響震 震撼(閑人亭日録)

 昨日、公開するのを忘れていた。
 言葉遊びを考えた。共鳴 共振 強振 響振 驚振。音楽を聴くとき、心身が共鳴、共振して感動へ誘われることがある。その体験を拡張して強振 響振 驚振と段階をつけてみた。強振は興奮を呼び起こす演奏。響振は心に深く響く演奏。そして驚振は驚愕する、今まで聴いたことない演奏。トリに控えるのは強震。地震の用語である強震は、聴き手の心底から深々と揺さぶる(強震)独創的な演奏。地面が突然揺れるように、地殻変動を来す演奏。音楽という音の表現は、音の強弱がはっきりしている。音のない美術表現では、鑑賞者への心理的効果を色彩と造形によってまずは、表現が無音状態で成立するのが第一の前提となっている。無音と言っても、その作品から妙なる音楽が聞こえてくるような作品も、あるにはある。絵画をはじめとする美術作品には、美しい旋律、ハーモニー、リズム、ビートがびしびしと響いてくる作品は、実はかなりある。音楽演奏と美術作品とは、鑑賞者の心では一つにつながっている、いや、一心同体ではないか、と思う。共通感覚か。昔読んだ中村雄二郎『共通感覚論』岩波書店を思い出す。が、それとは違う気がする。再読していないので未確認。
 北一明の耀変茶盌を手にして鑑賞する。音楽が聞こえてくる気がする。気がするだけだが。それは光の当たり具合によって釉薬の色彩が多耀に激変するからだろう。そして彼の言う「乳頭」(釉垂れ)が印象をより深くする。変幻自在の音楽を連想させるとも言える。それはけれども音楽と違って無音の変奏。絵画とも違って手の直接的な筆触でもない。プロパンガス窯の炎による焼成を科学的に実験、検証し、遠隔操作によって火焔を制御し、そうして創造された驚嘆すべき芸術作品。焼成の苦心を微塵も感じさせない、瞬時に次々と変耀する茶盌の光彩。その息を呑む変幻、玄妙たる遊色は、響震という造語を私に生ませる。そしてそれは焼成表現における美の創造が惹き起こす地殻変動の震撼を、いつか陶芸界に及ぼすだろうと一人思う。あるいは北極星のような位置。
 「北一明展」を何年か先に開催したくなった。「世界を魅了した陶芸術・耀変 北一明展」といった題かな。相応しい会場が見つからないが。

甘味処「銀月」(閑人亭日録)

 昨日話題にした甘味処「銀月」についてドイツ文学者の種村季弘(すえひろ)氏がエッセイ集『晴浴雨浴日記』河出書房新社1989年3月28日初版発行に書いている。

《 竹倉の富士山
  某月某日
  三島の修善寺広小路駅前に、三島名物のうなぎ屋「桜家」がある。その真前に、これも三島名物の団子屋「銀月」がある。その銀月のほうに朝七時の開店そうそう、きまってお団子とお赤飯を買いにくるおばあさんがいる。
  おばあさんはお団子とお赤飯が大好きなのだ、といってしまえばそれまでである。しかし毎朝のように、それも開店そうそうシャッターのあくのを待ってまで、お団子とお赤飯というのは、これは尋常なことではない。これにはなにか深いわけがあるのにちがいない。
  銀月の若主人、越沼正さんはかねてそう考えていた。そこへある日、おばあさんが問わず語りにお団子とお赤飯の使い道を打ち明けてくれたのであった。
  「お団子はおやつですよ。これが大好きでな。お赤飯かな。これはお弁当。竹倉温泉でお昼にいただくのですよ」
  なんでもおばあさんは、銀月前からバスにのって「竹倉温泉」に行き、そこで温泉につかり、お団子を食べ、お昼になるとお赤飯の弁当を食べてまた温泉につかり、そして暗くなった頃にまたバスで三島に帰る。そういう日常をくり返しているのであるらしい。そのスタート点が広小路銀月なのであった。 》 77-78頁

死後の評価に委ねる(閑人亭日録)

 昨日の身体の何ともぎこちない動きを見て、会長を離任する意向に納得されたのだろう。午後のうたたねの後、身体が楽になった昨晩、夕食を美味しくいただいた後、思わぬ疲れがどっと出た。十時間余り寝た。緊張感が緩むとはこんなことか、と我ながら驚いた。思えば三十年、よくやってきた、と自らを労う。こういう気持ちは・・・自分しかわからないだろう。それでいい。人を動かすということは、人にいかに気軽に動いてもらえるかを常に考えること。顧みれば商売(甘味店)を営んでいた四半世紀、従業員のやりたくない作業(排水の掃除など)は、毎週自分が行った。源兵衛川のゴミ拾いも同じ。ゴミ袋の用意とゴミの処理は私の仕事。参加者は川に入ってゴミを拾うだけ。以下、店の回顧点描。
 1973年10月1日、父の急死で甘味処「銀月」(団子とラーメン他)を急遽引く継ぐ羽目になって経営を考えた。やりたくない店を繁盛させて閉めるにはどうしたらいいか。
 出入りの食材業者には「良いものをくれ」と言うだけ。食材の代金は現金で即金払い。
 従業員の給料は、全国平均額より五割ほど多く渡す。会計帳簿には全国平均金額を記入。
 商品の製造過程は従業員の誰もが見ることができる。
 汚れ作業は私がする。
 そんなことをして売り上げはずっと右肩上がり。1997年1月15日閉店。1997年6月1日、K美術館、地味に開館。これからは一日一日が勝負ではなく、数十年先を見通しての勝負。味戸ケイコ、北一明ら私の高く評価する美術作品が、お宝になるかただのゴミかは、歳月=私の死んだ後にわかるだろう。死後の評価に委ねる、と小声で宣言した。
 http://web.thn.jp/kbi/

