『記憶と芸術』七(閑人亭日録)

 高遠弘美「「引用的人間」の記憶について」から。

《 言い古された言葉のようだが、「美しい」という要素は詩文を暗記するうえで最終的にして決定的な要素であるような気がする。 》 268頁

《 あまたの藝術作品をただ死蔵せるがごとくしまっておくのではなく、ここぞというときに目の前に出してくる。 》 274頁

《 まさに、中野(宏昭)の批判する「集めるだけで真剣に聴く機会を持たなくなるコレクター」に堕するところだった。 》 283頁

《 記憶の内に取り込み、それを安易に「再生」するのではなくて、自らの人生の「経験」として生の時間と結びつけること。 》 285頁

『記憶と芸術』六(閑人亭日録)

 進藤幸代「ハワイ・ポノイを歌うこと」結び。

 《 日本人に人気のあるホノルルマラソンにのコースには、ハワイアンが失った土地とハワイアンにとっての聖地が含まれ、外国資本のホテルが立ち並び、スタート地点ではハワイ・ポノイも歌われる。いわばハワイアンにとってホノルルマラソンは、自分たちが失ったものを象徴するイベントなのである。 》 211頁

 萩原朔美「意味を逃れる」から。

《 思い出というものはない。思い出すという行為があるだけだ。 》 221頁

《 数ヶ月前、誰の著作だか忘れてしまったが、「すぐれた学説、力ある学説は、全てその起源に、詩的直感をもつ」という文章に出会った。ビックリした。論文の世界にも韻文の要素が必要なのだ。詩という、意味から自由に飛翔した言葉を、学説のなか中にも潜ませる。それはきっと論理によって伝わる文字列ではなく、感性を刺激し心に伝わる論文なのだろう。 》 223頁

『記憶と芸術』五(閑人亭日録)

 水沢勉「+記録/+記憶」から中村信夫「現代美術の展望」の一文。

《 従来優れた作品とは、安定し、強固で、物質的であると信じられていたが、今日それらは実際には本質的にもろいものであるということに我々は注目し始めている。 》 77頁

 昨日、故つりたくにこさんの第二冊目の作品集出版をお知らせした平野雅彦さんから返事のメール。

  《 ご連絡ありがとうございました。
  つりた作品は、外国人だからこそ発見できる世界があるんでしょうね。
  フランスの出版界は、すごいですね。
  日本の漫画で、今、カバーや表紙にお金を掛けられる漫画家って、
  限られていますね。
  ましてや過去の作品となると、更に限られます。 》
 https://www.amazon.com/Books-Kuniko-Tsurita/s?rh=n%3A283155%2Cp_27%3AKuniko+Tsurita
 平野さんの2010年のブログから。
 http://www.hirano-masahiko.com/tanbou/1388.html

 『松岡正剛の千夜千冊』、「1845夜 エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』創元社2016年」が興味深い。
 https://1000ya.isis.ne.jp/1845.html

『JOUER AU LOUP』(閑人亭日録)

 雨が降ったり止んだりの不順な天気。天気に連動したかのような不安定な体調を持て余しているとき、マンガ家故つりたくにこさんの夫高橋氏から嬉しいメールが届く。

  《 2冊目の仏語版のタイトルがJOUER AU LOUPと決まり、6月に出ます。tague.playing tag. 狼ゲーム、鬼ごっこの事で、「鬼ごっこ」は未発表作品です。loup がつくとは作者も予測し得なかったでしょう。スイスの出版社の心意気を感じます。 》

   ついに続編の作品集が出版される。これは凄い。日本でさえ一冊しか出版されていないのに。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%93

『記憶と芸術』四(閑人亭日録)

 谷川渥「絵画の時間性 序説」から。

《 美や芸術の脱時間性をア・プリオリに主張するならはじめから問題はない。(引用者・略)というのも、芸術においてこそ、時間の現在性というものがもっとも顕著にあらわれるからである。 》 55頁

《 理由律に従い、既知のものを根拠として未知のものに向かう学問の時間的性格が過去的であり、未来の目的の実現を命令する道徳の時間的性格が未来的であるとすれば、芸術の時間的性格はまぎれもなく現在的である。そして宗教の施志向する永遠なるものを形而上学的現在と呼びうるとすれば、芸術の現在は現象学的現在と言わねばならない。それは直観に於て持続する具体的な現在である。 》 56頁

《 瞬間の表象において、知覚的時間と観念的時間とは、想像力を媒介として密接な関係を取り結ぶ。 》 68頁

《 しかし、絵画本来の時間性とは、どんなものだろうか。それは、作品がもはやいかなる出来事をも表象せず、作品自体がいわば一つの出来事である、そのような場合における時間性であろう。作品はただそこに現前するだけで、指向的世界についてとりわけて語りはしない。だからそこには観念的時間が遊離してあるわけではない。知覚的時間と観念的時間との分裂を原理的に拒否するような時間性のあり方が、絵画本来の時間性と言うべきである。絵画が時間体験の場になる、「現在」が湧出するトポスとなる。見ることのうちに時間が生起する、そのようなあり方である。(引用者・略)とはいえ、語ることにおいて、すでにそこに知覚的時間と観念的時間との分裂がきざす。そうしたディレンマから、芸術的時間は自由ではありえない。
  このディレンマは、しかし時間論そのものがかかえているディレンマと別のものではない。「現在」の「謎」を他のどこにおいてよりも如実に感じさせてくれるからこそ、芸術は特権的な存在たりえていると言うべきかもしれない。 》 69頁

