗が」
  貴族の青年は橘を噛み蒼白たる歌帖(カイエ)を展げた
  烏帽子の形をした剥製の魂が耳もとで囁いた
  燈油は最後の滴りまで煮えてゐた
  直衣の肩は小さな崖のごとく霜を滑らせた
  王朝の夜天の隅で秤は徐にかしいでゐた
  「否(ノン)! 俺の目には花も紅葉も見えぬ」
  彼は夜風がめくり去らうとする灰色の美學を掌でおさへてゐた

  流行行雲花鳥風月がネガティヴな軋みをたてた
  石胎の闇が机のうへで凍りついた
  寒暁は熱い灰のにほひが流れてゐた
  革命はきさらぎにも水無月にも起らうとしてゐた。 》

 革命は今・・・起らうとしてゐない。が、しかし、視点を変えてみれば。「美術の発見」「美術の発掘」。そこから現(露)われてくる何か。知覚の転換、地殻の変動。歴史観、正統性を揺るがす作品。縄文~KAOSU。

『全集・現代文学の発見』(閑人亭日録)

 『全集・現代文学の発見』学藝書林刊の小さな新聞記事を読んで高校生の私は本屋へ走った。全十六巻のうち最初の配本は『第七巻 存在の探求 上』昭和四十二年十一月十五日 第一刷発行 七百五十円。埴谷雄高『死霊(全)』が幻の書と紹介されていた。わくわく。早速読んでみた。なんだかわからないけれども、じつに刺激的だった。「これぞ、存在の探求だ」。当時、哲学(存在論)に興味をもっていた。以来半世紀余。先だって病床で未完の『死霊』を読了。
 この『全集・現代文学の発見』学藝書林は、人生の方向を決定づけた全集と、今にして気づく。だが、十六巻全部を購入したわけではなく、興味を惹かれた十一冊が本棚にはある。当時から完全、完集を目指してはいなかった。自分にとって必要不可欠と見なすエッセンス、モノを選んでいた。そのうちの一冊が『第13巻 言語空間の探検』昭和四十四年二月十日第一刷発行 七百五十円。大岡信編集のこの巻は、繰り返し読んだ。安西冬衛から天沢退二郎まで現代詩人の詩がずらりと並ぶが、その後に控えた塚本邦雄岡井隆の短歌、金子兜太(とうた)、高柳重信(じゅうしん)、そして加藤郁乎(いくや)の俳句にぐっと興味を覚えた。大岡信は解説の結びに書いている。

《 また、現代短歌、現代俳句の代表的作品が収録されているが、現代の詩的達成を考える場合、とくに「言語空間」の多様なひろがりを考え合わせるなら、当然現代詩と同じ資格においてとりあげられるべき短歌や俳句があるという考え方から出たものである。蛇足ながらつけ加える。 》 529頁

 最初の塚本邦雄の短歌「惡について」第一首。

《 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる 》

 嗚呼! ガツンとやられた。
 そして加藤郁乎「像」の第一句。

《  冬の波冬の波止場に来て返す  》

 この重々無尽の揺れ戻し・・・は何だろう。無意味の極み・・・か。
 以後、塚本邦雄と加藤郁乎の本を探索することになった。

屈折 鬱屈 挫折(閑人亭日録)

 屈折、鬱屈、挫折。嬉しくない言葉が三つ並んだ。それは私の青春の代名詞。まあ、ひどい言葉だ。でも、そう。大学の卒業時、母親から懇願され、一年間地元の調理師学校へ通った。早朝、両親の営む甘味処の商品の仕込みを手伝ってから学校へ。半年後、仕込みを終えた父が心筋梗塞で急死。店をどうするか。家族、従業員のために継ぐことを余儀なくされた。葬式の時、大学の友人から「この仕事はお前には向かない」と言われた。それはよくわかっている・・・。挫折感に襲われた。鬱屈した日々、月に一度、東京の美術展へ行くことが唯一の息抜きに。
 二十代半ば、東京の知人と再婚した女性は私の第一印象を「ベトナム帰還兵のようだったわ(=根暗)」と述べた。彼女から北一明の著作『ある伝統美への叛逆』三一書房1981年初版を薦められ、読んでみた。彼女に感想を認めたところ、それを読んだ北から連絡があった。それから北との三十年余りにわたる親交が始まった。
 二十代半ば、味戸ケイコさんの絵画集『かなしいひかり』講談社1975年初版に、池袋駅東口のパルコにあった詩の専門店で遭遇。絵を見て迷わず購入。それから味戸さんの本を集めはじめた。ある本の最終頁に住所が記されており、ファンレターを投函。当然返事など期待しないまま何通か投函。しばらくしてお返事が届いた。味戸さんの絵に、深く沈み込んだ重い心が掬われた。
 味戸さんの絵に鬱屈した心が救済された。北一明の「伝統美への反逆精神」に心が奮い立った。

曇天小雨黄昏・・・(閑人亭日録)

 午前の会合を欠席。午前午後、布団で横になる。ことんと寝落ち。なんでこんなに寝てしまうのだろう。陽気のせいか。病み上がりのせいか。
 大坪美穂さんの個展が紹介されている記事。来月行かれればいいが。
 https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2024/04/18/153857
 黄昏人生・・・昏れなずむ雨の夕景色をぼんやり眺めて夕食。友だちの電話が鳴る。友人の母親が亡くなったという知らせ。神奈川県の葬儀場へ行く算段を友だちは立てる。みんな亡くなっていく・・・。食慾が出ないなあと思いつつ結構食べた。仕上げにイチゴとヨーグルト。しっとり美味しい。なんか元気が湧いてきた。ゲンキンな私。それでいいのだ。オレはジジイだ(意味ない)。

深沢幸雄の盃(閑人亭日録)

 銅版画家・深沢幸雄氏から生前恵まれた盃二客を久しぶりに卓上に置いて鑑賞。一つは径65mm、高さ50mmほどの渋く青い釉薬が厚く掛けられた磁土の盃。もう一つは径70mm、高さ50mmほどの渋い灰釉薬の掛けられた塩笥(しおげ)型の陶土の盃。どちらも小ぶりで掌にすっと載り、まるく収まる。この感触が、北一明の盃とは異なる特徴。北一明の盃は、茶碗の小型版(ミニチュア)といえるもの。掌にすっと収まるものではない。指先で挟んで全体を鑑賞するのが北一明の盃。深沢幸雄の分厚い胎土の持ち重りのする盃は、器全体が柔らかな丸味のある局面を描いている。鋭角な表現に対する柔和な表現。そんな違いを、頂いた昔は気づかなかった。北一明は、切っ先鋭く抜きん出た表現を盃にも求めていた。深沢幸雄は、掌(たなごころ)にすっと馴染む感触を大事にした。それはいかにも日用雑器の印象だが、それもまた味わい深い。鑑賞陶磁器ではなく、実用陶磁器。若い人なら「カワイイ!」と言うだろう。大事に使いたい。