肩の荷が下りる(閑人亭日録)

 午前十時、小雨の中、源兵衛川最下流部へ歩いていく。グラウンドワーク三島の専務理事、中郷(なかざと)用水組合の理事長らと合流。川を遡りながら、今年の作業(土砂の浚渫、雑草の駆除など)の手順を一つ一つ取り決める。終了後、専務理事に源兵衛川を愛する会の会長を離任の意向を伝える。世代交代の時期。彼は理解を示す。ずっと立ちっぱなし。くたくたになって昼前帰宅。肩の荷が下りた。

ゆらぎの生動感(閑人亭日録)

 味戸ケイコさんの絵、北一明の茶盌から「(ぐっと迫ってくる)訴求力がある」「(ぐっと惹き込まれる)奥の深い印象」としか表現できない感動を覚える。訴求力、奥の深い印象とは何とも曖昧だ。他に良い表現がないかと、無い知恵を絞って呻吟はしないが、午後布団にもぐりぐっすり沈思黙考・・・短い眠りから目覚めてハタと浮かんだ言葉が「ゆらぎのダイナミズム」。ダイナミズムを辞書で調べると、私の思う意味とはちょっと、いや結構違う。で、却下。ここは日本語で「ゆらぎの生動感」に仮留め。以前浮かんでいた用語は「隔たりの君臨」。カッコいいなあと自賛していたが、堅い印象が気になった。美にはそういう側面があるだろうが、それだけではない。もっと生々しいモノだ。瑞々しいといってもいい。20日の日録で紹介した塚本邦雄の短歌と加藤郁乎の俳句。

《 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる 》

《  冬の波冬の波止場に来て返す  》

 塚本邦雄は、「隔たりの君臨」、加藤郁乎は「ゆらぎの生動感」といえよう。二人の著作はずいぶん読んだが、ファンレターを投函してお目にかかり、長くお付き合いしたのは加藤郁乎だった。

美しき魔モノ(閑人亭日録)

 これからの美術品で心を魅了する作品、心を虜にする魔性の作品が現れるだろうか。美は破調にあり、ともいう。調和のとれた美術作品には感心はしても気紛れの風が吹く。心を揺さぶる作品は、破調、乱調を潜ませているだろう。すなわち歴史の正統性からの逸脱。伝統への挑戦、美の革命。生きているうちにその現場に立ち合いたい。見果てぬ夢か。夢は見るもの。美しき魔モノに遭遇したい。・・・しかし、味戸ケイコの小さな絵、北一明の焼きもの、白砂勝敏の木彫椅子・・・の他に何を希求するというのだろう。美しき魔モノはすでにそこにある。ユーレカ! 我、発見せり。
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
 http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm
 https://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/

 午後、北一明記念館の方が来訪。運営などいろいろ語り合う。有益な内容。
 https://www.kitakazuaki-kinenkan.jp/

『第13巻 言語空間の探検』(閑人亭日録)

 共同通信などが報道。
《 冷泉家秘伝の箱130年ぶり開封 藤原定家古今集注釈書発見 》
 https://news.yahoo.co.jp/articles/417aecf9592ff7a3e9c7d06e9305c5c40a3311ce
 昨日取りあげた『全集・現代文学の発見 第13巻 言語空間の探検』収録、安西均「新古今斷想 藤原定家」を想起。

《 「それが俺と何の関わりがあらう? 紅(クレナヰ)の戦旗が」
  貴族の青年は橘を噛み蒼白たる歌帖(カイエ)を展げた
  烏帽子の形をした剥製の魂が耳もとで囁いた
  燈油は最後の滴りまで煮えてゐた
  直衣の肩は小さな崖のごとく霜を滑らせた
  王朝の夜天の隅で秤は徐にかしいでゐた
  「否(ノン)! 俺の目には花も紅葉も見えぬ」
  彼は夜風がめくり去らうとする灰色の美學を掌でおさへてゐた

  流行行雲花鳥風月がネガティヴな軋みをたてた
  石胎の闇が机のうへで凍りついた
  寒暁は熱い灰のにほひが流れてゐた
  革命はきさらぎにも水無月にも起らうとしてゐた。 》

 革命は今・・・起らうとしてゐない。が、しかし、視点を変えてみれば。「美術の発見」「美術の発掘」。そこから現(露)われてくる何か。知覚の転換、地殻の変動。歴史観、正統性を揺るがす作品。縄文~KAOSU。