   じつに興味深い論考だ。味戸ケイコさんの絵画から受ける遥かな時間性・・・その魅力をどうのように捉えるか。まだ解答への糸口さえ見えてこない。だからおもしろい。

『記憶と芸術』三(閑人亭日録)

  最初の北川健次のエッセイ「記憶と芸術──二重螺旋の詩学」から。

《 クレーが矢印を使い始めたのは一九二〇年代に入ってからであるが、デュシャンの無機質に比べ、クレーは限りなく有機質の方へと「矢印」の意味が分化した事は興味深い。では美術の枠を出て人類史的に見れば、矢印の出現はいつにその起源を辿るのか。それは<もの>に名前が名辞される以前の遥か昔、シリアの壁画にまで遡る。そもそも矢印とは、感情や意思を伝える原初的な記号であり、自然界のあらゆる事物に霊的な存在を認めるという観念──すなわちアニミズム的な記号として古(いにしえ)より存在していたのであった。 》 15頁

 先年、富士宮市のギャラリーで購入した白砂勝敏さんの手作りの額(縦105mm横72mm)に収まった小さな銅版画(縦70mm横35mm)『向こう側の銀河への地図』を連想。それは上昇していく花火の光跡のような細い矢印(↑)。
 ミケランジェロの未完の遺作『エオンダーニのピエタ』へと論が進む。
 https://harinezumiganemurutoki.com/travel/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF/

《 ……ふと、私はおもむろに左側面へと廻って見た。すると、そこに現れた先程とは全く異なるフォルムを見て、印象はたちまち覆った。聖母マリアの頭部はキリストのそれと合一し、全体は三日月状の流線型をした優美な前掲への反りを見せ、石という硬い素材でありながら、エーテルのごとき反重力的な浮遊感を呈して、〈霊的な結合───魂の上昇〉というモチーフを見事なまでにそこに表しているのであった。 》 22頁

 これまた上記の額入り銅版画と一緒に購入した、流木に手を加えた造形作品『未来への扉 HASHIGO』(高さ約50cm)に通じる。流木の捻りが実にいい。のびやかな生命感を感じる。

『記憶と芸術』二(閑人亭日録)

 昨日の記事をあげるのを忘れていた。
 語り手:谷川渥 聞き手:中村高朗「澁澤・種村(おうごん)時代を語る」を読んだ。谷川渥の発言。

《 あれは河出書房新社にいた安島真一君、のちに安藤礼二という名で大活躍することになる彼ですけど、彼がよく僕に声をかかけてくれる時代があってね。 》 229頁

 安藤礼二。筆名とは知らなかった。

《 美術史という学問がウィーンやスイス・ドイツを中心に二十世紀初頭に起きてきて、いかにも既成の学科のようにして美術史学科というのがあるけれども、澁澤も「魔的なものの復活」で言っているようにもはや美術史は成立しないんじゃないか、そんな気がします。 》 241頁

《 岡倉天心が、西洋美術史にならって『日本美術史」(一九二二年)を書いたんだけど、あれもなかなか問題だと思っています。日本の美術史って全部政治史なんですよ。ただ政治区分を並べて江戸時代なら狩野派だとか琳派だとかそう言っているだけで、自律的な美術史が成り立っていない。 》 242頁

《 日本の芸術史、日本の美術史自体もまた再編成すべきだし、ドイツ流の美術史概念みたいなものも再考すべきですね、 》 245頁

《 美学とか宗教学とか人類学とか美術史とかね、これを全部枠を取り払って一つの総合を試みるべきかもしれない。今の美術史家ってほとんど作家研究でしょ。 》 245-246頁

 心強い発言だ。しかし、「これを全部枠を取り払って一つの総合を試みる」とはなんと壮大な試みだろう。私には無理。格別に優れていると私の判断する、まだ評価のない美術作品を選ぶのみ。それで思い出すのは上條陽子さんの1989年の個展。女性初の安井賞受賞者が脳腫瘍の大手術を経て生還、恢復して初の新作展に、上條陽子はキチガイになったと悪評ばかりだった、一点も売れなかった、と聞いた。その画集を開いてこれは凄い!と瞠目。K美術館の 1998年の企画展ではこの画集をもとに展示。その一点『赤い花』を購入。
 http://web.thn.jp/kbi/kamijo.htm
 http://web.thn.jp/kbi/kamij6.htm
 谷川渥企画の日本人作家47名の作品展が紹介されていた。
 https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2024/03/22/204326
 実際に見たい作品は、なかった。

 ネットの見聞。

《 戦前に全集が出されていても、もはや忘れ去られてしまった文学者や思想家は数え切れないほどだし、それは戦後も同様である。 》 古本夜話1501
 https://odamitsuo.hatenablog.com/archive/2024/03/22